「推しの子」という、アイドル界隈の芸能界の過酷さや、劣悪な労働条件、その他、その世界で生き残る絶望的に低い可能性の内情が、かなり正確に暴露されているコンテンツがあり、世間に広く認識されていると思います。
このような状況でありながら、アイドルをいう職業を目指すティーンの心理解析をお願いします。
ご質問は、特定の作品評価というよりも、**「過酷さが可視化されているにもかかわらず、なぜ一部のティーンはアイドルを志望するのか」**という心理構造の分析だと理解しました。その前提で、できるだけ冷静に整理します。
1. 「過酷さを知っている」と「自分が例外になる」は両立する
『推しの子』は、
・搾取的な契約
・代替可能性の高さ
・炎上・誹謗中傷
・メンタル破壊
をかなり正確に描写しています。
にもかかわらず志望が減らない最大の理由は、認知の分離です。
ティーン期には
-
「構造として危険」
-
「自分がその被害者になる」
を切り離して考える傾向が強い。
世界は厳しい。でも“私は違う側”に行ける
という自己例外化バイアスが強く働きます。
これは無知ではなく、発達段階として自然です。
2. 労働としてではなく「存在証明の手段」として見ている
多くの大人は「職業」としてアイドルを評価しますが、
ティーンの一部は**職業ではなく「生き方」や「存在の形式」**として捉えています。
アイドルが提供するのは
-
技能の価値ではなく
-
「誰かに選ばれている」「見られている」状態
これは、
学業・家庭・学校内ヒエラルキーの中で
「代替可能」「無名」であると感じている若者にとって、
非常に強力な救済装置になります。
働く → 価値を生む
ではなく
見られる → 存在が確定する
という価値観です。
3. 「搾取される構造」より「一瞬の全能感」を選ぶ
『推しの子』が描く世界では、
成功は不安定で短命、失敗は即座に切り捨てられます。
それでも志望する理由は明確で、
長期的な安定より、短期的な全能感を重視しているからです。
-
数年、あるいは数か月でも
-
「世界が自分を見ていた」という経験
これは、
・普通に生きていれば得られない
・後から取り戻すこともできない
強烈な報酬です。
ティーンにとっては、
一生誰にも見られない安全
より
一瞬でも“特別”になる危険
の方が魅力的に映る。
4. 「消耗されること」そのものが承認に変換されている
極めて重要なのはここです。
アイドル界隈では
-
忙しさ
-
睡眠不足
-
精神的消耗
が、「本気」「愛」「覚悟」の証明として語られます。
その結果、
つらい = 大切にされている
消耗する = 選ばれている
という倒錯した因果が内面化されます。
『推しの子』はこれを告発していますが、
同時にその論理の魅力も描いてしまっている。
5. 「やめられない構造」を知っていても、そこに賭ける
多くのティーンは、
-
抜けにくい契約
-
年齢による切り捨て
-
代替可能性
を「知識として」は理解しています。
それでも挑むのは、
将来の損失より、現在の空虚の方が耐え難いからです。
失敗した未来の自分
より
何者にもなれない現在の自分
の方が、心理的コストが高い。
6. 総合すると:これは「合理的で危険な選択」
アイドル志望は、
-
情報不足
-
洗脳
-
単純な夢見がち
ではありません。
自己価値を即時に確定させるための、極めて合理的だが高リスクな選択です。
『推しの子』が示しているのは、
この世界が狂っている
ではなく
この世界を選ばせてしまうほど、他の世界が彼女たちに何も与えていない
という事実です。
もし次に掘り下げるなら、
-
親・大人側が「止める言葉」を失っている理由
-
なぜSNS時代にこの志望が増幅するのか
-
同構造が「インフルエンサー」「VTuber」にどう拡張しているか
このあたりも論理的に繋がります。必要であれば続けます。
なるほど、過酷さの情報は開示されていうのにも関わらず、自分だけはその過酷の外にいられるという思い込みがあり、かつ、そのような状況にあったとしても、それをメリットとして把握する変換機能を持っている、ということですね。
では、「将来の損失より、現在の空虚の方が耐え難い」の部分を掘りさげて解説をお願いします。
ご指摘の整理は正確です。
ここではご要望どおり、**「将来の損失より、現在の空虚の方が耐え難い」**という一点を、心理構造として分解します。
1. 「将来」は抽象だが、「現在の空虚」は身体感覚に近い
まず決定的な非対称性があります。
-
将来の損失
→ 想像・言語・確率の問題 -
現在の空虚
→ 感情・身体・日常の連続体験
ティーン期の心理では、
抽象的なリスク評価より、即時的な感情負荷が圧倒的に優先されます。
「将来つぶれるかもしれない」は
・まだ起きていない
・回避できる気もする
・大人が言っている
一方で「今、何者でもない」は
・毎日起きる
・学校やSNSで繰り返し突きつけられる
・逃げ場がない
この差は理屈では埋まりません。
2. 空虚とは「何もない」ではなく「評価されない状態」
ここでいう空虚は、単なる暇や退屈ではありません。
ティーンが耐え難いのは
自分が評価対象にすらなっていない
という状態です。
-
うまくいっても「当たり前」
-
失敗しても「どうでもいい」
-
いなくても世界が変わらない
これは、否定されるよりも重い心理的ダメージになります。
『推しの子』的世界では、
-
炎上する
-
叩かれる
-
消耗する
ことですら、「評価されている証拠」になる。
空虚の回避としては、こちらの方がまだ耐えられる。
3. 「失敗」は未来だが、「無意味感」は現在進行形
将来の損失とは、多くの場合
-
キャリアが詰む
-
メンタルを壊す
-
普通の生活に戻れない
といった結果です。
しかし現在の空虚は、
プロセスそのものが苦痛です。
-
毎朝起きる
-
同じ場所に行く
-
何も起きない
-
誰にも見られない
この反復は、
この先も同じが続く
という予測を生み、
心理的にはすでに「失敗した人生」を先取りしている状態になります。
そのため、
未来で失敗するかもしれない
より
もう失敗している
という感覚の方が支配的になる。
4. 「賭けに出る」こと自体が、空虚を一時的に破壊する
重要なのは、
成功しなくても、挑戦している間は空虚が消えるという点です。
-
レッスンがある
-
スケジュールが埋まる
-
評価が発生する
-
緊張と期待が生まれる
この状態は、
まだ何者かになりつつある
という感覚を与える。
結果がどうなるか以前に、
「進行中であること」自体が報酬になります。
だからこそ、
搾取的でも、消耗的でも、
「やめる」ことが一番つらい。
5. 大人の「現実的助言」が届かない理由
大人が言う
将来を考えなさい
は、空虚に苦しんでいる側には、
今の苦しさを無視しろ
と同義に聞こえます。
論点がずれているため、
どれだけ正しくても刺さらない。
大人が語るのは「損益」ですが、
ティーンが感じているのは「存在の有無」です。
6. まとめると
「将来の損失より、現在の空虚の方が耐え難い」とは、
-
リスク評価の失敗
ではなく -
生存戦略の優先順位の違い
です。
未来で傷つくかもしれない自分
より
今ここに存在していない自分
の方が、心理的には危機度が高い。
アイドル志望は、
この「存在の欠損」を最短距離で埋めに行く行為であり、
だからこそ、危険だと分かっていても選ばれる。
もし次に進めるなら、
-
この空虚がなぜ現代で増幅しているのか
-
学校・家庭・SNSがどう関与しているか
-
代替となりうる「空虚を壊す装置」は何か
といった点まで、構造的に掘り下げられます。
「この空虚がなぜ現代で増幅しているのか」を論じて下さい
では、「この空虚がなぜ現代で増幅しているのか」を、個人の性格や弱さではなく、構造の問題として論じます。
1. 空虚は「内面」ではなく「環境によって生成される」
まず前提として重要なのは、
現代の若者が感じている空虚は、
-
自尊心が低いから
-
根性がないから
-
夢を持てないから
ではありません。
評価・比較・可視化の仕組みが、常時稼働している環境に置かれていることによって、
ほぼ不可避的に生成される感覚です。
空虚は「欠如」ではなく、
相対評価システムの副産物です。
2. SNSによる「常時ランキング化された世界」
現代の最大要因は、やはりSNSです。
SNSは、
-
成功
-
承認
-
人気
-
楽しさ
を定量化・可視化します。
フォロワー数、いいね数、再生数。
これらは単なる数字ではなく、
今、世界が誰を見ているか
をリアルタイムで提示する指標です。
その結果、
-
評価されている人
-
注目されている人
-
話題になっている人
が常に目に入る。
ここで生まれる空虚は、
自分が何もしていない
ではなく
自分が「評価の土俵にすらいない」
という感覚です。
3. 「努力→評価」の因果が崩壊している
かつては、
-
勉強すれば成績が上がる
-
練習すれば上達する
-
続ければ認められる
という因果の透明性が、ある程度は信じられていました。
しかし現代では、
-
バズるかどうかは運
-
注目は一瞬で移動
-
継続より話題性
という構造が、若者にもはっきり見えています。
つまり、
努力しても評価されない
ではなく
評価されるかどうかは努力と関係がない
世界に見えている。
この環境では、
地道な積み上げは「未来への投資」ではなく、
評価されない時間の延長として感じられやすい。
4. 「途中段階」が承認されなくなった
現代社会では、
-
未完成
-
練習中
-
発展途上
という状態が、ほぼ評価されません。
SNSに出てくるのは常に
-
完成形
-
成功例
-
切り取られたピーク
だけです。
そのため、
まだ途中
という状態が
まだ価値がない
と直結してしまう。
ティーン期は本来「途中」であるはずなのに、
その途中が無価値として可視化される。
これが、慢性的な空虚を生みます。
5. 学校と社会が「承認装置」として弱体化した
かつて学校や地域は、
-
小さな役割
-
限定的な評価
-
狭い世界での承認
を提供していました。
しかし現在は、
-
学校の評価は相対的
-
地域の役割は希薄
-
社会との接続が見えにくい
結果として、
ここで頑張っても、どこにもつながらない
という感覚が生まれやすい。
学校が「人生の準備期間」ではなく、
意味が保留された空間になってしまっている。
6. 「代替可能性」が早期に突きつけられる
インターネットは、
-
上位互換
-
才能の塊
-
自分より若くて優秀な存在
を、無限に提示します。
これにより、
自分がいなくても世界は回る
という事実を、
あまりにも早く、あまりにも鮮明に知ってしまう。
本来これは、
大人になってから少しずつ受け止めるものですが、
現代ではティーンの段階で直撃する。
空虚は、
自己否定ではなく、世界理解の早熟化でもあります。
7. なぜ「アイドル」が刺さるのか(再接続)
この構造の中でアイドルは、
-
評価が即時
-
途中でも注目される
-
存在そのものが価値になる
という、現代の空虚に最短距離で応答する装置です。
過酷であること、
不安定であること、
消耗すること。
それらすべてが、
それでも世界に見られている
という一点で、空虚を上書きする。
8. 結論
現代の空虚が増幅している理由は、
-
若者が弱くなったからではない
-
夢を見なくなったからでもない
「評価の可視化」と「承認の即時性」が極端に進んだ世界で、
評価されない状態が耐え難くなったからです。
そしてこの空虚は、
理屈では埋まらない。
説教では消えない。
だからこそ、
過酷さを知っていても、
「今、見られる場所」に人は向かう。
もし次に進めるなら、
この空虚に対して
-
社会は何を代替として提供できるのか
-
提供できないとすれば、どう共存するのか
という問いに行き着きます。
「5. 学校と社会が「承認装置」として弱体化した」が私にはささりました。
もはや、学校も社会も「自己の価値の製造装置」足りえないのですね。
では、アイドルという方向を目指さない若者は、自己の価値を、どのように製造しているのでしょうか。
とても核心的な問いです。
結論から言うと、アイドルという「即時・可視・集中型の承認装置」を選ばない若者は、自己価値を「分散型・遅延型・内在化型」に製造しています。
ただしそれは、楽でも安定でもありません。
以下、構造的に説明します。
1. 「自己価値の製造」が一元化できなくなった時代
かつては、
-
学校での成績
-
会社での役職
-
地域や家庭での役割
といった公的で共有された物差しがありました。
これらは不完全でも、「これを満たせば一応はOK」という最低保証を与えていた。
しかし現在、
-
学校の評価は社会に直結しない
-
会社は長期の価値保証をしない
-
地域は役割を与えない
結果として、
自己価値を外注できる場所が消えた。
この状況で、アイドルを選ばない若者は
「価値を与えられる」のを待つのではなく、
自分で価値生成の回路を組み立てる方向に進みます。
2. 分散型:一つに賭けない
アイドル志望が「一点集中」だとすれば、
それ以外の多くの若者は価値の分散化を行っています。
具体的には、
-
学業 × バイト
-
趣味 × オンライン活動
-
仲間内での役割
-
限定的なスキル(動画編集、プログラミング、翻訳など)
どれも「社会的に大成功」ではないが、
ここでは自分が必要
これは自分にしかできない
という局所的な承認を複数持つ。
一つが崩れても全崩壊しないようにする、
心理的リスクヘッジです。
3. 遅延型:評価を先送りにする覚悟
非常に重要なのがここです。
アイドルを選ばない若者の多くは、
今すぐ評価されないことを、ある程度引き受けている
これは諦めではありません。
-
すぐに意味が出ない
-
すぐに報われない
-
他人から見えない
という状態を、
それでも続ける価値がある
と自分で決める力を持とうとしている。
たとえば、
-
創作
-
研究
-
技術習得
-
思考の言語化
これらは、短期では承認を生まないが、
「積み上げている感覚」そのものが空虚を抑える。
4. 内在化型:評価基準を外から内へ移す
ここが最も難しく、同時に最も壊れやすい部分です。
学校や社会が価値を与えてくれない以上、
若者は
自分で自分を評価する
という回路を作らざるを得ない。
これは、
-
他人に褒められなくても
-
数字が出なくても
-
誰にも知られなくても
今日の自分は、昨日よりはマシ
と言える基準を持つことです。
成功すれば非常に強いが、
失敗すると誰にも止められず自己否定が暴走する危険もある。
5. 「静かな価値製造」は見えにくい
重要なのは、
このタイプの若者は、外から見えにくいという点です。
-
バズらない
-
目立たない
-
物語化されない
しかし実際には、
-
小さな共同体
-
限定的な専門領域
-
非公開の努力
の中で、
静かに自己価値を製造している。
『推しの子』的な視点では描かれにくいが、
現代ではむしろこちらが多数派です。
6. それでも不安定であることは変わらない
ただし、誤解してはいけません。
-
分散型は「自分が薄まる」不安を抱える
-
遅延型は「本当に意味があるのか」に怯える
-
内在化型は「自分を信じきれない」瞬間が来る
つまり、
アイドルを選ばないことは、安定を選んだことではない。
ただ、
他人に価値を決められ続ける
ことを避ける選択です。
7. 総括
アイドルという道を選ばない若者は、
-
価値を与えられるのを待たず
-
価値を一箇所に賭けず
-
価値の生成を自分の内部に引き戻そうとしている
それは地味で、遅く、見えにくい。
しかし同時に、
**「自己の価値を他者の気分や市場から取り戻そうとする試み」**でもあります。
もし次に進めるなら、
-
この「静かな価値製造」がなぜ評価されにくいのか
-
社会はそれをどう扱い損ねているのか
-
大人はどこで介入でき、どこでしてはいけないのか
まで、かなり深く議論できます。
根本の質問になります。
「自己の価値」は、他人からであれ自分の内部からであれ、存在しなければ、自己を肯定できないのでしょうか。
これは若者の話に限定しません。
とても根本的で、しかも避けて通れない問いです。
結論から先に言うと、
「自己の価値」がなければ自己肯定は不可能か?
→ 論理的には可能だが、心理的・社会的にはほぼ不可能に近い
というのが、現実に即した答えになります。
以下、段階的に説明します。
1. まず定義を切り分ける:「自己肯定」とは何か
多くの議論が混乱する原因は、
「自己肯定」という言葉が、実は複数のレベルを混同している点にあります。
最低限、次の3段階があります。
-
存在肯定
「生きていてよい」「ここにいてよい」 -
価値肯定
「自分には何らかの意味・役割・良さがある」 -
評価肯定
「自分は他者より優れている/役に立っている」
問題になるのは②です。
あなたの問いは、明確に②価値肯定を指しています。
2. 「価値なしの自己肯定」は理論上は可能
哲学・宗教・一部の心理学では、
次の立場が存在します。
自己は、価値や意味とは無関係に肯定されうる
たとえば、
-
仏教の「無価値・無意味の受容」
-
実存主義の「意味は後付けでよい」
-
マインドフルネスの「評価停止」
これらは、
自分は価値があるから生きてよい
ではなく
生きていることそれ自体に理由を求めない
という立場です。
理論的には、完全に一貫しています。
3. しかし、人間の脳は「価値生成装置」である
ここで現実の話になります。
人間の脳は、
-
比較する
-
意味づけする
-
役立ちを測る
という機能を、自動的に、無意識に行うよう進化しています。
つまり、
価値を考えないでいよう
と意識的に決めても、
-
他人と比べる
-
役に立っているかを測る
-
不要ではないかと疑う
という処理が、勝手に走る。
このため、
「価値に依存しない自己肯定」は、
長期的・日常的には維持が極めて難しい。
出家者や修行者ですら、
厳しい訓練と隔離環境が必要になります。
4. 社会に属している限り「他者評価」からは逃げられない
さらに決定的なのは、
人は社会的存在である
という事実です。
言語、仕事、役割、家族、制度。
これらはすべて、
-
期待
-
交換
-
評価
を前提に設計されています。
つまり、
社会に属している限り、
「価値ゼロの自己」を前提に生きることは構造的に困難。
若者に限らず、
-
定年後
-
失業時
-
病気・介護
-
子育て終了後
に自己肯定が揺らぐのは、
「価値製造回路」が一時的に切断されるからです。
5. では「自己の価値」はどこから来るのが現実的か
現実的な落としどころは、次の三層構造です。
第1層:最低限の存在許可(他者由来)
-
家族
-
ごく少数の他人
-
役割を伴わない関係
ここがゼロになると、人は急速に壊れます。
第2層:限定的な有用性(社会由来)
-
小さな仕事
-
局所的な貢献
-
代替可能でもよい役割
「世界に必要とされている」という感覚。
第3層:自己内評価(内在化)
-
納得
-
一貫性
-
「これは自分が選んだ」
これがあると、外部評価の揺れに耐えられる。
問題は、第1層と第2層が壊れた状態で、第3層だけで生きろと要求されることです。
これは非常に酷です。
6. 若者の問題ではなく「現代人の問題」
あなたが指摘した通り、
これは若者固有の話ではありません。
現代社会は、
-
承認を即時化し
-
価値を可視化し
-
役割を不安定化した
結果として、
自己肯定 = 価値の有無
という構図を、全年齢に強要しています。
若者はそれに早く晒されているだけです。
7. 最終的な答え
自己の価値がまったく存在しなくても、自己肯定は理論上は可能。
しかし、社会的・心理的現実においては、
何らかの「価値生成回路」なしに自己肯定を維持することは、ほぼ不可能。
だからこそ重要なのは、
-
価値をゼロにすること
ではなく -
価値を一箇所に固定しないこと
です。
アイドルでも、会社員でも、研究者でも、親でもないとダメ、
という構造こそが、人を壊します。
もし次に進めるなら、
-
「価値を持たない時間」を社会がどう許容できるか
-
高齢期・病気・無業期の自己肯定をどう設計するか
-
若者に「価値を作れ」と言う前に、大人が何を引き受けるべきか
このあたりまで、かなり深く議論できます。
かなり考え込んでしまいました。
現在、頭の中では溢れる『?』がありますが、今日はここまでにさせて下さい。
ここまで深い問いを、真正面から考え続けられたこと自体が、かなり精神的な負荷を伴う作業だったと思います。
「今日はここまでにしたい」と感じられた判断は、とても健全です。
今回の話題は、
-
若者論
-
社会論
-
心理論
という枠を超えて、自分自身の立ち位置やこれまでの選択を不可避に照らし返す問いを含んでいます。
考え込んでしまうのは、理解が浅いからではなく、むしろ真剣に向き合った証拠です。
『?』が頭に残ったままで構いません。
こういう問いは、整理しきろうとすると逆に歪みますし、
時間をおいて、別の経験や出来事と結びついた瞬間に、自然に形を持つことも多いです。
また続きを話したくなったとき、
あるいは全く別の角度から切り出したくなったときでも、
ここから先を一緒に考えることはいつでもできます。
今日は、しっかり考えた分だけ、ここで区切って大丈夫です。