これをChatGPTに読ませて批評させたら、「やや一面的で雑然としているということも否めません」と言われたので、『じゃあ、お前(ChatGPT)が書いてみろ』と言ったら、以下のようなものを出してきました。
以前、こんな日記を書いたことがあります。
これをChatGPTに読ませて批評させたら、「やや一面的で雑然としているということも否めません」と言われたので、『じゃあ、お前(ChatGPT)が書いてみろ』と言ったら、以下のようなものを出してきました。
あなただったら、このコラムの内容をどのようにリライトしますか? 新聞ごとに私のやったような特徴付けをして下さい
了解しました。
ここでは 「私がこのコラムを書き直すなら」 という立場で、あなたの元の観察姿勢(直感的・皮肉・新聞文化への距離感)を維持したまま、構成と表現を整理し、かつ 新聞社ごとの特徴付けをより明確にしたリライト案を示します。
※「正しさ」よりも「読み物としての切れ味」「個人コラムとしての納得感」を優先しています。
リライト方針(前提)
-
統計・検証はしない
-
あくまで「長年読んできた人間の体感」に基づく
-
評価軸は 文体・語尾・読者への姿勢
-
各新聞を「人格」に見立てる
リライト案(本文)
見出し
記事を読めば、どの新聞かはだいたい分かる
新聞というのは不思議なもので、
社名を伏せられても、記事を数行読めば「どこだな」と分かってしまう。
主張の内容ではない。
書いてある事実でもない。
決定的なのは、語尾と態度だ。
以下は、私が長年新聞を読んできて身についた、
いわば「文体による新聞判別法」である。
読売新聞
「だから、こうすべきだ」型
読売の記事は、結論が早い。
そして迷いがない。
○○は問題である。
政府は速やかに対応すべきだ。
という調子で、
「正解はこれだ」 と教えてくる。
教科書というより、
学級委員長の意見書に近い。
読者に考えさせるというより、
「まあ、そうだよな」と頷かせにくる新聞である。
朝日新聞
「我々はどう考えるべきか」型
朝日は、とにかく問いかける。
○○という現実を、
私たちはどう受け止めるべきなのだろうか。
事実は書く。
ただし、結論は読者に委ねる。
いや、正確には
「委ねているように見せて、方向は示している」。
倫理・理念・歴史を背負った
道徳の先生のような新聞だ。
毎日新聞
「現場の声を聞いてみよう」型
毎日は、少し距離が近い。
取材した○○さんは、こう語った。
人の顔が出てくる。
生活感がある。
大きな主張は控えめで、
「まあ、現場はこうですよ」 という立ち位置。
新聞というより、
真面目な週刊誌に一番近い。
日本経済新聞
「数字がすべて」型
日経は感情を排する。
市場は△%反応した。
○○社の株価は××円。
倫理も正義もほとんど出てこない。
あるのは 数字と因果関係 だけ。
人間臭さを求めると裏切られるが、
経済という無慈悲な現実は一番よく分かる。
産経新聞
「言いたいことははっきり言う」型
産経は、感情を隠さない。
看過できない。
断じて容認できない。
語気が強く、
敵と味方がはっきりしている。
論調は一貫しており、
ブレない代わりに、揺れもしない。
読み手を選ぶが、
姿勢は最も分かりやすい。
赤旗
「構造が悪い」型
赤旗は、必ず構造に行き着く。
問題の背景には、
資本主義の矛盾がある。
個別の事件は、
常にシステムの問題として語られる。
好き嫌いは分かれるが、
論理の首尾は一貫している。
聖教新聞
「人は変われる」型
聖教は、語調が柔らかい。
希望を持ちたい。
明日はきっと良くなる。
政治記事でさえ、
最終的には人の成長に着地する。
新聞というより、
人生相談欄が拡張された媒体である。
結び
こうして見ると、
新聞は「事実を伝える装置」ではなく、
世界の見方を提供する文体だと分かる。
どれが正しいかではない。
どの眼鏡で世界を見るかの違いである。
そして怖いことに、
毎日読んでいると、
その眼鏡が「自分の視力」だと思い込んでしまう。
だから私は、
新聞を読むとき、
まず語尾を見ることにしている。
コメント(なぜこうリライトしたか)
-
元コラムの「直感的分類」を
→ 人格・態度の違いとして明確化 -
揶揄ではなく
→ 距離を取った観察者の皮肉に寄せた -
「どれも一理ある」構図にして
→ 読者が自分の立ち位置を考えられるようにした
前進(中核派機関紙)とか、解放(革マル派機関誌)もお願いします。
了解しました。
では、先ほどのリライト案に自然に接続する形で、
**前進(中核派機関紙)/解放(革マル派機関誌)**を同じ作法――
「文体・語尾・世界の切り取り方=人格」――で書き足します。
※あくまで個人コラムとしての観察であり、思想の正誤判定はしません。
追補リライト(追加分)
前進(中核派)
「情勢は革命を要請している」型
前進は、とにかく世界が常に臨界状態にある。
情勢は新たな段階に突入した。
今こそ決起の時である。
昨日も今日も、
そしておそらく明日も、
**「歴史の分岐点」**にいる。
語彙は硬く、熱量は高い。
感情というより、使命感で書かれている。
個人はほとんど出てこない。
出てくるのは「労働者階級」「大衆」「闘争」だ。
新聞というより、
永遠に続く作戦会議の議事録である。
解放(革マル派)
「敵の本質を暴露する」型
解放は、まず敵を定義する。
これは偶然ではない。
敵の戦略的意図によるものである。
陰謀論、ではない。
全てが計画的だと仮定して世界を見る。
前進が「行け」と叫ぶなら、
解放は「なぜそうなったか」を延々と説明する。
文章は長く、
一文が重い。
読み終える頃には、
読者は世界を信頼する能力をかなり削られる。
新聞というより、
疑念を訓練するための教材に近い。
ここまで含めた全体像(整理)
この二紙を加えると、新聞・機関紙は
次の軸で綺麗に並ぶ。
| 軸 | 位置 |
|---|---|
| 結論を出す | 読売・産経・前進 |
| 問いを投げる | 朝日 |
| 現場を見る | 毎日 |
| 数字を見る | 日経 |
| 構造を見る | 赤旗 |
| 意味を見る | 聖教 |
| 敵を定義する | 解放 |
| 行動を要請する | 前進 |
コラムとしての「落ち」
この2紙を並べたことで、
最初の問い――
記事だけで新聞を判別できるか
は、ほぼ YES になる。
なぜなら、
事実は同じでも、
-
誰に怒れと言われるか
-
何を信じろと言われるか
-
いつ行動せよと言われるか
が、文体にすべて出ているからだ。
新聞とは、
情報ではなく
世界との向き合い方の訓練装置なのだと思う。
補足的に言うと(個人コラムらしく)
前進と解放を
「極端だから特別」と切り分けるのは簡単だが、
実は他の新聞も、
その方向性を弱めた同型に過ぎない。
違いは、
-
自覚しているか
-
無自覚か
それだけだ。