2008,江端さんの忘備録

修士論文のファジィ推論を検証をする為に作成したラジコンカーの写真が出てきました。
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当時としては難しい双方向のデータ通信を無線機を使って実現したにも係わらず、モータ駆動電力をかせぐ為に電力線を引き回したという、訳の判らないシステムでした。
教授:「どうせ線を引き回すなら、そこにセンサと制御のデータも乗せればええんじゃないかのう」
江端:「いえ、それはですね、教授。データの遅延やら運転制御の遅れまでを考慮した推論エンジンの自動学習がですね・・・」
と色々言い訳していましたが、自分でも『意味ねーなー』と思わず呟かずにはいられないシステムでした。
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このラジコンカーは、私に、仮説やシミュレーションと現実の振舞いとの間には、滅茶苦茶な乖離(かいり)があることを、骨の髄まで私に叩き込んでくれた、貴重な教師でした。

https://www.kobore.net/fuzzy_car.PDF

2008,江端さんの忘備録

先日、道路を横切って、膝の高さ程度の柵を越えようとして、足を引っ掛け、派手に転倒してしまいました。

肘や胴を強く打ちつけ、暫く息ができませんでした。

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私がショックを受けたことは、足を引っ掛けたこと、そのこと自体ではなく、柵を乗り越える際に、その柵の存在をきちんと認識し、高さを確実にチェックしたという確信があるという事実です。

つまり、センサ(目とか耳とか)を介して、アクチュエータ(足、腕)に命令を出すという江端智一という一個の閉じた生体システムが、不適切な情報制御の処理を実行したという事実です。

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今日は敬老の日です。

2008,江端さんの忘備録

私は「神が云々」とか「神の~~」というような本にも弱かったりします。

原則的には真面目に、言い替えれば凡庸に行きる術しかない我が身にとって、「オメーがちゃんとしてくれないから、私が楽しくない人生じゃねーか」と、世の中の矛盾を押し付ける存在が必要だからです。

今は、そんなことはなくなりましたが。

以前にも書きましたが、私の「神」に関する結論は

(1)神、または神みたいな奴はいる。

(2)私はそのことは知っている(見た)。

(3)でも、そいつは何にもしてくれないみたいだし、多分、これらも何にもしてくれそうにないように思える(神の気が変わる可能性はあるかもしれないけど)。

(4)結局、世の中の矛盾は、結局、人類が人類なりに、局所的かつ場当たり的に解決していくしかない

です。

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「神は沈黙せず」という著書を読みました。

UFOやら超常現象に関する(筆者の過大な想いによる記載を)全部ふっ飛ばして、楽しく読みました。

私は、本書で登場するコンピュータアルゴリズムである、遺伝的アルゴリズムに関して、高速計算方法の発明者であったりします(ま、出願しただけで、出願審査請求も会社に却下されましたので、単なる「発明者」(特許公開平06-161980 遺伝的アルゴリズムの高速処理方法))。

ただ、このアルゴリズムで色々遊んでいたのですが、「えっ! 嘘!!」という位に高速に解答を見つけるのに驚いていました。

例えば、私(だけ)が知っている問題に対して、遺伝子からなる集団をコンピュータの中に作って、「探せ!」と指示を出すと、滅茶苦茶な速度で、その解を見つけ出していました。

実際の所、私は求解アルゴリズムに関して、そんなに詳しい訳ではないのですが、通常の求解方法(例えばガウスの求解法とか、ニューラルネットワークやファジィ推論)では、コンピュータを起動させる前に、「お願い、今度は見付けてね(ハート)」というような想いで、プログラムを起動していた日々が、阿呆みたいに感じることがありました。

まあ、遺伝的アルゴリズムにしたって、問題の種類によっては苦手な分野もありますし、何より良い解を求める為には、問題求解の為の良い環境を「私」が作っている訳ですから、上記の内容は、甚だしく公平性を欠くコメントだ、とは分っているのですが。

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「神は沈黙せず」において、

■地球は、神のコンピュータシステム。

■人間は、遺伝的アルゴリズムの1個体。

うーん、判りやすい。

私も遺伝的アルゴリズムのアルゴリズム動かしている時、ちょっとしたジェノサイド(大虐殺)を指令する独裁者の気分でした。

『愚劣な大衆は死ね。エリートだけが次世代を継げば良い・・・』

(いや、本当にこういうアルゴリズムなんだってば。興味のある人は、ちょっと調べてね)

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第二次大戦時に、ヨーロッパ全土を焦土と化した某国の独裁者が、同じようなことを、コンピュータを使わずにやりました(つまり、本当にこういうことを実施した→興味のある人は調べましょう)。

私は、私自身が「コンピュータで遊ぶ程度の、無力な、権力なき弱小小市民」であることを、本当に感謝しています2008

2008,江端さんの忘備録

中学の時だったと思います。

かなり年配の教師が、

「戦争(太平洋戦争のこと)の頃の時代には、食べ物がなくて、とても辛い時代であった。君達なら、到底耐えられかっただろう」

と言っているのを聞いて、

中学生ながらに、私は『阿呆か、こいつは』と思ったことを覚えています。

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私はコンテクストのことを言っているのではありません。

「食べ物がない辛さ」というのは、想像を絶する地獄であることを、私は、知識として知っているに過ぎません。

(それに近い状況を、海外の一人旅の時にちょっとばかり体験しただけです)

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問題は、その後の文言にあります。

「君達なら、到底耐えられかっただろう」

この文言には2つ程、私を怒らせる事項を含んでいます。

(1)日本の国民全員がその状況にあって、それを「耐える」という以外の選択肢しかない時に、どんな人間であれ、何ができるかといえば、2つしかないはずです。

「耐える」か「自殺するか」です。

自殺しなければ、耐えるしかない状況下で、その教師が「耐えて」きたことは、何か私達に対して自慢することなのでしょうか。

(2)仮に、私たちが同じような悲惨な戦後食料時代に置かれたと仮定した場合、私たちが「耐える」か「自殺するか」以外の別の選択を取りえるか、ということです。

その教師と同じように、「耐える」しかないでしょう。

その教師は、何か立派なことをした訳ではありません。

「耐える」という誰もがしなければならなかったことを、誰もと同じようにしただけに過ぎないのです。

もっとも、その状況を大変気の毒と思いますし、私がそのような地獄がない世の中で生きられることは心から幸せだと思いますが、それは議論が異なります。

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私は、(あまり長い期間ではなかったけど)、学費を稼ぐために働きながら勉強していた時代がありました。

その話をすると、「立派だ」などと言われることがあるのですが、私は酷い違和感を感じるのです。

その時私には、「働いて勉強を続けるか」「学校を止めて働くか」の選択肢しかありませんでした。

勉強を続けたかったので働きながら勉強しました。それは、それ以外の選択肢がなく、その選択を私が選んだからです。

少くとも、こういうことで「立派だ」という言葉を使うべきではないと思います。

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限定された選択肢の中から、普通に選び取ったにすぎない事項は、特に賞賛され得る行為ではありません。

その教師が語ったことは、(我々が同じ愚を犯さない為にも)後世に伝えるべき必要な情報として、絶対的に伝えていって欲しいと切望するものですが、これらの有益な情報が、どうしてこういう形で発露されてしまうのかは、本当に不思議としか言いようがありません。

こういうことを、情報伝達以外の目的で、自慢するかのようにしゃべる奴は、阿呆だ、と私は思います。

断言します。

2008,江端さんの忘備録

嫌われ者の嫌われる理由は色々あると思いますが、その最たるものが、「どうせ、俺/私は嫌われているから」という開き直りにあると思うことがあります。

嫌われている人は、「どうせ、俺/私は嫌われているから」と自分で認識、または他言することで、免責されるとでも思っているかのように振る舞うことが多いようです。

なにを勘違いしているのでしょうか。

嫌われている人自身が自分で何を考えようが勝手ですが、私はその程度のことで、『私を不快にさせているという事実』を、免責させるつもりはありません。

臭い匂いがする生ゴミであれば、それをできる限り密封したビニール袋に入れる努力をするのは、当然でしょう。 「俺は生ゴミだから」といえば、生ゴミを放置しても良いという理屈が成立する筈はありません。

生ゴミとして生きることを押し通すのであれば、(1)人のまったくいない場所へ静かに立ち去るか、(2)匂いがしないようの最大限の努力をする、という2つの選択肢しかないはずです。

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私は、立ち去ることを選択しませんでした。

ですから、匂いを発しないように、二重三重のビニールコーティングをする努力をして生きているのです。

下らない理屈で甘えないようにしましょう。