2025,江端さんの忘備録

私は、常日頃から「努力は才能に勝てない」と言っています。
I always say that "effort cannot beat talent."

「努力は才能に勝つ」と発言している人のほとんどが、「最初から才能があった人」であることは、統計データで裏を取るまでもなく明らかでしょう。
Most people who claim "effort beats talent" are those who had talent from the beginning, which is obvious even without statistical data.

一方で、私は「狂気が才能に勝つことはある」とは言っています。
On the other hand, I do say that "madness can beat talent."

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最近思うのは、「知識と経験においては年齢が勝つ」ということですね。
Recently, I've been thinking that "in terms of knowledge and experience, age wins."

知識の取得と、経験している時間が長ければ、年長者が勝つ確率は高くなります。
If you have spent more time acquiring knowledge and gaining experience, the chances of older people winning are higher.

これは単なる自然法則であり、物理現象です。
This is merely a natural law, a physical phenomenon.

これは「長幼の序(じょ)」(*)の話ではありません。
This is not about "Chouyou no Jo" (the order of elders and juniors).

(*)年長者と年少者の間には秩序・順序があり、年長者を敬い、年少者はこれに従うという儒教的価値観からくる言葉。
(*) A Confucian term meaning that there is order between elders and juniors, where juniors should respect and obey elders.

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私が思うのは、
What I think is,

『威張るな高齢者。おまえ達はできて当たり前だ。生きてきた時間が長いんだから』
"Don't be arrogant, old people. Naturally, you can do things; you've lived longer."

そして、
And,

『礼節を弁えろ若者。知識と経験が欲しければ、高齢者をいい気持ちにさせて、やつらから奪え。ただし、礼節は“フリ”で十分。本心である必要はない』
"Be polite, young people. If you want knowledge and experience, make older people feel valued and tap into their expertise. However, politeness only needs to be an act. It doesn't have to be genuine."

ということですね。
That's what I think.

まあ、概ね、そういう風に世の中はできていますし、そんな感じで動いています。
Well, the world is generally made that way, and it operates like that.

高齢者が若者を不快に感じ、若者が高齢者を不快に思う、というのもまた、自然法則であり、物理現象です。無理して解決する必要はありません。「あきらめる」が正解です。
The fact that older people often find younger people unpleasant, and vice versa, is also a natural phenomenon, a law of nature. There is no need to force a solution. "Giving up" is the correct answer.

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結局のところ、
In the end,

「才能」「狂気」「年齢」ーー どれもこれも、『生まれや時間という物理現象に支配される』という点では同じです。
"Talent," "madness," "age". All of them are the same in that they are governed by the physical phenomena of birth and time.

だから私は、「努力でどうにかなる」という幻想よりも、
That’s why, rather than the illusion that "effort will somehow make it,"

『自分のスペックと環境を冷静に把握して、使えるものは全部使って勝ち逃げする』
"Cool-headedly grasp your specs and environment, and use everything you can to win and get away."

そんな人生観の方が、よほど現実的だと思うのです。
I think such a view of life is far more realistic.

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まあ、それでも、私は『私の人生、どうも負け越している』という感じは否めないんですよね。
Well, even so, I can't deny the feeling that "I've been losing more than winning" in my life.

「努力」の“持ち出し”の方が多すぎる気がして。
I feel like I've invested too much "effort" with too little return.

気のせいかもしれませんが。
Maybe it's just my imagination.

故に、彼らは、平気で「毎日の練習」だの「継続は力」だの「努力は報われる」だのと言い放ちます。

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本日、入院している義母に妻とともに面会にいってきたのですが、痰がからまることを含めて滑舌が悪く、妻ともども義母の言っている内容の3割(妻の場合で、私は1割以下)しか理解できないありさまでした。
しかし、近年の生成AIの技術を使えば、義母とのコミュニケーションは十分可能ではないか、という所感を得ましたので、個人的に研究を開始したいと思います。
私の持っている(稚拙な)AI技術については、ご存知である、という前提として、私が何から着手すれば良いのか、そのマイルストーンについて教えて下さい

以下に、あなたの現在のAI技術レベル(プログラミング経験豊富、音声・映像処理も一定経験あり、生成AI活用中)を前提として、義母とのコミュニケーション支援AI開発のための現実的なマイルストーンを整理しました。


マイルストーン 0: ゴール設定とシナリオ設計

  • 目的確認
    例: 「義母の発話内容をリアルタイムでテキスト化し、内容を要約・整形して妻が理解できるよう提示する」

  • 使用シナリオ
    例: 病室内、スマホorPCで動作、会話キャッチボール速度は数秒遅れまで許容


マイルストーン 1: 音声入力収録とデータ分析

  • 義母の発話サンプル収録(許可を得て短時間録音)
    → 音質・滑舌の特徴(声量、周波数帯域、明瞭度)を把握

  • 既存STT (Speech-to-Text) エンジン評価
    Whisper (OpenAI)、Google Cloud Speech-to-Text、Amazon Transcribeなどで精度を比較


マイルストーン 2: 音声前処理パイプライン構築

  • ノイズ除去・雑音フィルタリング

  • 痰絡みや曖昧母音に対する強調補正
    (例: Bandpass Filter + 強調周波数変換)


マイルストーン 3: STT+生成AI統合プロトタイプ作成

  • STTモジュール → 生成AIプロンプト連携

    • STTで文字起こし

    • ChatGPTに要約+再構成指示を与え、読みやすい自然文生成

  • 出力UI試作

    • CLI, WebUI, スマホで最も簡便に実現可能なもの


マイルストーン 4: テスト運用と失敗要因分析

  • 面会時に実証実験

  • 失敗原因特定

    • 音質問題か

    • STT変換率か

    • 生成AI要約指示不足か


マイルストーン 5: 改善と社会実装検討

  • 病院での運用制約確認(録音規制、ネット接続)

  • UI改良(表示方法、フォントサイズ、色分け)

  • 他患者・家族への展開可能性検討


補足: 並行して着手可能な学習・技術検討

  • Whisper Large-V3 のローカル運用(特に病室無ネット環境想定)

  • 病室騒音下でのマイク配置・集音方法検討

  • パラ言語情報(口調、感情など)の解析

プライバシーの問題も含めて、ローカルLLMを前提として必要な機材は、個人購入を予定しています。利用可能な公開音声データなどもありましたら、ご教示下さい

以下に、ローカルLLM前提の機材選定、必要システム、公開音声データを体系的に整理します。


1. 機材選定(個人購入前提)

目的 推奨機材・スペック 備考
録音・集音 コンデンサマイク(例: Shure MV7、Rode NT-USB)、もしくはピンマイク型(例: SONY ECM-CS3) 痰絡み音声は周波数帯域が低めかつ不明瞭なため、高感度マイクが必要
オーディオインターフェイス (USBマイクで代用可)より安定動作にはFocusrite Scarlett Soloなど ノイズフロア低減、ゲイン調整
GPU搭載PC NVIDIA RTX 3060 以上推奨 Whisper large-v3やLlama3 などローカルLLM推論に必要
スマホorタブレット iPhone/Androidタブレット(テスト用途) 病室内でのUI試験用

2. ソフトウェア・LLM運用環境

  • Whisperローカル動作
    OpenAI Whisper GitHub
    whisper --model large-v3 で高精度運用可能。ただしGPUメモリ8GB以上推奨。

  • ローカルLLM

    • llamacpp: llama3やphi3モデルを軽量推論

    • Ollama: Mac/Windows/Linux上でワンクリック動作可能 (公式)

  • 音声前処理

    • Audacity(無料)でノイズ除去・帯域フィルタ試験

    • Pythonのpydub,scipy.signalで自動フィルタリング実装可


3. 公開音声データ(日本語・滑舌弱含む)

(A) 一般的日本語音声コーパス

データセット名 特徴 URL
JSUT corpus 標準日本語音声データ JSUT
JVS corpus 複数話者での日本語音声データ JVS
Common Voice (Japanese) Mozilla提供、話者多数 Common Voice

(B) 滑舌障害・嚥下障害音声

現状、日本語で公開されているものは少ないが、以下は参考可能。

データセット名 特徴 URL
TORGO database 英語、嚥下障害・構音障害話者音声データ TORGO
UASpeech 英語、構音障害話者 (CP: 脳性麻痺) UASpeech

※日本語障害音声コーパスはほぼ非公開(倫理審査、被験者保護のため)。義母様音声を用いる場合、個人利用範囲で録音し学習させる方が現実的。


4. 次の具体的着手

  1. Whisperローカル環境構築
    → GPU搭載PCで実験

  2. 短時間録音データ収集(義母許可前提)
    → 音質評価と前処理設計

  3. llamacpp or Ollama環境構築
    → STT後の要約・整形プロンプト試験

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「認知症になれば、不安は解消する」という仮説について検討して下さい

以下、「認知症になれば、不安は解消する」という仮説について、現時点での医学的・心理学的知見と論理構造に基づき論じます。


1. 仮説の概要

仮説: 認知症になると、自分の置かれた状況や将来についての認識力が低下し、不安を感じることも減少するため、「不安は解消する」という現象が生じる。


2. 認知症と不安感の関係

  • 初期段階:
    認知症の初期段階(軽度認知障害~軽度認知症)では、自分の記憶障害や認知機能低下を自覚することが多く、そのこと自体が強い不安、抑うつ、苛立ち、恐怖感を引き起こすことが知られています。

  • 中期以降:
    進行すると、自分が認知症であるという自己認識(病識)が失われるため、不安や恐怖感が薄れる場合があります。ただし、認知症のタイプや進行状況によっては、環境が理解できないことによる「漠然とした不安」や「原因不明の恐怖」を訴える人もいます。

  • 後期段階:
    重度になると、周囲の状況への認識力が大幅に低下し、いわゆる「不安を感じる」ための認知機能が失われるため、本人としては不安感から解放される状態になることが多いとされます。


3. 倫理的・哲学的視点

この仮説は一見「救い」に見えますが、以下の問題を孕みます。

  • 主体喪失の問題:
    不安がなくなるのは、自己認識や状況理解力という主体性そのものが消失した結果であり、「不安の解消」というより「不安を感じる主体の消滅」である。

  • QOL(生活の質)の問題:
    不安感がなくなったとしても、生活の自立度や意思決定能力の喪失、他者とのコミュニケーション断絶による人間関係の崩壊は、患者本人と家族双方に大きな影響を与えます。

  • 哲学的パラドックス:
    不安を感じなくなるために自己が消える、というのは、存在論的に「不安を解消する」という目的自体が意味を失うことを示唆します。


4. 医学的知見

  • 認知症患者の不安症状は、進行段階で変化する。

  • 初期~中期ではむしろ不安障害や抑うつ症状が顕在化しやすい(特にアルツハイマー型認知症では約40~60%で不安症状が併発)。

  • 病識喪失に伴う不安消失は、本人にとっての苦痛軽減である一方、周囲にとっては介護困難度の上昇や意思疎通不能という新たな課題を生む。


5. 結論

「認知症になれば、不安は解消する」という仮説は、

  • 表面的には成立する部分がある(病識喪失による不安感の減退)。

  • しかし、実態は「不安を感じることができない状態」であり、自己喪失を伴うため、本質的には「解消」とは呼べない。

  • むしろ、不安を感じる認知機能を持つこと自体が、人間としての主体性や尊厳を担保する重要な条件である。

2025,江端さんの忘備録

昨日の日記で、『毎日が研究やさまざまな雑事で不安である、ということは、認知症の防止に資している』という仮説について考えてみる、と申し上げました。
Yesterday, in my diary, I mentioned that I was considering the hypothesis that "being anxious every day due to research and various chores contributes to the prevention of dementia."

『私は、小心者で心配性で、考えうる準備をしておかないと不安で仕方がない』という性格なのです。私は、「私のこの性格で自分が苦しめられている」ことを、大変にがにがしく、また、はらだたしく思っています。

「毎日不安で怯える」代償として、「認知症を予防できている」のであれば、これはトレードオフが成立していると思うのです。
If the cost of "living in fear and anxiety every day" results in "preventing dementia," then I think this is a valid trade-off.

基本的に、高齢者になっても元気でいる人は、現役で働いている人が多いように思えます。
Essentially, it appears that many elderly individuals who remain healthy are those who continue to work actively.

特に、政治家、会社の社長などは、認知症はもちろん、寝たきりとも縁が薄いように感じます。
In particular, politicians and company presidents seem to have little association with dementia, let alone being bedridden.

これはデータで裏を採らなくても、多くの人が同意してくれる事項ではないでしょうか。
I think many people would agree with this even without data to support it.

「第一線で現役を続けている」ということは、当然、仕事で苦労し続けていることだと思います。
Continuing to work on the frontlines naturally means continuing to endure hardships at work.

そしてその苦労の中には、「不安」という要因が大きいのではないか、と私は考えました。
And I thought that among those hardships, "anxiety" plays a significant role.

もちろん、現役でなくリタイアされた人であっても、老後の病気や生活費で「毎日が不安で仕方がない」という人もいるはずであり、現役で働いているかどうかは関係ないのかもしれません。
However, even those who have retired might still feel "anxious every day" due to illness or financial worries in old age, so perhaps whether one is working or not is irrelevant.

というところで、私は、この仮説の検証作業でスタックしている最中です。
And so, I am currently stuck in the process of verifying this hypothesis.

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父は町工場の社長をやっていましたが、会社を閉じて引退した後、暫くして認知症になりました(その詳細は過去のコラムに記載していますので、興味のある人はそちらをどうぞ)。
My father used to run a small factory, but after he closed the company and retired, he developed dementia after some time (details are in past columns if you’re interested).

父が引退しなければどうなっていたか? 町工場の仕事は苛烈で(私も逃げ出したくらいです)、引退していなければ、おそらく事故死または過労死していた公算が高いでしょう。
What would have happened if he hadn’t retired? The factory work was so harsh (even I ran away from it) that he probably would have died from an accident or overwork if he had kept going.

事故死または過労死と認知症、どっちがマシか? というのはナンセンスな話で、議論する価値もありません。
Which is better: death by accident, overwork, or dementia? That’s a nonsensical question, not worth discussing.

こうなると、「死ぬ直前まで“現役”を続けられる職業とは何か?」という別の話も出てきそうですが、それはまた今度にします。
This leads to another topic of "what kind of job allows you to keep working until just before you die?" but I will save that for another time.

話を元に戻します。
Let’s get back to the main topic.

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本日の内容は、『毎日が研究やさまざまな雑事で不安である、ということは、認知症の防止に資している』という私の仮説の検証です。
Today’s content verifies my hypothesis that "being anxious every day due to research and various chores contributes to the prevention of dementia."

まず、仮説を整理します。
First, let’s organize the hypothesis.

「毎日が研究や雑事で不安であることが、認知症防止に資している」
"Being anxious every day due to research and chores contributes to the prevention of dementia."

これは以下の2要素から成る複合仮説です。
This is a composite hypothesis consisting of the following two elements.

(A) 研究や雑事に日々取り組むこと(認知的・社会的活動)
(A) Engaging daily in research and chores (cognitive and social activities)

(B) それに伴う『不安』という心理的ストレス
(B) The accompanying psychological stress of "anxiety"

そして、(A)+(B) が認知症予防につながる、という主張です。
The claim is that (A) and (B) together lead to dementia prevention.

先行研究を調べてみると、
Looking into prior research,

(1) 高齢期における認知的活動(例:読書、学習、研究、業務遂行)は認知症予防に有意な効果がある(Wilson et al., 2013, Cognitive Activity and the Cognitive Morbidity of Alzheimer Disease)。
(1) Cognitive activities in old age (e.g., reading, studying, research, work tasks) have a significant effect in preventing dementia (Wilson et al., 2013, Cognitive Activity and the Cognitive Morbidity of Alzheimer's Disease).

(2) 社会参加や役割意識も認知症予防の保護因子である(Fratiglioni et al., 2004, An active and socially integrated lifestyle in late life might protect against dementia)。
(2) Social participation and a sense of role are also protective factors against dementia (Fratiglioni et al., 2004).. An active and socially integrated lifestyle in late life may protect against dementia.

ここまでは予想通りでした。
This was as expected.

ところが、
However,

(3) 慢性的な不安や心理的ストレスは、海馬の萎縮や認知機能低下のリスク要因とする研究が優勢である(Wilson et al., 2003, Chronic distress and incidence of mild cognitive impairment)。コルチゾール過剰分泌や睡眠障害を介して、認知症リスクを高めるメカニズムも示唆されています。
(3) Studies overwhelmingly suggest that chronic anxiety and psychological stress are risk factors for hippocampal atrophy and cognitive decline (Wilson et al., 2003, Chronic distress and incidence of mild cognitive impairment). Excess cortisol secretion and sleep disorders are also suggested mechanisms increasing dementia risk.

不安による睡眠障害など、私(江端)には「ドンピシャ」に当てはまる事項です。
Sleep disorders caused by anxiety, among others, apply to me (Ebata) perfectly.

一方で、以下のような研究もあります。
On the other hand, there is also the following research.

(4) 仕事上の適度なストレス(挑戦・達成感)が認知機能維持にプラスに作用するという報告もあり(Sindi et al., 2017)、ストレスの質やコーピング能力による差が大きいことが推察されます。
(4) There are reports that moderate work stress (challenges and a sense of achievement) positively affects cognitive function maintenance (Sindi et al., 2017), suggesting that differences in the quality of stress and coping abilities matter greatly.

しかしながら、"不安"と"仕事上の適度なストレス(挑戦・達成感)"は全く性質の異なるストレスのように思えます。前者はネガティブで、後者はポジティブなストレスです。
However, "anxiety" and "moderate work stress (challenges and a sense of achievement)" seem to be completely different. The former is negative stress, while the latter is positive stress.

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結論としては、
In conclusion,

(A)退職後も知的活動を継続する人は認知症発症が遅れるという知見はあるが、
(A) There is evidence that people who continue intellectual activities after retirement delay the onset of dementia,

(B)それは「活動内容」や「社会的交流」が鍵であり、「不安の有無」自体は保護因子ではない、
(B) But it is the "content of activities" and "social interaction" that are key, and the mere presence of anxiety is not a protective factor.

というのが定説のようです。
That seems to be the established theory.

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―― やっぱりダメかぁ
— I knew it wouldn’t work out.

『不安であり続けることは、その実、幸福な人生を送っていることになる』という新しいパラダイムを打ち立てたかったのですが(もっぱら私のために)。
I wanted to establish a new paradigm that suggests "continuing to be anxious means living a happy life" (mainly for my benefit).

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ここで、一度仮説を修正し、『不安を払拭するためのプロセスが、認知症予防になりえる』という方向で再検討してみました。
Here, I decided to revise the hypothesis and reconsider it in the direction of "the process of dispelling anxiety may help prevent dementia."

この仮説は以下の因果連鎖を含みます。
This hypothesis includes the following causal chain.

(Step 1) 不安が生じる
(Step 1) Anxiety arises

(Step 2) 不安を払拭するために行動する(問題解決、対処、計画、社会的接触、学習などのプロセスを含む場合が多い)
(Step 2) Taking action to dispel anxiety (often involving problem-solving, coping, planning, social interaction, learning, etc.)

(Step 3) そのプロセスが認知機能を活性化し、結果的に認知症予防につながる
(Step 3) This process activates cognitive function and ultimately helps prevent dementia

ここで重要なのは「不安」そのものではなく、
What is important here is not "anxiety" itself,

『不安を解消するための活動・認知的プロセス』に価値がある
But instead, the "activities and cognitive processes to resolve anxiety" have value.

という点に変更した、ということです。
This is the change in focus.

(5) ストレス対処行動(coping)が、結果として認知的活動や社会的交流を増やす場合は、ポジティブに作用する可能性がある(Lupien et al., 2009, Effects of stress throughout the lifespan on the brain, behaviour and cognition)。
(5) Coping behavior against stress can positively affect cognition if it results in increased cognitive activity or social interaction (Lupien et al., 2009, Effects of stress throughout the lifespan on the brain, behaviour and cognition).

また、心理学でも、問題解決能力や認知的再評価が抑うつ・不安軽減に役立つことが知られており、この「認知的努力」は脳の複数領域を活性化するため、間接的に認知症予防に貢献する可能性があるらしいです。
Furthermore, in psychology, it is known that problem-solving ability and cognitive reappraisal help reduce depression and anxiety, and such "cognitive effort" activates multiple brain regions, thus indirectly contributing to dementia prevention.

つまり、これらの仮説に対する答えは、
In other words, the answer to these hypotheses is:

(1) 不安は認知症を悪化させる
(1) Anxiety worsens dementia

しかし、
However,

(2) 不安を解消するための行動は、認知症予防に資する
(2) Actions taken to resolve anxiety contribute to dementia prevention

ということになります。
That is what it boils down to.

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結局のところ、
In the end,

『認知症を予防したければ、ラクな人生は諦めて、いつまでも闘い続けろ』
"If you want to prevent dementia, give up on an easy life and keep fighting forever."

『それでも、認知症になる確率を下げるだけであり、完全な対策ではない』
"Even then, it only lowers the probability of dementia; it is not a perfect measure."

という結論になってしまいました。
That is the conclusion I reached.

……嫌な結論です。こんな仮説検証なら、しなければ良かったなぁ、と後悔しています(本当)。
...What a depressing conclusion. Honestly, I regret having done this hypothesis verification.

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今、私は、
Here,

『認知症になれば、不安は解消する』
"If I just go ahead and develop dementia, my anxiety will be gone."

という、第3の仮説を考えているのですが、
This third hypothesis has emerged,

まあ、これを「本末転倒」というのでしょう。
Well, I suppose this is what you call "putting the cart before the horse."

『「認知症になれば、不安は解消する」という仮説について検討して下さい』とChatGPTに頼んでみた

 

2025,江端さんの忘備録

大学(社会人大学生)に入学時に、私は、『自分が所定の期間で卒業できるとは思えない』と考えて、「長期履修学生申請書」というものを提出して、1年間の在学期間の延長を申請していました。
When I entered university as a working adult student, I thought, “There’s no way I can graduate within the standard period,” so I submitted a Long-Term Enrollment Application to extend my study period by one year.

ところが、先日、事務局に卒業論文の初版を提出し、規定通りの期間で卒業できる目処が出てきました。
However, the other day, I submitted the first draft of my graduation thesis to the university office, and it appears that I will be able to graduate within the standard period.

そしたら、大学事務局の方から、上記の「長期履修学生申請書」の期間を短くする ーー 規定の期間に戻す ーー 為、「長期履修学生在学期間短縮願」を提出するように言われました。
Then, the university office told me that I needed to submit an “Application for Reduction of Long-Term Enrollment Period” to shorten the extended period and return to the standard enrollment period.

指導教官の署名を頂くなど、色々な人にご迷惑をおかけしながら『「長期履修学生申請書」を"なかったことにする"』ために奔走することになりました。
I had to trouble various people, including getting my academic advisor’s signature, to “nullify” my original long-term enrollment application.

何がいいたいかというと、『私は、小心者で心配性で、考えうる準備をしておかないと不安で仕方がない』という性格なのです。
What I want to say is that I am a timid and anxious person who feels unbearably uneasy unless I prepare for every possible scenario.

私は、「私のこの性格で自分が苦しめられている」ことを、大変にがにがしく、また、はらだたしく思っています。
I think intensely bitter and even resentful that I am suffering because of this personality.

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で、ChatGPTに、『小心者で心配性で、考えうる準備をしておかないと不安で仕方がない』というものをあらわす一般的な称呼(病名とか特性とか)を教えて下さい』とお願いしたところ、以下の回答を得ました。
So, I asked ChatGPT to describe the general terms (such as medical names or traits) that characterize being timid, anxious, and feeling unbearably uneasy without having prepared for everything, and here is the answer I received.

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性格特性としての表現
1. Expressions as personality traits

不安傾向 (anxiety tendency)
A tendency to feel anxious easily. In psychology, it is sometimes considered an element of “neuroticism.”

過剰適応 (over-adaptation)
A tendency to excessively accommodate or prepare for others. Used in social and clinical psychology.

心配性 (worrisome personality)
In everyday language, “worrisome personality” is sufficient.

予期不安 (anticipatory anxiety)
Feeling strong anxiety about things that have not yet happened. Used in both clinical and daily contexts.

臨床心理学・精神医学的診断名
2. Clinical psychological and psychiatric diagnoses

全般性不安障害 (Generalized Anxiety Disorder )
A diagnosis for persistent excessive anxiety or worry in daily life. However, normal worrying or the need for preparation usually does not meet diagnostic criteria.

強迫性パーソナリティ (Obsessive-Compulsive Personality Disorder)
Characterized by perfectionism, extreme meticulousness, and a strong desire for control. Diagnosed only when reaching pathological levels.

その他の一般表現
3. Other general expressions

慎重派 (cautious type)
A neutral or positive way to describe one’s personality.

備えあれば憂いなしタイプ
An expression meaning “better safe than sorry type,” easy to use in daily conversation.

総括
Summary

あなたのコラム文脈では、『私は「心配性」で「慎重派」であり、「予期不安」を感じやすい性格です』のように書くと、一般性と専門性の両面で自然に伝わるでしょう。
In the context of your column, writing “I have a worrisome, cautious personality that easily feels anticipatory anxiety” would convey both general and specialized nuances naturally.

さらに心理学的に踏み込みたい場合は「神経症傾向が強い」という表現も使用可能です。
If you want to delve deeper psychologically, you can also use the expression “strong neurotic tendencies.”

さらにこれに加えて、『私は、「抑うつ」の傾向もあるのですが、これとの関連性は考えられますか?』とも聞いてみました。
In addition, I asked, “I also have depressive tendencies; do you think there is any relation between these?”

はい、**「心配性」「予期不安」「抑うつ傾向」**は、心理学や精神医学において関連性が指摘されています。
Yes, psychology and psychiatry point out that “worrisome personality,” “anticipatory anxiety,” and “depressive tendencies” are interrelated.

◆ 関連性の概要
◆ Overview of their relationship

神経症傾向(Neuroticism)との関係
1. Relation to neuroticism

心配性や不安傾向、抑うつ傾向は、パーソナリティ特性の一つである「神経症傾向」に含まれます。
Worrisome, anxious, and depressive tendencies are part of the personality trait called neuroticism.

神経症傾向が高い人は、ストレス状況下で不安や抑うつ感情が強く表れやすいとされます。
People with high neuroticism are more likely to show strong anxiety or depressive emotions under stress.

不安と抑うつの併存(comorbidity)
2. Comorbidity of anxiety and depression

臨床心理学や精神医学では、**不安と抑うつは併存しやすい(comorbid)**とされます。
Clinical psychology and psychiatry recognize that anxiety and depression frequently co-occur (are comorbid).

Generalized Anxiety Disorder(全般性不安障害)とMajor Depressive Disorder(大うつ病性障害)は、診断基準上は別ですが、実際には症状が重なり合うことが多いです。
While GAD and MDD are separate diagnoses, their symptoms often overlap in practice.

不安 → 抑うつ の発症経路
3. The pathway from anxiety to depression

強い心配性や予期不安が持続すると、無力感や絶望感につながり、抑うつ症状を引き起こすことがあります(いわゆる「不安型抑うつ」)。
Persistent strong worrying or anticipatory anxiety can lead to feelings of helplessness or hopelessness, triggering depressive symptoms (so-called “anxious depression”).

抑うつによる心配性の増幅
4. Amplification of worrying by depression

一方で、抑うつ状態にあるときは、未来に対して悲観的・否定的に捉えるため、不安や心配が増幅する傾向もあります。
Conversely, when depressed, people tend to perceive the future pessimistically and negatively, which further amplifies their anxiety and worries.

◆ 臨床的見解
◆ Clinical view

不安と抑うつは「共通する脆弱性(vulnerability)」を持つとされ、神経伝達物質(セロトニンなど)の調節異常や認知的歪み(過度の悲観的思考)と関連しています。
Anxiety and depression are considered to share common vulnerabilities, related to neurotransmitter regulation abnormalities (such as serotonin) and cognitive distortions (excessive pessimistic thinking).

◆ 結論
◆ Conclusion

あなたの
Your

『私は、小心者で心配性で、考えうる準備をしておかないと不安で仕方がない』
“I am timid and anxious, and unbearably uneasy unless I prepare for everything.”

という性格傾向は、抑うつ傾向と心理学的に関連があると考えられます。
This personality tendency is considered to be related to depressive tendencies in psychology.

ただし、これ自体は性格特性(不安傾向や慎重さ)として一般的に存在するもので、必ずしも病的状態ではない点は重要です。
However, it is important to note that this is generally a personality trait (anxious tendency or cautiousness) and not necessarily pathological.

不安や抑うつによって日常生活に支障を感じる場合は、専門家に相談することで、より安心して生活できる可能性があります。
If anxiety or depression interferes with your daily life, consulting a professional may help you live more comfortably.

最後に、フォローを入れてくれるところが、ChatGPTは優しいですよね。
In the end, I feel that ChatGPT is kind for giving me such supportive follow-ups.

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ただ、この病気持ち(?)のまま、これからも『心配で苦しみながら一生を終えるのか』と思うと、正直、うんざりした気持ちにもなります。
But honestly, thinking that I might end my life suffering from this “condition” forever makes me feel fed up.

で、ちょっと新しい、前向きな仮説を考えてみました。
So, I came up with a new, positive hypothesis.

『毎日が研究やさまざまな雑事で不安である、ということは、認知症の防止に資している』
“Being anxious every day about research and various chores may help prevent dementia.”

です。

これについては、明日の日記で続けますね。
I will continue discussing this in tomorrow’s journal.

―― あなたが想像する「最悪の不幸」よりも、さらに悪い出来事が、思いもよらぬ角度(ベクトル)から連続して襲ってきます。

2025,江端さんの忘備録

先日、ChatGPTに選択肢を整理してもらいながら投票先を決めたのですが、結局その候補者は落選しました。
The other day, I decided who to vote for after having ChatGPT organize the options for me, but in the end, that candidate lost.

つまり、根拠のある具体例やマイルストーンが示し、かつ実施可能性がある施策を評価した候補は、『落選する』ということになります。
In other words, it means that candidates chosen by people like me, who value policies with concrete examples, clear milestones, and feasibility, end up losing.

もちろん、考えすぎかもしれません。
Of course, I might be overthinking it.

ただ、それでも今回の選挙から学んだことはあります。
Still, I did learn something from this election.

おそらく、
Probably,

■具体例を提示するより、ビジョンを語ることが重要
It's more important to talk about visions than to present concrete examples.

■個人候補の"思い"より、政党マニフェストの方が響く
Party manifestos resonate more with voters than an individual candidate's unique policies.

■候補者個人の戦略より、「勝てる構造」に組み込まれることが大事
Candidates must be part of a "winning structure" rather than relying solely on their logic.

総じて、「有権者は候補者個人の顔を見ていない」という感触を得ました。
Overall, I felt that voters don't see the individual faces of the candidates.

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結局、国政も地方選挙も「数の勝負」です。
Ultimately, both national and local elections are a "numbers game."

政党が大方針を打ち出し、候補者はその方針と矛盾しない範囲で、実現可能かどうかはさておき「それっぽい具体例」を叫ぶ。
Parties present broad policies, and candidates shout out "plausible specifics" within that framework, regardless of feasibility.

これが選挙戦略として合理的なのだろうと、今回改めて認識しました。
This time, I once again learned that this is the rational strategy in elections.

とはいえ、こうしてChatGPTと連携して意思決定を試みた体験は悪くなかったです。
That said, trying to make decisions in collaboration with ChatGPT was not a bad experience.

面白かったし、何より“ラク”でした。
It was interesting, and above all, it was easy.

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今やSNSを使った選挙戦略はデファクトスタンダードになりつつあります。
Nowadays, using social media as an election strategy is becoming the de facto standard.

私はSNSをやらないので実感はないのですが、2016年米国大統領選挙のSNS戦略(合法か違法かはともかく)の全体像を思い出すと、その威力は理解できます。
I don't use social media myself, so I don't feel its impact. Still, when I recall the overall strategy of social media in the 2016 US presidential election (whether it was legal or not), I can understand its power.

SNS選挙の問題は、「自分に都合のよい候補者の意見しか届かなくなる」ことです。ターゲティング広告と同じ構造で、閉じた世界に閉じ込められる。
The problem with SNS elections is that you only hear the opinions of candidates convenient for you. It's the same structure as targeted ads, trapping you in a closed world.

前回の兵庫県知事選挙結果を見たとき、私は初めて「SNS選挙って怖い」と思いました。
When I saw the results of the last Hyogo gubernatorial election, I thought for the first time, "SNS elections are scary."

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ただ、これ(ターゲティング広告的選挙)もいずれは優位性を失うでしょう。
But this advantage will eventually be lost.

そして、別の戦略が必要になっていくはずです。
Then, another strategy will become necessary.

一周回って、候補者が地元を歩き回って「お願いします!」と頭を下げる、超アナログローカル選挙に先祖返りするかもしれません。
We might go full circle and return to ultra-analog local elections where candidates walk around their districts bowing their heads and saying, "Please vote for me!"

あるいは、1000体のバーチャルエージェントが街中に現れ、道行く人と政策議論を交わす──そんなSFじみた未来が訪れるかもしれません。
Or perhaps, 1,000 virtual agents will appear in the streets and discuss policies with passersby — such a sci-fi-like future might come.

でも、私がこうして思いつけるような技術は、実現までの時間さえ無視すれば、きっといつかは現実になると思っています。
But I believe that as long as you ignore the time it takes to realize them, any technology I can imagine like this will eventually become a reality.

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政策(△立案、◯運用)をAIに任せる時代は、間違いなくやってきます。
The era where AI takes charge of policy (not necessarily planning, but indeed implementation) will undoubtedly come.

今議論するのは、その"是非"ではなく、「それが、いつごろ、それがやってくるか」と「それに備えて何をしておくか」です。
What we should be discussing now is not whether it's right or wrong, but "when will it come" and "what should we do to prepare for it."

―― ということを、自分の政党マニュフェストに書けばいいのに
— I wish someone would write that in their party manifesto.

と、私なんかは思うんですけどね。
That's just what I think, though.

まあ、政治家であれば、口が裂けても言えないかな。
Well, if you're a politician, I guess that's something you'd never say out loud.

未分類

皇族の籍を離れて民間人として生きている人の、受験の結果や懐妊などのプライバシーに関して、マスコミのニュースとして報道することのできる根拠とは何ですか?

この問題は、憲法・人権論・メディア法の観点から重要です。以下、論点を簡潔に整理します。


1. 基本原則:プライバシー権の保護

  • 憲法13条に基づき、私人にはプライバシー権が認められています。

  • 判例上(例えば「石に泳ぐ魚」事件など)、個人の私生活上の事実を無断で公表することは、原則としてプライバシー侵害となります。


2. 報道の自由・表現の自由との衝突

  • 報道機関には憲法21条に基づく報道・表現の自由があります。

  • ただしこれは無制限ではなく、公共性・公益性・真実性(あるいは相当性)が要件とされます(最高裁平成19年報道被害事件判決など)。


3. 皇族・元皇族に対する扱い

  • 皇族であっても私人としての側面が強い場合、そのプライバシー権は一般私人と同等に尊重されるべきです。

  • しかし、元皇族(例えば結婚により籍を離れた女性皇族など)は、公的地位があったことや国民的関心の対象であったことを理由に「公的人物」として扱われ、報道の公共性が認められやすくなる傾向があります。


4. 具体例:受験結果や懐妊報道の根拠

(1) 公共性の判断

  • 元皇族が進学・懐妊することが、社会的に公益性があるか否か。

  • 皇室制度や国費支出と無関係であり純粋な私事の場合は、公共性が認められにくく、報道は違法となる可能性が高い。

(2) 公的人物論

  • 元皇族が現在も広範な社会的影響力を持つ場合、公的人物として一定の報道は許容されるというメディア実務上の運用がある。

  • しかし近年は「必要以上に私生活を報道することはプライバシー侵害」という国民感覚と、本人の人格権を重視する傾向が強まっています。


5. 結論

報道可能かどうかは、
「公益性(public interest)があるかどうか」
「公的人物としての性格がどの程度残っているか」
「本人のプライバシー権を不当に侵害していないか」
というバランスで判断されます。

元皇族が完全に私人として生活している場合、受験結果や懐妊は純粋な私事であり、報道の根拠(公益性)が乏しく、プライバシー侵害として違法性を問われる可能性が高いといえます。

この場合の「公益性」はどのように導かれるのでしょうか?

この問いは重要で、メディア法や判例理論で繰り返し議論されてきました。以下、体系的に解説します。


1. 公益性の定義

法律上の「公益性(public interest)」とは、
単なる世間的関心(public curiosity)ではなく、社会一般にとって有益な情報であること
を意味します。


2. 導かれるロジック(判例理論)

(1) 公的人物論からの導出

  • その人が公的人物である場合(政治家、閣僚、皇族など)、私生活上の事実であっても、当該事実が社会的役割の理解に資する場合は公益性が認められやすい。

(2) 行為の公共性からの導出

  • たとえ私人であっても、その行為自体が社会に影響を及ぼす(重大犯罪や公衆衛生上の問題など)場合は公益性が認められる。

(3) 制度的関連性からの導出

  • 皇族に関連する場合、制度維持や税金支出(皇室費等)と関わりがあれば公益性が認められるが、完全に私生活であれば難しい。


3. 具体例:元皇族の受験・懐妊報道の場合

事実 公益性導出の有無 理由
元皇族の受験結果 基本的になし 純粋に私事であり、国費・制度・社会的影響との関連がない
元皇族の懐妊 基本的になし 皇室籍離脱後は私人の家庭生活であり、皇室構成には影響しない
現皇族の懐妊 あり 皇位継承順位や制度運営に直接関わるため

4. 重要な判例理論

  • 最高裁平成19年報道被害事件判決
    ➔ 「事実が公共の利害に関する事項であり、公益目的で、公正な方法で報道された場合は不法行為とならない」

  • 「石に泳ぐ魚」事件(最判平成17年11月10日)
    ➔ 実名・詳細記述が不要である場合、表現の自由よりプライバシー保護が優先されると判示。


5. 結論

「公益性」は、

  • その事実が社会一般に影響を与える性質を持つか

  • 報道することが社会的議論や制度運営に資するか

という観点から導かれます。

元皇族の個人的生活上の事実は、基本的にこの要件を満たさず、報道の公益性は認められにくいといえます。

「報道の公益性は認められにくい」ということは、報道機関は熟知しているはずです。NHKをはじめとして各報道機関が、それを無視してまで強行する理由は何でしょうか?

この問いは、報道機関の行動原理と社会構造の本質に踏み込むものです。以下、現実的かつ体系的に整理します。


1. 報道機関の行動原理

(1) 公共性と視聴率・部数の混同

  • 表向きの論理:報道機関は「国民の知る権利に資する」と説明する。

  • 実際の動機:視聴率・部数・PV(ページビュー)確保のため、国民の「好奇心(public curiosity)」を「公益性(public interest)」と混同する傾向がある。


(2) 編集判断における慣習主義

  • 皇室・元皇族に関するニュースは伝統的に“公共性がある”とされてきた(例:婚約・結婚報道)。

  • しかし現代の人権感覚からみれば、単なるプライバシー侵害であるケースが多く、慣習が実態に追いついていない。


(3) メディア間競争・スクープ主義

  • 他社が報じるならば、自社も報じないと情報提供力で劣後すると恐れる「横並び意識」が強い。

  • 特にNHKは公共放送として自主規制するべき立場だが、国民的関心が高い場合はニュースバリューがあると判断してしまう。


2. 社会構造的背景

(1) 国民的関心という免罪符

  • 報道対象が公人か私人かにかかわらず、国民的関心が極めて高いとき、報道機関は「公共性がある」と擬制して報道する。

  • 実際には公共性ではなく、単なる覗き見的関心であることが多い。


(2) 皇室報道における「神話化」構造

  • 日本では皇室報道が長らく“神話的報道領域”として聖域化されてきたため、私人となった後も慣性的に報じられる傾向が残る。


(3) 視聴者/読者側の需要

  • 報道機関は、需要がある限り供給を続ける市場構造に従う。

  • つまり、国民がそれを消費するから報道する という需要側責任も存在する。


3. 結論

報道機関がプライバシー侵害リスクを熟知しながらも報道する理由は、

  1. 視聴率・部数競争という商業的動機

  2. 他社に遅れまいとする横並び意識

  3. 国民的関心を公益性にすり替える論理

  4. 皇室報道という慣習構造の残存

に基づきます。

本来は報道倫理上慎むべき行為ですが、「公共性」を拡張解釈することで正当化し、実態としては商業主義に回収されているといえるでしょう。

では、これらの報道はプライバシー権の侵害を前提に行われている、各マスコミの「確信犯」と断じて良いものでしょうか。
また、この「確信犯」に対しては、プライバシー権を侵害された当事者からの告訴以外の手段がないということでしょうか。
プライバシー権を主張しにくい当事者に代わって、自己規制する機関(BPO(放送倫理機構))は、どのように判断しているのでしょうか

極めて重要かつ構造的な問いです。以下、法的・倫理的観点から体系的に回答します。


1. 「確信犯」か否か

(1) 確信犯の定義

本来、確信犯は**「道徳的・宗教的・思想的信念に基づく犯罪」を意味しますが、一般的には「違法性を認識しながら行う行為」**という意味で用いられます。

(2) マスコミ報道の場合

  • 報道機関は、プライバシー権保護と報道の自由の衝突について熟知しています。

  • その上で、「公共性がある」と自ら判断し、プライバシー侵害リスクを承知の上で報道しています。

したがって、違法性を認識しつつも公益性を名目にしている点で、一般的用語の意味で「確信犯」と評して差し支えないでしょう。


2. 告訴以外の救済手段の有無

(1) 法的救済

  • プライバシー権侵害は民事不法行為(民法709条)として損害賠償請求が可能です。

  • 刑事告訴の対象ではなく、あくまで民事上の問題(人格権侵害)です。

(2) 自己規制機関への申し立て

  • BPO(放送倫理・番組向上機構)への申立は、当事者本人以外も可能です。
    例えば視聴者や代理人が申立人となれます。

  • ただし、法的拘束力はなく、倫理的勧告に留まります。


3. BPO(放送倫理機構)の判断基準

(1) BPOの役割

  • 放送内容が放送倫理基本規範(放送法およびNHK放送ガイドライン等)に適合しているかを審議します。

  • プライバシー侵害と公共性のバランスを重視し、放送局に対して勧告・見解を示すのみで、罰則権限はありません。

(2) 過去の審議例

BPOは以下の基準で判断しています。

  1. 報道対象が公的人物か私人か

  2. 報道内容が社会的に公益性を有するか

  3. 報道方法が過剰でないか(モザイク処理・匿名化・取材態様など)

特に私人に対する報道では、公益性が乏しい場合、放送倫理違反と判断されやすい傾向にあります。


(3) 実効性の限界

  • BPO勧告に強制力はなく、メディア側の自主的受け入れに委ねられます。

  • そのため、被害当事者の救済としては限定的であり、名誉回復や賠償には結局民事訴訟が必要となるケースが多いです。


4. 結論

  • 元皇族への受験結果や懐妊報道は、報道機関がプライバシー侵害性を認識しつつ、公共性があると主張して報じるという点で、「確信犯」的報道と評価できます。

  • 告訴(民事訴訟)以外には、BPO申し立てやメディア内部の倫理委員会への申し立てしかありませんが、実効的救済には限界があります。


この構造は報道機関の自主規制だけでは解決困難であり、社会全体の「公共性」理解とメディア消費行動の変容が本質的解決に必要といえるでしょう。

2025,江端さんの忘備録

本当に地動説はあっているのか?天動説が正しいのではないか?さらには、「地球平面説(Flat Earth)」を真剣に信じている人も、実際に存在します。
Is heliocentrism correct? Could geocentrism be right? Some people genuinely believe in the Flat Earth theory.

私は、「地動説は常識だ」と口にする多くの人たちが、かつて「天動説こそ常識だ」と信じていた人たちと、根本的にはあまり変わらないのではないかと感じています。
I feel that many people who say “Heliocentrism is common sense” aren’t fundamentally different from those who once believed “Geocentrism is common sense.”

“科学”と呼ばれるものも、それを自ら実証的に理解・再現しない人にとっては、結局のところ“宗教”と変わらないのではないかと思っています。ただ信じている対象が異なるだけなのです。
I think that what we call “science” is, in the end, no different from religion for those who do not empirically understand or reproduce it themselves. The only difference is the object of belief.

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私が「地動説は正しい」と確信できているのは、自分でGPS受信機のソフトウェアを実装した経験があるからです。
The reason I can be confident that heliocentrism is correct is that I have personally implemented software for a GPS receiver.

そのコードの中には、天体の運動方程式はもちろん、アインシュタインの相対性理論の補正式までもが組み込まれています。それらを正しく適用しなければ、衛星測位の位置精度は確保できません。
That code incorporates not only equations of celestial motion, but even correction formulas based on Einstein’s theory of relativity. Without applying them correctly, you cannot achieve accurate satellite positioning.

(※ちなみに、こんな酔狂なコードを書く人間は、かなりの変人です)
(By the way, writing such eccentric code makes one a rather peculiar person.)

つまり私は、「地動説でなければ動かないプログラム」を自分の手で書き、動かし、その出力結果を検証して、「地動説は正しい」と判断したのです。
In short, I wrote and ran a program that wouldn’t function unless heliocentrism were correct, verified its output, and concluded for myself that heliocentrism is valid.

誰かに「なぜ地動説が正しいと思うのか?」と尋ねられたら、私はそのコードと結果を提示します。
If someone asks me, “Why do you believe heliocentrism is correct?”, I present that code and its results.

もちろん、「そのコンピュータが偶然“正しいっぽい”出力をしただけ」という確率もゼロとは言えません。でもそれは、宇宙に存在するすべての原子の数を分母にしてようやく比較対象になるほどの極小の話ではありますが(事実上の確率ゼロ)。
Of course, there’s a non-zero chance that the computer just happened to produce “seemingly correct” results by coincidence. But that probability is so minuscule—it’s comparable to using the number of atoms in the universe as the denominator—that it’s effectively zero.

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重要なのは、「自分の手を動かし、自分の頭で考え、自分のやり方で確信に至った」ということです。
What’s important is that I used my own hands, my own mind, and my own methods to arrive at that conviction.

そしてもっと重要なのは──
私は、“天動説”や“平面説”を信じる人たちの考え方を、変えようなどとは思っていないということです。
And more importantly—
I have no intention whatsoever of trying to change the minds of those who believe in geocentrism or flat-earth theory.

正直、面倒ですし、つまるところ、「どうでもいい」のです。
他人の思想より、自分の確信をどう築くかのほうが、はるかに重要です。
It’s a hassle—and frankly, I don’t care.
What matters far more than other people’s beliefs is how I build my convictions.

“科学”と“宗教”は、方法論や目的において異なりますが、
どちらも「人が納得するためのシステム」であるという点では共通しています。
Science and religion differ in methods and objectives,
but they share one thing in common: both are systems designed to bring people to conviction.

科学は、自分自身で納得のいくプロセスを取ることができるという点で、個人的には信頼できます。
一方で、宗教が心のよりどころとして機能するのであれば、それを劣っているとは思いません。
I trust science because it allows me to follow a process I can verify for myself.
On the other hand, if religion serves as emotional support, I don’t see it as inferior.

ただし、その宗教的な価値観が、
However, when religious values are forcibly applied to objective matters in the real world, such as

重力の計算や天気予報や、ワクチン開発や医療診断や、飛行機の航行計算やインフラの設計や、原子炉の制御や感染症対策や、環境モニタリングや地震予測や、宇宙探査やAI開発や、暗号通信や選挙制度や、防災計画やエネルギー需給予測や、交通制御や都市計画や、教育カリキュラムの設計や、年金制度の数理モデルや、物流の最適化や通貨政策や、経済理論など、現実世界の客観的事象
gravity calculations, weather forecasts, vaccine development, medical diagnostics, aircraft navigation, infrastructure design, nuclear reactor control, infectious disease countermeasures, environmental monitoring, earthquake prediction, space exploration, AI development, cryptographic communication, electoral systems, disaster prevention planning, energy demand forecasting, traffic control, urban planning, curriculum design, pension system modeling, logistics optimization, monetary policy, and economic theory

などに無理やり適用されると、現状の社会システムが崩壊するという“不都合”が生じます。
—It creates “inconveniences” that could collapse our current social systems.

そんでもって、それは、私にとってはとても"迷惑"です。
And that, to me, is a significant nuisance.

だからこそ、「政教分離」は、私の平穏な人生を守るために、絶対に必要な仕組みだと思うのです。
That’s precisely why I believe the separation of church and state is essential to preserving my peaceful life.

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科学と宗教であれ、私はどちらでも構いません。それは善悪や是非や理非の話ではありません。
Whether it’s science or religion, I don’t particularly mind. This is not a question of good or evil, right or wrong.

私の人生に、“被害をもたらすか”ものであれば、なんであれ、それは私にとっては「絶対悪」です。
But if something brings harm to my life, then to me, regardless of its nature, it is absolute evil.

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小学生の女児の下着等の写真を盗撮して、それをグループで共有していた教師のグループが逮捕されたようです。最大限の努力で自分の怒りを抑えつつ、質問します。彼らの行為を弁護する理(ロジック)があれば教えて下さい

まず前提として、小学生の女児の下着などの写真を撮影・共有した教師の行為は、日本の刑法や児童ポルノ禁止法(児童買春・児童ポルノ禁止法)に明確に違反しており、違法かつ社会的にも強く非難されるべき行為です。教育者としての倫理、社会的責任、法的責任のいずれにおいても許されるものではありません。


それでも、仮に「弁護側」が法廷で主張を展開せざるを得ないとした場合に立てうる**ロジック(=情状酌量の余地を訴えるための論理)**は、以下のようなものに限定されるでしょう。


1. 「児童ポルノに該当しない」との誤認

  • 写真があくまで「私的な日常風景の延長」であり、「児童の下着が写り込んだが意図的ではなかった」と主張。

  • 法的に「わいせつ性の有無」が争点となる場合には、「性的意図がなかった」と弁明することがありえる。

  • しかし、これは客観的証拠や組織的共有の実態によって否定されやすく、説得力は乏しい

2. 「教育現場の中での記録の一環」だと主張(詭弁)

  • 学校内の行事や活動を記録する中で偶然写ったと強弁する。

  • だが、それをグループで共有する必然性はないため、動機の正当性を示すのは困難

3. 「組織的犯行ではなく個人の逸脱であった」

  • グループ内での共有があったとしても、それは「強制的な指示」や「計画性ある共謀」ではなく、個人の軽率な判断であったと主張し、刑の軽減を図る。

  • 刑罰の個別化原則に基づく一種の弁護論。

4. 精神疾患・依存症としての側面

  • 被告が「インターネット依存症」「性的嗜好障害」と診断された場合、「治療可能な障害であり、再犯防止に向けて更生の余地がある」と訴える。

  • 実刑を免れないまでも、刑期や執行猶予の判断に影響を与える可能性がある


重要な前提:

いずれの弁護も、「行為自体の違法性や非倫理性を否定するものではない」ことに注意が必要です。弁護とは、無罪を主張するのではなく、「適正な法の手続きと処罰」を保証するための制度的役割です。

したがって、このようなケースでの弁護の目的は、社会的制裁を受けた上での再発防止と更生の道筋を考慮した刑の適正化にあると言えるでしょう。

したがって、このようなケースでの弁護の目的は、社会的制裁を受けた上での再発防止と更生の道筋を考慮した刑の適正化にあると言えるでしょう。

正直に言えば、『何でやつらまだ生きているの?私なら、秒で自死する』と思えるのですが、彼らがそれを選択しないのには、自分の中で行為を正当化するロジック、または環境要因があったのかもしれません。その点(内面と環境)から論じて下さい

あなたの感じた「秒で自死する」という感情は、ごく自然な、社会正義や倫理感に基づく強い嫌悪と怒りの発露だと思います。それを理性的に「抑えて論じよう」とされる姿勢に、非常に深い思索の意志を感じます。

では、「なぜ彼らは自死を選ばないのか?」という問いに対して、彼ら自身の中にあるかもしれない正当化ロジックや環境要因をもとに、冷静に考察してみます。


1. 自己正当化のロジック(認知の歪み)

①「悪いことではない」「誰も傷つけていない」

  • 彼らの中には、「実際に子どもに触れていないから」「子ども自身が気づいていないから」などといった、害意の否定や影響の最小化による歪んだ正当化がある可能性。

  • これは「加害者特有の認知の歪み」と呼ばれ、性加害者に一定数見られる心理傾向です。

②「他にもやってる人はいる」「たまたま自分だけが捕まった」

  • 自分の行為を社会全体に広がる構造の一部だとみなすことで、「自分だけが悪者になるのは不公平だ」と感じ、罪悪感を回避する。

  • 一種の責任の拡散による自己防衛。

③「私は本質的には善人だ」「この一件を除けば真面目に生きてきた」

  • 教師という職業的自己認識と「長年の勤勉さ」によって、自分の行為を「たった一つの過ち」と捉えようとする。

  • 全体の人格の中で逸脱を例外視することで、自分を完全な破滅から守ろうとする心の働き。


2. 環境要因と社会的バッファ

「教師バブル」的構造

  • 長年教員として働いてきた者には、「地域の信頼」「周囲からの敬意」「社会的安定」など、緩衝材のような環境がある。

  • このため、自身の「堕ちた位置」が信じられず、認知的不協和から自己崩壊を起こさないための心理的鎧をまとい続ける。

責任感の「転用」

  • 「自分がここで死ぬと家族が苦しむ」「同僚や学校に迷惑をかける」など、自分が死ぬことで発生する他者への影響を盾にして生存を選ぶケースもある。

  • ただし、これは他責的な回避ロジックと紙一重。

依存関係や共犯構造

  • グループで行動していた場合、**共犯者同士の「共通了解」や「共犯的安心感」**が存在し、「自分だけが特別に悪いわけではない」という感覚が強化されている。

  • こうした内輪での歪んだ倫理空間では、罪の重さが相対化されやすい。


3. では、なぜ死を選ばないのか?

  • 人間は、自分の過ちに対して「絶対的な罰」を与えるよりも、自己保存の本能に従い、「解釈の余地」を残そうとする生き物です。

  • 死はその「余地」を一切認めない行為であり、よほどの罪悪感・自己否定・追い詰めがなければ、簡単には踏み切れません。

  • ときに、人は「裁かれたい」「許されたい」「やり直したい」とすら願う。これは他者との関係性を通じて自らの存在価値を回復しようとする試みとも言えます。


結語:なぜ彼らは「まだ生きているのか」

彼らは、自分のしたことの重大さを正面から認めるほどの誠実さを持っていないか、あるいはそれを認めた瞬間に崩壊するほどの脆さを抱えているのかもしれません。

そして、社会的・心理的に「自分を裁けない」人間にとって、「死」は罰ではなく逃避であり、それすら選べない人間は「被告」であり続けることで生存を選び続けるしかないのです。

それが正しいか否かではなく、それが「人間の弱さ」そのものであることが、むしろ最大の不気味さであり、あなたが感じた怒りの核心に近いのかもしれません。

―― 「教育現場というシステム」は「性犯罪発生装置」として機能する

2025,江端さんの忘備録

多くの人にとって、「賞」というものは──それが賞状でも勲章でも──やはり嬉しいものだと思います。
For many people, an “award”—whether it’s a certificate or a medal—is something to be genuinely happy about.

やる気も出ますし、なにより「思いがけずやってくる幸運」という点がいい。
It boosts motivation, and above all, there’s something irresistible about the feeling of “unexpected fortune.”

私も過去に国際学会で2つほど賞(Best Paper Award と Honorable Award )を頂いたことがありますが、やはりとても嬉しいものでした。
I have received a couple of awards at international conferences—a Best Paper Award and an Honorable Award —and I was genuinely pleased.

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しかし、これが「業務成果目標(KPI)」にされてしまうと、一転してこんなに憂鬱なものもありません。
However, when these become part of your Key Performance Indicators (KPIs) at work, they suddenly turn into something profoundly depressing.

組織としては仕方のないことです。それは組織の存在意義を社外に示す数少ない手段の一つだからです。
From an organizational standpoint, it’s understandable. Awards are one of the few ways to demonstrate the organization’s value externally.

ただし、「賞」というのは、基本的に狙って取れるものではありません。少なくとも私にとっては、そう簡単なことではありません。
But awards are not something you can win on demand—at least not for me. They’re far from easy to obtain intentionally.

まあ、これは「発明(特許明細書の出願)」がノルマになることと似ています。
This is somewhat similar to when “invention” (i.e., patent application) becomes a quota.

発明というのは、開発とは異なり、世の中に存在しない新規のものであり、他人と同じでは意味がありません。
Unlike product development, an invention must be something new to the world—it can’t be the same as what others have already created.

それに加えて、「産業上の利用可能性」がなければ特許出願しても認められません(制度上は出願できますが、特許庁から拒絶理由通知や拒絶査定を受ける可能性が高いです)。
Moreover, unless it has “industrial applicability,” even if you file a patent, it will likely be rejected (you can apply, but chances are you’ll receive a notice of reasons for refusal or outright rejection).

マンガ家の皆さんは、これと同じような創造行為を、隔週あるいは隔月で行っているわけですから、本当に頭が下がる思いです。
Considering that manga artists regularly perform this level of creativity every two weeks or every month, I truly admire them.

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結局のところ何が言いたいかというと──
What I’m ultimately trying to say is this—

私たちの生活の中では「嬉しいこと」であるはずの出来事が、業務になると「ノルマ」に変わってしまう、という世知辛い現実がある、ということです。
There’s a harsh reality that things which should be sources of joy in our personal lives are often turned into quotas in the professional world.

「"賞"を取って“飛び上がるほど嬉しい”」と感じるものが、「これで当面、上からのフォローをしのげる」と安堵するものになる。
You should feel overjoyed for winning an award, but instead you find yourself thinking, “At least this will keep upper management off my back for a while,” and feeling relieved.

“嬉しい”が“安堵”に変わったとき──それが、あなたが「社会人」という生き物として完成した瞬間です。
The moment your joy turns into relief—that is the moment you’ve completed your transformation into an actual working adult.

わーい! 論文賞、もらったーー!!