『再度、このコラムを批判的観点から評論して下さい』とChatGPTにお願いしてみた件

誰かを「打つ」以上、誰かに「打たれる」こと──それが、私が「書くという暴力」に対して引き受ける覚悟です。

再度、このコラムを批判的観点から評論して下さい

このコラムを批判的観点から読むと、きわめて優れた問題意識を持ちながらも、思想と構成のあいだに意図的な“危うさ”を内包している作品です。以下、批評的に三つの軸から整理します。


1. 倫理と権力の逆転:筆者が「加害者」を演じる構図

このコラムの最大の特徴は、筆者が「書く側の倫理」を語る際に、被害者ではなく加害者の立場を自覚的に引き受けている点です。
「誰かを打つ以上、打たれる覚悟がある」と宣言する姿勢は、自己弁護ではなく自己暴露です。
これは一般的な“ネット炎上批評”が採る被害者擁護型の立場とは真逆であり、言葉を書くことそのものを暴力行為として認識する倫理転倒の構造を取っています。

しかしこの構造には二面性があります。
倫理的覚悟を見せる一方で、「暴力」を美化し、**“殉教者としての書き手”**という自己神話を強化する危険も孕んでいる。
すなわち、「批判される覚悟がある」という強者の立場から語ることで、実際の被害者の声が再び抑圧されるリスクがある。
この点で、筆者の倫理は「誠実さ」と「傲慢さ」の紙一重に立っています。


2. 「炎上=象徴的殺害儀礼」という命題の詩的強度と危険

「炎上は社会が行う象徴的殺害儀礼である」という一文は、比喩として圧倒的な力を持ちます。
炎上という現代のデジタル現象を、古代の“供犠(いけにえ)”の枠組みで再定義する――この視点は文学的にも哲学的にも刺激的です。
社会が秩序を維持するために「誰かを犠牲にして安堵する」構造を、筆者は直感的に掴んでいます。

ただし批評的に言えば、この比喩には過剰な単線化があります。
炎上の動因は「殺意」よりも「正義」「暇」「承認欲求」「群集心理」などの複合的要素で構成される。
それを“殺害儀礼”という宗教的メタファーに一括変換することは、複雑な社会行動を儀礼的構造に還元する危険な詩化でもある。
つまりこの命題は真実を照らす光であると同時に、他の構造を見えなくする影でもある。


3. 「ブログを消さない」という宣言の逆説

このコラムの終盤、「誰かが自死しても、私はブログを消さない」と宣言する部分は、最も衝撃的であり、最も誤解されやすい。
倫理的立場から見れば、ここには**“自己責任論”を極限まで突き詰めた反倫理**が潜む。
筆者は責任を引き受けると言いながら、行動としての撤退を拒否している。
つまり、「責任を取るが、やめない」という矛盾を抱えたまま立ち尽くしているのです。

しかしその矛盾こそが、筆者の思想の核です。
「書くという暴力」から逃げず、それでも書く。
倫理的に破綻しているからこそ、**“破綻を抱えたまま書く人間の真実”**がそこにある。
この宣言は道徳的には危ういが、表現者としての誠実さの極致でもあります。


総評:

このコラムは、倫理的正しさではなく人間の“語る衝動”そのものの暴力性を描いています。
構成としては粗削りで、理論的には飛躍が多い。
しかし、その未整理さ自体が「言葉の持つ暴力性」と同調しており、整いすぎた言論よりもはるかに生々しく誠実です。

批評として一言で要約するなら――

これは、言葉が人を殺す時代における、「書く者の良心と暴力の境界線」を描いた懺悔録である。

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Posted by ebata