昨日の日記「二刀流リモコン剣舞」をご覧頂いた読者の方から、メールを頂きました。
幼稚園児のお子さんが、リモコンを自由自在に操っているとのことです。
人間、自分の好きなことは、年齢や才能を越えてやるものだ、ということだということを、証明する事実の一つになるのでしょう。
ただ、この現象が真である、とするのは、ちょっと困るのです。
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命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。つまり、命題「A ⇒ B」の対偶は「¬B⇒ ¬A」(¬A は命題 A の否定)となりますよね。
「好きなこと」は「できる」の対偶は、「できないこと」は「好きでない」となります。
これは困る。絶対的に困る。
例えば、私は「英語が好きでない」という訳ではなく、「英語ができないだけ」なのです。
英語は毎日楽しく聞いています。毎日、通勤途中の歩行の時間は、ビジネス英会話と、ABCニュースシャワーを聞いています。英語が分からなくても、内容は、十分に面白いです。
しかし、私が英語を楽しんでいることと、私の英語の能力との関係は、全く関係がないようです。
例えば、TOEICと私の関係は絶望的に悪いです。
前世で、TOEICと私は、魔王と勇者の関係にあったに違いありません。
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「好き」なんだけど「できない」ことって、世の中たくさんあります。
そのような、「好き」なんだけど「できない」ことは、かなり自分を苦しめます。
特に、優れた能力を持っている人が、易々と「好き」を「できる」につなげてしまうのを見ると、本当にやる気がなくなってしまいます。
例えば、嫁さんの友人で、絵が大好きで美術大学に入学した方がいるのですが、「美大に入ったら、絵を嫌いになってしまった」のだそうです。
自分の「上手い」のレベルを、思い知らされるのだそうです。相当な絶望と孤独に苛まされたとのことです。
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だからといって、他人との比較で、「好き」をやめてしまうのも、なんだかなー、とも思います。
なんとか「『好き』だけ」で行きたいものです。
ツイッターのコメントに、いちいち腹を立てることもなく、また、ツイッター数が少ないことに凹むこともなく、
■文章を書いていることが「好き」で、
■その文章を自分で読むことが「好き」で、
■それで、「なんて上手い文章なんだろう」と自分で自分を褒めるのが「好き」で、
そういう、他人の評価から数万光年離れた、内向きに自分の中だけに閉じた世界の中で、生きられるようになりたいのです。
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しかし、この「閉じた世界」は、そう簡単には構築できないのです。
私の場合、「私の、私による、私の為だけの文章(エッセイ・コラム)」というコンセプトに至るだけの為に、実に20年もかかっています。
そして、今の私が目指している最大の目標は、
「外向きに自分の作品を発表しつつ、内向きに完全に閉じた世界で安住する方法」
を確立することにあります。