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江端さんのひとりごと

「渋谷駅の惨劇」

Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:06:42 JST 1996

「江端さん!D大機器研究室東京支部の飲み会をしましょう!!」

大学の後輩のDから電話がかかってきたのは、私が2X歳の誕生日を迎えて3日目のこと。Dは私より2年年下の電気機器研究室ロボット班の後輩で、大学院を卒業した後、東京のT芝に入社して今日に至っています。

D大のほとんどの卒業生達が関西方面に就職するので、いわゆる我々『東京組』は人数も集まる機会も少ないのです。そんな訳もあって、私もその時、特忙しいと言う訳もなかったので、後輩の誘いを受けることになりました。

それから一週間後。

私はフレックスを使い30分ほど早く退社して、待ち合わせ場所である渋谷駅のハチ公前に向かいました。ハチ公前の電話ボックスのところでは、Dと同期の後輩Kがすでに来ていて、私を待っていました。

この時、私は始めて後輩のKが結婚すると言う話を聞くことになります。

「そうか、よかったな。おめでとう!」と、先輩らしく笑顔でKに言いながら、私は自分の目が笑っていないことに気が付いていました。

私たち3人は、渋谷ハンズの方面に歩きながら、適当な飲み屋を探していました。そして色々迷った挙げ句、ある居酒屋に入ることになったのです。そしてこの居酒屋こそが、私の人生において決して忘れられない、忌まわしい思い出のスタート地点になることなど、その時の私に知るよしがありません。

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渋谷は若者の街です。大学院在学中に、M大学の学会発表の時に初めてこの街に来た時以来、私はこの街が好きです。何となく無秩序なのですが、新宿ほど汚くないところが気に入っています。当然、渋谷の居酒屋の客は圧倒的に若者が多く、そのノリは異様にテンションが高いので、素面の状態でお店に入ると、何となくムカっと来るほどです

「君達は、下宿に帰って勉学に励みたまえ!」

「色食は明日の授業の予習復習をして、なおかつ時間が余った余暇に興ずればよろしい」

などと、自分の学生時代を省みることなく説教したくなってしまいます。

ま、酔っぱらってくるまでだけですけど。

大ジョッキのビールを少なくとも3杯はおかわりをしたでしょうか。私たちは、仕事や結婚、女性の話題で盛り上がりまくり、大変な勢いでアルコールと食べ物を注文していました。回りの学生達のノリに決して負けない程のはしゃぎ方でした。

ビールの後、日本酒をお銚子5、6本、ワインに至っては、ボトルどころかピッチャー単位で注文する有り様。そのワインは非常に値段が安かったので注文してしまったのですが、「安酒=悪酔い」の仕組みは、酒をたしなむ人の常識です。それなのに、私はそのワインを水を飲むように、がんがん飲みまくっていたのでありました。

程々に酒を過ごした後、トイレに行こうとしたときです。歩いている時、そう、それはほんの一瞬のことでしたが、空間がわずかに傾いて歪んだように見えました。足どりも少し危なくなっているように感じましたが、自分のアルコール許容量を感覚で分かっているつもりでした。限界にはまだまだ余裕があるように思いました。

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「お酒は楽しく美しく」と言うのが、私の酒の美学です。

酔っぱらって気分がハイになるのを許しても、人に絡んだりする奴を私は許しません。理屈っぽくなる奴も遠慮したいです。感情的になる奴は論外です。況や、街の中で眠りこけたり吐いたりする奴は、万死に値します。セルフコントロールが出来ない酒飲みは、酒を楽しむ権利がないばかりか、私は人権すら剥奪したいと考えます。

ですから私が酒を飲んでいるときは、実に楽しく飲んでいる様に見せていても、その実、頭の中で怜悧でかつ緻密な計算ルーチンが走っています。私にとって「酔った勢い」とは、実は精密に仕組まれた芝居であることがあります。

そんな訳で、パーフェクト セルフコントロールパーソン フォー アルコールを密かに自負する私は、その日も渋谷で懐かしい後輩達と杯を傾けながらも、過去の経緯に基づいた安定ペースでお酒を楽しんでいるつもりだったのです。

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私が自分の体調の異常を感じ始めたのは、お店を出て渋谷駅前の交差点を彼らと一緒に歩いていた時です。

お酒を飲み終わった後一定のこころよい酔いがやってきて、時間が過ぎて行くのにつれて少しずつその酔いが消えていく、と言う私のいつものパターンが現れてきません。

むしろ、その逆の兆候が現れてきます。非常に微かなのですが、体がばらばらに動いていると言う違和感、脈拍の鼓動に同期して、こめかみがぴくぴくと動いている感覚、そして、頭の中で大きな石が転がっているようなゆっくりした鈍い痛さ。

それは、言いしれぬ不吉な予感でした。

丁度、風邪のひき始めの時の身体がざわっとする感じに似ています。もう薬を飲んでも、十分に休んでも、栄養のあるものを食べても、一切が無駄で、間違いなく今夜は高熱で苦しむと言う確信に似た、あの感じに欲にています。

もうすぐ夜の9時になろうというのに、渋谷の交差点は相変わらず凄い人の波でごった返していました。私は少し『酔ったふり』をして後輩達におどけてみせたりして、大声で笑って見たりしていたのですが、本心は、一刻も早く彼らと別れねばならないとあせっていました。

『今日は何かが起こる。そして、それは絶対に悲惨なことになる。』と確信したのでありました。

私は駅で彼らと別れるふりをして、彼らが消えるのを確認すると、駅とは逆の方向に歩き始めました。少し渋谷の街を歩いて少しでもアルコールを身体から抜こうと考え、繁華街の方を離れ、駅のガード下の辺りを歩いていました。

途中、自動販売機でウーロン茶を2本飲んで体内のアルコールを中和しようと試みましたが、無駄でした。それどころか、歩いたことが裏目にでたのか、激しい頭痛と身体のしびれる感覚で真っ直ぐ歩くことも出来なくなり、ついに歩道でうずくまって座ってしまいました。

渋谷でも、ちょっと表通りの裏側に回れば、ほどんど人通りのない寂しい場所になります。うずくまって、うつろな目で前の建物を見ると、1泊9700円と垂れ幕がかかっているラブホテルがありました。

『一人で入ったらやっぱり怒られるのかな』と、ぼんやり考えていました。近くにお姉さんが歩いていたら、お願いして一緒に入って貰うようお願いしよう、などと考えていた私は、泥酔状態からくらくらする苦しみにのたうちまわりながら、既に論理的な思考を失っています。

初冬11月の夜風は冷たく、ここで眠ったら真剣にやばいと言うことは分かっていたようで、私はもつれるように歩きながら、東急田園都市線の渋谷駅のホームにたどり着きます。そして丁度今入ってきたばかりの電車にそのまま飛び乗ったのでありました。

渋谷発の東急田園都市線は狂気です。何しろ最終電車でさえ、早朝ラッシュと同様の大混雑。夜9時の電車は渋谷駅で超満員。なにしろ他の駅で下車出来ない人がいる程です。

しかし、信じられないことに、私がその電車に飛び乗ったときには幾つかの席が空いていたのです。中年のおばさん達が見苦しく席取りをするのを、いつもいつも軽蔑の目で見ていた私でしたが、その時の私は、そのおばさんさえも眉をしかめるだろうと言うくらい浅ましい所行で人を押し退け、席を確保します。そして、無事に座ることが出来たことに対して、本当に久しぶりに神に感謝することができたのです。

電車の席に崩れ落ちると同時に意識を失ってしまった私が、目を覚ましたときには、電車の中にはほとんど人がいなくなっていました。

(変だ・・・)

私は直感的に何かがおかしいと言う感じに襲われました。

(電車は今、停車している。と言うことは駅で停車しているはず・・・)

朦朧とする頭で、状況を理解しようとする私。

(少なくとも現在・・・夜9時は余裕で経過しているはず・・。)

(なのに、この電車の窓から入ってくる明るい光は一体・・・)

そして次の瞬間、私は顔面から、さーっと血が引いていくのを感じました。

まさか----!

ゆっくりと恐る恐る駅のホームの方を振り向いて、反対方向の線路の駅名のプレートを見ました。そこにはまごうなき事実がありました。

『大手町』

東急田園都市線と地下鉄半蔵門線は、渋谷駅で相互乗り入れを行っています。そして『大手町』とは、地下鉄半蔵門線の終点の1つ前の駅だったのです。電車の窓から入ってくる明るい光とは、地下鉄のホームの明かりだったのです。

渋谷駅で座れるはずです。

私は逆方向の電車に乗り込んだ挙げ句に、終点の手前まで来てしまったのです。

そのショックもあってか、その時私は突然激しい嘔吐感に襲われます。胃の中味が消化器官を逆流して、胃液が食道を焼いているような不快感に加え、喉のいちばん深いところまで嘔吐物が遡り、口の中に酸っぱい味が広がっていきます。この世のものとも思えぬ、気色の悪い苦しさです。

大手町駅で逆方向の電車に乗り込んだ私は、少しでも油断すると胃の中のものが戻ってきそうな不吉な予感で、意識を失うことも出来ません。腕を反対側の指でおもいっきりつねって、痛さの方向に意識を向けることに必死でした。

ところが、渋谷駅の一つ前駅である『表参道』駅で、多くの人が一気に乗り込んで来て、電車の中はいきなり早朝ラッシュのようになりました。

-----渋谷ではさらに多くの人が乗り込む。

この厳粛な事実に加え、さらに私は嘔吐感の間隔が少しずつ短くなってきていることから、絶望的な結論に達します。

『どんなにがんばろうとも、私はあと十数分以内に確実に吐く』

満員電車の中で吐く。

そんなことが、人として許される所行であろうか?

否!!

それだけは絶対に避けねばならぬ。勝負はあと数分。もはや寮に帰って、ゆっくり休むと言う手段は絶たれた。ならば----!!

渋谷駅に到着しドアが開くやいなや、もつれるような足どりでホームに降り、そのまま口を押さえて、前かがみのまま十歩程歩いたところで、倒れ込むように手を地面について4つんばいになった瞬間。

多くの人たちの溢れる渋谷駅のホームの丁度真ん中あたりで、私は自分の胃の内容物をホーム一杯に盛大にぶちまけていたのでありました。

吐いている最中は息が出来ず、息を吸い込もうとすると、逆に息がひっかかって、『ゴホッ!』とせき込むように吐くことになり、私は苦しみのあまり肩で息をして、口からは嘔吐物とよだれが垂れていました。目はうつろとなり、恐らく顔色は真っ青になっていたはずです。もはや4肢を支える力の他には、わずかの力もなく、嘔吐物を拭うことも出来ずに呆然としていた私でした。

しかし、悲劇はこれにとどまりません。

とりあえずこれで最大の危機は脱したので、しばらく休んでいれば楽になるだろうと、辛うじてその場を離れた私でしたが、20メートルも歩かない内に第2波の嘔吐が襲ってきました。一度吐いてしまってストッパーが外れたのでしょうか、私は抵抗する間も与えられず、先ほどと同じようにホームでうずくまり、同じ悲劇を再び繰り返すことになります。

多くの人でごった返す渋谷駅で、嘔吐物を吐き散らす私を人々はどの様にみていたのでしょうか。回りを見ている余裕はありませんでしたが、冷たい視線が背中に突き刺さる感じだけはしっかり覚えています。

『これは、私がこれまで多くの酒飲み達を、自分の勝手な倫理で断罪してきた報いなのだろうか?』

『誰も彼もが無責任に酔っていた訳ではなかったのだろうか?』

『ああ、俺は本当に何も解かっちゃいなかったぜ。街角で、一人で寂しく吐いていた、あのおっさん、ごめんよう。俺が悪かったよ。今度は助けてやるからな。』

キヨスクの建物のところで倒れたまま、私は混沌とする意識の中で考えていました。

そして、体を横にしたまま、うずくまるように昏睡し続けたのでありました。ちらっと、このまま儚くなってしまうのも悪くないか、などと考えたりしていました。

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「おい、若いの!大丈夫か!!」と言うだみ声で、私は目覚めました。目の前には、髭面の年の頃にして40代、小太りの顔の赤いおっさんが立っていました。

「おい、若いの。立てるか」と言う言葉とうらはらに、その声は陽気でした。

「俺は青葉台だ!お前どこだ?!がっはっはっ!!」と非常に大きな声のおっさんは、すっかり出来上がっているようでした。

その頃には気分よくホームで昏睡していた私でしたので、そのおっさんのだみ声は単にうるさいだけでした。もう少しだけ、こうしてホームの上に転がって休んでいれば、そのうち気分もよくなってくるだろうと考えた私は、無言のまま、構わなくていいから向こうにいってくれ、と言うように手で追い払うような仕草をします。

しかし、おっさんの方は一向に私を無視してくれず、色々かまってきます。私はやむなく立ち上がり「だ、大丈夫ですから。」と言って、おっさんのそばを離れ、そこから10メートルほど離れた駅の柱にもたれ掛かり、再び寝入ってしまいます。

その後、寝そべっている私に、明らかに悪意を込めて全体重をかけて踏みつけた足が、少なくとも2本はあったと記憶しています。

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うつろな意識で最終電車のアナウンスを聞いたのは、午前1時。私がホームで倒れたのは10時くらいですから、実に3時間も渋谷駅のホームの地面に倒れ続けていたのでありました。

その間、泥酔したおっさんを除けば、助けてくれる人はひとりもいませんでした。駅員もあんなに多くの乗客も誰も彼も、倒れている私の横を通り過ぎていくだけだったのです。

最終電車のアナウンスを聞き、この時間になっても人でホームを闊歩するたくさんの人たちを見つつ、ぼーとした頭を何度も振って、まだときどき襲ってくる嘔吐感を押さえながら、私はつくづく思ったものです。

「本当に東京は恐ろしい街だ」

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なぜ、最終電車がこんなに満員なのかは解りません。この街は寝るべき時間に眠らない街なのだと思わざるを得ません。勿論、席に座ることの出来なかった私は、吊革に両手でぶら下がりながら、口を大きく開けて、『はっはっ』と持久走をしているときのように、なるべく多くの空気を取り込もうとしていました。

(アルコールを酸素でできるだけ速く分解するのだ。アルデヒドを分解するんだ。一刻も速く酢酸に!!)

頭の中では、エチルアルコールやアセトアルデヒドの化学式がぐるぐる回っています。気の毒に、私が立っていた前の席のOLのお姉さんは、『はっはっはっ』と苦しそうに息をしながら、正面の窓ガラスをひきつった目をして睨みつけている私の仕草におびえていたような目をしていました。

東急たまプラーザ駅に着いた時には午前2時ちょっと前。当然、バスなど走っていません。タクシーに乗り込んで「ひ、日立、美しが丘寮」と言ったのを最後に、そこで私の記憶は途切れています。

今となっては、その後どうやって、部屋にたどり着き、ベッドに潜り込んだのかも、もはや知る術はありません。

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今でも私は、あの時のアルコール摂取量が自分の許容量を越えていたとは思えませんし、正確な判断が出来ていたと信じています。

では、何故私はあの時あのような醜態を晒さねばならなかったのでしょうか?

昔、私には気の良い仲間がいて、彼女がいて、一生懸命な学問がありました。お金は無かったけど、理想を語れる人と場所と時間と酒がありました。どんなに徹夜をしてレポートを書いても、天下一品のにんにく入りラーメンとインスタントコーヒーさえあれば、次の日には、夜を徹して六甲山にドライブに出かけて、神戸の夜景を見ることができました。

2X歳の誕生日を迎えて3日目のあの日、私はあの時代に戻ったような気になっていたような気がします。

でも、やはり月日は流れていて私は変わっていたのでした。

どんなにあの頃と同じ様なつもりでいても、いつの間にか私の心も体も少しずつ少しずつ人生の最高潮の時代から、階段を一つ一つ降りていく様に、変わって行っていたのでした。

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私は最近、静かにお酒を楽しむようになりました。昔のように、泥酔して大笑いしてと言う飲み方はしません。

そして、時々居酒屋で若者達が、若さに任せて酒を振り回すように飲んでも、不愉快になることもなくなりました。

(----君達よ。君達にもいつか来る。ある時、突然今まで当たり前だったことが、突然できなくなる日が。今まであったものが、予告もなく消え去る日が。見苦しく醜態を晒す日が。)

彼らの方を見ながら、私は微かに笑みを浮かべます。

限りないいとおしいさと侮蔑と悲しみと、そんな複雑な感情が入り交じった想いが、突然こみ上げて、消えて行きます。

(----だが、その時までは世界は君達のものだ。それまでは存分に楽しむがよい。)

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今でも、私は私の嘔吐物を片づけねばならなかった人のことを考えるにつけ、胸の痛む日々を送らねばならなくなりました。匿名で渋谷駅駅長宛に慰謝料を送金する計画は、現在も慎重に検討されています。また、嘔吐物処理専用のボランティアに志願することも、考えています。

あの事件以来、私は多くの人たちに少しだけ優しくなれたような気がします。

こんど誰かが駅のホームで吐き散らしながら倒れていたら、少なくともその人の脈を取り、隣にウーロン茶を置いてきて上げよう、と思っています。


Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:06:42 JST 1996