2025,江端さんの忘備録

私、PCでアニメを見ているのですが、基本的に作画の品質には興味ありません。

I watch anime on my PC, and I'm not interested in the quality of the animation.

私は、今の時代に必要なのは「積極的無関心」ではないかと思うのです ―― つまり、『人のことはほっとけ。自分のことだけやっとけ』です。

私は、ストーリーの方が好きで、方向としては、明るく、楽しく、能天気なコンテンツが好きです。

I prefer stories and like cheerful, fun, and carefree content.

私、基本的にケチなので、映画館で映画を見る時に、途中退出することはありませんが ―― 最近、映画館で映画を見るのに「苦痛」を感じるようになりました。

I'm basically a cheapskate, so I never leave the cinema halfway through a movie, but recently, I've started to feel “pain” when watching a film at the cinema.

これには、自分でも驚いています。

I'm surprised at myself for this.

これは多分、映画のサブスク(アマプラやネトフリ)の影響があるのかと思います。

This is probably due to the influence of movie subscriptions (Amazon Prime and Netflix).

その映画が、気にいらなければ、その場で視聴を取り止め、他の映画に切り変えてしまう、ということが簡単にできるようになりました。

If I don't like the movie, I can quickly stop watching it and switch to another movie.

つまらない、退屈、嫌いなストーリーが5分間連続で続けば、その場で視聴を止めてしまう、ということは、頻繁にやっています。

If a boring, tedious, or otherwise unpleasant story goes on for five minutes straight, I often stop watching right there and then.

しかし、これは、コンテンツを提供する側(創作者や編集者)にとっては、たまったものではないだろうとは思います。

However, I think this is not good for the people who provide the content (creators and editors).

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文学を含め全ての学問は、ある種の「我慢と忍耐」のコンテンツでした。「勉強」という言葉に「努力と忍耐」は必ず付帯する修飾句でした。

All academic subjects, including literature, required “endurance and perseverance.” Study effort and perseverance were always used as modifiers.

今は、これが「エンタメ」にまで広がってきているようで、私(たち)は、「努力と忍耐」をしてまで、一つのコンテンツを終了しなくなっているような気がします。

Now, it seems that this is spreading to “entertainment,” and I (we) feel that we should no longer end a single piece of content until we have “worked hard and persevered.”

私たちは、人の評価が、自分に当てはまらないことが、別段悪いことではないことには気が付いていますが、それが、サブスクの登場によって、具体的な行動となって現われてきているように思います。

We know that it is not necessarily bad when other people's opinions do not apply to us, but this is becoming a concrete action with the advent of subscriptions.

ちょっと具体例で示しますと、私が熱狂的に好きな「NHKスペシャル」や「BS1スペシャル」は、視聴率から見れば無惨な数値のコンテンツです。つまり、私が「特異」なのです。

To give you a concrete example, the NHK Special and BS1 Special programs I am passionate about are content with miserable viewing figures. In other words, I am a “special case”.

また、昨年公開された、原爆開発のマンハッタン計画を描いた「オッペンハイマー」は、私には、"退屈"を超えて"苦痛"ですらありました。マンハッタン計画については、私が詳しい知識を持っていたから、という背景もあったかもしれません。

Also, Oppenheimer, a film released last year about the Manhattan Project to develop the atomic bomb, was not just boring for me. It was painful. This may have been because I had detailed knowledge of the Manhattan Project.

こんな、サブスク時代にあって、エンタメのコンテンツを提供する側は、恐しく低コストで作成する必要があり、おそらく、その辺を生成AIが担保する、ということになっていくのだろうと思います。

In this age of subscriptions, entertainment content providers need to be able to create it at a very low cost, and I think the AI being developed will probably help ensure this.

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昨日、嫁さんが、正月に放送されていた4時間くらいの漫才の番組の録画を見ていたのですが、彼女は、「最初の30秒を視聴して、その漫才をスキップする」を繰り返していました。

Yesterday, my wife was watching a recording of a four-hour manzai comedy show broadcast over New Year's. She kept repeating the process of watching the first 30 seconds and then skipping the manzai.

これなら4時間番組を1時間以内の視聴に抑えることができます、が ―― 視聴者にこんなことをされたら、テレビ局と番組スポンサーと芸人は、たまったものではないだろうなぁ、とも思いました。

This would mean that a four-hour program could be watched in less than an hour, but I also thought that if viewers did the same actions, it would be terrible for TV stations, program sponsors, and comedians.

2025,江端さんの忘備録

【新作Nスぺ】 “冤罪(えんざい)”の深層 ~警視庁公安部・内部音声の衝撃~ 4(土)夜10時~[総合]

“The Deep Roots of False Accusations: The Shocking Inside Story of the Tokyo Metropolitan Police Department's Public Security Bureau” 

この番組は、2020年に発生した大川原化工機の社長ら3人が軍事転用可能な機器を不正輸出したとして逮捕された事件を取り上げています。

This program covers the case of the arrest of the president of Okawara Chemical Machinery and two others in 2020 for illegally exporting equipment that could be used for military purposes.

取材班は新たに警視庁公安部内の会議内容が録音された音声記録を入手し、独自の法令解釈で事件化を推し進める幹部と、それに戸惑い抗う部下たちの生々しいやり取りを明らかにしました。

The investigative team obtained audio recordings of a meeting held within the Public Security Bureau of the Tokyo Metropolitan Police Department. It revealed the vivid exchange of dialogue between the senior officers pushing for the case to be made based on their interpretation of the law and the junior officers who were confused by this and resisted.

この音声記録と独自取材を通じて、冤罪が生まれた背景や捜査の問題点に迫っています。

Through this audio recording and our reporting, we are getting to the bottom of the background of the false accusation and the problems with the investigation.

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この事件で、取り調べを担当した警視庁公安部の捜査員3名が、調書の破棄や立件に不利な実験データの削除などの疑いで書類送検されました。

In this case, three investigators from the Tokyo Metropolitan Police Department's Public Security Bureau who were in charge of the investigation were referred to prosecutors for destroying records and deleting experimental data unfavorable to the case.

しかし、2025年1月8日付で東京地検により不起訴処分となりました。

However, on January 8, 2025, the Tokyo District Public Prosecutors Office decided not to prosecute him.

ポイントは2つ。

There are two key points.

(1)「警視庁公安部」という組織ではなく、「警視庁公安部の捜査員3名」が名指し(by name)で起訴されて、

(1) Not the organization “Metropolitan Police Department Public Safety Bureau,” but “three investigators from the Metropolitan Police Department Public Safety Bureau” were indicted by name.

(2)東京地検によって、不起訴処分になった

(2) The Tokyo District Public Prosecutors Office decided not to prosecute.

という点です。

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―― やっと、"by name"が動き始めたか

Finally, “by name” has started to work.

と思いましたが、同時に、(予想はしていましたが)"by name"を妨害する動きも見えてきました。

However, simultaneously, I could see a move to block “by name” (which I had already predicted).

私、以前から、『報復するのは「組織」ではなく「個人」にしよう』と言い続けけてきました。

I have long argued that individuals, not organizations, should take revenge.

実際に、私が腹を立てる対象というのは、「組織」という曖昧なものではなく、「顔と名前の一致する特定の個人」ですから。

What makes me angry are not vague “organizations” but specific individuals with faces and names.

結局のところ最も効果があるのは「私闘」

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さて、今回、東京地検が「不起訴」とした理由ですが、「捜査員による調書改ざんや証拠隠蔽の疑いについて、故意性や共謀を立証する証拠が不十分」としています。

As for why the Tokyo District Public Prosecutors Office decided not to prosecute this time, they stated that “there was insufficient evidence to prove intentionality or collusion about the suspicion of investigators tampering with records or concealing evidence.”

しかし、個人的な所感として『「取り調べの証拠"だけ"を破棄する」なんてこと、ありえるかなぁ』と思います。そもそも、証拠が破棄された以上、「証拠が破棄された」ことを立証することができなくなるのは当然です。

However, speaking personally, I wonder, “Is it possible to destroy only the evidence from an interrogation?” It is only natural that once the evidence has been destroyed, it becomes impossible to prove that it has been destroyed.

これは、東京地検からの『ヤバそうなものは、取り敢えず完全に破却してしまえ』『その後は、シラを切り通せ』という、国民への親切な助言なのかもしれません。

This may be the Tokyo District Public Prosecutors Office's kind advice to the public: “If it looks bad, just get rid of it completely for now,” and “After that, just keep your head down.”

江端さんのひとりごと 「神の火」

国家の組織の目的が「正義」ではなく、「国家の安定存続」であり、その為には、結構な頻度で「個人の権利や尊厳を踏み躙ることもある」ということは良く知っています(学生の頃、京都府警察殿に見せて頂きました)。

I am well aware that the purpose of the organization of the state is not “justice” but “the stable continuation of the state” and that to achieve this, “the rights and dignity of individuals may be trampled upon quite frequently” (when I was a student, I was shown this by the Kyoto Prefectural Police).

たぶん 、これで「by name」での起訴が成立すると、他の事件でも、問題がボロボロでてくるんだろうなぁ、とか考えていました。

I was thinking that if this were successful in getting a “by name” indictment, there would probably be a lot of other problems that would come to light.

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まあ、そういうこともあり、これまで、私は国家の組織の「正義」は信じずに、国家権力に目を付けられないように「ひっそりと生きる」ということに腐心してきました。

Because of this, I have not trusted the state's “justice” until now, and I have been trying hard to “live quietly” so that I don't attract the state's attention.

国家の権力機関とは良好な関係を維持することが一番です。

It is best to maintain a good relationship with the state's authority.

私が威勢がいいのはブログの中だけです。そもそも、私は、二十の冬を最後に政治的な運動には一切参加していません。

I'm only loud on my blog. To begin with, I haven't participated in any political campaigns since my 20th winter.

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東京地検(特捜部)というと、小学生の頃の私は、キラキラした憧れの目をして見ていたものです。

I would admire the Tokyo District Public Prosecutors Office (Special Investigation Department) with sparkling eyes in elementary school.

『元首相(田中角栄元首相)を逮捕するなんて、東京地検とは、なんて凄い「正義」の組織なんだろう』と思った少年は、国の組織の「正義」を信じさせてくれるものでした。

The boy thought, “What an amazing organization of ‘justice’ the Tokyo District Public Prosecutors Office is to arrest a former prime minister (former Prime Minister Kakuei Tanaka) like that. " This made him believe in the 'justice' of the country's organizations.

私のようなヒネた大人に「正義」を見せる必要はありませんが、子どもたちに「国の組織には正義がある」ということを見せることには意義があると思うんですよ。

There is no need to show justice to a twisted adult like me, but I think it is meaningful to show children that there is justice in the organization of the country.

もし、本件を起訴して、証拠不十分で敗訴したとしても、「正義のようなもの」があることを、子どもたちに見せられる ―― それは「勝ち」と言えるんじゃないんでしょうか?

Even if we lose the case due to insufficient evidence, if we can show the children that there is “something like justice” in the world, isn't that a victory?

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江端さんのひとりごと

「神の火」

2000/06/10

「いいか、草介。人が死ぬような放射能といえば、3000から4000ミリシーベルト以上だ。

そんなものすごい量の放射線を一気に全身に浴びるのは、チェルノブイリのように炉心が融けて剥き出しになる事故か、核爆弾しか考えられない。

だから、こんなふうに考えて欲しい。

人が健康に生きていくための許容被曝量線は、年間5ミリシーベルト。

胃のレントゲン検査一回で、約4ミリシーベルト。原発から出る放射線は、年間0.05ミリシーベルト以下。

それよりは確実に多い。人によっては身体に影響が出るかも知れない。危険というのはそういう意味だ」

「そうなると、あのチェルノブイリというのは、ものすごい事故やったんやな・・・・・・」

----- 高村薫 「神の火(下)」より抜粋

人が死ぬような放射能と言えば、「炉心が融けて剥き出しになる事故」か、「核爆弾」しか考えられないと、誰もが思っていました。

まさか、民家の中にある民間工場で、核爆弾の直撃をも超える1万1000ミリシーベルもの、もの凄い量の放射線を生み出す『臨界』が起こり、

その工場で作業してた工員を死に至らしめ、周辺住民を数千シーベルトの放射能の嵐の中に、数時間も放置するような事故が、

よりによって、世界中のどの国よりも原子力の恐ろしさを身にしみているはずの、我が国日本で起こるとは -----

一体、誰が予想できたでしょうか。

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1999年9月30日、午後9時。

いつもより少し早めに帰宅した私は、荷物を置き、服を着替えながら、歌番組のテレビを何気なく眺めていました。

いつも通りの日常が、一瞬して恐怖の一夜となる一番最初の出来事は、嫁さんの次の一言でした。

「東海村で、臨界事故があったんだって」

臨界事故?

その時私は、嫁さんが「一次放射能冷却水漏れ」か、あるいは「炉心制御棒の制御装置の故障」の話からたまたま出てきた、『臨界』という言葉を『臨界事故』と聞き間違えたんだろうと思いました。

その証拠に、テレビでは何事もないように、歌番組が続いていましたし、万一そんな事故が起こっているなら、警察は勿論、自衛隊の出動だってありえると思いましたから。

ところが、NHKにチャンネルを換えてみたら、そこには前日辞任を表明したばかりの野中官房長官が、東海村住民に外出禁止勧告を出しているところでした。

私は、一瞬自分の体から血が抜き取られたれ、床がぐにゃりと曲がるような錯覚を感じると同時に、そして誰のものか分からないような声で、テレビに向かって大声で吐き捨ていました。

「馬鹿野郎が! ついにやりやがったな!! これでこの国は終わりだ!!」

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日本は、この狭い国土に、なんと47基の原子炉を持つという、間違いなく世界一の原子力立国です。発電に占める割合も、火力発電を抜いて現在トップとなっております。

なんでこんなに多くの原子炉があるかといえば、、日本政府の原子力政策に負うところが大きいのですが、基本的に発電所の建築コストが、他の火力や水力発電にくらべて、ぐっと安いのです。

それに、下流の村を水没させることもないし、地球温暖化で問題となっている二酸化炭素を大気に撒き散らすこともないし、何も起こらなければ、確かに「世界一クリーンなエネルギー」

ところが、原子力というのは他のエネルギーと加えて、極めてコントロールが難しいエネルギーなのです。

原子力エネルギーの最も簡単な利用方法は、「原子力爆弾」です。

一瞬にエネルギーを放出すれば終わりです。

問題があるとすれば、携帯軽量化が難しいことです。

このような爆発を起こすためには、どうしてもある一定以上の原材料が必要となり、どう小さく作っても、一つの街を灰にしてしまうものになってしまいます。

まさか、原子力発電所で、原子爆弾のようにエネルギーを放出するわけにはいきません。

そんなことしたら原子炉なんて紙細工のように吹き飛んでしまいます。

原子力発電の技術の粋は、要するに「少しずつ、だましだまし、エネルギーを引き出す」ことにあります。

決して、暴走させてはならない。

しかし、沈黙させてもならない。

原子力発電に使う、原子力エネルギーとは、そもそも自然界において「暴走」か「沈黙」の2つの状態しか持たない物質を、そのどちらの状態にも置かせないで、しかも一定量のエネルギーを引き出さねばならないという、綱渡りも似た超高精度の制御を必要とするものなのです。

そして、もう一つ。決して忘れてはならないことがあります。

原子力は、いったんエネルギーを放出し始めたら止めることができません。水をかけたり、いつかは燃える物がなくなって消える火とは、全く性質が異なります。

数百年から先年の単位で、人体に有害な強力なエネルギーが巻き散らされ続け、それを決して停止させることができないのです。

そのエネルギーは、人間の臓器をずたずたにし、遺伝子を破壊し、変種の細胞(ガン細胞等)を発生させます。

特に母体の胎児に対する影響は深刻です。

はっきり言って、原子力は危険です。

そもそも科学技術というもので、完全に安全なものというものはありませんが、それ以上に、この完全でない技術は、おおよそ完全とは縁の遠い人間の手で運用されているのです。

いったん壊れたら最後、周辺地域を死滅させる技術の恩恵というものが、どれほど人間に必要なものなのか、私にはよく分からないのです。

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臨界とは、ある一定量の放射性物質が、一個所に集められることによって、互いの放射性物質を互いを叩き合うことで、そのエネルギーである放射線が全力で撒き散らされる状態をいいます。

この撒き散らされる放射能というのは、光に匹敵する速度で放たれる、全方向向きの機関銃の一斉掃射のようなものです。

加えて、そのエネルギー量は弾丸の比ではありません。

人間の体などは言うまでもなく、建物の壁も簡単にぶち抜きます。

ちなみに、レントゲンは、弱い放射線を非常に短い時間一斉照射し、それが通過した箇所と、通過しにくかった箇所を比較することで、レントゲン写真として写されるわけです。

当然、体を無数の放射線によって打ちぬかれるレントゲン撮影が、危険でないわけがありませんので、レントゲン技師は、写真を撮るとき、金属ドアの向こうに逃げる訳です。

ちなみに、コンピュータのバグで、このレントゲン写真の照射時間の桁を間違えて、人を殺してしまった事故もあります。

臨界事故と聞いた瞬間、私の目の前には外壁が吹き飛んで、炉心がむき出しになった原子炉と、臨界の放射性物質の濃縮ウランが破片となって飛び散り、空から降ってくる死の灰が見ました。

わずか1グラムで半径500メートルの人間を殺傷するという廃棄放射性物質プルトニウムなんぞが、目に見えない粒で体に付着したり、万一体内に入ったら、命の助かる見込みはありません。

体内から放射線の一斉掃射をされて、平気なわけがありません。

即死という慈悲すらもなく、数時間から下手をすれば数年かけて、臓器の機能が次々と停止し、訳の分からない苦痛の中で、手立てもなくじわじわと死んで行くしかない。

放射性物質が我々に与える死とは、最大級の苦痛を共なう最も残酷な死なのです。

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テレビを見た瞬間、私が考えたのは、東名高速道路への最も速いアクセスの方法でした。

この社宅から脱出するのに必要な時間と、名古屋の実家への連絡。

そして、同時に、東海村から飛び散った濃縮ウランが、都心を超えて神奈川に飛来する時間を計算していました。

東京を含み関東一帯はほぼ全滅。

名古屋も決して安全ではない。

場合によっては、嫁さんと子供だけでも、福岡(嫁さんの実家)に避難させ、それもかなり急がねばならない。

事態が解明されるにつれ、避難する車で高速道路は麻痺状態に陥ることは確実でした。

場合によっては、緊急車両優先のため、全てのインターチェンジが封鎖されるかもしれない。

官房長官のコメントを聞いている限りでは、危険な状態にある地域は限定されているとのことでしたが、古今東西、「国の安全宣言」ほど信用の出来ない宣言はありません。

世界で最初に核実験をやったアメリカは、メディアなどの広報機関を通じて、地域住民に対して「安全」を繰り返し宣伝していました。

その結果は、その地域一帯に飛びぬけて高い白血病発病率をもたらし、家族がばたばた倒れていくのを、ただ見ているしかない状況となりました。

チェルノブイリの近く、ロシアのキエフでは、放射性ウランが大気にばらまかれたその当日にすら、事故のことは住民伝えられませんでした。

住民はいつもと変わらない週末の公園の散歩を楽しみながら、大人から子供に至るまで、致死、あるいは後遺症と呼ぶにはお釣が来るくらい悲惨な状態になるほどの放射性物質とその放射線を喰らったのでした。

内閣官房長官は、半径500メートルの住人は『屋外に出ないように』と勧告をしていました。

雨や夜露じゃあるまいし、民家の壁を軽くぶち抜く放射線に対して、そんな警告が何になるんだろうと、慌ただしく脱出経路を考えながら、頭の中で思っていました。

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皆さんに警告します。

国は、絶対に『逃げろ』と言いません。

というか、言えないのです、立場上。

なぜなら、日本国政府は、原子力産業を基幹に据えるエネルギー政策を行うにあたって、『原子力の絶対的な安全性』を国民に対して約束しているからです。

『逃げろ』と言うことは、日本国政府は国民に対して嘘をついていたことを、公に認めることになってしまいます。

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話はちょっと変わりますが、何年か前、動燃(動力炉核燃料事業団)が、事故の隠蔽を図り、何度も嘘の上塗り繰り返し、その都度、嘘が見つけられ、その度に謝罪会見をしていた、見苦しいことこの上もない愚劣な行為を繰り返していたことがあります。

この時、私は「こりゃ、いいなあ」と思いました。

まず嘘をつく。

嘘が見つかったら謝る。

見つからなければ黙りつづける。

正直に言っても、どっちみち怒られるなら、黙っていて見つからないほうに賭ける。

これは、公に責任を持たない利己的な個人の理論としては、正しいと思いますが、いったん壊れたら最後、周辺地域を死滅させる原子力を管理する公の機関が、まあなんということか、この理論で動いている。

その為に民草たる民衆の命なんぞは後回しにして、自己保身のために動き、最後まで謝罪を渋り、謝罪した後は、我々の血税から賠償金の支払いをする。

何の邪心も憤りもなく、心から素直に『やっぱり、体制サイドは、おいしいなあ』と、羨ましく思ったものでした。

閑話休題

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私が、尋常ではない脅え方をしているのをみて、嫁さんの方もつられて脅え始めたようです。

一般的に、世の中一般の原子力に対する意識は、嫁さんと大体同じくらいのようですが、良いとか悪いとか関係なく、私はそれが一般的だと思っています。

だって、放射能の人体に対する影響なんて、義務教育では絶対に教えないんですもの。

米国の原爆教えても、日本の南京大虐殺を教えないようなもんです。

そうして、やがて私は、でたらめな歴史を信じている被害妄想の爺さんとして扱われて、孫たちに嫌われるようになるんだ。

ふん、だ。

しかし、ニュースを聞いているうちに、『なんで、原子力発電所の名前がでてこないんだ?』と不思議に感じ始めました。

ウラン加工施設で臨界事故、と言うのがどうにも解せません。

ニュースの話を聞いていると、原子炉が爆発したという話もなければ、自衛隊の治安出動の話もありません。

東京が放射能汚染されるとなれば、当然、極東地区の軍事バランスは一気に崩れます。

「北」が動き、朝鮮半島に再び火がつくというという論説は、まだ出ないとしても、どうも事件が局地的な様相を呈しているのが、しっくりきませんでした。

なぜ自衛隊と警察は組織の総力を挙げて、住民の大エクゾダス(脱出)を指揮しないのかをしないのだろうか?

そして、ニュースを見ているうちに、臨界事故の原因が、てんで全くお話にならない稚拙な事故から発生したことがわかってくるにつれ、私は、徐々に腸が煮え繰り返ってくるのを感じていました。

「・・・・阿呆か」

そもそも放射性物質は、それ自体が放射線を巻き散らかす物質なので、分散して管理するのが当たり前です。

放射性物質を過度な密度で一個所に集めれば、自然に核分裂反応を始め『臨界』に至るのは、物理学の「いろはのい」よりもっともっと前。

今回の事故の真相は、「規定量をはるかに超えたウラン溶液を、一個所の容器(沈殿漕)に集めた為に『臨界』が始まってしまった」という、信じられないくらい馬鹿馬鹿しい事故だったのです。

原子力やら放射能やらと聞くと、何やら私たちの生活に直接関係がない難しそうなもの、と思われる方も多いと思いますが、別にそんなことはありません。

ウラン鉱石などは、日立(日立製作所ではない)などでも産出されています。

その石自体は、あまり強くはありませんが、放射線を撒き散らしています。

民間人には難しいかもしれませんが、適度に精製して溶かしたものを、一定量以上トイレの掃除用のバケツにでもほうり込んでおけば、自然に臨界は始まってしまいます。

しかし、臨界が一旦始まってしまったら最後、その放射性物質のポテンシャルエネルギーが消えてなくなるまで、

----- 何百何千もの熱白ライトが一箇所に集まり、その圧倒的な光源から発せられる光線の束が、体を通り抜け、後を見ると自分の影すらもない -----

というような、目には見えない放射線を撒き散らし続けるのです(*1)。

(*1)可視光線も放射線の一種です。非可視光線の紫外線などは、皮膚ガンを誘発することで危険と言われていますが、体を「貫通」するほどのエネルギーはありません。

今回の臨界事故が、

- チェルノブイリ原子力発電所事故の様に、大気中に、放射性物質が放出された訳ではないこと

- 危険区域は、臨界発生地点の周辺に限定されること

すなわち、臨界発生地点は、事故現場一個所に集中され、放射能物質漏れが引き起こす大気汚染や土壌汚染の心配は、とりあえずしなくてよいことが分かったからです(*2)

少なくとも放射性物質が、空から降ってくることがないことをようやく理解し、私はへなへなと、畳の上に座り込んでしまいました。

少なくともこれで、全力で逃げ出す算段は考えなくてよいと思ったからです。

(*2)強力な放射能を照射された物質は、それ自体が放射性物質に転換することもあります。

ほっとしたのも束の間。

現在、放射能の台風の目のど真ん中にいる、東海村やその周辺の人たちにとっては、放射性物質が大気に放出されようがされまいが、凄まじい放射線の嵐の中にいるという事態は何も変わっていません。

私は、東海村近くの、日立製作所おおみか工場で、半年近く一緒に働いてきた仲間がいました。

皆、私が困ったときには、すぐに駆けつけて助けてくれた、本当に気持ちの良い同僚でした。

少なくとも、私と私の家族が放射能の直撃をくらう場所にはないことを確認した後も、私は彼らのことを考えると、身が締め付けられるような苦しさを覚えました。

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臨界が停止するまでの間の、今回の事故の経緯を以下に記述します。

JCO転換試験棟で、作業員が「青い火を見た」と言う臨界事故が発生したのが、9月30日午前10:30。

この瞬間、試験棟内の臨界警報装置が一斉に吹鳴。

10分後に従業員がグランドに避難(この間の被曝推定量は、後述)。

事故発生から50分後、JCOが科学技術庁に「臨界事故の可能性がある」との文言を含んだFAXを送付。

茨城県庁に連絡が入り、東海村に事故対策本部が設置されるのが、事故発生から1時間後。

その後、科学技術庁への第2、3報の連絡、ひたちなか西署に対策本部設置、現場から半径200メートル以内の立ち入り規制。

この時、現場に立った警察官は、防護服の着用を指示されていませんでした。『住民の安全を確保できない状況で、警察官だけが防護服を着るように指示を出せなかった』と言う幹部の判断は、ナンセンスかもしれないけど、その苦しい立場は理解できました。

東海村に災害対策本部設置などやって、ようやく村内広報が開始されたのが、事故発生から2時間後の12時30分。

臨界の放射線の嵐の中で、住民に何も知らせず2時間!

事故現場半径500m以内の住人170戸に避難の「勧告」をしたのが、さらに1時間半後の14:00。

15:00 東海村は法令(災害対策基本法)に基づかず、独自の判断で半径350m以内の住人に避難を「要請」。

この辺になって、ようやく内閣に詳細な情報が届くようになります。

マスコミがこの事故に気がつき、日本全国に速報として届いたのが、夕方頃。

私が調べた限り、この時点では、事故現場を除いて日本中のどこにもパニックは発生していません。

この事実に、私は頭を突かれたようなショックを受けました。

「臨界事故」と聞いた瞬間、爆発して炉心がむき出しになった原子炉を想像した、私のような人物はほとんどいなかった、ということだからです。

21:00 帰宅した私が、歌番組のチャンネルからNHKに替え、自失呆然となっているところに飛びこんできたのが、原子力安全委員会の「再臨界の可能性がある」との見解発表でした。

この時、私は暗澹たる思いになったのを覚えています。

一体、誰がどうやって臨界を止めるのか?

第一、暴走を始めた臨界を止める手立てが本当にあるのか?

例え防護服を厳重に着用したとしても『臨界の原子炉の中に入って、制御棒を手で入れてこい』と、同じような命令を、一体、誰が出し、誰が受けることができると言うのか。

23:30 科学技術庁は、核分裂反応を抑えるために、冷却装置の水抜きをすると発表。

核分裂を起している容器は、冷却装置で覆われています。

この冷却装置の水は、放射線を透過しにくい為、放射線は水によって跳ね返され、再び核分裂物質を叩くことになります。

その結果、再臨界が発生していると判断したようです。

しかし、私は、もしそれで、臨界が止まらなかったら、水を抜いた分、さらに強烈な放射線が放出されるのではないか、と考えていました。

多分、国や科学技術庁は、この国の終わりの日まで、決して公表することはないと思いますが、

---- もう、それしか、残された手がなかった -----

と、私は信じています。

そして、ついに、JCO社員から18人が指名され「決死隊」が結成されます。「嫌なら断ることもできる」と言われても、誰も辞退しなかったそうです。

職場長が人選を始め、短時間で作業を終えるため、ベテランの8組16人がまず、指名され、防護服を着た作業員2人が転換試験棟に近づいたのが、午前2時35分。

3:00 沈殿漕の冷却水を抜き取る作業が開始され、4:30 物外部のクーリングタワーの水を抜き取る目的で、タワー下部のドレインをハンマーで叩き壊す為、現場に入りました。

(以下、朝日新聞10月22日朝刊より抜粋)

----- 1人がライトとストップウオッチを手にし、もう1人が写真を撮る。まず、現場の状況を知るためだ。

「ピー」。

1枚目の写真を撮ろうとした瞬間、胸につけたガンマ線の線量計が高い音とともに激しく振動した。

中性子線の被曝量は当初「20ミリシーベルトまで」と計画した。

ガンマ線はその約10分の1と推定した。

警報機能が付いたガンマ線量計を2ミリシーベルトにセットした。

写真を3枚撮り、エンジンをかけっぱなしで待っていた車に飛び込むと、猛スピードで戻った。

転換試験棟のすぐ外に1分いただけで、1人は中性子線を112ミリシーベルト被ばくした。

通常の生活で浴びる放射線量の約100年分だった。

「これでは被曝しに行くだけで、作業ができない」と戻ってきた1組目の作業員が言い張った。

「計画被ばく線量の限度をあげるしかない」。

3分は作業できるように、2組目からは「50ミリシーベルト」に計画変更した。

予定した8組では水ぬきはできず、2組増やした。

2度現場に行った人もいた。

パイプが曲がっていたりして思わぬ事態が続いた。

5組目が配管をハンマーで壊した。

配管に残る水をガスの勢いで抜くための作業を6、7、8組が担当し、9組目がガスのボンベをつないだ。

間もなく、ほぼすべての水が流れ出た。

1日午前6時14分、中性子線は通常値に戻った。

18人全員が被ばくした -----

(抜粋ここまで)

このように、現場での作業の9回目を終えた6:15、東海村村長が、臨界が鎮静化しつつあることを、会見で発表しました。

そして、10月1日午前7:30 東海村村内放送で、住民に対して「放射線が平常値に戻った」ことが伝えられたのでありました。

事故発生から、実に21時間。

この間、臨界の放射線は、JCOの決死の作業隊は勿論、JCOとは何の関係もない、地域住民を襲い続けたのでした。

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数日後。

これまでパートナーとして、一緒に仕事をしてきたK嬢が、この度、製品開発支援として、おおみか工場に派遣になることになりました。

今回の臨界事故以前に決まっていた派遣ですが、K嬢は、ユニットの予算担当の私と課長に対して、次のような内容のメールを送ってきました。

『この度、おおみか工場に派遣になることになり、これに伴い、携帯用放射能測定装置をユニット予算で購入したい。

その理由は以下の通り。

(1)先日の事件から明らかなように、政府発表は全然当てにならない。自分の安全は自分で守らなければならない。

(2)この時期に、わざわざ東海村周辺に望んでいきたい訳があろうはずがない。

(3)従って、会社が測定装置の購入を負担するのが筋であると考える。』

私は、彼女のこのメールを受け取って5秒以内に返事を書きだし、3分以内に返事を出し終えました。

『ユニット予算担当者として、正式に認可する。予算枠は無視してよい。もし、誰かが文句を言ってきたら、全力で論陣を張る。即日発注されたし』

私は、「こういうことろでこそ闘わにゃ、私の存在している意味がないだろう」とばかりに、大見得を切ったのでありました。

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後から後から、唖然と通り越して、愕然となる事実が判明してきました。

バケツでウラン溶液を運んでいたこと。

違法な放射性物質の取り扱いを、マニュアル化して、全社で推進していたこと。

そして何より、原子力の基本的な教育を行っていなかったこと。

従業員は、「臨界」の意味すらも知らされず、業務を遂行させられていたの
です。

被曝した作業員が意識不明の重体に陥ったというニュースを、心配そうに見ながら、『助かるといいね』とつぶやく嫁さんに、私は首を横に振ることしか出来ませんでした。

「奇跡が起こって欲しい」と繰り返す関係者やマスコミに対して、私は『すでに奇跡は起こっている』と、心の中でつぶやいていました。

1万1000ミリシーベルト。

今回の事故で、被害者がどれくらいの時間、この放射能の照射を浴びたのかは定かではありませんが、仮にこれを十分間と仮定して、私は電卓を叩いてみました。

びっくりしました。

一人の人間が一年に自然界から受ける放射能(年間5ミリシーベルト)と比較した結果、単位時間あたりの被曝量は、実に1億1563万2000倍。

(計算式)

11000[ミリシーベルト] / 10[min] = 578160000ミリシーベルト / 1 year

578160000 / 5 = 115632000

こんな信じられない量の放射能を、一気に照射されたのにも関わらず、まだ治療が続けられていること。

これを奇跡と呼ばず、何と呼びましょうか(*3)(*4)。

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青い火を見た -----

業務を担当していた作業員が語っていたという、このコメントを聞いたとき、私は、思わず目をつむって、天を仰ぎました。

臨界のウランが発する青い炎。

それは、人間が決して見ることの出来ない、そして、決して見てはならない「神の火」

この「神の火」を見てしまった人のこと、その苦しみと悲しみ、そして間違いなく近づいている運命の日のことを思い、張り裂けそうな胸の痛みで、しばらく何も喋れませんでした。

そして、私は、灯のついていない自分の部屋に入り、パソコンデスクの前に座りました。

真っ黒のディスプレイの画面を睨みつけながら、『決して、忘れてなるものか』『決して、忘れさせてなるものか』と呪詛の言葉を吐きながら、私はパソコンのスイッチを入れました。

(*3)事故発生後83日目、JC0社員の大内久さん(35)が、放射線被ばくによる多臓器不全で死亡

(*4)事故発生後211日目、JC0社員の篠原理人さん(40)が、同じく、放射線被ばくによる多臓器不全で死亡

2000年6月10日現在

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

未分類

親の介護を真剣にやったなどとは、口が裂けても言えない私ですが、それでも介護によって、私は、人間の人生を「憎悪」するようになりました。

あんなに、愚直に、真剣に、一生懸命、真面目に、私を育てて生きてきた、あんな立派な人たち(私の両親)の、最期が「あれ」かよ、と。

人生のいきつく先が「あれ」であるなら、何か目指す生き方に意義はあるのか?

私が、『何かを目指す生き方』から、『完全に降りた』と確信したのは、父が死に、それに引き続き、母が死んだ時でした。

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両親には申し訳ないとは思うのですが ―― 多分、息子が社会で活躍して、多くの人から尊敬されることを期待していたと思う ―― けど、私は、もう、誰かや、何かを背負うような生き方は、やめたのです。

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と、ここまで書いて、その後の文章を、ChatGPTに作成をお願いしました。

この後の文章を自由に作ってみて下さい。

それでも、両親の最期を看取ったことは、私の中に一つの「自由」をもたらしました。

「何かを目指す」生き方を降りた私は、同時に、何者かであろうとする重圧や、誰かの期待に応えようとする義務感からも解放されました。皮肉にも、あれほど憎悪していた「人生」というものから、少しだけ距離を取ることができたのです。

両親が人生をかけて示してくれたのは、「努力や真面目さが報われるとは限らない」という冷徹な現実でした。そして、それでもなお、人間として生きる意味や価値を模索し続ける姿勢そのものでした。

彼らの死を通じて学んだのは、結局、何を成し遂げるかよりも、「どのように生きるか」が重要なのかもしれない、ということです。誰にも期待される必要はない。何かに縛られる必要もない。ただ、自分が「生きている」と思える瞬間を、大切にすればいいのだと。

そう考えると、心に少しだけ余白が生まれました。かつての私なら、そこを何かで埋めようと必死になったかもしれませんが、今はその余白をそのままにしておこうと思えます。空っぽのままでいる自由を、ようやく受け入れられるようになったのです。

人生の意味に疑問を持ちながら、それでも生きる。両親が残してくれた、最後の贈り物のように思えます。

そうではなくて、『人生に意義がない』ことを強調するネガティブな文章をお願いします。

人生に意義なんてない――それが、私が介護を通じて悟ったことのすべてでした。

どれだけ真剣に生きようが、どれだけ他人に尽くそうが、その果てに待っているのは、ただの衰えと死。それだけのことです。苦労して築き上げた何かも、記憶に刻まれた思い出も、最後にはすべて霧散する。肉体は弱り果て、意識は曖昧になり、最終的には他人の手を借りて生きるしかなくなる。それが「人生」というものの正体です。

私の両親は、生涯を通じて誠実で、努力を惜しまない人間でした。それでも彼らの最期は惨めでした。尊厳なんてものはとうに消え失せ、他人に世話をされながら、それでも生きることを強いられる日々。その姿を目の当たりにしながら、「こんな終わり方をする人生に意味などあるのか」と、何度も問い続けました。

もし人生に何らかの意義があると信じていたなら、私は今でも何かに挑み続けていたでしょう。しかし、そこに何の意味も見出せなくなった今、私はただ「何も目指さない」という選択をしたに過ぎません。無意味なものに努力を注ぐほど馬鹿らしいことはありません。

「何かを成し遂げること」には価値があるという幻想が、いかに多くの人を欺いてきたことか。その先にあるものがただの虚無である以上、そこへ向かう過程にどんな輝きがあったとしても、それは錯覚に過ぎません。すべては、いずれ消え去る泡のようなものです。

そして、その泡を追いかける行為こそが、人間の愚かさの象徴だと、私は思わずにはいられません。

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私は、こちらの文章の方に「いいね」を付けました。

2025,江端さんの忘備録

「権力側が銃を持つのであれば、市民側も銃を持つ」というのは、アメリカ合衆国憲法修正第2条(Second Amendment)に明記されています。

The Second Amendment to the United States Constitution clearly states that “if the government has guns, then the people should have guns too.”

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A well-regulated militia is necessary for a free state's security, and the people's right to keep and bear arms shall not be infringed upon.

(よく規律された民兵は、自由な国家の安全に必要であるため、人民が武器を保持し、携行する権利は侵害されてはならない)

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# この引用が妥当かかどうかは、私も「?」とは思うところがありますが、このまま進めます。

# I'm unsure whether this quote is appropriate, but I'll go on.

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日本の銃規制は、「武力による市民の権力奪取を認容しない」ということであり、権力側に著しく有利な規制のようにも思えます。

Japan's gun control policy is based on the idea that “we do not accept the use of force to seize power from citizens,” and it seems to be a regulation that is highly advantageous to the side in power.

しかし、我が国においては、警察官が銃を向けるだけで事件となり、発砲したら大事件になります。

However, in Japan, if a police officer points a gun at someone, it becomes a case, and if they fire, it becomes a significant incident.

また、私が知る限りにおいて、自衛隊が"市民"に向けて武力行使をした、ということもありません("市民"の定義がちょっとキモなんですけど ―― 興味のある人は調べて下さい)。

Also, to the best of my knowledge, the Self-Defense Forces have never used force against “civilians” (the definition of “civilian” is a bit weird - if you're interested, please look it up).

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昨日、私の家の近くの大学キャンパス内の講義中に、学生の一人がハンマーを振り回して、8人の学生が負傷する事件が発生しました。

Yesterday, during a lecture on the campus of a university near my house, one of the students swung a hammer and injured eight other students.

これは大事件なのですが、その時、私はふと思いました。

This was a significant incident, but at the time, I suddenly thought to myself:

もし、日本に、世界一厳しいといわれる銃規制の法律がなかったとしたら ―― 米国の学校銃乱射事件と同じように、何人もの死傷者が発生していたということだ、と。

If Japan did not have the world's strictest gun control laws, then, just like the school shootings in the United States, there would have been many casualties.

そんなことを考えていたら、ゾっとしてきました。

As I thought about this, I started to feel cold.

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銃の所持の正義やロジックがどうであれ、私は「人が簡単に殺されない社会」の方が絶対にいいです。

Whatever the logic or justification for gun ownership, I prefer a society where people are not killed so easily.

―― 「SNSでの誹謗中傷はやめよう」とは言う人はいても、「SNSを使うのをやめよう」と言う人はいない

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ちなみに、今回の被疑者は韓国籍の学生のようですが、この事件で特定の外国の人全体を差別するようなテンプレなDisは止めましょうね。

Incidentally, it seems that the suspect in this case is a student of Korean nationality, but let's not make blanket generalizations about people from a particular country because of this incident.

そんなことしたら、日本人の過去の事件の中でも「特にもの凄い奴」を持ち出されますよ。

If you do that, they'll bring up the “particularly terrible guys” from among the Japanese people's past incidents.

かつて、日本人は、イスラエルの人々に対して、ハマスと同じことをやったことがあります。

2025,江端さんの忘備録

私の嫁さんは「忠臣蔵は日本人の精神的支柱である」との持論を持っており、近年、忠臣蔵のNHKの大河ドラマが放映されていないことに、強い危機感を抱いています。

My wife believes that “Chushingura is the spiritual pillar of the Japanese people,” she feels a strong sense of crisis that NHK's long-running historical drama series based on Chushingura has not been broadcast in recent years.

というのも、娘たちが、『忠臣蔵? 何それ?』という反応をしたことに、ショックを受けていたことに起因します(と記憶しています)。

This is because she was shocked by the reaction of my daughters, who said, “Chushingura? What's that?” (at least, that's what I remember).

私が、「忠臣蔵」という"コンテンツ"に対して、各種の検討をしてきたことはご存知かと思いますので、今回は割愛します。

I'm sure you know I've done various studies on the “Chushingura” content, so I'll skip that now.

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昨夜、ちょっと面白い夢を見ました。

I had a rather interesting dream last night.

『大石内蔵助と吉良上野介による公開討論会』です。

This is a public debate between Oishi Kuranosuke and Kira Kouzukenosuke.

両者が、(権力(江戸幕府)の息のかかっていない)第三者の屋敷(商人の屋敷)で、庶民を傍聴人として、直接討論を行うというものです。

The two would debate directly in the presence of familiar people, in the residence of a third party (a merchant) who was not under the control of the government (the Edo shogunate).

この公開討論会の目的は、「双方が自分の正当性を主張しあう」よりは、むしろ「この事件に至ったバックグラウンドや動機の情報共有を行う」ことにあります。

This public discussion aims not to “argue over whose side is right” but to “share information about the background and motives that led to this incident.”

その上で、武力行為に及ぶのであれば、それはそれで良い、と。

And if it comes to armed action, it is OK.

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忠臣蔵は、そもそも創作物ですが、日本史上もっとも二次創作が多い作品の一つです。

Chushingura is a work of fiction, but it is one of the most heavily reworked works in Japanese history.

現時点で『大石内蔵助と吉良上野介による公開討論会』という観点の創作は、まだ"ない"のではないかな、と思っています(ウラは取っていません)。

At this point, I don't think any creative work takes the perspective of “a public debate between Oishi Kuranosuke and Kira Yoshinosuke” (I haven't checked).

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今、これを忘れないようにメモしている訳なのですが、まあ、「これを映画にするのは難しい」というのであれば、アバターAIのBOTによる議論、というのも良いのではないか、と考えています。

I'm writing this down now so I don't forget it, but if making this into a movie is challenging, I think it would be good to discuss using Avatar AI bots.

大石内蔵助のAIエージェントと吉良上野介のAIエージェントが、SNSで討論をする、というのであれば、実現性は上がるのではないか、と。

If Oishi Kuranosuke's AI agent and Kira Kouzukenosuke's AI agent were to debate on social networking sites, I think the feasibility would increase.

これ以外にも、歴史上の人物をAIエージェントとすることで、各種の新しいコンテンツが、ネット上で大量発生すると思います。

In addition, I believe various new types of content will be generated in large numbers on the internet using AI agents to represent historical figures.

なにしろ対象は歴史上の人物で、故人ですので、フェイクニュースとかの心配も不要です。

After all, the subject is a deceased historical figure, so there is no need to worry about fake news or anything similar.

あたらしいエンタメの一形態として、面白いのではないかと考えます。

I think it would be an interesting form of new entertainment.

―― という卒論のテーマを提供します。学生の皆様、是非ご検討ください。

I will provide you with a thesis topic. Students, please consider it.

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実は、この手法、国際外交に拡張もできるかなぁと考えていますが、面倒くさくなってきたので、本日はここまでとさせて頂きたいと思います。

I think this method could be extended to international diplomacy, but it's starting to get complicated, so I guess I'll stop here for today.

 

2025,江端さんの忘備録

移動中や運動中に音楽が聞けるようになれば、世界は変わり、私たちは幸せになるだろう

If we could listen to music while we move or exercise, the world would change, and we would be happier.

書類を自宅から提出できるようになれば、世界は変わり、私たちは幸せになるだろう

If we can submit documents from home, the world will change, and we will be happy.

移動中や運動中にテレビが見れれば、世界は変わり、私たちは幸せになるだろう

If we could watch TV while we're moving or exercising, the world would change, and we would be happier.

定額で映画が好きなだけ見れれば、世界は変わり、私たちは幸せになるだろう

If we could watch as many movies as we like for a fixed price, the world would change, and we would be happy.

自宅で仕事ができるようになれば、世界は変わり、私たちは幸せになるだろう

If we can work from home, the world will change, and we will be happy.

銀行や役所で列に並ばずにすむようになれば、世界は変わり、私たちは幸せになるだろう

If we can avoid queueing up at banks and government offices, the world will change, and we will be happier.

なるほど「世界は変わった」。でも「私たちは幸せになった」のか?

I see, “The world has changed.” But have “we” become happier?

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もっと具体的に言えば、

To be more specific,

計算機の速度が、今の1000倍早くなって、エクセルで扱えるセルが1万倍に増えたら、一日の仕事は1時間で終ってしまうじゃないか。

If the speed of computers increased 1000 times and the number of cells that Excel could handle increased 10,000 times, then a day's work could be finished in an hour.

そのうち、私たちはやることがなくなるんじゃないか。

Before long, won't we have nothing left to do?

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私は、「そうなってもいい」し、むしろ「そうなるべきじゃないの」って思っています。

I think it's okay if that happens, and I think it should happen.

なのに、なんで、毎年、毎月、毎日、どんどん、息苦しくなっていくんだろう。

So why do I feel like I'm getting more and more suffocated every year, every month, every day?

セキュリティパッチ警告とか、AI倫理基準チェックとか、ライセンス適合性チェックとか、コンプライアンス遵守チェックとか。

Security patch warnings, AI ethical standards checks, license compatibility checks, compliance checks, etc.

もちろん、これらが必要であることは、私も理解してはいるのです。

Of course, I understand that these things are necessary.

ただ、もう、言いようがないほど「息苦しい」。

However, it is so stifling that I can't find the words to describe it.

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昔、コンピュータは、私たち一部の人間だけが扱っていました。

In the past, only a few of us could use computers.

テクノロジーの進化によって、コンピュータを多くの人が使えるようになりました。それは、とても良いことだと思います。

Thanks to advances in technology, computers are now accessible to many people. I think that's a very good thing.

しかし、このコンピュータリテラシーの拡大と発展によって、コンピュータがもたらす問題は、もはや、会社や国家の存続を揺るがしかねないものにまでなってしまいました。

However, due to the expansion and development of computer literacy, the problems caused by computers have become something that could shake the very existence of companies and countries.

『テクノロジーが人を幸せにする』などと尊大なことは言いませんが、テクノロジーが『苦痛を拡大している』という状況の中にいることに、私はジレンマを感じます。

I don't want to sound pompous by saying things like “technology makes people happy,” but I feel a dilemma where technology is “exacerbating pain.”

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たしか、どっかの会社(グループ)の企業理念は、「技術で社会に貢献する」だったように記憶しています。

One company's (group's) corporate philosophy was “to contribute to society through technology.”

しかし、最近の私は、「技術で社会に貢献する」というフレーズ自体が、怪しいんじゃないか? とか、考えるようになってきています。

However, I have recently started to wonder whether the phrase “contributing to society through technology” is suspicious.

むしろ「カルトで社会に貢献する」の方が、(人によっては)分かりやすいのではないか、と。

I think that “contributing to society through a cult” is easier to understand (for some people).

うん、私、やっぱり疲れているんだ、と思います。

Yeah, I think I'm tired after all.

―― なんだ、これなら、「幸せな来世の為に、現世で功徳を尽くせ」と主張している宗教(カルトを含む)の方が、まだマシじゃねーか

2025,江端さんの忘備録

私が新人の頃、「マンガやアニメは世界に日本人を語る重要なコンテンツとなる」と熱く語る上司がいました。

As a new employee, I had a boss who was passionate about the idea that “manga and anime are important content that can be used to talk about Japanese people to the world.”

まあ、当時は、ジブリなどが、すでに世界進出を成し遂げていましたが、現在のような巨大なマスとなるとは、私も予想しませんでした。

At the time, Ghibli and other companies had already achieved global success, but I never imagined they would become such a massive mass as they are today.

NHKスペシャル 新ジャポニズム 第1集MANGA わたしを解き放つ物語を見ていて、イスラム社会における厳密な性のタブー(はっきり言えば、同性愛です)を、もしかししたらマンガ/アニメが、『ソフトランディング』させるかもしれない、と考えると、ワクワクしてしまいます。

Watching the NHK Special: New Japonism, Vol. 1: Manga - A Story That Sets Me Free, I get excited when I think that manga/anime might be able to 'soft-land' the strict sexual taboos (or, to be clear, homosexuality) in Islamic society.

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ちなみに、私は、「政教分離」の真逆である「政教一体」にも、一定の価値を認めています。

Incidentally, I also recognize a specific value in “the integration of politics and religions,” which is the opposite of “separation of politics and religions.”

『多様な価値観』というのは良いことだとは思うのですが、これは果てし無く続くフィードバックの連続であり、正直、私のようなシニアには「ついていくのが、しんどい」のですよ。

I think that “diverse values” are a good thing, but this is an endless series of feedback, and honestly, it's hard for seniors like me to keep up.

比して、統一的な価値観はラクです。特に宗教解釈は、変更がされてにくいですし、国家を運営していくには、こっちのほうがコストが安いはずです("権利"だの、"人権"だのと叫ぶ人間が少ないことは、政府には大変ありがたいことなのです)。

In comparison, it is easy to have a unified set of values. In particular, religious interpretations are difficult to change, and it is cheaper for the government to run the country (“It is very much appreciated by the government that there are not many people shouting about ‘rights’ and ‘human rights’”).

# ちなみに、私が語っている「統一的な価値観」とは「宗教をベースとした原理主義」とか「マルクス・レーニン主義」くらいの単純なもので、非常に狭い範囲であることを、あらかじめご了承下さい("稚拙な知識"の批判は甘んじて受けます)。

# By the way, please note that the “unified values” I am talking about are something as simple as “religious fundamentalism” or “Marxism-Leninism” and that they are very narrow in scope (I will accept any criticism of my “shoddy knowledge”).

しかし、統一的な価値観による国家運営は、新しい価値の創生を邪魔し続けることになります。なにより、統一的な価値観は、私の思想の自由(一言でいえば「ブログ」の掲載です)を妨害する方向に働くはずです("必ず"です)。これは、私には困るのです。

However, managing a country based on a unified set of values will continue to hinder the creation of new values. Above all, a unified set of values will work to obstruct my freedom of thought (in a word, the publication of my blog) (“it is certain”). This is a problem for me.

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世界で一番読まれてきた本は、「聖書」です。

The most widely read book in the world is the Bible.

2番目に読まれてきた本は、「資本論」です(以前、私、これを「ドラえもん」と記載しましたが、今回、修正します)。

The second most-read book is “Das Kapital” (I wrote “Doraemon” for this book before, but I will correct it this time).

いずれの本も、世界の価値観を構築してきた、二台巨頭と言える書物です。

Both of these books are the two great books that have shaped the world's values.

で、ふと、考えたんですよ。

Then, I suddenly thought about it.

もし、日本のアニメやマンガが、「イスラム」や「共産主義」の思想と共存しながら、ソフトランディングさせるコンテンツになるのであれば ―― それらは「聖書」と「資本論」を超える凄いモノになるんじゃね?

If Japanese anime and manga can become content that coexists with the ideas of “Islam” and “communism” while making a soft landing, then they could become something even more amazing than the Bible and Capital.

って。

そんなこと考えていると、私はワクワクしてしまうんですよ。

Thinking about things like that makes me excited.

2025,江端さんの忘備録

外国の方の日本食の賞賛や日本移住の褒めたたえる記事を、「そうかなぁ?」と疑問に思いながら読んでいます。

I read articles praising Japanese food and immigration to Japan by foreigners with a sense of doubt, thinking, “I wonder if that's true?”.

そもそも、これらの記事が"日本語"で記載されていることに、不信感を覚えます。

To begin with, I distrust that these articles are written in “Japanese.”

これは、日本語以外で記載されたブログやSNSを、日本人が日本語翻訳しているということですよね。

This means some Japanese people translate blogs and SNS written in languages other than Japanese into Japanese, right?

ならば、当然、翻訳するコンテンツを『意識的に選択している』のは、自然なことだと思います。

Then, of course, it is natural that you are 'consciously selecting' the content to be translated.

「日本バンザイ」の記事は、日本人読者のヒット数を稼げるからです。

They write articles like “Banzai Japan” because they receive many hits from Japanese readers.

それに、私も、自分の住んでいる国を褒めてもらえることは、国民の一人として素直に嬉しいとは思います。

Also, as a citizen of the country, I think it's natural to be happy when people praise the country I live in.

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私が、気持ち悪いなぁ、と思うのは「バランス」です。

What I find weird is “balance”.

■『日本のラーメンなんぞ、喰えんたもんじゃない』とか、

'Japanese ramen is not something you can eat,' or something like that.

■『英語すら通じないって、どんな不便な国だよ』とか、

'What kind of inconvenient country is it where you can't even get by in English?', etc.

■『アニメの中の日本人と、実際の日本人は全然違うぞ』とか

'The Japanese in anime are entirely different from real Japanese people'.

そういう記事が、50%とは言わなくても、10%くらい入っていると、安心感が得られるのですが。

If articles like that were included, even if it wasn't 50%, if it were around 10%, it would comfort me.

統計学的に、そういうコメントが"ない"はずがなく、そういうコメントを読まないと、私は「日本バンザイ記事」も、今一つ、信用できないのです。

Statistically, there is no way such comments would not exist, and unless I read them, I cannot trust the “Japan Banzai article” either.

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ただ、前述した通り、我が国をディスる記事は、これからも登場しません。PVが稼げないからです。

However, as mentioned above, articles that mock Japan will not appear. This is because they cannot make any PVs.

上記の仕組みを理解した上で、私たちが「日本スゴイ」の記事を読んでいるなら問題ないのですが ――

If we understand the above mechanism and read articles about “Japan is amazing,” then there is no problem.

かつて、我が国は、世界最強の軍事国家(当時のロシア)に大勝し、そのまま「日本バンザイ」「日本スゴイ」を自己肥大化させ続けて、別の世界最大(工業力50倍以上)の軍事国家(当時の米国)に戦争ふっかけて、日本の国土を焦土にした過去があります。

In the past, our country won a great victory over the world's strongest military nation (Russia at the time), continued to inflate itself with “Japan Banzai” and “Japan Sugoi,” provoked war with another world's greatest military nation (the United States at the time, with over 50 times the industrial power), and scorched the Japanese land.

『太平洋戦争と同じような状況になれば、歴史の教訓があろうがなかろうが、私たちは再び開戦してしまう』

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私が何を言いたいのかというと、

What I'm trying to say is that.

――「日本バンザイ」「日本スゴイ」を真に受けて浮かれて、大転けした過去が、我が国にはある

"There was a time in our country when we were so carried away by the idea of “Banzai Japan” and “Sugoi Japan” that we ended up making a big mistake."

ということです。