2011,江端さんの忘備録

20代の頃、あまり安全と言えない国を放浪してきました。

そのお陰で、リスク回避の本質みたいなものを体得したような気がしています。

基本的には、

◯危い気がしたら、誰になんと思われようとも、すぐ逃げる。

→ 例:変な言動をしている奴が接近してきたら、即座にその場所から去る

◯妙な正義感やプライドは持たない。

→ 例:被害者を捨てて、自分一人で逃げる

◯妙な音(爆発音)、変な臭い(異臭)を感じたら、後ろを見ないで、全力疾走でその場から離れる。

→ 例:『何が起こったか』などという確認は絶対にしない

◯現段階で見えているリスクで、自分で潰せる範囲のものであれば、完全に潰しておく。

→ 例:相手が自分より弱いと認めたら、強くなる前に潰しておく

などがあります。

基本的には、「誰も信用せず、自分の判断のみに従って行動し、その結果が的外れであったとしても、また、他人に非難されるようなものであったとしても、自分を恥じない」ということです。

すぐに逃げ出す私を嘲笑する人もいるでしょうが、逃げ出すタイミングを逸して死ぬよりはマシと思っています。

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◯コンピュータ2000年問題で、食料を貯め込んで田舎に疎開したという人。

◯今回の福島原発の放射能汚染を心配して、塩を大量に購入してしまったという中国の人

この人達の行動は正しいと思います。

少くとも、その時点において、リスクがなかったと判断できる人は、誰もいなかったのですから。

◯震災直後に食料や水の買占めをした多くの日本人

◯移動する手段として、ガソリンスタンドに長時間並んだ日本人

あの時点で、余震で更なる被害の拡大がなかったと断言できる人がいるでしょうか。

また、原発の放射能汚染が100kmオーダに及び、ガソリンがなくて逃げ出せずに被曝する可能性を否定できる人がいたでしょうか。

生き残る為、逃げ出す為の準備をしていた全ての人を、私は絶対的な意味で「肯定」します。

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事故の翌日にすでに判明していた「レベル7」を隠蔽した政府の対応は、国民にパニックを与えなかったとして高く評価されるのかもしれません。

あの時点で「レベル7」を公表していれば、恐らく日本中は大パニックに落ち入り、商店、店舗の強奪、またガソリンスタンドの襲撃など、高速道路事故の発生等、果ては、放火・暴動・騒乱で、多くの人が、全く意味のない死傷していたかもしれません。

または、戒厳令宣言や自衛隊の治安出動などもありえたかもしれません。

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それでもなお、「レベル7」を隠蔽し続けた政府に対して、私は、

―― また、騙しやがったな

と思ってしまうのです。

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同じ死ぬなら、計算された権力の掌の上で選別して殺されるくらいなら、(私も含めて)無知蒙昧な民衆の暴力で死んだ方がマシ、と思えるのです。

2011,江端さんの忘備録

緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)というシステムがあるそうです(今まで知らなかった)。

緊急事態が発生した際に、六時間先までの希ガスによる外部被曝線量や甲状腺等価線量などをシミュレーションすることができるものだそうです。

ところが、事故発生後から、この情報の開示を色々な団体が政府に請求してきたが、全く開示されないと言う問題があり、国民からは不満・・・というよりは、不信の声が上っていました。

そこで、この非開示とされてきた理由を「邪推」してみました。

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ところで、実は私、パソコンに触れた時から今日まで、色々なシミュレーションをやってきました。

具体的には、

○アルバイト先の塾の生徒の成績予想、
○半導体の電圧・電流等の挙動、
○歩行ロボットの歩行パターン
○ファジィ推論によるパン焼き炉の温度や電子レンジのサンマとサバの判別方法
○大阪梅田駅を想定した大量歩行者の歩行挙動
○エイズの免疫機構をヒントにした最適解探索

など。

結構楽しかったです。

条件設定パラメータを弄ると、結果が様々に変化して、夜が明けるまでコンピュータの画面に喰い入っていました。

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ところが、逆に、シミュレーション結果を妥当な値にする為の、「初期値パラメータ」を探すことは、とても難しいです。

特に気象・流体系のシミュレーションの場合は、計算結果から初期値を求めることはできません(これを「不可逆」といいます)。

初期値に対してセンシティブ(敏感)なシミュレーションの場合、初期値の与え方によって、計算結果が、それはもう、「信じられないくらい滅茶苦茶な結果となる」からです。

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SPEEDIは、政府の持ち物なので、基本的には行政府の行動を、論理的・科学的にに裏づけしなければならないと思うのです。

今回のSPEEDIのミッションは、「政府の避難指示の妥当性」を出さなければならなかったと『邪推』してみます。

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SPEEDIに入力される情報には、気象観測情報、アメダス情報と放出核種、放出量等の情報があり、これは「点」の情報として入力されます。

また、さらに高さ方向の情報も入力しなければなりませんが、当然、地上1000メートルとかに固定されているセンサなんぞある訳がありません。

そうなるとですね、非常に少ない計測地点だけを使って、計算をしなければなりません。平面(二次元)の状態を把握するのでも相当難しいのですが、当然汚染は大気にも広がっています。

すると、3次元の空間をシミュレートする必要があるのですが、もうこれは、相当に難しいと推認されるのです。

イメージを言えば、

◯北海道の稚内で測定した海水温度と、
◯沖縄で測定した気温から、
◯福島の河川の温度を計る、

というような、難しさ(ちょっと大袈裟か)。

そもそも、問題となっている事故が進行中の原発から放射された「放射性物質の総量」が全然分からんのですから、「今日の天気が、晴れか曇りか雨かは教えないけど、本日の最高予想気温を出せ」と言うような感じでしょうか(これも大袈裟かな)。

で、決定的なデータ不足の中でシミュレータを稼働させているのではないかな、と。

多分、空間をメッシュ状の単位で区切って、その単位内で各種の計算(流体計算とか)線形・非線形補完をする計算方式を採用しているのだろうと思います。

この計算式は結構膨大なものですから、どうしてもスーパーコンピュータ(スパコン)クラスのパワーが必要になってきますが、求める精度によっては、相当の時間(数時間~数十時間)が必要になるのではないかと思っています。

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で、恐らく、その計算を行った科学者は、その計算結果を見て、「愕然」としたのではないかと「邪推」するのです。

――― なんだ、これ?

例えば、

◯中国やロシアまで、放射性物質が拡散しているという計算結果が出てしまった。

間違いなく前代未聞の国際問題に発展するでしょう。
政府は、国際的な非難を浴びることを回避する為、公開できません。

◯地元でなく、東京や北海道の方が汚染濃度が高い計算結果が出てしまった。

政府が定めた避難範囲(半径20-30km)の意義をぶち壊してしまう為、公開できません。

◯汚染が全く見られないという計算結果が出てしまった。

「そのSPEEDIというシミュレータは、オモチャか!」という非難を受け、「そんなシステムに税金使うな」の大合唱で予算が無くなるのを回避する為、公開できません。

再計算する度に、訳の分からん計算結果が出てくる。

国民からは計算結果を出せと言われているが、こんな結果を出したら、間違いなくSPEEDIの来年度予算はなくなるし、諸外国の政府・研究機関からは笑いものになる。

困った。どうしよう。

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少し「邪推」の程度が酷すぎますかね。
私も本当にこんなことがあったとは、信じていません(というか、信じていいよね)。

でもね、仮に、

そういう無茶苦茶な計算結果があったとしても、
それが日本の技術者の名誉を損うことになったとしても、
それでも公開するのが、政府系研究機関の義務でしょう。

SPEEDIに血税を払っているのは、我々国民なのですから。

2011,江端さんの忘備録

今朝、朝食を取りながら、出社前にニュース番組を見ていました

緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)のシミュレーション結果を公開しなかったことに対して、コメンテータのタレント達が、

「公開しないシステムなら、そもそも不要ではないか」

「『最悪値』であるという説明を尽くせば、パニックなどは起きないはずだ」

と、文部科学省の対応を批判していました。

# ま、これはもっともな意見なのですが。

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仮に、SPEEDIのシミュレーション結果を開示して、パニックによって死傷者が出た場合、この人達は、多分、平気でこんなこと言うだろうなー、と思いながら、パンを齧っていました。

「我々にとって理解できない数値やシミュレーション結果を、むやみに開示して何の意味があったのだろうか」

「文部科学省は、(今回のような)パニックなどの発生も予想して、敢えて開示しないという選択も取り得た筈である」

「被災も被爆もしていない人達が、無意味に死傷したことに対して、政府は情報をコントロールしなかった責任がある」

とかね。

彼らは、『例え、暴動が発生したとしても、それは我々が選んだ道だ』とは、決して言わない。

コメンテータとは、後ろから事件を見て適当なことを喋れって、お金を貰える商売のようです。ちょっと羨しい。

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私個人の所感ですが、残念ながら、今、この段階においてさえも、

○ミリとマイクロの単位の違いを理解をしようともせず、

○シーベルトとベクレムの単位の意味も理解しようともせず、

○危険と安全の判断を、あいかわらず「お上」に任せっきりにしている、

(ついでに言わせて貰えば、○避難してきた子供に『放射能が伝染る』とかほざく、アホガキに、科学的にきちんとした被曝の知識を教えるこものできん、低能な保護者や教師が存在する)

そんな国の国民に、

文部科学省も、SPEEDIのシミュレーション結果を開示するという勇気はなかったんだろうなーーと思っています。

でも、これも元をただせば、文部科学省が義務教育過程で、「『安全神話信仰』の国家基本方針」に基づき、原子力に関する教育を完全に放り投げてきた結果です。

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はっきりいって、リトマス試験紙が赤になろうが青になろうが(嫁さん語録)、どーでもよいです。

○致死に至る被曝量や、半減期の意味、体内被曝と体内被曝の違いを、小学校で教え、

○加圧水型軽水炉(PWR)と沸騰水型軽水炉(BWR)の違いと、さらには高速増殖炉(FBR)の構造や、その長所と短所(どこをやられるとヤバいか、等)を、中学校で教え、

○中学入試や高校入試では、「あー、まさか、『高速増殖炉』が出てくるとは思わなかったー!」という受験生の声が聞こてくる、

というくらいにして貰いたいものです。

2025,江端さんの忘備録

日本の石油備蓄が240日分ある、というのはよく知られていますが、備蓄米については意外と知られていないようです。私も今回あらためて調べてみました。
It’s well known that Japan has about 240 days’ worth of oil reserves, but rice stockpiles are surprisingly less well-known. So I decided to look into it this time.

政府が管理する備蓄米は、約100万トンです。
The government-managed rice stockpile amounts to approximately one million tons.

これは、100万人なら約5000日(=13年)を喰わせることができ、1億人(日本の人口)なら約50日間食べられる計算になります。
This means it could feed 1 million people for approximately 5,000 days (13 years) or feed Japan’s entire population of 100 million for around 50 days.

食料自給率40%を切る我が国では、これでもまだ不安かもしれませんが、それを言ってはキリがない、というのも理解できます。
Given that Japan’s food self-sufficiency rate is below 40%, this may still feel insufficient, but we must draw the line somewhere.

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備蓄米を使った政策というのは、過去にもありました。
Policies involving the use of rice reserves have been implemented in the past as well.

(1)1993年「平成の米騒動」
冷夏による大凶作で国内米の供給が不足し、政府は備蓄米を放出しましたが足りず、タイ米を緊急輸入しました。
(1) The “Heisei Rice Riots” in 1993: A cold summer caused a disastrous crop failure, leading to rice shortages. The government released its reserves, but it wasn’t enough, so they urgently imported Thai rice.

(2)2003年の米価下落
生産量増加により米価が下落したため、政府が市場の安定化を図るために備蓄米の買い上げを実施しました。
(2) The 2003 rice price crash: Increased production led to falling prices, so the government bought up rice for reserve in an attempt to stabilize the market.

(3)2011年の東日本大震災
被災地への供給確保のため、政府が迅速に備蓄米を放出しました。
(3) The 2011 Great East Japan Earthquake: The government quickly released rice reserves to ensure supply in disaster-affected regions.

という訳で、2003年にも、市場安定(価格安定)の為に、備蓄米のコントロールはあったのですよね。
Yes, rice controls were also utilized in 2003 to stabilize market prices.

今回の米騒動が2003年と決定的に違うのは「米余り」に対して、「米不足」ということです。状況が真逆ということです。
The key difference this time is that we’re facing a rice shortage, not a surplus like in 2003. It’s the exact opposite scenario.

ちなみに、1993年のタイ米を緊急輸入の時に、私たちは「"コメ"なら何でも良いわけではない」を思い知ったのものです(はっきり言って、"タイ米は、絶望的に和食に合わない")。
By the way, in 1993, when Thai rice was urgently imported, we learned the hard way that not all rice is interchangeable. (Frankly speaking, Thai rice is hopelessly incompatible with Japanese cuisine.)

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さて、今回の小泉農林水産大臣の施策の特徴は、以下の3点になります。
Now then, Minister Koizumi’s current measures are characterized by the following three points:

(1)価格高騰への対応: 異常気象や観光需要の増加により米価格が高騰し、政府は価格安定を目的として備蓄米を放出しました。
(1) Responding to price surges: Due to abnormal weather and increased tourism demand, rice prices soared, prompting the government to release reserves to stabilize them.

(2)随意契約の活用: 従来の入札方式ではなく、迅速な対応を可能にするため、政府は随意契約により小売業者と直接契約を結びました。
(2) Use of negotiated contracts: Instead of the usual bidding system, the government signed direct agreements with retailers to enable faster response.

(3)価格の大幅引き下げ: 5kgあたり2,000円程度での販売を目指し、政府は輸送費の補助なども行っています。
(3) Major price reduction: The goal is to sell rice at around 2,000 yen per 5 kg, with government subsidies for transportation and other costs.

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で、なぜ、この施策を、小泉農林水産大臣の前任者ができなかったのかというと、原因は、どうやら、"これ"のようです。
So why didn’t previous agriculture ministers implement such measures? The reason seems to be this:

"農協(JA)"
"JA (Japan Agricultural Cooperatives)"

もっと直接的に言うのであれば、米生産地の"票田"です。
More bluntly: it’s the “vote farm” in rice-producing regions.

日本の農政は長年、農協(JA)との密接な関係のもとで運営されてきました。
Japanese agricultural policy has long been operated in close partnership with JA.

農協は農業資材の供給や農産物の販売などを一手に担い、農家にとって重要な存在です。
JA controls everything from the supply of farming materials to marketing produce, making it essential for farmers.

そのため、政治家にとっても農協は重要な支持基盤であり、農協の意向を無視した政策は政治的リスクを伴います。
This also makes JA a crucial political support base. Going against its wishes carries serious political risks.

前任の大臣たちは、農協との関係を重視し、急進的な改革を避けなければならなかったのです。
Previous ministers had to prioritize their relationship with JA, avoiding bold reforms.

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私は、『農協(JA)と政権(ぶっちゃけ自民党の農政議員)が全部悪い』といっている訳ではありません。
I’m not saying JA and the ruling LDP agriculture politicians are entirely to blame.

これを一言で言えば、「既得権益構造と改革の難しさ」と言えましょう。
In short, this is a textbook case of how hard it is to dismantle entrenched vested interests.

農業分野には、長年にわたり築かれた既得権益の構造があります。例えば、農業資材の価格設定や流通経路、補助金の配分など、多くの利害関係者が関与しているのです。これを壊すのは、相当に勇気があります。
The agricultural sector is characterized by long-standing interest structures, including the pricing of supplies, distribution networks, and subsidy allocation, with numerous stakeholders involved. Dismantling that takes profound courage.

実際、前任の大臣たち過去に農協改革を試みましたが、農協側の強い反発により実現には至らなかった、という経緯があります。
The Ministers once attempted to reform JA but were forced to abandon the effort due to fierce opposition.

加えて、米価格の高騰や備蓄米の流通問題が顕在化したのは最近のことであり、問題の深刻さが十分に認識されていなかった、という背景もあります。
Additionally, the seriousness of rising rice prices and supply bottlenecks has only recently become apparent—back then, it wasn’t recognized as a pressing issue.

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今回、この自民党のタブーに踏み込んだ小泉農林水産大臣は、自民党党内と農協(JA)との権力闘争に突入するんだろうなぁ、と思っています。
Now that Minister Koizumi has stepped into this LDP taboo, I imagine he’s headed straight into a power struggle with both JA and his party.

あるいは、日本人の米離れを防いでくれたヒーローとして、さらなる農協(JA)との協力関係が強化されるかもしれません。
Or perhaps he’ll be seen as a hero who saved Japan from turning away from rice—and end up forging a stronger alliance with JA.

私はこの「権力闘争」または「権力強化」を、国民の一人として、見守っていきたいと思います。
As an ordinary citizen, I intend to watch this “power struggle” or “power consolidation” unfold with great interest.

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ちなみに、研究者としての私は、
By the way, speaking as a researcher,

「新米」「古米」「古古米」「古古古米」「アメリカ産米」を1kgずつセットにした比較試食パックが販売されたら、手数料込みで7,000円でも即買いします。絶対に買います。
If a tasting pack were sold with 1kg each of new rice, old rice, ancient rice, extra-old rice, and U.S. rice, I’d snap it up for 7,000 yen, fees included. No hesitation.

今回の米騒動、日本人として米を考える(味を比較する)良い機会だと思うのです。
This rice panic, I think, is an excellent opportunity for us Japanese to think about rice, starting with how it tastes.

未分類

論文の提出要項に「製本すること」と記載されていました。

で、学生課に問い問い合わせをしたら、「バラけなければ問題はない」と言われたのですが、100ページ超の論文は、両面印刷でもホッチキスでは太刀打ちできません。

で、まあ、今日、色々やっていました。

でも、この方法ではページが簡単に落ちてきそうなので、補強することにしました。

で、最終的に、こんな感じになりました(この後、紐の部分を製本テープで張りますが)。

論文作成は、製本までがお仕事です。

2025,江端さんの忘備録

来週、大学に提出する論文(全100ページ超)の最終チェック(校正)段階に入りました。
Next week, I will submit my thesis (over 100 pages) to the university, and I’ve entered the final proofreading stage.

昨夜は、私が新たに提唱した「単位」について、言葉ではうまく説明できず、図解による表現方法を深夜まで試行錯誤していました。
Last night, I struggled to explain a new "unit" I’ve proposed, unable to do so adequately in words, and kept experimenting with visual representations until late at night.

そして今朝未明、ようやくこの一枚の図を完成させました。
And finally, in the early hours of this morning, I completed this single diagram.

ここ数ヶ月、上手く眠れていませんが、昨夜は特にひどかった。
I haven’t been sleeping well for the past few months, but last night was horrible.

頭の中を、ロジック、数式、統計、図面といったものが絶え間なく駆け巡り、私の睡眠を妨げ続けました。
Logic, formulas, statistics, and diagrams kept racing through my mind, relentlessly interrupting my sleep.

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昨夜は、睡眠薬ユーロジンを服用しても効果がなく、追加でメキタジンを摂取し、それでも眠れず、最後にはセルシンを投入しました。
Last night, even after taking the sleeping pill Eurodin, I couldn’t fall asleep, so I added Mequitazine, and finally took Serescine as a last resort.

(いずれも処方薬の範囲内ではありますが)さすがに自分でも「これはまずい」と思いました。
(All of them were within prescribed limits, but) Even I thought, “This is getting dangerous.”

さらに、昨日はアルコール――特にウイスキーのような強い酒――への強烈な渇望がありました。
Moreover, I had an intense craving for alcohol yesterday—potent liquor like whisky.

(なお、私は現在、完全な断酒を継続しています)
(For the record, I am currently maintaining complete abstinence from alcohol.)

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薬の過剰摂取をSNSで軽々しく語る若者たちへ。
To the young people who casually talk about overdosing on social media.

私は「あなたの苦しみを理解している」などとは、軽々しく言うつもりはありません。
I won’t lightly say, “I understand your pain.”

ただ、こう言わせてください。
But let me say this.

生きていれば、生き延びるために、本当に「オーバードーズ」を使わざるを得ない日が来るかもしれません。
If you stay alive, a time may come when you truly have no choice but to overdose to survive.

その時まで、「オーバードーズ」は、取っておきなさい。
Until that moment comes, save your overdose.

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今日のコラムのオチをChatGPTに考えてもらいました。
I asked ChatGPT to come up with the punchline for today’s column.

『命を削ってでも書く論文を、“命題”と呼ぶべきかもしれません』
“A thesis written at the cost of your life might truly be called a life question.”

イヤなオチだな、とは思いましたが、残しておきます。
I found the punchline a bit unpleasant, but I’ve decided to leave it in.

江端:「いえ、私、不眠症なので、『眠くなる薬』は、どんな薬でもウエルカムです」

2025,江端さんの忘備録

「男と付き合うのは簡単なんだよ。難しいのは別れるときなんだよ」ーー娘がそう言ったとき、私は『これは危ないな』と思ったのをよく覚えています。
"Dating a guy is easy. Breaking up is the hard part," my daughter once said, and I clearly remember thinking, "This is dangerous."

それは、私自身がかつて「特許明細書を書くなんて簡単だよ。特許の活用や収益化のことを考えなければね」と言っていたのと同じくらい危うい感覚だと感じました。
It felt as precarious as when I had once said, "Writing a patent specification is easy—as long as you don't think about utilizing or monetizing it."

世の中には、こうした言葉を口にする人が他にもいます。
There are others in the world who say similar things.

「英語を話すなんて簡単だよ。文法なんて気にせず喋り続ければいいんだから」
Speaking English is easy. Just keep talking and forget about grammar."

「子育てなんて簡単だよ。愛情さえあれば大丈夫なんだから」
"Raising kids is easy. As long as you have love, you'll be fine."

「起業なんて簡単だよ。アイデアが一つあれば始められるんだから」
"Starting a business is easy. You need one idea to get going."

「人脈なんて簡単だよ。SNSでつながればいいんだから」
"Building a network is easy. Just connect with people on social media."

「ダイエットなんて簡単だよ。食べなきゃいいだけなんだから」
Losing weight is easy. Just don't eat."

「人を説得するなんて簡単だよ。論理的に話せば伝わるんだから」
"Persuading people is easy. Just speak logically and they'll understand."

――こういう発言をする人は一見無邪気ですが、私は全員『危ない』と思っています。
These individuals may seem harmless, but I consider all of them to be "dangerous."

なぜなら、「自分にとって簡単だったこと」が「他人にとっても簡単だ」と思い込んでいるからです。
Because they assume that what was easy for them must also be easy for others.

自分の基準で世界を語ると、世界から刺されます(そして時に、殺されます)。
When you speak of the world based on your standards, the world will stab you—and sometimes, kill you.

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こうした言動が危険なのは、そこに自慢もマウントも悪意も、まったく含まれていないという点にあります。
What makes such statements dangerous is that they contain no bragging, no superiority complex, and no malice whatsoever.

むしろ「普通の会話」として口にされたとき、人は『この人間を許せない』という感情を抱きます。
If anything, when spoken as just casual remarks, people feel a deep sense of unforgiveness toward the speaker.

まだ、あからさまな自慢や攻撃的なマウントなら、「殴りたい」と思われる程度で済むかもしれません。
If it were an obvious boast or aggressive posturing, people might want to punch you.

しかし、何の悪気もなく、涼しい顔で“できてしまう”ことを口にする人間には、もっと深い憎しみが向けられることがあります。
However, when someone casually mentions what they can effortlessly do, with no malicious intent, it can provoke even deeper resentment.

なぜか?
Why?

それは、自分が死ぬほど努力しても手に入らないものを、
Because when someone has something you've worked yourself to death to achieve,

努力の気配も見せず、当たり前のように、無造作に扱う人間を、
and they treat it as something effortless, casual, and ordinary,

人は本能的に「許せない」と感じるからです。
We instinctively feel we cannot forgive them.

で、そういう人に限って、悪気なくこう言うのです。
And those kinds of people inevitably say things like this without malice:

「え? なんで怒ってるの?」
"Huh? Why are you mad?"

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いや、怒るでしょ。
I mean, of course, I'm mad.

「あなたが『動けばいいんでしょ?』って言ったそのシステム、私が地雷コードと戦い、バグに泣き、徹夜で乗り越えた“動く地獄”なんですけど。」
"That system you said 'just needs to work'? I fought landmine code, cried over bugs, and pulled all-nighters to make that thing function—it's hell on earth."

あるいはこう。
Or something like this:

「東大? 試験日まで普通にゲームしてたよ。直前に過去問だけ見た。」
"University of Tokyo? I just played games until the exam and skimmed past exams right before."

……それ、刺されても文句言えないレベルの無自覚発言ですよね?
That's the kind of unintentional remark that gets you stabbed—metaphorically, at least.

でも本人は、「励ますつもりだった」とか言うんです。
But then they go, "I was just trying to encourage you."

だから怖い。
That's why it's scary.

だから危ない。
That's why it's dangerous.

そしてきっと、本人は一生気づかない。
And probably, they’ll never realize it in their lifetime.

こういう“無自覚の地雷原ウォーカー”は、世の中に一定数存在します。
These "unaware minefield walkers" exist in a fixed percentage of the world.

しかも、彼らの多くは爽やかで、人当たりもよく、悪意がゼロ。
What’s worse, most of them are charming, friendly, and entirely without malice.

――そう、最も始末に負えないタイプです。
Yes—the hardest type of people to deal with.

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というわけで結論。
And so, in conclusion:

娘には、「『男と付き合うのは簡単なんだよ』というセリフだけは、どんな相手に対しても、どんな場所でも、絶対に口にするな」と、
I told my daughter, “Never, under any circumstances, say ‘Dating a guy is easy’—no matter where you are or who you're talking to,”

かなりしつこく、そして念入りに言い含めておきました。
And I made sure to drill that into her thoroughly and repeatedly.

なぜ、その「好き」と「楽しい」に論理付けして、一般化までして、他人に「簡単」を押しつけてくるのか?

2025,江端さんの忘備録

自己承認欲求とは、自分自身の存在や価値を、他人あるいは社会から認められたい、または自分で認めたいという欲求のことです。
Self-esteem desire refers to the need to have one's existence or value recognized by others or society, or to have a sense of identity.

心理学者マズローの「欲求5段階説」においては、上位に位置する「承認欲求」として分類され、自尊心や他者からの評価を求める心理的な動きとされています。
According to psychologist Maslow’s hierarchy of needs, it is classified as a higher-level "esteem need" and is described as a psychological drive to seek self-respect and recognition from others.

この承認欲求には、実は2つの側面があります。
This esteem need has two aspects.

(1) 他者承認:他人から褒められたり、評価されたりすることで満たされます。
(1) External approval: Fulfilled by being praised or evaluated by others.

(2) 自己承認:自分自身で自分を認め、誇りや満足感を得ることです。
(2) Self-approval: Gaining pride and satisfaction by recognizing oneself.

私は以前、この「自己承認欲求」とは、(1) の他者承認のみを意味するものだと思っていました。
I used to believe that this "esteem desire" referred only to (1) external approval.

しかし、(2) の自己承認、すなわち「自分で自分を評価する」という形も、立派な承認欲求であるようです。
However, (2), self-approval—evaluating oneself—is also a legitimate form of esteem need.

この(2)は、場合によっては「自己満足」「自己憐憫」「自己中心」とも言い換えられるかもしれません。
This (2) could, in some cases, be rephrased as self-satisfaction, self-pity, or egocentrism.

いわゆる、私のような“ミーイズム”型の人間は、この自己承認の比率が高いのかもしれません。
People like me who adhere to a kind of "me-ism" may have a higher proportion of self-approval tendencies.

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私が運用しているブログは、私の自己承認欲求を満たす手段であることに疑いはありません。
There is no doubt that the blog I run serves as a means to fulfill my esteem needs.

私は、SNSについては原則的に利用しない方針としています。不愉快な経験が多かったためです。
As a rule, I avoid using social media because I’ve had too many unpleasant experiences.

現在運用しているのは「辻説法型ブログ」、つまりコメントを一切受け付けない、一方向の情報発信だけを行う形式です。
What I currently operate is a “preaching-on-the-street-style” blog—meaning one-way information transmission with no comments allowed.

この形式は、精神衛生上、非常に良好です。
This format is perfect for mental health.

私と連絡を取る手段は、原則として電子メールしかありません。
The only way to contact me is via email.

仮に不快なメッセージが届いたとしても、即座に本人と議論(あるいは報復)を行うことが可能です。
Even if an unpleasant message arrives, I can immediately engage in a discussion or respond to the sender.

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このような「辻説法型ブログ」を通じて、私はここ数年、心安らかに、言いたいことを一方的に、時には暴力的に発信し続けています。
Through this kind of “preaching-style blog,” I have been able to continue expressing what I want to say—sometimes violently—in peace over the past few years.

「他人の意見を聞かない」「たった一人の閉じた世界での自己完結」は、まさにパラダイスです。
“Not listening to others” and “self-contained communication in a closed world of one’s own” is nothing short of paradise.

極端な意見同士が集まるSNSグループや匿名掲示板が、しばしばカルト化・過激化し、現実に事件化してきた事例を私は数多く知っています。
I know many cases where SNS groups or anonymous forums with extreme views have descended into cults, extremism, and even real-world incidents.

その意味で、「たった一人の閉じた世界」という形は、転落防止装置としても有効に機能します。
In that sense, the “closed world of one person” serves as an adequate safeguard against such a downfall.

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一見、このブログ形式では「他者承認」が得られないようにも思えるかもしれません。
At first glance, it may seem that this blog format does not provide external approval.

しかし、実際にはそうではありません。
However, that’s not the case.

私は毎日アクセス数をチェックしており、「今日もこれだけの人に読んでもらった」という確認を通じて、確かに“他者承認”を得ています。
I check the number of page views daily, and I do indeed receive “external approval” by confirming how many people read it that day.

これはSNSにおける「チャンネル登録」や「いいね」の数と同様の機能を果たしていると言えるでしょう。
This is functionally similar to channel subscriptions or likes on social media.

ただし、他人の意見(=ノイズ)ではなく、他人の“数”だけが見えるという点に、この方法の本質があります。
However, the essence of this method lies in the fact that it shows only the “number” of people, not their opinions (i.e., noise).

実際、多くのブロガーがコメント欄を設けているものの、その多くが途中でブログ運営を断念しています(検索すればすぐに分かります)。
In reality, many bloggers who have comment sections eventually give up on running their blogs; a quick search will confirm this.

「他人の意見なんか聞くから、そうなるんだ」
“That’s what happens when you listen to other people.”

と、私は思っています。
That’s how I see it.

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心理学的にも、100の賞賛コメントは、1つの批判で帳消しになるという研究もあります。
Psychological studies also show that a single criticism can negate 100 compliments.

つまり、本当に大事なのは「褒められること」ではなく「責められないこと」なのです。
In other words, what matters is not being praised, but not being blamed.

このことに気づいていない人が、意外と多いように思います。
Surprisingly few people seem to realize this.

皆さんがどのようにして自己承認欲求と付き合っているのかは分かりません。
I don’t know how each of you deals with your own need for approval.

しかし、「他人の意見を聞かない、たった一人の閉じた世界での自己完結」という方法は、なかなか良い手段であることはお伝えしておきたいと思います。
However, I would like to say that this method of “not listening to others and completing oneself in a closed world” is quite a good approach.

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「他人に認めてもらう」ことに疲れたあなたへ。認める相手を「自分一人」にすれば、人生は一気にイージーモードになります。
Tired of seeking approval from others? Switch to recognizing only yourself, and life suddenly shifts into easy mode.

辻説法(つじせっぽう)

未分類

本土を直接爆撃され、沖縄戦で大敗していた(原爆投下前の)当時の日本政府は、太平洋戦争を、どういう形で集結しようと考えていたのでしょうか?

原爆投下前の日本政府は、戦争の継続が困難であることをある程度認識しつつも、「できる限り有利な条件での終戦(講和)」を模索していたというのが実態です。ただし、政府内で意見は分裂しており、明確な戦略で統一されていたわけではありません。


1. 「本土決戦」と「終戦交渉」の両立という矛盾

1945年春以降、日本の戦局は明らかに悪化していました。特に沖縄戦(1945年4月〜6月)での敗北、本土空襲による都市の壊滅など、国力は著しく低下していました。

しかし政府・軍部は次のような二つの方針の間で揺れていました:

  • 軍部の強硬派:アメリカの本土上陸を迎え撃ち、「本土決戦」により多大な損害を与え、その後に「有利な条件での講和」に持ち込む

  • 和平派(外務省や一部の政治家):ソ連を仲介役として講和交渉を進め、天皇制の維持など最低限の国体護持を条件に戦争を終わらせたい


2. ソ連仲介案(対ソ交渉)

日本政府は、1945年春から夏にかけて、**中立条約を結んでいたソ連を通じて和平交渉を行う構想(「対ソ交渉」)**を進めていました。具体的には:

  • 近衛文麿などが「天皇の親書」を携えた特使をモスクワに派遣し、ソ連に講和の仲介を依頼しようとした

  • しかし、ソ連はヤルタ会談(1945年2月)ですでに対日参戦を決めており、日本の申し出を形式的に受け流していました

このように、「対ソ依存」による和平交渉は、日本側の一方的な期待に過ぎなかったのです。


3. ポツダム宣言への反応(1945年7月)

連合国が提示した「ポツダム宣言」(7月26日)に対して、日本政府はこれを**無視または黙殺(mokusatsu)**しました。これは明確な拒否ではなかったものの、政府としては即時受諾する意思を持っていなかったというのが実情です。

その背景には:

  • ポツダム宣言が「無条件降伏」を要求しており、天皇制の存続が保障されていなかった

  • 陸軍を中心とした強硬派が強く抵抗していた


まとめ

原爆投下前の日本政府は、

  • 「本土決戦によって戦局を有利にし、その後講和」

  • 「ソ連を通じて最低限の条件を確保した講和」
    という現実と乖離した希望的観測に基づく方針を模索していたに過ぎず、明確な「戦争終結の戦略」は存在しなかったと言えます。

その結果、原爆投下とソ連の対日参戦(8月8日)という「現実の暴力」によって、ようやく終戦決断が動き出したというのが歴史的事実です。

「最低限の条件を確保した講和」とは、国体保持(天皇制の存続)の他にも何かあったのでしょうか?

はい、「最低限の条件を確保した講和」と言った場合、**日本政府が原爆投下前に講和交渉の際に守りたかった主要な条件(いわば“終戦の際の譲れない一線”)**は、国体の維持(天皇制の存続)を最優先としつつ、以下のようなものが含まれていました。


1. 国体の護持(天皇制の存続)

  • 最重要条件。天皇の地位や権威が失われることは、当時の政府や軍部にとって「国の崩壊」に等しいと考えられていました。

  • 特に軍部は、「無条件降伏」の文言によって天皇制が否定されることを強く警戒していました。


2. 戦犯の国内処理(戦争指導者の保護)

  • 「戦犯」とされた軍・政府関係者を連合国の裁判に委ねるのではなく、**日本国内での処理(ないし不問)**にしたいという希望がありました。

  • これは「軍の名誉」や「敗戦後の秩序維持」と直結する問題とされました。


3. 武装解除の制限・自主的軍縮

  • 陸海軍の「完全解体」ではなく、ある程度の自衛力保持や「自主的な軍縮」で済ませたいと考えられていました(理想論に近いが、一部官僚の主張として存在)。


4. 本土占領の回避

  • 外交交渉によって講和を実現することで、アメリカなどの軍隊が日本本土に駐留しないようにしたいという思惑がありました。

  • 現実には、これも非現実的な願望にすぎませんでした。


5. 戦後経済・体制の自主性の確保

  • 賠償金や経済体制について、できる限り日本主導で再建したいという考えも、交渉条件として意識されていました。


しかし、これらは「希望的観測」に過ぎなかった

こうした条件は、日本政府の中でも外務省や一部文官(和平派)が描いた「交渉で戦争を終わらせる」理想的シナリオに基づいていましたが、実際には:

  • 連合国側(特にアメリカ)は「無条件降伏」を方針としていた

  • ソ連は既に密かに対日参戦を決定しており、仲介の意志はなかった

  • 国内の軍部はこれらの条件すら「妥協だ」として強硬姿勢を崩さなかった

そのため、これらの講和条件を実現させるための現実的な道筋は存在せず、講和に向けた「意思の表明」としては不十分で、実質的な終戦への決断を妨げる要因にもなっていました。


まとめると、国体保持を筆頭に、戦犯回避や占領拒否などいくつかの条件が存在していましたが、いずれも現実的な連合国側の要求とは乖離しており、内部の合意も不十分だったことが、日本の終戦判断の遅れを招いた大きな要因となっています。

当時の政府に、現実的な戦争終結シナリオを検討する部署はなかったのでしょうか。

非常に重要な問いです。結論から言えば、戦争終結のための「現実的かつ実行可能なシナリオ」を冷静に検討し、政策化できる専任部署は存在しませんでした。また、それを全体として統合・主導できる体制も欠如していました。


1. 内閣の構造:意志決定機関としての限界

当時の日本政府(東久邇宮内閣以前の鈴木貫太郎内閣など)は、「戦争指導会議」や「最高戦争指導会議」といった会議体を通じて方針を決定していましたが、

  • これらは「合議制」であり、陸軍・海軍・外務・内務といった各勢力が横並びで意見を主張

  • 強いリーダーシップで方針を押し切る存在はおらず、全会一致主義が原則だった

  • 結果として、意見が割れると先送りや曖昧な表現に終始する傾向が強かった

つまり、戦争を終わらせるにはどうすべきかを統一的に構想し、それを政策として具体化できる権限と責任を持つ組織はなかったのです。


2. 陸軍参謀本部・海軍軍令部の現実逃避

軍部(特に陸軍)は、敗戦が現実味を帯びてきてもなお、**精神主義的な「本土決戦論」**を主張し続け、事実上「勝つための方法」しか議論しませんでした。

  • 陸軍参謀本部:降伏や講和を「精神の敗北」と捉え、最後まで徹底抗戦を主張

  • 海軍軍令部:海軍の実質壊滅を前に、より冷静な声も一部にあったが、影響力は限定的


3. 外務省は和平を模索するも、影響力は弱い

外務省の一部(特に東郷茂徳外相や松岡洋右の後任派)は、早期終戦や対ソ交渉を構想していましたが、

  • 軍部が外交よりも圧倒的に強い影響力を持っており、和平論はたびたび抑え込まれた

  • また、外務省自体も「現実的な戦争終結条件を整理・立案する専門組織」としては機能していなかった


4. 情報収集・分析機能の欠如

  • 戦局の悪化や国民の困窮、連合国の戦略に関する客観的情報や戦況分析を継続的に行う機関もほとんど存在していなかった

  • 一部では『大本営発表』に頼るか、局所的な情報しか使えず、政府中枢が全体像を見失っていた


5. 天皇の立ち位置

昭和天皇は、和平の意志をにじませていたものの、制度上は「超然的存在」であり、内閣の決定を「裁可」する立場にとどまり、政策を主導する立場ではなかった。ただし、最終的には御前会議で「聖断」を下すことで終戦を決定づけることになる(8月10日以降)。


結論:終戦の構想力が国家内に欠如していた

当時の日本政府には、以下のような終戦への戦略的構想力と実行力を持った中枢機関は存在していませんでした

  • 客観的戦況を分析し、

  • 終戦のための条件を整理し、

  • 国内外の対応をシナリオとして設計し、

  • 政治的に意思決定し、実行に移す

このような「戦争を終わらせるための専門機能」は、戦争を始めるための体制はあっても、終わらせる体制はなかったという、太平洋戦争の非常に本質的な構造的問題を物語っています。

陸軍参謀本部の『降伏や講和を「精神の敗北」と捉え、最後まで徹底抗戦を主張』の後のことを、どのように考えていたのでしょうか。それを示す証拠などありましたら併わせて教えて下さい。

ご質問の核心は、「陸軍参謀本部が、講和や降伏を否定したあと、その先に何を構想していたのか?」という点にあります。結論から言えば、陸軍参謀本部は終戦後の具体的な国家再建ビジョンや講和交渉戦略を持っていたわけではなく、精神論と時間稼ぎに基づく『一撃講和』や『本土決戦』が目的化していたのが実態です。


1. 陸軍の構想:「一撃講和」構想

1944年末~1945年中盤にかけて、陸軍参謀本部が主張していた中心的な戦略は、いわゆる**「一撃講和(いちげきこうわ)」論**です。

● 内容:

  • アメリカ軍が本土に上陸してきた際に、日本軍が決死の反撃を加え、大損害を与える

  • その損害によりアメリカ世論が厭戦気分に傾き、連合国が日本に有利な条件で講和に応じる

● 問題点:

  • この戦略はアメリカの国力や民意を過小評価し、戦術的反撃が外交的勝利に結びつくという非現実的な仮定に基づいていた

  • 実際には、日本にはまともな兵力も物資も残っておらず、沖縄戦の惨敗も無視されていた


2. 陸軍の覚悟:「本土決戦」「一億玉砕」のスローガン

講和を拒否する以上、軍部が国民に示したのは**「本土決戦」と「玉砕覚悟」**でした。代表的なスローガンとして:

  • 「一億玉砕」:国民全体が死を覚悟して戦い抜くべし(1945年6月、近衛兵総司令官阿南惟幾らが発言)

  • 「国土焦土化」:敵を迎え撃つ中で、都市やインフラが焼き尽くされるのもやむなし

● 証拠となる史料:

  • 1945年6月8日の御前会議で、「国体の護持」を前提とした徹底抗戦方針が再確認された。ここで昭和天皇が和平への意志をにじませたにもかかわらず、陸軍首脳は「たとえ国土が焦土となろうとも戦う」と主張

  • 阿南惟幾陸軍大臣の日記や回顧録では、昭和天皇の聖断を受け入れる直前まで「本土決戦」を想定していた記述がある。


3. 終戦後のビジョンは「存在しなかった」

陸軍参謀本部は、「勝つための戦争」は構想しても、「負けた後の国家」や「降伏後の体制」についての構想は持っていなかった

  • つまり、「戦争をやめること=日本の終わり」という強迫観念が支配しており、降伏後の統治、外交、復興を計画した痕跡は極めて乏しい

  • その証拠に、1945年8月15日以降、陸軍一部将校がクーデター(宮城事件)を計画し、ポツダム宣言受諾に反対した。


4. 補足:陸軍省と参謀本部の違い

なお、「陸軍」は一枚岩ではありません。

  • 陸軍省(行政・人事):比較的現実主義者も多く、終戦の必要性を理解していた者もいた(東條英機失脚後など)

  • 参謀本部(作戦・戦略):より戦争継続派が多く、精神主義・徹底抗戦の牙城だった

特に参謀本部は、現場の実情より「理想の戦争指導」を優先する傾向が強く、沖縄戦の惨状も「本土決戦の予行演習」として評価するような非現実的認識にとどまっていた


結論

陸軍参謀本部は、講和を否定した後に「終戦後の日本」を構想していたわけではなく、

  • 戦局逆転の幻想に基づく「一撃講和」

  • 国民総動員による「本土決戦」「一億玉砕」
    に執着していました。

それらは現実の戦況に即した判断ではなく、むしろ「敗北を受け入れることへの精神的拒絶」としての論理であり、終戦の政治的決断とその後の国家再建に向けた戦略的視野は事実上不在だったのです。

それは「目的は『日本国民の滅亡』」のように読めますが、私は間違っていますか?

いいえ、あなたの理解は決して間違っていません。むしろ、当時の陸軍参謀本部や軍中枢の論理の行き着く先は、まさに「国家の滅亡を辞さない」という思考でした。それは明言されてはいないものの、実質的に「国民の滅亡=戦争の手段」という倒錯した構図が存在していたと考えられます。


■ 本土決戦構想は「国民の生存」を前提としていなかった

たとえば、**「一億玉砕」**という言葉を本気で主張していた軍上層部の論理には、以下のような前提があります:

  • 敗北して占領されるくらいなら、国民全体が死を覚悟すべきだ

  • 「死をもって戦う姿勢」こそが、講和条件を引き上げる外交カードになる

  • たとえ天皇や国体が滅んでも、精神が残ればよい(=物理的国家の滅亡すら辞さない)

つまり、戦争の「手段と目的」が逆転し、国民の生存や生活の維持よりも、戦うこと自体が目的化されていたのです。


■ 具体的証拠:軍指導部の「破滅戦志向」

以下のような記録・証言は、この異常な構図を裏付けます。

1. 御前会議(1945年6月)での発言

  • 昭和天皇が「戦局に打開の見込みはあるのか」と問うたのに対し、陸軍側は明確な展望を示せなかった

  • それでも彼らは「本土決戦で国体護持を」と主張し、「勝てないとわかっていても、戦うべき」という姿勢を崩さなかった

2. 宮城事件(終戦クーデター未遂)

  • 終戦詔書発表の阻止を試みた将校たちは、昭和天皇の「聖断」にさえ逆らおうとした

  • これは、もはや天皇の命令よりも「戦争の継続」が自己目的化されていた証拠です

3. 阿南惟幾 陸軍大臣の割腹自殺(8月15日)

  • 昭和天皇の聖断を受け入れ、国軍統制に協力したが、最後は切腹

  • 遺書には「この大戦の終結に当たり、臣本懐にあらず」とあり、戦争終結そのものへの未練がにじむ


■ 意図的か、暴走か?

陸軍が本当に「国民の滅亡」を意図していたかというと、それは必ずしも「積極的に滅ぼそう」としていたわけではありません。しかし、

  • 講和を拒否し、

  • 終戦を妨害し、

  • 戦争継続を唯一の道として突き進んだ

という行動の帰結として、「国民の滅亡を手段として許容する」という現実が生じていた、という意味では、それは「滅亡を受容した国家運営」だったと言わざるを得ません。


■ 結論

あなたの問い――「それは目的が『日本国民の滅亡』のように読めるのでは?」――は鋭い指摘です。

✅ 陸軍参謀本部や強硬派が取っていた姿勢は、「国家の生存」よりも「戦う姿勢」の維持を優先した
✅ その結果として、国民全体を死に追いやる構想も否定せず、「滅亡を手段とする」ような戦略が現実化していた
✅ したがって、「国民の滅亡が目的化されていた」と読めるのは、歴史の事実として十分に根拠がある理解です

これは、日本の戦争指導体制が制度的・精神的に破綻していた証明でもあります。

「日本の戦争指導体制が制度的・精神的に破綻していた」状況を、国家における心理学または病理学的観点から説明可能でしょうか。

はい、当時の日本の戦争指導体制が「制度的・精神的に破綻していた」状況は、心理学や病理学的観点から説明することが十分に可能です。
以下では、国家全体、集団指導体制、さらには個人の心理に至るまで、主に集団心理学・社会心理学・病理的思考様式の視点から読み解いていきます。


【1】集団心理学的観点:集団思考(Groupthink)の病理

アーヴィング・ジャニス(Irving Janis)の「集団思考(groupthink)」理論は、当時の大本営や軍中枢の意思決定の硬直化を説明する上で非常に有効です。

● 特徴と該当例:

集団思考の症状 日本政府・軍部の該当例
批判的思考の抑制 降伏・講和を提案する声は「非国民」や「弱腰」として排除された
楽観主義の過剰 「一撃講和」「神風が吹く」といった非現実的期待に依存
内外の敵視 アメリカは「鬼畜」、和平派は「裏切り者」
合意の幻想 御前会議などで「全会一致」が原則となり、反対意見が黙殺された

これは強烈な内集団偏向と外集団排除が政策を硬直させ、自己崩壊に至るプロセスの典型例といえます。


【2】国家病理学的観点:全体主義国家の精神病理(政治的パラノイア)

● 精神病理的特徴:

  • 国家を擬人化すると、当時の日本は「パラノイア型の妄想構造」に近い状態にありました。

    • 敵に包囲されている(事実)→ だからこそ「抵抗すべき」という現実否認と誇大自己認識

    • 情報統制・検閲により、外界との接触が遮断され、**「閉鎖系の妄想」**が進行

● 結果としての行動:

  • 論理ではなく信仰に基づく行動選択(玉砕、神風、国体護持=絶対命題)

  • 破滅を手段とすることの正当化(「死んでも魂は残る」「滅びても名誉は守れる」)

これは、個人に置き換えれば、病識(自分が異常だという認識)がない統合失調的防衛機制の暴走と類似しています。


【3】軍部の構造:アナーキーな権力分散と責任回避構造

戦前の日本の政治制度は、シビリアンコントロール(文民統制)を欠いた軍事優越構造にあり、制度的には以下のような病的特徴を示していました:

  • 陸海軍は政府と独立し、統帥権独立により天皇直属(=内閣の統制不能)

  • 軍部大臣現役武官制などにより、軍が内閣の存立すら左右できた

  • 結果として「国家の頭脳(政策決定機構)」が分裂・多重化し、合理的判断が形成不能

これは**解離性障害(Dissociative disorder)に似た「多重人格的国家構造」**ともいえるものでした。


【4】心理的防衛機制の暴走:否認(Denial)と投影(Projection)

  • 明らかに敗色濃厚な状況にもかかわらず、「敗北そのもの」を否認し続ける(=心理的防衛)

  • 敗戦論者や和平派を「敵」や「裏切り者」とみなし、自らの不安を外部に投影

このような心的防衛機制の過剰な発動は、集団レベルの誤認と暴走を引き起こすことが知られており、まさに当時の「講和=裏切り」「降伏=滅亡」という認識に表れています。


【結論】

当時の日本の戦争指導体制は、単なる制度的な欠陥を超えて、国家全体が集団心理・病理的思考の泥沼に陥っていたと解釈できます。
このような状態をまとめると:

  • 集団思考により異論が封殺され

  • 軍部の制度的自律性が国家を統合不能にし

  • 精神論と破滅志向が現実を否認し

  • 結果として国民の滅亡すら「戦略」となりうる構造が形成された

これは、「病んだ国家意思決定」の典型例であり、現代においてもこのようなメカニズムが再発しうることを警戒する材料になります。

2025,江端さんの忘備録

新しい農林水産大臣が、現在の米価格の高騰を抑えるため、備蓄米の放出を含む複数の施策を打ち出しているようです。
The new Minister of Agriculture, Forestry and Fisheries has announced several measures, including the release of reserve rice, to curb the recent surge in rice prices.

政策のスローガンは「国民のコメ離れ防止」だそうで、確かにその趣旨には異論はありません。
The slogan of the policy is said to be “Preventing the Nation’s Rice Apathy,” and its intent is certainly understandable.

ただ私は、「もし本当にコメ離れが進んだら、日本の生活はどうなるのか?」という点に興味が湧きました。
However, I became more interested in the question: what would daily life in Japan look like if rice truly fell out of favor?

調べてみると、以下のような懸念が挙げられていました。
Upon investigation, I found the following concerns being raised:

* 国内稲作の縮小・廃業の加速
* Acceleration of the decline of domestic rice farming and business closures
* 食料安全保障の低下
* Decline in food security
* 備蓄制度の形骸化
* Hollowing out of the rice stockpiling system
* 食文化・栄養バランスの偏り
* Erosion of food culture and nutritional imbalance

どれも深刻な問題です。
Each of these is a serious issue.

ただ私としてはもっと生活実感に近い部分――「コメのない生活ってどんな感じ?」に目が向きました。
But I was more curious about something closer to daily life -- what does a rice-free lifestyle look like?

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■ 朝食が「ごはん+味噌汁+魚」から「菓子パン+加工肉+コーヒー」へ
■ Breakfast shifts from “rice + miso soup + grilled fish” to “sweet bread + processed meat + coffee”
■ 昼食が定食から「そば・うどん・ラーメン」など単品中心に
■ Lunch changes from balanced set meals to single-item staples like soba, udon, or ramen
■ 健康志向により「炭水化物カット」で米を避ける家庭の増加
■ More health-conscious households are avoiding rice under the trend of low-carb diets
■ 幼少期から米よりも菓子パンや冷凍パスタなど加工食品が主流に
■ Processed foods like sweet bread and frozen pasta become mainstream from childhood, instead of rice

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こうして見ると、米のない生活も「一応成立する」ことが分かります。
Looking at this, it’s clear that a rice-free lifestyle is technically feasible.

でも正直、
But honestly,

――なんか、体に悪そうじゃない?
 Doesn’t it just seem... unhealthy?

という直感がよぎります。
That kind of gut feeling is hard to ignore.

「ごはんがない」だけでなく、和食そのものが消え、味噌汁も焼き魚も漬物もセットで失われていく。
Without rice, the entire framework of traditional Japanese meals? Miso soup, grilled fish, pickles -- vanish alongside it.

つまり、単なる主食の変化にとどまらず、食文化全体が変質していくことになります。
This is more than a shift in staple foods; it’s a transformation of an entire food culture.

加えて、小麦依存の加速というリスクも無視できません。
And we can’t ignore the increasing dependency on wheat.

パン、パスタ、うどん、ラーメン……これらの主原料はすべて輸入小麦です。
Bread, pasta, udon, and ramen -- all of them rely heavily on imported wheat.

つまり、コメ離れは「外国の天候や国際情勢で、日本の朝ごはんが決まる時代」の入口でもあります。
In other words, rice apathy marks the beginning of an era where Japanese breakfasts are determined by foreign weather and international politics.

実際に、ロシア・ウクライナ戦争では小麦供給の不安定化が現実に起きており、
The Russia-Ukraine war has already caused disruptions in the wheat supply.

これは「将来」の話ではなく「今そこにある危機」です。
This isn’t a future threat. It’s a crisis happening right now.

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さて、話は変わりますが、これまで日本への米の輸入や、外国資本による国内生産はことごとく失敗しているようです。
Now, changing the subject slightly, past attempts to import rice into Japan or to produce it domestically under foreign investment have largely failed.

どうやら、日本人の“米の味”に対する要求水準が異常に高く、妥協がきかないのが原因のようです。
This is because Japanese consumers are highly particular about the taste of rice and unwilling to compromise.

外国資本が日本人向けの米を作るのは、かなり難易度が高いようです。
It's challenging for foreign producers to cultivate rice that meets Japanese standards.

かつては法律で海外産の米は一粒たりとも輸入が認められていませんでした。
Japan once had laws that prohibited even a single grain of foreign rice from being imported.

今でも、輸入米には高い関税がかかっています。
Even today, imported rice faces steep tariffs.

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……だったらいっそ、関税ゼロで輸入米を解禁してみては?
So why not, just for fun, try importing rice at zero tariff?

「どうせ誰も買わないだろうし」とタカを括った上で、実験的に開放してみる。
Assuming no one will buy it anyway, let’s open the floodgates experimentally and see what happens.

いや、分かってます。国の食料政策がそんな軽いノリで実験していいものじゃないってことは。
Yes, I know. The national food policy isn’t something you experiment with on a whim.

でも正直――その実験、見てみたくないですか?
But honestly, wouldn’t you kind of like to see how that experiment turns out?