私のパスワードは、長い間、「100年後の私を誰が知ろうか」を英語にして、その頭文字を取ったものでした。
「100年後の私を誰が知ろうか」の意味は、「だから、誰にどんな批評をされようとも、100年後には、私を含めて、その人達は一人残らず消えてなくなる」
―― だから、自分の行動基準に「人の目」を入れるのは止めよう。人の目を気にする生き方は止めよう。
という話を友人にしたことがあります。
しかし、彼は、「アホか」という目で、私を一瞥した後で
「その『100年間の評判』が大問題なんだろうが」と言いました。
私は、「あ、そういえば確かにそうか」と妙に納得したことを覚えています。
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昨日記載した、中島みゆきの「永久欠番」ですが、早速聞いてみました。
私は、上記のように「100年後」の概念には辿りついていたのですが、「100年前」という観念には届きませんでした。
さすがは、我が国が誇る歌姫です。
まあ、それはさておき。
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これまで、何度も書きましたが、私の信念は
「いつかどこかで、誰かが、私を、待っていない」
です。
「誰かがあなたを見ている」とか「誰かがあなたを愛している」とかいう歌が、嫌いなのです。
なぜか。
嘘だからです。
そんな「誰か」は、世界のどこにもいません。
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「永久欠番」は、「いつかどこかで、誰かが、私を、待っていない」を強く肯定しつつ、しかし、それでも、歌の最後のフレーズで、唯一の例外を提示しています。
多くの人は、この歌の最後のフレーズを、宗教的な救済と解しているようですが、私の解釈はちょっと違います。
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私は、「宇宙で、ただ一人、私だけは私を待っている」―― と、解釈したい。
分子のレベルで、自分の身体が土壌の中で分解し、
原子のレベルで、自分の精神が宇宙の熱量死の中で消え去ろうとも、
―― 時間と空間の行き尽く最後で、私は私を待っている
のである、と。
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時間と空間の、果ての、果ての、果てにおいても、
「自分に抱きしめて貰えるように」
そういう風に、私は私を生きたい、と思うのです。