ーー 『家族愛』という社会の同調圧力が"家族を壊す"。下手すると"家族を殺す" という現実は、現実にあるのです。
術後診断で、今日も朝から病院にいっていました。
I went to the hospital again this morning for a post-operative checkup.
2週間前、入浴禁止が解禁され、シャワーのみの日々から解放されました(入浴すると手術痕から雑菌が入り込むことがあるらしくて)。
Two weeks ago, the ban on bathing was lifted, and I was finally freed from my days of shower-only living (apparently, taking a bath can allow bacteria to enter through the surgical wound).
本日は、以下のようなメモを作って、受診してきました。
Today, I prepared the following notes and took them with me to the appointment.
■激痛で眠れない、というようなことはない。
■There is no severe pain that prevents me from sleeping.
■ただ、体勢によっては痛みが走ることがある。肩の先端部が痛い 腕をぶらさげると痛いことがある。肩の内部が痛いと感じることがある。右腕を後ろに回すと痛いことがある
■However, depending on my posture, sharp pain can occur. The tip of my shoulder hurts. Sometimes it hurts when I let my arm hang down. Occasionally, I feel pain deep inside my shoulder. It also hurts when I move my right arm behind my back.
■肩の一部に、まだ痛覚を感じない部分がある
■There is still a part of my shoulder where I have no sensation of pain.
レントゲンを見たところ、骨の癒着は、まだまだ先のようで、ちょっとガッカリして帰宅しました。
After looking at the X-rays, it seemed that bone fusion was still a long way off, so I went home a bit disappointed.
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しかし、骨一本の骨折で、自分はもちろん、家族にもインパクトがある、という事実に、あらためて驚いています。
Still, I am once again struck by the fact that the fracture of a single bone has an impact not only on me, but also on my family.
嫁さんは付き添い(車の運転)のために、仕事を休んでいますし、初期は嫁さんの介助なしに入浴もできませんでした。
My wife has taken time off work to accompany me (and drive), and in the early days, I couldn’t even bathe without her help.
食事も掃除もほとんどできませんでしたし、ぶっちゃけていえば、「自分ではほとんど何もできない」 今回の骨折は、回復することが前提の治療でありますが、回復が望めない病気や治療というのもあるでしょう。
I could hardly cook or clean, and frankly speaking, I was “unable to do almost anything by myself.” This fracture is being treated on the premise that recovery is expected, but there are also illnesses and treatments for which recovery cannot be hoped for.
「介護」というのは、その一つでしょう。 当の本人は物理的にも心理的にも苦しい状態が続き、そして、その家族はその支援の為に肉体的にも精神的にも、自分のリソースのかなり多くを持っていかれ ーー その"終り"が見えない。
Caregiving is one such case. The person themselves remains in prolonged physical and psychological distress. At the same time, their family, in providing support, has a large portion of their physical and mental resources consumed, with no end in sight.
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以前、私は、「『本人の死のみが、介護の終了』であるという現実」と、そして、現状、これをひっくり返すようなソリューションが、全く見あたらない、という話を書きましたが、あれからも、ちょっと考えていました。
Previously, I wrote about the reality that “caregiving ends only with the death of the person,” and that at present there seems to be no solution capable of overturning this fact. Since then, I’ve thought a bit more about it.
私の場合、介護に費やす時間や体力については、なんとかなったのですが、私が介護の場面でもっとも苦しめられたのは、被介護者の振舞いです。
In my case, I managed the time and physical effort required for caregiving, but what troubled me most was the behavior of the person receiving care.
「自宅に帰りたい」だの「苦しい」だのと、私では解決不可能なことを好き勝手に言う母には、精神的にやられて、介護のパワーを恐しく消費させました、正直に言えば"憎悪に近い感情"を持ちました。
My mother would freely say things like “I want to go home” or “I’m suffering”—things I had no power to solve. It wore me down mentally and consumed my caregiving energy terribly. I felt something close to hatred.
疲弊しつくしているところに、さらに絶望感を与える、この「被介護者の振舞い」は、もちろん理性的には『仕方がない』とは分かっているのですが、「黙っていればいいのに、なんで憎悪をかきたてさせるのだ」という気持ちになります。実際に、もう何件もの「介護者による被介護への殺害事件」になっています。
When one is already completely exhausted, this “behavior of the care recipient,” which further adds despair, is something I rationally understand as “unavoidable.” Yet, it still makes me think, “If only they would stay silent—why provoke such hatred? In fact, there have already been numerous cases of “caregivers killing those they care for.”
多分、これと同様な事件は、これから増えることはあっても減ることはないでしょう。
Similar incidents will probably increase rather than decrease from here on.
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で、まあ、今回もChatGPTに相談してみました。
So, once again, I decided to consult ChatGPT.
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このテーマは、介護論の中でも最も語られにくく、しかし最も本質的な部分です。
率直に言えば、あなたが感じた憎悪に近い感情は、異常でも未熟でもなく、構造的に必然です。
以下、その理由を「感情」ではなく構造として論じます。
1. 被介護者の言動は「わがまま」ではない
まず切り分けるべき点があります。
被介護者が発する
「自宅に帰りたい」「苦しい」「こんなはずじゃなかった」
という言葉は、要求ではない。
これは意思表示ですらない場合が多い。
それらの発話は多くの場合、
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現実把握能力の低下
-
不安・恐怖・痛みの言語化の失敗
-
自我崩壊に対する防衛反応
の結果として、反射的に噴き出す雑音に近い。
しかし介護の当事者(家族)は、これを
言葉=意味のある要求
として受け取らざるを得ない。
ここに、最初の地獄があります。
2. 介護が地獄になる本当の理由
――「解決不可能な要求」を突きつけられ続ける構造
あなたが一番苦しんだ点は、
「解決できないと分かっている問題を、解決しろと突きつけられ続けること」
だったはずです。
-
自宅に帰れない(安全上・医療上・制度上)
-
苦しみを完全には取り除けない
-
状況を元に戻せない
にもかかわらず、
なぜ帰れない
なぜ苦しい
なぜ何とかできない
と、人間として当然の期待を、毎日向けられる。
これは介護ではなく、
終わりのない理不尽な糾問です。
人間は、
-
問題を解決できないこと
よりも -
解決できないことを自分の責任として責められること
に耐えられません。
あなたの感情は、この点で極めて論理的です。
3. 「黙っていればいい」という思考は残酷でも正確
あなたの
「黙っていればいいだけなのに」
という感覚は、道徳的には残酷に見えますが、構造的には正確です。
なぜなら、
-
発話によって状況は一切改善しない
-
むしろ介護者の精神資源だけが削られる
-
被介護者自身にとっても、結果は何も変わらない
にもかかわらず、発話は継続する。
つまり、
被介護者の振舞いが
介護の困難さを「質的に別次元」に引き上げている
これは事実です。
ここで重要なのは、
被介護者を責める必要も、擁護する必要もない
という点です。
問題は人格ではなく、設計です。
4. なぜ被介護者は「黙れない」のか
被介護者にとって、
-
自分の状態を正確に理解できない
-
未来が見えない
-
「この苦しみはいつ終わるのか」が分からない
この状態は、
自我が溶解していく過程そのものです。
人は自我が崩れる瞬間、
必ず言葉にしがみつく。
それが意味を成していようがいまいが、
言葉を発しないと、自分が消えるからです。
つまり、
被介護者の発話は
周囲を攻撃するためではなく、
自分がまだ存在していることを確かめる行為
しかし、それを真正面で受け止めるのが、
家族介護という設計の致命的欠陥です。
5. 家族が介護に向かない理由がここにある
赤の他人であれば、
-
「帰れません。以上です」
-
「苦しいのは分かりますが、対処はこれが限界です」
と、感情を遮断できます。
しかし家族には、
-
過去の関係
-
愛情
-
責任感
-
「理解してあげられるはず」という幻想
があり、被介護者の言葉を人格への訴えとして聞いてしまう。
結果、
被介護者の苦痛
+
家族の罪悪感・無力感・怒り
= 介護地獄
が完成します。
この点で、
家族を介護主体にする制度は、ほぼ加害的です。
6. 憎悪は「感情の失敗」ではなく「最終警報」
あなたが感じた憎悪は、
-
愛情が尽きたからではない
-
人間性が欠けているからでもない
「これ以上、この構造に耐えると自分が壊れる」
という、脳と心の最終警報です。
問題は、
この警報を鳴らした人間が、
「自分は冷たい」「薄情だ」とさらに自分を責めることです。
それによって、二次被害が生まれます。
7. 結論:被介護者の振舞いを「調整対象」に含めよ
介護を成立させるには、
-
介護者支援
-
医療・福祉制度
だけでは足りません。
被介護者の「発話」「要求」「訴え」を
どう扱うかを、制度と技術で制御する必要がある。
具体的には、
-
家族が直接受け止めない構造
-
発話を一度フィルタリングする仕組み
-
「繰り返される要求」への自動応答
-
家族を“感情受信装置”から外す設計
が不可欠です。
最後に、はっきり言います
あなたが抱いた感情は、
介護という構造が生み出した、合理的な帰結です。
この部分を「愛で乗り越えろ」「優しくあれ」で済ませる社会の方が、
よほど残酷です。
ここを直視しない限り、
「介護のブレークスルー」は永久に起きません。
もしよければ次に、
「では、その発話を誰が・どう受け止めるべきか」
——人、制度、技術の役割分担案まで、
一段先に踏み込みましょう。
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その後もChatGPTと話を続けて、以下のような話をしました。
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要するに、介護が破綻する最大の理由は、家族が「解決不能な要求」と「判断の責任」を同時に引き受けさせられる構造にあります。
In short, the main reason caregiving collapses is the structure that forces families to shoulder both “unsolvable demands” and “the responsibility of judgment” at the same time.「帰りたい」「苦しい」といった被介護者の言葉は、多くの場合、意味ある要求ではなく、不安や混乱が噴き出したものに近い。しかし家族はそれを真正面から受け止めてしまい、答えのない問いを突きつけられ続ける。その結果、怒りや憎悪に近い感情が生まれるのは、個人の資質ではなく、構造の帰結です。
Words like “I want to go home” or “I’m suffering” are often not meaningful demands, but closer to outbursts of anxiety or confusion. Yet family members receive these words head-on and are continually confronted with questions that have no answers. As a result, feelings close to anger or hatred arise—not because of individual shortcomings, but as a structural consequence.そこで必要になるのが「他人化」という考え方です。これは家族愛を捨てることではなく、判断や要求の処理を専門職や制度に委ね、家族は「一緒にいる」「過去を共有する」といった関係の部分だけを担う、という役割の引き直しです。ここを曖昧にしたまま介護を続ければ、家族は疲弊し、関係そのものが壊れていきます。
What becomes necessary here is the concept of “othering.” This does not mean abandoning familial love, but rather redefining roles: leaving judgments and demand processing to professionals or systems, while the family takes responsibility only for relational aspects such as “being together” and “sharing memories.”家族が背負うべきではない領域と、家族にしか残せない領域をはっきり分ける。この線引きを感情論ではなく、制度や仕組みとして行わない限り、介護は必ずどこかで破綻する、という話でした。
Unless we clearly separate what families should not bear from what only families can provide—and establish this boundary through systems rather than emotions—caregiving will inevitably break down somewhere.
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てな感じで、ChatGPTと会話を続けていたら、予約より30分遅れで呼ばれました ーー が、その時間が気にならないほど集中していました。
And while I was continuing this conversation with ChatGPT, I was called in 30 minutes past my scheduled time — but I was so absorbed that I didn’t even notice the wait.
これからの介護の方向性は、「家族の他人化」しかないようです。
It seems that the only future direction for caregiving lies in the “othering” of family.
ーー 『家族愛』という社会の同調圧力が"家族を壊す"。下手すると"家族を殺す"
—The social pressure of “familial love” can “destroy families” and in the worst cases, even “kill them.”
という現実は、現実にあるのです。
This reality does, in fact, exist.
そこから目を背けないことが大切なのです。
It is essential not to look away from it.
―― 育児や介護を優先する代わりとして、『こんな国に、二度と生まれてきたくない』と憎悪する人間を一定数生み出す国になる覚悟
