2013,江端さんの忘備録

初音ミクは、人の声を生成する楽器ですので、どのような歌でも歌わせることができます。

いかなる、思想、歴史、政治、体制、まったく制約はありません。

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今朝、久々に、「初音ミク」のことを思い出して、日記のネタを考えていました。

―― 「初音ミクの『君が代』」は当然にあるだろう。なにしろ、祝詞(のりと)まであったくらいなんだから。

―― しかし、「初音ミクの『インターナショナル』」はないだろう。

―― よし! 今日は、このネタで書こう。

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「インターナショナル」とは、

■社会主義者の歌の一つで、基本的には共産主義革命を目指す運動家によって良く歌われた歌です。

■労働組合運動の団結意識を高める際にも歌われました。

■1960年、70年安保闘争、学生運動でもよく歌われました。

■1917年から1944年の間、ソビエト連邦の国歌でもありました。

それは、まさに「革命歌」

―― 起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し ♪

―― 醒めよ我が同胞(はらから) 暁(あかつき)は来ぬ ♪

―― 暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて ♪

―― 海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく ♪

―― いざ闘わん いざ 奮い立て いざ ♪

―― あぁ インターナショナル 我等がもの ♪

旋律も本当に美しく、多くの革命を目指す人達に愛されてきたというのも理解できます。

実は、私、一番だけなら「歌えます」

当時、もう学生運動の残滓だけが残っていた大学の自治寮で、先輩に教えて貰いました(つまり口伝です)

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「これを、初音ミクに歌わせてみよう! かなり評判になるにに違いない!!」

「今の日本の左翼勢力が、私にテロをかけるだけの力量は残っていないだろう」

てなことを考えながら、それでも、念の為、ネットで調べてました。

初音ミクの「インターナショナル」を見つけて、がっかりでしたが、一応、 聞いてみました。

それで ―― 「自我崩壊」を起こしそうになりました。

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私のもっていた「インターナショナル」のイメージはこちら

「初音ミク『インターナショナル』」はこちら

・・・もう、本当に、何がなんだか・・

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ちなみに、私、赤松健先生の「世界平和戦略」を本気で信じている一人です。

2013,江端さんの忘備録

「宇宙戦艦ヤマト」は、私に

■科学技術の夢とロマンと、

■商業主義の汚さを、

これでもか、これでもか」いうくらい教えてくれた、「大人の階段」を、完璧に具現化してくれた作品です。

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まあ、「夢とロマン」の方はさておき、「商業主義」の方は、こんな感じです。

■死んだはずのキャラクターを、「実は死んでいなかった」ことにして、続編を作る

■都合の悪いストーリーは「なかったもの」としてスキップして、続編を作る

こういう、「とにかくヤマトで儲けろ」というスタンスは、「ヤマト」を深く愛していたティーンの心を酷く傷付けたものです。

私の中では、

「宇宙戦艦ヤマト」= 「詐欺」

という構図が完成してしまいました。

この影響(か、どうかは分かりませんが)もあって、私はその後、このような宇宙戦争を扱ったアニメに興味が持てなくなりました。

例えば、「ガンダム」なる超著名ロングランアニメについて、私は何も語るものを持っていません。

これは、このような、ティーン時代の「負の記憶」に因るところが大きいと思っています。

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ですから、今、放送中の「宇宙戦艦ヤマト2199」も、

『まだ飽き足らず、詐欺の続きをやっていやがるのか』と、腹だしい思いで、まあ、それでも初回だけでも見てやろうか、と、思ったのですよ。

・・・

・・・

■うん、まあ、あのやたら暑苦しくて、鬱陶しい「古代進」が、まあ、ちょっと言い感じになったかもしれないな?

■「森雪」の設定がなかなか意味深になっていて、悪くない。

■ワープの論理(フィクション)が、なんとなく複雑になって、しかも、ちょっと腹に落ちるようにはなっているな。

■ガミラス帝国が、単なる悪の帝国としてではなく、ちゃんとしたヒューマンドラマとして描かれているのは、まあ、評価できるかな。

■都合の悪い、難しい話を、全部「コンピュータ」に押しつけるというスタンスが、改善されているなぁ。

■波動砲の使用に関して、倫理的観点からの批判が採用されている点は、とても良い。

■初戦において、「地球側から戦端を開いた」という、驚愕の設定を導入した点は、高く評価できる。

■なんか、やたら「ドメル」が、かっこよくないか!!

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まあ、そんなこんなで、私は、日曜日午後5時から、私の部屋を完全に立ち入り禁止にして、テレビを見ています。

宇宙戦艦ヤマト2199公式設定資料集の購入は、決定済みです。

2013,江端さんの忘備録

なんの脈絡もなく思い出したのですが、昔、ふと流れていた番組を見て、「凄いなぁ」と、驚いたことがあります。

宇宙警察だったか、宇宙刑事だったか忘れたのですが、ヒーロー戦隊番組がありました。

(調べてみたら「特捜戦隊デカレンジャー」がそれのようです)

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(Step.1)デカレンジャーは、戦闘中に(すでに重犯罪を繰替えしていると思われる)怪人にとどめを刺す直前に、宇宙最高裁判所に連絡し、裁判所の判断を仰ぎます。

(Step.2)宇宙最高裁判所は、即座(2秒くらい)で、◯と×で判決を決め(もちろん、◯になるのですが)、その旨を、デカレンジャーに通達します。

(Step.3)デカレンジャーは、その判決を待って、必殺技で怪人を殺害(死刑執行)します。

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先ず、私が驚いたのは、ヒーロー戦隊番組において、「司法権の独立」という概念を導入した、という点にあります。

デカレンジャーは宇宙刑事であり、当然警察組織に属する公務員です。

警察は行政庁ですから、終審としての判決を行うことはできず、かならず司法(裁判所)の判断が必要になります。

「裁判時間2秒」「判決◯× 」という、めちゃちゃ乱暴な制度ですが(戦場における臨時軍事裁判所だって、ここまで酷くはないだろう)、一応、筋は通している、と言えます。

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次に、驚いたのは、犯罪者を捕縛する刑事と、死刑の執行者が、同一人物であるという点です。これは、全然管轄の違う行政組織が、一体となっているという点です。

このような制度では、怪人の人権を著しく損い、冤罪を誘発し、誤った怪人への刑の執行がされる恐れがある、と感じました。

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多分、これまでのヒーロー戦隊ものに対する、批判をかわす目的があったのかなぁ、などと邪推しています。

だって、ヒーローの彼ら/彼女らは、司法の判断なく、また行政手続を無視して、毎週、独断で死刑執行をやっていたようなものですからね。

デカレンジャーの仕組みでも、なお、冤罪→死刑になった怪人は、かなりいたのではないかと推測されます。

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とは言え「宇宙最高裁判所」という概念は、私に、「その下級審の仕組みははどうなっているんだろう」とか想像させましたし、

「怪人人権擁護局」というものも登場させたら、さらに面白くなりだろうな、と思いました。

デカレンジャーの必殺技炸裂の直前1秒前に、「人権擁護局」からの差止命令が下りた、というストーリーなど考えるだけで、ワクワクします。

デカレンジャーが「えっ?」とか言いながら、必殺技を寸止めするシーンは見ものだと思います。

■「怪人」による宇宙最高裁判所の判決に対するの再審請求や、

■デカレンジャーによる所掌範囲を越えた捜査権の濫用に対する行政審査請求、行政事件訴訟

など、発想は広がり続けます。

楽しいですねえ―― え?そんなことないですか?

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ヒーロー戦隊を作成される番組の皆さま。上記のようなシーンを含めた新しいヒーロー戦隊番組はいかがでしょう。

番組名は、当然こうなります。

「行政と法律と裁判と三権分立を前提に、正義と人権を守るヒーロー戦隊 『インテリゲンチャー』」

2013,江端さんの忘備録

日本国憲法は、太平洋戦争終結後の、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)、というか、米国政府によって押しつけられたものである ――

という主張を良く聞きます。

―― でも、それが何だと言うのですか?

と私は、逆に尋ねたいのです。

権力の濫用を防ぐ「三権分立」の考え方は、モンテスキューに押しつけられたものですか?

法治主義は、我が国が、近代ドイツ法学を押しつけられれたものですか?

もっと言うのであれば、漢字は中国に押しつけられたものですか。近代医学はドイツに押しつけられたものですか。化学や微分や積分の概念は、欧米に押しつけられたものですか。

―― どーだっていいじゃん、そんなこと。

日本国憲法の発生のプロセスがどうであれ、それをがんばって運用してきたことで、日本国憲法は、我々日本人のものになったのです。

日本人は、よくがんばってきたと思います。

憲法第1条(象徴天皇の規定)なんて、大陸法的観点からも、コモンロー的観点からも「完全に意味不明」な条文です。

はっきりいって、憲法第1条は「法律ではない」と言い切ってもいいと思う。

しかし、誰が起草しようが、それが、単なる理想や理念を語っていようが、法律と呼べるかどうか疑義があろうが、我が国において半世紀以上も運用され続け、

そして、(それは単なる運が良いだけであったとしても、または形式的であれ)、我が国は、国際紛争を解決する手段としての戦争はしなかったという、

―― どえらい実績がある

とは、言えるんではないでしょうか。

まあ、同盟国(米国ですが)の戦争を山ほど手伝っていますし(朝鮮戦争から湾岸戦争、そしてその後も)、日米安保条約がなければ、とっくに他の国に占領されていただろうなぁ、と、私ですら思います。

だから、「平和憲法が、平和をもたらしてくれた」とは、直接的には言えないことも、よく分かってはいます。

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憲法第9条2項の改正は、法治国家としての対応としては、確かに正しいと思う。

しかし、その改正をしないことによって、ぼんやりとしたものであっても、私達の過去の反省が伝わり、誰かが安心し、我が国としてのの誠意が、届けられるのであれば、

沢山のバンドエイドやら、包帯やらを巻きつけながら、ゼーゼーいいながら、なんとか存在していたとしても、

憲法第9条2項は、「そのままでも、いいよ」と、言ってくれるのではないか、と、

私は、そう思いたいのです。

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「憲法第9条2項の改正は必須だ、もう我々は待てない」という方に対して、私ができることは、お願いをすることくらいです。

あと、20年ちょいくらい、待って貰えませんか(もっと早いかもしれません)

私は、「『嘘つき』ではない人生を生きた」と、これまで出会って話をしてきたアジアの人に、言いたいのです。

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だめ? そんなに長くは待てないですか?

じゃあ、あと数年、いや2年でもいいです。

「背負っている赤ちゃんってね、死ぬといきなり重くなるんだよ」と言った母に、

「戦後、あなたたちは、この国の平和憲法を立派に守りきったのだ」と語りかけて ―― 送ってやりたいのです。

江端さんのひとりごと 「尊敬され得る人々」

 

2013,江端さんの忘備録

昨日の続きです。

我が国の最高法規である憲法に、「矛盾」があり「ねじれ」がある、というお話をしました。

「矛盾」や「ねじれ」を、それを「ない」状態にしようとすることを、私は、正面から批判することはできません。

でもね ―― と、私は思うのですよ。

日本国憲法は、「我が国の最高法規」であると同時に、「人類の考えうる究極の理想論」でもあるのだ、とか、

あるいは、「日本国憲法第9条は『夢と魔法の国』の話である」とか、「日本国民の共通理念であり、信仰である」とか、

―― それじゃ、ダメですか?

夢だっていいじゃないか。

世界中から嘲笑されたっていいじゃないか

と。

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「今さら、それを言うか!」「卑怯だぞ!!」

これまで、ロジックや法律論で、色々なコラムを寄稿し、反論を封殺してきた江端が、その論旨展開はないだろう、という罵声が、パソコンの前までにも聞こえてきそうです。

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でも、やっぱり、私は「日本国憲法」は、やっぱり「念仏」や「聖書」や「コーラン」であって欲しいと思う。

例えば、新約聖書(の、マルコ福音書)に出てくる、あの超有名で、未だに私には訳が分からないフレーズ

『神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)』

を、

「このフレーズを残したままでは、新約聖書の解釈の一貫性を欠く」

「山ほどの解釈があって、面倒だ」

「うん、そうだな。今後は、聖書から、このフレーズは削除しよう」

というくらいの「乱暴さ」を感じるのです。

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「詭弁だ!法律と宗教を一緒くたにするとは、お前こそ乱暴にも程があるぞ!!」

という声も聞こえてきました。

うん、うん。分かっています。

もう少しだけ、我慢して聞いて下さい。

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私は、これまで、一人旅をしてきたアジアの国々で、太平洋戦争中の日本軍による非道行為に関して、うんざりする程、非難(正確には「お前は、日本軍が何をやってきたか知っているか?」という質問を)されてきたのです。

正直、『文句なら、当時の日本人に言ってくれよ』とは思いました。

でも、その国の人達は、無茶ぶりを承知の上で、旅の途中にあった日本人の若者に、どうしても「それ」を伝えたかったのだ、ということは、本当によく分かりました。

その想いが、あまりに、強く、切なく、悲しすぎて、私にそのような発言をすることを躊躇させました。

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私は、以下のように応えていました。

「私自身は『申し訳ない』とは言えません。私はそこにいなかったからです」

「でも、我が国は法治国家の最高法規である憲法で『いかなる形においても、絶対に戦争をしない』ことを明文化しています」

「日本人は、絶対に、この憲法を未来永劫守っていくはずです」

「日本人が、この憲法を守り続けることで、私達日本人の過去の反省と未来の誠意を、どうか信じて貰えないでしょうか」

―― と言ってしまったのですよ。

そう。かなり、たくさんのアジアの人たちに。

だって、私にとって、日本国憲法とは「神聖にして犯されざる法典」と信じ、そして、それを全く疑ったことがなかったからです。

その「法典」の内容を、削除・変更することを、我が国の国民が「支持する時代がくる」など、予想もできなかったのです。

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―― 私は、やっぱり「嘘つき」になるのかなぁ

と思うと、切ない気持になります。

(続く)

2013,江端さんの忘備録

私が学生だったころ(25年くらい前)、法律を勉強していた友人が、

「さっさと『9条』を改正すればいいのよ」

と言って、私の度肝を抜かせたことがあります。

当時の私は、大学の自治寮の寮長であり、思想的には「左」で、自動的(?)に『9条』に関しては「護憲」の立場であったと思います。

その私に正面切って「9条改正」を言い切ったのは、後にも先にも彼女だけでした。

まあ、私のスタンスを「全然知らなかった」だけかもしれませんが。

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日本国憲法第9条は、前文と併わせて、我が国の憲法の三大原則の一つである「平和主義」を規定しているものです。

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■第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

■第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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彼女が言っていた「9条」とは、正確には「第9条2項」の、いわゆる「戦力不保持」を示しています。

「自衛隊の存在との不整合」が発生することに対する、法律を勉強する学生としての、一種のストレスだったんだろうなぁ、と今では思えます。

なお、この当時、まだ、「自衛隊を海外に派遣する」などという観念すら存在していなかったことに、留意しておいて下さい。

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現在、この「日本国憲法第9条2項」は、沢山のバンドエイドやら、包帯やらを巻きつけながら、ゼーゼーいいながら、なんとか存在している、という感じがします。

というのは、この9条2項は、どう考えても「そりゃ、ちょっと無理があるのではないか」という解釈論で逃げまくってきたからです。

いろいろな解釈があるのですが、一番有名な政府解釈を、私なりに書き下してみると、こんな感じでしょうか。

■第1項では、(1)国際紛争解決としての戦争は「ダメ」だけど、(2)自衛戦争は「ダメ」とは言っていないよね。

■第2項にいう「交戦権」とは、(1)のことを言い、(2)の自衛戦争を含まない、と読めるよね。

■だから、自衛隊の存在は「合憲」だよね。

私が思うに ―― 多分、法律家も政治家も、これを日本人であれ外国人であれ、こんな話を、その人たちに説明するのが、本当に面倒くさいんだろーな、と思うのです。

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私も最近、法律(といっても特許法ですけど)の勉強を開始して、この気持が分かるようになりました。

「解釈(定説、反対説、その他)を2つ以上覚えるのは面倒なんだよ」

「私の脳のキャパはそんなに大きくないんだから、とっとと成文化してくれよ。本当に勘弁してくれよ」

と、泣きたくなることがあります。

まあ、特許法などの知的財産権法は、2年おきにくらいにコロコロと変わりますので、別の意味で泣きたくなることもありますが。

それはさておき。

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憲法はその国の法律の最高法規ですから、この憲法に「逆らわないように」それ以外の法律が作られることになります。

その最高法規に「逆らうような」もの(例:自衛隊等)を運用している、という状態は、

多分、我が国の最高意思決定機関の長の人達にとって、

『これ以上もなく、気持の悪い状態』

ということは、想像に難くありません

私のような、知財法の初学の下っ端でも、法解釈では「イライラ」させられるくらいなのです。

そのような方々にとって、9条2項の改正というのが「悲願」というのは、本当によく理解できるのです。

(続く)

2013,江端さんの忘備録

クリス・アンダーソンの「MAKERS(メーカーズ)」を読んでいます。

「ロングテール」も、そして「フリー」を読んだ時にも、衝撃を受けましたが、この「メーカーズ」も、本当に刺激的です 。

そして、現在、私の目の前にある大きな希望です。

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クレイトン・クリステンセンの超著名な著書「イノベーションのジレンマ」が出版された当時、偉い人たちが、この本に、徹底的に洗脳されました。

そして、「『破壊的イノベーション』が創成できる」という、バカげた勘違いして、阿呆な運営方針を打ち出したころから、私は、ずっーーーと、ムカムカしています。

しかし、私に言わせれば、『破壊的イノベーション』を、「破壊的」に「破壊している」主体は、

■勘違いした、偉い人達と、

■勝負に出ない、我々エンジニアと、

■「出る杭」を「出た後」に評価する、その他の日本人

の3人だと思っています。

(この話は、いつか、纒めたいと思います。酷い長文になりそうなので、今回は控えます))

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「車輪を100回でも再発明してやる」と考えている私は、多分、エンジニアとしては、古くて、ロートルなのでしょう。

本当のところ私は、

■「他人の作った車輪と、私の作った車輪が、完璧に同じになるわけがないだろう」

■「車輪を自分で理解してからつくった荷車が、理解しないで作った荷車に負ける訳がないだろう」

と考えています(職場の幹部には、口が裂けても言えませんが)。

そして、

■「開発のモジュール化」とか「既設パッケージの活用」という言葉を使って、

■「コストダウン」「短納期」「グローバル展開」などと言いながら、

■エレガントにプレゼンしている私は、

この時間軸の私ではありません。

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「メーカーズ」は、この辺の、私のここ数年の蓄積していた鬱憤を晴らしてくれそうです。

はやく読了しなければ・・、と思いつつ、早く終わりたくなくて、一文一文丁寧に読んでいます。

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ただ、「メーカーズ」で黙示的に規定されている仮説(と私は思っている)

「人間であれば、すべて創造のプロセスに熱中する/興味がある」

は、ちょっと違うと思うのです。

なぜなら、滅茶苦茶身近に、でっかい反例があるからです。

私の嫁さんです。

彼女は、地球上のすべての製造物の「完成物」にのみ興味があります。

その製造「プロセス」には、髪の毛一本程の興味もありません。

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今、嫁さんから、娘の部屋に、(それなり品質の)本棚を作り込むことを依頼されているのですが、嫁さんのアクションは原則として2つしかありません。

「作って」という依頼と、制作後の「良い」「悪い」の評価です。

比して、私は、

「採寸し」「図面を描き」「強度を推定し」「材料を加工し」「壁をぶち抜き」「ビスを捩じ込み」「板を配置する」

という、この一連のプロセスを、『最大級の娯楽』として実施しています。

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これを、役割分担 ―― と呼ぶには、ちょっと不公平な気もしますが、まあ、上手くやっていますよ、私達夫婦は。

それなりに楽しく。

2013,江端さんの忘備録

法律はその一文一句に至るまで、きちんとした理由付けがされていることを知ったのは、特許法の勉強を始めてからのことです。
■この法律のこの条文の趣旨は何か。
■そして、この法律のこの条文ができしまうと、誰の利益になり、誰の不利益になるか。
■さらに、この条文は、正義やロジックを含めた社会通念上、妥当と言えるか。そして、国際的な潮流とマッチしているか。
■これらを全体的に考慮すると、この条文制定することは「我が国の国民に利益がある」と言える。
という、論理付けが、全ての法律の、全ての条文の、全ての一句に至るまで、かっちり作られている ―― それを知った時に、
「まあ、なんとまあ、『法律を作る』ということは、大変な作業なのだろう」と、驚いたことを覚えています。
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例えば、「特許法第17条の2(補正)」を挙げてみるとこんな感じになります。
■特許出願を、出願後に補正、つまり「修正する」ことは、あとから別の発明を「追加」できることになるから、ダメ。
■でも、我が国の特許権は「早い者勝ち(先願主義)」を採用しているから、「全部ダメ」とすると、発明者が「かわいそう」すぎる。
■でも、「無制限」に、何回でも修正することを許すと、特許庁も「ダルい」し、権利内容が後からコロコロ変ると他の人にも迷惑がかかる。
■という訳で、本条では、補正できる「範囲」と「時期」をきっちり決めて、出願人も、特許庁も、他の人も、「ま、いいか」と言える範囲の補正だけ許すことにするよ。
という感じの理由づけが、ちゃんと記載されています。
この他、スポーツのルール、校則、社内規則、なんでも良いのですが、それらには、必ず、誰が見ても「なるほど、そういうことか」と納得できるだけの理由が必要なのです。
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今朝、嫁さんに車で駅まで送って貰った時のことです。娘(長女)の学校の前を通り直ぎるときに、嫁さんが言いました。
嫁さん:「お、手を繋いで、校門にかけこんでいるカップルだよ。珍しいなぁ」
実際に珍しいのです。
娘の通っている中学は、男子と女子の建屋が分離している共学なのです(正直、その制度趣旨が、私には、よー分からんのですが)。
私:「この学校って『男女交際禁止』の校則があったけ」
嫁さん:「ないよ」
私:「ま、そうだよね。今時、そんな・・」
嫁さん:「あ、でもね。娘(長女)の所属している演劇部は『部内恋愛禁止』なんだって」
私:「はぁ?なんじゃ、そりゃ? その理由は?」
嫁さん:「面倒くさいことになるから」
私:「・・・?」
嫁さん:「演劇部の中で、恋愛トラブル起こされたら、当事者は勿論、他の部員の演技にも影響が出て、『面倒くさいことになるから』だって」
私:「はあ、確かになぁ。運動部や他の文化部ならともかく、演劇部の活動において、人間関係のギクシャクは、演技に対して、決定的に致命的と言えるな」
嫁さん:「逆に、演劇部員以外との恋愛はどーでも良い、となっているらしいよ」
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こういう「恋愛禁止令」であれば、理系の法学初学のエンジニアでも、とても分かりやすくて、良いです。

2013,江端さんの忘備録

私が、リュックを背負って、アジアを歩き回っていた時のことです(「バックパッカー」と言われていました)。

バックパッカーの旅行者と一緒に、タイのバンコクを回っていた時、彼の仲間との待ち合わせに付きあったことがあります。

しかし、所定の時間になっても、その仲間は姿を現わしませんでした。このような旅では、よくあることでした。

しかし、その待ち合わせでは、確か「帰国フライトのチケット」の手渡しという重要な内容で、下手すると、彼は、帰国する手段を失うかもしれないという事態でした。

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私が驚いたのは、その後です。

「必ず何かのメッセージを残しているはずだ」と言いながら、彼はその周辺を探し出して、電柱から飛び出している針金に引っかかっている紙を見つけました。

「お、これだ、これだ」

その紙には、『落ち合う時間と場所の変更』を記載した手書きの文章が記載されていました。

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携帯電話もメールもない時代、ましてや海外における連絡手段が絶無であった時代において、

我々、海外一人旅の旅行者は、ほとんどこのような、―― 現代にあっては信じられないような原始的な方法で ―― 海外の旅を生き延びていたのです。

2013,江端さんの忘備録

海外で生活した人は、口を揃えて「日本の運行ダイヤの緻密さ、正確さ」を褒め称えます。

列車運行管理システムは、もとい、我が国が誇る、最高傑作の作品です。

その最高作品ですら、コントロールできないのだから、仕方がないのだ、

―― と、言い聞かせないと「切れそう」な自分を感じています。

なんで、30分の余裕を見て、なお、重要な会議に「遅着の連絡」を入れなければならないのだ。

なんで、私の出張の日の、その時間をピンポイントとして、人身事故が起きるのだ。

と。

私も、「自分だけに都合の悪いことが起っているという思い込みは、錯覚である」ということは、判っているのですが。

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文明国の所業にあるまじき非道であり、人権の観点からも許されざる行為であり、

人道上も、倫理上も、衛生上も、なにより、列車運行の安全上、大問題であることは分かっていますが ――

『人身事故で、バラバラになった遺体の破片を終日放置したまま、通常運転を強行する』

なんか、そういう現実と対峙したくなるなぁ、という想いを抑えられないことがあります。

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昔、ラジオ番組で聞いたことがあるのですが、高校生が、警察にお願いして、飛び込み自殺の現場写真を貸与して貰い、それを文化祭で展示したことがあったそうです。

もちろん、極めて真面目な自殺問題に対する取り組みの一貫として、です。

「凄いことを企画する高校生がいるもんだなぁ」とびっくりしたので、よく覚えています。

もの凄い反響があったようで、良い意味での自殺への「幻想破壊」がされた、ということのようです。

でも、今同じことをして、同じような効果が得られるか 私には判断つきかねます。

そのようなコンテンツは比較的簡単に入手できるようになってしまったからです。

それでもなお、私は、世の中にある、現実を、文学でも、絵画でも、写真でもなく、五感のリアルで感じ取ることを、―― それが、心に酷い怪我をさせることになったとしても ―― 必要ではないか、と思っています。

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例えば、「死刑執行の立ち会い制度」などは、その運用に関しては、まず死刑囚の同意を絶対的条件として、何重ものチェックや審査を行ったとしても、国民に開示する制度を用意すべきではないかと考えます。

我が国の国民の多数が「是」としている制度なのですから、その制度の実施状況を、国民自身でチェックできないというのは、やっぱり変だと思うのです。

その結果で、死刑制度の「是」が強化されても、「非」に転換が図られても、それは、どちらでも良いと思うのです。

法律は国民の合意で成立されているものなのですから、その運用を国民はチェックする権利と義務があると思うのです。

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「そんな厳しい場面に対峙したくないし、そもそも、私には、そのような場面に係わることは一生ないはずだ」という方もいると思います。

それは、また、その通りだと思います。

私は、私達の全てが世の中の森羅万象に対峙して敢然と立つ必要があるとは、思っていません。

見たくないものは、目を瞑って通り過ぎる、で十分です。

ただ、現在の所、回避する可能性が絶無である「死」についてだけは、そろそろ直面する時代ではないかなぁ、とも思っています。

まあ、たまたま、今私が、そういう立場に立っているだけ、ということかもしれませんが。