「死」と対峙する時代
海外で生活した人は、口を揃えて「日本の運行ダイヤの緻密さ、正確さ」を褒め称えます。
列車運行管理システムは、もとい、我が国が誇る、最高傑作の作品です。
その最高作品ですら、コントロールできないのだから、仕方がないのだ、
―― と、言い聞かせないと「切れそう」な自分を感じています。
なんで、30分の余裕を見て、なお、重要な会議に「遅着の連絡」を入れなければならないのだ。
なんで、私の出張の日の、その時間をピンポイントとして、人身事故が起きるのだ。
と。
私も、「自分だけに都合の悪いことが起っているという思い込みは、錯覚である」ということは、判っているのですが。
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文明国の所業にあるまじき非道であり、人権の観点からも許されざる行為であり、
人道上も、倫理上も、衛生上も、なにより、列車運行の安全上、大問題であることは分かっていますが ――
『人身事故で、バラバラになった遺体の破片を終日放置したまま、通常運転を強行する』
なんか、そういう現実と対峙したくなるなぁ、という想いを抑えられないことがあります。
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昔、ラジオ番組で聞いたことがあるのですが、高校生が、警察にお願いして、飛び込み自殺の現場写真を貸与して貰い、それを文化祭で展示したことがあったそうです。
もちろん、極めて真面目な自殺問題に対する取り組みの一貫として、です。
「凄いことを企画する高校生がいるもんだなぁ」とびっくりしたので、よく覚えています。
もの凄い反響があったようで、良い意味での自殺への「幻想破壊」がされた、ということのようです。
でも、今同じことをして、同じような効果が得られるか 私には判断つきかねます。
そのようなコンテンツは比較的簡単に入手できるようになってしまったからです。
それでもなお、私は、世の中にある、現実を、文学でも、絵画でも、写真でもなく、五感のリアルで感じ取ることを、―― それが、心に酷い怪我をさせることになったとしても ―― 必要ではないか、と思っています。
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例えば、「死刑執行の立ち会い制度」などは、その運用に関しては、まず死刑囚の同意を絶対的条件として、何重ものチェックや審査を行ったとしても、国民に開示する制度を用意すべきではないかと考えます。
我が国の国民の多数が「是」としている制度なのですから、その制度の実施状況を、国民自身でチェックできないというのは、やっぱり変だと思うのです。
その結果で、死刑制度の「是」が強化されても、「非」に転換が図られても、それは、どちらでも良いと思うのです。
法律は国民の合意で成立されているものなのですから、その運用を国民はチェックする権利と義務があると思うのです。
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「そんな厳しい場面に対峙したくないし、そもそも、私には、そのような場面に係わることは一生ないはずだ」という方もいると思います。
それは、また、その通りだと思います。
私は、私達の全てが世の中の森羅万象に対峙して敢然と立つ必要があるとは、思っていません。
見たくないものは、目を瞑って通り過ぎる、で十分です。
ただ、現在の所、回避する可能性が絶無である「死」についてだけは、そろそろ直面する時代ではないかなぁ、とも思っています。
まあ、たまたま、今私が、そういう立場に立っているだけ、ということかもしれませんが。