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江端さんのひとりごと
「配線学」

2001/06/29

ベストセラーとなった、「話を聞かない男、地図の読めない女」を夫婦で読んで以来、嫁さんは、旅行中のナビゲーション担当を完全に放棄してしまいました。

この本は、全女性から「地図を読む」と言う生活必須の行為を放棄せしめ、彼女らに、地図が読めないことを正当化させてしまったと言う意味で、焚書に値する悪書であります。

私は、サンフランシスコや、ロサンゼルスの高速道路を、時速75マイル(120km)で運転しながら、コンマ1秒以内で、地図とGPSの座標を同時に読み取ると言う、ある意味『サーカスの綱渡りなんぞ、なんぼのもんじゃ』と言う程危険なこともせざるを得なくなってしまいました。

一方、この本が主張する(「話を聞かない男」と言うのはよく分からんが)、「冷蔵庫の中にあるマヨネーズを見つけだせない」「箪笥から該当のジーパンを探り当てれない」などは、恐しい程に当っているため、嫁さんのナビゲーション担当の放棄をあからさまに批判できない私がいます。

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私が中学の頃、「技術家庭」なるクラスがありました。

男子と女子が分かれて講義を受けると言う、時代錯誤も甚だしい ---- と言うよりも、今になって思えば、無益な区別をしていた授業がありました。

当時の文部省は、現在の結婚の高齢化、結婚率の低下、離婚率の増加などを全く、予測できなかったのしょうか。

勝手な言い分かもしれませんが、先見の明のない役人だ、と思います。

男子生徒と言う理由だけで、使いもしない本箱や、実用に耐えないドライバーやらを作らせて、一体どうする。

そんなもんなくても生きていけます。

生きることの基本は、飯です。

栄養バランスの悪い外食に頼らないように、先ず自炊から教えないかんでしょうが。

一体、何の為の義務教育だ。

私のように、一月に一度、市民サークルの「男の料理教室」に通っていたような人間は特殊な部類に入るので除外するとして、アパートに帰ったら、ピザをレンジで暖めるだけの夕食、あるいは、ソーセージを突込んで煮たてるだけのスープを喰うような大量の男達を、文部省はどう捉えているのでしょうか。

上記の話が嘘だと思うのであれば、私は、日立の各事業所からアメリカに来ている独身男のサンプルを、山ほど提出してみせます。

まあ、とにかく、ここで私の主張したいことは、数学も英語も大事かもしれんが、先ず、家庭科(と言うか家政学)を徹底的に叩き込まねば、今の世代は勿論、次世代の日本も非常に危うい、と言うことです。

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私は、国語と技術家庭のカリキュラムに、それぞれ次の2項目の追加を提言したいと思います。

それは、「マニュアル学」と「配線学」です。

太宰も芥川も漱石も良いだろうが、それより先に、マニュアルの読み方を教えなあかんだろうが、文部省。

『マニュアルの内容は、わからん』と言う奴の話をよく聞いてみると、一度もマニュアル開いていなかった、なんてふざけた話はざらにあります。

こういう甘ったれを叱り飛ばすのは易いですが、それでは何の問題解決にもなりません。

実際、マニュアルの内容が判りにくいのは事実です。

その理由としては、マイコンを使った各種製品の高機能化、それに共なうユーザインターフェース(ボタンやらスイッチ)数の増大が挙げられます。

限られたインタフェース(例えば3つのスイッチ)で、100以上の機能を実現するには、そのスイッチの時系列方向の組み合わせに依存するしかありません。

具体的には、『Aのスイッチを2秒押し続けながら、Bのスイッチを2回押し、最後にCのスイッチを、電子音がするまで押し続ける』等。

はっきり言って、こんな操作は、普通の人間には無理です。

しかし、それが可能な人間もいます。

その製品の製作者と、マニュアルの執筆者です。

なんったって、彼等は、その製品の開発過程で、100を越えるマイコンのパラメータを同時にトレースし、デバッグを行っているのです。

製品のインターフェースなんぞは、それらのパラメータのほんの一部に過ぎません。

彼等の感覚からすれば、「マニュアルの内容が判らん」と言うこと自体が判らんでしょう。

これらの根本的な解決方法は、100以上の機能を、5つ以下にすることですが、他社製品との競争上、むやみに機能を落すこともできません。

しかし、この「機能」の件に関しては、購買客も悪いのです。

日本中が、バブル景気で踊り狂っていたとき、私は、ファジィ・ニューロ制御の炊飯器や洗濯機や電子レンジを作っていました。

ファジィ・ニューロ制御が、一体どのようなもので、本当のところ、どれほど役に立っていたか、私は本当によーーーく知っていました。

ファジィ・ニューロが、本当に旨い米を焚くことが出きたかどうか -----

私は、この秘密は自分の墓の中に持っていくつもりですが ----- は、さておき、「ファジィ・ニューロ機能」と書かれていれば、客はそちらを購入したのです(と言うか、こう書かないと売れなかった)。

技術者の立場からすれば、
『高機能を要求すれば、その操作が難しくなるのは、当たりまえではないか!』
『己の頭の程度と相談して、製品を購入せんかい!!』

と言いたいこともありますが、メーカーの社員の立場では、そのようなことは口が裂けても言えません。

で、「これっきりボタン」とか出てくる訳ですが、それについては、いずれまたの機会に。

マニュアルの話に戻ります。

どだい、技術者の理系的発想で記述されたマニュアルが、読みやすいものになる訳がないのです。

技術者は、「動かないのが当たり前」「動かすのが仕事」と言う認識で、技術開発をしています。

「電源入れれば、動いて当たり前」と考えるユーザと同じ視点に立てる訳がない。

ですから、ここは、一つ文系的な見地から、マニュアルを見なおす必要があると思います。

私は以下の事項を提案します。

文部省は、まず全国の国立大学に、「文学部マニュアル学科」を設立し、体系的なマニュアルについての学問を推進します。

次に、義務教育過程に、「マニュアルの読みかた」と言うカリキュラムを導入します。

中間、期末の国語のテストには、次のような問題が出されるようにならなければなりません。

設問10 以下のマニュアルを読んで、問に答えなさい。

ethereal-*-non-capture.zipでは、パケットキャプチャはできないので、ethereal-*-capture.zipのほうを落とします。この段階で、c:\bin\etherealには、2つのzipファイルがあるはずです。これを、c:\bin\etherealの中で展開します。ethereal-0_8_8-capture.zipの方が、ディレクトリを掘ってしまうので、展開後にc:\bin\etherealのディレクトリを作って移動させて下さい。

(1)以下の単語の読みがなと、意味を書きなさい。

読み 意味

zip ( ) ( )

bin ( ) ( )

(2)このマニュアル内の、2個所の不適切な表現を選んで、それぞれ正しい文章

に直しなさい。

(3)このマニュアルを書いた作者の心情を30文字以内で記述しなさい。

受験用の参考書としては、「やさしいマニュアル学」「精解マニュアル解読」などが出版されることでしょう。

マニュアルは、「読む」「理解する」の次元を超越して、「感じる」ところまで高みに至る必要があります。

『あのマニュアルは、泣けた』とか『私の人生を決めたのは、この一冊のマニュアルです』と言う発言が日常会話で普通に出てくるようになるまで、マニュアル学は、高まる必要があると思います。

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次に「配線学」について述べます。

テレビ、ビデオは勿論、パソコンなど、今や「配線できぬもの、文明人にあらず」は、もはや誇張でも何でもなく、事実、配線ができないと、人並にAV機器や電子メールを楽しむことすらできません。

女性はこの配線に関しては弱い、と断言して良いでしょう。

一方で、男性は、収納に関しては、致命的なほど無能です。

理由はよく分からないのですが、女性はスカラー量には強く、ベクトル量には弱く、男性はその逆、と思われる場面が多いです。

配線とは、つまるところ「流れ(ベクトル)」を理解するだけのことなのです。

例えば、ビデオデッキを例に上げれば、

(1)映像を流し出すところと、それを受けるところ(テレビ)がある
(2)音声を流し出すところと、それを受けるところ(テレビ)がある
(3)その映像と音声を受けとるところと、それを出すところ(アンテナ)がある。
(4)電気を受けとるところがある。

と4つの「流れ」があり、それを正しく流すように線を継いでやれば、必ずビデオは動くのです。

ところが、配線が苦手な人は、この(1)-(4)が、頭の中で大混乱している訳です。

で、結果として何をしてしまうか。

総当たり戦を実施してしまう訳です。

映像出力端子、映像入力端子、音声出力端子、音声入力端子、NTSCケーブル2本、アンテナ線用同軸ケーブル、これにS端子でもついていたら、配線の組み合わせは、軽く100を越えるでしょう。

ビデオごときで、総当たり戦を実施している人に、パソコンの組み立てなんぞやらせたら、組み合わせ爆発は必至。

パソコンが動き出すのに25世紀くらいまでかかってしまう。

このような「配線問題」に関しては、現状2つのアプローチがあると思われます。

(1)「配線は素人にはできない」と割りきって、「配線サービス」と言う新しい産業の育成に力を注ぐ

(2)「配線学」を義務教育課程に組みこむ

の2つです。

しかし、私は、(1)の「配線アウトソーシング」が、一つの産業になるのは難しいであろう、と推測しています。

3万円のビデオデッキに、出張費と拘束時間を考え、安く見積っても1万円以下にはならないであろう配線サービス料金を、本当にエンドユーザは払えるだろうか。

そもそも家電製品と言うものは、大量生産によるコスト低減を掲げて製造されるものです。

激しいコスト競争の中で扱われているこれらの家電製品は、それ自体、ソフト的なサービスとは合い入れません。

ソフトサービスをエンドユーザに押しつけて、コストダウンを図る。

これが家電製品の市場原理なのです。

上記の分析が示すことは、当面の間、「配線問題」は、独力、あるいは、プライベートな極めて狭い範囲の人間による解決しかありえない、と言う悲観的な結論となります。

ですから、私は(2)の「配線学」を義務教育課程に組みこむしかないと思います。

ラジカセの操作は、小学3年生までに、

ビデオデッキは、小学6年生までに、

パソコンの組み立て(周辺機器付き)は、中学3年までに体得することを、今からでも遅くはありません、是非とも文部省は、技術家庭課程のカリキュラムとして採用することを、検討して貰いたいです。

日本のIT化を本気で考えるのであれば、これらのことが実施できない児童、生徒は、留年もやむなし、との処置でお願いします。

「炊飯器で飯が喰えず餓死」「メールが使えず孤独死」などと言う、ハイテク家電が引き起こしかねない悲しい事件を回避するためにも、国は断固とした姿勢で、接続学の取得を国民に課して貰いたいと切望します。

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あながち、大袈裟でもないのです。

電子レンジに猫を入れて、乾かそうとした主婦の話を例に上げるまでもなく、(赤ん坊でなくて、本当によかった)、パソコンのプリンタの設定ファイルと、ISPのプロバイダの接続設定を壊してしまい、アメリカに行ってしまった息子の帰省を1年以上も待っている、実家の両親たち ----

そして、紙切れが判っていても、補充されないFAX。

設定方法が分からず、いつまでも動き出さない全自動洗濯機。

マニュアルの例文を、2回印刷しただけのワープロ

ユーザにとっても、製品にとっても、これは悲劇に違いあません。

そのような悲劇を、この日本からなくす為にも、私はここに声を大にして、「マニュアル学」と「配線学」の、速やかな導入を提言したいと思います。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

 

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Hです。 「プロジェクトX」、結論から言うとキライです。 理由は、見ている人ならわかるはずです。

技術的な話や、また、 それに思い至るまでのエピソードなどは好きですけどね。

ebata@cnd.hp.com wrote:

n> で、江端さんの出演予定はいつですか? n> 既にNHKからオファーがあったと風の噂で聞いたんですが。

題目も決っています。

Project X 「会社を蘇えらせた技術者の最後のエッセイ」

  • 解雇覚悟で執筆を続けた「日立こぼれ話」製作秘話
  • 時代を先取りした社内ディスクロージャへの会社の激しい抵抗
  • 総務部との死闘、上司との確執

「プロジェクトX」的には、それで会社にこんな貢献ができた、とか、 その結果こんなによい製品が日本から発表されました、とか、 おかげで私は首にならずに済みました、とか、必要だと思います。

あと、どこかで泣けるポイントを作らないと、 私の同期の「プロジェクトX」信奉者なんかは、 「今回は面白くない」と放言すること請け合いです。

最後には、全体主義的な大団円に持っていく必要もあると思います。

個人的には、江端さんのイメージと ちょっと違うような気がしないでもないのですが、 それは私の勘違いでしょうか・・・

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江端さんのひとりごと
「ホワイトアウト」

2001/02/10

 

昨年9月24日に、コロラド州のフォートコリンズで、私たち夫婦は、積雪15cmを越える降雪を目の当りにしました。

数日前までクーラの側に倒していたエアコンのスイッチを、暖房側に切りかえ、最大出力にしました。

と、思った次の日には、透き通った快晴の空から、紫外線をたっぷり含んだ太陽光線で、目が焼けるかと思う目にあったりもしました。

コロラドの冬は、日本の関東地区に比べれば寒いはずで、実際、夜には氷点下数度まで下るのですが、不思議なくらい寒さを感じません。

重くない、とでも言うのでしょうか。

湿度が非常に低いので、まとわりつくような寒さはないのです。

雪は一晩で15cm位積るのですが、日本の東北や北海道の地区とも違い、大抵次の日から快晴となり、2、3日で溶けてなくなってしまいます。

毎朝、玄関のドアを開けると雪が傾れこみ、積雪をラッセルしながら、会社に出社するものだと思っていた、私たちの目論見は外れ、殊、雪に関しては、今迄と変わることなく、朝の徒歩通勤を続けていますし、帰宅時には、嫁さんのピックアップで自宅に帰るのですが、会社がスタッドレスタイヤの費用も出してくれたこともあって、現在のところ、事故を起すことなく運転しているようです。

ただし、雪の降っている朝だけは、危険かもしれないと言うことで、嫁さんが会社まで自動車で送ってくれることになっています。

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私は、静謐で美しい風景、一面の銀世界、生命が息を潜めて雌伏するこの季節が好きです。

フォートコリンズは、渡り鳥のグースの中継地点となっているようで、最近は、毎朝数百羽のグースが群れとなって集まっているのを見かけます。

今朝、家の前のBoardwalk Driveを、20羽程度のグースがきれいに一列になって横断して、自動車を止めていました。

私が運転手の方の顔を見ると、「仕方ないね」と言う顔で苦笑していました。

ある朝、私がHP社の前にあるLSI Logic社の前の野原を歩いていた時のこと、抜けるような真っ青な冬の全天を、天の河の大きさもあろうかという帯が、南東から北西に向って流れていました。

それは、地平線から現れ地平線に消えていく、何千羽ものグースの群れでした。

私は、その流れの一番最後尾が見たくて、空を見上げながらその野原に立ちつくしていましたが、いつまでもその流れが止まることはありませんでした。

フォートコリンズの街の上空は、丁度、旅客機の航路となっているようで、空のキャンパスに、真っ直伸びる鮮かな白の軌跡を、時には、同時に10以上見ることもできます。

そして、後を振り向くと、藍色の空をバックに、切り立った氷河のように輝くロッキー山脈の稜線が見えます。

このように、私は毎朝、徒歩通勤を楽しんでいるのですが、やはり、雪の降った翌日の朝は格別です。

全ての建物が目映いばかりに光り輝き、息を呑むほど美しいです。

地面を踏みしめると、足がやわらかく大地に吸いこまれるような感蝕と同時に、雪の粒が煙のように舞い上ります。

雪を掌ですくい上げると、指の間から雪が流れ落ちていきます。

日本では、スキー場でさえ、こんな極上のパウダースノーにお目にかかることはできません。

マウンテンスキーの板を履いて出社する、という計画もあるのですが、フォートコリンズでは車道の除雪が徹底していることと、どうしてもまとまった積雪量にならないことから、現在のところ、実現できないでいます。

嫁さんが、帰路を迎えに来てくれるからこそ出来ることでもあるのでしょうが、こんなに楽しい1時間10分もの通勤時間を、自動車でかけ抜けてしまうのは、私には、とても勿体ないことのように思えます。

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先日、夕方から降り始めた雪は、翌朝になっても止むことなくり続けていました。

一度くらいは、降っている雪の中を歩いてみたいと思っていた私は、その日の朝を決行の日と決め、心配する嫁さんを言いきかせて、雪中行軍の準備を始めました。

テーブルの上に、いつもの通勤スタイルである、極寒仕様の毛糸の帽子と手袋、マフラー、膝まであるぶ厚い綿入りの黒のナイロンコート、インターネット経由で毎日録音している英語ニュースと、「携帯版 英会話とっさのひとこと辞典」のカセットテープとウォークマンを用意しました。

厚めのセータを着こみ、膝上まである道路工事の現場作業員御用達の長靴を履いて、準備を完了しました。

ドアを開けた瞬間、ぶ厚い冷気の壁と雪が吹き込んできて、家の中に戻されそうになりましたが、それを押し付けるようにして外に出ました。

吹雪という程のものではなかったものの、風におおられて雪が右往左往しながら、時々は真横になって宙を舞っていました。

空の低いところに灰色の雲があり、わずかに雪のガスも出てきており、視界も悪くなってきていました。

多分、気温は氷点下10度くらいだっただろうと思います。

流石に除雪も間にあわなかったのか、Oakridge Driveの道も真っ白なまま、自動車のタイヤに圧雪されて、理想的なアイスバーンとなっていました。

しかしそんな道路を、この街の人達は、ノーマルタイヤで、車体をドリフトさせながら平気で運転しています。

流石、としか言いようがありません。

雪の上を歩く時は、そのわずかな雪の高さを見て、車道と歩道を見分る必要があります。

間違えて車道側に足を踏み入れると、そのまま車道に転げ落ちていく恐れがあるからです。

抜群の視力を誇る私でさえも、今朝は車道と歩道の境界が見えません。

それは、一つに、雪が降り続いていることと、もう一つは、目を開け続けていることが出来なかったからです。

私は、全身を防寒着で完全にくるんでいたのですが、唯一、目の部分だけを覆うことは出来ませんでした。

そんなことをしたら、何も見えなくなって、歩く以前の問題です。

風にあおられた雪が目に飛びこんでくる時は、ちょっとした痛みを感じますが、それ自身は大したことではありません。

問題なのは、その後です。

その状態では雪の結晶が眼球に張りついて見えなくなりますので、瞬きをすることで、その雪を解かすのですが、これが涙と一緒になって目の外に出ます。

この涙がやっかいなのです。

この涙は、一秒もしないうちにアイラインで氷結します。

そして次の瞬きに、瞼の上と下のアイラインの氷がぶつかり、一瞬溶け、そして、この上下の氷は一つになって一瞬の間に凍ってしまうのです。

この結果は明白。

目が開かなくなるのです。

指で目を擦ると、指についた雪が、さらに事態を悪くしまうので、力を込めて瞼を開けます。

こういうことは、日常生活ではめったに体験できないでしょう。

力づくで瞼を開くことを続けている内に、今度は睫(まつげ)に小さな氷柱が出来てきて、瞼が重くなってきます。

よく、眠くなることを「瞼が重くなってくる」と言う言い方をしますが、喩えでもなんでもなく、本当に『お、重い・・・』。

不思議なもので、瞼が重くなってくると、本当に寝くなってきました。

雪の中の歩行は、普通の歩行より何倍も体力を使います。

雪の吹き溜りを踏みつけて、体のバランスを崩しながら歩かねばなりませんし、以前降った雪が溶けずに、完全に氷結して氷河となったような場所も越えて行かねばなりません。

普段よりも集中力が要求されるのです。

加えて、時折襲ってくる横なぐりの雪の束に目も開けていられません。 運悪く、昨夜は眠りが浅い上に5時間くらいしか寝れなかったので、普通よりコンディションも悪かったのです。

眠ったら終りだ・・・

この時、私を支えていた思いは、「美しい妻や可愛い娘を残して死ねるものか」と言う想い・・・ではなく、『雪の中を徒歩通勤していた変な東洋人、通勤途中にて凍死』とフォートコリンズ新聞の一面に掲載されるであろう記事と、葬式の際に、ハンカチを握りしめて、うつむきながら、泣いているふりをしながら、笑いを堪えている参列者の光景でした。

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HPの正門前で、ウォークマンのカセットテープが終ったので、ナイロンコートのポケットからウォークマンを取り出して、テープを裏返しして、再生のボタンを押したのですが、うんともすんともいいません。

変だな、と思って、あちこちのボタンを押して見たのですが、上手く再生してくれません。

その時、このような機械が保証する動作環境の温度は、確か下は0度から、上は50度くらいだったことに、はたと気が付きました。

私は、HP社の門の前に立ちすくみながら、氷点下10度より低い極寒仕様のウォークマンなど、どこにも売っていないんだろうな、とぼんやり考えていました。

その時の私は、毛糸の帽子に雪を積らせ、手袋は内部から凍りつき、長靴の中に入ってしまった氷が、溶けずに凍ったまま残っていると言う状態で、体も思うように動かすことができず、雪の平原を彷う、黒装束のゾンビのような状態だったと思います。

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Harmonyの徒歩通勤者

"Walking Pedestrian in Harmony Road"

は、今では、HPはもとより、フォートコリンズでもすっかり有名になっているだろうと思います。

そのうち、私の通勤路である野原に、地元のテレビ局の車が待ち構えてインタビューをしてくる時の為に、すでに私の頭の中では英語の質疑応答集が出き上がっています。

"Why have you kept walking on this field, that is NOT a road, every day ?"

"I can always feel the existence of GOD through walking in the field. It is a kind of a field of talking to GOD."

フォートコリンズの教会の、名誉司教くらいには成れるかもしれません。

そんな風に、私の通勤風景に慣れたフォートコリンズ市民も、その日の私を見て、皆、一様にぎょっとしていました。

私の行為が、神秘の国ジパングの名を、ますます高めているものだと自負しております。

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まあ、街の中だし、比較的視界も良く、ホワイトアウトを喰らって『HPはぁ!HPは、どっちだぁぁぁ!!!』などと叫ぶような場面もなく、いつもより15分遅れで、無事会社に到着しました。

寒くて痛くて結構辛かったけど、やっぱり楽しかったな、と思えました。

私は、根っからのスキーヤーなんだ、と再認識しました

その日、嫁さんのピックアップで自宅に付き、ふと、テーブルの隅の方を見ると、そこには昨夜久々に読み直し終えた、真保裕一の「ホワイトアウト」が置かれていました。

『俺が今行かなかったら、誰がHPと日立を救えるのだ!』

などと言うような、馬鹿な妄想に憑かれて、雪中行軍をしようとしていた訳では断じてないと思っていますが、もしかしたら、自分の気が付かないところで、何かのスイッチが入っていたのかもしれません。

 

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

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江端さんのひとりごと

「神の火」

2000/06/10

「いいか、草介。人が死ぬような放射能といえば、3000から4000ミリシーベルト以上だ。

そんなものすごい量の放射線を一気に全身に浴びるのは、チェルノブイリのように炉心が融けて剥き出しになる事故か、核爆弾しか考えられない。

だから、こんなふうに考えて欲しい。

人が健康に生きていくための許容被曝量線は、年間5ミリシーベルト。

胃のレントゲン検査一回で、約4ミリシーベルト。原発から出る放射線は、年間0.05ミリシーベルト以下。

それよりは確実に多い。人によっては身体に影響が出るかも知れない。危険というのはそういう意味だ」

「そうなると、あのチェルノブイリというのは、ものすごい事故やったんやな・・・・・・」

----- 高村薫 「神の火(下)」より抜粋

人が死ぬような放射能と言えば、「炉心が融けて剥き出しになる事故」か、「核爆弾」しか考えられないと、誰もが思っていました。

まさか、民家の中にある民間工場で、核爆弾の直撃をも超える1万1000ミリシーベルもの、もの凄い量の放射線を生み出す『臨界』が起こり、

その工場で作業してた工員を死に至らしめ、周辺住民を数千シーベルトの放射能の嵐の中に、数時間も放置するような事故が、

よりによって、世界中のどの国よりも原子力の恐ろしさを身にしみているはずの、我が国日本で起こるとは -----

一体、誰が予想できたでしょうか。

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1999年9月30日、午後9時。

いつもより少し早めに帰宅した私は、荷物を置き、服を着替えながら、歌番組のテレビを何気なく眺めていました。

いつも通りの日常が、一瞬して恐怖の一夜となる一番最初の出来事は、嫁さんの次の一言でした。

「東海村で、臨界事故があったんだって」

臨界事故?

その時私は、嫁さんが「一次放射能冷却水漏れ」か、あるいは「炉心制御棒の制御装置の故障」の話からたまたま出てきた、『臨界』という言葉を『臨界事故』と聞き間違えたんだろうと思いました。

その証拠に、テレビでは何事もないように、歌番組が続いていましたし、万一そんな事故が起こっているなら、警察は勿論、自衛隊の出動だってありえると思いましたから。

ところが、NHKにチャンネルを換えてみたら、そこには前日辞任を表明したばかりの野中官房長官が、東海村住民に外出禁止勧告を出しているところでした。

私は、一瞬自分の体から血が抜き取られたれ、床がぐにゃりと曲がるような錯覚を感じると同時に、そして誰のものか分からないような声で、テレビに向かって大声で吐き捨ていました。

「馬鹿野郎が! ついにやりやがったな!! これでこの国は終わりだ!!」

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日本は、この狭い国土に、なんと47基の原子炉を持つという、間違いなく世界一の原子力立国です。発電に占める割合も、火力発電を抜いて現在トップとなっております。

なんでこんなに多くの原子炉があるかといえば、、日本政府の原子力政策に負うところが大きいのですが、基本的に発電所の建築コストが、他の火力や水力発電にくらべて、ぐっと安いのです。

それに、下流の村を水没させることもないし、地球温暖化で問題となっている二酸化炭素を大気に撒き散らすこともないし、何も起こらなければ、確かに「世界一クリーンなエネルギー」

ところが、原子力というのは他のエネルギーと加えて、極めてコントロールが難しいエネルギーなのです。

原子力エネルギーの最も簡単な利用方法は、「原子力爆弾」です。

一瞬にエネルギーを放出すれば終わりです。

問題があるとすれば、携帯軽量化が難しいことです。

このような爆発を起こすためには、どうしてもある一定以上の原材料が必要となり、どう小さく作っても、一つの街を灰にしてしまうものになってしまいます。

まさか、原子力発電所で、原子爆弾のようにエネルギーを放出するわけにはいきません。

そんなことしたら原子炉なんて紙細工のように吹き飛んでしまいます。

原子力発電の技術の粋は、要するに「少しずつ、だましだまし、エネルギーを引き出す」ことにあります。

決して、暴走させてはならない。

しかし、沈黙させてもならない。

原子力発電に使う、原子力エネルギーとは、そもそも自然界において「暴走」か「沈黙」の2つの状態しか持たない物質を、そのどちらの状態にも置かせないで、しかも一定量のエネルギーを引き出さねばならないという、綱渡りも似た超高精度の制御を必要とするものなのです。

そして、もう一つ。決して忘れてはならないことがあります。

原子力は、いったんエネルギーを放出し始めたら止めることができません。水をかけたり、いつかは燃える物がなくなって消える火とは、全く性質が異なります。

数百年から先年の単位で、人体に有害な強力なエネルギーが巻き散らされ続け、それを決して停止させることができないのです。

そのエネルギーは、人間の臓器をずたずたにし、遺伝子を破壊し、変種の細胞(ガン細胞等)を発生させます。

特に母体の胎児に対する影響は深刻です。

はっきり言って、原子力は危険です。

そもそも科学技術というもので、完全に安全なものというものはありませんが、それ以上に、この完全でない技術は、おおよそ完全とは縁の遠い人間の手で運用されているのです。

いったん壊れたら最後、周辺地域を死滅させる技術の恩恵というものが、どれほど人間に必要なものなのか、私にはよく分からないのです。

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臨界とは、ある一定量の放射性物質が、一個所に集められることによって、互いの放射性物質を互いを叩き合うことで、そのエネルギーである放射線が全力で撒き散らされる状態をいいます。

この撒き散らされる放射能というのは、光に匹敵する速度で放たれる、全方向向きの機関銃の一斉掃射のようなものです。

加えて、そのエネルギー量は弾丸の比ではありません。

人間の体などは言うまでもなく、建物の壁も簡単にぶち抜きます。

ちなみに、レントゲンは、弱い放射線を非常に短い時間一斉照射し、それが通過した箇所と、通過しにくかった箇所を比較することで、レントゲン写真として写されるわけです。

当然、体を無数の放射線によって打ちぬかれるレントゲン撮影が、危険でないわけがありませんので、レントゲン技師は、写真を撮るとき、金属ドアの向こうに逃げる訳です。

ちなみに、コンピュータのバグで、このレントゲン写真の照射時間の桁を間違えて、人を殺してしまった事故もあります。

臨界事故と聞いた瞬間、私の目の前には外壁が吹き飛んで、炉心がむき出しになった原子炉と、臨界の放射性物質の濃縮ウランが破片となって飛び散り、空から降ってくる死の灰が見ました。

わずか1グラムで半径500メートルの人間を殺傷するという廃棄放射性物質プルトニウムなんぞが、目に見えない粒で体に付着したり、万一体内に入ったら、命の助かる見込みはありません。

体内から放射線の一斉掃射をされて、平気なわけがありません。

即死という慈悲すらもなく、数時間から下手をすれば数年かけて、臓器の機能が次々と停止し、訳の分からない苦痛の中で、手立てもなくじわじわと死んで行くしかない。

放射性物質が我々に与える死とは、最大級の苦痛を共なう最も残酷な死なのです。

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テレビを見た瞬間、私が考えたのは、東名高速道路への最も速いアクセスの方法でした。

この社宅から脱出するのに必要な時間と、名古屋の実家への連絡。

そして、同時に、東海村から飛び散った濃縮ウランが、都心を超えて神奈川に飛来する時間を計算していました。

東京を含み関東一帯はほぼ全滅。

名古屋も決して安全ではない。

場合によっては、嫁さんと子供だけでも、福岡(嫁さんの実家)に避難させ、それもかなり急がねばならない。

事態が解明されるにつれ、避難する車で高速道路は麻痺状態に陥ることは確実でした。

場合によっては、緊急車両優先のため、全てのインターチェンジが封鎖されるかもしれない。

官房長官のコメントを聞いている限りでは、危険な状態にある地域は限定されているとのことでしたが、古今東西、「国の安全宣言」ほど信用の出来ない宣言はありません。

世界で最初に核実験をやったアメリカは、メディアなどの広報機関を通じて、地域住民に対して「安全」を繰り返し宣伝していました。

その結果は、その地域一帯に飛びぬけて高い白血病発病率をもたらし、家族がばたばた倒れていくのを、ただ見ているしかない状況となりました。

チェルノブイリの近く、ロシアのキエフでは、放射性ウランが大気にばらまかれたその当日にすら、事故のことは住民伝えられませんでした。

住民はいつもと変わらない週末の公園の散歩を楽しみながら、大人から子供に至るまで、致死、あるいは後遺症と呼ぶにはお釣が来るくらい悲惨な状態になるほどの放射性物質とその放射線を喰らったのでした。

内閣官房長官は、半径500メートルの住人は『屋外に出ないように』と勧告をしていました。

雨や夜露じゃあるまいし、民家の壁を軽くぶち抜く放射線に対して、そんな警告が何になるんだろうと、慌ただしく脱出経路を考えながら、頭の中で思っていました。

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皆さんに警告します。

国は、絶対に『逃げろ』と言いません。

というか、言えないのです、立場上。

なぜなら、日本国政府は、原子力産業を基幹に据えるエネルギー政策を行うにあたって、『原子力の絶対的な安全性』を国民に対して約束しているからです。

『逃げろ』と言うことは、日本国政府は国民に対して嘘をついていたことを、公に認めることになってしまいます。

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話はちょっと変わりますが、何年か前、動燃(動力炉核燃料事業団)が、事故の隠蔽を図り、何度も嘘の上塗り繰り返し、その都度、嘘が見つけられ、その度に謝罪会見をしていた、見苦しいことこの上もない愚劣な行為を繰り返していたことがあります。

この時、私は「こりゃ、いいなあ」と思いました。

まず嘘をつく。

嘘が見つかったら謝る。

見つからなければ黙りつづける。

正直に言っても、どっちみち怒られるなら、黙っていて見つからないほうに賭ける。

これは、公に責任を持たない利己的な個人の理論としては、正しいと思いますが、いったん壊れたら最後、周辺地域を死滅させる原子力を管理する公の機関が、まあなんということか、この理論で動いている。

その為に民草たる民衆の命なんぞは後回しにして、自己保身のために動き、最後まで謝罪を渋り、謝罪した後は、我々の血税から賠償金の支払いをする。

何の邪心も憤りもなく、心から素直に『やっぱり、体制サイドは、おいしいなあ』と、羨ましく思ったものでした。

閑話休題

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私が、尋常ではない脅え方をしているのをみて、嫁さんの方もつられて脅え始めたようです。

一般的に、世の中一般の原子力に対する意識は、嫁さんと大体同じくらいのようですが、良いとか悪いとか関係なく、私はそれが一般的だと思っています。

だって、放射能の人体に対する影響なんて、義務教育では絶対に教えないんですもの。

米国の原爆教えても、日本の南京大虐殺を教えないようなもんです。

そうして、やがて私は、でたらめな歴史を信じている被害妄想の爺さんとして扱われて、孫たちに嫌われるようになるんだ。

ふん、だ。

しかし、ニュースを聞いているうちに、『なんで、原子力発電所の名前がでてこないんだ?』と不思議に感じ始めました。

ウラン加工施設で臨界事故、と言うのがどうにも解せません。

ニュースの話を聞いていると、原子炉が爆発したという話もなければ、自衛隊の治安出動の話もありません。

東京が放射能汚染されるとなれば、当然、極東地区の軍事バランスは一気に崩れます。

「北」が動き、朝鮮半島に再び火がつくというという論説は、まだ出ないとしても、どうも事件が局地的な様相を呈しているのが、しっくりきませんでした。

なぜ自衛隊と警察は組織の総力を挙げて、住民の大エクゾダス(脱出)を指揮しないのかをしないのだろうか?

そして、ニュースを見ているうちに、臨界事故の原因が、てんで全くお話にならない稚拙な事故から発生したことがわかってくるにつれ、私は、徐々に腸が煮え繰り返ってくるのを感じていました。

「・・・・阿呆か」

そもそも放射性物質は、それ自体が放射線を巻き散らかす物質なので、分散して管理するのが当たり前です。

放射性物質を過度な密度で一個所に集めれば、自然に核分裂反応を始め『臨界』に至るのは、物理学の「いろはのい」よりもっともっと前。

今回の事故の真相は、「規定量をはるかに超えたウラン溶液を、一個所の容器(沈殿漕)に集めた為に『臨界』が始まってしまった」という、信じられないくらい馬鹿馬鹿しい事故だったのです。

原子力やら放射能やらと聞くと、何やら私たちの生活に直接関係がない難しそうなもの、と思われる方も多いと思いますが、別にそんなことはありません。

ウラン鉱石などは、日立(日立製作所ではない)などでも産出されています。

その石自体は、あまり強くはありませんが、放射線を撒き散らしています。

民間人には難しいかもしれませんが、適度に精製して溶かしたものを、一定量以上トイレの掃除用のバケツにでもほうり込んでおけば、自然に臨界は始まってしまいます。

しかし、臨界が一旦始まってしまったら最後、その放射性物質のポテンシャルエネルギーが消えてなくなるまで、

----- 何百何千もの熱白ライトが一箇所に集まり、その圧倒的な光源から発せられる光線の束が、体を通り抜け、後を見ると自分の影すらもない -----

というような、目には見えない放射線を撒き散らし続けるのです(*1)。

(*1)可視光線も放射線の一種です。非可視光線の紫外線などは、皮膚ガンを誘発することで危険と言われていますが、体を「貫通」するほどのエネルギーはありません。

今回の臨界事故が、

- チェルノブイリ原子力発電所事故の様に、大気中に、放射性物質が放出された訳ではないこと

- 危険区域は、臨界発生地点の周辺に限定されること

すなわち、臨界発生地点は、事故現場一個所に集中され、放射能物質漏れが引き起こす大気汚染や土壌汚染の心配は、とりあえずしなくてよいことが分かったからです(*2)

少なくとも放射性物質が、空から降ってくることがないことをようやく理解し、私はへなへなと、畳の上に座り込んでしまいました。

少なくともこれで、全力で逃げ出す算段は考えなくてよいと思ったからです。

(*2)強力な放射能を照射された物質は、それ自体が放射性物質に転換することもあります。

ほっとしたのも束の間。

現在、放射能の台風の目のど真ん中にいる、東海村やその周辺の人たちにとっては、放射性物質が大気に放出されようがされまいが、凄まじい放射線の嵐の中にいるという事態は何も変わっていません。

私は、東海村近くの、日立製作所おおみか工場で、半年近く一緒に働いてきた仲間がいました。

皆、私が困ったときには、すぐに駆けつけて助けてくれた、本当に気持ちの良い同僚でした。

少なくとも、私と私の家族が放射能の直撃をくらう場所にはないことを確認した後も、私は彼らのことを考えると、身が締め付けられるような苦しさを覚えました。

-----

臨界が停止するまでの間の、今回の事故の経緯を以下に記述します。

JCO転換試験棟で、作業員が「青い火を見た」と言う臨界事故が発生したのが、9月30日午前10:30。

この瞬間、試験棟内の臨界警報装置が一斉に吹鳴。

10分後に従業員がグランドに避難(この間の被曝推定量は、後述)。

事故発生から50分後、JCOが科学技術庁に「臨界事故の可能性がある」との文言を含んだFAXを送付。

茨城県庁に連絡が入り、東海村に事故対策本部が設置されるのが、事故発生から1時間後。

その後、科学技術庁への第2、3報の連絡、ひたちなか西署に対策本部設置、現場から半径200メートル以内の立ち入り規制。

この時、現場に立った警察官は、防護服の着用を指示されていませんでした。『住民の安全を確保できない状況で、警察官だけが防護服を着るように指示を出せなかった』と言う幹部の判断は、ナンセンスかもしれないけど、その苦しい立場は理解できました。

東海村に災害対策本部設置などやって、ようやく村内広報が開始されたのが、事故発生から2時間後の12時30分。

臨界の放射線の嵐の中で、住民に何も知らせず2時間!

事故現場半径500m以内の住人170戸に避難の「勧告」をしたのが、さらに1時間半後の14:00。

15:00 東海村は法令(災害対策基本法)に基づかず、独自の判断で半径350m以内の住人に避難を「要請」。

この辺になって、ようやく内閣に詳細な情報が届くようになります。

マスコミがこの事故に気がつき、日本全国に速報として届いたのが、夕方頃。

私が調べた限り、この時点では、事故現場を除いて日本中のどこにもパニックは発生していません。

この事実に、私は頭を突かれたようなショックを受けました。

「臨界事故」と聞いた瞬間、爆発して炉心がむき出しになった原子炉を想像した、私のような人物はほとんどいなかった、ということだからです。

21:00 帰宅した私が、歌番組のチャンネルからNHKに替え、自失呆然となっているところに飛びこんできたのが、原子力安全委員会の「再臨界の可能性がある」との見解発表でした。

この時、私は暗澹たる思いになったのを覚えています。

一体、誰がどうやって臨界を止めるのか?

第一、暴走を始めた臨界を止める手立てが本当にあるのか?

例え防護服を厳重に着用したとしても『臨界の原子炉の中に入って、制御棒を手で入れてこい』と、同じような命令を、一体、誰が出し、誰が受けることができると言うのか。

23:30 科学技術庁は、核分裂反応を抑えるために、冷却装置の水抜きをすると発表。

核分裂を起している容器は、冷却装置で覆われています。

この冷却装置の水は、放射線を透過しにくい為、放射線は水によって跳ね返され、再び核分裂物質を叩くことになります。

その結果、再臨界が発生していると判断したようです。

しかし、私は、もしそれで、臨界が止まらなかったら、水を抜いた分、さらに強烈な放射線が放出されるのではないか、と考えていました。

多分、国や科学技術庁は、この国の終わりの日まで、決して公表することはないと思いますが、

---- もう、それしか、残された手がなかった -----

と、私は信じています。

そして、ついに、JCO社員から18人が指名され「決死隊」が結成されます。「嫌なら断ることもできる」と言われても、誰も辞退しなかったそうです。

職場長が人選を始め、短時間で作業を終えるため、ベテランの8組16人がまず、指名され、防護服を着た作業員2人が転換試験棟に近づいたのが、午前2時35分。

3:00 沈殿漕の冷却水を抜き取る作業が開始され、4:30 物外部のクーリングタワーの水を抜き取る目的で、タワー下部のドレインをハンマーで叩き壊す為、現場に入りました。

(以下、朝日新聞10月22日朝刊より抜粋)

----- 1人がライトとストップウオッチを手にし、もう1人が写真を撮る。まず、現場の状況を知るためだ。

「ピー」。

1枚目の写真を撮ろうとした瞬間、胸につけたガンマ線の線量計が高い音とともに激しく振動した。

中性子線の被曝量は当初「20ミリシーベルトまで」と計画した。

ガンマ線はその約10分の1と推定した。

警報機能が付いたガンマ線量計を2ミリシーベルトにセットした。

写真を3枚撮り、エンジンをかけっぱなしで待っていた車に飛び込むと、猛スピードで戻った。

転換試験棟のすぐ外に1分いただけで、1人は中性子線を112ミリシーベルト被ばくした。

通常の生活で浴びる放射線量の約100年分だった。

「これでは被曝しに行くだけで、作業ができない」と戻ってきた1組目の作業員が言い張った。

「計画被ばく線量の限度をあげるしかない」。

3分は作業できるように、2組目からは「50ミリシーベルト」に計画変更した。

予定した8組では水ぬきはできず、2組増やした。

2度現場に行った人もいた。

パイプが曲がっていたりして思わぬ事態が続いた。

5組目が配管をハンマーで壊した。

配管に残る水をガスの勢いで抜くための作業を6、7、8組が担当し、9組目がガスのボンベをつないだ。

間もなく、ほぼすべての水が流れ出た。

1日午前6時14分、中性子線は通常値に戻った。

18人全員が被ばくした -----

(抜粋ここまで)

このように、現場での作業の9回目を終えた6:15、東海村村長が、臨界が鎮静化しつつあることを、会見で発表しました。

そして、10月1日午前7:30 東海村村内放送で、住民に対して「放射線が平常値に戻った」ことが伝えられたのでありました。

事故発生から、実に21時間。

この間、臨界の放射線は、JCOの決死の作業隊は勿論、JCOとは何の関係もない、地域住民を襲い続けたのでした。

-----

数日後。

これまでパートナーとして、一緒に仕事をしてきたK嬢が、この度、製品開発支援として、おおみか工場に派遣になることになりました。

今回の臨界事故以前に決まっていた派遣ですが、K嬢は、ユニットの予算担当の私と課長に対して、次のような内容のメールを送ってきました。

『この度、おおみか工場に派遣になることになり、これに伴い、携帯用放射能測定装置をユニット予算で購入したい。

その理由は以下の通り。

(1)先日の事件から明らかなように、政府発表は全然当てにならない。自分の安全は自分で守らなければならない。

(2)この時期に、わざわざ東海村周辺に望んでいきたい訳があろうはずがない。

(3)従って、会社が測定装置の購入を負担するのが筋であると考える。』

私は、彼女のこのメールを受け取って5秒以内に返事を書きだし、3分以内に返事を出し終えました。

『ユニット予算担当者として、正式に認可する。予算枠は無視してよい。もし、誰かが文句を言ってきたら、全力で論陣を張る。即日発注されたし』

私は、「こういうことろでこそ闘わにゃ、私の存在している意味がないだろう」とばかりに、大見得を切ったのでありました。

-----

後から後から、唖然と通り越して、愕然となる事実が判明してきました。

バケツでウラン溶液を運んでいたこと。

違法な放射性物質の取り扱いを、マニュアル化して、全社で推進していたこと。

そして何より、原子力の基本的な教育を行っていなかったこと。

従業員は、「臨界」の意味すらも知らされず、業務を遂行させられていたの
です。

被曝した作業員が意識不明の重体に陥ったというニュースを、心配そうに見ながら、『助かるといいね』とつぶやく嫁さんに、私は首を横に振ることしか出来ませんでした。

「奇跡が起こって欲しい」と繰り返す関係者やマスコミに対して、私は『すでに奇跡は起こっている』と、心の中でつぶやいていました。

1万1000ミリシーベルト。

今回の事故で、被害者がどれくらいの時間、この放射能の照射を浴びたのかは定かではありませんが、仮にこれを十分間と仮定して、私は電卓を叩いてみました。

びっくりしました。

一人の人間が一年に自然界から受ける放射能(年間5ミリシーベルト)と比較した結果、単位時間あたりの被曝量は、実に1億1563万2000倍。

(計算式)

11000[ミリシーベルト] / 10[min] = 578160000ミリシーベルト / 1 year

578160000 / 5 = 115632000

こんな信じられない量の放射能を、一気に照射されたのにも関わらず、まだ治療が続けられていること。

これを奇跡と呼ばず、何と呼びましょうか(*3)(*4)。

-----

青い火を見た -----

業務を担当していた作業員が語っていたという、このコメントを聞いたとき、私は、思わず目をつむって、天を仰ぎました。

臨界のウランが発する青い炎。

それは、人間が決して見ることの出来ない、そして、決して見てはならない「神の火」

この「神の火」を見てしまった人のこと、その苦しみと悲しみ、そして間違いなく近づいている運命の日のことを思い、張り裂けそうな胸の痛みで、しばらく何も喋れませんでした。

そして、私は、灯のついていない自分の部屋に入り、パソコンデスクの前に座りました。

真っ黒のディスプレイの画面を睨みつけながら、『決して、忘れてなるものか』『決して、忘れさせてなるものか』と呪詛の言葉を吐きながら、私はパソコンのスイッチを入れました。

(*3)事故発生後83日目、JC0社員の大内久さん(35)が、放射線被ばくによる多臓器不全で死亡

(*4)事故発生後211日目、JC0社員の篠原理人さん(40)が、同じく、放射線被ばくによる多臓器不全で死亡

2000年6月10日現在

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

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江端さんのひとりごと 「壁」

2000/01/09

「『脱出』は発明の母」

"Eacape is a mother of invention"と書かれていた展示の説明文を読んで、私は唸ってしまいました(*1)(*2)。

ベルリンの壁崩壊前の東ベルリン側にあった、東と西の唯一の交流点「チェックポイント」に造られた壁博物館(Wall museum)に書かれていた一文です。

(*1)言うまでもなく、これは「必要は発明の母」"Need is mother of inovetion"の一句を使った皮肉。

(*2)「ベルリンの壁」を知らない人は、ここで読むのを止めましょう。

壁博物館には、西ベルリンへ脱出を試みた東ベルリン市民達の生々しい記録が山のように残されていました。

成功例では、

■西側市民の協力を得て、壁に面したアパートの窓から飛び降りる者、

■長い月日をかけて掘られたトンネルを貫通させた者、

■演奏用のスピーカの箱に自分の体を折りたたんで入れたマジシャンの女性

等などがあり、そして

失敗例としては、

■壁を乗り越えようとして射殺された市民、

■チェックポイントの強行突破を試みて蜂の巣になった自動車、

■打ち落とされた気球

などがありました。

しかし、私が一番胸を打たれた展示物は、脱出者を監視していた警備兵士が、いきなり西側に向かって走り始め、鉄条柵を超えて亡命(?)してしまう一枚の写真でした。

国家とか、体制とか、責任とか、任務とか、(おそらくは家族とか親戚とかも含むのだろう)そういうものを全部放り出して、己の為のみに逃げ出す兵士。

その写真は、たった一枚で、私の理想とする生き方を雄弁に、そして完全に語っていました。

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確かこの前、地平線まで続く広大な大地を見ながら、ゆらゆらと怒りに燃えていたはずなのに(*3)、どうしてこんなところであんな物を見ているんだろうと思わずにはいられませんでした。

ライトアップされてに照らされて不気味に立っているブランデンブルグ門をくぐり、旧東ドイツ側にはいると、さらに交通量は減り、街全体が一層暗く感じられるようになりました。

深夜で交通量もすっかり少なくなった道路を暴走する一台のタクシー。

その運転手は、一言も口をきかず、厳しい表情のまま激しい勢いでハンドルを捌いています。

タクシーの中で右左に引き倒されながら、私は後ろの席で怯えていました。

出張直前まで、打ち合わせ資料の作成で走り回りっていたのに加え、飛行機の中ではプレゼンテーション資料の暗記をしなければ、と思っていたのですが、

つもり積もって極限まで来た疲労達が『もう、どうでもいいじゃん』と妖しい声でささやきかけるのに任せ、飛行機の中では水割りとビールのちゃんぽんで、半分以上白目を剥きながら、ぐったりしてフランクフルトまでやってきました。

しかし、ベルリンに着いたのと同時に、別の声が『やばいよ、お前。どうするの、明日のプレゼンテーション』と別のことを言い始め、心底気分が滅入ってきたところに、

どえらい乱暴な運転で、東ベルリン側に向かってぶっ飛ばすものだから、もう、すっかり気分は『東側のスパイに拉致されて鉄のカーテンの向こうへ送り込まれるネットワーク技術者』。

ああ・・これから私は、西側要人の電話の盗聴や、銀行やストックマーケットのオンラインにハッキングして、西側の経済システムを破壊するクラッカーとして、暗躍させられるんだ・・。

家族の顔が走馬灯のように脳裏をよぎります。

ああ、家族にもう一度だけ会いたい!!

そうだ、日立!・・いや、日立は私を絶対に救出してはくれまい。むしろ、海外渡航の予算がなくなって喜んでいるかもしれない。そういう会社だ。

同僚は3日で私を忘れるだろう。 なぜなら、逆の立場になったとしたら、私はそいつを3日で忘れる自信があるから。

上司なら半日もかからない内に、忘れてしまったことも忘れてしまえるだろう・・・。

などと、馬鹿なことを考えているうちに、タクシーはホテルに着きました。アホな妄想が、やっぱり妄想であった、という理由だけで嬉しくなった私は、タクシーの運転手に大目のチップを渡しました。

彼は、最後になって、ようやくチラリと笑顔を見せてくれましたが。

ホテルのチェックインをした後、すでに現地入りしていた上司に、到着の連絡を入れて、その日は終わりました。

(*3)江端さんのひとりごと「怒りの大地」

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日立製作所は、現在、ドイツの通信技術研究所GMD(German National Research Center for Information Technology)と、いくつかのテーマで共同研究を行っており、私は知らない内にその一つのプロジェクトに参加させられていました。

『江端君。君は知らないだろうけど、君はプロジェクトの一員なんだ。』

私はあまり世間一般の事項をよく知らない方だと思うので、是非とも皆さんに教えて頂きたいのですが、一般的にこういう日本語の使い方はされるものなのでしょうか。

ポイントは2点。

(1)上記文章は、文意を成しているか。

(2)(1)が満たされると仮定した場合、有効性に問題はないか。

ここ2年くらい、私の仕事は例外なくこういう形で命令されています。

私は全ての仕事が本人の納得ずくで行われるべきだ、などというつもりは全くなく、ただこの文脈の一般性と有効性を知りたいのです。

何故なら、この言葉の使い方が許されるものであるなら、2,3使ってみたいことがあるのです。

『課長、課長は知らないかもしれませんが、私は明日年休を取ることになっています。』

『部長、部長は知らないかもしれませんが、私は今期、特許を提出しないことになっています。』

うーん、便利だ。

ま、それはさておき。

今回私は、GMD-日立の共同プロジェクトの項目の中に、現在自分が行っている仕事である「標準化活動」という項目を、付け加えてもらいました。

ほとんど火事場泥棒のように、ドサクサにまぎれて、と言う感が否めませんが。まあ、その甲斐もありまして、私はまんまとGMDの有能なスタッフの協力を得て、標準化の提案書の作成にこじつけました(*4)。

(*4)http://www.kobore.net/draft-ebata-inter-domain-qos-acct-00.txt

この「標準化活動」とは、国から依頼研究の項目の一つで、私としては、この提案書の提出をもって、一応「任務完了」の形となったのですが、一応念のためにこの標準案をインターネットの標準化団体IETFのミーティングで発表を行ない、誰にも文句を言わせないように駄目押しをしておきたいと思っておりました。

私の目論見はただ一つ。

『共同研究者のGMDのH博士を丸め込んで、今回の標準書の内容をIETFで表して貰おう。』と言う、真に姑息なことを考えて乗り込んで来たのです。

私に英語のプレゼンテーションができないことは、誰よりも私がよく知っていました。ホテルや飛行機のチェックインすらまともにできない男が、ノンネイティブに対して配慮のかけらもしない、あの「IETFミーティング」で、ろくな応答ができるわけがないからです。

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翌朝、昨夜と打って変わって、秋の終わりを感じさせる深色の紅葉が美しいベルリンの中心街を眺めながら、上司と私はタクシーでGMDに向かいました。

指定された会議室に赴くと、すでにプロジェクトリーダのG氏が準備を始めており、そのうち、次々とGMD側のプロジェクトメンバーが入ってきました。

この段階で、私はまだ、今回の標準書の作成に関して、並々ならぬ多大な労力を提供して下さった、H博士との面識がありません。

今回の標準書作成作業に関しては、言うまでもなく、日立側の国家プロジェクト担当者である後輩のT君、同期のM氏(私を含めたこの3人を称して、『通産三兄弟』と言う、不名誉な名称がついているそうですが)、そして上司のK氏の協力がありました。

加えて最後にプロジェクトリーダのGMDのG氏が根本的なレビューをして下さったおかげで、私は標準書をIETFに提出することができたのですが、なにより、H博士は、毎日の電子メールで議論に根気良く付き合っていただき、私は、なんとか標準書の骨格を作り上げることができたのです。

私は滅多なことでは、心から誰かを感謝することはしないのですが、このH博士にお会いした時には、小走りで博士に近づき、最大級の感謝の言葉を発しながら、両手で握手をさせて頂きました。

H博士は、中国系アメリカ人(だと思うけど、ついに確認するのを忘れてしまった)で、ちょっと見ると学生にしか見えないような小柄な方でした。年齢も、私と同じか、多分もう少し若いようにお見受けしました。

昼休みの休憩時間には、GMDのすぐ傍を流れる川沿いを歩きながら、標準書の内容やドイツでの生活のことについて話をしていました。

ひらひらと落ち葉の舞い落ちる紅葉の川沿いの小道を、ゆっくりと歩きながら研究に関する意見交換をしていることに気がついたとき、私は、自分のそのあまりものカッコよさに、陶酔しまくっていました。

-----

ミーティングは、日立側、上司と私の2人と、GMD側は開発担当者を含む8人、総勢10人で、2日間ぶっ続けで朝から晩まで続きました。

私はそのミーティングの内容の2割をかろうじて理解できただけです。

しかし、8割方理解できたような「ふり」をする能力にかけては、超一流であることを自負しております。

国際化が叫ばれる昨今、近い未来あなたも英語のミーティングに参加しなくてはならない羽目になるかもしれません。

そこで、数々の修羅場をくぐりぬけてきた私から、『英語のミーティングに参加しているような「ふり」をする方法』に付いて伝授したいと思います。

先ず、誰かが会話の中で笑い出したら、間髪を入れず笑い出すこと(内容は問題ではありません)。

次に、誰かが会話の中で詰まったら、間髪を入れず眉をひそめること(繰り返しますが、内容は問題ではありません)。

さらに、時々相手の喋った会話の端々で拾った単語を掴んで、上がり調子のイントネーションで質問してみること。それに対して行われた説明に対して、大きく頷いてみせること(何度も繰り返しますが、内容は問題ではありません)。

加えて、これが一番大切なことですが、『決して、単身でミーティングには臨まず、自分より英会話に優れた日本人を同伴すること』です(今回の場合は「上司」になりますが)。

日本人であるあなたは、かなり高い確率で日本人の喋る英語を理解できるはずです。

この内容から、会議の流れを『推測』します。会議のキーパーソンになってはなりません。会議でイニシアティブを取るなどもってのほかです。

出来るだけ目立たず、会話の単語の端々を拾い集め、日本にかえって報告書に構成しなおし、後は全てを忘れる。

この基本的な態度を貫けば、とりあえず任務が完了したような「ふり」をすることができるはずです。

-----

それにしても、GMDとの打ち合わせは朝から晩までミーティングで、加えて夕食にまで招待されたので、12時間近く、『英語』と言う水が浸された洗濯機の中でぐるぐると回されていたような気がします。

正直、苦しかったです。

それは、英語を理解するのが苦しかった、と言うよりは、むしろ、自分の思っていることが正確に出力されないと言う「表現の便秘状態」が、苦しかったように思います。

また、話が横道にそれて恐縮ですが、私は生まれてこの方、日本語の会話で話題がなくなってて困ったことなどはありません。私のこの頭の中には、役に立つかどうかはさておき、色々な分野の雑多な知識がてんこ盛りに詰まっております。

『デートをしている時に会話が続かなくて、黙々とディナーを食べ続ける」などと言う、無粋なことは経験したことがありません。

ま、そのためかどうかは知りませんが、今一つロマンチックな展開に恵まれにくかったのも事実なんですが。

結婚するまで、嫁さんは私のことを『女性に関心を持たない、政治と文学をを探求する、理系の研究の徒』と信じていたそうです。

今は、『嘘つき』と呼ばれています。

-----

今回の仕事が終わったのは、2日目の夕方。GMDに出向している同期のSと、上司と3人で飲みに行くことになりました。

ですが、私は気が進みませんでした。日立入社以来、「上司と酒を飲む」その不味さを思い知っている私は、一人でベルリンの街角のバーでビールでも飲んでいる方がましだ、と思っていました。

予想通り、「もっと考えて行動しろ」だの「チャンスを自分でつぶすことになる」だの説教をくらい不愉快でした。

私は、一応、私の構築した理論である『停滞主義思想』を、次のような判りやすい言葉で言い添えました。

『世界は、私を愉快にさせるものと、私を不快にさせるものの2種類のみで構成されている』

『上記の世界観に基づき、私の行動は私が決定して実施し、自分に関する範囲のみで責任を持つ』

『その結果について私以外の誰がどうなろうと、知ったことではないし、巻き込まれるのが嫌なら、私から離れて見ているだけにすればよい』

予想通りですが、全く理解してもらえなかったようです。

「じゃあ、仕事やめるか」てなことも言っていたようですが、この発言からして全く私の言っていることを理解できていない証拠です。

いつでも思うのですが、どいつもこいつも、何故私を『改良』しようとするのだろうか。

鬱陶しい。

社会的な常識や、組織的な規範を基準とした倫理観から、私を恫喝するくらいなら、その手間隙かける時間で、とっとと私を切り捨てればいい、と思うのです。

私は、私のこの『停滞主義思想』を理解できないことを批判するつもりはないのです。多分、この思想は生まれてくるのが早すぎたと思うので、大抵の人が理解できないのは当然だと思っています。

理解してもらえないから、私が切り捨てられても、私は『ま、仕方が無いよな』と潔く切られる覚悟は、いつでも出来ているんです。

それを「考えて行動する」だの「チャンス」だの矮小な言葉で、私を変えられると思われているのかと思うと、見くびるにも程がある、と腹が立ってくるのです。

少なくとも私の思想に謙虚に耳を傾け、その内容を尊重し理解する姿勢がある人間以外と議論しても仕方がない事だと思います。

所詮、既存の価値観の枠組みでしか思想を捉えられないなら、「壁」を超えて私の領域に入ってくるのは100万年早いと思うし、そして、私も「壁」を超えてそちらに行くつもりはありません。

永久に壊されることの無い「壁」の中で安住できれば、私はそれで良いのです。

-----

東西ベルリンの悲劇は、主義の対立ではなく、所詮は国家と言う体制の対立でしかありませんでした。国家は、その存在意義として民衆の必要とし、その民衆を維持するために、ベルリンの壁を作ったのです。

つくづく、阿呆か、と思います。

そんなに、国家の属性としての民衆が必要なら、犬や猫や家畜や、草木に名前でもつけて、『これが国民だ!』と言い張れば良かったのだ。

どうせ主義で対立しているなら、国民の定義すら変えてしまえば良かったのに、と壁博物館の中で、一人腹を立てながら考えている私がいました。

-----

これまで、我々は自分達を守るために、あるいは自分で自分の行き方を決めるために『如何に壁から逃げるか』と言う視点からものを考えてきましたが、その考え方では所詮"Escape"と言う概念を超えることは出来ません。

今こそ、パラダイムをシフトする時です。

キーワードは、"Make Wall"

国家や組織や会社などの下らない壁の中に閉じ込められないように、自分のためだけの「壁」を造りのです。その「壁」は、出ていく者を阻止するのではなく、又、侵略してくる者を排除するためだけのものでもありません。

「分かり合えない」と言うことを、分かり合うことだけでいいのです。

どだいこれだけ多様化する価値観を、一元的な理念や思想や方式で統一しようとすることに無理があります。

できっこないのです。

それを何としてもやってやろうとむきになるから、阿呆なカルト宗教団体は、地下鉄でシアン化系の猛毒ガスをばら撒かねばならなくなります。

洗剤や健康食品のネズミ講もどきに熱中する無知な人間達は、高校で習った等比級数を覚えていれば、絶対にありえるはずがない利益に向かって、人生の貴重な時間と労力を食いつぶします。

イスラムの高い宗教理念と、そのボランティア精神から作り出される、世界でも例の無い理想的なコミュニティが存在する一方で、

「イスラム原理主義」と言う愚劣な団体が、世界をイスラムで統一する為に、世界各地で想像も出来ない陰惨なテロを繰り返している現実があります。

私にはどうしても「分からない」のです。

彼らの行動を、理解し近づこうとすればするほど、腹が立ち、彼らは益々私から遠ざかっていきます。

彼らのコミュニティに入って、実践的に行えば、あるいは私は彼らに少しは近づくことが出来るかもしれませんが、私はそんなことに費やす気力と時間はありませんし、なにより私は、やりたいことが山ほどあるのです。

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しかし、まあ、たくさん書いてきましたけど、私の言いたいことは、要するにこんだけです。

私は常日頃から、人に意見をされる運命にあるようですが、そういう運命にある人間の立場として一言言わせて貰えるのであれば、

『自分の価値観を、江端に押し付けるべきではない』

と言う、私の価値観だけは、

あなたに是非とも押し付けたいのです。

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(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。本文章を商用目的に利用してはなりません。)

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江端さんのひとりごと
「一本の骨」

1999/06/28

今回の一件、色々ありました。

そして、私としてはこの情けなく不名誉極まりないどうしようもない事件を、毎回誰かに話したり聞かせたりするは、真に煩わしいと思っております。

正直言いまして、このエッセイを執筆する作業自体が極めて憂鬱です。

私は今、国立Y病院の4人部屋病室のベッドの上で、このエッセイを執筆しております。

事件発生後、何も口にしていません。食事はもちろん、一滴の水さえも取っておりません。

点滴用の長さ5cm程度の針が、左腕に刺さったままで、その上から包帯がぐるぐる巻きにされていますし、つい4時間前までには、直径5ミリの塩化ビニール管が、左の鼻穴から胃のど真ん中まで、70時間近く差し込まれ続けていました。

ご理解頂けると思いますが、現在の私は心身ともに衰弱の限りを尽くしております。

そして、健康な心と体を取り戻した後でも、今回の事件による私の肉体的精神的苦痛は癒されることはないでしょう。

そして、恐らく、この事件は多くの人々に大いなる軽蔑と嘲笑をもって、皆さんの記憶に残っていくことでありましょう。

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今回、私がこのような悲惨な状況にもかかわらず、文字通り病床でエッセイの執筆に踏み切ったのは、以下の理由に因ります。

第一に今回の事件が、私の意図せぬ形で流布されない為。

第二に、この事件に関して何度も何度も第三者に説明するのが不快かつ面倒である為。

そして第三に、自分が忘れていた大切なものを思い出し、そして決して忘れてはならないことを自らに戒める為に他なりません。

このため、私はこの江端人生史上、最高級の不名誉な事件を、あえてWebサイト、電子メール等を用いて公開することに決定しました。

従いまして、今回の事件に関しましては、本エッセイを持ちまして最終報告とし、本件に関する問い合わせ、およびそのお返事に関しましては、一切ご遠慮いただきたく希望しております。

悪しからずご了承くださいませ。

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私の嫁さんは、毎日帰りの遅い私のために、昼食用と夕食用の弁当を2食分作って、私に渡してくれます。

最近の私は、仕事と通勤時間の都合で、どんなに早くても午後10時を過ぎないと帰れない有様で、どうしても夕食が遅くなってしまいます。

そのため、最近の私は、慢性的な脂肪肝と診断され、毎月の血液検査の為に会社の保健センターに呼び出されていました。

これを何とかしようと、嫁さんは、ずいぶん面倒だったと思うのですが、毎日夕食分の弁当まで作ってくれることになり、その後、私の脂肪肝は再検査の必要が不要な段階まで改善されていきました。

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その事件が発生したのは、1999年6月18日、午後12時30分から、数分を経過したころでした。

その日に限って、私はずいぶん腹をすかせており、そして、私の好物の鮮やかな紅色の鮭の塩焼きの切り身が、几帳面に弁当に配置されて、私の目の前に飛び込んでいました。

私は勢いよく、その切り身を口に放り込んで、----- その時、ちょっと無理があるかなと、ちらっと思ったのですが ----- ひとくちで飲み込みました。

口の中で、切り身の対角線長の長さに相当する何かが、喉の中を1回転して、ちょうど喉の根元を通過しようとしていた、まさにその時、その対角線長の何かが、ちょうど重力加速度の方向と直行した向き、すなわち水平の状態になったのです。

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『嘘だぁ、そんなに詳細に覚えていられるものか。江端、おまえ、また脚色しているだろう』と思われる方がいるのは、百も承知で敢えていわせて頂きますが、世の中には不思議な現象があるもので、交通事故が起こった瞬間、自分がスローモーションで空(くう)を舞い、地面に落ちていくのを感じたと言う体験をした人が多くいると聞きます。

まさに、それです。

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私はその鮭の切り身が、どのような形で私の体の中に突き刺さっていったのかを、その経緯が手に取るように理解できたのです。

そしてその瞬間、喉を金串で突き刺されるような痛みを感じると共に、その事件のあった該当位置が、到底自分の手に届かぬほど臓器の奥で発生したことを、即座に直感したのです。

すぐさま、私は古典的な方法、たとえば「ご飯を丸のみにする」だのを数回試みましたが、すぐに諦めました。

その痛みの大きさ、そしてその痛みの発生する個所から、この事故が民間療法で及ぶものでないことが、直感的に分かったからです。

私は、机の上に弁当箱を広げたまま、即座に横浜工場の保健センタに走りました。

勿論、保健センタで喉に引っかかった異物の除去ができるとは考えていませんでしたが、横浜工場のある戸塚駅付近にある、耳鼻咽喉科の診療所を紹介してもらえるだろうと思ったからです。

私がこのように慌てていたのには、その日が金曜日であり、そして明日になれば、大抵の診療所や病院が、週末休みとなること、そして、この機を逃すと、週末を地獄のような痛みの中ですごさねばならないことが分かっていたからです。

自分に手の負えないことは、とっとと他人の手に渡す。

悪いことは、大抵、時間の経過と共にさらに悪くなる。

小さいころから病気がちで、一時期は医師の誤診で死にかけたことのある私は、この事故が簡単なものではないことも、直感的に理解していたようです(この事件に関しては、いずれまた)。

いずれにしろ、私のこの能力は、一種の自己生命保全の超能力と言ってよいものかも知れません。

そして、事実その通りだったのです。

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そして、私は、横浜工場の保健センタで紹介してもらった耳鼻咽喉科に電話した後、課長に受診外出の許可を得て、その診療所に走りました。

その間にも、喉の奥の痛みは、鈍痛から鮮明でクリアな鋭痛に変わって行き、唾を飲み込むと、痛みのあまりうめき声が出そうになるほどになってきました。

首を左に90度くらい曲げると痛みが和らぐので、首を曲げたままにして呼吸をしていました。

私は、受診開始時刻の40分も前に診療所に入って、痛みを堪えながら待っていましたが、その痛みがあまりに尋常じゃなかったので、私は受付で時間外診察をお願いしたのですが、先生が来ていないと言うことで断られました。

それにしても、受付には所狭しと、4人ものかなり歳の行ったばあさん達がいて、不審な感じがしました。

診療時間になって、3人目で診療室に入った私は、その薄暗い向こうに、少なくとも70歳は過ぎたような白衣を着た爺さんを見つけ、その瞬間、嫌な予感に襲われました。

私は、この爺さんがすぐさま喉の患部に刺さった異物を除去してくれるものと期待していましたが、爺さんは、喉の中を色々弄り、何度も鼻の中から内視鏡スコープを入れて覗いた挙句、一言いいました。

「無いね」

私は返事ができませんでした。

そして、(無いわけがないだろう、この爺!)と言う言葉を飲み込んで、私はかろうじて黙っていました。

爺 :「痛いの?」

江端:「痛いです」

痛く無ければ、ここに来るか!

爺 :「でも、無いよ」

こう言う場合、患者はなんと答えれば言いのでしょう。

『そうですか、ないのですか。それでは私の気のせいですね』とでも言えばよかったのでしょうか。

今だから言えますが、そんなことをしていれば、私は本当に死んでいたかも知れないのです。

私は黙っていました。

爺も黙っていました。

そして、そのそばで爺のアシスタントをしているばあさん達も黙っていました。

そして、20分間、全員が黙り続けていました。

嘘ではありません。

本当に20分間です。

こう言う場合、別の設備の整った病院を紹介することが、医師の務めであることは分かっていたのですが、私は怒りと痛みで理性など、とっくの昔に吹っ飛んでいたので、その爺に代わって、そのような提案を一言足りとも言う気はありませんでした。

診療所の待合室には、その時すでに20名近い患者が待っていましたが、爺は、何かを考え込んでいる風に、ひたすら黙っていました。

この爺は、「医者」として失格と言うことは言うまでもありませんが、私が見立てるに、すでに老人性痴呆と見うけました。

その時、私は『老害と言うのは、まさにこういう事を言うのか』と思ったものです。

私はお年寄りをこのように罵るのは本意ではありませんし、少なくとも年長者には、敬意を持って接するべきであると信じております。

しかしながら、医療行為を行う者が、老齢を自覚せず、現場に居続けるのは、迷惑を通り越して、極めて危険な行為です。

『歳とって職務を果たせなくなったら、とっとと隠居(引退)してくれ』

私の偽らざる気持ちです。

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その後、ようやく国立病院の紹介状を書いてくれることになり、まあそれはそれでよかったのですが、この手続きを行うばあさん達の手際の悪いこと悪いこと。

『タクシー飛ばしして行くから』と私が何度行っても、交差点の名前とか地図を書いて説明しようとするし、病院からの緊急往診の可否を知らせる電話がこなくても、まったく催促しないし、おまけに最後には受診料として、1万円以上も請求されずいぶん頭に来ました(ただし保健証を持ってきていなかったので、後日清算と言う事になるのですが)。

紹介状書くだけで、1万円とはおいしい商売だな、と毒つきたいのを我慢して、飛び出すように診療所を飛び出てくれば、後ろから領収書をもって駆けつけてくるばあさん。

『この領収書が無いと、健康保険書を持って来て貰った時、清算できないから。』

私はがっくりして、ばあさんから領収書を受け取りました。

そして、診療所を背にしながら、私はつぶやきました。

老害の巣窟か!ここは!!

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タクシーを飛ばし、国立Y病院に着いたのが、午後4時30分。

時間外受付窓口を経て、2階の耳鼻咽喉科に行くと、看護婦さんが「先生、ちょっとどっかに行ってしまったので、座って待っていて貰えますか」と言われ、やむなく待合室のベンチに座って待っていましたが、一向に医師が現れる気配もありません。

時間外の病院は、がらんとして人気が無く、まるで終電時のローカル駅のような寂しさでした。

私の痛みをよそに、廊下の向こう側では、若い夫婦とその両親と思われる人物が、元気に話をしており、その会話が静かな午後の病院の廊下に、わずかなエコーを響かせて聞こえてきました。

誰もいない建物に一人残されたような不安と孤独感。

そしているうちに、若い医師 -----それが、私の主治医となる先生なのですが----- が、耳鼻咽喉科の部屋に入ってきて、それからしばらくして、私は名前を呼ばれて、診察室に入っていきました。

私と同じ位の年齢で、エネルギッシュであると同時に冷酷な厳しさを持っている感じの声がするクールでハンサムな若い先生でした。

(・・・・私と似ている)

私は不安に襲われました。

クールでハンサムという点もそうなのですが、この先生は、ようやく最近仕事の仕組みが分かってきたところで、それなりの実力もありそうな一方、人生の重みが無く、クライアントの気持ちを解する様な「人生の深み」が今一つ足りなそうな感じがしたからです。

もっと簡単に言えば、『やさしい』と言う雰囲気を全く感じさせない人物だったのです。

口や喉の中の異物を除去してもらうためには、当然口の中を探索しなければなりません。そのために、喉の奥に小さな鏡の着いたスティック状の棒を差し込まれて、喉の奥をまさぐられることになります。

喉の奥に金属を置かれたら、大抵の人は『うえっ』と、吐きそうになるでしょう。

私が『うえっ』となる度に、先生は嫌な顔をして金属棒を引き上げていたのですが、3度目に至ると「あんたねえ!」と激しい勢いで怒られました。

普段の私なら、そんな理不尽な態度を取られれば、その段階で、即、戦闘開始です。

ですが、今回私は闘う訳には行きませんでした。

なぜなら、圧倒的にこちらのほうの立場が弱かったからです。

私は一刻も早く、この激痛の原因となっている異物を除去して欲しかったのです。

その後、鼻の穴と口の中に麻酔薬を入れられ、私は鼻水とよだれをたらした状態で、内心では(もう、どうでもいい・・・)と思いながら、喉の奥を金属片でまさぐられたのですが、問題の異物は発見されませんでした。

私は心底あせってきました。

異物が喉の中に無いってことは、別のところにあるのだろうか、と思っていたところに、この医師は、私の心をぐさっと突き刺すことを、平気で一言で言ってのけました。

「食道に入っていたら、もう取れないね。手術をするしかないよ。」

手術? 胸をメスで切って開ける?

呆然としている私をよそに、「じゃあ、鼻からカメラ入れて、食道の中を見るから。」と言うと同時に、私の鼻の中には長さ30cmはあろうかと言う、先頭に小さいレンズのついた直径5mmの管が入り、それが私の目の前、いや、もとい、鼻の前でスルスルと差し込まれて、残りの管がどんどん無くなっていきまし
た。

信じられない光景でした。

私は自分の頭部の中に、宇宙空間に繋がるブラックホールがあるとは思ってもいませんでした。

管が、鼻の穴から喉をつき抜けているのを、喉の奥で感じます。

このような未知の、そして不快極まりない気色悪い感触は、今まで一度も体験したことがありません。

医師は、カメラをのぞき込みながら「無いなあ・・」とつぶやいていました。

私は(早く見つけてくれ!)と言う思いで必死でした。

「あ、あった!」

医師のその声を聞いたとき、私の顔面は歓喜に輝きました。

すべての物事には原因があり、原因があれば対策が立つのです。

もう一人の、この医師の上司と見られる医師も、そのカメラを操作して、問題の患部を発見したようです。

二人の会話の内容から、その状態はざっと以下のようだと判りました。

位置:食道管から2~3cmの地点

異物:長さ3cm程度の骨

状態:食道管のど真ん中、両端に水平状に、相当堅固に突き刺さっている。 そして結論としては、「手術による除去しかない」と言うことでした。

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医師:「手術しないと、あれは取ることができない。」

江端:「はあ、手術ですか。」

医師:「手術自体は、非常に簡単で10分もあれば終わってしまうから、心配しなくていいよ。」

江端:「はあ、そうですか。」

医師:「じゃあ、今日ね。これから」

江端:「今日ですか」

医師:「じゃあ、これ」

江端:「・・・?」

私は、訳のわからないまま心電図とレントゲンの書類を持たされ、検査の場所に行かされました。

その後、その結果を持って帰ってきたら、また、その後すぐに血液検査に行かされ、耳たぶをナイフで切り、何秒で血が止まるかと言う、えらい乱暴と思われる検査を受けていました。

検査の時点でも、痛みは引いていくどころか、ますます酷くなり、情けないやら辛いやら・・・、それでも、まあ、それでも10分の手術で済むと言うことは、今週末自宅で静養していれば良いと言うことだと、私は内心ほっとしていました。

大事に至らなくて済んだ、と。

この間に自宅の嫁さんと、会社の上司に電話をして、これから緊急手術を行うことを報告したら、嫁さんも上司も一様に驚いていましたが、すぐに帰れると安心させました。

しかし、この段階で、私はまだ事態を正確に把握していなかったのです。

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一通り検査が終わって、耳鼻咽喉科に戻ってきた私は看護婦さんに聞きました。

「すみませんが、今日やる緊急手術の内容を教えてもらえませんか。妻に連絡しなければなりませんし・・・」と尋ねていたら、診療室のドアの向こうから、「江端さん、入って」と言う先生の声が聞こえてきました。

「これからやる手術はね、金属の管を口から食道まで挿入して、食道口まで直通の管を通して、引っかかった骨を取り除きます。」

口から食道まで、金属管を突っ込む?

その瞬間、私は聞き違えたのではないかと、自分の耳を疑いました。

「全身麻酔をするから、あなたはそのことを覚えていないことになるけど。」

私が人生で経験したことの手術は、盲腸の手術で、その時使った麻酔は脊髄から注射する局部麻酔でした。

私の持っている「全身麻酔」に関する知識と言えば、意識が回復せずにそのまま植物人間になったり、死亡したりと言う、極めてネガティブなものです。

しかし、本当に私にショックを与えたのは、医師の次の一言でした。

「それでね、手術自体はそれほど大したことはないのだけど、恐ろしいのが感染症でね。手術で金属管を食道口に挿入するから、食道に相当の傷をつけることになる。そこから菌が感染すると、その近辺にある肺、心臓を直撃して命にかかわる場合がある。従って、手術後、3日間は飲食できないし、最低一週間から10日は、入院してもらうことになる。」

入院? 魚の骨で入院? 一週間も? そんなの聞いたこと無いよ。

私は、職場の机の上に地層のように積まれた仕事の束を思い出して、一瞬意識を失いそうになりました。

あの膨大な量の仕事を、一体誰が代わりにやってくれると言うのか?

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それから、私は急かされながら、入院手続きを行うように指示され、時間外受付窓口で、書類の処理を行っていましたが、何しろ、新しい社宅に引っ越したばかりで、私は自宅の住所も電話番号も暗記できていない有様でした。

なにしろ、私は診療所に行って、すぐ帰ってくるつもりだったので、この時点での私の服装はGパンにポロシャツ、所持品は財布ひとつだけでした。

その後、その先生に引っ張られるように入院病棟に連れて行かれ、4人部屋の病室で、手術用の服であるピンク色の術着に着替えさせられました。

そして、パンツの代わりに、ふんどしのような『T字帯』なるものを着けさせられました。

T字帯の上から術着を着け、当然スリッパもありませんから、黒のビジネスシューズを裸足の上から履いた姿は、自分で見てもかなり滑稽で、悲しい光景で
した。

その合間の時間をぬって、携帯電話からかろうじて嫁さんに「今から手術」と言うことを連絡して、入院の準備を頼みました。

私は、自分で移動ベッドに載り、そのまま医師と三人の看護婦さんに引っ張られて、慌しく手術室に運ばれていきました。

移動ベッドの金属がきしむ音と共に、目の前にある病院天井がどんどん後ろに遠ざかって行きました。

エレベータ、廊下、そしていくつもの扉が視界に現れては消え、私は自分がどこに連れて行かされるのかすら分からないままでした。

そして、いきなり目の前に、あの病院ドラマでおなじみの無数の照明灯からなる真っ白な手術室が現れ、そして、手術室の中では、なぜかFM横浜の放送が流れていました。

そして、自力で移動ベッドから手術台に登って横たわった私の元に、年の頃にして40歳くらいの優しそうなおばさんが立っていました。

「こんにちは、私が麻酔担当の××(名前忘れた)です。」

と話しかけられている最中にも、看護婦が、心電図用の電極を体中に貼り付け、血圧測定用のバンドを腕に巻きつけていました。

「不安でしょうけど、心配ありませんからね。」

その時の私は、慌しすぎて、不安になることすらできませんでした。

(あ、そうか、そうだよなぁ。手術前だもんな。普通、不安になるよなぁ・・)などと、まるで他人事のように考えていたのです。

口にマスクが当てられ、変な臭いだなと思った瞬間には、意識が朦朧としてきました。

そして、「江端さん、聞こえますか・・・」と誰かに言われたような気がしたことを最後に、その後のことは全く覚えておりません。

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手術自体は、10分程で終わったそうです。

私は術後すぐ、朦朧としながらも意識を回復し、真っ先に医師に「刺さっていたものを見せてください」と頼みました。

今回の事件を引き起こした奴 ----- もっともそれは自分自身なのだけど---の姿を一目見ておきたかったのです。

医師は私に試験管を手渡してくれましたが、朦朧としている私の目には、その「もの」を見つけることができず、そのまま意識を失って移動ベッドに沈みこんでしまいました。

我ながら、「敵」に対する執念深さに感嘆してしまいます。

移動ベッドで運ばれながら、気分を聞かれましたが、「眠い」とだけ答えていたことを覚えています。

そして、術着とT字帯を着けたままで、手術後第一日目の夜を迎えることになります。

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その時の私は、左手に2本の点滴用の針が差し込まれ、左の直径5ミリの塩化ビニール管が、左の鼻穴から、喉の奥、食道を経由して胃のど真ん中まで差し込まれていました。

と書くのは簡単ですが、喉の奥に管を差込み続けると言う、この不自然な状態と不快感を表現するのは容易なことではありません。

どだい、喉と言うのは何かの異物を保持する所ではありません。

大抵数秒以内に何かを通過させるだけの器官です。

そんなところに、動き回る管をぶら下げている違和感は、やってみなければ決して解らないものでしょう。

やがて、麻酔が切れて、手術をした箇所の痛みが本格化してきました。

喉の奥に絡んだ痰を吐き出して見てみると、深紅の鮮明な痰が白いティッシュの上で美しいほどです。

管が鼻穴から入っているので、鼻汁をかむ事もできず、一度喉の中に吸い上げて、口から唾といっしょに吐き出すしかありませんが、その時、腫れ上がった患部を刺激するのか、喉が裂けるような痛みでうめき声が出てしまいます。

そして、息苦しくて眠れなくて、立ち上がったり、横になったり、首を傾けたりしましたが、その全ての状態において、喉の奥で管が動き回り、喉の粘膜を触れて行き、そして傷ついた患部に触れた時の激痛は、半端なものではありません。

あまりにも苦しくて、点滴を代えに来た看護婦さんに、「この管を抜き取って貰えないか」と頼んでみたのですが、この管から当面は食事を取るのだから、抜き取ることはできないと、素気無く拒否されてしまいました。

それでも、「食事の時に、また管を挿入すればよいではないか」と引き下がったのですが、やはり聞き入れてもらえませんでした。

まあ、よくよく考えれば、管を抜き取ったり挿入したりする時に患部を傷つけてしまっては、元も子もありませんから、管を抜くことができないのは極めて当然なのですが、その時の私は、『もし管を抜いてくれるのであれば、何でも言うことを聞くし、いくらでも支払う』というくらい辛かったのです。

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と、言うところで思い出したのですが、よく集中治療室などで、管だらけにされて治療されている患者の姿がよく描かれています。

ですが、一体この患者の苦しみをどれだけの人が理解しているでしょうか。医療関係者に関しても相当怪しいものです。

今、私は渡辺淳一氏のエッセイ集「風のように・忘れてばかり」の中に収められている「外科医の反省」と言う文章を読んでいるのですが、以下のようなフレーズがありました。

『他人の苦しみを、自分のことにおきかえて、その2割でも考えられるようなら、真の友人であり、5割も考えられたら聖人で、8割を越すようなら、もはや神か仏だと言う。それほど他人の辛さや苦しみを、自分のものとして感じることは難しい。その理屈で言えば、医師が患者の気持ちなど分からなくても当然、と言えなくもない。が医療の場では、これでは困る。

「こっちが苦しくて、体を起こすことも容易ではないのに、若い医師は平気で検査をしようとするんだ。」で、その理由を聞いてみると、医師の興味本位や無難だからと言う理由だからだったらしい。「冗談じゃない。患者はその検査一つでどれだけ苦しむか、そこをまず考えるべきだろう」』

この文章を読みながら、私が思ったことは、『医療行為が患者の病気からの回復を目的としていることは言うまでもないだろうけど、その回復の為には苦痛を受け入れよ、と言うのであれば、私はきっぱりとこう言うだろうな』ということ
です。

『やだ。』

簡単に言うな。

鼻に管を突っ込まれただけで、この苦しみだぞ。

全身に管突っ込まれてみろ、病気そのものより遥かにそっちのほうが苦しい。

少なくとも健常者が、患者に対して偉そうにモノ申すことが僭越というものだ。

こっち側に来て、同じ台詞が言えるか?

勿論、全ての看護婦と耳鼻咽喉の医師に、「鼻から管を突っ込んでみろ」と言う気は無いが、少なくともその状態を想像くらいはして欲しい。

いいや、やっぱりやって貰いたい。

ほんの5分でいい。

もっともその間、管を動かしたり、体を動かしたりして貰うが。

その後、「一週間そのまま管を差し込んだままでいてください。」と平気で言えるなら、私も態度を変えてもいいと思う。

閑話休題。

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術後の初めての夜、私は夜中に7回程、痛みで目を覚まし、一晩中うとうとしたままの状態でしたが、それでも良く眠れた方だと思います。

翌朝、喉の痛みもかなり引いていった・・・と言っても、まだ十分痛かったのですが。

しかし、喉が痛いと言っても、骨が刺さったところ(食道口)自体はそれほど痛くないのに、その周辺がやたらめったら痛いのはなぜだろうかと、私はいぶかしがりがりました。

やはり、口から金属管突っ込めば、大抵の生体組織なんぞ簡単にぶっ壊せるよなぁ・・・となんとなく納得。

事故そのものより、手術自体の影響で入院しているようなものだなあと思うと、仕方ないとは思いつつ、なんとなく情けない気分になってきます。

この気分にさらに情けない気持ちになってくるのが、食事です。

缶入りの栄養スープ、水状のおかゆ、具の無い味噌汁、ジュース、牛乳を塩化ビニールの袋に入れ、点滴のぶら下がっているスタンドに引っ掛けます。

そして次に、そのビニール袋から伸びている管を、私の鼻に繋がっている管とジョイントして、食事を、口も喉も食道も経由させず、直接胃に送ります。

時間が来ると、まず看護婦さんが栄養スープを袋の中に入れてくれます。

そのスープの注入速度の調整は点滴と同じで、管の太さを調節するつまみで変化させます。

あまり遅く入れると時間がかかるし、早く入れると腹の気持ちが悪くなるらしいので、自分で調節します。

スープが無くなったら、次にお椀を掴んで、おかゆを『自分』でビニール袋に入れます。

その次は、味噌汁です。

このおかゆと味噌汁を、ぽとぽとと点滴で落としながら胃に挿入していきます。

この間、私はぼーっと、点滴の速度を見守っているだけです。

味も素っ気もないとは、まさにこのこと。

看護婦さんによっては、おかゆも味噌汁もいっしょに袋の中に放り込んでしまうし。

ジュースと牛乳だけは、一緒に入れると固まるので、別々に入れるように指示されましたが、指示されなくたってそんなことしたくありません。

そりゃ、胃の中に入れば皆一緒だと分かっていても、「イメージ負け」します。

こんな食事の取り方をしているので、当然その時間は長くなり、その間にトイレに行きたくなったりします。

仕方が無いので、点滴のスタンドをガラガラと引っ張りながらトイレに出向いて、用を足します。

(今、飯を食いながら、用を足しているのかぁ・・・)と思うと、人間なんか、所詮一本の管にすぎない、と言うことを強く実感します。

こう言う日々は、体力より先に、心がだんだんやせ細っていく感じがします。

感染が怖いと言うことで、できれば唾も飲み込むなと指示され、唾がたまったらティッシュに吐き出すくらいですから、体は勿論、顔を洗うことすら満足にできません。

第一、点滴スタンドをガラガラ引っ張りながら、満足に歩くことすらできやしません。

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入院2日目。

病棟内の診察室に出向いた私は、担当医の先生から病状に関する説明を受けました。

受け取った試験管の中には、真っ白な長さ3cm、直径2mmの邪悪な光を発する一本の骨。

この骨が、食道口から2~3cmの所に両側で刺さっており、もし、無理に引き抜こうとした場合、食道壁を裂いてしまう可能性があったため、まず一方側に深く差し込んで肩端をまず外し、そして骨を縦に立てて、もう一方の端も外しそのまま引き抜いた、とのこと。

食道壁が感染すると、肺、心臓をそのまま直撃して、命にかかわるので、感染症の疑いが完全にはれるまでは、退院できない。

江端:「じゃあ、もしこの骨を刺したまま放置していたら、どうなりました。」

医師:「まず、放置できないね。痛くて痛くて堪らないから。」

江端:「はあ・・。」

医師:「まれに放置して、感染症を発生して、手遅れで死んでしまう人もいるね。一年に一件はある。」

古くは、徳川家康が、魚の骨で死んだと言う話があるそうです。

どうやら、この一件、放置すれば私は確実に死んでいた、と言うことらしいです。

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気分が滅入り方が最高潮に達した頃、嫁さんが見舞いに登場。

嫁さんの顔を見てほっとしたのか、私は気が緩んできてしまい、嫁さんが私の頭の髪を手で梳いた時、不覚にも落涙してしまいました。

私は「あれ?何で?」と驚いてしまいました。

自分でもあまり気がついていなかったようですが、結構痛みなどで苦しかったのかも知れません。

嫁さんの方はさらに驚いて、おどおどしてしまっていました。

私は、彼女にめぐり合えたことを、そして飾ることなく落涙できるパートナーでいてくれることを、今、心の底から本当に感謝せずにはいられません。

嫁さんは、今回の一件のどたばたで随分疲れた様子でしたが、今日も病院の手続きや、必要なものの買いだしなどに走り周り、不便がないように色々と整えてくれました。

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私が、自分でおかゆやらお味噌汁やらを、ビニールの袋に入れて胃の中に流し込んでいるのを、嫁さんは気の毒そうに見ているようでした。

嫁さん:「美味しい?」

江端 :「味なんか、分かるわけ無いよ。」

嫁さん:「どんな感じがするの?」

江端 :「かろうじて分かるのは、『熱い』とか『冷たい』とかかな。注入するスピードを上げると、急激に胃の中が熱くなったり寒くなったりするんだ。味気ないを通り越して、気分が滅入ってくる。」

嫁さん:「それで満腹になるの?」

江端 :「流動食を注入すると、一応空腹感は無くなるんだけどね、満腹感は無いね。何で空腹感が無くなったのか、頭で分かっていても体のほうでは混乱している感じがする。第一、ぜんぜん食事が楽しくない。」

嫁さん:「そりゃそうだろうね。」

と言いながら、二人して、点滴スタンドにかかった牛乳の入ったビニール袋を見上げました。

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ここの病院の看護婦さん、いい人もいるのですが、全体的に愛想が悪いようです。

加えて、流動食の管を間違えて差し込んだり、点滴の管に空気を入れてしまったりします。

特に嫁さんが面会に来ている時に限って、こう言う失態をすることが多く、夫婦でひやひやしています。

丁度、前日『報道特集』という番組で、医療現場の医療ミスに関する特集番組が組まれていました。

最近、医療現場で、医療ミスによる患者の死亡事故が続いています。

大抵の場合、病院側の適切な証拠隠滅(病院内での解剖+即時の火葬処理)で闇に葬られる場合が多いのです。

これは患者あるいは遺族が、圧倒的に医療機関より立場が弱いことに他なりません。

専門用語で畳み掛けられれば、素人が太刀打ちできるわけがありません。

私は嫁さんに、万一私が病院の中で、訳の判らん死に方をしたときには、絶対に病院で解剖(病理解剖)させることを許可せず、直ちに警察に連絡し、しかるべき機関で「司法解剖」をするように、念を押して言い含めておきました。

閑話休題

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入院3日目。

午後の診察で、喉や食道口の傷が収まったと判断され、70時間鼻から胃に差し込まれつづけていた管が抜かれることになりました。

診察していた医師が、その管をつかんでゆっくり引き抜き始めると、その管はどこまで引いてなかなか途切れず、まるで口からテープを引く抜く手品を見ているようでした。

管が抜かれていくときは、鼻と喉を管がすり抜けていくくすぐったい感じで、私は涙と鼻水が吹き垂れて来ました。

そして、その管が完全に体外に出たときの、快感 ---------。

体に巻き付かれていた鎖がはじけ飛んだような、いや、もっと格調高く説明するのであれば、ゴルゴダの丘で十字架に足と手のひらを鉄の杭で打ちつけられたジーザスクライストスーパースターが、冤罪判定通知を受け取ったローマ帝国の役人の手によって、十字架から外され、その下に準備されたタンカの下で手当てを受けながら、ようやく安堵の笑顔を見せたときのように-------

ううむ、やはり、この快感を説明するのは、難しい。

難しいから説明しないけど、とにかくもの凄く気持ちがよい。

診察室から出た私は、思わずスキップをしながら、病室に戻って、その足でタオルと石鹸を持って、洗面室に駆け込みました。

実に70時間ぶりの洗顔。

そして、その後わずかに残っていた喉の痛みも嘘のように引いていきました。

もしかして、喉の痛みの半分以上は、この管の責任だったのかもしれません。

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そして、その日の夕食。

それは、5分のおかゆと味噌汁、それと野菜の煮込み、それとちょっと怖かったのですが、魚の煮物がありました。

それらは、いわゆる病院食と言われるもので、勿論味など何も期待できない食事であることは判っていました。

でも、本当に美味かった。

味がどうこうと言うのではありません。

食事と言うのは、勿論舌で味わうことは言うまでもありませんが、同時にその触感を、喉で、食道で、さらに胃で楽しむことで、初めて完結すると言う事を痛感しました。

どこにも痛みが無く、顔が洗えて、そして口から食事ができる。

そして、今の私には遠い夢ですが、これに毎日風呂に入れたら、それ以上の何を人生に何を望むことがありましょう。

退院は、あと3日後の予定です。

感染症の不安を完全に払拭するまでは、絶対に退院させないという病院側の姿勢は、医療現場の立場からは当然そう言わざるを得ないだろうし、いきなり退院して仕事の前線に出れば、体力が消耗し、感染症が発生しやすくなる点からも妥当な処理だと思います。

課長には、「このド忙しい、本当にいい時期に休んだねぇ」と嫌味も言われていますが。

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4人部屋のこの部屋の中には、かなり年老いた方も、私と同じように鼻から食事を取っている方も、また、声が出せないだけでなく、からんだ痰を吐き出せなくて、夜中に悲鳴にも似た咳をしながら苦しんでいらっしゃる方もいらっしゃいます。

真夜中にその悲痛な咳き込み方を聞くだけで、今の私にはその方の苦しさ、辛さ、悲しさが手に取るように判るのです。

ですが、その苦しみをどんなに理解してやろうとしても、どんなに我が身に感じ様としても、その人の苦しみには、絶対に、絶対に、絶対に及ばないのです。

その人の苦しみは、その人だけのもので、誰のものにもならないのです。

私のこの事故を契機に、私は病室で嫁さんとゆっくり話をすることができました。

私達は、結婚した時から、お互いに「苦痛を伴う延命処理を全力で阻止する」と言う認識で一致しています。

気軽に言える本人の苦痛を無視した無責任な生命賛歌は、私達夫婦と関係の無いところで好きなようにやってくれればよい。

私達夫婦は、お互いの苦痛からの開放のためには、たとえ罪に問われようが、何だってするつもりです。

私達は、この誓いを病室で再度確認し合いました。

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昔、友人に、『「闘病」って何だろうね。結局病で死ぬなら、その闘いは負けたってことなのだろうか』と言う質問をしたことがあります。

友人は、流石に「ばかもの!」とは言わなかったけど、私のこの考えを叱咤を込めて改めてくれました。

『闘病とは、その人の生きる姿勢であり、その病と闘っているその生き様自体に価値があるものなの。その命を賭けた闘いの中に、命の輝きを見るからこそ、意味があるの。勝ち負けじゃないのよ。』

確かに、そういう生き方は素晴らしいし、人にも感動を与えるでしょう。

だが、敢えて言わせて頂きます。

それがどうした。

私は人の為に生きているんじゃない。

苦痛を伴う延命で、その命の持ち主たる私が苦しむなら、何の価値がある。

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安楽死に関する法案の可決は難しそうですし、私個人に関しては法案が可決しなくてもよいし、むしろ、可決しないほうが良いと思っています。

なぜなら、安楽死にかこつけた犯罪は、私だって恐ろしいと思うからです。

それに、法があろうがなかろうが、私にはどうでもよいことなのです。

私の命に関することは、私の命の持ち主たる、この「私」が決定するからです。

世界を席巻しているある宗教では、命は神からの贈り物であり、人間にはその贈り物を最大限利用する責務があると説いています。

笑わせるな。

贈り物なら、きちんと品質保証した物をよこせ。

持ち主が苦痛に苦しむような品質の贈り物なら、最初からいらん。

しかし、少なくとも「神」とまで呼ばれる何者かがそのようなことをするわけが無いとも思うわけで、従って「神」が存在するかどうかはともかくとして、命は命の所有者のものである、と私は思うのです。

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勿論、私のこの過激な考え方に、抗議したい人も多くいるだろうと思います。

「生命の尊厳軽視も甚だしい!」と激怒している方もいるでしょう。

私は、これらの方からの抗議を受け付け、公開の場で討論をすることにやぶさかではありません。

私はどんな議論も受けて立つつもりです。

来なさい!

ただし、私に抗議に来る方は、必ず以下の事項を実施した上で来ることを忘れないでください。

鼻穴から、喉、食道を経由し、胃の中に至る塩化ビニール管を通し、そのビニール管を通して、最低7食の食料を注入し、70時間以上その管を維持したまま日常生活を続けること、勿論、この間一滴たりとも水分、食料を口から摂取してはならない。

この行為を実施したと言う公的な証明書を付けて、私のところに来てください。

きっと実りある建設的な議論ができると思います。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、 転載して頂いて構いません。)

 

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江端さんのひとりごと

「IETF惨敗記」

1999/03/25

ミネソタ州ミネアポリスのヒルトンホテルで開催されているIETFミーティング参加初日の夜、私はホテルのベッドで、久々に早朝覚醒型の不眠で目が覚めました。精神的な疲労が極に達すると、私のこの病気は予告なく私を襲うようです。

私にとって、このIETFミーティング1日目は、まるで10日間も徹夜して働いたかのような、すさまじい、そして強烈な疲労感と絶望感そのものでした。

最初から最後まで完全に理解できない会議、---文字どおり、一言も理解できない---、と言うものが、この世にあろうとは思わなかったのです。

私は、何も記入できない真っ白なノートを胸に抱えながら、欧米人の出席者で一杯になったヒルトンホテルのミーティング会場で、ただ呆然として前方のスクリーンに写し出されたOHPシートを見ているだけでした。

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IETFとは、Internet Engineering Task Forceのことで、インターネットの標準を規定する非営利の団体で、年に2度Meetingが開催されます。

インターネットとは、つまるところ色々な人が色々な目的で使う通信システムのことですので、これを動かすためには共通の決まり(プロトコル)が必要です。

この決まりを決める団体が、IETFです。

IETFには、会員と言う概念がなく、やりたい人がどんな提案しても良いことになっています。その提案は、まず「ドラフト」と呼ばれる英語の文章で提出しなければなりません。そして、その提案が受け入れられるか否かは、このIETFミーティング会場の出席者の多数決で決定されているようです。

要するに、「オープン」であることが、このIETFの特徴とされているのです。

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今回のIETFの出席者はおよそ2000人、ざっと見たところ、日本からも30名程度の出席者があり、(シ研)からのも7名が出席していました。

この2000人の人間が、会場のロビーで技術に関する議論を戦わせている様子は、実に壮観です。

実にやかましい。

このIETFのオープンの考え方と言うのは、かなり徹底しているようで、モラルも規範もあったもんじゃありません。

初日、私はスーツ姿で出かけていって、いきなり恥をかきました。

会場には、フォーマルな服装できている人間は、一人もいませんでしたから。全員が、Gパンにスニーカ&Tシャツと言ういでたちで、ロビーのすみっこで壁に持たれかかりながら、ノートPCを叩いていました。朝食はビュッフェ形式で、あふれるほどのパンやフルーツ、ドリンクが提供されるのですが、それを山のように皿に盛っては、床にあぐらをかいて食べていま
す。

さらには、足を別の椅子に投げかけながら、ミーティング会場にまで食べ物の皿を持ち込んで、口をもぐもぐさせながら、発表者の話を聞いています。

最初は驚いていた私も、そのうちマネするようになりましたが。

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まあ、驚いたといっても、そんなことはどうってことはなかったのです。

本当に驚いたのは、議事の進行方法です。

まずチェアマン(議長)が、議事を箇条書きに書いたOHPを示し、『今日はこれだけのことを決める。じゃあ、最初の提案者、どうぞ』と言って、いきなり提案者による提案ドラフトの説明が始まります。

本当に、面食らいました。

大抵、会議というのは、まず「今日は皆さん、お集まりいただき・・・」と言う挨拶から始まり、このミーティングの背景、目的を説明し、提案者の紹介をして始まるものですが、IETFミーティングでは、そのようなことはまったくしてくれません。ミーティングの議事内容まで、すでにそのワーキンググループのメーリングリストで検討が終わっていることになっており、残るは質疑応答と採決だけです。

ですから、そのメーリングリストに入っておらず、またドラフトを事前に読んでいなかった私は、何が何だか分からないまま、ただひたすら議事が進んでいくのを見守るしかできなかったのです。

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ですが、私が、メーリングリストに入っていて、ドラフトを事前に読んでいれば、理解できたか、と言うと、その可能性は絶望的に近いほど低かったでしょう。

ネイティブスピーカのネイティブスピードのもの凄さと言うものは、TOEIC600点台の人間にとっては、バッティングセンタで、飛んでくるボールに小さく書かれているメーカ名を読みとるより、遥かに難しいのです。(実際、きちんと視力を測定すれば3.0以上はあるだろうと思われる私には、そっちのほうが楽かも知れない。)

質問者は、会場にあるマイクの前に並んで、正面の提案者に向かって質問をしていきますが、NHKの「上級英会話教室」のように、一語一語をきれいに区切って、クリアな発音でしゃべってくれるわけではありません。

一つの質問が2秒ぐらいで、その中には、実に25ワード以上は入っているかと思われます。私には、単に動物の『ウオー』とか言うような唸り声の様にしか聞こえません。

この唸り声に対して、会場がワッと笑いに包まれます。周りを見回してみて、笑っていないのは、私(と多分他の日本人)だけのようです。

私は心底、傷つきました。

私に出来ることは、写し出されたOHPシートの内容を、ノートパソコンに写しとることだけだったのです。

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そもそもなぜ私がIETFなんぞに参加することになったかというと、これまた自分の意志ではいかんともし難い、悲しいサラリーマンの宿命にあります。

昨年までやってきた仕事である、マルチメディア監視システムのプロトタイプを無事完成させ、今年は製品化に向けて、設計とコーディングの日々だと自分では思っていたのですが、今年の初め、私は上司から別の仕事を命じられることになります。

それが、ポリシーベースネットワーク管理システムの研究です。

「ポリシー」などと聞いて、私は学生時代にちょこっとだけ参加した左翼運動の実績を見込まれたのかしら、などと呑気なことを考えていたのですが(70年代には、政治的理念のない人間のことを、『ノンポリ』と言いましたから)、どうもそういうことではなくて、ネットワークをビジネス運用(どのデータをどの経路で通せば、最も効率的に儲かるかとか)の観点から
管理する、最近新しいネットワーク技術のことです。

この研究を通産省の補正予算で行うことが正式に決定し、そんでもって、いつものことですが、私が放り込まれた訳です。マルチメディア監視システムのほうは、外注のシステムエンジニアを雇って、私のエージェントとして動いてもらうことが決まり、一応会社側としては筋を通したつもりでいるようです。

もちろん、そこには、再びその『ポリシーなんちゃら』を、一から勉強し始める私の苦しみや辛さは何も計上されていませんが、まあ、サラリーマンとはそういうもんです。

ところが、このポリシーなんちゃら技術の研究は、極めて新しい研究らしく、現在のところ、日本において権威といわれている研究者も研究機関もありません。従って、その研究に関する書籍はもちろん、研究発表資料、論文も何一つありません。しかたがないので、私は毎日行きと帰りの電車の中で、IETFの関連ドキュメントを、片っ端から読み倒す日々が続きました。

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ミネアポリスで行われているIETFは、5日間の日程で行われ、その間同じく(シ研)から来ていた、M氏のおかげで、他社の技術者と直接話すことができて(当然、私に英語で技術討論をする力量などあるわけがない)、一応報告書を書くためのネタはいくつか出来てきました。

しかし、今回の私にとって、最も重要なミッションはポリシー技術に関するIETFの動向調査でしたから、まさか「英語がわかりませんでした」と書いた報告書を提出するわけにもいきません。

私は、IETF会場のターミナルルームに準備された100台以上もあるコンピュータの1台を占拠して、ポリシーに関するドラフトを印刷しまくり、ミーティングに出席せず、ロビーに座り込み壁に持たれかかりながら、ひたすらドラフトを読みつづけていました。

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ポリシーワーキンググループセッションが始まる前日の深夜、ホテルのデスクでひたすらドラフトを読んでいる時に、電話がかかってきました。

"Hello"

応答がありません。

"This is Ebata Speaking."

と言うと、「・・・智一君?」と、おどおどした風の声が聞こえてきました。

嫁さんでした。

私が海外出張ということもあり、嫁さんは娘の麻生をつれて実家の福岡に帰っていていました。

江端: 「おお、よく電話してきたね。」

嫁さん:「フロントが出たのだけど、何を言っているのか全然分からなくて・・・で、辛うじて『スペル』と言う単語だけ分かったから、EBATAとだけ言ったらつなげてくれた。」

江端: 「こっちはねえ・・・英語が全然わかんないよ・・・。」

嫁さん:「そりゃ、会議で使っている英語なんだから・・・」

江端: 「ちがうんだ、そうじゃないんだ。フロントから、ハンバーガショップから、タクシーから、何もかも何を言っているかわからないんだよ。」

そう、私が最高に落ち込んでいる原因は、実はIETFの内容が分からないことではなく、日常会話が全然理解できなかったことです。しゃべることは難しいだろうなとは、思っていましたが、日常会話が聞き取れないという事実は、私を徹底的に絶望させました。

江端: 「とにかく、こちらの能力にあわせて、しゃべる速度を落とすという考え方がないんだ。」

嫁さん:「そう言えば、フロントも全然ゆっくりしゃべってくれなかったよ。」

これは、多分に偏見かもしれませんが、ミネソタでは世界中の人間が英語をしゃべっていると思っているのではないかと思わせる場面が多々ありました。

私がダウンタウンの郊外にあるミシシッピ川を一人で散策していると、5人の子供を連れた子供のお母さんが、私に道を聞いてきます。

"Sorry,I am a stranger here (地元の人間じゃないんで)"と言うと、しかたなさそうな顔で、子供を連れてどこかにいってしまいました。

また、冬期の雪の積雪量と、おそらくは治安の悪さも原因だと思われますが、ミネアポリスのダウンタウンのビルのほとんどは、スカイウォークと言う空中回廊で相互につながれていて、ダウンタウンにいる限り道路を歩く必要はほとんどありません。もちろん、そのスカイウォークは迷路のようにダウンタウンにはり巡らされていますので、簡単に迷子になってしまいます。

夕食を終えて、誰もいないスカイウォークを歩いていると、私の前方にスカイウォークの地図を覗き込んでいる黒人カップルが、私に経路を尋ねてきました。

もちろん、"Sorry, Stranger I am."と答えるしかありません。

ミーティングが終わった当日の午後、歩いて彫刻美術館と言うところに行きました。バスは乗り間違えると、とんでもない目に会うことは、これまでの海外旅行の経験で熟知していましたので、ひたすら歩いていきました。

その途中の道で、母親につれられた可愛い少年が、私に向かって言いました。

"Where are you going, Mr?"

私はとっさに、"What?"と答えましたが、それと同時に、この少年が明らかに『おじさん(Mr)』と呼びかけたのを不快に感じていました。母親のほうが『知らないおじさんに声をかけちゃダメよ』と言う風に子供の手を引っ張って、私とすれ違っていきました。

コンビニエンスストアで、水とミルクをもってレジに向かうと、レジのおじさんにいきなり何かいわれてドキリとしました。"Pardon?(すみませんが)"と私が聞き直すと、"Mexican?(メキシコ人か)"と聞かれていることがわかり、呆然としてしまいました。

ミネアポリスの最後の夜に、IETFに参加した日本人の集まりで、ベトナム料理を食べながら、この事件の話に加えて、中国でウイグル人に間違えられたこと、京都でブラジル人に間違えられたことなどを話したら、「要するに、モンゴリアンなんですね。」と総括されてしまいました。

『ミネアポリスの連中は、きっと、アメリカ大陸の外側は大きな滝になっていて、そこから海の水が落ちこんでいて、そしてアメリカ大陸は、カメがその下で支えていると信じているんだ』と屈折した思い込みで、ミネアポリスの日々をすごしていました。

江端 :「加えて、(シ研)の奴等が、僕の泊まっているホテルの地区が危ないって言うし・・・」

嫁さん:「え!危ないの?」

江端 :「とは、僕には思えないんだけどね・・・。」

私はホテルのクオリティには、あまり頓着しないほうで、会場のホテルが予約できなかったので、旅行代理店に『安いところを適当に』と言っておいたら、食事付き一泊79ドルと言う破格のホテルを予約され、周りの人間を随分心配させました(大体150ドル程度)。

学生の頃、私は一泊10ドルと言うドミトリーにあたりまえのように泊まっていたので、その辺の感覚が麻痺しているのかも知れません。

後輩の、T君に言わしめて曰く、『スカイウォークが繋がっていない、駐車場に派手な落書きがあった』ことが、その危険であることの根拠らしいです。

江端:『でもね、僕が泊まってきたところって、安全フェーズが2段階ほど違うよ。』

T君 :『どういうところですか?』

江端:『中国のウイグル自治区内の安宿とか、ネパールのコンクリートがむき出しになった宿とか、インドのニューデリーの宿では、目の前に物乞いの人たちが一ダースぐらい・・・』

T君は、絶句していたように見えましたが、付け加えて言いました。

T君 :『しかし、江端さん。決定的に違うことが一つあります。』

江端:『何?』

T君 :『拳銃』

そりゃもっともだ、と思った私は、それからIETF会場のミネアポリスのヒルトンホテルから、ウエスタンダウンタウンと言うモーテル系のホテルまで、走って帰ることにしました。

江端:「ところがねえ、慣れない街だからねえ、道を間違えてどこを走っているか分からなくなって・・・と言って、信号で泊まると恐いから、青信号の方を選んで走るから、さらに道がわからなくなってきて、そうして、昨夜はミネアポリスの街中を、ぐるぐる走りまわっている変な日本人が一人いたわけだよ。」

15時間の時差のある電話の向こうで、嫁さんは大爆笑していました。

そしてこの話は、「夜のミネアポリスを走り回る日本人」と言うエピソードで、そのIETFの期間中、ことある毎に語られることになります。

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さて、ひどく落ち込んでいた私は、嫁さんの電話で少し元気をとり戻し、今一度IETFを眺め直す余裕が出てきました。

午前を回っていましたが、私はベッドの上にひっくりかえって考え始めました。

まず第一に、IETFは本当にオープンなのか?

あのスピードの英語を日本に取得できる人間がどれだけいるのか。どれだけの人間が、あの技術情報を母国に持ち帰れるのか。そもそもネイティブスピーカでない我々日本人が、あのミーティングに参加することができるの
か。

次に提案者、質問者の面々です。

提案者はまあ良いとして、質問者です。

みーんな、同じ顔。

同じメンツが、マイクの前に立ってぐるぐると順番待ちをしているだけです。オープンどころか、クローズなグループメンバによる芝居のように見えるのは、私の穿った見方でしょうか。

と、そこまで考えたとき、私は背筋がぞくりとするような寒気を感じました。

(これはやばい。相当にやばいぞ・・・)

私は基本的に、自分のことしか考えない利己主義者ですが、その私の利己を脅かすほどの恐ろしい現実が進行しつつあることに気がつきました。

これからも情報通信技術が、ある一国で閉じる訳がありませんから、この技術の検討が国際共通語である英語で行われることは間違いありません。

そして、インターネットの世界に関しては、当面IETFが支配的な地位を占めていくでしょう。

IETFは、いかなる形でも強制力を持ってはいませんが、インターネット標準の決定機関です。インターネットに関わる全てのベンダ、サービスプロバイダ、ユーザは、このIETFの決定事項に従って動いていくしかありません。

すなわち、IETFに対して提案活動を行うと言う事は、すなわちその提案の内容が世間に公表される前に、すでに手が打てるわけです。

例を挙げましょう。

例えば、私があるマルチメディア帯域制御方式を実現する通信ソフトウェアを開発したとして、その内容をIETFに提案し、これが受理されたと仮定しましょう。他の会社は、この通信方式を実装するために、私が提案したドラフトを読みながら、製品を作らなければなりませんが、私はすでにその実装が終わったソフトウェアを開発し終えているのです。

この開発機関がどの程度になるにしろ、すでに私は、他社に対して開発期間分(数ヶ月以上)リードしている訳です。他社が開発を行っている間、私は営業活動を進めて、シェアを拡大させる事ができます。

つまり、イニシアティブが全てなのです。

提案ドラフトを読んでから製品化に着手しているようでは、シェアを取る事が出来ないのです。

逆に言えば、このようなIETFのような国際的標準機関でイニチアティブを取るためには、英語が必須なのです。しかしそれは、英語が単に読めることでも、しゃべれる事でも、理解できることでもありません。

「検討」し、「討論」でき、そして「論破」できることなのです。

しかるに、我が国の英語教育の水準は、間違いなく世界最低クラスです。

先進国と言われているアジアの国々のほとんどと比較して、TOEICの平均点が低い事は、意外に知られていませんが、私は色々なアジアの国を旅をしてきた経験から、感覚的にこの事実に気がついていました。だって、一応英語が使えれば、どの国のどの街のどんな所でも旅が出来たんですから。

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(21世紀も、欧米中心の文化に引きずられながら、我々は生きていかねばならないのか?)

パソコンの設定一つの為に、膨大な英文資料に翻弄されて過ごしている日々。

そして、ろくな特許のアイデアも出せず、まともなシステム構築すら出来ない技術者が、ただ英語が使いこなせると言う理由だけで、より優位な地位に立てる日本の技術者社会。

私は、娘の笑顔を思い出して、憤然とした思いに駆られました。

娘の世代も、欧米文化に追従する日々を生きねばならないのか?

私は最近、戦前の陸軍の関東軍のエリート軍人達が、日本語を基本とした大東亜共栄圏を作ろうとした気持ちが少し分かるような気がします。

軍事的にアジアを占領して、すべて日本語が通じるようにして、米国とヨーロッパ共同体に対抗しようとしたその行為は、もしかしたら英語がしゃべれないコンプレックスに起因していたのかもれない。

しかし、それでも、彼らは日本のシステム体系が世界で無視されることを予期し、それを恐れていたのです。イニシアティブをとれない国が、没落していくかないことを熟知していたのです。

日本がどうなるかは、私にとってどうでもよいですが、娘がどうなるかは、私にとって大問題です。

この欧米主義中心の世界観をどのように変えていけばよいのだろうか、と私は考え始めました。

その1 全世界侵略論

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

全世界を武力で制圧し、日本語を世界共通語として強制する。

しかし、公式に核非所有国を宣言している我が国が世界征服をするのに比べれば、太陽系以外の他の星系に移住可能な星を見つけて、日本国民全部が移住する方がはるかに簡単でしょう。

その2 大東亜共栄圏論

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

これは人口比率から言って、中国語しか選択はない。この中国語による大東亜共栄圏で欧米文化に対抗する。

しかし、日本人全部が中国語を勉強し直すくらいなら、こういう発想はそもそも出てくる訳がないので、もちろん却下である。

その3 英語教育再編論

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

文部省は、教育としての位置付けをやめ、教育カリキュラムから、英語教育を放棄する。一種の高級なプログラム言語の一つとして、通産省にその権限を移譲し、「情報処理技術カリキュラム」の一つとして組み込む。すなわち、文化としての英語を全面的に方向転換し、単なる通信プロトコルと捕らえ、その「技術」を教えるものと考える。これにより、偏向した欧米中心主義文化からの脱却を図る。

とは言え、どのようなカリキュラムがあろうと、現実的にその英語が使えなければ、意味がありません。

そこで、私は韓国の徴兵制(*1)にならい、英語技術の徴役制度の導入を提案します。

(*1)韓国では成人男子全員に兵役の義務がある(イスラエルでは女性も)。

さて、その懲役をどこでやるか、一番安いコストと言う点では、在日米軍あたりで兵役につかせてしまおうか、と言う乱暴な考えもあったのですが、何もアメリカの世界戦略構想に協力する必要はないし、第一、個人的に嫌。

ならば、どこかの英語圏の島を買って、そこに高校教育を終えた若者を、全て強制的に収監すると言うのはどうか。

当然、島の中には武装した教官がおり、日本語をしゃべったものに対しては、射殺を含む刑罰を施行する権限を有するものとする。期間は、最低2年。大学の前期教育を兼ねても良い。当然、日本語で記述された全ての書物は没収される・・・・・

程度のことはやらんと、本当にやばいんではないかと思い始めています。

要するに、私がIETFに出席して、ほとんどその任務を果たし得ず、そして、私と同じような立場に負い込まれるものが、今後も間違いなく大量に発生する、と言う事が言いたかったんです。

そして、日本はどんどんこれから国家としての国益を失っていくだろう、と。

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さあ、どうしましょう。

我々が、どこで育ち、そして生きてきても、名古屋弁や秋田弁などのようにどの地域の言葉も理解できるように、世界のどこにいても、どの言葉も理解できるようにならなければならない時代が来ています。

いや、正確に言えば、我々の前の世代は、すでに我々がその程度のことを実現してくれることを期待して、膨大とも言える時間と労力を我々の英語教育に注いでくれたと思うのです。

しかし、その教育のやり方が悪かったのか、あるいは我々の努力が足りなかったのか分かりませんが、我々はついに、彼らのその熱い想いに応える事はできなかったようです。

それはIETFで発言した日本人を、ついに一人も発見できなかった事からも明らかだと思います。

さあ、どうしましょう。

私たちは、次の世代達に、『どう世界とつきあって生きて行け』と言うことができるでしょうか?

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

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「IETF惨敗記2(白夜のノルウェー編)」

 

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江端さんのひとりごと

「世代の特異点」

1998/01/16

「X JAPAN」とは、7年程前に結成したバンドだそうで、嫁さんに訊ねてみると、彼女も何曲か彼らの持ち歌を知っていました。

『ふーん・・・。そんなに有名なのか』とパソコンでネットサーフィンしながら検索をかけてみると、まあ出てくるは出てくるは、熱狂的なファンが作った濃い内容のホームページが多数ヒットし、熱狂的・・・というか、狂信的な内容で、ちょっと引き気味になりました。

そういうカルト的なホームページを差し引いても「X JAPAN」は非常に知名度の高い優れたバンドのようです。独特のな音楽スタイルで一世を風靡し、ティーンエイジャーだけでなく、幅広い世代に渡り熱狂的なファンを多く持っていることがわかりました。

今度、きちんと彼らの曲を聞いてみたいと思っています。

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昨年の年末、30日まで働いていた嫁さんがついに倒れ、大晦日と正月はずっと熱を出して昏睡していました。

このような状態で大掃除など出来よう訳も無く、私は嫁さんの枕元に氷水の入った洗面器を置いて、時々彼女の額の濡れタオルを換えつつ、その合間に部屋や車の掃除をして、しめなわや鏡餅を買いに行き、夕食の手巻き寿司の準備と年越しそばを作っているうちに、いつの間にか年を越してしまいました。

31日の大晦日、私は、寝込んだ嫁さんの横で、部屋中をどたばた走り回っていて、その部屋のテレビは一日中スイッチオンの状態のままになっていました。

おかげで、テレビ局のニュースを何度も聞かされることになりました。

テレビ局の人間は、東京上野のアメ横と老舗の蕎麦屋の生中継をすれば大晦日のニュースは事足りると考えているようです。視聴者の安易な刷込みの上で、ろくな企画を立てずにすごせるマスコミとは、実にうらやましい職業です。

そのニュースの合間にキーワードとなる2つの芸能情報がありました。

それが、「アムロ休業」と「X JAPAN解散」でした。

アムロとは、アイドル歌手の「安室奈美恵」であることは知っていたのですが、「X JAPAN」の方は全くわかりませんでした。

私がその時すぐに思ったことは、『UNIXのXウインドウの日本語対応版(*1)なんぞに ソフト技術者以外の一般人がなんで興味があるのか?』と言うことでした。

ずいぶん前から不思議に思っていて、『X JAPAN解散!』と騒がれた時、「『Xのサポート中止』の間違いじゃないか?」と首をかしげていました。

これがミュージックバンドのバンド名であるのを知ったのは、大晦日のニュースで「X JAPAN解散コンサート」を見た時です。

(*1) ktermとかxjptermのことかと思っていた(本当)

中継の解散コンサート会場には、ディープな化粧のOLのお姉さんや、知性とはあまり御縁を感じさせない一世代前のヤンキー風のお兄さん、無理があるんだから止めた方がいいのにな、と余計な気を遣わせてしまうサーファ風のおじさんや、尖った金属を多数装着した皮製のジャンバーを着た「お姉さん」と呼ぶには若干無理のある女性の方々が多数集まっていました。

もちろん、普通のカジュアルな服装の方も多かったのですが、コンサート会場に、わざわざ学校の制服や、特攻服なんぞを着てくるティーン達は、やはり「世代の特異点」と言う気がします。

レポーターが、開演を待っている人たちにインタビューをしていました。

『きゃ~、これテレビぃ?』と言いながらピースサインをする女子高生たち。せっかく世代の特異点として認められているのだから、もっとアバンギャルドなアクションを、自ら開発して欲しいものです。

『X JAPANのいいところ?サイコ~って感じぃ?!』

質疑応答の体をまるで成していません。

私としてはこのミュージックバントについて知りたいのであるが、これでは情報が何もありません。

だいたいテレビ局のレポーターがなっていないと思います。

質問に対して、コンパクトかつ的確な表現でまとめ、テレビの向こうの視聴者に適切な情報を送り込むことができる知性と教養にあふれるX JAPANのファンの人を見つけて、インタビューすべきなのです。

マスコミが、世代の特異点に媚びるのは仕方ないとしても、視聴者にまで迷惑をかけるのは良くないと思います。

次のインタビューは、いわゆる「ヤンキー座り」をして暴走族の集会そのものの状況で集まっているティーンの女の一群の一人。

特攻服には「YOSHIKI命」と書かれていました。

特攻服といえば、私は暴走族と言う奴等が死ぬほど嫌いです。

私自身もライダーで、バイクの魅力と危険は骨身に染みて分かっていますが、私に関係のない所であれば、好きなだけ暴走してくれればいいし、喧嘩でも殺し合いでも好きなだけ思う存分やって、とっとと逝ってくれて構いません。

私が許せないのは、深夜に爆音を撒き散らしこの『私』の安眠を妨害することです。

正月の深夜、アパートの真横でマフラーはずしたバイクのエンジンの爆音で叩き起こされ、新年から怒り心頭に達しております。

早朝覚醒型不眠症の私を深夜に叩き起こす全てのものを、私は『敵』と認識します。

閑話休題。

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知性のなさそうな舌っ足らずな口調のしゃべりかたと、お世辞にも可愛いとは言いかねる顔にべったり化粧を塗った面は、それだけで私の生理的な嫌悪感を「ばしばし」と刺激しました。

『ヨシキはぁ、自分のことぉ、ちゃんとぉ分かっている奴だからぁ、やっぱぁそういうこと、きちっとしてるしぃ!』と言い放つと、(お前らには分かるまいがよお)と言う尊大な目をして、カメラの方を睨み付けていました。

それを聞いた瞬間、私は、久々に自分の中で『ブチッ』と切れる音をききました。

・・・おい、女(アマ)・・・。

私は、掃除機を持っている手を止めて、テレビの画面を直視しました。

・・・おまえは、(多分X JAPANというバンドのメンバーの一人なんだろうが)その、「ヨシキさん」と言う方と友人なのか!

お前がどう思っているか知らんが、その「ヨシキさん」はお前のことなんか、髪の毛ほどにも知っちゃいないぞ!!

(よくわからんが)その「ヨシキさん」は偉大なアーチストなんだろうが!?

お前ごとき暴走族ふぜいが、友人のようにタメ口きいて偉っそうにするんじゃねえ!!

この身の程知らずがぁ!!!

私は久しぶりに、体中に怒りのアドレナリンが満たされるのを感じていました。

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しかし、程なくそれがすぐに引いていくのを感じて、自分でも意外な感じでした。

そうです。

私はよく分かっていたのです。

「若さ」というのは、「愚かさ」と同義であるということを。

アイドルの歌っている歌を、自分だけに送られたメッセージのように受け取ってしまう愚かさ。

年に何回もないコンサートのチケットを、文字どおり命がけで入手し、アーチストが観客席に向かって呼びかける言葉だけで、そのアーチストの人格を全て理解してしまったかのように思い込む愚かさ。

そして、夜になれば、その憧れのスターとデートしたり結婚したりする妄想の中で、安らかに眠りついていく愚かさ。

はっきり言って、馬鹿です。

新興宗教にずっぽりはまってしまったり、過激な思想を礎とする過激派や、非合法の暴力を生業とする団体に入って行ってしまう奴が多いのも、そして、好きになった人をその人の意志を無視して追い回す馬鹿さ加減も、やはり「若さ」がなせる恐るべき業(わざ)です。

私は、気の狂った教祖を抱えた宗教団体が、地下鉄にシアン系の毒ガスを撒き散らして4000人もの人間を殺傷する被害を与えた事件を、今でもはっきりと覚えています。

そしてその実行グループが、私と同じ年齢くらいだったことを忘れることができません。

『人を殺めてはならない』と言う社会の一般的公理すら、若さゆえの柔軟な受容体を持ったが為、簡単に歪(いびつ)な宗教思想で捻じ曲げられてしまった彼ら。

駅前に掲げられている指名手配の看板に載せられている彼らの写真は、もしかしたら私だったかも知れないのです。

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(ヨシキのことなら何でも分かっている)と思い込んでいるこの特攻服の女は、己の馬鹿さ加減を全国に知らしめてしまいました。

彼女は、いずれ自分の浅はかな愚かさに気がつき、それを思い出しては恥ずかしさのあまり叫びだしたり、部屋の中を転がり回るようになるのかも知れません。

「若さ」故の「愚かさ」の特権を使ってしまった者たちは、その大いなる負の財産として「恥ずかしさ」という苦痛を一生引きずっていかねばなりません。

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しかし、「世代の特異点」たちが、その資質である「愚かさ」を発揮できる時間はきわめて短いのです。

そして、彼らが「愚かさ」を全開できるということは、この国が「愚かさ」を許容する余裕があるということです。

ある年になったら、例外なく軍役につかねばならない国があります。

女性が肌を見せることを法で禁じている国もあれば、市民が犯罪者を石を投げて殺すことを奨励する国もあります。

成人することが一つの奇跡とされる、小児死亡率が極めて高い国もあります。

この国は、有能とはいいかねる為政者と、既得権の確保に終始し汚職にまみれた官僚に支配され、不動と思われた経済基盤もそろそろ真面目にやばい状況です。

ですが、『ヨシキのことを何でも知っている』と思い込んでいる馬鹿な若者の存在を許せる程度には、この国はまだまだ余裕があるんだと思います。

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銀行がつぶれ、円が高騰し、金融機関が破綻し、日立がつぶれても大丈 夫。

東京にマグニチュード8程度の直下型地震が直撃し、首都機能が完全に破壊されても、心配いりません。

北朝鮮が自己崩壊し、そのついでに近隣諸国にやけくそのような戦争を仕掛けたって、まだまだ行けます。

しかし、「世代の特異点」達の望みが、『ヨシキのお嫁さんになること』ではなく『世界平和』なんぞに変わった時・・・・

その時、この国は本当に終わりです。

(本文章は、全文を掲載し、内容を一切変更せず、著者を明記する限りにおいて、自由に転載して頂いて構いません。)

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エルカン文章シリーズの中では、最高級の作品として半永久的に江端書房に保管さ れるであろう見事なレポートが提出されました。

私がレポートを書くよりずっと面白いと思うので、本「エルカン文章」を持って、 私の結婚式の御報告に換えさせて頂きます。

本日は、この文章を御笑納頂き、後日改めて御挨拶申し上げたく希望しております。

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それでは御笑納下さい。江端さんのひとりごと特別編、エルカン文章第3弾「祝・ 江端智一君御成婚記念メール」です。

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Tomoichi Ebata
Wed Apr 17 13:29:08 JST 1996

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江端さんのひとりごと
「遵法精神って何?」

Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:02:12 JST 1996

学生の街である京都では、学生は通学に原付やバイクを使う事が多いので、一時停止や、ネズミ取りで捕まえる学生は、警察に取って格好の鴨であり貴重な財源と言えました。

私は学生の頃、私は運転免許停止(免停)になったことがあります。罰則点は一年でクリアされるのですが、私はあと一月と言う所で、白バイに追いかけられたり、一時停止地点の死角で張っていた警察に捕まったりして、なかなかクリアできないでいました。

そして、速度100km/hオーバーと言うような気合いの入った『一発免停』とは違い、もっとも情けないと言われる『積もり積もって免停』と言う事態に陥った訳です。勿論友人から『愚か者』呼ばわりされたことは、言うまでもありません。

免許停止期間は3ヶ月でしたが、初回に限り講習会を受ける事で一日だけにすると言う美味しい制度がありましたので、早速、長岡京にある運転免許試験場に出かけて、講習会を受けてきました。

講義の前に簡単なペーパー試験があり、その中にはこんな問題がありました。

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自分が免許停止になったのは、運が悪かったからである。
はい   ・   いいえ
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私はこのような免停になった自分を省みて、非常に謙虚な気持ちで講習会に来ていましたので、なるべく澄み切った正直な気持ちで答えるべきだと考えました。

ですから、『はい』を丸で囲んだのは言うまでもありません。『つもりつもって免停』になる私が、運が悪い以外の何者でありましょうか?

講習会の後で、得点とコメントがついた解答用紙が帰ってきました。そこには『あなたは遵法精神に欠けています。』と書かれてありました。

遵法精神とは、文字どおり法を遵守する精神を意味します。法は、国民の代表者によって選ばれた者によって制定され(立法)、それを裁判所が司ります(司法)。法を犯す者にはそれを取り締まるため、法の番人(警察)によって法の定めるところに従って力を行使する事ができます。

このシステムは、日本を始め多くの民主国家で採用されています。

もう一度、あの問題を思い出して見ました。つまり、『自分が免許停止になったのは、遵法精神が欠落していたからである』と言う問題であれば、よく分かったのに、と思っていました。

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ところが、そもそも私には『遵法精神』と言う考え方がありません。

そもそも私はアウトロー(Outlaw)ならぬマイロー(My Law)が信条の人間なのです。といってアナーキストでも況やテロリストや無法者と言うわけでもありません。

いわば"I am a law"(私が法だ。)という考え方がぴったりくるかな、と言う感じがします。

『もっと悪いじゃないか!』と言わないで下さい。

なんと言っても、私は私の法を制定できても、私の法を他人に行使させるような強制力をもっていないのですから。

では、どうして日本の法の庇護の元で生きているか、と尋ねられれば、それは日本国の法律と私の法が、すさまじく酷似しているからです。

定量的に測る事ができれば、多分99.9999%以上は一致していると思います。ですから、私は非常に面倒くさい法の制定と執行を日本国に代行して貰っていると言う考え方が一番近いのではないかと思います。

不幸にして日本国の法律と私の法が一致しない場合は、当然私の法が優先します。なにしろ私にとって、私の法は絶対ですから。

と言う訳で、私が国の法に従っている全てに関して、私は卑屈になることなく国の庇護を要求します。

しかし私と国との間にすれ違いができた場合、私と国は闘争状態になっていいと思っています。その時、国は全力を上げて私を潰しに来ても構いません。

来なさい!

私も精いっぱいの力を用いて、それに刃向かう事でしょうから。

私個人としては、国の法と私の法とのすれ違いが半分より大きくなった時に、革命を起こし、現行政府を転覆させようと思っていますけど。

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さて、このようにしつこいくらいに私の立場を大げさに表明してからおいて、いったい何を書こうとしているのか。多分、あなたのご想像の通りろくなことではありません。

これから私の書く事は、あなたの使い方によっては江端の将来を容易に破滅させる事ができるかもしれません。

そして江端から報復を受けることを心配して、できるのなら係わりたくないと思っていらっしゃるのでしたら、悪い事はいいません。ここで読むのを止めましょう。

触らぬ江端に祟りなしです。

(と言っても、止める人は、いやしないんだろうが。)

では、江端さんのひとりごと、今日は『やさしいお酒の作り方』です。

https://www.kobore.net/tex/alone93/node37.html