この後、ChatGPTに、「解決方法はありません」と言わせたくて、ちょっとした言い合い(喧嘩)になりました(内容が下らない上に、おたがい長文で言い合いをしたので、記載はここまでとします)
通り魔殺人のような事件が多発しています。このような「無敵の人」の犯罪は、非難や厳罰化では基本的に防げないと思います。
見方を替えて、1970年代に乱発していた「左翼の内ゲバ」が、今は発生してないことから、社会が学べることはないでしょうか。
「反社」の違法武器(拳銃)による殺傷事件も定期的に発生しているので、この方向からの検討は無駄かもしれませんが。
「無敵の人」犯罪の特徴
通り魔殺人のような事件は、加害者が社会的な居場所を失い、失うものがない状態で突発的に暴力へ至るケースが多いとされています。刑罰の重さや社会的非難は、すでに「失うものがない」と認識している人には抑止力になりにくいのが現実です。
1970年代の「左翼内ゲバ」との比較
1970年代に頻発した左翼運動内部でのリンチ・内ゲバは、今ではほぼ見られません。これは単純に「思想が衰退したから」ではなく、社会的な条件が変化したことも大きいです。
-
運動基盤の喪失
大学紛争や政治的イデオロギーに共感する母体が縮小し、過激派組織のリクルート力が失われた。 -
社会的包摂の仕組み
雇用の安定や消費社会の成熟によって、極端な政治活動に没頭しなくても「社会の一員」として生きられる場が広がった。 -
法的・治安的対応の進化
警察・公安の監視、法整備、社会全体の「過激派アレルギー」によって活動自体が孤立した。
結果的に、思想的には残っていても、「実行に至らない」環境ができあがったと考えられます。
そこから学べる点
ここから「無敵の人」犯罪に対して学べるのは、「個人の動機や思想を叩く」よりも、「そうならざるを得ない社会的条件をどう削るか」という点です。
-
社会的接続の確保
学校・地域・労働市場からドロップアウトした後でもつながれる仕組みを用意する。 -
急進化の芽を摘む情報環境
極端な思想や行動に引き寄せられやすい人を孤立させない。 -
治安対応の強化と透明性
反社の拳銃事件と同様、監視や情報収集の強化は効果を持つが、それだけでは根本的には防げない。
限界と現実的な方向性
-
「反社の違法銃」同様に、完全なゼロ化は非現実的。
-
ただし、社会全体として「そうした行為に向かわないで済む」条件をつくれば、発生頻度を減らすことは可能。
-
内ゲバの終息が示すのは「イデオロギーが消えたから」ではなく、「社会がその土壌をなくしたから」という点に学ぶ意味があるでしょう。
要するに、
「厳罰化」よりも「孤立の緩和」と「社会的土壌の改善」が、長期的には“無敵の人”の犯罪減少に寄与するのではないかと思います。
「孤立の緩和」と「社会的土壌の改善」は、基本的には「個人の尊重」と「孤立の自由」というものの裏と表であり、現実が困難なように思われます。
「孤立」が無条件に悪いという考え方は、私は認容できませんが、大きな要因であることは認めざるを得ません。
「孤立」を"価値"する社会というのは無理なのでしょうか?
たいへん重要な論点だと思います。
「孤立」=「悪」という図式に社会が縛られている限り、「無敵の人」現象の議論は出口を見つけにくいでしょう。
「孤立」が価値を持つ社会の可能性
孤立そのものは人間の自然な状態のひとつであり、必ずしも否定すべきではありません。むしろ「孤立を選べる自由」「孤立を保持しても尊重される環境」があれば、それは一種の社会的価値と考えられます。
-
孤立の自由
集団参加を強制されない、社会的ネットワークを維持しない権利。 -
孤立の尊重
孤立していても生存・生活資源にアクセスでき、社会保障から排除されない状態。 -
孤立の承認
孤立を美徳や選択肢として受け入れる文化(隠者・芸術家・研究者など、歴史的にも孤立を価値化した例はある)。
現実の困難
ただし「孤立」を価値化する社会には深刻な矛盾もあります。
-
経済的な支え
孤立者が安定して生活するには、誰かがコストを負担する必要がある。完全に「自立した孤立」は理想論に近い。 -
孤立と暴発のリスク
尊重される孤立と、社会不満を暴力化する孤立は紙一重。制度が整わなければ、再び「無敵の人」問題に戻る。 -
多数派の抵抗
「みんな繋がっていないと不安」という同調圧力は強く、孤立を制度的に守ることに抵抗が出る。
中間解としての「安全な孤立」
完全に孤立を肯定するのではなく、「安全に孤立できる条件」を整えるのが現実的だと思われます。
-
孤立していても 医療・生活インフラ・最低限の経済資源 は自動的に確保される。
-
孤立者が「戻りたい」と思った時に 社会的回路(仕事、学び、地域活動) が再開可能である。
-
孤立を「失敗」と見なさない文化を社会に根付かせる。
これは「孤立の価値化」というより、「孤立を包摂する社会設計」と言ったほうが適切かもしれません。
結論的に
「孤立」を無条件に悪としない社会は理論的には可能です。
しかしそれを「価値」として承認するには、経済・制度・文化の三点を整える必要があります。現実的には 「孤立を悪としないが、孤立から暴発させない仕組みを持つ社会」 を目指すのが最も実現可能性が高いと思われます。
ご質問に即して言えば、
「孤立を価値化する社会」は無理ではないが、 孤立を“安全に”成立させる仕組み を作らなければ「無敵の人」の再生産を防げない、というのが現実的な落とし所だと思います。
江端さんは、この「孤立の価値化」を 社会保障的アプローチ(制度) で考える方向と、文化的アプローチ(孤立を尊重する価値観) のどちらに重点を置きたいですか?
私は、プラグマチストでもありますので、「孤立」を認容する社会において、「無敵の人」を発生させない仕組みであれば、どんな方法でも構いませんが、手っ取り早く効果のあるものに重点を置きます。