私の好みのこの画面に戻すために、色々やってみた。
江端智一のホームページ
私の好みのこの画面に戻すために、色々やってみた。
私、今日から
Today, I am a
『デジタル人財認定<データサイエンティスト>(ハイレベル)』
"Digital Human Resource Certification (Data Scientist) (High Level)"
になりました。
本日付けで、会社が認めてくれました。
As of today, the company has approved it.
-----
じゃあ、今までの私は何だったのだ? ――
"Then, what was I doing before?"
と、野暮なことをツッコまないのが、社会人です。
The adult member of society does not "ask such a nonsense".
https://tutorialmore.com/questions-2093576.htm
lengthとlength_mの違いは何ですか?また、それぞれの単位距離は何ですか?
length
度単位であり、それほど意味はありません。
143.48731327191777 ÷ 0.0016025174726055347 = 89538.688797334365001365036280371 となり、概ねあっている様子。
length_m
メートル単位です。
ロードするビデオクリップはmp4として、映像出力と出力形式を、mp4に合わせる
mp4をドラッグする。
ざっくり3倍にしてみる。
あとは保存すればできあがり。
に引き続いて、昨日、次女の大学での接種を終えて、江端家全員が、第3回目の接種を完了しました。
結果としては、全員「全員、顕著な発熱なし」という結果となり、全員が「翌日の腕の痛み」程度で留まりました。
第1回目、2回目のそれぞれでは、長女、次女の発熱等はあったようですが、第3回目は、「日常生活に影響を与える副反応」というものは発症しなかったようです。
以上
自室に作った鉄棒が、家族(の一部)に評判が良くて、リビングの天井(梁?)にも設置することになりました(家族共用)。
今回は鉄管ではなくて、木棒を使うことにしました。
鉄管に金属用のドリル歯で穴を明けて、そこに木ネジを入れて、木棒を固定します。
前回、Amazonで安物を買って、早々にドリルの歯が折れてしまいましたので、今回は700円くらいのものを購入しました。
センターポンチで印をつけて、
ドリルに歯を当てたら、びっくりするほど簡単に鉄管に穴が開きました(安物はダメということですね)。
木ネジで、木棒を固定します。
今回は、直径32mm(×30mm)の木棒を使い、かつ、両端を閉じないことにしました。
完成しました。
事前に、根太・・・ではなく、間柱(まば
を使って、調べておきましたので、強度は十分にありそうです。
ちなみに、
は、非常に役に立ちます。
------
"pq: sorry, too many clients already" は、コネクション数とかで出てくる訳ではないらしい。
(実際に、1コネクションでも、このエラーは発生した)。
sql.Query() のアクセス頻度が高くなると発生するみたいなので、コーディングでクエリを少なくする工夫が必要となる。
for i := 0; i < 1200; i++ {
subWG.Add(1)
go person(db, i, &subWG)
time.Sleep(5 * time.Second) // 1秒待つ
}
上記のプログラムでSleepを長くすると、発生しなくなることがある。
(非公開)
次女(小学生6年生)は、普段から、その父親の行動である「歩き読書」をやっています。
家族からは勿論、地域の住民からも「危ない」「やめろ」と言われても、
―― パパがやっているから
と、論理武装して、平然と続けています。
江端:「パパの場合は、夜中にヘッドライトを付けて、本を読んでいるから、夜道で目立つ。だから、安全なのだ」
と言っているのですが、こんな言い訳では、次女は勿論、自分ですら騙せません。
しかし、次女の行動は思わぬところから、罰を喰うことになります。
次女が、学級の仕事で、朝早く登校する必要があった為、一週間連続で、毎日一人で登校していた時のことです。
ある日の朝、横断歩道のいわゆる「緑のおじさん」から、声を掛けられたのだそうです。
―― 大丈夫だよ。きっと、もうすぐ友達はできるから
■人気のいない通学路で、
■(ひとり)ぼっちで、
■本を読みながら歩く少女
これだけの条件が整えば、「緑のおじさん」の推論が外れていたとして、誰に責めることができるでしょうか。
もっとも、
「私は『ぼっち』じゃない!」
と、次女は激怒していたようですが。
は、「次女」の名言として、私の名言集に登録されています。
その他のアニメや小説などを読んでみても、ティーンエイジャにとって、「友達」という概念は、私の目からは一種の「拷問」のように見えます。
しかし、振り返ってみるに、昔から集団行動というものが大嫌いだった私にとって、修学旅行や遠足というのは、確かに「拷問イベント」でした。
特に「班分け」という、
―― 校外において、教師が、生徒を管理する負担を減らすために存在している
責任回避システムの為、私は随分苦労させられたのを覚えています。
こういう「拷問イベント」の度に、私は「ぼっち」を回避する為に、姑息な裏工作をしなければなりませんでした。
心底、気が重くて、うんざりでしたものです。
思うように外出できないというだけで、多くの人にはストレスが溜る日々だと思います。
人間は社会的存在 ―― つまり、集団として存在することを前提 ―― とされているからです。
しかし、今や、「集団」ではなく、「個」として行動することが推奨される状況になっております。
ところで、私、昔から「個」というか「孤」に抵抗がなかったように思えます。
小学生の頃から、下校時は、頭の中で色々な(中二病的な)ことを考えながら、一人で歩いて帰るのが好きでした。
友人と一緒に帰らなければならない時は、「今日は、(頭の中で)話を作れない」とガッカリしたものです。
そもそも「複数の友人と遊ぶ」というのも、あまり得意ではなかったように思います。
集団を纏めなければならない立場(例:生徒会会長)にあったときでさえ、「自分は一人」という意識が離れることはありませんでした。
デートの後の計画(例:深夜のゼミの研究室に戻ってデータ解析をする)を、デートの最中に考えていました。
そして、コロナ禍が始まる以前から「孤食(ぼっち飯)」「孤読(ぼっち読書)」「孤考(一人ブレスト)」について、日記に書いてきました。
つまるところ、私は「孤」であるということに、他の人よりも高い耐性がありそうだ、ということです。
ただ、私は、これまで、その「弧」を自分の意志で選択してきました。
「弧」以外の選択肢がなくなったときにも、同じ様に考えることができるのか、全く自信がありません。
ともあれ、今や、「「孤」であるということ」が、望ましいこととして、社会から要請されています。
―― 私の半生は、このコロナ禍の時代に向けた準備期間であったのかもしれない
と思うと、なんとも言えない皮肉を感じます。
昨今の少子高齢化やデジタル化などに伴い、人々の社会的な関わりにはさまざまな変化が生じつつある。孤独は、その問題の一つである。
孤独問題は、1980年の新自由主義に端を発て、議論・検討され続けてきたが、この問題がクローズアップされてきたのは、2020年に新型コロナウイルス感染症のパンデミックが発生と、それに伴う、社会的な接触の厳しく制限にある。
こうした状況の中、イギリスでは2018年に「孤独担当相」が、日本でも2021年12月に内閣官房に「孤独・孤立対策担当室」が設立されるなど、社会的孤独への対策は国内外で急務となっている。
ここで重要なのが、孤独が「それ自体が問題」であることは勿論であるが、孤独が社会問題であることを、多くの人が共有する認識に至った点である。
ヒトにおける「孤独(社会的孤立の主観的認知)」は、うつなどの心の健康だけでなく、心血管系疾患やがんの予後など、身体的健康にも悪影響を及ぼすことが知られている。マウスを使った実験でも、孤独が雄では攻撃性の増大、雌ではうつ様行動や卵巣がんの増悪を招くことが報告されている。
私達は、物理的な一つの固体であり、厳密な意味において、リアルタイムで同時に2つ以上のコミュニティに参加できない。もちろん、会社、家族、町内会からSNSに至るまで、様々なコミュニティに属しているとも言えるし、そういう意味においては、私たちは、Aというコミュニティに属しつつ、Bというコミュニティにも同時に属する量子的存在である、とも言える。
ここでは、社会全体として孤独についてのモニタリングについては論じない。それらについては、多くの研究において具体的な数値が上げられており、現時点で、それらのデータを疑う合理的な理由はない。本章における、孤独の計算とは、「個人」の孤独の計算を意味するものとする。
孤独の定量化で、最初に上がるのは、自殺率である。これについては論を待たない。ただ私(江端)の検討結果では、自殺に至る原因のトップ(40%箸キ50%)は、「うつ」という病気であり、これが「孤独」との相関があることは、感覚的には明らかであるが、厳密な意味では疑問はある。
が、自殺率が、孤独計算の重要なパラメタであることは、今さら検討しなくても良いと考える。
世帯構成(家族や伴侶の存在)は、孤独を推定する協力なパラメタである。
これは、孤独から導かれる「貧困」が問題とされている場合は、犯罪の種類によって、孤独を推定できる可能性がある
アクティビティは、孤独を測る指標となるうるが、個人差が大きいこともあるので、検討が必要である。
夏祭りなどのイベントに参加する人間の数は、個人の孤独を特定するには困難であるが、地域の孤独率を算出する方法としては有用であると言える。(画像処理技術などと使えば、人数のカウント等は難しくない)
つまるところ、国家や組織による個人への介入を排して、個人の能力と価値観に強く依拠する自由な社会、という理解で良い。裏を返せば、(1)能力主義、(2)自己責任、(3)競争是認、(4)自力解決を、強いられる社会であると言える。
もっと簡単に言えば、
と
が同時に存在すること。
個人的であり、主観的であり、かつ観念的であることを承知の上で、江端主観で、反知性主義の実例を上げるとすれば、以下のものが該当すると考える。
ロジックで反論できなくとも「嫌なものは嫌」であり「好きなものは好き」という意見は尊重されなければならない。今となっては、タブーとなっている、人種差別、性別差別等も、当時には、それを支える強固な理論(主に権力側の)があったが、それを、反知性主義的な考え方によって、打破されてきた。
そのような意味において、反知性主義は、民主主義の根幹をなすべき考え方であると言える。
一方、反知性主義は、知性主義的なものに対する感覚的な嫌悪をベースとする傾向があるため、科学的、数学的アプローチを嫌い、比較的、簡単に陰謀論に人々を導く傾向が高い(但し、陰謀論と非陰謀論は、完全に分離できるものではなく、現時点で、陰謀論を定義する方法はない)。
このように、反知性主義は、物事を理解する、という面倒くさいプロセスを放棄することを、正当化する手段としても用いられ、ポピュリズムを容認し、カルト集団や原理主義集団を育成するという、社会悪の側面を持つ。
望んだ孤独か、余儀なくされた孤独か、その線引きをどう判断するのか。
内閣官房の担当室が着目したのが「UCLAの孤独感尺度」という指標だ。
1978年にアメリカの大学が公表し、国際的にも広く使われているのだという。
指標は、以下のような20の質問項目で構成されている。
「自分には人との付き合いがないと感じることがあるか」
「自分は取り残されていると感じることがあるか」
「自分は他の人たちから孤立していると感じることがあるか」
こうした質問に4段階の程度を回答して点数化し、孤独感を測る。
点数が高ければ高いほど孤独だということになり、最も高いのが80点で、44点以上で「孤独感が高い」、28点未満で「孤独感が低い」と判定するのだという。
(https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/61791.html)
江端の孤独尺度は"56" 「孤独感が高い」でした。
80点を満点と考えると、江端の孤独度は70%ーーー 「孤独が強く出るだろう」と思ってはいたのですが、思ったほどには悪い値ではなかったな、という自己評価です。
という訳で、皆さんも、56点をベースに「江端より孤独かどうか」を測ってみませんか?