江端さんのひとりごと 「日本における野球文化に関する一考察」

2025年8月13日

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江端さんのひとりごと
「日本における野球文化に関する一考察」

エルカン、江端共著
2002/01/11

私は可能な限り、人が楽しんでいることに「ケチ」をつけることはしないように心がけています。

それは、私が楽しんでいることにケチをつけられるのが嫌であるから、おそらく他の人も同じ気持になるだろうと、容易に推測できるからです。

しかしそれは、この私に迷惑をかけるものでないことが前提です。

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私は冬と言う季節が好きです。

静謐で美しい風景、一面の銀世界、生命が息を潜めて雌伏する限られた期間であり、スキーと言う素晴しいスポーツが楽しめる季節だからです。

そして、何より「野球」と言う愚劣な習慣が、日本国から消滅する唯一の期間であるからです。

私は別に野球が嫌いと言うわけではありません。

むしろ、好きな方だと思います。

独身のころは、週末になると独身寮の近くにある草野球場までバイクを転がして、中学生たちのプレイを楽しく観戦していたものです。

素人愛好家チームのプレイは、下手な漫才より十分笑えると言う、数あるスポーツの中でも異色のエンターテイメント性を持つ優れたスポーツであると信じています。

ところが、この野球と言う優れたスポーツは、冬と言う季節を除いて「野球」と言う名の愚劣な日本固有の文化、あるいは商業習慣に転換され、それは、この私に滅茶苦茶な迷惑をかけやがるのです。

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プロ野球に見られるように、スポーツがショウビジネスとなるのは、別に自然なことです。

私は、アマチュア精神なんぞは興味ありません。

人間の持ちえる能力を余すことなく見せる、プロフェッショナル達の技は、私達に感動を与えてくれます。

マスコミが、マジョリティを中心として番組を構成するのは当然です。

ですから「プロ野球」の上映時間の枠が大きいのも仕方ないでしょう。

ですが、だからと言って、それらのショウが、自由気ままに上映時間を変更したりして、他のショウの邪魔をしても良いと言う理屈が成りたつ訳はありません。

何が腹が立つと言って、『スポンサーの御好意で、放送を30分延長いたします』と言う、これほど偉そうに構えた、傲慢な、むかつく台詞が、世の中にあるでしょうか。

大体、番組を延長するくらいなら、最初から固定枠時間で取っておくか、プレイボールの時間を早めればよかろうに。

殆ど例外なく放送延長することは判っているのに、恩着せかましく、何が「御好意」だ!馬鹿野郎!!「御迷惑」もいいとこだ!!

途中で雨が降ったり、早めに試合が終わったのであれば、あるメジャーチームの著名な監督の個性や振舞いを、とことんこけにして笑い者にする為に編集した、失礼無礼極まりない編集テープでも流していればいい。

少なくとも野球スポーツという世界で、あれ程貢献した方に対して、あれ程無礼なプログラムを編集するマスコミ、そしてそれを見て笑っていられると言う視聴者の頭の程度も知れたものですが。

たかがスポーツショウごときが、その後の番組のスケジュールを全部滅茶苦茶にするから、その結果として、予定していた自分のスケジュールも巻き添えくらわされるし、折角のビデオ予約は番組がずれこんで、みんなパー。

大体、自局のプログラムの時間管理もできんようで、よくぞメディアを標傍できるものだ。

少しは恥を知れ。

大体、マスメディアで、時間の厳密管理のできない野球と言うスポーツを、あえて放送するのであれば、テレビ局各局において、時間管理ができるように独自のルールを制定すればいいではないか。

「3アウト、チェンジ」の周回方式から、1回表裏共に6分30秒(9回で120分)をベースとして、変則ルールを作ってもいいだろう。

できないとは言わせない。

相撲を見てみて下さい。

相撲はその由来や歴史から見ても、全く時間の概念がないスポーツであったことは明白です。

しかし、日本大相撲協会が、多くの相撲ファンの反対の中にありながら、相撲文化の存続を賭けて敢えてメディアに進出し、現在のNHK&日本大相撲協会による厳密時間管理の制御技術を確立したことは、マスメディアの鏡であり、規範であり、模範であると、私は信じます。

『さあ、時間いっぱいです』

この一言に込められているメディアと相撲の融合の前衛的な文化を、時代遅れで無知性で愚劣で、おまけに、はた迷惑な「プロ野球」と言う商業習慣は、ほんの少しでもいいから、模倣するところから始めるべきです。

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さてここまでは、「プロ野球」という商業習慣を提供する側の批判でしたが、次は、それを提供される側から見てみましょう。

自分の贔屓のチームが勝てば嬉しく、負ければ悔しい。

当然です。

これは理屈以前の話であることは、私でも理解できます。

そもそも、その動機がなければ、スポーツを観戦すること自体の意味も分からなくなります。

金銭も利害も関係のない、純粋な応援。

これは人間の持つ、数少ない善なる資質の一つであるかもしれません。

しかし、世の中には、自分の贔屓のチームが負けると、翌日不機嫌になり、部下に当たり散らすような、上司が存在するそうです。

あるいは、子供に当たり散らす、父親や母親も。

決めつけて良いですが、こいつらは、馬鹿です。

上司、親として以前に、人間として失格です。

贔屓のチームに関する関心は、あくまで個人の問題であり、他人には何の関係もありません。

例えば、ある日、私が個人的に不快な目に合い、それが理由で他の誰かに当り散らしたりしたら、当然私は非難されて然るべきでしょう。

しかし、問題は、このような人間失格達の振舞いを許容する、日本社会の体質の方が深刻であり、私はとても心配です。

特に「プロ野球」に関しては、異様なほど甘い。

『プロ野球を語れん男は、男ではない』と決めつけた人がいるそうですが、この定義によれば、私は男ではないようです。

一体、どんなふうに理論を展開すればこんな結論に至れるのか、その精神構造も含めて、私は本当に知りたいです。

一方、プロ野球は、日本におけるコミュニケーションの重要な共通基盤となっているのも事実です。

例えば、「最近の巨人は駄目だね」と誰かが言った瞬間から、「最近の巨人は駄目」と言うスレッドで、会話は進行されなければなりません。

つまり、この手の会話は、問題提起を行なっているのではなく、一種の挨拶のようなもので、

「最近の巨人は駄目だね」=「やあ、御機嫌いかが」

「まったくだね」=「ええ、ありがとう」

と同義のようなものらしいのです。

何故なら、その会話の中に、どんな判断基準とどのような状況から「最近の巨人は駄目」と判断するに至るのかと言うような会話は、決してなされないからです。

加えて、本当に驚くべきことは、「最近の巨人は駄目」が例え単なる挨拶に過ぎないとしても、「最近の巨人は駄目」に関する共通的なコンセンサス(同意)が、一般的に得られていると言うことです。

これはかなり恐ろしいことです。

歴史的に見て、国民を同一のコンセンサスの下に統合することができたものといえば、太平洋戦争戦時下の政府の国威高揚政策くらいなものだと思います。

プロ野球のように、単純明解で、殆ど思考能力を必要とせず、好き勝手なことを吠えているだけでよいもの(勿論、プレーヤにとっては全く逆の立場になりますが)が、日常会話レベルに通用するコンセンサスを形成しているという

ことが示す事実は、

(1)プロ野球は、日本における真にコミュニケーションの重要な共通基盤である

と言うよりは、むしろ、

(2)その程度のものでしかコミュニケーションを測れないほど、日本人は話題が貧困である

と解釈するのが自然ではないかと思います。

これを納得するために、チャンスがあったら、次の様な実験をしてみて下さい。

「最近の巨人は駄目だね」

「どういう風に駄目ですか」

まあ、賭けてもいいですが、相手は絶句するか

「どういう風って、そりゃお前、駄目って言えば、駄目だろうがよぉ」

とこの程度の返事しかできないでしょう。

つくづく、知性のない会話と言わざるを得ません。

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さてここからは、「プロ野球」の結果を報知するニュースメディアいう観点から見てみましょう。

他のTV番組を見ている最中に「速報」のテロップが流れ、「ん?どこぞで選挙でもやってたか。それとも地震でも起きたのだろうか」と思って注視すると、『巨人X阪神2-0』。

確か京成電鉄の駅だったと思いますが、構内放送が大音量で流れるから何かと思えば、これまた野球試合の結果報告だったりする。

一つ目の事例は、「あなたはこのチャンネルを変えなくても、ちゃんと試合結果を報告するから、安心してうちの番組を見ていて下さいね」と言うメッセージでしょう。

二つ目の事例は、どうせ電車の待ち時間などでは、駅のインフラ(駅内放送)が遊んでいるんだから、乗客へのサービスとして、野球試合の結果報告でも流してみたらどうだろうと言う、小手技のサービス(ラッシュ時対応に車両を増強するとか、痴漢対策などではなく)で顧客のサービス好感度を上げようという姑息な手段であることは明白です。

しかし、そういうニュースメディアを利用する側(視聴者)も、全く理解に苦しむ行動をとります。

野球中継を見て試合結果を知った上、その判りきった結果をスポーツニュースで再確認し、更に翌朝にはスポーツ新聞で知り尽くした結果を再々確認しするプロ野球ファンの振舞いは、常軌を逸脱しているとしか考えようがありません。

複数のニュースメディアを利用する場合、私たちは、それぞれのメディアの主張を多面的に分析して、事実はどこにあるのか調べようとすることがあるかもしれません。

例えば、日テレでは「巨人勝利」と報じていたが、フジでは「中日がサヨナラ満塁」だとか、サンケイスポーツとニッカンスポーツでは結果が異なる、というのであれば、どれを信じていいか判らずにあれこれ見たり読んだりする、というのは納得できます。

しかし、どうせ同じ結果しか報じていないメディアを、どうして何種類も見るのか、全く不可解です。

なにより私は、あのスポーツ新聞メディアの、首尾一貫しない軽薄な論調が嫌いです。

シーズン開始時に「今年も最下位決定!監督更迭!?」と書き、シーズン終りに「信じていたぞ!我等の巨人!!」とよく書けるもんだと思う。

もし人間だったら、私は、こんな奴とは絶対付き合えない。

スポーツ新聞を愛読している人々は、よっぽどの「お人よし」か、・・・いや、まあ、「お人よし」と言うことにしておきましょう。

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さて、日本におけるタブーといえば、色々ありますが、「高校野球」もまた批判を許されないタブーの一つでありましょう。

ここで私が批判するのは、高校野球、そのものではありません。

批判どころか、私は高校野球は好きな方です。

これについては、後述します。

ここで「高校野球」(かっこ付)は、以後、

全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高校野球連盟主催)

の中でも、特に、

甲子園球場で開催されているもの

を指すこととします。

あなたは、「高校野球」に出場している高校生が、どれくらいか知っていますか。

1チーム15人で49都道府県50チームで750人。

夏と春の両方を出場するチームもあるかもしれませんが、ここでは多めに倍と見積もって、最大1500人。

平成11年度の高校数が5481校で、その全部に野球部があったと仮定し、さらにその部員数も少な目に30人くらいとしてみましょう。

「高校野球」に出場できる野球部の高校生は、0.009122、1000人の内、わずか9人。1パーセント割っています。実際はもっと狭い門でしょう。

一方、日本の最高学府と言われる東京大学の学生数は15860人、大学院や浪人も含めたとして、少し少なめに6年分で割って見たとしても、2700人が毎年入学している訳ですよ。

甲子園大会出場経験者から見れば、東京大学の門など、全然広い。

甲子園大会とは、一回負ければもうおしまいと言う、実世界では考えられない程の苛酷な条件の戦いを生き残ってきた、すさまじい強運をたずさえたエリーの中のエリート、超スーパーエリート達だけで開催される競演です。

そんな「エリートの競演」なんぞ見て、本当に楽しいか?

私は応援する気にもならん。

繰り返しますが、別に野球が嫌いと言うわけではありません。

すでに述べましたが、私は、独身のころは、週末になると独身寮の近くにある草野球場までバイクを転がして、中学生たちのプレイを楽しく観戦していたものです。

「高校野球」の地区大会の楽しさ(できるなら初戦から3回戦までの観戦は特に良い)と来たら、あんなエリートの競演なんぞとは、到底比べものになりません。

- ガムをクチャクチャやりながらバッターを睨めつける、茶髪のピッチャー

- 軽く首を回した後、バットでレフトスタンドを差し、予告ホームランの仕草をするバッター。

- 三遊間の簡単なゴロを、リズミカルに調子を取りながら、きれいにトンネルするショート。

- 定位置のフライなのに、1-2塁間近くまで全力でダッシュして、エンタイトル2ベースにしてしまうライト。

- ゲッツーのチャンスがある度に、ファーストへの送球を暴投して、律義に相手チームに得点を献上するセカンド。

- センターに上がったフライを見て、かっこうを付けて早々と(??)に戻りかけたら、そいつが取りそこなって、慌てて定位置まで走りもどるレフト

- 盗塁しようとして、1-2塁間で足を滑らせて転ぶランナー

- 10点以上の点差があって、9回裏に、『ここから!ここから!』と連呼する監督

こんな面白いスポーツ観戦が、一体世界中のどこにあるでしょうか。

そして、日本における99%の野球と言うのは、このような本当に楽しいものなのです。

あの甲子園大会の高校生たちが繰り広げるプレイが、如何に超人的、超エリート的であるかは、テレビで高校野球とプロ野球を見て、えらそうにチーム監督の采配にケチをつけるおっさんなんかに比べたら、私の方が間違いなく理解している。

かたや、NHKの特集番組で、相手チームの投手の癖を、数台の高性能カメラで、徹底的に調べあげ、その対応の練習に余念がないバッテリーの姿を見ました。

金銭的な物量作戦的を、当の高校生だけでできるわけなく、金で雇われた専属の大人のスタッフが指揮しているのは、当然としても-----

涙が出そうなほど、「高校生らしい」

すがすがしいったらありゃしません。

まあ、それはさておき、ここで彼等が、打算や欲得抜きで一生懸命であると言うことは事実であり、そんな彼等のひたむきな姿が、多くの人に感動を与えるのだと言うことを、私は否定しません。

相当多くの人は、何かに一生懸命頑張っている人を見るのが好きです。

例えば、正月に行なわれる、箱根駅伝。

彼等が、心臓が破れるのではないかと思われるような地獄のような苦しみに耐えながら、険しい山道を走り、次の走者へと襷(たすき)を繋ぐひたむきな姿。

テレビ中継で、そんな彼等の姿を見ながら、こたつに入って、刺身を摘みながら、お屠蘇を飲みつつ、うたたねをする。

箱根の山道なんぞ、一生走ることも(多分、歩くことも)ない、正月にのみ許される、多くの日本人の優雅な時間、と言ってよいでしょう。

ちょっと話がずれましたが、それにしても「高校野球」の特別扱いは、度が過ぎていると思うのです。

そもその「高校野球」と、例えば「インターハイ卓球」と一体何が違うのでしょうか。

もっと極端なことを言えば、「高校野球」の出場者と「高校数学オリンピック」の出場者を、その質から比較してみれば、どちらもスーパーエリートであることには変わりありません。

どの高校生にして、ひたむきで一生懸命であると思うのです。

しかし、「高校野球」の投資額は、他の「高校なんとか」と比べて、比較にならないほど凄い。

10数年程前に、甲子園常連高と言われている野球部の維持費が、年間5000万から一億、と言われていたので、今は軽く2~3億くらいにはなっているでしょう。

甲子園の一日利用料金が幾らか分かりませんでしたが、1999年のオールスターの入場者数が11852人、売上が50億3121万7000円。

まあ、これは特例としても、一日あたりの売り上げが2億4048万円だそうですから、高校野球の為の球場使用料も大体、一日億を単位として、20日弱で20億円くらいか。

一試合あたりの観客動員数を5000人と見積もって、一日4試合2万人。

地方からの応援の移動コストをかなり低く見積もったとして一人往復2万円としても、延べ観客動員数250000人で50億。

NHKが「高校野球」の中継にあたる時間、どのような番組作成も必要とせず高視聴率を取れること(そして、受信料支払の強力な根拠とすることができること)、民放が、「高校野球ダイジェスト」のような番組で、スポンサーからどれくらい金を取っているのかなど、「高校野球」が、経済効果抜きで考える脳天気な人間もいないでしょう。

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世間擦れした大人の手垢のべったりついた「高校野球」を作っておいたくせに、日本高校野球連盟の馬鹿さ加減には、ほとほと飽きれてしまいます。

野球部員の一人が喫煙したことがばれて、そのチームが甲子園出場の辞退を余儀なくさせられた、と言うニュースをよく聞きます。

喫煙がいかんと言うのであれば、その喫煙した一人が出場を辞退すればよかろうに、なんでチーム全体が巻き添えを喰らわねばならん。

連帯責任などと言う愚劣な考え方が、全体主義的でファッショであり、かつ民主主義的な物事の捉え方から外れていることなどは、近代民主主義社会の常識中の常識。

ちょっと知性のある人なら分かりそうなもんです。

日本高校野球連盟を構成する方々は知性のない面々、と決めつけてよさそうです。

平成4年夏の甲子園で、明徳義塾高校が星稜高校の松井秀喜選手を5打席連続敬遠したことについて、当時の日本高野連会長のなんとかと言う奴は、以下のように語ったそうです。

-----走者がいる時、作戦として敬遠することはあるが、無走者の時には、正面から勝負して欲しかった。1年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか、云々-----

この記事を読んだ瞬間、私が真っ先に思ったのは、

『もし、こいつが、(公的な)日本高野連会長として発言しているなら、本当の馬鹿だ』

と言うことです。

腐っても、日本高野連会長ともあろう人間が、こんなコメントをしたら、

「高校野球」の監督や選手達は、一体どうやって試合を闘えと言うのか。

『この敬遠は、高校生らしいだろうか』

『この牽制球は、高校生らしい投げかただっただろうか』

『そもそも、「高校生らしい」って何だろう』

これは、野球の領域ではなく、哲学か、そんなによいものでなけでば、大衆心理学の分野です。

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私の得意技は、テニスボールの上側を擦ってドライブ気味に強打するサーブです。

これが、相手の正面付近でバウンドすると、レシーバから見ると突然左に曲がるので、フォアハンドに回っていたレシーバは、バックハンドへの切り替えができずに、リターンを返せなくなります。

サービスエースです。

私は、私のこのサービスが返せない選手ならば、試合中、全部このサーブを打ち続けます。

-----相手がいる時、作戦としてそういうサーブを打つことはあるが、ストレートでセットカウントを取っている時には、癖のないサーブで勝負して欲しかった。1年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校テニスではないか、云々-----

と言われたら、私は、「あんた、正気か」と問い返すことでしょう。

試合とは、全力を尽して、敵を「負かす」ことで、ルールと言うのは、それさえ守っていれば何をしても良い、と言うものです。

ある試合が、たまたま「すがすがし」かったり「感動」したりすることもあるかもしれませんが、選手達は、観客を「すがすがし」くさせたり「感動」させたりする為に闘っている訳ではないのです。

それは、観客の思い上がり、と言うものです。

そういうものが欲しければ、そういうことを目的としたコンテンツは、世の中には履いて捨てるほどあります。

選手達に、下らない観客の思い上がりを押しつけるものではありません。

「選手宣誓でうたった高校野球精神を踏みにじる行為」

「子どもの教育に悪影響を与える」

「5回とも敬遠というのはやりすぎだ」

はははは。

お前たちの中にだけある、幻想の『高校生らしさ』なるものを追いかけて、死ぬまで言っていろ、馬鹿野郎めが。

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さて、実は、まだまだネタはあるのですが、文字通り切りがないので「日本における野球文化に関する一考察」に関する本エッセイは、以下の私の提言を持ちまして、終了したいと思います。

(1)野球中継に関しては、その時間、内容に関して一切の文句を言わないので、終了時間を明確にすること。

(2)「高校野球」に関しても、あまり多くの注文はしないが、「高校生らしい」高校野球を見たいのであれば、まずそのチームの監督を大人にやらせることを全面撤廃し、その学校の野球部の部員にやらせるのこと。

なんで「高校野球」の采配に、いい年したおっさんがしゃしゃり出てくるの、と思っているのって、私だけですか?

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

2025年8月13日未分類

Posted by ebata