「自分は社会の底辺」だの「苦労せず生きている人が嫌だった」だのと言って、無力な人間に対して暴力が向うやつらの言葉は、いちいちカンに触ります。これらの発言をして暴力に走る人間を理解する方法はありますか?
はい、あります。不快で理不尽に感じられるそのような言葉や態度を理解するには、「彼らが何を言っているか」よりも「なぜそう言わずにいられないのか」に注目することが有効です。以下のような視点が役に立ちます。
1. 自己正当化の心理
「自分は社会の底辺だ」「あいつらは苦労してない」という言葉は、現実の不遇さに対する怒りや無力感を、他者のせいにして心のバランスを取るための手段です。これは心理学でいう「外的帰属」と呼ばれ、自責を避けたいときによく現れます。
2. 比較による自己評価
人は自分の立ち位置を他者との比較で測りがちです。その比較で劣っていると感じると、怒りや羨望が「正当な敵意」に変わることがあります。「あいつらは苦労せず得をしてる」という認知が、暴力や攻撃の正当化につながることもあります。
3. 過去のトラウマや疎外体験
本人が幼少期から繰り返し「無価値」や「不公平」を感じさせられてきた場合、社会や特定の人間集団に対して強い怨念を抱えることがあります。それが個人への暴力や差別的発言として表出することがあるのです。
4. 承認欲求の歪んだ表現
「自分が不幸であること」「他人が楽をしていること」を強調するのは、共感や注目を引きたいという未充足の承認欲求が原因の場合もあります。自己の価値を他人に見せつける手段として、攻撃性を伴う言葉を使うのです。
もちろん、これらは理解するための視点であって、正当化ではありません。暴力や差別を容認する理由にはなりません。ただ、「なぜこの人はそう言うのか?」という視点を持つことで、相手を恐れたり、嫌悪するだけの関係から少し距離を取ることができ、自分の心も消耗しにくくなります。
こういう発言をするに至る経緯を具体例を挙げて説明してください
はい。こうした発言に至る人々には、多くの場合社会的・個人的な背景があります。ここでは典型的な3つの具体例を挙げ、それぞれの経緯を追って説明します。
① 反復された「敗北」の積み重ねによる自己否定と他者攻撃
▷ 事例:
ある男性(20代後半)。高校卒業後、非正規雇用を転々としながら親と同居。就職活動で繰り返し不採用となり、「努力しても報われない」という感覚を深めていた。
▷ 経緯:
- 「勉強ができない」「就職に失敗」「収入が低い」という現実の中で、自尊心が損なわれ続ける。
- 周囲に成功者(有名大学卒・大企業勤務)がいると、自分の無力さがより鮮明になる。
- SNSで「楽しく働いてます!」「育休とって海外行ってきました!」という投稿を見るたびに、**「どうせあいつらは苦労してない」「ズルい」**という思考に変わる。
- やがて、ネット掲示板やSNSで「努力せず勝ち組ぶるやつは腹立つ」「社会の上級どもに鉄槌を」といった攻撃的な言葉を使いはじめる。
▷ 特徴:
本人の中では「自分はずっと苦しんできた、なのに社会は誰も助けてくれなかった」という正当な怒りの表明という意識がある。
② 家庭や学校での「評価されなかった経験」からくる怨念と投影
▷ 事例:
ある女性(30代前半)。中学時代、家庭内暴力といじめを同時に経験し、常に「居場所がない」と感じていた。成績もふるわず、進学もできなかった。
▷ 経緯:
- 幼少期から「お前なんか何もできない」「どうせ無理」と否定されて育つ。
- 学校でも友人関係がうまくいかず、教師にも軽視される。
- 成長しても、自分に価値があるという実感が持てず、SNSで「人に恵まれて育った人」の発言を見ると、強い反発を感じる。
- 「苦労せずに幸せを手に入れた人間はズルい」と思い込むようになり、**「あいつらは甘やかされた人間」「何も知らないくせに幸せそうな顔してる」**と攻撃的な発言を繰り返す。
▷ 特徴:
自分の過去の不遇な体験を他人に投影してぶつける。幸せそうな人ほど「許せない」と感じる。
③ 「自分は正しい」という閉じた世界で育った場合
▷ 事例:
ある男性(40代)。地方で長く親の商売を手伝っていたが、閉店に伴い失業。インターネットで過激な政治的思想に影響を受ける。
▷ 経緯:
- 長年「まじめに働いていれば報われる」という信念を持っていたが、社会の変化により生活が困窮。
- 「外から来た人が地元をダメにした」「都会のエリートが好き勝手してる」という意識を強める。
- ネット上で、似たような境遇の人たちとつながり、次第に排他的・攻撃的な言葉を使うようになる。
- **「自分たちが底辺になったのは“あいつら”のせいだ」**という論理で自己を正当化。
▷ 特徴:
閉じた環境の中で形成された価値観が外の世界と齟齬を起こし、それを暴力や差別にすり替えて表現する。
これらの人々に共通するのは、「自分の努力ではどうにもならない環境に置かれた」と感じ、それを正面から受け止められず、他者を攻撃することでバランスを取ろうとする点です。
『自分はずっと苦しんできた、なのに社会は誰も助けてくれなかった』の実例を挙げてみて下さい。
はい、承知しました。
ここでは「自分はずっと苦しんできた、なのに社会は誰も助けてくれなかった」という感覚がどのように形成されるかを、実例ベースで具体的に提示します。
【実例】地方出身・非正規雇用の男性(仮名:Aさん、35歳)
■ 背景:
- 東北地方の過疎地域に生まれ、両親は共働きで共に低収入。
- 小学校~高校まで、家庭に塾や教材にかける余裕なし。
- 高卒後は地元に正社員口がなく、建設業・飲食業などを転々とする非正規雇用。
■ 苦しみの積み重ね:
- 一度、失業保険も生活保護も「親と同居しているなら受けられない」と断られる。
- 都市部で就職活動を試みるが、「学歴」「職歴」「資格」のいずれも足りずに不採用続き。
- 地方に戻っても、「実家暮らし=甘え」というレッテルを貼られ、周囲からは「怠け者」と見られる。
- 政治や福祉について話しても、「文句を言う前に働け」「選挙行ってから言え」と切り捨てられる。
- SNSで都会在住の同世代が、趣味や恋愛、キャリアの話をしているのを見るたびに、深い絶望感と怒り。
■ 本人の感覚(発言例):
「俺だって努力した。でも金がなきゃ大学にも行けないし、地元にはろくな仕事もない。『自己責任』って言われるけど、何をどうすればよかったんだよ」
「助けなんてどこにもなかった。役所に行っても、手続きと条件ばかりで、こっちの話なんか聞いてくれなかった」
「SNSでは“努力は報われる”って言うけど、報われる努力って、金と環境があるやつだけの話だろ?」
■ その結果:
- 徐々に「社会全体」への憎悪へと変わる。
- 幸せそうな他者を見たとき、「あいつらは苦労せず得をしてる」と感じるようになる。
- 他人の楽しそうな話題や成功談に、「バカバカしい」「リア充死ね」などの暴言で反応する。
● 解説:
Aさんのような人の「社会は助けてくれなかった」という感覚は、主観的ではあるものの、ある種の構造的貧困や制度の限界を反映しています。
ただしその苦しみが、他人への攻撃や正当化に転化されたとき、まわりからは「不満分子」「厄介な存在」として見られ、ますます孤立していくという悪循環に陥ることも多いです。
出して頂いた事例を拝見するに、『社会というのは構造的に「自分は社会の底辺」だの「苦労せず生きている人が嫌だった」だのという理由で、弱いものに暴力をしかける人間が、一定数発生するのは避けて通れない』ということになるでしょうか
非常に重要な問いです。
結論から言えば、はい、それは“ある程度は避けがたい構造”である、というのが現実的な見方です。
ただし、それは「仕方がない」と受け入れるという意味ではなく、どうすれば発生頻度を減らせるか、どこに介入すればよいかを考える必要があるという話です。
■ なぜ避けがたいのか:構造的な3つの要因
① 経済格差と機会の非対称性
- 生まれた家庭の経済力、教育水準、居住地のインフラによって、人生の「スタート地点」が大きく異なります。
- 貧困層では「努力」それ自体にコストがかかる(例:通勤費、面接用の服、受験料)ため、挑戦する機会が極端に制限されます。
- 結果、「報われなかった経験」が積み重なり、他者への敵意に変わりやすい。
② 社会的孤立と比較環境
- 現代社会は、SNSを通じて**「他者の幸福」が常に可視化されている世界**です。
- 孤独や劣等感を抱える人ほど、その可視化された幸福を「自分への当てつけ」と感じる構造があります。
- 誰にも相談できず、共感されることもなく、ネット上で同じ怒りを持つ者同士がつながり、過激化していくケースも多いです。
③ 自己責任論の横行と制度の不備
- 「努力が足りない」「文句を言う前に働け」といった言説が社会的に広く浸透しています。
- しかし、実際には制度の申請方法が難解であったり、生活保護を受けると周囲から差別されるなど、制度と感情のギャップが広がっている。
- 「助けが届かない」経験を重ねた人ほど、制度全体への不信と敵意を強め、弱者を攻撃する心理に転じやすくなります。
■ ではどうすればよいか
完全に「ゼロ」にすることは難しいですが、減らすための介入点はあります:
- 子どもの貧困対策(教育費・食事支援)
- 精神的ケアの社会的普及(孤立・無価値感の緩和)
- 「自己責任」ではなく「相互扶助」への価値転換
- SNSやメディア上での表現のあり方の見直し
■ 結論
あなたの問いに対しては、
社会は構造的に「報われなさ」が発生し、一定数の人がその痛みを他者への攻撃として表出する土壌を持っている
と言わざるを得ません。
しかしそれは、その現象を冷笑したり、放置したりしてよいということではない。
むしろこの構造的背景を認識した上で、どうすれば「報われなかった人」が他者を傷つけずにいられる社会にできるかを問い続けることが、本質的な答えに近づく道だと思います。
ありがとうございました。大変参考になりました。また疑問が出てきたら、教えて下さい。
こちらこそ、深い問いを投げかけてくださってありがとうございました。
いつでも遠慮なくお声がけください。
また新たな疑問が浮かんだときには、ぜひ一緒に考えていきましょう。お待ちしています。