マンガ/アニメ「チ。」において、当時のカソリックキリスト教の教義の世界において、現実には地動説論者の多くは、それほど酷い迫害を受けていなかったという話に帰着しています。
この話について、現状の研究において、どのように把握されているか教えて下さい。
近年の研究では、「地動説を唱えた人々が一律に苛烈な宗教迫害を受けた」というイメージは正確ではないとされている。16〜18世紀のカトリック圏では、地動説を“事実”として主張・流布することは制限されたが、計算上の仮説として用いることは一定程度許容されていた。対応の仕方は時代や地域、立場によって大きく異なっていた。
制度的には、1616年に教皇庁がコペルニクスの著作を「断定表現を訂正するまで停止」としたが、その後1620年には「仮説として扱う」形に訂正すれば使用を認めている。つまり全面禁止ではなく、表現を制御する形での検閲であった。
有名なガリレオ裁判(1633年)は、1616年の警告に反して地動説を事実として擁護したために「異端の嫌疑」で自宅軟禁となった事例である。ただし、これが例外的に大きな事件であったことは重要で、同時代の研究者が一律に処刑や投獄されたわけではない。実際、訂正済みのコペルニクス本は流通し、大学では地動説が「計算仮説」として教授され続けていた。
当時はティコ・ブラーエ型の「地心—日心折衷説」が多くの学者に支持され、地動説の計算上の利点を取り込みつつ、教義と矛盾しない形で研究が続けられた。火刑となったブルーノもよく引き合いに出されるが、処刑理由の中心は三位一体や魂に関する神学的異端であり、地動説そのものが死刑の直接原因ではなかったと整理されている。
その後、1757/58年に地動説関連の一般的禁令は解かれ、1820年には教科書が正式に承認され、1835年の禁書目録からも関連書が削除された。これにより、教会の制度的反対は終結した。
まとめると、アニメ『チ。』が描くように「常に酷い迫害を受けたわけではない」という点は現代の研究とも一致している。ただし、出版差し止めや表現修正の強制、ガリレオ裁判のような象徴的事件は現実に存在し、地動説をどう表現するか(仮説か事実か)によって運命が大きく分かれた。これが現在の歴史学における共通理解である。
では、現在に至るまで、「地動説論者が異端者として迫害され続けていた」という風評は、どのように維持され続けていたのでしょうか
良い問いだと思います。
「地動説論者=迫害された異端者」というイメージは、史実の単純化を超えて、さまざまな社会的・文化的な目的で利用され、長く維持されてきました。研究史の整理としては以下のように説明できます。
啓蒙思想における「暗黒の中世」像の形成
17~18世紀の啓蒙期には、理性と科学の勝利を強調するために「宗教に縛られた無知な中世」と「科学で光をもたらす近代」という対比が強調された。ガリレオ裁判はその象徴として繰り返し取り上げられ、事実以上に「科学者が教会に虐げられた」物語が流布した。これは「啓蒙思想の自己正当化」として有効に機能した。
科学革命史叙述の「殉教者」像
19世紀の科学史叙述では、科学の進歩を英雄譚として描く傾向が強く、ガリレオやブルーノが「殉教者」として描かれた。特にブルーノは実際には神学的異端が処刑理由の中心だったが、「宇宙論を唱えたため火刑にされた」人物として神話化され、地動説迫害の証拠として引用され続けた。
反カトリック的言説の利用
プロテスタント諸国では、カトリック教会を専制的で時代遅れと批判する材料としてガリレオ事件が利用された。とくに宗教改革後のヨーロッパでは、地動説弾圧の物語は「ローマ教会の腐敗と抑圧」を象徴する歴史的事件として機能した。
近代以降の大衆文化への定着
19世紀後半から20世紀にかけて、学校教育・啓蒙書・文学作品などで「科学と宗教の闘争」という単純図式が広まった。アンドリュー・ディクソン・ホワイトらによる「科学と神学の戦争史観」が決定的な役割を果たし、これがそのまま教科書や一般向け本に受け継がれた。こうして「ガリレオは真理を唱えて迫害された」という物語が大衆的常識となった。
まとめ
つまり「地動説論者が異端として迫害され続けた」という風評は、
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啓蒙思想が自らを正当化するための対比図式
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科学史の英雄譚としての利用
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プロテスタントによるカトリック批判の道具
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近代教育・出版物における単純化されたストーリー
といった重層的な利用を通じて維持され、現代まで残った。
実際の歴史はもっと複雑で、迫害は一律でも永続的でもなかったが、分かりやすい「科学vs宗教」の物語の方が広まりやすかった、ということになる。
もう少し、詳しく話を聞かせて下さい。
承知しました。先ほどの整理をもう少し掘り下げてみます。
「地動説論者迫害」という風評は、いくつかの異なる文脈で繰り返し利用されてきたために、現在でも根強く残っています。
1. 啓蒙思想と「暗黒の中世」神話
17〜18世紀の啓蒙期においては、理性と科学の進歩を強調するために「宗教に支配された無知な中世」が対比的に描かれました。ガリレオ裁判はその象徴とされ、事実以上に「教会による理性への抑圧」という図式に組み込まれました。この物語は、啓蒙思想家たちにとって「近代社会の正当性」を示す道具でした。
2. 科学革命史における「英雄と殉教者」像
19世紀の科学史では、進歩を物語る叙述の中で「殉教者」として科学者を描く手法が好まれました。ブルーノはその典型で、実際の処刑理由は複雑(神学的異端が主)だったにもかかわらず、「宇宙無限論や地動説を唱えて火刑にされた英雄」として神話化されました。これは「科学の勝利」をわかりやすく象徴する人物像として利用されたのです。
3. 宗派対立の武器として
宗教改革以降のプロテスタント諸国では、カトリック教会を「専制的で時代遅れ」と批判する際に、ガリレオ事件が格好の材料になりました。特にイギリスやドイツの学者たちは「自由な学問を抑圧するローマ」というレトリックを強調し、地動説迫害の物語を政治的・宗教的論争の武器にしたのです。
4. 近代教育と大衆文化での固定化
19世紀末、アメリカの歴史家A.D.ホワイトが『科学と神学の戦争史』を著し、「科学と宗教は歴史的に絶えず対立してきた」と論じました。この「戦争史観」は大きな影響を持ち、教育現場や大衆書物を通じて世界に広がりました。学校の理科教科書や一般向けの科学啓蒙書では「ガリレオは迫害されたが真理は勝利した」という単純明快なストーリーが繰り返し紹介され、それが常識化したのです。
5. 20世紀以降の文化的利用
20世紀に入ると、この物語は映画・小説・演劇などでも繰り返されました。ベルトルト・ブレヒトの戯曲『ガリレイの生涯』はその代表例で、「科学の真理と権力の弾圧」という構図が現代的な寓話として描かれました。冷戦期には「自由な科学 vs. 権威主義的弾圧」という対立の象徴としても利用されています。
まとめ
このように、地動説迫害の「神話」は、
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啓蒙思想による近代正当化の道具
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科学史における英雄叙事
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宗派対立のプロパガンダ
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近代教育・大衆文化の物語装置
といった複数の層を通じて再生産されてきました。
実際の歴史はもっと複雑で、一律の迫害ではなかったのですが、単純で分かりやすい「科学vs宗教」の図式の方が、社会的に利用価値が高かったため残り続けた、というのが研究者の共通した理解です。
私は「ガリレオの破門が解除されたは、極めて近年だった」と記憶しております。このことについての、カソリックが、ガリレオの破門を保持しつづけた背景が知りたいです
なるほど、焦点は「ガリレオ裁判の評価が、カトリック教会の中でどのように扱われ続け、最終的に“和解”に至ったのか」という部分ですね。
実際に「ガリレオの破門が解除されたのは近年だ」という言説は広く流布していますが、厳密には少し整理が必要です。
1. ガリレオは破門されていなかった
まず事実として、1633年の裁判でガリレオは「異端の重大な嫌疑に基づく有罪」とされ、自宅軟禁を命じられました。ただし「破門」(カトリック共同体からの排除)や「異端の公式宣告」ではなく、刑は比較的軽いものでした。したがって「破門解除」という手続き自体は存在しません。
2. 18~19世紀の変化
その後、地動説関連の禁止は徐々に解かれました。1757年に「地動説を事実と主張する著作」への一般禁止が撤廃され、1820年に地動説を教科書に用いることが許可されました。1835年の『禁書目録』からガリレオの著作が削除され、制度的には問題は解消しています。
3. 20世紀後半の「公式和解」
それでも「ガリレオ事件=教会の科学弾圧」というイメージが残っていたため、カトリック内部でも再評価が進められました。特に注目すべきは以下の経緯です。
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1979年:ヨハネ・パウロ2世教皇が、ガリレオ事件を再検討する委員会の設立を表明。
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1981年:公式に「ガリレオ委員会」発足。神学者・歴史家・科学者が参加。
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1992年:ヨハネ・パウロ2世が教皇庁科学アカデミーで演説し、ガリレオの洞察を高く評価しつつ、当時の裁判を「双方に誤りがあった」と総括。「教会の側にも真理の追究に対する過剰な慎重さと誤解があった」と事実上の謝罪を行った。
4. カトリックの判断基準
カトリックがこの「和解」に至った背景には、以下のような基準・論理があります。
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信仰と理性の両立
教会は19世紀以降、「信仰と理性は矛盾しない」という立場を強調してきました。その流れの中で、科学的真理を敵視した過去の態度は誤りと再解釈された。 -
聖書解釈の発展
17世紀の裁判は「聖書の文字通りの解釈」と「観測事実」の衝突から生まれた。20世紀の教会は「聖書は救済の真理を伝えるもので、自然科学の教科書ではない」との解釈を明確化し、この矛盾を解消した。 -
歴史的過誤の認定
教会は「当時の裁判は当時の知的文脈に基づく判断」であったとしつつも、後世においては「過剰な防衛であり誤りであった」と認めることで、信仰の権威と歴史的責任の両立を図った。
まとめ
したがって「ガリレオの破門解除」という表現は厳密には誤りで、実際には
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18~19世紀に出版禁止が解かれ
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20世紀末に「和解宣言」と「教会側の誤り認定」
という段階を経ています。
カトリックの判断基準は、「信仰と理性の調和」という原則に基づき、聖書解釈の進展を背景に「過去の過ちを認めるが、教義そのものの誤りとはしない」という形を取ったのです。
地動説によって、カソリック教会から異端と判断された人物を挙げて下さい
承知しました。整理すると、**「地動説を理由にカトリックから公式に“異端”とされた人物」**は実は非常に限られています。
1. ガリレオ・ガリレイ(1564–1642)
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1633年の宗教裁判において「地動説を事実と主張・擁護した」として有罪判決。
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判決文では「異端そのものではないが、異端の重大な嫌疑(vehemently suspected of heresy)」とされ、正式に“異端者”と断定されたわけではない。
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罰は自宅軟禁であり、破門や死刑には至らなかった。
👉 よって、カトリックが「地動説を理由に異端の嫌疑を公式宣言した」最も有名な事例。
2. ジョルダーノ・ブルーノ(1548–1600)
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ドミニコ会修道士、哲学者。
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1600年、ローマで火刑。
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彼は「宇宙無限論」「多数世界」「地動説支持」を唱えたが、訴追の主要理由は三位一体否定・聖体否定・輪廻転生の支持など神学的教義への反逆。
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地動説は有罪理由の一部には含まれたとされるが、処刑の直接原因ではない。
👉 後世に「地動説のために火刑」と神話化されたが、現在の研究では「宇宙論+神学的異端の複合」が実態。
3. その他の学者
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**コペルニクス(1473–1543)**は地動説を公表したが、死後の1543年に出版された『天球の回転について』は、1616年に「訂正を要する書」とされたのみで、本人は裁かれていない。
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**ケプラー(1571–1630)**はルター派の領邦に属し、ローマ教会の裁判にかけられたことはない。
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ティコ・ブラーエの弟子たちも含め、地動説支持で裁判を受けた例はカトリック圏でもごく少数。
まとめ
カトリックが「地動説ゆえに異端と公式に認定した」人物は、厳密には ガリレオ(異端の嫌疑) に限られる。
ブルーノもよく挙げられるが、実態は地動説よりも神学的教義への挑戦が中心であった。
それ以外の地動説論者は多くの場合、出版停止や修正指示にとどまり、「異端者」として迫害されたケースはほとんどない。
なぜガリレオだけが裁かれたのでしょうか?
良い着眼点です。
「なぜガリレオだけが、地動説を理由に“象徴的に”裁かれたのか」については、歴史学的にいくつかの要因が指摘されています。
1. ガリレオ自身の主張の仕方
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多くの同時代の学者が「地動説を仮説として計算上採用」するにとどまったのに対し、ガリレオは「観測的証拠に基づく現実の真理」として公然と擁護した。
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たとえば望遠鏡による木星の衛星や金星の満ち欠けを「地動説を裏付ける証拠」と断定的に主張し、聖書解釈の修正も必要だと論じた。これは教会にとって「聖書解釈権への挑戦」と受け止められた。
2. 教皇ウルバヌス8世との関係悪化
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当初、ウルバヌス8世(当時の教皇)はガリレオに好意的で、地動説を仮説として議論することは容認していた。
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ところが、ガリレオが1632年に出版した『対話篇(Dialogo)』では、地動説と地心説を対比する形で議論し、地心説擁護者(シンプリチオ)を滑稽な人物として描いた。
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このシンプリチオの台詞が、当時教皇が好んで用いていた議論を反映していたため、ウルバヌス8世は「自分を愚弄された」と激怒した。
👉 これが「個人的対立を公的裁判に持ち込む」引き金になったとされる。
3. 教会権威の危機感
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17世紀初頭はプロテスタント改革後で、カトリック教会は権威維持に敏感になっていた時期。
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トリエント公会議(1545–1563)以来、聖書解釈は教会の独占的権限とされ、個人が勝手に解釈することは重大な挑戦だった。
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ガリレオが「聖書は自然科学の教科書ではない」と発言したことは、科学論争以上に「権威への挑戦」と受け止められた。
4. 知識人コミュニティとの摩擦
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イエズス会の天文学者たちは当時世界最先端の観測を行っており、望遠鏡観測でもガリレオと協力していた。
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しかしガリレオは次第に彼らを「保守的」と批判し、対立関係を深めた。
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その結果、裁判時には味方してくれるはずの学者仲間からの擁護も乏しく、孤立した立場に置かれた。
5. 裁判の政治的・象徴的意味
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1633年の裁判は、単なる学術論争ではなく「教会の権威を守る」象徴的な儀式の意味を持っていた。
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ガリレオは「異端の嫌疑」で有罪とされ、自宅軟禁という比較的軽い刑罰にとどめられたのは、処刑ではなく「屈服の儀礼」として利用されたからとも解釈されている。
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つまり、ガリレオは「見せしめ」として裁かれたが、同時に「完全な破滅」には至らず、教会もある程度の妥協を示した。
まとめ
ガリレオが象徴的に裁かれた背景には、
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「仮説」ではなく「真理」と断言したこと
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教皇ウルバヌス8世を怒らせた『対話篇』の出版
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教会権威(聖書解釈権)への挑戦
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学術界(イエズス会)との関係悪化
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教会が「権威を守るための見せしめ」を必要とした時代状況
といった複合的要因があった、と理解されています。
では、同じ地動説支持者でもケプラーは無事だったのでしょうか?
良い問いです。
「なぜガリレオは裁かれ、ケプラーは無事だったのか」については、歴史学ではいくつかの条件の違いが指摘されています。
1. 所属した宗教圏の違い
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ガリレオは一貫してカトリック圏(イタリア、教皇庁の権威下)で活動。裁判権を直接ローマ教皇庁が持っていた。
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ケプラーは神聖ローマ帝国のプロテスタント領邦(特にルター派)に属しており、ローマ教会の異端審問の対象ではなかった。
👉 この政治・宗教的な境界線が決定的に大きい。
2. 主張の仕方の違い
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ガリレオは「地動説は事実であり、観測で証明される」と断定的に主張した。さらに聖書解釈にも踏み込み、教会の権威を揺るがす言い方をした。
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ケプラーはプラトン主義的・神学的な文脈を重視し、「神の秩序を数学で理解する」という形で語ったため、宗教権威への挑戦というよりは「宇宙調和の探求」として受け取られやすかった。
👉 同じ地動説支持でも「断定的事実主張」か「神学的調和の探求」かで反応が異なった。
3. 政治的立場と敵対関係の違い
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ガリレオは『対話篇』で当時の教皇を揶揄したと受け取られ、個人的な対立を招いた。さらにイエズス会との摩擦もあり、孤立した。
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ケプラーは神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の宮廷数学者として保護を受けたため、宗教的に不安定な状況にあってもある程度の庇護があった。
👉 政治的後ろ盾の有無も重要。
4. 著作の扱いの違い
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ガリレオの『対話篇』はイタリア語で書かれ、広い読者層に届きやすかった。これは教会にとって「一般信徒への影響が大きい」と映った。
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ケプラーの主要著作『新天文学』『宇宙の調和』などはラテン語で専門的であり、読者層は限られていた。一般信徒を動揺させる危険は低かった。
👉 言語と読者層の広さも判断に影響した。
5. 歴史的タイミング
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1616年以降、カトリック教会はコペルニクス体系の断定を禁止していた。ガリレオはこの「公式警告」以後に地動説を事実として弁護したため、直接違反となった。
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ケプラーは主に1610年代以前から研究を進め、ローマの検閲対象にならない地域で活動していた。
👉 タイミング的に「禁止以後に挑戦した」かどうかの違いが大きい。
まとめ
同じ地動説支持者でも、
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宗派圏(カトリック vs. プロテスタント)
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表現方法(断定的 vs. 神学的調和)
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政治的敵対関係(教皇やイエズス会との摩擦)
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著作の影響範囲(イタリア語 vs. ラテン語)
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禁止令のタイミング
といった要素が重なり、ガリレオは象徴的に裁かれ、ケプラーは裁かれなかった、という差が生まれました。
大変興味深くお話を聞かせて頂きました。誠にありがとうございました。
こちらこそ、じっくり深いところまでご一緒できてとても嬉しく思います。
地動説をめぐる歴史は「科学と宗教の闘争」という単純な物語ではなく、政治・宗派・人間関係・出版戦略などが複雑に絡み合っていることが、改めて浮かび上がったと思います。
また関心を広げるなら、
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ティコ・ブラーエ学派がどのように「地動説を迂回して維持したか」
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19世紀に構築された「科学と神学の戦争史観」が日本の教育にどう入ってきたか
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ガリレオ事件が現代においてどのように「権威と真理の象徴」として引用され続けているか
なども面白い論点です。
いつでも続きを掘り下げましょう。
こちらこそ、ありがとうございました。