位置情報サービスからインタフェース社会へ
私が、位置情報サービスの研究を行ってきたという話は、すでに何度か致しました。
この研究を進める上で、最も大変だったことは、技術開発ではありませんでした。
傲って(おごって)いると思われると嫌なのですが、詰るところ、技術というものは、金と人があれば、ある程度まではなんとかなるものなのです。
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位置情報サービスの研究の最大の敵は「嫌悪感」でした。
いわゆる「どこにいるか第三者に知られるのが嫌」という奴です。
「プライバシー」という言葉で良く語られてましたが、この「嫌悪感」なるやつは、まったく異なる観点から、我々の研究を技術開発を徹底的に邪魔しまくりました。
『そんな、プライバシーの侵害になるサービスが流行る訳がない』だの『人格権の侵害』だの、と、まあ色々言われて、研究の邪魔になること、まあ果てしなかったこと。
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私は、その度に思ったものです。
「あんたは、あんたの時間に、突然、予告もなく割り込んで、プライバシーを平気で破壊する機械 ―― 携帯電話 ―― を持ち歩いているが、それは良いのか?」
とか、
「世界中の地図を開示され、さらに自宅の外観写真まで公開されて、大騒ぎしていたのに、今は、もうどうでも良くなったのか?」
とか、
「殆どの駅に、ほぼ間断なく設置されている監視カメラは、あんたの顔を完璧に記録しているが、これは気にならないのか?」
とか。
私が不愉快に思うのは、プライバシーを標榜するくせに、その取扱に一貫性がなく、論理破綻していることです。
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しかし、まあ、「嫌悪感」とはそういうものだということは理解しています。
完璧に論理的であることは、人間であることを否定するようなものでしょうから。
それと、年頃に至ってない娘を持つ父親としては、娘達の位置情報は勿論、電話、メールアドレス、その他、ありとあらゆる情報が、第三者に漏洩することは、やはり心配ではあります。
とは言え、我々の存在している場所が完全に把握され、第三者に共有されることは、時間の問題だと思います。
#Facebookで、私はこれを確信しましたね(後日語ります)。
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では、ここで一つのテーゼを提供してみたいと思います。
世界の全ての人間の位置情報が、全て開示された世界において、何が起こるか?
私には、一つの仮説があります。
「どーでも良くなる」
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我々は他人の行動やプロセスには興味がなくなり、
その人の嗜好や属性も気にならなくなり、
その人と私との間におけるインターフェースだけが重要な要素になる、と。
隠されない(隠すことができなくなった)本人のプライバシーは、本人の属性としての個性と同化します。
その気の遠くなるような膨大な種類の価値観は、もはや、その人が「何を嗜好しているか」という観点を消滅させてします。
ただ、「その人」と「私」の関係性は、「価値があるか/ないか」のみの価値観で支配される世界になる、ということです。
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うーん、これでは良く分からないか。
では、卑近な例ではあるが、実施例を提示してみよう。
例えば、
「ゴスロリの衣装を着ている上司(男性)に、書類の決裁の印鑑を貰いに行く」
「パンクファッションをしている銀行員に、融資の相談をする」
「幼女趣味であることが分っている社長の会社に、入社する」
というイメージでしょうか。
# うーん、上手くないなぁ・・・。まだ私も整理しきれていないのです。
要するに、ありとあらゆる人間としての属性を切り捨てた、究極の「インタフェース社会」の具現化、と言えるものになるのだろう、と考えています。