他人のことなど、どうでも良い
「給食が食べれない子供時代を経て為に、病気になってしまった大人」って、いるのでしょうか。
昔、給食が食べられなかった子供を、先生達は、居残りさせてまで食べさせていました。
醜悪な光景でした。
あれは意味があったんでしょうか。
多分、先生達も「馬鹿くさい」と思っていたと思うのです。
でも、学年指導教官の指示なので従わなせければならず、指導教官は、校長の指示なので従わければならず、
で、校長は戦後世代の「食料のない時代」に育った子供達だった、と。
「食事を残す」ということが、憎悪に近い行為であったといのは想像に難くないのですが、逆の発想はできなかったのでしょうか。
『戦後の、あの地獄のような食料危機を、俺たちは生き残ってきた』
『給食くらい抜いたって、人間は死にやしないぞ』
『わっはっはっは。』
無理か。
無理だろうな。
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私達だって、似たようなものです。
新人が入ってくる度に、
「新人類」
「ゆとり世代」
「くれない君」
だのと、まるでレッテルを張って「新人を苛める」ことが、まるで我々の業務であるかのような振舞い。
そして、我々はというと、
昔は寮が狭かっただの、席が汚かっただの、パソコンが奪いあいだっただの、TSSで計算ジョブを走らせただの、ワークステーションをプロセス過多で落したの、X端末やモザイクがなんだの、イエローケーブルがどうだの、
ああああああ、まったくもって「うるさい!うるさい!うるさい!」。
おめーらが、不幸だった時代を、なんで俺たちに、いちいち教え聞かせるんだ。
それで、なんか、お前らに「救い」でもでもあるんか。鬱陶しい。
―― と、私も思われているのでしょう。
とても残念なことですが。
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給食を食べれない子は、給食を食べれなくて良い。いつか食べれるようになるかもしれないし、ならないかもしれない。
仕事ができない新人は、仕事ができなくて良い。いつか仕事もできるようになるかもしれないし、ならないかもしれない。
我々が劣悪な環境で苦労してきたかもしれない。その苦労は、大変だったかもしれないし、大変でなかったかもしれない。
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「他人のことなど、どうでも良いことだ」
という観念に至るのは、やっぱり難しいことなのでしょうか。