2025,江端さんの忘備録

『7日の衆院予算委員会は午前9時から開かれ、審議は約7時間続く。その準備に取りかかるべく高市首相が首相公邸での勉強会を始めたのは、午前3時だった』
“The House of Representatives Budget Committee convened at 9 a.m. on the 7th and continued deliberations for about seven hours. To prepare for it, Prime Minister Takaichi began a study session at the Prime Minister’s residence at 3 a.m.”

が、まあ、イレギュラーなことであれば特に問題ないのですが ――
Well, if it were just an irregular circumstance, there would be no particular issue--

内閣閣僚や自民党のことは知りませんが、私の勤務している会社では、このような行為が行われた場合、暗黙的どころか明示的に叱責されます。
I can’t speak for cabinet ministers or the ruling party, but in my company, such behavior would not just be frowned upon; it would be explicitly reprimanded.

私はかつて「午前2時ごろにメールで議論していた」という話を会議で口にしたところ、後輩から「そういう話はしない方がいいですよ」と注意されました。
Once, when I mentioned in a meeting that I had been exchanging emails around 2 a.m., a junior colleague warned me, “You probably shouldn’t say things like that.”

その時、私は恥ずかしかったですけど、同時に「正当な叱責だ」と納得しました。そうでなければならないと思ったのです。
I was embarrassed at that moment. Yet at the same time, I realized it was a justifiable reprimand and I thought, that’s exactly how it should be.

私のようなシニアが、ワークライフバランスを無視するような振る舞いを“武勇伝”のように語ること自体が、もはやパワハラと見なされる――それが今の企業社会の常識です。
When a senior like me boasts about ignoring work-life balance as if it were a war story, that in itself is now regarded as a form of power harassment, and that’s common sense in today’s corporate world.

-----

その人がどんな働き方をしていようと、私は干渉しません。
I don’t interfere with how others choose to work.

しかし、少なくとも「そう見せない努力」をすることは、上に立つ者として最低限の礼儀だと思っています。
But at the very least, making an effort not to show it is the minimum courtesy expected of anyone in a leadership position.

『高市首相が首相公邸での勉強会を始めたのは、午前3時だった』――結構なことです。
“Prime Minister Takaichi began a study session at 3 a.m.” ― fine, that’s her prerogative.

ただ、それをリモートで済ませるとか、せめて周囲の負担を抑える工夫くらいはできなかったのか、と思います。
Still, I can’t help wondering if she couldn’t have done it remotely or at least made some effort to lessen the burden on those around her.

しかも、それがニュースになるということは、その「午前3時」という情報がマスコミに流れていた、ということです。
And the very fact that it became news suggests that the “3 a.m.” detail was intentionally leaked to the media.

私はこれを“デモンストレーション”とまでは言いません。おそらく本当に勉強が必要だったのでしょう。今のところは、善意でそう信じておきます。
I won’t go so far as to call it a “demonstration.” She probably did need that study time. For now, I’ll assume so out of goodwill.

-----

ただし――首相が動けば大臣が動き、SPが動き、官僚が動く。
But still, when the Prime Minister moves, ministers, security details, and bureaucrats move.

答弁を準備するため、誰かがさらに数時間前から待機する。
Someone has to start preparing for briefings hours earlier.

そうやって一人の深夜行動が、百人単位の連鎖を生む。
In that way, the single act of one person working at night triggers a chain reaction involving hundreds.

そしてその連鎖は次の連鎖を呼び、結局、国全体が「上に合わせて動く国民性」へと回帰していく。
That chain then breeds another, and before long, the entire nation reverts to its old habit of “moving in step with the top.”

その程度の見識は、権力の頂点に立つ者には持っていてほしい。
One would hope that someone standing at the pinnacle of power possesses at least that much awareness.

-----

働き方について、私だって人様に誇れるものではありません。
I can’t claim that my own work habits are exemplary.

ただ、人に“見せない努力”だけはしているつもりです。
But I do make a conscious effort not to show it.

それが、周囲の人間を守るための最低限のマナーだからです。
Because of that, at the very least, there is a basic form of decency that protects the people around me.

もしこの国が「24時間働けますか」の時代に戻ろうとしているのなら、私は本気で、それに抗う準備を始めます。
If this country is really trying to return to the era of “Can you work 24 hours a day?”, then I am fully prepared to fight against it seriously.

-----

私たちは、世界中に「Karoushi」という言葉(英単語)を生み出し、広めてしまった――
We are the ones who created the word “Karoushi” and spread it across the world--

『命を削る働き方を美徳として世界に晒した、恥ずかしい国民』であることを、もう一度思い出すべきです。
A nation that displayed to the world the grotesque idea that dying from overwork could be a virtue. We should never forget that painful truth about ourselves.

―― なんだ、政府の言っている"働き方改革"というのは、ようするに「フリ」かよ

 

未分類

熊による住民への被害が毎日のようにニュースになっています。これに対して自衛隊の支援が決定されたようですが、今回の自衛隊の支援の内容と、その根拠法を、事例に応じて教えて下さい

ご指摘のように、最近日本各地でクマ(ヒグマ・ツキノワグマなど)による住民被害が頻発しており、地方自治体が 自衛隊(自衛隊)に支援要請する動きが出てきています。以下、現時点で確認できる「支援内容」と「法的根拠(可能・検討含む)」を整理します。あくまで報道・専門論考に基づく整理であり、個別自治体ごとの契約・要請内容は自治体発表資料を併せてご確認ください。


支援内容

報道等から読み取れる自衛隊支援の内容は、おおよそ次の通りです。

  • 住民・地域の安全確保のため、自治体からの要請を受けて自衛隊が パトロール を実施する。例:住宅地近くでのクマ出没を受けて、自衛隊に「警戒・見守り」的に現地展開を要請。 ライブドアニュース+1

  • 自衛隊が 箱わな(罠)や仕掛けの設置・運搬支援 を行う。例えば、「駆除・捕獲を実施する団体(猟友会等)」のため、箱わなの設置場所への物資搬入・仕掛け確認支援を自衛隊が担うという報道があります。 ライブドアニュース

  • 自衛隊が駆除作業そのものを担うというよりも、自治体・猟友会等の駆除主体を支える「補助・物流・警戒/封鎖」的な役割を担う可能性という記述があります。 X (formerly Twitter)+1

  • 住民の避難誘導・安全確保活動(緊急時の交通規制・地域封鎖)など、自衛隊の「現場支援力」を活かす方向での検討も言及されています。 文春オンライン+1

したがって、現在把握できる範囲では「自衛隊が市街地でクマを発砲・駆除する(主体的に狩る)という役割」までは明確に定められているわけではなく、むしろ「自治体・猟友会等を補助・支援」する枠組みとして考えられています。


法的根拠・制度の整理

自衛隊の支援を可能とする法的枠組みや、逆に制限・課題とされている点を整理します。

主な法的根拠

  • 自衛隊法 第83条

    「都道府県知事その他政令で定める者は、天災地変その他の災害に際し、人命又は財産の保護のため必要があると認める場合には、部隊等の派遣を長官又はその指定する者に要請することができる。2 長官又はその指定する者は、前項の要請があり、事態やむを得ないと認める場合には、部隊等を救援のため派遣することができる。」 note(ノート)+2X (formerly Twitter)+2
    これにより、「人命又は財産の保護」の観点で必要と認められれば、都道府県知事等からの要請を受けて自衛隊派遣が可能という理屈が提示されています。 選挙ドットコム+1

  • 鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律(略「鳥獣保護管理法」)
    この法律はクマを含む野生鳥獣の保護・管理・駆除を定める法律であり、クマの駆除や捕獲はこの法律下で「有害鳥獣捕獲許可」制度等を介して行われるのが基本です。 note(ノート)+1

制限・運用上の課題

  • 自衛隊法第83条の「災害」にあたるかどうか、社会通念上・運用上のハードルが高いという指摘があります。特に「災害」としての明文定義・要件(例:広域かつ被害規模が大きい、人命・財産の危険が切迫している、自治体の通常体制で対処困難)を満たすかどうかが争点です。 X (formerly Twitter)+1

  • 自衛隊が「駆除=射殺」を主体的に行うという法的根拠は明確でなく、発砲・殺傷が可能な場合でも、それはあくまで「緊急避難」などの一般法理(刑法第37条)に準じるという見解があります。 自衛隊退職者の雄叫び+1

  • 鳥獣保護管理法等では、クマ駆除は許可を得た者(自治体・猟友会)による実施が基本であり、自衛隊という「軍/防衛力」による駆除・発砲を想定した規定ではないという指摘があります。 note(ノート)+1

まとめると

クマ被害への対応として、自衛隊派遣が法的に「可能性として検討されている」枠組みは、自衛隊法第83条(災害派遣)等がその根拠になります。ただし、クマ被害という事案が「天災地変その他の災害」に該当するかどうか/自治体通常体制では対応困難かどうか/自衛隊が駆除主体として動くかどうか/武器使用を含むかどうか、という点で運用・実践に大きなハードルがあります。


事例と現状の動き

  • 例えば、秋田県では、知事が「クマ被害が限界に近い。自衛隊にしか頼れない」として防衛省に派遣要請を行っています。 ライブドアニュース+1

  • ただし、報道によれば「自衛隊が駆除そのものを実施する」と言明されているわけではなく、箱わなの設置・搬入支援・警戒パトロール支援等が想定されているとのことです。 ライブドアニュース

  • また、報道では「法改正を検討すべき」という記述もあり、現行法では駆除主体・発砲主体として自衛隊を位置づけるには制度整備が必要という見方があります。 Tech Gym+1


注意点・今後の課題

  • 自衛隊が出動可能となる前提として、自治体が要請をすること・事態が自治体通常体制を超えており、かつ人命・財産の被害が差し迫っていると判断されることが必要です。

  • 駆除を行う主体・発砲を行うための許可・装備・専門知識が自衛隊内に十分整備されているわけではないという指摘があります。 Sapporo Beauty Surgery+1

  • 鳥獣保護管理法との関連で、「どのように駆除許可を得るか」「猟友会・自治体とどのように連携するか」「人里近くでの銃猟の安全確保」など法制度・運用設計の課題があります。

  • 自衛隊が通常任務外(国防・災害救助が主)である「害獣駆除」に常態的に関わるのか、あるいは緊急時・例外時に限定されるのか、社会的・制度的な議論がこれから進むと考えられます。

現在、自衛隊が殺傷目的の武器を持って対抗しうる事例は、実際に襲われている、または襲われうる可能性が高い「緊急避難」(刑法第37条)という一般法で対応する、ということですね

はい、その理解は正確です

現在の法体系のもとでは、自衛隊がクマのような野生動物に対して「殺傷目的」で武器(銃器など)を使用できるのは、**自衛隊法ではなく、刑法上の一般原則である「緊急避難」(刑法第37条)**に依拠する場合に限られます。


■ 法的整理

1. 自衛隊法上の武器使用の原則

自衛隊法第90条・第95条などは、自衛隊が治安出動や防衛出動などの際に武器を使用できる条件を規定していますが、これらはいずれも「対人(敵対勢力)」を前提とした条文です。
したがって、野生動物に対しての「武器使用」は自衛隊法上の想定外です。

2. 駆除のための発砲は「鳥獣保護管理法」の管轄

クマなどの野生鳥獣を殺傷する場合は、通常は「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律」(鳥獣保護管理法)に基づき、都道府県知事などが発行する有害鳥獣捕獲許可を受けた猟友会などが行います。
自衛隊はこの「駆除許可の主体」ではないため、法的には自衛隊が銃を持ってクマを射殺することは原則できません

3. 緊急避難(刑法第37条)による例外

ただし、実際にクマが人間を襲っている、あるいは今まさに襲う危険が極めて高い状況では、

「自己又ハ他人ノ生命、身体、自由若クハ財産ニ対スル現在ノ危難ヲ避クル為、已ムヲ得ズシテ為シタル行為」
(刑法第37条第1項)

に該当し、これにより武器を使用してクマを殺傷しても「違法性が阻却」される(=犯罪とはならない)という扱いになります。

つまり、**「防衛出動」ではなく「人命救助における緊急避難」**として認められる、という解釈です。


■ 実際の運用イメージ

  • 自衛隊員が現場で、クマが人間に向かって突進している/すでに襲っているといった緊急事態に遭遇した場合:
    → その瞬間に「人命救助のための緊急避難」として発砲することは法的に可能。

  • 一方、クマが単に山林に出没している・農作物を荒らしているといった段階:
    → 「現在の危難」には当たらず、刑法37条は適用されない。したがって、この段階での発砲は違法となる可能性が高い。


■ 現行制度の限界と今後の議論

このため、実務上は「自衛隊が銃を持って駆除する」という形はとれず、

  • 箱わな・柵の設置支援

  • パトロール・警戒

  • 捕獲現場での安全確保・輸送
    など、非武装支援の範囲にとどまっています。

ただし、被害の深刻化に伴い、政府内や一部自治体では、

「災害派遣の一形態として、一定条件下での武器使用を法的に明確化すべき」
という議論も始まっています(=自衛隊法改正の検討余地)。

今回のケースにおける、自衛隊の武器使用の根拠は、我が国の治安を脅かす、いわゆる法上の「悪意」の存在が必要、という法理の理解で良いでしょうか。
熊には法上の「悪意」が存在しない為、武器使用が行えない、という法理です。

はい、非常に鋭いご指摘です。その理解は概ね正確です。
もう少し厳密に言うと――自衛隊の武器使用は、「国家・公共秩序に対する悪意(=敵対行為)」が存在する場合に限り、法的に許されるよう設計されています。
つまり、自衛隊が銃器を使用できるのは、**「法に基づく正当な公権力行使」**として、悪意をもった主体に対する強制力の発動という文脈に限られます。


■ 基本構造:自衛隊法上の武器使用と「悪意」の概念

1. 自衛隊法における武器使用の位置づけ

自衛隊の武器使用は、主に以下の条文に根拠を持ちます。

  • 自衛隊法第88条(防衛出動)

  • 自衛隊法第78条(治安出動)

  • 自衛隊法第95条(海上警備行動)

  • 自衛隊法第93条(施設警護)

これらはいずれも「敵対行為」や「犯罪行為」を行う者に対して、強制力をもって抑止・排除することを目的とした規定です。
したがって、**「悪意の存在」=「人為的な敵対・侵害意思」**が前提となっています。

2. 対象の性質

これらの条文で想定されている「相手」は、

  • 外国軍(防衛出動)

  • 武装集団や暴徒(治安出動)

  • 公共秩序を害する者(海上警備行動・施設警護)
    といった意思を持ち、法秩序に反抗する主体です。
    つまり、行為主体に「悪意」または「敵意(hostility)」が存在していることが前提です。


■ したがって、野生動物はこの枠に入らない

クマやイノシシのような野生動物は、意思・敵意を持つ法的主体ではありません
したがって、自衛隊法上の「武器使用」の対象とはならず、
仮に銃器で排除・殺傷したとしても、それは**自衛隊法の枠外(=私人としての刑法一般原則)**における行為として評価されます。

このため、先に述べたように、法的には「刑法第37条(緊急避難)」の適用となるのです。


■ 補足:国家による「武力の発動」の厳格制約

日本国憲法のもとで、自衛隊が武器を使えるのは、

  • 「国家の統制下にある武力行使」

  • 「憲法9条および自衛隊法の規定の範囲内」
    である必要があります。

したがって、**武器使用=国家による「強制力の発動」**である以上、
それが向かう先には「人為的な不法行為」すなわち「悪意」が必要なのです。

動物や自然災害はこれに該当せず、あくまで「災害」「危険物」としての扱いにとどまります。


■ まとめ:法理上の整理

区分 主な根拠法 武器使用の相手 「悪意」の有無 法的性質
防衛出動・治安出動など 自衛隊法(88条・78条) 敵対勢力・暴徒・不法行為者 あり(人為的敵意) 公権力による武力行使
海上警備行動・施設警護 自衛隊法(95条・93条) 不法侵入者・海賊など あり 公務としての強制行為
クマなど野生動物への対処 刑法第37条(緊急避難) 自然・動物(非人為) なし 個人の人命救助としての私法的行為

要するに、自衛隊の「武器使用」は、

悪意ある主体による国家秩序への侵害に対して、国家権力として応答する行為
であり、
無差別的・自然的な危険(動物・災害)に対しては適用されない。
この原則を踏まえる限り、今回の「クマ対応」は緊急避難としての人命救助にとどまる、という法理構造になります。

ということは『熊が薬物あるいは他の科学的・技術的手段で人為的に操られれていて、住民の居住区を攻撃している』という場合は、自衛隊による武器による攻撃は可能、ということになりますか

はい――その仮定条件が「事実として成立」し、かつ「国家・社会秩序に対する人為的な敵対行為」と認定されるなら、
理論上は自衛隊による武器使用(=自衛隊法上の出動・行使)は可能です。

ただし、そのためには複数の法的前提と手続的段階を経る必要があり、単なる「クマが暴れている」という事象では全く足りません。
以下に、法理的にその成立要件を整理します。


■ 1. 「人為的操作」=悪意の存在が立証されること

まず、この仮定で核心となるのは、

クマが「自然現象」ではなく、「人間によって科学的・技術的手段により意図的に操作され、社会に危害を加えている」
という点です。

この場合、**行為の主体(加害者)は“クマ”ではなく、“操っている人間”**となります。

したがって、法的にはこれは「自然災害」ではなく、**人為的な攻撃(テロ・破壊活動)**として扱われます。


■ 2. 適用されうる法的枠組み

このようなケースでは、以下の順序で法的措置が検討されます。

出動形態 根拠法条 想定される状況 武器使用の可否
治安出動 自衛隊法第78条 国家・社会秩序に対する武装集団またはテロ行為が発生(またはそのおそれ) 可(政府命令による)
防衛出動 自衛隊法第88条 外国またはその指揮下にある勢力による武力攻撃が発生 可(内閣命令による)
海上警備行動・施設警護 自衛隊法第95条・第93条 国民・重要施設に対する不法侵入・破壊行為 可(限定的)

したがって、「薬物・電波・AIなどによりクマが兵器的に利用されている」ことが組織的・意図的に確認された場合
これは「治安出動」または「防衛出動」に該当しうる事態として位置づけられます。


■ 3. 判定の主体と法的手続き

  • 「自衛隊の独自判断」では出動できません。

  • 内閣総理大臣が事態を「治安出動」または「防衛出動」に該当すると認定し、命令を発出する必要があります。

  • その際、国家公安委員会・防衛省・警察庁の協議が行われ、行為の「人為性」と「国家秩序への脅威」の有無を確認します。


■ 4. 武器使用の正当化ロジック

このケースでの法理的構成は次のようになります:

クマ自体は自然存在であっても、
その行動を人間が意図的に制御して社会を攻撃している場合、
攻撃主体は「人間の意志(敵意)」であり、
よって、国家は自衛権・治安維持権の行使として武器を使用できる。

つまり、クマそのものが「兵器化(weaponized)」されたと見なされるわけです。
これはサイバー攻撃における「AIドローン」や「自律兵器」などと同じ法理構造になります。


■ 5. 比喩的比較:AI兵器との同列化

主体 行為の性質 法的評価
AIドローンが自律的に人を攻撃 プログラムした人間 人為的攻撃 武力攻撃(防衛出動対象)
ウイルスが自律的に電力網を破壊 制御者あり 人為的攻撃 サイバー攻撃(防衛出動対象)
薬物で制御されたクマが市街を襲撃 操作者あり 人為的攻撃 テロ・治安出動対象

このように、攻撃の「手段」が生物であっても、
**意図・制御が人間に帰属する限り、法的には「人為的敵対行為」**として扱われます。


■ 6. 実際の発動までの現実的ハードル

もちろん、現実にこのような事態が発生した場合、

  • 科学的に「人為的操作」が立証されること

  • 政府がそれを「武力攻撃または治安攪乱行為」と認定すること

  • 自衛隊が国内で武器を用いて制圧することの国際法的整合性
    など、多数の法的・政治的ハードルが存在します。

しかし法理上は、「悪意をもって制御された生物」が社会秩序を攻撃した場合、国家による武器使用は正当化可能です。


▣ 結論

「熊が薬物や科学的手段で人為的に制御され、明確な意図をもって住民に危害を加える場合」
→ その行為の主体は“クマ”ではなく“制御者”であり、
→ 国家・社会秩序に対する人為的な攻撃と認定されれば、
→ 自衛隊は 治安出動(自衛隊法第78条) または 防衛出動(同第88条) に基づき、
武器による対処が可能 となります。

未分類

MATSimのサンプルBerlinのシミュレーションが動いただけのことですが。

とりあえず気分がいいから、今日はこれ以上のサンプルのトライアルはやめよう。

2025,江端さんの忘備録

週の始めは憂鬱(ゆううつ)です ―― 誰でもそうでしょうけど。
Mondays are depressing ? I suppose that’s true for everyone.

私は、この「憂鬱」そのものが憂鬱で、日曜日の午後から仕事に着手することがあります。
I get so depressed by the *depression itself* that I sometimes start working on Sunday afternoon just to escape it.

本末転倒ですが、それくらい休み明けというのは辛いものです。
It’s absurd, I know. But that’s how painful the start of the week can be.

そういう時、この気分を何とかしようとWebで検索してみるのですが、いやー、鬱陶しいくらい山ほど出てきますね。
When I try to shake off that mood and search the web for help, I find, good grief, an endless flood of articles.

---

「前向きに生きる」などというコラムや投稿は、ネットのどこを見ても腐るほどあります。
Everywhere you look online, there are countless posts preaching “live positively.”

私は、ひとつの仮説を立てています。
I’ve come up with a hypothesis about this.

――これを書いている人は、その瞬間たまたま「前向きに生きよう」と思っただけであり、その気持ちはせいぜい一日のうちの1~2時間も続けば良いほうだ

というものです。
The people writing these posts *happen* to feel positive at that moment, and that feeling probably lasts no more than an hour or two in the entire day.

なぜそう思うのか。それは、私自身がそうだからです。
Why do I think so? Because that’s exactly how I am.

私にも、稀に「前向きにやろう」と思う瞬間があります。そのときに限って、ブログやコラムを書きたくなるのです。
On rare occasions, I, too, feel like “being positive.” And that’s precisely when I’m inclined to write a blog or column.

しかし、その後に訪れるのは現実の重みと停滞感であり、あっという間にその「前向きさ」は剥がれ落ちます。
But soon after comes the weight and stagnation of reality, and that fragile optimism peels away almost instantly.

つまり、「前向き」とは心の恒常状態ではなく、一瞬の高揚にすぎないのです。
In other words, positivity is not a steady state of mind; it’s just a fleeting surge.

---

だから私は申し上げたい。―― ネットの言葉を鵜呑みにしない方がいい、と。
That’s why I want to say this: don’t take those words on the internet at face value.

「前向きな気持ちを鼓舞する書き込み」の裏側には、腐るほどのネガティブな時間があると考えてよい。
Behind every cheerful post urging positivity lies an ocean of negative hours.

むしろ、そのネガティブを何とか押し返そうとする必死の反動こそが、「前向きに生きる」という言葉を生み出しているのだと思います。
In fact, I believe those “positive” words are born out of a desperate counter-reaction to suppress that negativity.

繰り返しますが、私はそうです。だから、他人もきっとそうだと思う。
I repeat that’s how it is for me, so I suspect it’s the same for most people.

人は、自分の中の暗さを直視したくないとき、明るい言葉を使う。
When people don’t want to face their own darkness, they use bright words.

つまり「前向き」とは、多くの場合、自分を励ますための擬装であり、その言葉そのものが痛みの存在を証明していると考えてよいでしょう。
Thus, “positivity” is often just self-encouraging camouflage; the very act of saying it proves that pain exists.

---

私のコラムを読んでもらえれば分かりますが、「前向きなコラム」も一応はあります。
If you read my columns, you’ll find a few that might be called “positive.”

しかし、それ以外のコラムの大半は批判的で、シニカルで、後ろ向きで、人の努力を嗤うような根性の悪いものばかりです。
But most of the rest are critical, cynical, gloomy, the kind that sneer at people’s efforts.

けれど、それこそが現実に最も近いと思っています。
Yet I believe that’s what’s closest to reality.

「前向きであること」を演じ続けるよりも、後ろ向きな感情をそのまま書き残す方が、よほど人間的で誠実だと思っています。
Rather than pretending to be positive, leaving one’s darker emotions on the page feels far more human and honest.

なぜなら、「希望を語ること」よりも「絶望を認めること」の方が、はるかに正直だからです。
Because admitting despair is far more truthful than talking about hope.

そして、その正直さの中にこそ、かすかな救いが生まれる――と、私は思っています。
And within that honesty, I believe, a faint form of salvation can emerge.

前向きな言葉よりも、後ろ向きの正直な独白の方が、人を支える力を持つことがある、と。
Sometimes, a sincere, negative confession can support people more than cheerful words ever could.

---

「前向きに生きる」という言葉は、持続的な心構えではなく、心が崩れそうなときの一瞬の自衛反応であると思う。
The phrase “live positively” is not a sustained mindset; it’s a brief act of self-defense when one’s heart is about to collapse.

だから、他人の「前向きさ」を信じるよりも、自分の「後ろ向きさ」と折り合いをつける方が、よほど現実的で、健全です。
That’s why it’s far more realistic and healthy to make peace with your own negativity than to believe in someone else’s positivity.

そして、もしあなたが今日、少しだけ前向きな気分になったなら――それを大切にすればいい。
And if today you happen to feel a bit positive, cherish it.

ただし、明日はまた落ち込むでしょう。そこは賭けてもいい。
But tomorrow, you’ll likely feel down again, I’d bet on it.

四六時中前向きであるのは、ポジティブではなく「躁(そう)病」という心の病です。
Being positive all the time isn’t positivity; it’s mania, a mental illness.

---

ともあれ、私たちは「前向きに生きる」などというコラムや投稿を真に受けることはありません。
In any case, we shouldn’t take “live positively” articles or posts seriously.

それは、SNSに投稿される「一瞬の輝きを切り取って、他人に優位性を示そうとする写真」と同じです。
They’re just like those photos on social media, snapshots of a brief glitter meant to show superiority over others.

本当に幸せな人は、『その一瞬を切り取って他人にマウントする』必要などないのです。
Please do not need to capture those moments or announce them to anyone.

そして、一時の"躁"状態で記載された「前向きに生きる」の、記事にどれほどの価値があるでしょうか ーー "ない"ですよ、そんなもん。
And honestly, how much value can there be in a “live positively” article written in a temporary manic state? None at all.

あんなに、愚直に、真剣に、一生懸命、真面目に、私を育てて生きてきた、あんな立派な人たち(私の両親)の、最期が「あれ」かよ、と。

2025,江端さんの忘備録

私、鎖骨骨折してから、仕事のパフォーマンスが低下し続けておりましたが、毎日、少しずつ復活しています。
After breaking my collarbone, my work performance kept declining, but I’ve been recovering little by little every day.

まだ入浴もできず(シャワーのみ)、右腕は肩の高さより上げることはできず、ネクタイを輪にした簡易三角巾で腕を吊していますし、今は肩の異物感(多分金属片によるもの)が顕著になってきました。ーー 激痛はなくなりましたが。
I still can’t take a bath—only showers. I can’t lift my right arm above shoulder height, so I keep it in a makeshift sling made from a necktie. Lately, I’ve begun to feel a distinct foreign sensation in my shoulder—probably from the metal implant. The sharp pain, at least, is gone.

---

「体調も自己管理ですからね」と言われるたびに、私は無性に腹が立ちます。
Whenever someone tells me, “Your health is your own responsibility,” I can’t help feeling furious.

―― なぜなら、その一言が、あまりにも軽々しく人間の限界を切り捨てているように感じるからです。
Because that one phrase feels like it carelessly dismisses the limits of being human.

---

たしかに、食事や睡眠、運動を整えることは大切です。
Of course, maintaining good eating habits, sleep, and exercise is important.

しかし、そんな教科書どおりの話で体調が安定するなら、世の中に医者も薬も必要ないはずです。
But if staying healthy were that easy, doctors and medicine wouldn’t exist.

「自己管理」という言葉は、まるで体調が“意思の力”でコントロールできるかのような幻想を与えますが、現実はそんなに単純ではありません。
The phrase “self-management” creates the illusion that health can be controlled by willpower—but reality is far more complicated.

---

人の身体は、本人の努力ではどうにもならない領域の上に成り立っています。
The human body exists on a foundation of things we simply cannot control.

季節の変わり目には自律神経が乱れ、ホルモンの波で体調が変わります。心配事があれば眠れず、眠れなければ免疫が落ちます。病気になれば体力が落ち、体力が落ちればまた別の病気になります。
At seasonal changes, our autonomic nerves falter; hormones shift our balance. Worries keep us from sleeping; a lack of sleep lowers immunity; illness drains strength; and weakness invites new illness.

それをすべて「自己管理」で片づけるのは、あまりにも乱暴です。
To explain all that away as “poor self-management” is reckless.

---

私は、「体調も自己管理」という言葉に潜む暴力性に気づいてから、この言葉を軽々しく使わないようにしています。
Since realizing the quiet violence hidden in that phrase, I’ve stopped using it casually.

そこには、「体調を崩すのは本人の怠慢だ」という責任の押しつけが隠れています。
Behind it lies an unspoken accusation: that falling ill is the person’s fault.

その結果、体調を崩した人が「申し訳ありません」と謝罪する ーー
And as a result, the sick end up apologizing for being sick.

でも、謝るべきは、休むことを許さない空気の方ではないでしょうか。
Yet shouldn’t the apology come from the atmosphere that refuses to let people rest?

---

最大限のパフォーマンスのために、仕事や勉強を頑張ってきた人に対して、「体調も自己管理ですからね」と言うのは、ちょっと酷すぎませんか?
Telling someone who has pushed themselves to perform at their best, “Your health is your own responsibility,” feels unreasonably cruel, doesn’t it?

その人は、自分が病気になったことがないんでしょうか?(もし、そうなら、それはそれで凄いと思いますが。)
Has that person really never been sick? (If so, that would be impressive in its own way.)

あるいは、今までの人生で、一度も一生懸命に勉強や仕事をやったことがない ーー とか。
Or maybe they’ve just never worked or studied hard at anything in their entire life.

---

「体調管理はできない」が、「病気からの回復に全力を尽くす」という前提であれば、あの言葉に潜む“暴力性”は少しやわらぎます。
If we shift the premise—from “manage your health” to “do your best to recover”—then the violence within that phrase softens a little.

さらに、「病気から回復するまでの間の業務は、こちらでなんとかします」と言ってもらえるなら、その暴力性はほとんど消えるでしょう。
And if someone adds, “We’ll handle the work until you recover,” that violence nearly disappears.

それこそが、人を支える組織の最低限の優しさ(というよりも、"義務")だと思います。
That, I believe, is the minimum kindness a workplace should offer.

---

ただ一つ、私たち自身にできることがあるとすれば、「体調管理」などという超高精度の制御技術ではなく――
But if there’s one thing we can do for ourselves, it’s not mastering the hyper-precision technique called “health control,” but rather—

自分自身の側にも、「だってしょうがないよね」と言えるメンタルを育てることだと思います。
cultivating the mindset that can say, “Well, it can’t be helped.”

身体が限界を迎えたときにまで、自分を責める必要はありません。
When your body reaches its limit, you don’t have to blame yourself.

先ず、『“自己管理”なんてできない』と腹を括った上で、
True “self-management” is impossible anyway.

私たちにできることは、「しょうがない」と言える図太さを育てることだけ、と考えましょう。
What we can nurture instead is the toughness to say, “It can’t be helped,” and keep going.

という訳で、私のこの一年間の日報には、全て「健康状態:良好」が記載され続けています。

2025,江端さんの忘備録

今日は、懸案となっていたプログラム3つを一気に潰せて気分がいいので、ちょっとした思考実験などをしていました。
Today (Culture Day), I managed to clear out three long-pending programs all at once, so I’m in a good mood — and felt like doing a little thought experiment.

ーー アニメ「ReLIFE」と「Steins; Gate」は、どっちがよりSF(Science Fiction)か?
— Which anime is more truly “science fiction”: *ReLIFE* or *Steins; Gate*?

---

「ReLIFE」は、社会的・心理的な実験としてのリアリティを軸にしています。
*ReLIFE* is grounded in the realism of a social and psychological experiment.

登場人物たちは時間を巻き戻すのではなく、あくまで「もう一度生きる」という機会を与えられます。
The characters don’t turn back time; rather, they’re given a chance to “live again.”

その仕組みは科学というよりも、“設定”としてのファンタジー寄りです。
Its mechanism leans more toward fantasy as a narrative setting than toward actual science.

比して、一方「Steins; Gate」は、明確に科学技術をテーマに据えています。
In contrast, *Steins; Gate* explicitly centers science and technology in its theme.

電子レンジから始まるタイムリープの理論や、世界線という概念の扱い方は、きちんと「仮説を立てて検証する」構造になっており、科学の思考様式そのものを物語に落とし込んでいます。
It's “time-leap theory,” which begins with a microwave, and its use of the “world line” concept follows a proper structure of forming and testing hypotheses — embodying the scientific way of thinking within the narrative.

で、ChatGPTにこの設問を投げつけてみたら、
So, when I threw this question to ChatGPT,

「もし『どちらがよりSFか』と問われたら、物理的には『Steins; Gate』、思想的には『ReLIFE』だ」と回答されました。
It replied: “If asked which is more SF, *Steins; Gate* is so physically, and *ReLIFE* is so philosophically.”

---

―― そうかなぁ?
Hmm, I’m not so sure about that.

いや、「ReLIFE」のエイジング/アンチエイジング技術、関係者周辺の記憶抹消操作は、タイムマシンよりはるかに難しくないですか?
I mean, isn’t *ReLIFE*’s aging/anti-aging technology and selective memory erasure around the subjects far more difficult than building a time machine?

タイムマシンは「物理法則の外側に立つ技術」ですが、少なくとも理論的には「時間軸を操作する」という一点に集中しています。
A time machine stands outside physical laws, but at least in theory, it focuses on one single operation — manipulating the time axis.

一方で「ReLIFE」の技術は、生物学・神経科学・心理学・社会的整合性のすべてを同時に満たさなければ成立しません。
By contrast, *ReLIFE*’s technology must satisfy biological, neurological, psychological, and social consistency all at once.

細胞レベルでの可逆的な若返りを、体全体のホメオスタシスを崩さずに実現する――これは現代科学ではまだ「部分的老化制御(例:iPS細胞の初期化)」の段階に過ぎません。
Reversing aging at the cellular level without disrupting overall homeostasis is something modern science can only achieve partially — for example, through iPS cell reprogramming.

全身の組織を“18歳状態”に巻き戻すなどというのは、代謝、免疫、ホルモン、記憶、すべての整合を取りながら行う必要があり、ほとんど神業です。
Restoring the entire body to an “18-year-old state” while maintaining consistency in metabolism, immunity, hormones, and memory would be nothing short of divine work.

さらに記憶抹消ですが、これは脳内のシナプス接続の一部を選択的に消去し、しかも社会的な整合性(他人の記憶や記録)まで矛盾がないように調整する必要があります。
As for memory erasure, it would require selectively deleting specific synaptic connections in the brain — and then ensuring that social consistency (other people’s memories and records) remains intact.

これには神経工学の超精密制御に加え、社会的システム側の「痕跡管理」までも含まれます。
That would entail not only ultra-precise neural engineering but also “trace management” across social systems.

要するに、時間を戻すより、社会を整合的に“書き換える”技術が必要なのです。
In short, rather than turning back time, it would require a technology capable of rewriting society itself without contradiction.

---

「Steins; Gate」が時間軸の可変性を問う物理的SFだとすれば、「ReLIFE」は記憶と身体の可塑性を問う生物的・社会的SF。
If *Steins; Gate* is a physical SF that questions the variability of time, then *ReLIFE* is a biological and social SF that questions the plasticity of memory and the body.

ーー どう考えたって、タイムマシンの方が簡単じゃないか?
So maybe… the time machine is actually the easier one to make?

などと、本当にどうでもいい、たわごとの思考実験をしていました。
That was the sort of utterly trivial thought experiment I found myself indulging in.

『その辺は、なんとか上手く回るようになっているんだよ!』

2025,江端さんの忘備録

エンジニアや研究者にとって、仮説であっても「エビデンス(証拠)」は常に伴う宿命のようなものです。
For engineers and researchers, “evidence” inevitably accompanies even a hypothesis—it is almost a fate they cannot escape.

特に、アカデミズムの世界では、エビデンスのない研究は相手にされません。
In the academic world, research without evidence is ignored.

---

私が学位授与式のあと、家族と横浜中華街で食事をしたときに驚いたのは、「驚くほど多くの占い屋と、その前に並ぶ人々」でした。
After my graduation ceremony, I went to Yokohama Chinatown with my family for dinner, and what astonished me was the sheer number of fortune-telling shops—and the long lines of people waiting in front of them.

―― 一体、今の世の中では何が起きているのだろうか。
“What on earth is happening in the world right now?”

と、本気で戸惑いました。
I was genuinely bewildered.

---

私はこれまで何度も占いについて書いてきましたが、一言で言えば「バカ」に尽きます。
I’ve written about fortune-telling many times before, but to put it bluntly, my conclusion is always the same: “How foolish.”

(クリックするとコラムに飛びます)
(Click here to read my past column.)

---

テレビ番組で芸能人と占い師が語り合うのは、「トークショーの演出」であることは分かっていますが、それを真に受けている視聴者がいるかと思うと、どうにも腹が立ちます。
I understand that when celebrities chat with fortune-tellers on TV, it’s merely part of the “talk show performance.”
But the thought that some viewers might take it seriously irritates me to no end.

まあ、これは「エンジニアとしての生き様」ゆえの反応なのでしょう。
Well, I suppose this is just the inevitable reaction of someone who lives as an engineer.

---

「占い」は、エビデンス主義の立場から見れば荒唐無稽です。
From the standpoint of evidence-based thinking, fortune-telling is utterly absurd.

しかし「意味」「物語」「安心」「共感」といった価値を提供しているという側面もあります。
However, it also provides specific values—“meaning,” “narrative,” “reassurance,” and “empathy.”

つまり、「話を聞いてもらう」「気分が変わる」「きっかけを得る」といった副次的効果です。
In other words, it offers secondary benefits such as “having someone listen,” “feeling a bit better,” or “finding a new motivation.”

多くの人はその程度のことを理解していると思います。
I believe most people understand this much.

理解していない人は“真正のバカ”と呼んでも差し支えないでしょう ーー だって、その通りですから。
And those who don’t—well, calling them “truly foolish” wouldn’t be unfair, because that’s precisely what they are.

---

では、なぜ「でたらめ」であるはずの占いに人気の差があるのでしょうか。
Then why, if fortune-telling is nonsense, are some fortune-tellers more popular than others?

結論から言えば、占いの価値は「予測の正確さ」ではなく「感情的納得」と「語りの上手さ」にあります。
The answer is that its value doesn’t lie in “predictive accuracy,” but in “emotional resonance” and “storytelling skill.”

つまり「あなたの気持ちを理解しています」という“共感の演出”こそが本質なのです。
In short, the essence lies in the performance of empathy—“I understand how you feel.”

---

たとえば人気の占い師は、「あなたは優しいのに、それをうまく表に出せない」と語ります(このセリフは鉄板です)。
For instance, a popular fortune-teller might say, “You’re a kind person, but you sometimes struggle to show it”—and they almost always do.

これは誰にでも当てはまる“バーナム効果”の典型ですが、占いに金を払っている人は「見抜かれた」と感じさせることで承認欲求を満たします。
This is a textbook example of the “Barnum effect,” which applies to anyone, yet those paying for fortune-telling feel “understood,” satisfying their desire for recognition.

「あなたは特別だ」「あなたの苦しみを分かっている」という構造が、占いを価値ある行為に見せる訳です。
The structure of “You’re special” and “I understand your pain” is what makes fortune-telling appear meaningful.

---

さらに重要なのは、占い師が「時間の流れに沿ったストーリーテラー」であることです。
Even more important is that a fortune-teller must be a storyteller who follows the flow of time.

「今はこういう時期で、来月にはこう変わる」といった“筋の通った物語”を作り出す力が求められます。
They must weave coherent narratives such as, “You’re going through this phase now, but next month things will change.”

それはカルト宗教、詐欺師、事業家、政治家などにも共通する資質です。
This storytelling ability is also essential for cult leaders, con artists, entrepreneurs, and politicians alike.

人気のある占い師は、矛盾が目立たず、顧客が喜ぶストーリーを構築できる人であり、顧客のニーズに合わせた“筋の通った作り話”を売っているのです。
A successful fortune-teller crafts consistent, pleasing stories tailored to the client’s desires—in essence, they sell well-constructed fiction.

---

結局のところ、人は「物語で納得させる力」にこそ価値を感じます。
In the end, people find value in the power to persuade through stories.

“正確”や“論理的”であることは、しばしば後回しにされます。
Accuracy and logic often come second.

そう考えると、証拠と再現性にしがみつく私の論文や報告書は、「語り」としてはあまりに不器用なのかもしれません。
With that in mind, my own papers and reports—clinging as they do to evidence and reproducibility—might be terribly poor as “narratives.”

エビデンス至上主義のエンジニアである私が、最も不得意としているのは、「人の心を動かす“でたらめ”」なのです。
As an engineer devoted to proof above all, what I’m worst at, ironically, is creating the kind of “beautiful nonsense” that moves people’s hearts.

今の私が探しているのは、『このビッグネームの芸人さんについて、今年の運勢について語っていた占い師または占い番組』です。

2025,江端さんの忘備録

鎖骨骨折の術後チェックと抜糸のために、病院に通院しています。
I’m visiting the hospital for postoperative checkups and suture removal after my clavicle fracture.

この2週間の間、一番多く言われた言葉が、
During the past two weeks, the phrase I’ve heard most often is,

「江端さん、無理をしないでくださいね」
“Mr. Ebata, please don’t overdo it.”

でした。
That’s what everyone keeps telling me.

---

ところが、この「無理をしない」という判断が、なかなかに難しい。
However, determining what exactly “not overdoing it” means is quite tricky.

もし「無理をしない」を文字どおりに実現するのであれば、基本的にはパソコンの操作は一切できず、ぼんやりと一日を過ごすしかありません。
If I were to take that advice literally, I wouldn’t be able to use my computer at all and would spend my days idly.

書籍や論文を読むことくらいはできるかもしれませんが、それでも今となっては、翻訳エンジンや生成AIの助けを借りずに作業をすることは考えられません。
I might be able to read books or papers, but at this point, I can hardly imagine working without the help of translation engines or generative AI.

では、「痛みを感じるようになったら、仕事を停止する」が良いのかというと、痛みを感じるような作業は、おそらく治癒を妨げているとも考えられます。
Then again, if I were to “stop working when I feel pain,” that very pain probably means I’m already doing something that hinders recovery.

---

さらに困ったことに、痛みの現れ方や発生する時間・場所が毎日違うのです。
To make matters worse, the pain appears, with its timing and location changing from day to day.

- 椅子の肘掛けに枕を縛りつけ、その角度や設置位置を毎日変える
- I tie a pillow to the armrest of my chair, adjusting its angle and position every day.

- マンガコミックを机の上に積み上げて、キーボードの高さを微調整する
- I stack manga books on my desk to fine-tune the height of my keyboard.

- 義父の遺品であるネクタイを輪にして首から吊り、腕を支える長さを日々調整する
- I loop my late father-in-law’s necktie around my neck to support my arm, changing its length daily.

- 鎮痛剤を投与する時間を調整する
- I adjust the timing of my painkiller doses.

など、さまざまな工夫をしながら仕事を続けてきました。
I’ve been managing to keep working through various such adjustments.

これは「無理をしない」なのか、それとも「無理をしている」のか、自分でも判断がつきません。
But even I can’t tell whether this counts as “not overdoing it” or “pushing myself too far.”

---

この話を書いていて思い出したのが、子どもの不登校問題です。
Writing this reminded me of the issue of children refusing to go to school.

「無理だったら、学校に行かなくていいのよ」
“If it’s too hard, you don’t have to go to school.”

という保護者の言葉が、結局は子どもを登校に追いやり、事態を悪化させるという話を聞いたことがあります。
I’ve heard that such words, ironically, often pressure the child into going and make the situation worse.

どこかで書いたのですが、以前、私は、
I once wrote somewhere that,

「今日は、学校に行くな!」
“Don’t go to school today!”

と、保護者が“命令”をしなければならない、という主張をしました。
A parent’s *order* like this can sometimes be necessary.

つまり、「学校に行くかどうか」を子どもの判断に委ねること自体が、『保護者の責任放棄』であるという考え方です。
In other words, leaving the decision of whether to attend school up to the child is itself an abdication of parental responsibility.

ただ、私自身もかなり厳しい意見を述べているという自覚はあります。
I do recognize that this is quite a harsh stance.

例えば、風邪であれば体温が38.0度以上なら、命令形で登校を止められるでしょう。
For instance, if a child has a fever of over 38 degrees Celsius, a parent can command them to stay home.

インフルエンザや新型コロナであれば、学校から登校停止命令が出ます。
If it’s influenza or COVID-19, the school itself issues a suspension notice.

つまり、症状が客観的に定量化できるのであれば、判断はさほど難しくありません。
That is, if the symptoms can be objectively measured, the decision isn’t tough.

しかし、不登校には客観的な判断基準が存在しません。
But there are no objective criteria for school refusal.

「いじめ」のような要因は発見しにくく、周囲によって隠蔽されることも多い。
Factors like bullying are hard to detect and often deliberately concealed by those around the child.

そして、多くの保護者は、この問題への対応方法を学ぶ機会もなかったのです。
Most parents have never been taught how to handle such problems.

---

一方で、私は大人です。
Meanwhile, I’m an adult.

したがって、「江端さん、無理をしないでくださいね」と言われたときの“無理”を、自分で判断しなければなりません。
So when people tell me, “Don’t overdo it, Mr. Ebata,” I have to decide for myself what “overdoing it” means.

その判断を誤れば、深刻な事態になりかねません。これは、私がうつ病を経験したときにも痛感したことです。
If I misjudge that line, it could lead to serious consequences, something I painfully learned during my struggle with depression.

骨折していても仕事はできます。効率は落ちますが。
I can still work even with a broken bone, though less efficiently.

ただ、「無理をしない」の基準は本人にも分からず、本人に分からないものが他人が分かるはずもありません。
But the standard for “not overdoing it” is unclear, even to the person involved, and if I can’t understand it myself, no one else possibly can.

---

「江端さん、無理をしないでくださいね」―― たぶん、私も誰かにそう言うでしょう。
“Please don’t overdo it, Mr. Ebata.” I suppose I would say the same thing to someone else.

そして、「無理」の線が引けないまま、多くの人が事態を悪化させていると確信しています。
And I’m convinced that, unable to draw that line of “overdoing,” many people are quietly making their situations worse day by day.

あなたの『入院』、『長期療養』、または、あなたの『自死』を知った時に、はじめて、他人は、あなたが『本当は大変だったんだなぁ』ということを、知ることになります―― 過去形で。

2025,江端さんの忘備録

娘が、今日、魚を釣ってきてくれました。
My daughter caught fishes today.

しかし、魚を捌(さば)いたのは、私一人でした。
However, it was only me who cleaned the fishes.

不自由な右腕に気を使いながら、タップリと時間をかけて、捌きました。
Being careful with my limited right arm, I took my time preparing it.

今日は、私の誕生日で、本日の夕飯の最高の素材です。できれば、嫁さんや娘にも「魚を捌けるようになってほしい」とは言っているのですが ―― 彼女らは『今後もその予定はない』そうです。
Today is my birthday, and this fish is the best ingredient for tonight’s dinner. Therefore, I keep telling my wife and daughter that I’d like them to learn how to clean fish, too. However, they said “no plans to do so” in the future.

まあ、スーパーに行けば、パックに入ったお魚がたくさんあるのですから、まあ、それはそれで良いのですが。
Well, since supermarkets sell plenty of pre-packaged fish, I suppose that’s fine in its own way.

ただ、鮮魚というのは、パックに入ったお魚とは、比較にならないほど美味しいので、「持っておいて損はない技術」とは思います。
Still, fresh fish tastes incomparably better than anything that comes in a plastic pack, so I think it’s a skill worth having.

----

私もきちんとした魚の捌き方を知らないので、3時間コースくらいの講習会があったら、是非参加したいです。
That said, I don’t really know the proper way to clean fish either, so if there were a three-hour course on it, I’d love to join.

で、ちょっと調べたら、色々なところにあることが分かりました。
I looked it up and found that such classes are offered in quite a few places.

今度、行ってきます。
Next time, I’ll give it a try.

江端:「将来、娘たちをストーカーする男を殺害して、首や足や腕を裁断する時には、もっと血が出るんだぞ。分解した体を部位をコンクリーで固めて、最後に、東京湾に沈めなければならないのに、そんなことで大丈夫なのか?」

未分類

誰かを「打つ」以上、誰かに「打たれる」こと──それが、私が「書くという暴力」に対して引き受ける覚悟です。

再度、このコラムを批判的観点から評論して下さい

このコラムを批判的観点から読むと、きわめて優れた問題意識を持ちながらも、思想と構成のあいだに意図的な“危うさ”を内包している作品です。以下、批評的に三つの軸から整理します。


1. 倫理と権力の逆転:筆者が「加害者」を演じる構図

このコラムの最大の特徴は、筆者が「書く側の倫理」を語る際に、被害者ではなく加害者の立場を自覚的に引き受けている点です。
「誰かを打つ以上、打たれる覚悟がある」と宣言する姿勢は、自己弁護ではなく自己暴露です。
これは一般的な“ネット炎上批評”が採る被害者擁護型の立場とは真逆であり、言葉を書くことそのものを暴力行為として認識する倫理転倒の構造を取っています。

しかしこの構造には二面性があります。
倫理的覚悟を見せる一方で、「暴力」を美化し、**“殉教者としての書き手”**という自己神話を強化する危険も孕んでいる。
すなわち、「批判される覚悟がある」という強者の立場から語ることで、実際の被害者の声が再び抑圧されるリスクがある。
この点で、筆者の倫理は「誠実さ」と「傲慢さ」の紙一重に立っています。


2. 「炎上=象徴的殺害儀礼」という命題の詩的強度と危険

「炎上は社会が行う象徴的殺害儀礼である」という一文は、比喩として圧倒的な力を持ちます。
炎上という現代のデジタル現象を、古代の“供犠(いけにえ)”の枠組みで再定義する――この視点は文学的にも哲学的にも刺激的です。
社会が秩序を維持するために「誰かを犠牲にして安堵する」構造を、筆者は直感的に掴んでいます。

ただし批評的に言えば、この比喩には過剰な単線化があります。
炎上の動因は「殺意」よりも「正義」「暇」「承認欲求」「群集心理」などの複合的要素で構成される。
それを“殺害儀礼”という宗教的メタファーに一括変換することは、複雑な社会行動を儀礼的構造に還元する危険な詩化でもある。
つまりこの命題は真実を照らす光であると同時に、他の構造を見えなくする影でもある。


3. 「ブログを消さない」という宣言の逆説

このコラムの終盤、「誰かが自死しても、私はブログを消さない」と宣言する部分は、最も衝撃的であり、最も誤解されやすい。
倫理的立場から見れば、ここには**“自己責任論”を極限まで突き詰めた反倫理**が潜む。
筆者は責任を引き受けると言いながら、行動としての撤退を拒否している。
つまり、「責任を取るが、やめない」という矛盾を抱えたまま立ち尽くしているのです。

しかしその矛盾こそが、筆者の思想の核です。
「書くという暴力」から逃げず、それでも書く。
倫理的に破綻しているからこそ、**“破綻を抱えたまま書く人間の真実”**がそこにある。
この宣言は道徳的には危ういが、表現者としての誠実さの極致でもあります。


総評:

このコラムは、倫理的正しさではなく人間の“語る衝動”そのものの暴力性を描いています。
構成としては粗削りで、理論的には飛躍が多い。
しかし、その未整理さ自体が「言葉の持つ暴力性」と同調しており、整いすぎた言論よりもはるかに生々しく誠実です。

批評として一言で要約するなら――

これは、言葉が人を殺す時代における、「書く者の良心と暴力の境界線」を描いた懺悔録である。