江端さんのひとりごと 「正しいデモのやりかた」

2024年12月30日

江端さんのひとりごと

「正しいデモのやりかた」

Sun Feb 4 19:02:12 JST 1996

私の人生の中で、「これだけは、誰もがおいそれとは出来ないだろう。」と自信を持 って言うことのできる体験があります。

学生デモです。

学生さんにプレゼンテーションをする、というデモではありません。と言うと、ふざ けているように思われるかもしれませんが、あながち冗談で言っている訳でもないので す。なにしろ最近では、「デモ」と言う言葉自体、知らない人が多いようですから。

正しい言い方ではないのですが、手っとり早く言うと、学生が機動隊と衝突して石や 火炎瓶を投げたり、大学の学長室を占拠したりして、自分達の意志を表示し、正しい( と彼らが信じている)世の中にしようとする学生達による『世直し』行動です。

もっとも、酷いのになると思想的に対立しているグループ(セクト)どうしで殺し合 いをしたり、山の中に殺した同志を埋めたりするとんでもない奴らもいます。これは「 デモ」ではなく「テロ」と呼ばれるものです。しかし、60年や70年安保闘争の時と は違い、私が大学に在学していたころの学生運動の多くは、極めて平和的な抗議行動で した。

ガリ版で書いたビラを配ったり、拡声器でアピールをしたり、過激な抗議行動と言っ ても十数人の学生が隊列を組んで、道路のど真ん中でジグザグにデモをするくらいのも のです。で、「かまぼこ」と言われる機動隊の装甲車から巨大なスピーカーで注意を受 けるわけです。

「道路中央でのジグザグデモを止め、直ちに解散しなさい。繰り返します。ジグザグ デモを止め、直ちに解散しなさい。君達の行動は、道路交通法××条○項に違反してい ます。解散しない時には、諸君らを検挙します。」

警察は「写真班」と言われる私服の警官を紛れ込ませて、カメラを抱えてデモ隊の回 りをうろちょろと走り回っています。これは、いざ検挙!となり告訴→公判の時に証拠 として使うためです。学生だってばかじゃありませんから、サングラスとタオルとヘル メットで、あの独特の変装をすることになります。しかし、さすがにあのかっこう。随 分嫌われたようで、フルフェイスメットでデモに出ていた人もいたようです。

でも、結局検挙はされなかったし警察もそのつもりが無いみたいで、今になって思う と、一種の儀式と化していたような気がしますけど。

これらの学生による抗議運動は、同じ仲間であるはずの学生からも無視、あるいは嫌 悪を持って迎えられる事が度々ありました。しかし大学当局の独断的で理不尽な決定、 例えば移転問題、授業料値上げ問題等を、同じ土俵で話し合う場所を与えたのですから 、私は高く評価して良いと思っています。

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ところで、意外に知られていないのですが、学生運動にも様々なバリエーションがあ ります。例えば、最も過激なセクトでは暴力による権力の奪還、すなわち革命を目指す ものから、ボランティアグループ等による比較的静かな抗議行動まで様々です。

私は大学に入学してから2年間、学寮であるS寮に住んでいました。生活費を考える と、とても下宿やアパートに住む事は出来そうになかったので、私の弁術の限りを尽く して、何とか自治入寮選考にパスしました。

実はこのS寮、70年安保の時代に、大学当局から自治権を獲得して、学生のみによ る自治管理をしてきた寮でした。ことあるごとに当局と対立し反目を続け、大学の学生 運動の砦として機能してきました。

自治寮であるS寮では、学生自身によって自発的に独自の学習会が行われていました 。主な項目は、「教育問題」や「差別問題」などで、具体的には、中教審、臨教審、管 理教育、部落差別、男女差別、天皇制などなど。この他、関西学研都市構想批判、文部 省大学補助金制度批判など多岐に渡っていました。また酒税法批判を兼ねて、寮祭のと きには「どぶろく」を作ったりもしていましたし、人権運動をしている弁護士を呼んで 公演会を開いたりもしていました。

しかし、「レーニン」「スターリン」「トロツキー」なんぞは、ついに出てきません でした。そういう意味での思想的背景は全く無く、常に権力や体制批判に終始していま した。

このような日常的な学習のおかげで、個人では到底不可能であろうと思われる規模の 、おそらくは何百冊の書物に相当する、生きた知識を得る事ができたように思えます。 そして何よりも、「人権」と「平等」と言うものを、単に字面でなく、血肉の知識と して理解出来た事を、とても幸運なことだと思っています。

そしてこの「人権」と「平等」の考え方が、やがて私に料理を学ばせ、漂白剤を使わ せ、ボタン付けの技術を向上させることになり、さらに2年後にはS寮を出ていく事を 決意させることになりますが、これはいずれまた。

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さて、デモを行うときにはいくつかの注意点があります。

何と言っても、自分達はこんなに反対しているんだ、怒っているんだと相手に知らせ る為には、できるだけ多くの人数で人目を引くパフォーマンスを行う必要があります。 できれば、ついでに人的被害を与えず敵をやっつけてしまえる、「平和的な破壊活動」 があれば言う事ありませんが、せいぜい拡声器による抗議文の朗読、大学旗、寮旗を掲 げての抗議行進、道路ど真ん中でのジグザグデモがせいぜいでしょう。

また警察が常に張っていますので、面が割れないように変装グッズを用意する事も 必要です。お面やコスプレの様に楽しいものにすると、敵に怒りが伝わりません。やは り、60年安保闘争より由緒正しきユニフォーム「タオル」「ヘルメット」「サングラ ス」で身を固めます。

女性もスカートではなく、今日だけはジーパンを履き、靴はできるだけ大きくて固い 「登山靴」あるいは「安全靴」が望ましいです。と言うのは、小競り合いのどさくさに 紛れて、機動隊員がジェラルミン盾で足の甲の骨を砕いたりするからです。70年安保 では、通りがかりのスカートとパンプスの女性がデモ隊に加わったと言う凄い話を聞い た事があります。当時は、大衆の政治に対する意識がいかに高かったか解るというのも のです。

そして、決してデモをするときには本名で呼び合わないことが大切です。警察にチェ ックされたら終わりですので「組織名」と言う呼び名を各個人で用意しておきます。

ちなみに私は「西田」と言う組織名でした。

この他、検挙されたときには人権110番と呼ばれる団体の弁護士を呼ぶこと、尋問 には完黙(完全黙秘)で対応する事など、とまあ色々あるのですが、とても書ききれそ うにありません。これも機会があればいずれお話する事にいたします。

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大学一年生の秋、私は学費値上げに対するデモを行うために、S町キャンパスに行く ように先輩に言われました。先輩は、私にもっと積極的にデモに出るように言いました が、私は、私の心が震えない運動への参加は、消極的に支援するに止めてきました。

しかし、当時、学費と生活費の両方をアルバイトで稼いで、やっとこさ生活していた 私は、「学費値上げ問題」で、巨大な怒りの火の玉と化しました。しかもその理由が、 ほとんど何の必要もない「大学移転」の為に使われることだったこと。そしてなにより その値上げが「来年の入学者から適用される。」と言う姑息な方法だったことです。そ れは、在学中の学生の反発を免れようとする、まあ本当にダーティなやり方でした。

そんな訳で、私は私の人生においてもたった一度だけ、心の底から真剣に取り組んだ デモを体験する事になります。

秋がもうすぐ冬にさしかかろうと言う少し冷え込むどんよりと曇った寒い朝。自治会 及び大学の9つの自治寮、サークル団体などからやってきた、およそ100人の有志の 学生達はS町キャンパスに結集。

それぞれが自分の所属する団体のヘルメットとタオルで顔を隠し、固まって待機して います。皆、顔は見えませんが、ぴーんと張りつめた空気の中、緊張した面もちで集会 を始めました。この集会の後にデモを行う事になっていました。

校門の付近には警察官が数十名、装甲車が1台待機しています。ジェラルミン盾とヘ ルメットで武装した警察官も10名ほどいたようです。

しかし、そんな衝突前の学生と警察の緊張が極限まで高まった雰囲気の中、状況を全 く理解していない、新参者の痴れ者がいました。

私です。

サングラスをするだけのいい加減な変装で、物珍しそう警察官が集まっている方に行 って『おお、来ている。来ている。』と言ってみたり、集会に集まっている知り合いを 探したりして、全然落ちつきがありません。

うろうろと辺りを歩き回っているうちに、集会の人混みの端の方に、同じ寮の先輩で ある田中(仮名)さんを見つけました。

「あ、田中さんだ。おお~い、田中さん~」

と田中さんを呼んだのですが、田中さんはこちらの方を気づかない様子のようでした。 私はさらに声を大きくして、

「たなかさ~~ん。た・な・か・さ~~ん。聞こえませんかぁ~~」

田中さんは、全く何も聞こえていない様に、集会している場所を背にして歩き始めまし た。どこに行くんだろうと、不審に思った私は、

「たなかさ~ん、どこに行くんですか。おおーい、たなかさん。たなかさん。」

と田中さんを連呼しながら、小走りに田中さんに近づいて行きました。

警察の集まっているところからは、丁度死角になっている建物の柱の蔭から、私を招 きよせる田中さんの手が見えました。

私が柱の蔭に行くと、もの凄い怒りの形相でたっている田中さんがいました。

そして間髪入れず、「バキッ!!」と頭の骨が折れるかと思うくらいの、すさまじい 拳骨を喰らいました。

息が止まるかと思うくらいの痛みで、しゃがんでうずくまってしまった私。

頭を抱えながら痛みに耐えて、上目使いに田中さんを見上げて言いました。

「な、何をするんですか~ぁ。」

と恨めしそうに訴えると、田中さんは怒りの表情を緩めず、地声を出さないように注意 しながらも、大きく口を開いて激しい勢いで、怒鳴るように言いました。

「本名で呼ぶんじゃない!!!!」

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その後、自治会は「72時間時限バリケードストライキ」、別名「72バリスト」に 突入、72時間の期限付きで大学構内をバリケード封鎖しました。

しかし、このような運動も虚しく、大学当局の思惑通り、この「授業料値上げ反対闘 争」は大衆的運動に発展する事はなく、授業料値上げは予定通り実施されることになり ます。

大学1年の初冬のことでした。

2024年12月30日未分類

Posted by ebata