「LONELY CENTURY」の感想文を書いています
1. LONELY CENTURYを読んで
- 1. LONELY CENTURYを読んで
- 2. 課題
- 3. プロローグ:"ぼっち"で何が悪い?
- 4. 孤独問題に対する動き
- 5. 社会悪としての孤独
- 6. 個人的な害悪としての孤独
- 7. 金銭的不利益のとしての孤独
- 8. 必然としての孤独
- 9. 孤独から導かれる最悪のシナリオ
- 10. 孤独の計算方法
- 11. 用語
2. 課題
(非公開)
3. プロローグ:"ぼっち"で何が悪い?
3.1. 大丈夫だよ。きっと、もうすぐ友達はできるから
次女(小学生6年生)は、普段から、その父親の行動である「歩き読書」をやっています。
家族からは勿論、地域の住民からも「危ない」「やめろ」と言われても、
―― パパがやっているから
と、論理武装して、平然と続けています。
江端:「パパの場合は、夜中にヘッドライトを付けて、本を読んでいるから、夜道で目立つ。だから、安全なのだ」
と言っているのですが、こんな言い訳では、次女は勿論、自分ですら騙せません。
しかし、次女の行動は思わぬところから、罰を喰うことになります。
次女が、学級の仕事で、朝早く登校する必要があった為、一週間連続で、毎日一人で登校していた時のことです。
ある日の朝、横断歩道のいわゆる「緑のおじさん」から、声を掛けられたのだそうです。
―― 大丈夫だよ。きっと、もうすぐ友達はできるから
■人気のいない通学路で、
■(ひとり)ぼっちで、
■本を読みながら歩く少女
これだけの条件が整えば、「緑のおじさん」の推論が外れていたとして、誰に責めることができるでしょうか。
もっとも、
「私は『ぼっち』じゃない!」
と、次女は激怒していたようですが。
3.2. 「友達がいない」ことは問題ではない。「友達がいないように思われること」が問題なのだ
は、「次女」の名言として、私の名言集に登録されています。
その他のアニメや小説などを読んでみても、ティーンエイジャにとって、「友達」という概念は、私の目からは一種の「拷問」のように見えます。
しかし、振り返ってみるに、昔から集団行動というものが大嫌いだった私にとって、修学旅行や遠足というのは、確かに「拷問イベント」でした。
特に「班分け」という、
―― 校外において、教師が、生徒を管理する負担を減らすために存在している
責任回避システムの為、私は随分苦労させられたのを覚えています。
こういう「拷問イベント」の度に、私は「ぼっち」を回避する為に、姑息な裏工作をしなければなりませんでした。
心底、気が重くて、うんざりでしたものです。
3.3. 私の半生は、このコロナ禍の時代に向けた準備期間であったのかもしれない
思うように外出できないというだけで、多くの人にはストレスが溜る日々だと思います。
人間は社会的存在 ―― つまり、集団として存在することを前提 ―― とされているからです。
しかし、今や、「集団」ではなく、「個」として行動することが推奨される状況になっております。
ところで、私、昔から「個」というか「孤」に抵抗がなかったように思えます。
小学生の頃から、下校時は、頭の中で色々な(中二病的な)ことを考えながら、一人で歩いて帰るのが好きでした。
友人と一緒に帰らなければならない時は、「今日は、(頭の中で)話を作れない」とガッカリしたものです。
そもそも「複数の友人と遊ぶ」というのも、あまり得意ではなかったように思います。
集団を纏めなければならない立場(例:生徒会会長)にあったときでさえ、「自分は一人」という意識が離れることはありませんでした。
デートの後の計画(例:深夜のゼミの研究室に戻ってデータ解析をする)を、デートの最中に考えていました。
そして、コロナ禍が始まる以前から「孤食(ぼっち飯)」「孤読(ぼっち読書)」「孤考(一人ブレスト)」について、日記に書いてきました。
つまるところ、私は「孤」であるということに、他の人よりも高い耐性がありそうだ、ということです。
ただ、私は、これまで、その「弧」を自分の意志で選択してきました。
「弧」以外の選択肢がなくなったときにも、同じ様に考えることができるのか、全く自信がありません。
ともあれ、今や、「「孤」であるということ」が、望ましいこととして、社会から要請されています。
―― 私の半生は、このコロナ禍の時代に向けた準備期間であったのかもしれない
と思うと、なんとも言えない皮肉を感じます。
4. 孤独問題に対する動き
4.1. 新型コロナウイルス感染症のパンデミック
昨今の少子高齢化やデジタル化などに伴い、人々の社会的な関わりにはさまざまな変化が生じつつある。孤独は、その問題の一つである。
孤独問題は、1980年の新自由主義に端を発て、議論・検討され続けてきたが、この問題がクローズアップされてきたのは、2020年に新型コロナウイルス感染症のパンデミックが発生と、それに伴う、社会的な接触の厳しく制限にある。
こうした状況の中、イギリスでは2018年に「孤独担当相」が、日本でも2021年12月に内閣官房に「孤独・孤立対策担当室」が設立されるなど、社会的孤独への対策は国内外で急務となっている。
ここで重要なのが、孤独が「それ自体が問題」であることは勿論であるが、孤独が社会問題であることを、多くの人が共有する認識に至った点である。
4.2. .
5. 社会悪としての孤独
5.1. 健康問題
ヒトにおける「孤独(社会的孤立の主観的認知)」は、うつなどの心の健康だけでなく、心血管系疾患やがんの予後など、身体的健康にも悪影響を及ぼすことが知られている。マウスを使った実験でも、孤独が雄では攻撃性の増大、雌ではうつ様行動や卵巣がんの増悪を招くことが報告されている。
5.2. カルト問題
6. 個人的な害悪としての孤独
6.1. 孤独は
7. 金銭的不利益のとしての孤独
8. 必然としての孤独
8.1. 孤独はトレードオフである
私達は、物理的な一つの固体であり、厳密な意味において、リアルタイムで同時に2つ以上のコミュニティに参加できない。もちろん、会社、家族、町内会からSNSに至るまで、様々なコミュニティに属しているとも言えるし、そういう意味においては、私たちは、Aというコミュニティに属しつつ、Bというコミュニティにも同時に属する量子的存在である、とも言える。
孤独は突然やってくる
9. 孤独から導かれる最悪のシナリオ
9.1. カルトにつけこまれる
10. 孤独の計算方法
10.1. 前提
ここでは、社会全体として孤独についてのモニタリングについては論じない。それらについては、多くの研究において具体的な数値が上げられており、現時点で、それらのデータを疑う合理的な理由はない。本章における、孤独の計算とは、「個人」の孤独の計算を意味するものとする。
10.2. 自殺率
孤独の定量化で、最初に上がるのは、自殺率である。これについては論を待たない。ただ私(江端)の検討結果では、自殺に至る原因のトップ(40%箸キ50%)は、「うつ」という病気であり、これが「孤独」との相関があることは、感覚的には明らかであるが、厳密な意味では疑問はある。
が、自殺率が、孤独計算の重要なパラメタであることは、今さら検討しなくても良いと考える。
10.3. 世帯構成
世帯構成(家族や伴侶の存在)は、孤独を推定する協力なパラメタである。
10.4. 犯罪発生率
これは、孤独から導かれる「貧困」が問題とされている場合は、犯罪の種類によって、孤独を推定できる可能性がある
10.5. 肥満率
アクティビティは、孤独を測る指標となるうるが、個人差が大きいこともあるので、検討が必要である。
10.6. イベント参加率
夏祭りなどのイベントに参加する人間の数は、個人の孤独を特定するには困難であるが、地域の孤独率を算出する方法としては有用であると言える。(画像処理技術などと使えば、人数のカウント等は難しくない)
11. 用語
11.1. 新自由主義
- 国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和、市場原理主義の重 視を特徴とする経済思想のこと。
- 資本移動を自由化するグローバル資本主義は新自由主義を一国のみならず世界まで広げたもの
- 対立する概念は、「国家による富の再分配を主張する自由主義」または「社会民主主義」
つまるところ、国家や組織による個人への介入を排して、個人の能力と価値観に強く依拠する自由な社会、という理解で良い。裏を返せば、(1)能力主義、(2)自己責任、(3)競争是認、(4)自力解決を、強いられる社会であると言える。
もっと簡単に言えば、
- 私に関わるな。私の考え方は私のもの。その考え方に介入し、あるいはそれを妨げること(妨害、等)することは何人たりとも許さん
と
- お前のことは、お前のこと。甘えるな。自力でなんとかしろ。(国家も含み)私には関係ない
が同時に存在すること。
11.2. 反知性主義
11.2.1. 「知性主義」から見る「反知性主義」
- 知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる主義・思想
- 「知性を否定する」主義ではなく、「知性主義に反対する」という主義であることに、注意すること
- 乱暴に言えば、「知性主義」とは、科学、計算、統計などのロジックに基づく考え方であり、直感、感情、情緒等を重視しない主義、と言える。
- さらに乱暴に言えば、知性主義は、基本的に少数のエリートの作る権力基盤のプラットフォーム、コンピュータで言うところのオペレーションシステム(OS)とも言える。
- (江端主観で)知性主義の最大の特徴は、「見える化」できないという点にある。非常に複雑で、多くの人にとって理解できないものとして、権力のプラットフォームとして稼動し続けるものである。
11.2.2. 反知性主義の実施例とされているもの
個人的であり、主観的であり、かつ観念的であることを承知の上で、江端主観で、反知性主義の実例を上げるとすれば、以下のものが該当すると考える。
- 選挙前に減税や弱者支援を訴えて当選を得ることを可能とする「ポピュリズム」
- 2016年のアメリカ大統領選挙におけるドナルド・トランプの掲げた「アメリカファースト」
- 新型コロナウイルス感染における「ワクチン陰謀論」
- SNSを用いることで、反対意見を持つ者を簡単にフィルタリングし、極端な思想で強化・先鋭化された「ネオナチ」「イスラム原理主義」
11.2.3. 反知性主義のメリットとデメリット
ロジックで反論できなくとも「嫌なものは嫌」であり「好きなものは好き」という意見は尊重されなければならない。今となっては、タブーとなっている、人種差別、性別差別等も、当時には、それを支える強固な理論(主に権力側の)があったが、それを、反知性主義的な考え方によって、打破されてきた。
そのような意味において、反知性主義は、民主主義の根幹をなすべき考え方であると言える。
一方、反知性主義は、知性主義的なものに対する感覚的な嫌悪をベースとする傾向があるため、科学的、数学的アプローチを嫌い、比較的、簡単に陰謀論に人々を導く傾向が高い(但し、陰謀論と非陰謀論は、完全に分離できるものではなく、現時点で、陰謀論を定義する方法はない)。
このように、反知性主義は、物事を理解する、という面倒くさいプロセスを放棄することを、正当化する手段としても用いられ、ポピュリズムを容認し、カルト集団や原理主義集団を育成するという、社会悪の側面を持つ。