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江端さんのひとりごと
「ホワイトアウト」

2001/02/10

 

昨年9月24日に、コロラド州のフォートコリンズで、私たち夫婦は、積雪15cmを越える降雪を目の当りにしました。

数日前までクーラの側に倒していたエアコンのスイッチを、暖房側に切りかえ、最大出力にしました。

と、思った次の日には、透き通った快晴の空から、紫外線をたっぷり含んだ太陽光線で、目が焼けるかと思う目にあったりもしました。

コロラドの冬は、日本の関東地区に比べれば寒いはずで、実際、夜には氷点下数度まで下るのですが、不思議なくらい寒さを感じません。

重くない、とでも言うのでしょうか。

湿度が非常に低いので、まとわりつくような寒さはないのです。

雪は一晩で15cm位積るのですが、日本の東北や北海道の地区とも違い、大抵次の日から快晴となり、2、3日で溶けてなくなってしまいます。

毎朝、玄関のドアを開けると雪が傾れこみ、積雪をラッセルしながら、会社に出社するものだと思っていた、私たちの目論見は外れ、殊、雪に関しては、今迄と変わることなく、朝の徒歩通勤を続けていますし、帰宅時には、嫁さんのピックアップで自宅に帰るのですが、会社がスタッドレスタイヤの費用も出してくれたこともあって、現在のところ、事故を起すことなく運転しているようです。

ただし、雪の降っている朝だけは、危険かもしれないと言うことで、嫁さんが会社まで自動車で送ってくれることになっています。

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私は、静謐で美しい風景、一面の銀世界、生命が息を潜めて雌伏するこの季節が好きです。

フォートコリンズは、渡り鳥のグースの中継地点となっているようで、最近は、毎朝数百羽のグースが群れとなって集まっているのを見かけます。

今朝、家の前のBoardwalk Driveを、20羽程度のグースがきれいに一列になって横断して、自動車を止めていました。

私が運転手の方の顔を見ると、「仕方ないね」と言う顔で苦笑していました。

ある朝、私がHP社の前にあるLSI Logic社の前の野原を歩いていた時のこと、抜けるような真っ青な冬の全天を、天の河の大きさもあろうかという帯が、南東から北西に向って流れていました。

それは、地平線から現れ地平線に消えていく、何千羽ものグースの群れでした。

私は、その流れの一番最後尾が見たくて、空を見上げながらその野原に立ちつくしていましたが、いつまでもその流れが止まることはありませんでした。

フォートコリンズの街の上空は、丁度、旅客機の航路となっているようで、空のキャンパスに、真っ直伸びる鮮かな白の軌跡を、時には、同時に10以上見ることもできます。

そして、後を振り向くと、藍色の空をバックに、切り立った氷河のように輝くロッキー山脈の稜線が見えます。

このように、私は毎朝、徒歩通勤を楽しんでいるのですが、やはり、雪の降った翌日の朝は格別です。

全ての建物が目映いばかりに光り輝き、息を呑むほど美しいです。

地面を踏みしめると、足がやわらかく大地に吸いこまれるような感蝕と同時に、雪の粒が煙のように舞い上ります。

雪を掌ですくい上げると、指の間から雪が流れ落ちていきます。

日本では、スキー場でさえ、こんな極上のパウダースノーにお目にかかることはできません。

マウンテンスキーの板を履いて出社する、という計画もあるのですが、フォートコリンズでは車道の除雪が徹底していることと、どうしてもまとまった積雪量にならないことから、現在のところ、実現できないでいます。

嫁さんが、帰路を迎えに来てくれるからこそ出来ることでもあるのでしょうが、こんなに楽しい1時間10分もの通勤時間を、自動車でかけ抜けてしまうのは、私には、とても勿体ないことのように思えます。

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先日、夕方から降り始めた雪は、翌朝になっても止むことなくり続けていました。

一度くらいは、降っている雪の中を歩いてみたいと思っていた私は、その日の朝を決行の日と決め、心配する嫁さんを言いきかせて、雪中行軍の準備を始めました。

テーブルの上に、いつもの通勤スタイルである、極寒仕様の毛糸の帽子と手袋、マフラー、膝まであるぶ厚い綿入りの黒のナイロンコート、インターネット経由で毎日録音している英語ニュースと、「携帯版 英会話とっさのひとこと辞典」のカセットテープとウォークマンを用意しました。

厚めのセータを着こみ、膝上まである道路工事の現場作業員御用達の長靴を履いて、準備を完了しました。

ドアを開けた瞬間、ぶ厚い冷気の壁と雪が吹き込んできて、家の中に戻されそうになりましたが、それを押し付けるようにして外に出ました。

吹雪という程のものではなかったものの、風におおられて雪が右往左往しながら、時々は真横になって宙を舞っていました。

空の低いところに灰色の雲があり、わずかに雪のガスも出てきており、視界も悪くなってきていました。

多分、気温は氷点下10度くらいだっただろうと思います。

流石に除雪も間にあわなかったのか、Oakridge Driveの道も真っ白なまま、自動車のタイヤに圧雪されて、理想的なアイスバーンとなっていました。

しかしそんな道路を、この街の人達は、ノーマルタイヤで、車体をドリフトさせながら平気で運転しています。

流石、としか言いようがありません。

雪の上を歩く時は、そのわずかな雪の高さを見て、車道と歩道を見分る必要があります。

間違えて車道側に足を踏み入れると、そのまま車道に転げ落ちていく恐れがあるからです。

抜群の視力を誇る私でさえも、今朝は車道と歩道の境界が見えません。

それは、一つに、雪が降り続いていることと、もう一つは、目を開け続けていることが出来なかったからです。

私は、全身を防寒着で完全にくるんでいたのですが、唯一、目の部分だけを覆うことは出来ませんでした。

そんなことをしたら、何も見えなくなって、歩く以前の問題です。

風にあおられた雪が目に飛びこんでくる時は、ちょっとした痛みを感じますが、それ自身は大したことではありません。

問題なのは、その後です。

その状態では雪の結晶が眼球に張りついて見えなくなりますので、瞬きをすることで、その雪を解かすのですが、これが涙と一緒になって目の外に出ます。

この涙がやっかいなのです。

この涙は、一秒もしないうちにアイラインで氷結します。

そして次の瞬きに、瞼の上と下のアイラインの氷がぶつかり、一瞬溶け、そして、この上下の氷は一つになって一瞬の間に凍ってしまうのです。

この結果は明白。

目が開かなくなるのです。

指で目を擦ると、指についた雪が、さらに事態を悪くしまうので、力を込めて瞼を開けます。

こういうことは、日常生活ではめったに体験できないでしょう。

力づくで瞼を開くことを続けている内に、今度は睫(まつげ)に小さな氷柱が出来てきて、瞼が重くなってきます。

よく、眠くなることを「瞼が重くなってくる」と言う言い方をしますが、喩えでもなんでもなく、本当に『お、重い・・・』。

不思議なもので、瞼が重くなってくると、本当に寝くなってきました。

雪の中の歩行は、普通の歩行より何倍も体力を使います。

雪の吹き溜りを踏みつけて、体のバランスを崩しながら歩かねばなりませんし、以前降った雪が溶けずに、完全に氷結して氷河となったような場所も越えて行かねばなりません。

普段よりも集中力が要求されるのです。

加えて、時折襲ってくる横なぐりの雪の束に目も開けていられません。 運悪く、昨夜は眠りが浅い上に5時間くらいしか寝れなかったので、普通よりコンディションも悪かったのです。

眠ったら終りだ・・・

この時、私を支えていた思いは、「美しい妻や可愛い娘を残して死ねるものか」と言う想い・・・ではなく、『雪の中を徒歩通勤していた変な東洋人、通勤途中にて凍死』とフォートコリンズ新聞の一面に掲載されるであろう記事と、葬式の際に、ハンカチを握りしめて、うつむきながら、泣いているふりをしながら、笑いを堪えている参列者の光景でした。

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HPの正門前で、ウォークマンのカセットテープが終ったので、ナイロンコートのポケットからウォークマンを取り出して、テープを裏返しして、再生のボタンを押したのですが、うんともすんともいいません。

変だな、と思って、あちこちのボタンを押して見たのですが、上手く再生してくれません。

その時、このような機械が保証する動作環境の温度は、確か下は0度から、上は50度くらいだったことに、はたと気が付きました。

私は、HP社の門の前に立ちすくみながら、氷点下10度より低い極寒仕様のウォークマンなど、どこにも売っていないんだろうな、とぼんやり考えていました。

その時の私は、毛糸の帽子に雪を積らせ、手袋は内部から凍りつき、長靴の中に入ってしまった氷が、溶けずに凍ったまま残っていると言う状態で、体も思うように動かすことができず、雪の平原を彷う、黒装束のゾンビのような状態だったと思います。

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Harmonyの徒歩通勤者

"Walking Pedestrian in Harmony Road"

は、今では、HPはもとより、フォートコリンズでもすっかり有名になっているだろうと思います。

そのうち、私の通勤路である野原に、地元のテレビ局の車が待ち構えてインタビューをしてくる時の為に、すでに私の頭の中では英語の質疑応答集が出き上がっています。

"Why have you kept walking on this field, that is NOT a road, every day ?"

"I can always feel the existence of GOD through walking in the field. It is a kind of a field of talking to GOD."

フォートコリンズの教会の、名誉司教くらいには成れるかもしれません。

そんな風に、私の通勤風景に慣れたフォートコリンズ市民も、その日の私を見て、皆、一様にぎょっとしていました。

私の行為が、神秘の国ジパングの名を、ますます高めているものだと自負しております。

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まあ、街の中だし、比較的視界も良く、ホワイトアウトを喰らって『HPはぁ!HPは、どっちだぁぁぁ!!!』などと叫ぶような場面もなく、いつもより15分遅れで、無事会社に到着しました。

寒くて痛くて結構辛かったけど、やっぱり楽しかったな、と思えました。

私は、根っからのスキーヤーなんだ、と再認識しました

その日、嫁さんのピックアップで自宅に付き、ふと、テーブルの隅の方を見ると、そこには昨夜久々に読み直し終えた、真保裕一の「ホワイトアウト」が置かれていました。

『俺が今行かなかったら、誰がHPと日立を救えるのだ!』

などと言うような、馬鹿な妄想に憑かれて、雪中行軍をしようとしていた訳では断じてないと思っていますが、もしかしたら、自分の気が付かないところで、何かのスイッチが入っていたのかもしれません。

 

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

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江端さんのひとりごと 「壁」

2000/01/09

「『脱出』は発明の母」

"Eacape is a mother of invention"と書かれていた展示の説明文を読んで、私は唸ってしまいました(*1)(*2)。

ベルリンの壁崩壊前の東ベルリン側にあった、東と西の唯一の交流点「チェックポイント」に造られた壁博物館(Wall museum)に書かれていた一文です。

(*1)言うまでもなく、これは「必要は発明の母」"Need is mother of inovetion"の一句を使った皮肉。

(*2)「ベルリンの壁」を知らない人は、ここで読むのを止めましょう。

壁博物館には、西ベルリンへ脱出を試みた東ベルリン市民達の生々しい記録が山のように残されていました。

成功例では、

■西側市民の協力を得て、壁に面したアパートの窓から飛び降りる者、

■長い月日をかけて掘られたトンネルを貫通させた者、

■演奏用のスピーカの箱に自分の体を折りたたんで入れたマジシャンの女性

等などがあり、そして

失敗例としては、

■壁を乗り越えようとして射殺された市民、

■チェックポイントの強行突破を試みて蜂の巣になった自動車、

■打ち落とされた気球

などがありました。

しかし、私が一番胸を打たれた展示物は、脱出者を監視していた警備兵士が、いきなり西側に向かって走り始め、鉄条柵を超えて亡命(?)してしまう一枚の写真でした。

国家とか、体制とか、責任とか、任務とか、(おそらくは家族とか親戚とかも含むのだろう)そういうものを全部放り出して、己の為のみに逃げ出す兵士。

その写真は、たった一枚で、私の理想とする生き方を雄弁に、そして完全に語っていました。

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確かこの前、地平線まで続く広大な大地を見ながら、ゆらゆらと怒りに燃えていたはずなのに(*3)、どうしてこんなところであんな物を見ているんだろうと思わずにはいられませんでした。

ライトアップされてに照らされて不気味に立っているブランデンブルグ門をくぐり、旧東ドイツ側にはいると、さらに交通量は減り、街全体が一層暗く感じられるようになりました。

深夜で交通量もすっかり少なくなった道路を暴走する一台のタクシー。

その運転手は、一言も口をきかず、厳しい表情のまま激しい勢いでハンドルを捌いています。

タクシーの中で右左に引き倒されながら、私は後ろの席で怯えていました。

出張直前まで、打ち合わせ資料の作成で走り回りっていたのに加え、飛行機の中ではプレゼンテーション資料の暗記をしなければ、と思っていたのですが、

つもり積もって極限まで来た疲労達が『もう、どうでもいいじゃん』と妖しい声でささやきかけるのに任せ、飛行機の中では水割りとビールのちゃんぽんで、半分以上白目を剥きながら、ぐったりしてフランクフルトまでやってきました。

しかし、ベルリンに着いたのと同時に、別の声が『やばいよ、お前。どうするの、明日のプレゼンテーション』と別のことを言い始め、心底気分が滅入ってきたところに、

どえらい乱暴な運転で、東ベルリン側に向かってぶっ飛ばすものだから、もう、すっかり気分は『東側のスパイに拉致されて鉄のカーテンの向こうへ送り込まれるネットワーク技術者』。

ああ・・これから私は、西側要人の電話の盗聴や、銀行やストックマーケットのオンラインにハッキングして、西側の経済システムを破壊するクラッカーとして、暗躍させられるんだ・・。

家族の顔が走馬灯のように脳裏をよぎります。

ああ、家族にもう一度だけ会いたい!!

そうだ、日立!・・いや、日立は私を絶対に救出してはくれまい。むしろ、海外渡航の予算がなくなって喜んでいるかもしれない。そういう会社だ。

同僚は3日で私を忘れるだろう。 なぜなら、逆の立場になったとしたら、私はそいつを3日で忘れる自信があるから。

上司なら半日もかからない内に、忘れてしまったことも忘れてしまえるだろう・・・。

などと、馬鹿なことを考えているうちに、タクシーはホテルに着きました。アホな妄想が、やっぱり妄想であった、という理由だけで嬉しくなった私は、タクシーの運転手に大目のチップを渡しました。

彼は、最後になって、ようやくチラリと笑顔を見せてくれましたが。

ホテルのチェックインをした後、すでに現地入りしていた上司に、到着の連絡を入れて、その日は終わりました。

(*3)江端さんのひとりごと「怒りの大地」

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日立製作所は、現在、ドイツの通信技術研究所GMD(German National Research Center for Information Technology)と、いくつかのテーマで共同研究を行っており、私は知らない内にその一つのプロジェクトに参加させられていました。

『江端君。君は知らないだろうけど、君はプロジェクトの一員なんだ。』

私はあまり世間一般の事項をよく知らない方だと思うので、是非とも皆さんに教えて頂きたいのですが、一般的にこういう日本語の使い方はされるものなのでしょうか。

ポイントは2点。

(1)上記文章は、文意を成しているか。

(2)(1)が満たされると仮定した場合、有効性に問題はないか。

ここ2年くらい、私の仕事は例外なくこういう形で命令されています。

私は全ての仕事が本人の納得ずくで行われるべきだ、などというつもりは全くなく、ただこの文脈の一般性と有効性を知りたいのです。

何故なら、この言葉の使い方が許されるものであるなら、2,3使ってみたいことがあるのです。

『課長、課長は知らないかもしれませんが、私は明日年休を取ることになっています。』

『部長、部長は知らないかもしれませんが、私は今期、特許を提出しないことになっています。』

うーん、便利だ。

ま、それはさておき。

今回私は、GMD-日立の共同プロジェクトの項目の中に、現在自分が行っている仕事である「標準化活動」という項目を、付け加えてもらいました。

ほとんど火事場泥棒のように、ドサクサにまぎれて、と言う感が否めませんが。まあ、その甲斐もありまして、私はまんまとGMDの有能なスタッフの協力を得て、標準化の提案書の作成にこじつけました(*4)。

(*4)http://www.kobore.net/draft-ebata-inter-domain-qos-acct-00.txt

この「標準化活動」とは、国から依頼研究の項目の一つで、私としては、この提案書の提出をもって、一応「任務完了」の形となったのですが、一応念のためにこの標準案をインターネットの標準化団体IETFのミーティングで発表を行ない、誰にも文句を言わせないように駄目押しをしておきたいと思っておりました。

私の目論見はただ一つ。

『共同研究者のGMDのH博士を丸め込んで、今回の標準書の内容をIETFで表して貰おう。』と言う、真に姑息なことを考えて乗り込んで来たのです。

私に英語のプレゼンテーションができないことは、誰よりも私がよく知っていました。ホテルや飛行機のチェックインすらまともにできない男が、ノンネイティブに対して配慮のかけらもしない、あの「IETFミーティング」で、ろくな応答ができるわけがないからです。

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翌朝、昨夜と打って変わって、秋の終わりを感じさせる深色の紅葉が美しいベルリンの中心街を眺めながら、上司と私はタクシーでGMDに向かいました。

指定された会議室に赴くと、すでにプロジェクトリーダのG氏が準備を始めており、そのうち、次々とGMD側のプロジェクトメンバーが入ってきました。

この段階で、私はまだ、今回の標準書の作成に関して、並々ならぬ多大な労力を提供して下さった、H博士との面識がありません。

今回の標準書作成作業に関しては、言うまでもなく、日立側の国家プロジェクト担当者である後輩のT君、同期のM氏(私を含めたこの3人を称して、『通産三兄弟』と言う、不名誉な名称がついているそうですが)、そして上司のK氏の協力がありました。

加えて最後にプロジェクトリーダのGMDのG氏が根本的なレビューをして下さったおかげで、私は標準書をIETFに提出することができたのですが、なにより、H博士は、毎日の電子メールで議論に根気良く付き合っていただき、私は、なんとか標準書の骨格を作り上げることができたのです。

私は滅多なことでは、心から誰かを感謝することはしないのですが、このH博士にお会いした時には、小走りで博士に近づき、最大級の感謝の言葉を発しながら、両手で握手をさせて頂きました。

H博士は、中国系アメリカ人(だと思うけど、ついに確認するのを忘れてしまった)で、ちょっと見ると学生にしか見えないような小柄な方でした。年齢も、私と同じか、多分もう少し若いようにお見受けしました。

昼休みの休憩時間には、GMDのすぐ傍を流れる川沿いを歩きながら、標準書の内容やドイツでの生活のことについて話をしていました。

ひらひらと落ち葉の舞い落ちる紅葉の川沿いの小道を、ゆっくりと歩きながら研究に関する意見交換をしていることに気がついたとき、私は、自分のそのあまりものカッコよさに、陶酔しまくっていました。

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ミーティングは、日立側、上司と私の2人と、GMD側は開発担当者を含む8人、総勢10人で、2日間ぶっ続けで朝から晩まで続きました。

私はそのミーティングの内容の2割をかろうじて理解できただけです。

しかし、8割方理解できたような「ふり」をする能力にかけては、超一流であることを自負しております。

国際化が叫ばれる昨今、近い未来あなたも英語のミーティングに参加しなくてはならない羽目になるかもしれません。

そこで、数々の修羅場をくぐりぬけてきた私から、『英語のミーティングに参加しているような「ふり」をする方法』に付いて伝授したいと思います。

先ず、誰かが会話の中で笑い出したら、間髪を入れず笑い出すこと(内容は問題ではありません)。

次に、誰かが会話の中で詰まったら、間髪を入れず眉をひそめること(繰り返しますが、内容は問題ではありません)。

さらに、時々相手の喋った会話の端々で拾った単語を掴んで、上がり調子のイントネーションで質問してみること。それに対して行われた説明に対して、大きく頷いてみせること(何度も繰り返しますが、内容は問題ではありません)。

加えて、これが一番大切なことですが、『決して、単身でミーティングには臨まず、自分より英会話に優れた日本人を同伴すること』です(今回の場合は「上司」になりますが)。

日本人であるあなたは、かなり高い確率で日本人の喋る英語を理解できるはずです。

この内容から、会議の流れを『推測』します。会議のキーパーソンになってはなりません。会議でイニシアティブを取るなどもってのほかです。

出来るだけ目立たず、会話の単語の端々を拾い集め、日本にかえって報告書に構成しなおし、後は全てを忘れる。

この基本的な態度を貫けば、とりあえず任務が完了したような「ふり」をすることができるはずです。

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それにしても、GMDとの打ち合わせは朝から晩までミーティングで、加えて夕食にまで招待されたので、12時間近く、『英語』と言う水が浸された洗濯機の中でぐるぐると回されていたような気がします。

正直、苦しかったです。

それは、英語を理解するのが苦しかった、と言うよりは、むしろ、自分の思っていることが正確に出力されないと言う「表現の便秘状態」が、苦しかったように思います。

また、話が横道にそれて恐縮ですが、私は生まれてこの方、日本語の会話で話題がなくなってて困ったことなどはありません。私のこの頭の中には、役に立つかどうかはさておき、色々な分野の雑多な知識がてんこ盛りに詰まっております。

『デートをしている時に会話が続かなくて、黙々とディナーを食べ続ける」などと言う、無粋なことは経験したことがありません。

ま、そのためかどうかは知りませんが、今一つロマンチックな展開に恵まれにくかったのも事実なんですが。

結婚するまで、嫁さんは私のことを『女性に関心を持たない、政治と文学をを探求する、理系の研究の徒』と信じていたそうです。

今は、『嘘つき』と呼ばれています。

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今回の仕事が終わったのは、2日目の夕方。GMDに出向している同期のSと、上司と3人で飲みに行くことになりました。

ですが、私は気が進みませんでした。日立入社以来、「上司と酒を飲む」その不味さを思い知っている私は、一人でベルリンの街角のバーでビールでも飲んでいる方がましだ、と思っていました。

予想通り、「もっと考えて行動しろ」だの「チャンスを自分でつぶすことになる」だの説教をくらい不愉快でした。

私は、一応、私の構築した理論である『停滞主義思想』を、次のような判りやすい言葉で言い添えました。

『世界は、私を愉快にさせるものと、私を不快にさせるものの2種類のみで構成されている』

『上記の世界観に基づき、私の行動は私が決定して実施し、自分に関する範囲のみで責任を持つ』

『その結果について私以外の誰がどうなろうと、知ったことではないし、巻き込まれるのが嫌なら、私から離れて見ているだけにすればよい』

予想通りですが、全く理解してもらえなかったようです。

「じゃあ、仕事やめるか」てなことも言っていたようですが、この発言からして全く私の言っていることを理解できていない証拠です。

いつでも思うのですが、どいつもこいつも、何故私を『改良』しようとするのだろうか。

鬱陶しい。

社会的な常識や、組織的な規範を基準とした倫理観から、私を恫喝するくらいなら、その手間隙かける時間で、とっとと私を切り捨てればいい、と思うのです。

私は、私のこの『停滞主義思想』を理解できないことを批判するつもりはないのです。多分、この思想は生まれてくるのが早すぎたと思うので、大抵の人が理解できないのは当然だと思っています。

理解してもらえないから、私が切り捨てられても、私は『ま、仕方が無いよな』と潔く切られる覚悟は、いつでも出来ているんです。

それを「考えて行動する」だの「チャンス」だの矮小な言葉で、私を変えられると思われているのかと思うと、見くびるにも程がある、と腹が立ってくるのです。

少なくとも私の思想に謙虚に耳を傾け、その内容を尊重し理解する姿勢がある人間以外と議論しても仕方がない事だと思います。

所詮、既存の価値観の枠組みでしか思想を捉えられないなら、「壁」を超えて私の領域に入ってくるのは100万年早いと思うし、そして、私も「壁」を超えてそちらに行くつもりはありません。

永久に壊されることの無い「壁」の中で安住できれば、私はそれで良いのです。

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東西ベルリンの悲劇は、主義の対立ではなく、所詮は国家と言う体制の対立でしかありませんでした。国家は、その存在意義として民衆の必要とし、その民衆を維持するために、ベルリンの壁を作ったのです。

つくづく、阿呆か、と思います。

そんなに、国家の属性としての民衆が必要なら、犬や猫や家畜や、草木に名前でもつけて、『これが国民だ!』と言い張れば良かったのだ。

どうせ主義で対立しているなら、国民の定義すら変えてしまえば良かったのに、と壁博物館の中で、一人腹を立てながら考えている私がいました。

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これまで、我々は自分達を守るために、あるいは自分で自分の行き方を決めるために『如何に壁から逃げるか』と言う視点からものを考えてきましたが、その考え方では所詮"Escape"と言う概念を超えることは出来ません。

今こそ、パラダイムをシフトする時です。

キーワードは、"Make Wall"

国家や組織や会社などの下らない壁の中に閉じ込められないように、自分のためだけの「壁」を造りのです。その「壁」は、出ていく者を阻止するのではなく、又、侵略してくる者を排除するためだけのものでもありません。

「分かり合えない」と言うことを、分かり合うことだけでいいのです。

どだいこれだけ多様化する価値観を、一元的な理念や思想や方式で統一しようとすることに無理があります。

できっこないのです。

それを何としてもやってやろうとむきになるから、阿呆なカルト宗教団体は、地下鉄でシアン化系の猛毒ガスをばら撒かねばならなくなります。

洗剤や健康食品のネズミ講もどきに熱中する無知な人間達は、高校で習った等比級数を覚えていれば、絶対にありえるはずがない利益に向かって、人生の貴重な時間と労力を食いつぶします。

イスラムの高い宗教理念と、そのボランティア精神から作り出される、世界でも例の無い理想的なコミュニティが存在する一方で、

「イスラム原理主義」と言う愚劣な団体が、世界をイスラムで統一する為に、世界各地で想像も出来ない陰惨なテロを繰り返している現実があります。

私にはどうしても「分からない」のです。

彼らの行動を、理解し近づこうとすればするほど、腹が立ち、彼らは益々私から遠ざかっていきます。

彼らのコミュニティに入って、実践的に行えば、あるいは私は彼らに少しは近づくことが出来るかもしれませんが、私はそんなことに費やす気力と時間はありませんし、なにより私は、やりたいことが山ほどあるのです。

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しかし、まあ、たくさん書いてきましたけど、私の言いたいことは、要するにこんだけです。

私は常日頃から、人に意見をされる運命にあるようですが、そういう運命にある人間の立場として一言言わせて貰えるのであれば、

『自分の価値観を、江端に押し付けるべきではない』

と言う、私の価値観だけは、

あなたに是非とも押し付けたいのです。

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(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。本文章を商用目的に利用してはなりません。)

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江端さんのひとりごと

「IETF惨敗記」

1999/03/25

ミネソタ州ミネアポリスのヒルトンホテルで開催されているIETFミーティング参加初日の夜、私はホテルのベッドで、久々に早朝覚醒型の不眠で目が覚めました。精神的な疲労が極に達すると、私のこの病気は予告なく私を襲うようです。

私にとって、このIETFミーティング1日目は、まるで10日間も徹夜して働いたかのような、すさまじい、そして強烈な疲労感と絶望感そのものでした。

最初から最後まで完全に理解できない会議、---文字どおり、一言も理解できない---、と言うものが、この世にあろうとは思わなかったのです。

私は、何も記入できない真っ白なノートを胸に抱えながら、欧米人の出席者で一杯になったヒルトンホテルのミーティング会場で、ただ呆然として前方のスクリーンに写し出されたOHPシートを見ているだけでした。

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IETFとは、Internet Engineering Task Forceのことで、インターネットの標準を規定する非営利の団体で、年に2度Meetingが開催されます。

インターネットとは、つまるところ色々な人が色々な目的で使う通信システムのことですので、これを動かすためには共通の決まり(プロトコル)が必要です。

この決まりを決める団体が、IETFです。

IETFには、会員と言う概念がなく、やりたい人がどんな提案しても良いことになっています。その提案は、まず「ドラフト」と呼ばれる英語の文章で提出しなければなりません。そして、その提案が受け入れられるか否かは、このIETFミーティング会場の出席者の多数決で決定されているようです。

要するに、「オープン」であることが、このIETFの特徴とされているのです。

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今回のIETFの出席者はおよそ2000人、ざっと見たところ、日本からも30名程度の出席者があり、(シ研)からのも7名が出席していました。

この2000人の人間が、会場のロビーで技術に関する議論を戦わせている様子は、実に壮観です。

実にやかましい。

このIETFのオープンの考え方と言うのは、かなり徹底しているようで、モラルも規範もあったもんじゃありません。

初日、私はスーツ姿で出かけていって、いきなり恥をかきました。

会場には、フォーマルな服装できている人間は、一人もいませんでしたから。全員が、Gパンにスニーカ&Tシャツと言ういでたちで、ロビーのすみっこで壁に持たれかかりながら、ノートPCを叩いていました。朝食はビュッフェ形式で、あふれるほどのパンやフルーツ、ドリンクが提供されるのですが、それを山のように皿に盛っては、床にあぐらをかいて食べていま
す。

さらには、足を別の椅子に投げかけながら、ミーティング会場にまで食べ物の皿を持ち込んで、口をもぐもぐさせながら、発表者の話を聞いています。

最初は驚いていた私も、そのうちマネするようになりましたが。

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まあ、驚いたといっても、そんなことはどうってことはなかったのです。

本当に驚いたのは、議事の進行方法です。

まずチェアマン(議長)が、議事を箇条書きに書いたOHPを示し、『今日はこれだけのことを決める。じゃあ、最初の提案者、どうぞ』と言って、いきなり提案者による提案ドラフトの説明が始まります。

本当に、面食らいました。

大抵、会議というのは、まず「今日は皆さん、お集まりいただき・・・」と言う挨拶から始まり、このミーティングの背景、目的を説明し、提案者の紹介をして始まるものですが、IETFミーティングでは、そのようなことはまったくしてくれません。ミーティングの議事内容まで、すでにそのワーキンググループのメーリングリストで検討が終わっていることになっており、残るは質疑応答と採決だけです。

ですから、そのメーリングリストに入っておらず、またドラフトを事前に読んでいなかった私は、何が何だか分からないまま、ただひたすら議事が進んでいくのを見守るしかできなかったのです。

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ですが、私が、メーリングリストに入っていて、ドラフトを事前に読んでいれば、理解できたか、と言うと、その可能性は絶望的に近いほど低かったでしょう。

ネイティブスピーカのネイティブスピードのもの凄さと言うものは、TOEIC600点台の人間にとっては、バッティングセンタで、飛んでくるボールに小さく書かれているメーカ名を読みとるより、遥かに難しいのです。(実際、きちんと視力を測定すれば3.0以上はあるだろうと思われる私には、そっちのほうが楽かも知れない。)

質問者は、会場にあるマイクの前に並んで、正面の提案者に向かって質問をしていきますが、NHKの「上級英会話教室」のように、一語一語をきれいに区切って、クリアな発音でしゃべってくれるわけではありません。

一つの質問が2秒ぐらいで、その中には、実に25ワード以上は入っているかと思われます。私には、単に動物の『ウオー』とか言うような唸り声の様にしか聞こえません。

この唸り声に対して、会場がワッと笑いに包まれます。周りを見回してみて、笑っていないのは、私(と多分他の日本人)だけのようです。

私は心底、傷つきました。

私に出来ることは、写し出されたOHPシートの内容を、ノートパソコンに写しとることだけだったのです。

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そもそもなぜ私がIETFなんぞに参加することになったかというと、これまた自分の意志ではいかんともし難い、悲しいサラリーマンの宿命にあります。

昨年までやってきた仕事である、マルチメディア監視システムのプロトタイプを無事完成させ、今年は製品化に向けて、設計とコーディングの日々だと自分では思っていたのですが、今年の初め、私は上司から別の仕事を命じられることになります。

それが、ポリシーベースネットワーク管理システムの研究です。

「ポリシー」などと聞いて、私は学生時代にちょこっとだけ参加した左翼運動の実績を見込まれたのかしら、などと呑気なことを考えていたのですが(70年代には、政治的理念のない人間のことを、『ノンポリ』と言いましたから)、どうもそういうことではなくて、ネットワークをビジネス運用(どのデータをどの経路で通せば、最も効率的に儲かるかとか)の観点から
管理する、最近新しいネットワーク技術のことです。

この研究を通産省の補正予算で行うことが正式に決定し、そんでもって、いつものことですが、私が放り込まれた訳です。マルチメディア監視システムのほうは、外注のシステムエンジニアを雇って、私のエージェントとして動いてもらうことが決まり、一応会社側としては筋を通したつもりでいるようです。

もちろん、そこには、再びその『ポリシーなんちゃら』を、一から勉強し始める私の苦しみや辛さは何も計上されていませんが、まあ、サラリーマンとはそういうもんです。

ところが、このポリシーなんちゃら技術の研究は、極めて新しい研究らしく、現在のところ、日本において権威といわれている研究者も研究機関もありません。従って、その研究に関する書籍はもちろん、研究発表資料、論文も何一つありません。しかたがないので、私は毎日行きと帰りの電車の中で、IETFの関連ドキュメントを、片っ端から読み倒す日々が続きました。

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ミネアポリスで行われているIETFは、5日間の日程で行われ、その間同じく(シ研)から来ていた、M氏のおかげで、他社の技術者と直接話すことができて(当然、私に英語で技術討論をする力量などあるわけがない)、一応報告書を書くためのネタはいくつか出来てきました。

しかし、今回の私にとって、最も重要なミッションはポリシー技術に関するIETFの動向調査でしたから、まさか「英語がわかりませんでした」と書いた報告書を提出するわけにもいきません。

私は、IETF会場のターミナルルームに準備された100台以上もあるコンピュータの1台を占拠して、ポリシーに関するドラフトを印刷しまくり、ミーティングに出席せず、ロビーに座り込み壁に持たれかかりながら、ひたすらドラフトを読みつづけていました。

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ポリシーワーキンググループセッションが始まる前日の深夜、ホテルのデスクでひたすらドラフトを読んでいる時に、電話がかかってきました。

"Hello"

応答がありません。

"This is Ebata Speaking."

と言うと、「・・・智一君?」と、おどおどした風の声が聞こえてきました。

嫁さんでした。

私が海外出張ということもあり、嫁さんは娘の麻生をつれて実家の福岡に帰っていていました。

江端: 「おお、よく電話してきたね。」

嫁さん:「フロントが出たのだけど、何を言っているのか全然分からなくて・・・で、辛うじて『スペル』と言う単語だけ分かったから、EBATAとだけ言ったらつなげてくれた。」

江端: 「こっちはねえ・・・英語が全然わかんないよ・・・。」

嫁さん:「そりゃ、会議で使っている英語なんだから・・・」

江端: 「ちがうんだ、そうじゃないんだ。フロントから、ハンバーガショップから、タクシーから、何もかも何を言っているかわからないんだよ。」

そう、私が最高に落ち込んでいる原因は、実はIETFの内容が分からないことではなく、日常会話が全然理解できなかったことです。しゃべることは難しいだろうなとは、思っていましたが、日常会話が聞き取れないという事実は、私を徹底的に絶望させました。

江端: 「とにかく、こちらの能力にあわせて、しゃべる速度を落とすという考え方がないんだ。」

嫁さん:「そう言えば、フロントも全然ゆっくりしゃべってくれなかったよ。」

これは、多分に偏見かもしれませんが、ミネソタでは世界中の人間が英語をしゃべっていると思っているのではないかと思わせる場面が多々ありました。

私がダウンタウンの郊外にあるミシシッピ川を一人で散策していると、5人の子供を連れた子供のお母さんが、私に道を聞いてきます。

"Sorry,I am a stranger here (地元の人間じゃないんで)"と言うと、しかたなさそうな顔で、子供を連れてどこかにいってしまいました。

また、冬期の雪の積雪量と、おそらくは治安の悪さも原因だと思われますが、ミネアポリスのダウンタウンのビルのほとんどは、スカイウォークと言う空中回廊で相互につながれていて、ダウンタウンにいる限り道路を歩く必要はほとんどありません。もちろん、そのスカイウォークは迷路のようにダウンタウンにはり巡らされていますので、簡単に迷子になってしまいます。

夕食を終えて、誰もいないスカイウォークを歩いていると、私の前方にスカイウォークの地図を覗き込んでいる黒人カップルが、私に経路を尋ねてきました。

もちろん、"Sorry, Stranger I am."と答えるしかありません。

ミーティングが終わった当日の午後、歩いて彫刻美術館と言うところに行きました。バスは乗り間違えると、とんでもない目に会うことは、これまでの海外旅行の経験で熟知していましたので、ひたすら歩いていきました。

その途中の道で、母親につれられた可愛い少年が、私に向かって言いました。

"Where are you going, Mr?"

私はとっさに、"What?"と答えましたが、それと同時に、この少年が明らかに『おじさん(Mr)』と呼びかけたのを不快に感じていました。母親のほうが『知らないおじさんに声をかけちゃダメよ』と言う風に子供の手を引っ張って、私とすれ違っていきました。

コンビニエンスストアで、水とミルクをもってレジに向かうと、レジのおじさんにいきなり何かいわれてドキリとしました。"Pardon?(すみませんが)"と私が聞き直すと、"Mexican?(メキシコ人か)"と聞かれていることがわかり、呆然としてしまいました。

ミネアポリスの最後の夜に、IETFに参加した日本人の集まりで、ベトナム料理を食べながら、この事件の話に加えて、中国でウイグル人に間違えられたこと、京都でブラジル人に間違えられたことなどを話したら、「要するに、モンゴリアンなんですね。」と総括されてしまいました。

『ミネアポリスの連中は、きっと、アメリカ大陸の外側は大きな滝になっていて、そこから海の水が落ちこんでいて、そしてアメリカ大陸は、カメがその下で支えていると信じているんだ』と屈折した思い込みで、ミネアポリスの日々をすごしていました。

江端 :「加えて、(シ研)の奴等が、僕の泊まっているホテルの地区が危ないって言うし・・・」

嫁さん:「え!危ないの?」

江端 :「とは、僕には思えないんだけどね・・・。」

私はホテルのクオリティには、あまり頓着しないほうで、会場のホテルが予約できなかったので、旅行代理店に『安いところを適当に』と言っておいたら、食事付き一泊79ドルと言う破格のホテルを予約され、周りの人間を随分心配させました(大体150ドル程度)。

学生の頃、私は一泊10ドルと言うドミトリーにあたりまえのように泊まっていたので、その辺の感覚が麻痺しているのかも知れません。

後輩の、T君に言わしめて曰く、『スカイウォークが繋がっていない、駐車場に派手な落書きがあった』ことが、その危険であることの根拠らしいです。

江端:『でもね、僕が泊まってきたところって、安全フェーズが2段階ほど違うよ。』

T君 :『どういうところですか?』

江端:『中国のウイグル自治区内の安宿とか、ネパールのコンクリートがむき出しになった宿とか、インドのニューデリーの宿では、目の前に物乞いの人たちが一ダースぐらい・・・』

T君は、絶句していたように見えましたが、付け加えて言いました。

T君 :『しかし、江端さん。決定的に違うことが一つあります。』

江端:『何?』

T君 :『拳銃』

そりゃもっともだ、と思った私は、それからIETF会場のミネアポリスのヒルトンホテルから、ウエスタンダウンタウンと言うモーテル系のホテルまで、走って帰ることにしました。

江端:「ところがねえ、慣れない街だからねえ、道を間違えてどこを走っているか分からなくなって・・・と言って、信号で泊まると恐いから、青信号の方を選んで走るから、さらに道がわからなくなってきて、そうして、昨夜はミネアポリスの街中を、ぐるぐる走りまわっている変な日本人が一人いたわけだよ。」

15時間の時差のある電話の向こうで、嫁さんは大爆笑していました。

そしてこの話は、「夜のミネアポリスを走り回る日本人」と言うエピソードで、そのIETFの期間中、ことある毎に語られることになります。

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さて、ひどく落ち込んでいた私は、嫁さんの電話で少し元気をとり戻し、今一度IETFを眺め直す余裕が出てきました。

午前を回っていましたが、私はベッドの上にひっくりかえって考え始めました。

まず第一に、IETFは本当にオープンなのか?

あのスピードの英語を日本に取得できる人間がどれだけいるのか。どれだけの人間が、あの技術情報を母国に持ち帰れるのか。そもそもネイティブスピーカでない我々日本人が、あのミーティングに参加することができるの
か。

次に提案者、質問者の面々です。

提案者はまあ良いとして、質問者です。

みーんな、同じ顔。

同じメンツが、マイクの前に立ってぐるぐると順番待ちをしているだけです。オープンどころか、クローズなグループメンバによる芝居のように見えるのは、私の穿った見方でしょうか。

と、そこまで考えたとき、私は背筋がぞくりとするような寒気を感じました。

(これはやばい。相当にやばいぞ・・・)

私は基本的に、自分のことしか考えない利己主義者ですが、その私の利己を脅かすほどの恐ろしい現実が進行しつつあることに気がつきました。

これからも情報通信技術が、ある一国で閉じる訳がありませんから、この技術の検討が国際共通語である英語で行われることは間違いありません。

そして、インターネットの世界に関しては、当面IETFが支配的な地位を占めていくでしょう。

IETFは、いかなる形でも強制力を持ってはいませんが、インターネット標準の決定機関です。インターネットに関わる全てのベンダ、サービスプロバイダ、ユーザは、このIETFの決定事項に従って動いていくしかありません。

すなわち、IETFに対して提案活動を行うと言う事は、すなわちその提案の内容が世間に公表される前に、すでに手が打てるわけです。

例を挙げましょう。

例えば、私があるマルチメディア帯域制御方式を実現する通信ソフトウェアを開発したとして、その内容をIETFに提案し、これが受理されたと仮定しましょう。他の会社は、この通信方式を実装するために、私が提案したドラフトを読みながら、製品を作らなければなりませんが、私はすでにその実装が終わったソフトウェアを開発し終えているのです。

この開発機関がどの程度になるにしろ、すでに私は、他社に対して開発期間分(数ヶ月以上)リードしている訳です。他社が開発を行っている間、私は営業活動を進めて、シェアを拡大させる事ができます。

つまり、イニシアティブが全てなのです。

提案ドラフトを読んでから製品化に着手しているようでは、シェアを取る事が出来ないのです。

逆に言えば、このようなIETFのような国際的標準機関でイニチアティブを取るためには、英語が必須なのです。しかしそれは、英語が単に読めることでも、しゃべれる事でも、理解できることでもありません。

「検討」し、「討論」でき、そして「論破」できることなのです。

しかるに、我が国の英語教育の水準は、間違いなく世界最低クラスです。

先進国と言われているアジアの国々のほとんどと比較して、TOEICの平均点が低い事は、意外に知られていませんが、私は色々なアジアの国を旅をしてきた経験から、感覚的にこの事実に気がついていました。だって、一応英語が使えれば、どの国のどの街のどんな所でも旅が出来たんですから。

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(21世紀も、欧米中心の文化に引きずられながら、我々は生きていかねばならないのか?)

パソコンの設定一つの為に、膨大な英文資料に翻弄されて過ごしている日々。

そして、ろくな特許のアイデアも出せず、まともなシステム構築すら出来ない技術者が、ただ英語が使いこなせると言う理由だけで、より優位な地位に立てる日本の技術者社会。

私は、娘の笑顔を思い出して、憤然とした思いに駆られました。

娘の世代も、欧米文化に追従する日々を生きねばならないのか?

私は最近、戦前の陸軍の関東軍のエリート軍人達が、日本語を基本とした大東亜共栄圏を作ろうとした気持ちが少し分かるような気がします。

軍事的にアジアを占領して、すべて日本語が通じるようにして、米国とヨーロッパ共同体に対抗しようとしたその行為は、もしかしたら英語がしゃべれないコンプレックスに起因していたのかもれない。

しかし、それでも、彼らは日本のシステム体系が世界で無視されることを予期し、それを恐れていたのです。イニシアティブをとれない国が、没落していくかないことを熟知していたのです。

日本がどうなるかは、私にとってどうでもよいですが、娘がどうなるかは、私にとって大問題です。

この欧米主義中心の世界観をどのように変えていけばよいのだろうか、と私は考え始めました。

その1 全世界侵略論

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全世界を武力で制圧し、日本語を世界共通語として強制する。

しかし、公式に核非所有国を宣言している我が国が世界征服をするのに比べれば、太陽系以外の他の星系に移住可能な星を見つけて、日本国民全部が移住する方がはるかに簡単でしょう。

その2 大東亜共栄圏論

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これは人口比率から言って、中国語しか選択はない。この中国語による大東亜共栄圏で欧米文化に対抗する。

しかし、日本人全部が中国語を勉強し直すくらいなら、こういう発想はそもそも出てくる訳がないので、もちろん却下である。

その3 英語教育再編論

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文部省は、教育としての位置付けをやめ、教育カリキュラムから、英語教育を放棄する。一種の高級なプログラム言語の一つとして、通産省にその権限を移譲し、「情報処理技術カリキュラム」の一つとして組み込む。すなわち、文化としての英語を全面的に方向転換し、単なる通信プロトコルと捕らえ、その「技術」を教えるものと考える。これにより、偏向した欧米中心主義文化からの脱却を図る。

とは言え、どのようなカリキュラムがあろうと、現実的にその英語が使えなければ、意味がありません。

そこで、私は韓国の徴兵制(*1)にならい、英語技術の徴役制度の導入を提案します。

(*1)韓国では成人男子全員に兵役の義務がある(イスラエルでは女性も)。

さて、その懲役をどこでやるか、一番安いコストと言う点では、在日米軍あたりで兵役につかせてしまおうか、と言う乱暴な考えもあったのですが、何もアメリカの世界戦略構想に協力する必要はないし、第一、個人的に嫌。

ならば、どこかの英語圏の島を買って、そこに高校教育を終えた若者を、全て強制的に収監すると言うのはどうか。

当然、島の中には武装した教官がおり、日本語をしゃべったものに対しては、射殺を含む刑罰を施行する権限を有するものとする。期間は、最低2年。大学の前期教育を兼ねても良い。当然、日本語で記述された全ての書物は没収される・・・・・

程度のことはやらんと、本当にやばいんではないかと思い始めています。

要するに、私がIETFに出席して、ほとんどその任務を果たし得ず、そして、私と同じような立場に負い込まれるものが、今後も間違いなく大量に発生する、と言う事が言いたかったんです。

そして、日本はどんどんこれから国家としての国益を失っていくだろう、と。

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さあ、どうしましょう。

我々が、どこで育ち、そして生きてきても、名古屋弁や秋田弁などのようにどの地域の言葉も理解できるように、世界のどこにいても、どの言葉も理解できるようにならなければならない時代が来ています。

いや、正確に言えば、我々の前の世代は、すでに我々がその程度のことを実現してくれることを期待して、膨大とも言える時間と労力を我々の英語教育に注いでくれたと思うのです。

しかし、その教育のやり方が悪かったのか、あるいは我々の努力が足りなかったのか分かりませんが、我々はついに、彼らのその熱い想いに応える事はできなかったようです。

それはIETFで発言した日本人を、ついに一人も発見できなかった事からも明らかだと思います。

さあ、どうしましょう。

私たちは、次の世代達に、『どう世界とつきあって生きて行け』と言うことができるでしょうか?

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

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「IETF惨敗記2(白夜のノルウェー編)」

 

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江端さんのひとりごと

「世代の特異点」

1998/01/16

「X JAPAN」とは、7年程前に結成したバンドだそうで、嫁さんに訊ねてみると、彼女も何曲か彼らの持ち歌を知っていました。

『ふーん・・・。そんなに有名なのか』とパソコンでネットサーフィンしながら検索をかけてみると、まあ出てくるは出てくるは、熱狂的なファンが作った濃い内容のホームページが多数ヒットし、熱狂的・・・というか、狂信的な内容で、ちょっと引き気味になりました。

そういうカルト的なホームページを差し引いても「X JAPAN」は非常に知名度の高い優れたバンドのようです。独特のな音楽スタイルで一世を風靡し、ティーンエイジャーだけでなく、幅広い世代に渡り熱狂的なファンを多く持っていることがわかりました。

今度、きちんと彼らの曲を聞いてみたいと思っています。

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昨年の年末、30日まで働いていた嫁さんがついに倒れ、大晦日と正月はずっと熱を出して昏睡していました。

このような状態で大掃除など出来よう訳も無く、私は嫁さんの枕元に氷水の入った洗面器を置いて、時々彼女の額の濡れタオルを換えつつ、その合間に部屋や車の掃除をして、しめなわや鏡餅を買いに行き、夕食の手巻き寿司の準備と年越しそばを作っているうちに、いつの間にか年を越してしまいました。

31日の大晦日、私は、寝込んだ嫁さんの横で、部屋中をどたばた走り回っていて、その部屋のテレビは一日中スイッチオンの状態のままになっていました。

おかげで、テレビ局のニュースを何度も聞かされることになりました。

テレビ局の人間は、東京上野のアメ横と老舗の蕎麦屋の生中継をすれば大晦日のニュースは事足りると考えているようです。視聴者の安易な刷込みの上で、ろくな企画を立てずにすごせるマスコミとは、実にうらやましい職業です。

そのニュースの合間にキーワードとなる2つの芸能情報がありました。

それが、「アムロ休業」と「X JAPAN解散」でした。

アムロとは、アイドル歌手の「安室奈美恵」であることは知っていたのですが、「X JAPAN」の方は全くわかりませんでした。

私がその時すぐに思ったことは、『UNIXのXウインドウの日本語対応版(*1)なんぞに ソフト技術者以外の一般人がなんで興味があるのか?』と言うことでした。

ずいぶん前から不思議に思っていて、『X JAPAN解散!』と騒がれた時、「『Xのサポート中止』の間違いじゃないか?」と首をかしげていました。

これがミュージックバンドのバンド名であるのを知ったのは、大晦日のニュースで「X JAPAN解散コンサート」を見た時です。

(*1) ktermとかxjptermのことかと思っていた(本当)

中継の解散コンサート会場には、ディープな化粧のOLのお姉さんや、知性とはあまり御縁を感じさせない一世代前のヤンキー風のお兄さん、無理があるんだから止めた方がいいのにな、と余計な気を遣わせてしまうサーファ風のおじさんや、尖った金属を多数装着した皮製のジャンバーを着た「お姉さん」と呼ぶには若干無理のある女性の方々が多数集まっていました。

もちろん、普通のカジュアルな服装の方も多かったのですが、コンサート会場に、わざわざ学校の制服や、特攻服なんぞを着てくるティーン達は、やはり「世代の特異点」と言う気がします。

レポーターが、開演を待っている人たちにインタビューをしていました。

『きゃ~、これテレビぃ?』と言いながらピースサインをする女子高生たち。せっかく世代の特異点として認められているのだから、もっとアバンギャルドなアクションを、自ら開発して欲しいものです。

『X JAPANのいいところ?サイコ~って感じぃ?!』

質疑応答の体をまるで成していません。

私としてはこのミュージックバントについて知りたいのであるが、これでは情報が何もありません。

だいたいテレビ局のレポーターがなっていないと思います。

質問に対して、コンパクトかつ的確な表現でまとめ、テレビの向こうの視聴者に適切な情報を送り込むことができる知性と教養にあふれるX JAPANのファンの人を見つけて、インタビューすべきなのです。

マスコミが、世代の特異点に媚びるのは仕方ないとしても、視聴者にまで迷惑をかけるのは良くないと思います。

次のインタビューは、いわゆる「ヤンキー座り」をして暴走族の集会そのものの状況で集まっているティーンの女の一群の一人。

特攻服には「YOSHIKI命」と書かれていました。

特攻服といえば、私は暴走族と言う奴等が死ぬほど嫌いです。

私自身もライダーで、バイクの魅力と危険は骨身に染みて分かっていますが、私に関係のない所であれば、好きなだけ暴走してくれればいいし、喧嘩でも殺し合いでも好きなだけ思う存分やって、とっとと逝ってくれて構いません。

私が許せないのは、深夜に爆音を撒き散らしこの『私』の安眠を妨害することです。

正月の深夜、アパートの真横でマフラーはずしたバイクのエンジンの爆音で叩き起こされ、新年から怒り心頭に達しております。

早朝覚醒型不眠症の私を深夜に叩き起こす全てのものを、私は『敵』と認識します。

閑話休題。

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知性のなさそうな舌っ足らずな口調のしゃべりかたと、お世辞にも可愛いとは言いかねる顔にべったり化粧を塗った面は、それだけで私の生理的な嫌悪感を「ばしばし」と刺激しました。

『ヨシキはぁ、自分のことぉ、ちゃんとぉ分かっている奴だからぁ、やっぱぁそういうこと、きちっとしてるしぃ!』と言い放つと、(お前らには分かるまいがよお)と言う尊大な目をして、カメラの方を睨み付けていました。

それを聞いた瞬間、私は、久々に自分の中で『ブチッ』と切れる音をききました。

・・・おい、女(アマ)・・・。

私は、掃除機を持っている手を止めて、テレビの画面を直視しました。

・・・おまえは、(多分X JAPANというバンドのメンバーの一人なんだろうが)その、「ヨシキさん」と言う方と友人なのか!

お前がどう思っているか知らんが、その「ヨシキさん」はお前のことなんか、髪の毛ほどにも知っちゃいないぞ!!

(よくわからんが)その「ヨシキさん」は偉大なアーチストなんだろうが!?

お前ごとき暴走族ふぜいが、友人のようにタメ口きいて偉っそうにするんじゃねえ!!

この身の程知らずがぁ!!!

私は久しぶりに、体中に怒りのアドレナリンが満たされるのを感じていました。

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しかし、程なくそれがすぐに引いていくのを感じて、自分でも意外な感じでした。

そうです。

私はよく分かっていたのです。

「若さ」というのは、「愚かさ」と同義であるということを。

アイドルの歌っている歌を、自分だけに送られたメッセージのように受け取ってしまう愚かさ。

年に何回もないコンサートのチケットを、文字どおり命がけで入手し、アーチストが観客席に向かって呼びかける言葉だけで、そのアーチストの人格を全て理解してしまったかのように思い込む愚かさ。

そして、夜になれば、その憧れのスターとデートしたり結婚したりする妄想の中で、安らかに眠りついていく愚かさ。

はっきり言って、馬鹿です。

新興宗教にずっぽりはまってしまったり、過激な思想を礎とする過激派や、非合法の暴力を生業とする団体に入って行ってしまう奴が多いのも、そして、好きになった人をその人の意志を無視して追い回す馬鹿さ加減も、やはり「若さ」がなせる恐るべき業(わざ)です。

私は、気の狂った教祖を抱えた宗教団体が、地下鉄にシアン系の毒ガスを撒き散らして4000人もの人間を殺傷する被害を与えた事件を、今でもはっきりと覚えています。

そしてその実行グループが、私と同じ年齢くらいだったことを忘れることができません。

『人を殺めてはならない』と言う社会の一般的公理すら、若さゆえの柔軟な受容体を持ったが為、簡単に歪(いびつ)な宗教思想で捻じ曲げられてしまった彼ら。

駅前に掲げられている指名手配の看板に載せられている彼らの写真は、もしかしたら私だったかも知れないのです。

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(ヨシキのことなら何でも分かっている)と思い込んでいるこの特攻服の女は、己の馬鹿さ加減を全国に知らしめてしまいました。

彼女は、いずれ自分の浅はかな愚かさに気がつき、それを思い出しては恥ずかしさのあまり叫びだしたり、部屋の中を転がり回るようになるのかも知れません。

「若さ」故の「愚かさ」の特権を使ってしまった者たちは、その大いなる負の財産として「恥ずかしさ」という苦痛を一生引きずっていかねばなりません。

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しかし、「世代の特異点」たちが、その資質である「愚かさ」を発揮できる時間はきわめて短いのです。

そして、彼らが「愚かさ」を全開できるということは、この国が「愚かさ」を許容する余裕があるということです。

ある年になったら、例外なく軍役につかねばならない国があります。

女性が肌を見せることを法で禁じている国もあれば、市民が犯罪者を石を投げて殺すことを奨励する国もあります。

成人することが一つの奇跡とされる、小児死亡率が極めて高い国もあります。

この国は、有能とはいいかねる為政者と、既得権の確保に終始し汚職にまみれた官僚に支配され、不動と思われた経済基盤もそろそろ真面目にやばい状況です。

ですが、『ヨシキのことを何でも知っている』と思い込んでいる馬鹿な若者の存在を許せる程度には、この国はまだまだ余裕があるんだと思います。

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銀行がつぶれ、円が高騰し、金融機関が破綻し、日立がつぶれても大丈 夫。

東京にマグニチュード8程度の直下型地震が直撃し、首都機能が完全に破壊されても、心配いりません。

北朝鮮が自己崩壊し、そのついでに近隣諸国にやけくそのような戦争を仕掛けたって、まだまだ行けます。

しかし、「世代の特異点」達の望みが、『ヨシキのお嫁さんになること』ではなく『世界平和』なんぞに変わった時・・・・

その時、この国は本当に終わりです。

(本文章は、全文を掲載し、内容を一切変更せず、著者を明記する限りにおいて、自由に転載して頂いて構いません。)

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エルカン文章シリーズの中では、最高級の作品として半永久的に江端書房に保管さ れるであろう見事なレポートが提出されました。

私がレポートを書くよりずっと面白いと思うので、本「エルカン文章」を持って、 私の結婚式の御報告に換えさせて頂きます。

本日は、この文章を御笑納頂き、後日改めて御挨拶申し上げたく希望しております。

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それでは御笑納下さい。江端さんのひとりごと特別編、エルカン文章第3弾「祝・ 江端智一君御成婚記念メール」です。

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Tomoichi Ebata
Wed Apr 17 13:29:08 JST 1996

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江端さんのひとりごと
「遵法精神って何?」

Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:02:12 JST 1996

学生の街である京都では、学生は通学に原付やバイクを使う事が多いので、一時停止や、ネズミ取りで捕まえる学生は、警察に取って格好の鴨であり貴重な財源と言えました。

私は学生の頃、私は運転免許停止(免停)になったことがあります。罰則点は一年でクリアされるのですが、私はあと一月と言う所で、白バイに追いかけられたり、一時停止地点の死角で張っていた警察に捕まったりして、なかなかクリアできないでいました。

そして、速度100km/hオーバーと言うような気合いの入った『一発免停』とは違い、もっとも情けないと言われる『積もり積もって免停』と言う事態に陥った訳です。勿論友人から『愚か者』呼ばわりされたことは、言うまでもありません。

免許停止期間は3ヶ月でしたが、初回に限り講習会を受ける事で一日だけにすると言う美味しい制度がありましたので、早速、長岡京にある運転免許試験場に出かけて、講習会を受けてきました。

講義の前に簡単なペーパー試験があり、その中にはこんな問題がありました。

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自分が免許停止になったのは、運が悪かったからである。
はい   ・   いいえ
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私はこのような免停になった自分を省みて、非常に謙虚な気持ちで講習会に来ていましたので、なるべく澄み切った正直な気持ちで答えるべきだと考えました。

ですから、『はい』を丸で囲んだのは言うまでもありません。『つもりつもって免停』になる私が、運が悪い以外の何者でありましょうか?

講習会の後で、得点とコメントがついた解答用紙が帰ってきました。そこには『あなたは遵法精神に欠けています。』と書かれてありました。

遵法精神とは、文字どおり法を遵守する精神を意味します。法は、国民の代表者によって選ばれた者によって制定され(立法)、それを裁判所が司ります(司法)。法を犯す者にはそれを取り締まるため、法の番人(警察)によって法の定めるところに従って力を行使する事ができます。

このシステムは、日本を始め多くの民主国家で採用されています。

もう一度、あの問題を思い出して見ました。つまり、『自分が免許停止になったのは、遵法精神が欠落していたからである』と言う問題であれば、よく分かったのに、と思っていました。

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ところが、そもそも私には『遵法精神』と言う考え方がありません。

そもそも私はアウトロー(Outlaw)ならぬマイロー(My Law)が信条の人間なのです。といってアナーキストでも況やテロリストや無法者と言うわけでもありません。

いわば"I am a law"(私が法だ。)という考え方がぴったりくるかな、と言う感じがします。

『もっと悪いじゃないか!』と言わないで下さい。

なんと言っても、私は私の法を制定できても、私の法を他人に行使させるような強制力をもっていないのですから。

では、どうして日本の法の庇護の元で生きているか、と尋ねられれば、それは日本国の法律と私の法が、すさまじく酷似しているからです。

定量的に測る事ができれば、多分99.9999%以上は一致していると思います。ですから、私は非常に面倒くさい法の制定と執行を日本国に代行して貰っていると言う考え方が一番近いのではないかと思います。

不幸にして日本国の法律と私の法が一致しない場合は、当然私の法が優先します。なにしろ私にとって、私の法は絶対ですから。

と言う訳で、私が国の法に従っている全てに関して、私は卑屈になることなく国の庇護を要求します。

しかし私と国との間にすれ違いができた場合、私と国は闘争状態になっていいと思っています。その時、国は全力を上げて私を潰しに来ても構いません。

来なさい!

私も精いっぱいの力を用いて、それに刃向かう事でしょうから。

私個人としては、国の法と私の法とのすれ違いが半分より大きくなった時に、革命を起こし、現行政府を転覆させようと思っていますけど。

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さて、このようにしつこいくらいに私の立場を大げさに表明してからおいて、いったい何を書こうとしているのか。多分、あなたのご想像の通りろくなことではありません。

これから私の書く事は、あなたの使い方によっては江端の将来を容易に破滅させる事ができるかもしれません。

そして江端から報復を受けることを心配して、できるのなら係わりたくないと思っていらっしゃるのでしたら、悪い事はいいません。ここで読むのを止めましょう。

触らぬ江端に祟りなしです。

(と言っても、止める人は、いやしないんだろうが。)

では、江端さんのひとりごと、今日は『やさしいお酒の作り方』です。

https://www.kobore.net/tex/alone93/node37.html

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江端さんのひとりごと

「危ない漂白剤」

大学で4年、大学院で2年、就職して2年。

一人暮らしも9年目に突入すると、男と言えども家事に精通してくるものです。

料理、掃除などもそうですが、洗濯でも、色柄ものとそうでないものの仕分けなどは当然できなくてはなりません。でないと真っ赤なジャージと一緒に洗濯して、ピンク色のYシャツを作ってまうことになりますし、しっかり乾かしてから保管しなかったために、タンスの底にくっついて離れないブルゾンを呆然と眺める羽目になります。

さて、衣類の洗濯には、水よりもお湯を使った方が汚れが落ちるようです。これはお湯を使った方が、洗剤を『活性化』しやすいからですが、同じように、コップやふきんを消毒するときに用いる漂白剤も、お湯の方が早く汚れを落とすことができます。

この前部屋の掃除をしたとき、ついでにコップなどの漂白もしておこうと思い立ち、部屋にある全てのガラスのコップや金属のコップに漂白剤を溶かした漂白液を作って、コップ一杯なみなみと入れておいておきました。こうして小一時間ほど放っておけば漂白はできるのです。

ふと私はちょっとした『活性化』の実験がしたくなりました。

それは「金属性のコップを直接火にかけて、漂白液を煮立てれば、凄く速くコップの漂白できるのではないだろうか?」と言う極めて素朴な疑問でした。寮では火気の使用が禁じられ、普段私は電磁調理器を使っていましたから、私はこの電磁調理器の上に直接、鉄でできたコップを乗せて、コップごと漂白液を煮立てることにしました。

2分もないうちに、あのプール独特の塩素の匂いが部屋中に立ちこめてきました。コップの中を覗いてみると、すでに汚れはすっかり落ちて、新品同様の美しさになっていました。結果に満足した私は、もう2、3分だけ煮沸を続けて様子を見ることにしました。

しかし、何だかどんどん頭がガンガンと痛みだして、息苦しくなってきました。そして、ようやく大変なことをしでかしたことに気がついたのでした。

「しまった!、次亜塩素酸ナトリウム!!」

有毒ガスの一つであり、かつては殺人兵器としても使用されたことのあるこの物質は、漂白剤だけでなく水道水にも消毒用として微量使用されているものの、その原液を煮沸なんかしたら、この部屋は実に理想的なガス室と化してしまいます。私の脳裏には、ナチスドイツ時代のアウシュビッツの写真がぼんやりと浮かび上がりました。

やばい!と思い、慌てて窓に駆け寄ろうとしたものの、ふらふらして思うに任せません。ようやく窓にたどり着きおもいっきり窓を全開し、急いで2、3回深呼吸をして、電磁調理器のスイッチを切るやいなや、泥酔した酔っぱらいのようにふらふらになって部屋の外に逃げだしたのでありました。

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これは、私にとってかなり恐い経験の一つでありますけど、今になって考えると、もっと現実的な恐怖を感じずにはいられません。

新聞の見出しに
『2×歳、研究員。家庭用漂白剤を煮沸。自分の部屋で窒息死。』

世間の笑い物です。

(出展:https://www.kobore.net/tex/alone93/node20.html)

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江端さんのひとりごと

「渋谷駅の惨劇」

Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:06:42 JST 1996

「江端さん!D大機器研究室東京支部の飲み会をしましょう!!」

大学の後輩のDから電話がかかってきたのは、私が2X歳の誕生日を迎えて3日目のこと。Dは私より2年年下の電気機器研究室ロボット班の後輩で、大学院を卒業した後、東京のT芝に入社して今日に至っています。

D大のほとんどの卒業生達が関西方面に就職するので、いわゆる我々『東京組』は人数も集まる機会も少ないのです。そんな訳もあって、私もその時、特忙しいと言う訳もなかったので、後輩の誘いを受けることになりました。

それから一週間後。

私はフレックスを使い30分ほど早く退社して、待ち合わせ場所である渋谷駅のハチ公前に向かいました。ハチ公前の電話ボックスのところでは、Dと同期の後輩Kがすでに来ていて、私を待っていました。

この時、私は始めて後輩のKが結婚すると言う話を聞くことになります。

「そうか、よかったな。おめでとう!」と、先輩らしく笑顔でKに言いながら、私は自分の目が笑っていないことに気が付いていました。

私たち3人は、渋谷ハンズの方面に歩きながら、適当な飲み屋を探していました。そして色々迷った挙げ句、ある居酒屋に入ることになったのです。そしてこの居酒屋こそが、私の人生において決して忘れられない、忌まわしい思い出のスタート地点になることなど、その時の私に知るよしがありません。

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渋谷は若者の街です。大学院在学中に、M大学の学会発表の時に初めてこの街に来た時以来、私はこの街が好きです。何となく無秩序なのですが、新宿ほど汚くないところが気に入っています。当然、渋谷の居酒屋の客は圧倒的に若者が多く、そのノリは異様にテンションが高いので、素面の状態でお店に入ると、何となくムカっと来るほどです

「君達は、下宿に帰って勉学に励みたまえ!」

「色食は明日の授業の予習復習をして、なおかつ時間が余った余暇に興ずればよろしい」

などと、自分の学生時代を省みることなく説教したくなってしまいます。

ま、酔っぱらってくるまでだけですけど。

大ジョッキのビールを少なくとも3杯はおかわりをしたでしょうか。私たちは、仕事や結婚、女性の話題で盛り上がりまくり、大変な勢いでアルコールと食べ物を注文していました。回りの学生達のノリに決して負けない程のはしゃぎ方でした。

ビールの後、日本酒をお銚子5、6本、ワインに至っては、ボトルどころかピッチャー単位で注文する有り様。そのワインは非常に値段が安かったので注文してしまったのですが、「安酒=悪酔い」の仕組みは、酒をたしなむ人の常識です。それなのに、私はそのワインを水を飲むように、がんがん飲みまくっていたのでありました。

程々に酒を過ごした後、トイレに行こうとしたときです。歩いている時、そう、それはほんの一瞬のことでしたが、空間がわずかに傾いて歪んだように見えました。足どりも少し危なくなっているように感じましたが、自分のアルコール許容量を感覚で分かっているつもりでした。限界にはまだまだ余裕があるように思いました。

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「お酒は楽しく美しく」と言うのが、私の酒の美学です。

酔っぱらって気分がハイになるのを許しても、人に絡んだりする奴を私は許しません。理屈っぽくなる奴も遠慮したいです。感情的になる奴は論外です。況や、街の中で眠りこけたり吐いたりする奴は、万死に値します。セルフコントロールが出来ない酒飲みは、酒を楽しむ権利がないばかりか、私は人権すら剥奪したいと考えます。

ですから私が酒を飲んでいるときは、実に楽しく飲んでいる様に見せていても、その実、頭の中で怜悧でかつ緻密な計算ルーチンが走っています。私にとって「酔った勢い」とは、実は精密に仕組まれた芝居であることがあります。

そんな訳で、パーフェクト セルフコントロールパーソン フォー アルコールを密かに自負する私は、その日も渋谷で懐かしい後輩達と杯を傾けながらも、過去の経緯に基づいた安定ペースでお酒を楽しんでいるつもりだったのです。

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私が自分の体調の異常を感じ始めたのは、お店を出て渋谷駅前の交差点を彼らと一緒に歩いていた時です。

お酒を飲み終わった後一定のこころよい酔いがやってきて、時間が過ぎて行くのにつれて少しずつその酔いが消えていく、と言う私のいつものパターンが現れてきません。

むしろ、その逆の兆候が現れてきます。非常に微かなのですが、体がばらばらに動いていると言う違和感、脈拍の鼓動に同期して、こめかみがぴくぴくと動いている感覚、そして、頭の中で大きな石が転がっているようなゆっくりした鈍い痛さ。

それは、言いしれぬ不吉な予感でした。

丁度、風邪のひき始めの時の身体がざわっとする感じに似ています。もう薬を飲んでも、十分に休んでも、栄養のあるものを食べても、一切が無駄で、間違いなく今夜は高熱で苦しむと言う確信に似た、あの感じに欲にています。

もうすぐ夜の9時になろうというのに、渋谷の交差点は相変わらず凄い人の波でごった返していました。私は少し『酔ったふり』をして後輩達におどけてみせたりして、大声で笑って見たりしていたのですが、本心は、一刻も早く彼らと別れねばならないとあせっていました。

『今日は何かが起こる。そして、それは絶対に悲惨なことになる。』と確信したのでありました。

私は駅で彼らと別れるふりをして、彼らが消えるのを確認すると、駅とは逆の方向に歩き始めました。少し渋谷の街を歩いて少しでもアルコールを身体から抜こうと考え、繁華街の方を離れ、駅のガード下の辺りを歩いていました。

途中、自動販売機でウーロン茶を2本飲んで体内のアルコールを中和しようと試みましたが、無駄でした。それどころか、歩いたことが裏目にでたのか、激しい頭痛と身体のしびれる感覚で真っ直ぐ歩くことも出来なくなり、ついに歩道でうずくまって座ってしまいました。

渋谷でも、ちょっと表通りの裏側に回れば、ほどんど人通りのない寂しい場所になります。うずくまって、うつろな目で前の建物を見ると、1泊9700円と垂れ幕がかかっているラブホテルがありました。

『一人で入ったらやっぱり怒られるのかな』と、ぼんやり考えていました。近くにお姉さんが歩いていたら、お願いして一緒に入って貰うようお願いしよう、などと考えていた私は、泥酔状態からくらくらする苦しみにのたうちまわりながら、既に論理的な思考を失っています。

初冬11月の夜風は冷たく、ここで眠ったら真剣にやばいと言うことは分かっていたようで、私はもつれるように歩きながら、東急田園都市線の渋谷駅のホームにたどり着きます。そして丁度今入ってきたばかりの電車にそのまま飛び乗ったのでありました。

渋谷発の東急田園都市線は狂気です。何しろ最終電車でさえ、早朝ラッシュと同様の大混雑。夜9時の電車は渋谷駅で超満員。なにしろ他の駅で下車出来ない人がいる程です。

しかし、信じられないことに、私がその電車に飛び乗ったときには幾つかの席が空いていたのです。中年のおばさん達が見苦しく席取りをするのを、いつもいつも軽蔑の目で見ていた私でしたが、その時の私は、そのおばさんさえも眉をしかめるだろうと言うくらい浅ましい所行で人を押し退け、席を確保します。そして、無事に座ることが出来たことに対して、本当に久しぶりに神に感謝することができたのです。

電車の席に崩れ落ちると同時に意識を失ってしまった私が、目を覚ましたときには、電車の中にはほとんど人がいなくなっていました。

(変だ・・・)

私は直感的に何かがおかしいと言う感じに襲われました。

(電車は今、停車している。と言うことは駅で停車しているはず・・・)

朦朧とする頭で、状況を理解しようとする私。

(少なくとも現在・・・夜9時は余裕で経過しているはず・・。)

(なのに、この電車の窓から入ってくる明るい光は一体・・・)

そして次の瞬間、私は顔面から、さーっと血が引いていくのを感じました。

まさか----!

ゆっくりと恐る恐る駅のホームの方を振り向いて、反対方向の線路の駅名のプレートを見ました。そこにはまごうなき事実がありました。

『大手町』

東急田園都市線と地下鉄半蔵門線は、渋谷駅で相互乗り入れを行っています。そして『大手町』とは、地下鉄半蔵門線の終点の1つ前の駅だったのです。電車の窓から入ってくる明るい光とは、地下鉄のホームの明かりだったのです。

渋谷駅で座れるはずです。

私は逆方向の電車に乗り込んだ挙げ句に、終点の手前まで来てしまったのです。

そのショックもあってか、その時私は突然激しい嘔吐感に襲われます。胃の中味が消化器官を逆流して、胃液が食道を焼いているような不快感に加え、喉のいちばん深いところまで嘔吐物が遡り、口の中に酸っぱい味が広がっていきます。この世のものとも思えぬ、気色の悪い苦しさです。

大手町駅で逆方向の電車に乗り込んだ私は、少しでも油断すると胃の中のものが戻ってきそうな不吉な予感で、意識を失うことも出来ません。腕を反対側の指でおもいっきりつねって、痛さの方向に意識を向けることに必死でした。

ところが、渋谷駅の一つ前駅である『表参道』駅で、多くの人が一気に乗り込んで来て、電車の中はいきなり早朝ラッシュのようになりました。

-----渋谷ではさらに多くの人が乗り込む。

この厳粛な事実に加え、さらに私は嘔吐感の間隔が少しずつ短くなってきていることから、絶望的な結論に達します。

『どんなにがんばろうとも、私はあと十数分以内に確実に吐く』

満員電車の中で吐く。

そんなことが、人として許される所行であろうか?

否!!

それだけは絶対に避けねばならぬ。勝負はあと数分。もはや寮に帰って、ゆっくり休むと言う手段は絶たれた。ならば----!!

渋谷駅に到着しドアが開くやいなや、もつれるような足どりでホームに降り、そのまま口を押さえて、前かがみのまま十歩程歩いたところで、倒れ込むように手を地面について4つんばいになった瞬間。

多くの人たちの溢れる渋谷駅のホームの丁度真ん中あたりで、私は自分の胃の内容物をホーム一杯に盛大にぶちまけていたのでありました。

吐いている最中は息が出来ず、息を吸い込もうとすると、逆に息がひっかかって、『ゴホッ!』とせき込むように吐くことになり、私は苦しみのあまり肩で息をして、口からは嘔吐物とよだれが垂れていました。目はうつろとなり、恐らく顔色は真っ青になっていたはずです。もはや4肢を支える力の他には、わずかの力もなく、嘔吐物を拭うことも出来ずに呆然としていた私でした。

しかし、悲劇はこれにとどまりません。

とりあえずこれで最大の危機は脱したので、しばらく休んでいれば楽になるだろうと、辛うじてその場を離れた私でしたが、20メートルも歩かない内に第2波の嘔吐が襲ってきました。一度吐いてしまってストッパーが外れたのでしょうか、私は抵抗する間も与えられず、先ほどと同じようにホームでうずくまり、同じ悲劇を再び繰り返すことになります。

多くの人でごった返す渋谷駅で、嘔吐物を吐き散らす私を人々はどの様にみていたのでしょうか。回りを見ている余裕はありませんでしたが、冷たい視線が背中に突き刺さる感じだけはしっかり覚えています。

『これは、私がこれまで多くの酒飲み達を、自分の勝手な倫理で断罪してきた報いなのだろうか?』

『誰も彼もが無責任に酔っていた訳ではなかったのだろうか?』

『ああ、俺は本当に何も解かっちゃいなかったぜ。街角で、一人で寂しく吐いていた、あのおっさん、ごめんよう。俺が悪かったよ。今度は助けてやるからな。』

キヨスクの建物のところで倒れたまま、私は混沌とする意識の中で考えていました。

そして、体を横にしたまま、うずくまるように昏睡し続けたのでありました。ちらっと、このまま儚くなってしまうのも悪くないか、などと考えたりしていました。

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「おい、若いの!大丈夫か!!」と言うだみ声で、私は目覚めました。目の前には、髭面の年の頃にして40代、小太りの顔の赤いおっさんが立っていました。

「おい、若いの。立てるか」と言う言葉とうらはらに、その声は陽気でした。

「俺は青葉台だ!お前どこだ?!がっはっはっ!!」と非常に大きな声のおっさんは、すっかり出来上がっているようでした。

その頃には気分よくホームで昏睡していた私でしたので、そのおっさんのだみ声は単にうるさいだけでした。もう少しだけ、こうしてホームの上に転がって休んでいれば、そのうち気分もよくなってくるだろうと考えた私は、無言のまま、構わなくていいから向こうにいってくれ、と言うように手で追い払うような仕草をします。

しかし、おっさんの方は一向に私を無視してくれず、色々かまってきます。私はやむなく立ち上がり「だ、大丈夫ですから。」と言って、おっさんのそばを離れ、そこから10メートルほど離れた駅の柱にもたれ掛かり、再び寝入ってしまいます。

その後、寝そべっている私に、明らかに悪意を込めて全体重をかけて踏みつけた足が、少なくとも2本はあったと記憶しています。

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うつろな意識で最終電車のアナウンスを聞いたのは、午前1時。私がホームで倒れたのは10時くらいですから、実に3時間も渋谷駅のホームの地面に倒れ続けていたのでありました。

その間、泥酔したおっさんを除けば、助けてくれる人はひとりもいませんでした。駅員もあんなに多くの乗客も誰も彼も、倒れている私の横を通り過ぎていくだけだったのです。

最終電車のアナウンスを聞き、この時間になっても人でホームを闊歩するたくさんの人たちを見つつ、ぼーとした頭を何度も振って、まだときどき襲ってくる嘔吐感を押さえながら、私はつくづく思ったものです。

「本当に東京は恐ろしい街だ」

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なぜ、最終電車がこんなに満員なのかは解りません。この街は寝るべき時間に眠らない街なのだと思わざるを得ません。勿論、席に座ることの出来なかった私は、吊革に両手でぶら下がりながら、口を大きく開けて、『はっはっ』と持久走をしているときのように、なるべく多くの空気を取り込もうとしていました。

(アルコールを酸素でできるだけ速く分解するのだ。アルデヒドを分解するんだ。一刻も速く酢酸に!!)

頭の中では、エチルアルコールやアセトアルデヒドの化学式がぐるぐる回っています。気の毒に、私が立っていた前の席のOLのお姉さんは、『はっはっはっ』と苦しそうに息をしながら、正面の窓ガラスをひきつった目をして睨みつけている私の仕草におびえていたような目をしていました。

東急たまプラーザ駅に着いた時には午前2時ちょっと前。当然、バスなど走っていません。タクシーに乗り込んで「ひ、日立、美しが丘寮」と言ったのを最後に、そこで私の記憶は途切れています。

今となっては、その後どうやって、部屋にたどり着き、ベッドに潜り込んだのかも、もはや知る術はありません。

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今でも私は、あの時のアルコール摂取量が自分の許容量を越えていたとは思えませんし、正確な判断が出来ていたと信じています。

では、何故私はあの時あのような醜態を晒さねばならなかったのでしょうか?

昔、私には気の良い仲間がいて、彼女がいて、一生懸命な学問がありました。お金は無かったけど、理想を語れる人と場所と時間と酒がありました。どんなに徹夜をしてレポートを書いても、天下一品のにんにく入りラーメンとインスタントコーヒーさえあれば、次の日には、夜を徹して六甲山にドライブに出かけて、神戸の夜景を見ることができました。

2X歳の誕生日を迎えて3日目のあの日、私はあの時代に戻ったような気になっていたような気がします。

でも、やはり月日は流れていて私は変わっていたのでした。

どんなにあの頃と同じ様なつもりでいても、いつの間にか私の心も体も少しずつ少しずつ人生の最高潮の時代から、階段を一つ一つ降りていく様に、変わって行っていたのでした。

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私は最近、静かにお酒を楽しむようになりました。昔のように、泥酔して大笑いしてと言う飲み方はしません。

そして、時々居酒屋で若者達が、若さに任せて酒を振り回すように飲んでも、不愉快になることもなくなりました。

(----君達よ。君達にもいつか来る。ある時、突然今まで当たり前だったことが、突然できなくなる日が。今まであったものが、予告もなく消え去る日が。見苦しく醜態を晒す日が。)

彼らの方を見ながら、私は微かに笑みを浮かべます。

限りないいとおしいさと侮蔑と悲しみと、そんな複雑な感情が入り交じった想いが、突然こみ上げて、消えて行きます。

(----だが、その時までは世界は君達のものだ。それまでは存分に楽しむがよい。)

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今でも、私は私の嘔吐物を片づけねばならなかった人のことを考えるにつけ、胸の痛む日々を送らねばならなくなりました。匿名で渋谷駅駅長宛に慰謝料を送金する計画は、現在も慎重に検討されています。また、嘔吐物処理専用のボランティアに志願することも、考えています。

あの事件以来、私は多くの人たちに少しだけ優しくなれたような気がします。

こんど誰かが駅のホームで吐き散らしながら倒れていたら、少なくともその人の脈を取り、隣にウーロン茶を置いてきて上げよう、と思っています。


Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:06:42 JST 1996