江端さんのひとりごと 「壁」
2000/01/09
「『脱出』は発明の母」
"Eacape is a mother of invention"と書かれていた展示の説明文を読んで、私は唸ってしまいました(*1)(*2)。
ベルリンの壁崩壊前の東ベルリン側にあった、東と西の唯一の交流点「チェックポイント」に造られた壁博物館(Wall museum)に書かれていた一文です。
(*1)言うまでもなく、これは「必要は発明の母」"Need is mother of inovetion"の一句を使った皮肉。
(*2)「ベルリンの壁」を知らない人は、ここで読むのを止めましょう。
壁博物館には、西ベルリンへ脱出を試みた東ベルリン市民達の生々しい記録が山のように残されていました。
成功例では、
■西側市民の協力を得て、壁に面したアパートの窓から飛び降りる者、
■長い月日をかけて掘られたトンネルを貫通させた者、
■演奏用のスピーカの箱に自分の体を折りたたんで入れたマジシャンの女性
等などがあり、そして
失敗例としては、
■壁を乗り越えようとして射殺された市民、
■チェックポイントの強行突破を試みて蜂の巣になった自動車、
■打ち落とされた気球
などがありました。
しかし、私が一番胸を打たれた展示物は、脱出者を監視していた警備兵士が、いきなり西側に向かって走り始め、鉄条柵を超えて亡命(?)してしまう一枚の写真でした。
国家とか、体制とか、責任とか、任務とか、(おそらくは家族とか親戚とかも含むのだろう)そういうものを全部放り出して、己の為のみに逃げ出す兵士。
その写真は、たった一枚で、私の理想とする生き方を雄弁に、そして完全に語っていました。
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確かこの前、地平線まで続く広大な大地を見ながら、ゆらゆらと怒りに燃えていたはずなのに(*3)、どうしてこんなところであんな物を見ているんだろうと思わずにはいられませんでした。
ライトアップされてに照らされて不気味に立っているブランデンブルグ門をくぐり、旧東ドイツ側にはいると、さらに交通量は減り、街全体が一層暗く感じられるようになりました。
深夜で交通量もすっかり少なくなった道路を暴走する一台のタクシー。
その運転手は、一言も口をきかず、厳しい表情のまま激しい勢いでハンドルを捌いています。
タクシーの中で右左に引き倒されながら、私は後ろの席で怯えていました。
出張直前まで、打ち合わせ資料の作成で走り回りっていたのに加え、飛行機の中ではプレゼンテーション資料の暗記をしなければ、と思っていたのですが、
つもり積もって極限まで来た疲労達が『もう、どうでもいいじゃん』と妖しい声でささやきかけるのに任せ、飛行機の中では水割りとビールのちゃんぽんで、半分以上白目を剥きながら、ぐったりしてフランクフルトまでやってきました。
しかし、ベルリンに着いたのと同時に、別の声が『やばいよ、お前。どうするの、明日のプレゼンテーション』と別のことを言い始め、心底気分が滅入ってきたところに、
どえらい乱暴な運転で、東ベルリン側に向かってぶっ飛ばすものだから、もう、すっかり気分は『東側のスパイに拉致されて鉄のカーテンの向こうへ送り込まれるネットワーク技術者』。
ああ・・これから私は、西側要人の電話の盗聴や、銀行やストックマーケットのオンラインにハッキングして、西側の経済システムを破壊するクラッカーとして、暗躍させられるんだ・・。
家族の顔が走馬灯のように脳裏をよぎります。
ああ、家族にもう一度だけ会いたい!!
そうだ、日立!・・いや、日立は私を絶対に救出してはくれまい。むしろ、海外渡航の予算がなくなって喜んでいるかもしれない。そういう会社だ。
同僚は3日で私を忘れるだろう。 なぜなら、逆の立場になったとしたら、私はそいつを3日で忘れる自信があるから。
上司なら半日もかからない内に、忘れてしまったことも忘れてしまえるだろう・・・。
などと、馬鹿なことを考えているうちに、タクシーはホテルに着きました。アホな妄想が、やっぱり妄想であった、という理由だけで嬉しくなった私は、タクシーの運転手に大目のチップを渡しました。
彼は、最後になって、ようやくチラリと笑顔を見せてくれましたが。
ホテルのチェックインをした後、すでに現地入りしていた上司に、到着の連絡を入れて、その日は終わりました。
(*3)江端さんのひとりごと「怒りの大地」
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日立製作所は、現在、ドイツの通信技術研究所GMD(German National Research Center for Information Technology)と、いくつかのテーマで共同研究を行っており、私は知らない内にその一つのプロジェクトに参加させられていました。
『江端君。君は知らないだろうけど、君はプロジェクトの一員なんだ。』
私はあまり世間一般の事項をよく知らない方だと思うので、是非とも皆さんに教えて頂きたいのですが、一般的にこういう日本語の使い方はされるものなのでしょうか。
ポイントは2点。
(1)上記文章は、文意を成しているか。
(2)(1)が満たされると仮定した場合、有効性に問題はないか。
ここ2年くらい、私の仕事は例外なくこういう形で命令されています。
私は全ての仕事が本人の納得ずくで行われるべきだ、などというつもりは全くなく、ただこの文脈の一般性と有効性を知りたいのです。
何故なら、この言葉の使い方が許されるものであるなら、2,3使ってみたいことがあるのです。
『課長、課長は知らないかもしれませんが、私は明日年休を取ることになっています。』
『部長、部長は知らないかもしれませんが、私は今期、特許を提出しないことになっています。』
うーん、便利だ。
ま、それはさておき。
今回私は、GMD-日立の共同プロジェクトの項目の中に、現在自分が行っている仕事である「標準化活動」という項目を、付け加えてもらいました。
ほとんど火事場泥棒のように、ドサクサにまぎれて、と言う感が否めませんが。まあ、その甲斐もありまして、私はまんまとGMDの有能なスタッフの協力を得て、標準化の提案書の作成にこじつけました(*4)。
(*4)http://www.kobore.net/draft-ebata-inter-domain-qos-acct-00.txt
この「標準化活動」とは、国から依頼研究の項目の一つで、私としては、この提案書の提出をもって、一応「任務完了」の形となったのですが、一応念のためにこの標準案をインターネットの標準化団体IETFのミーティングで発表を行ない、誰にも文句を言わせないように駄目押しをしておきたいと思っておりました。
私の目論見はただ一つ。
『共同研究者のGMDのH博士を丸め込んで、今回の標準書の内容をIETFで表して貰おう。』と言う、真に姑息なことを考えて乗り込んで来たのです。
私に英語のプレゼンテーションができないことは、誰よりも私がよく知っていました。ホテルや飛行機のチェックインすらまともにできない男が、ノンネイティブに対して配慮のかけらもしない、あの「IETFミーティング」で、ろくな応答ができるわけがないからです。
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翌朝、昨夜と打って変わって、秋の終わりを感じさせる深色の紅葉が美しいベルリンの中心街を眺めながら、上司と私はタクシーでGMDに向かいました。
指定された会議室に赴くと、すでにプロジェクトリーダのG氏が準備を始めており、そのうち、次々とGMD側のプロジェクトメンバーが入ってきました。
この段階で、私はまだ、今回の標準書の作成に関して、並々ならぬ多大な労力を提供して下さった、H博士との面識がありません。
今回の標準書作成作業に関しては、言うまでもなく、日立側の国家プロジェクト担当者である後輩のT君、同期のM氏(私を含めたこの3人を称して、『通産三兄弟』と言う、不名誉な名称がついているそうですが)、そして上司のK氏の協力がありました。
加えて最後にプロジェクトリーダのGMDのG氏が根本的なレビューをして下さったおかげで、私は標準書をIETFに提出することができたのですが、なにより、H博士は、毎日の電子メールで議論に根気良く付き合っていただき、私は、なんとか標準書の骨格を作り上げることができたのです。
私は滅多なことでは、心から誰かを感謝することはしないのですが、このH博士にお会いした時には、小走りで博士に近づき、最大級の感謝の言葉を発しながら、両手で握手をさせて頂きました。
H博士は、中国系アメリカ人(だと思うけど、ついに確認するのを忘れてしまった)で、ちょっと見ると学生にしか見えないような小柄な方でした。年齢も、私と同じか、多分もう少し若いようにお見受けしました。
昼休みの休憩時間には、GMDのすぐ傍を流れる川沿いを歩きながら、標準書の内容やドイツでの生活のことについて話をしていました。
ひらひらと落ち葉の舞い落ちる紅葉の川沿いの小道を、ゆっくりと歩きながら研究に関する意見交換をしていることに気がついたとき、私は、自分のそのあまりものカッコよさに、陶酔しまくっていました。
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ミーティングは、日立側、上司と私の2人と、GMD側は開発担当者を含む8人、総勢10人で、2日間ぶっ続けで朝から晩まで続きました。
私はそのミーティングの内容の2割をかろうじて理解できただけです。
しかし、8割方理解できたような「ふり」をする能力にかけては、超一流であることを自負しております。
国際化が叫ばれる昨今、近い未来あなたも英語のミーティングに参加しなくてはならない羽目になるかもしれません。
そこで、数々の修羅場をくぐりぬけてきた私から、『英語のミーティングに参加しているような「ふり」をする方法』に付いて伝授したいと思います。
先ず、誰かが会話の中で笑い出したら、間髪を入れず笑い出すこと(内容は問題ではありません)。
次に、誰かが会話の中で詰まったら、間髪を入れず眉をひそめること(繰り返しますが、内容は問題ではありません)。
さらに、時々相手の喋った会話の端々で拾った単語を掴んで、上がり調子のイントネーションで質問してみること。それに対して行われた説明に対して、大きく頷いてみせること(何度も繰り返しますが、内容は問題ではありません)。
加えて、これが一番大切なことですが、『決して、単身でミーティングには臨まず、自分より英会話に優れた日本人を同伴すること』です(今回の場合は「上司」になりますが)。
日本人であるあなたは、かなり高い確率で日本人の喋る英語を理解できるはずです。
この内容から、会議の流れを『推測』します。会議のキーパーソンになってはなりません。会議でイニシアティブを取るなどもってのほかです。
出来るだけ目立たず、会話の単語の端々を拾い集め、日本にかえって報告書に構成しなおし、後は全てを忘れる。
この基本的な態度を貫けば、とりあえず任務が完了したような「ふり」をすることができるはずです。
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それにしても、GMDとの打ち合わせは朝から晩までミーティングで、加えて夕食にまで招待されたので、12時間近く、『英語』と言う水が浸された洗濯機の中でぐるぐると回されていたような気がします。
正直、苦しかったです。
それは、英語を理解するのが苦しかった、と言うよりは、むしろ、自分の思っていることが正確に出力されないと言う「表現の便秘状態」が、苦しかったように思います。
また、話が横道にそれて恐縮ですが、私は生まれてこの方、日本語の会話で話題がなくなってて困ったことなどはありません。私のこの頭の中には、役に立つかどうかはさておき、色々な分野の雑多な知識がてんこ盛りに詰まっております。
『デートをしている時に会話が続かなくて、黙々とディナーを食べ続ける」などと言う、無粋なことは経験したことがありません。
ま、そのためかどうかは知りませんが、今一つロマンチックな展開に恵まれにくかったのも事実なんですが。
結婚するまで、嫁さんは私のことを『女性に関心を持たない、政治と文学をを探求する、理系の研究の徒』と信じていたそうです。
今は、『嘘つき』と呼ばれています。
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今回の仕事が終わったのは、2日目の夕方。GMDに出向している同期のSと、上司と3人で飲みに行くことになりました。
ですが、私は気が進みませんでした。日立入社以来、「上司と酒を飲む」その不味さを思い知っている私は、一人でベルリンの街角のバーでビールでも飲んでいる方がましだ、と思っていました。
予想通り、「もっと考えて行動しろ」だの「チャンスを自分でつぶすことになる」だの説教をくらい不愉快でした。
私は、一応、私の構築した理論である『停滞主義思想』を、次のような判りやすい言葉で言い添えました。
『世界は、私を愉快にさせるものと、私を不快にさせるものの2種類のみで構成されている』
『上記の世界観に基づき、私の行動は私が決定して実施し、自分に関する範囲のみで責任を持つ』
『その結果について私以外の誰がどうなろうと、知ったことではないし、巻き込まれるのが嫌なら、私から離れて見ているだけにすればよい』
予想通りですが、全く理解してもらえなかったようです。
「じゃあ、仕事やめるか」てなことも言っていたようですが、この発言からして全く私の言っていることを理解できていない証拠です。
いつでも思うのですが、どいつもこいつも、何故私を『改良』しようとするのだろうか。
鬱陶しい。
社会的な常識や、組織的な規範を基準とした倫理観から、私を恫喝するくらいなら、その手間隙かける時間で、とっとと私を切り捨てればいい、と思うのです。
私は、私のこの『停滞主義思想』を理解できないことを批判するつもりはないのです。多分、この思想は生まれてくるのが早すぎたと思うので、大抵の人が理解できないのは当然だと思っています。
理解してもらえないから、私が切り捨てられても、私は『ま、仕方が無いよな』と潔く切られる覚悟は、いつでも出来ているんです。
それを「考えて行動する」だの「チャンス」だの矮小な言葉で、私を変えられると思われているのかと思うと、見くびるにも程がある、と腹が立ってくるのです。
少なくとも私の思想に謙虚に耳を傾け、その内容を尊重し理解する姿勢がある人間以外と議論しても仕方がない事だと思います。
所詮、既存の価値観の枠組みでしか思想を捉えられないなら、「壁」を超えて私の領域に入ってくるのは100万年早いと思うし、そして、私も「壁」を超えてそちらに行くつもりはありません。
永久に壊されることの無い「壁」の中で安住できれば、私はそれで良いのです。
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東西ベルリンの悲劇は、主義の対立ではなく、所詮は国家と言う体制の対立でしかありませんでした。国家は、その存在意義として民衆の必要とし、その民衆を維持するために、ベルリンの壁を作ったのです。
つくづく、阿呆か、と思います。
そんなに、国家の属性としての民衆が必要なら、犬や猫や家畜や、草木に名前でもつけて、『これが国民だ!』と言い張れば良かったのだ。
どうせ主義で対立しているなら、国民の定義すら変えてしまえば良かったのに、と壁博物館の中で、一人腹を立てながら考えている私がいました。
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これまで、我々は自分達を守るために、あるいは自分で自分の行き方を決めるために『如何に壁から逃げるか』と言う視点からものを考えてきましたが、その考え方では所詮"Escape"と言う概念を超えることは出来ません。
今こそ、パラダイムをシフトする時です。
キーワードは、"Make Wall"
国家や組織や会社などの下らない壁の中に閉じ込められないように、自分のためだけの「壁」を造りのです。その「壁」は、出ていく者を阻止するのではなく、又、侵略してくる者を排除するためだけのものでもありません。
「分かり合えない」と言うことを、分かり合うことだけでいいのです。
どだいこれだけ多様化する価値観を、一元的な理念や思想や方式で統一しようとすることに無理があります。
できっこないのです。
それを何としてもやってやろうとむきになるから、阿呆なカルト宗教団体は、地下鉄でシアン化系の猛毒ガスをばら撒かねばならなくなります。
洗剤や健康食品のネズミ講もどきに熱中する無知な人間達は、高校で習った等比級数を覚えていれば、絶対にありえるはずがない利益に向かって、人生の貴重な時間と労力を食いつぶします。
イスラムの高い宗教理念と、そのボランティア精神から作り出される、世界でも例の無い理想的なコミュニティが存在する一方で、
「イスラム原理主義」と言う愚劣な団体が、世界をイスラムで統一する為に、世界各地で想像も出来ない陰惨なテロを繰り返している現実があります。
私にはどうしても「分からない」のです。
彼らの行動を、理解し近づこうとすればするほど、腹が立ち、彼らは益々私から遠ざかっていきます。
彼らのコミュニティに入って、実践的に行えば、あるいは私は彼らに少しは近づくことが出来るかもしれませんが、私はそんなことに費やす気力と時間はありませんし、なにより私は、やりたいことが山ほどあるのです。
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しかし、まあ、たくさん書いてきましたけど、私の言いたいことは、要するにこんだけです。
私は常日頃から、人に意見をされる運命にあるようですが、そういう運命にある人間の立場として一言言わせて貰えるのであれば、
『自分の価値観を、江端に押し付けるべきではない』
と言う、私の価値観だけは、
あなたに是非とも押し付けたいのです。
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