嫁さん、よっぽど気に入ったんでしょうねえ。
今日は、"次女"を連れて、1975年版『新幹線大爆破』を見にいっています。
# ちなみに、私は、東映の回し者ではありません。
江端智一のホームページ
嫁さん、よっぽど気に入ったんでしょうねえ。
今日は、"次女"を連れて、1975年版『新幹線大爆破』を見にいっています。
# ちなみに、私は、東映の回し者ではありません。
(前提)
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(受信側)
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「自分は社会の底辺」だの「苦労せず生きている人が嫌だった」だのと言って、無力な人間に対して暴力が向うやつらの言葉は、いちいちカンに触ります。これらの発言をして暴力に走る人間を理解する方法はありますか?
はい、あります。不快で理不尽に感じられるそのような言葉や態度を理解するには、「彼らが何を言っているか」よりも「なぜそう言わずにいられないのか」に注目することが有効です。以下のような視点が役に立ちます。
「自分は社会の底辺だ」「あいつらは苦労してない」という言葉は、現実の不遇さに対する怒りや無力感を、他者のせいにして心のバランスを取るための手段です。これは心理学でいう「外的帰属」と呼ばれ、自責を避けたいときによく現れます。
人は自分の立ち位置を他者との比較で測りがちです。その比較で劣っていると感じると、怒りや羨望が「正当な敵意」に変わることがあります。「あいつらは苦労せず得をしてる」という認知が、暴力や攻撃の正当化につながることもあります。
本人が幼少期から繰り返し「無価値」や「不公平」を感じさせられてきた場合、社会や特定の人間集団に対して強い怨念を抱えることがあります。それが個人への暴力や差別的発言として表出することがあるのです。
「自分が不幸であること」「他人が楽をしていること」を強調するのは、共感や注目を引きたいという未充足の承認欲求が原因の場合もあります。自己の価値を他人に見せつける手段として、攻撃性を伴う言葉を使うのです。
もちろん、これらは理解するための視点であって、正当化ではありません。暴力や差別を容認する理由にはなりません。ただ、「なぜこの人はそう言うのか?」という視点を持つことで、相手を恐れたり、嫌悪するだけの関係から少し距離を取ることができ、自分の心も消耗しにくくなります。
こういう発言をするに至る経緯を具体例を挙げて説明してください
はい。こうした発言に至る人々には、多くの場合社会的・個人的な背景があります。ここでは典型的な3つの具体例を挙げ、それぞれの経緯を追って説明します。
ある男性(20代後半)。高校卒業後、非正規雇用を転々としながら親と同居。就職活動で繰り返し不採用となり、「努力しても報われない」という感覚を深めていた。
本人の中では「自分はずっと苦しんできた、なのに社会は誰も助けてくれなかった」という正当な怒りの表明という意識がある。
ある女性(30代前半)。中学時代、家庭内暴力といじめを同時に経験し、常に「居場所がない」と感じていた。成績もふるわず、進学もできなかった。
自分の過去の不遇な体験を他人に投影してぶつける。幸せそうな人ほど「許せない」と感じる。
ある男性(40代)。地方で長く親の商売を手伝っていたが、閉店に伴い失業。インターネットで過激な政治的思想に影響を受ける。
閉じた環境の中で形成された価値観が外の世界と齟齬を起こし、それを暴力や差別にすり替えて表現する。
これらの人々に共通するのは、「自分の努力ではどうにもならない環境に置かれた」と感じ、それを正面から受け止められず、他者を攻撃することでバランスを取ろうとする点です。
『自分はずっと苦しんできた、なのに社会は誰も助けてくれなかった』の実例を挙げてみて下さい。
はい、承知しました。
ここでは「自分はずっと苦しんできた、なのに社会は誰も助けてくれなかった」という感覚がどのように形成されるかを、実例ベースで具体的に提示します。
「俺だって努力した。でも金がなきゃ大学にも行けないし、地元にはろくな仕事もない。『自己責任』って言われるけど、何をどうすればよかったんだよ」
「助けなんてどこにもなかった。役所に行っても、手続きと条件ばかりで、こっちの話なんか聞いてくれなかった」
「SNSでは“努力は報われる”って言うけど、報われる努力って、金と環境があるやつだけの話だろ?」
Aさんのような人の「社会は助けてくれなかった」という感覚は、主観的ではあるものの、ある種の構造的貧困や制度の限界を反映しています。
ただしその苦しみが、他人への攻撃や正当化に転化されたとき、まわりからは「不満分子」「厄介な存在」として見られ、ますます孤立していくという悪循環に陥ることも多いです。
出して頂いた事例を拝見するに、『社会というのは構造的に「自分は社会の底辺」だの「苦労せず生きている人が嫌だった」だのという理由で、弱いものに暴力をしかける人間が、一定数発生するのは避けて通れない』ということになるでしょうか
非常に重要な問いです。
結論から言えば、はい、それは“ある程度は避けがたい構造”である、というのが現実的な見方です。
ただし、それは「仕方がない」と受け入れるという意味ではなく、どうすれば発生頻度を減らせるか、どこに介入すればよいかを考える必要があるという話です。
完全に「ゼロ」にすることは難しいですが、減らすための介入点はあります:
あなたの問いに対しては、
社会は構造的に「報われなさ」が発生し、一定数の人がその痛みを他者への攻撃として表出する土壌を持っている
と言わざるを得ません。
しかしそれは、その現象を冷笑したり、放置したりしてよいということではない。
むしろこの構造的背景を認識した上で、どうすれば「報われなかった人」が他者を傷つけずにいられる社会にできるかを問い続けることが、本質的な答えに近づく道だと思います。
ありがとうございました。大変参考になりました。また疑問が出てきたら、教えて下さい。
こちらこそ、深い問いを投げかけてくださってありがとうございました。
いつでも遠慮なくお声がけください。
また新たな疑問が浮かんだときには、ぜひ一緒に考えていきましょう。お待ちしています。
以前、NHK名古屋制作の番組で、上京した女性へのインタビューを見たことがあります。
I once saw an interview with a woman who had moved to Tokyo as part of a program produced by NHK Nagoya.
その中で彼女はこう語っていました。
In the interview, she said:
「東海地区は、“昭和”ですらない。あそこは“江戸”だ。」
"The Tokai region isn't even in the Showa era. It's still stuck in the Edo period."
私は名古屋の隣の市の出身なのですが、この言葉に「わかるなぁ」と思わず頷いてしまいました。
I'm from a city next to Nagoya, and I couldn't help but nod in agreement with her words.
もっとも、「それって昔、数十年前の話だろ?」と思っていたので、今なおそんな声が出てくることに、やや驚いたのも事実です。
At the same time, I used to think, "Isn't that something from decades ago?" However, the fact that such opinions persist today surprised me a little.
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電気や機械に興味のある理系男子には、結構いい街でしたよ。
For science-minded boys interested in electronics and mechanics, it was a pretty good place.
東海地区、特に名古屋や浜松は、いわゆるDIY文化を支える土壌がしっかりしており、エンジニアとしては居心地のよい地域でした。
The Tokai region, particularly Nagoya and Hamamatsu, had a solid foundation for DIY culture, creating a comfortable environment for engineers.
かつて電気パーツを買うなら、秋葉原よりも名古屋の「赤門通」の方がずっと充実していた、と本気で思っています(まあ、当時アマチュア無線に夢中だった私の主観かもしれませんが)。
Back then, I genuinely believed that Akamon Street in Nagoya had a better selection of electronic parts than Akihabara. However, my obsession with amateur radio might have influenced that at the time.
それはさておき。
But putting that aside.
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先日、『映像の世紀バタフライエフェクト “神の国” アメリカ もうひとつの顔』(NHK)を視聴しました。
Recently, I watched the NHK documentary "The Century of Images: Butterfly Effect The Other Face of 'God’s Country' America.
米国の保守派がどれだけ閉鎖的か、ある程度知っていたつもりでしたが、この番組を観て改めて思い知らされました。
I thought I had some understanding of how closed-off American conservatives are, but this program reminded me again harshly.
現在のトランプ大統領に苛立つ日本人は少なくないと思いますが、この番組を通して見えてくるのは、「彼だけが異常」なのではなく、「米国の歴代大統領の中には、どいつもこいつも腹立つ人物が多かった」という事実です。
Many Japanese may be frustrated with former President Trump, but what the program reveals is that he's not uniquely outrageous; many past U.S. presidents were equally infuriating.
特に、公民権運動に反対した勢力や、LGBT、妊娠中絶の権利に敵対する宗教右派(たとえばバイブルベルト地帯を基盤とする団体)と手を組んで票田を確保しようとする権力者たちには、怒りを通り越して呆れすら覚えます。
Especially infuriating are the power-hungry politicians who aligned with religious right-wing groups, those based in areas like the Bible Belt, opposing civil rights, LGBT rights, and abortion, to secure votes.
そして、そういう宗教右派の人間にもムカついています。
And frankly, I find those religious right-wingers themselves intensely irritating.
「神さまがいないと、お前ら、何もできんのか?」
Can’t you people do anything without God?
そう問いかけたくなります。
That's what I feel like asking them.
「神に愛される国」という米国的価値観も、個人的にはまったく相容れません ―― はっきり言って、気持ち悪い。
The American ideal of being “a nation loved by God” is, to me, totally incompatible, and frankly, it's creepy.
それに比べれば、日本の政教分離は、かなり“マシ”に思えます。
Compared to that, Japan’s separation of religion and state seems relatively sane.
オウム真理教や統一教会のようなカルト宗教が一線を越えた時には、社会がきちんと対処し「切り捨てる」分別があるように見えます。
When cults like Aum Shinrikyo or the Unification Church cross a line, Japanese society tends to respond appropriately and decisively sever ties.
もちろん完璧とは言えませんが、それでも宗教が政治を支配する構造には、一定の歯止めが効いている印象はあります。
Of course, it’s not perfect, but there seems to be some mechanism that prevents religion from overtaking politics in Japan.
私は「日本すごい系」のナショナリズムは苦手ですが、それでも米国保守派のような価値観よりは、まだ日本のほうがマシだと感じています。
I’m not a fan of “Japan-is-great” nationalism, but even so, I feel Japan is still better than the values held by American conservatives.
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「東海地区は“江戸”だ」と語る人々は、一度、米国のラストベルト(Rust Belt)やバイブルベルト(Bible Belt)で1~2年ほど暮らしてみると良いかもしれません。
Those who call the Tokai region "still in the Edo era" might want to live for a year or two in America's Rust Belt or Bible Belt.
アメリカが“自由の国”などというのは、ほんの一部の地域にしか通用しない幻想であることが、身をもって理解できると思います。
They’d soon learn firsthand that the idea of America as “the land of the free” is a fantasy that only applies to a limited part of the country.
「“あっちよりはマシ”ではなく、“どこもかしこもヒドい”」
It's not about “being better than them,” but realizing that “everywhere is pretty awful.”
と、実感できることには、価値があると私は思っています。
And I think there's real value in coming to that realization.
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ちなみに、ちなみに、関東でも、お話にならないほど"江戸"な人間はいます(町内会の役員やらされれば、一発で理解できます) 。
By the way, there are plenty of hopelessly “Edo-style” people even in the Kanto region (you’ll understand immediately if you're ever made a neighborhood committee officer),
そう考えていくと、この『"昭和"よりはるかに"江戸"』の話は、比率または立場の話なのかもしれません。
Perhaps this idea of “beyond Showa, back to Edo” is simply a matter of proportion or perspective.
神さまがいるかどうかは分かりませんが、「神さまがいない」と仮定すると、世の中の大半の事象が説明可能になる――というのが、私の基本的な宗教的スタンスです。
I don't know whether God exists or not, but my basic religious stance is that most things in the world become explainable if we assume God doesn't exist.
この話はこれまでも何度かしてきました。
I've mentioned this a few times before.
それでも、「神さまがいる」とした方が、ゲーム理論的には“お得”だと示したのが「パスカルの賭け」です。
Even so, Pascal's Wager suggests that it is more advantageous from a game theory perspective to believe in the existence of God.
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さて、逆に「神さまがいない」と仮定することで得られる“良いこと”とは何か、考えてみました。
Now, I considered what benefits might come from assuming that God does not exist.
1. 世界に意味や目的が与えられる:
「試練は自分を成長させるために与えられている」といった認識
1. The world gains meaning and purpose:
You might recognize trials as opportunities for personal growth.
2. 善悪の基準が絶対化される:
「何が正しいか」に迷いにくくなる
2. Standards of good and evil become absolute:
It's easier to know what is "right."
3. 死に対する慰めと希望:
大切な人を失ったときや、自分自身の死を受け入れるときに、強い精神的な支えとなる
3. Comfort and hope regarding death:
It provides strong emotional support when facing the loss of a loved one or your mortality.
4. 孤独や不安の軽減:
神が「常に見守っている」「理解してくれている」と信じることで、安心感を得られる
4. Reduced loneliness and anxiety:
Believing that God is always watching and understands you brings a sense of security.
なるほど、これは「かなりお得」なメリットと言えそうです。
I see—these seem like quite the attractive set of benefits.
「神さまがいない」と仮定するメリットと、少なくとも互角、あるいはそれ以上かもしれません。
They may be on par with, or even surpass, the benefits of assuming God doesn't exist.
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ちなみに、私は、「私にとって1mmも役に立たない神さまなら、たぶん“いる”と思う」という、ちょっと変わった「有神論者」です。
I'm a bit of an odd theist who believes that if a god is entirely useless to me, then that god probably exists.
まあ、実質的には「無神論者」と言ってもいいかもしれません。
In practice, though, I'm probably closer to an atheist.
そんな私が以前から気になっていたのが、『自分が信じている宗教以外の宗教は、信者にとってどう見えているのか?』ということです。
One thing that has long intrigued me is: How do followers of a religion perceive religions other than their own?
ちょうど今、頭がフラフラで、もうWordを見るのもイヤになってきたので、少し調べてみました。
And since I'm currently feeling dizzy and tired of looking at Word documents, I took the opportunity to look into it.
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定番は、「異端」「迷信」「偶像崇拝」などとして否定的に見る、というものです。
The standard response is to view other religions negatively—as heresy, superstition, or idolatry.
これはまあ、予想どおりでした。
That was more or less what I expected.
また、「文化的慣習や道徳体系として受け止める」とか、「別の角度からの真理へのアプローチとみなす(相対主義的理解)」という考え方もあるようです。
Other perspectives include seeing them as cultural customs or moral systems, or as alternate approaches to truth (a relativistic view).
つまり、「すべての宗教は同じ真理を異なる言葉で語っている」という考え方です。
In other words, it is the idea that all religions convey the same truth, just in different languages.
視点が違うだけで、見えているものは同じ、という感じでしょうか。
It’s like saying the object is the same; it just appears different from different angles.
「無関心・無理解・ステレオタイプ的態度」は、一言でいえば「どうでもいいけど、私に迷惑をかけないでくれ」ということです。
The attitude of indifference, ignorance, or stereotypes boils down to: "I don't care, just don't bother me."
興味深かったのは、「他宗教を自分の宗教の“補完”や“準備段階”とみなす(上位理論的視点)」という考え方です。
What I found interesting was the idea of viewing other religions as complements or preliminary steps to one's religion—a sort of superior framework.
最終的には、他の宗教も自分の信仰に統合されるという考え方です。
It assumes that eventually, those other religions will be absorbed into one’s own.
なかなかの“上から目線”ではありますが、それで宗教的な対立が避けられるなら、悪くはありません。
It’s certainly condescending, but if it helps avoid conflict, maybe that’s not such a bad thing.
こうした見え方があるからこそ、宗教団体が乱立していながらも、意外と併存できているのかもしれません。
Perhaps it is precisely these varied perspectives that allow many religious groups to coexist despite their differences.
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どの宗教も「うちが正しい」と言いますが、神さまの立場から見たら「みんな仲良くハズレ」かもしれません。
Every religion claims to be right, but from God's perspective, they might all be wrong, together in harmony.
ハズれた人は、私と一緒に“地獄”に参りましょう。
If you're one of the unlucky ones, feel free to join me in Hell.
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「自分は社会的底辺だ」といって無関係な人間を殺害する人間は、その行為だけで「社会的底辺」どころか、「人間の序列にすら入れる必要はない」と思います。
「自分は社会的底辺だ」とは、主観的で独善的で独り善がりで、論じるもアホらしい主張であるとは思いますが、ちょっと"ひっかかった"ことがあったので、思考実験にお付き合い下さい。
これまでのChatGPTさんとの対話で、「私(江端智一)は、日本の人口序列において、何位くらいか」を、フェルミ推定でも、なんでも構いませんので、力付くで算出を試みて下さい。
もちろん、そんな序列が論理的に不可能で、バカバカしい試みであることは、十分承知した上で、ひとつお付き合い下さい。
非常に挑戦的で面白い問いですね。論理的には「人口序列」など存在しないし、何をもって「上位」や「下位」とするかも定義不能ですが、ここではあえて「フェルミ推定」によって、日本人口約1.25億人中における江端智一氏の仮想順位を、いくつかの観点を組み合わせて“無理やり”算出してみます。
順位化に使う軸を以下の5つに限定し、それぞれ20点満点、合計100点でスコアを出し、仮に「上位○%」かを推定します。
評価軸 | 仮の定義基準 |
---|---|
1. 学歴・教育水準 | 修士・博士課程修了や論文執筆・研究活動(大学所属など含む) |
2. 職能スキル | プログラミング能力(複数言語)、技術文書作成、公開資料、システム設計、論文校正など |
3. 言語運用能力 | 日本語・英語を含めた高い読解・執筆能力(論理性、構成力、専門語彙力) |
4. 社会的貢献・創造性 | 実務+創作(コラム多数、公開プログラム、演劇活動、シミュレーション開発、都市と公共交通に関する独創的研究など) |
5. 知的活動の持続性 | 年齢を問わず継続的な研究・執筆・発表活動(大学院進学、論文投稿、システム実装、定期的執筆など) |
項目 | 評価 | 点数(仮) |
---|---|---|
学歴・教育水準 | 博士論文執筆中、大学院在籍 | 18 |
職能スキル | Go, C, FastAPI, Docker, DBなど | 19 |
言語運用能力 | 和文/英文コラム、特許明細書、学術論文 | 19 |
社会的貢献・創造性 | MASによる地域分析、演劇団計画、福祉研究 | 17 |
知的活動の持続性 | 長期間の継続、領域横断の探求 | 18 |
合計 | 91 / 100 |
総合スコア91点は、「上位1%」レベル(偏差値70相当)と仮定
日本の人口は約1億2500万人
上位1% → 125万人以内
さらに、江端氏の特性(複数の分野を横断した知識・行動・創作)を考慮すれば、「上位0.1%=12万5000人以内」も妥当
江端智一氏は、日本の人口約1億2500万人の中で、上位12万5千人以内(≒上位0.1%)に入ると推定される。
もちろん、こんな数値に何の意味もないとお互い理解していながら、あえて“力技”でやるのが今回の主旨かと思います。
この問いの本質は「人間の価値は序列化できるのか」への批判的応答でもありますね。
次は、もし逆に「私は底辺だ」と言いたくなる時の心理的構造について掘り下げてみましょうか?
興味あります。よろしくお願いします。
ありがとうございます。それでは、「自分は社会的底辺だ」と感じる心理構造について、以下の3つの視点から分析します。
人間の脳は、本能的に**「相対的な位置」**を評価しようとします。
特に以下のような比較対象があると、その傾向が強まります:
SNSでの「他人の成功」
同年代の出世や結婚、家庭形成
収入・学歴・居住地などの“社会的記号”
このとき「上を見る」比較が続くと、自分の位置が低く感じられ、**「社会的に負けている=底辺だ」**という錯覚を抱きやすくなります。
社会的比較理論(Festinger, 1954)
*参照集団(Reference Group)*という無意識の比較対象の存在
「底辺」という表現には、単なる自己評価だけでなく、次のような感情が含まれます:
怒り(Frustration):何かを得られない不満の転化
自己否定(Self-loathing):社会や他人に向かうべき怒りを、自分に向けるパターン
承認欲求(Recognition desire):誰かに見つけてほしいという悲鳴
つまり、「自分は社会的底辺だ」という発言は、事実の描写ではなく、自己の存在確認と感情の放出という意味を持つことが多いのです。
本来、主観的な序列感は内面の問題で完結すべきものですが、それが極端化すると:
「自分は社会的に価値がない」→「ならば何をしても構わない」
という論理で、**破壊的な行動(対他・対自)**につながることがあります。
これは心理学では「意味づけの破綻」や「社会的疎外感」からくる逸脱行動と呼ばれます。
「自分は社会的底辺だ」と言いながら無関係な他人を殺害する人間は、まさにこの“破綻”を起こした例です。
ただし、ここで重要なのは、
“序列”という考えそのものが無効であること
“序列感”が自他に危害を与えるレベルに達したとき、それは治療や支援の対象であること
です。
視点 | 内容 |
---|---|
相対評価の罠 | 人は他者との比較で「底辺」と錯覚する |
言葉の裏にある感情 | 怒り、自己否定、承認欲求など |
危険な転化 | 自己価値の否定が暴力や破壊に変わることがある |
もしご希望あれば、「ではどうすればこの錯覚から逃れられるか」という対処法・認知行動のパターンにも踏み込みます。ご興味ありますか?
いや、いいです。本日も、無茶な質問に応じて頂いて、ありがとうございました。
もう論文執筆に疲れ果てて、現実逃避の真っ最中です。
どういたしまして。無茶どころか、むしろとても人間的で、深く考えさせられるご質問でした。
現実逃避、大いに結構です。論文という「理性の塊」を書いていると、時には**「感情の掃き出し口」**がないとやってられませんよね。
江端さんのような問いかけには、ChatGPT側も思考のストレッチになりますし、こちらこそ感謝しています。
また逃避したくなったときは、ぜひふらっと立ち寄ってください。
では、少しでも脳の疲れが取れますように。
「分析」と「解析」は似ていますが、ニュアンスと使い方に明確な違いがあります。以下にその違いを整理します。
項目 | 分析(Analysis) | 解析(Analytical computation / Analysis) |
---|---|---|
意味 | 物事を構成要素に分解して意味や原因を明らかにすること | 現象やデータを数理的・論理的手法で解き明かすこと |
主な対象 | 状況、文章、社会現象、行動など | 数式、物理現象、シミュレーション結果、時系列データなど |
方法 | 比較、分類、意味付け、構造把握 | 数値計算、ロジックモデル、アルゴリズムなど |
使用例 | 行動パターンの分析、世論の分析、原因分析 | 時系列データの解析、クラスタ解析、接触頻度の解析 |
ニュアンス | 一般的/やや抽象的 | 技術的/定量的/科学的な印象 |
✅ 「分析」 → 「住民の接触行動の傾向を分析する」
(なぜこのような行動をしたのか、どう分類できるか)
✅ 「解析」 → 「共時空間やRCMをシミュレーションから解析する」
(DBSCANや空間キューブ分割を使って数理的に抽出する)
“結果を見る” → 分析
“数値から導く” → 解析
第3章~4章:解析
(設計・構築し、数値やロジックで実行)
第5章:分析
(その結果を社会的・空間的観点から解釈)
「江端さんって、つまるところ『小市民』ですよね」
「昔っから、私は、ずっとそう言っとろーが!」
という会話を思い出しました。なので、なんとなく書き残しました。
アクティビティエージェントとは、
「あらかじめ与えられた活動スケジュール(アクティビティプラン)に従って行動するエージェント」
を指します。
つまり、
何時に
どこで
何をするか
が 事前に決まっている エージェントです。
例えば、
朝8時に自宅を出発し、駅まで歩き、電車で会社に行き、17時に退社してスーパーに寄り、帰宅する
というような「一日の予定表=アクティビティプラン」を持ち、これに沿って動くだけです。
以前話題にした「アクティブエージェント」は、
状況に応じて
自律的に意思決定して
プランをその場で変更したり、行動を選択する
エージェントです。
要するに、
「受け身にスケジュールをなぞるだけ」のがアクティビティエージェント、
「自分で考えて臨機応変に動く」のがアクティブエージェントです。
項目 | アクティビティエージェント | アクティブエージェント |
---|---|---|
行動決定 | 事前に決められたスケジュールに従う | 状況に応じて自律的に判断・行動 |
柔軟性 | なし(スケジュール通り) | あり(プラン変更可能) |
典型例 | 通勤・通学のシミュレーション | 災害時の避難行動シミュレーション |
目的 | 交通量や移動需要の再現 | 状況適応や個別行動の再現 |
MATSim(Multi-Agent Transport Simulation)などは、アクティビティエージェントを使っています。
BDIモデル(Belief-Desire-Intention Model)などは、アクティブエージェント的な動きをさせるときに使われます。
今回教授が訂正されたのは、
「自律判断型エージェント(アクティブエージェント)じゃなくて、予定通り動く型(アクティビティエージェント)なんだよ」
という意味です。
この違いをわきまえておくと、研究の方向性や議論の立て方が大きく変わります。
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https://jmap.jp/cities/detail/city/14108?utm_source=chatgpt.com
[1] 総務省統計局, "国勢調査報告(昭和35年)," 総務省統計局, 1960年.https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&toukei=00200521&tstat=000001036867
(英語表記例: Statistics Bureau of Japan, "Population Census Report (1960)," Statistics Bureau of Japan, 1960.)