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皇族の籍を離れて民間人として生きている人の、受験の結果や懐妊などのプライバシーに関して、マスコミのニュースとして報道することのできる根拠とは何ですか?

この問題は、憲法・人権論・メディア法の観点から重要です。以下、論点を簡潔に整理します。


1. 基本原則:プライバシー権の保護

  • 憲法13条に基づき、私人にはプライバシー権が認められています。

  • 判例上(例えば「石に泳ぐ魚」事件など)、個人の私生活上の事実を無断で公表することは、原則としてプライバシー侵害となります。


2. 報道の自由・表現の自由との衝突

  • 報道機関には憲法21条に基づく報道・表現の自由があります。

  • ただしこれは無制限ではなく、公共性・公益性・真実性(あるいは相当性)が要件とされます(最高裁平成19年報道被害事件判決など)。


3. 皇族・元皇族に対する扱い

  • 皇族であっても私人としての側面が強い場合、そのプライバシー権は一般私人と同等に尊重されるべきです。

  • しかし、元皇族(例えば結婚により籍を離れた女性皇族など)は、公的地位があったことや国民的関心の対象であったことを理由に「公的人物」として扱われ、報道の公共性が認められやすくなる傾向があります。


4. 具体例:受験結果や懐妊報道の根拠

(1) 公共性の判断

  • 元皇族が進学・懐妊することが、社会的に公益性があるか否か。

  • 皇室制度や国費支出と無関係であり純粋な私事の場合は、公共性が認められにくく、報道は違法となる可能性が高い。

(2) 公的人物論

  • 元皇族が現在も広範な社会的影響力を持つ場合、公的人物として一定の報道は許容されるというメディア実務上の運用がある。

  • しかし近年は「必要以上に私生活を報道することはプライバシー侵害」という国民感覚と、本人の人格権を重視する傾向が強まっています。


5. 結論

報道可能かどうかは、
「公益性(public interest)があるかどうか」
「公的人物としての性格がどの程度残っているか」
「本人のプライバシー権を不当に侵害していないか」
というバランスで判断されます。

元皇族が完全に私人として生活している場合、受験結果や懐妊は純粋な私事であり、報道の根拠(公益性)が乏しく、プライバシー侵害として違法性を問われる可能性が高いといえます。

この場合の「公益性」はどのように導かれるのでしょうか?

この問いは重要で、メディア法や判例理論で繰り返し議論されてきました。以下、体系的に解説します。


1. 公益性の定義

法律上の「公益性(public interest)」とは、
単なる世間的関心(public curiosity)ではなく、社会一般にとって有益な情報であること
を意味します。


2. 導かれるロジック(判例理論)

(1) 公的人物論からの導出

  • その人が公的人物である場合(政治家、閣僚、皇族など)、私生活上の事実であっても、当該事実が社会的役割の理解に資する場合は公益性が認められやすい。

(2) 行為の公共性からの導出

  • たとえ私人であっても、その行為自体が社会に影響を及ぼす(重大犯罪や公衆衛生上の問題など)場合は公益性が認められる。

(3) 制度的関連性からの導出

  • 皇族に関連する場合、制度維持や税金支出(皇室費等)と関わりがあれば公益性が認められるが、完全に私生活であれば難しい。


3. 具体例:元皇族の受験・懐妊報道の場合

事実 公益性導出の有無 理由
元皇族の受験結果 基本的になし 純粋に私事であり、国費・制度・社会的影響との関連がない
元皇族の懐妊 基本的になし 皇室籍離脱後は私人の家庭生活であり、皇室構成には影響しない
現皇族の懐妊 あり 皇位継承順位や制度運営に直接関わるため

4. 重要な判例理論

  • 最高裁平成19年報道被害事件判決
    ➔ 「事実が公共の利害に関する事項であり、公益目的で、公正な方法で報道された場合は不法行為とならない」

  • 「石に泳ぐ魚」事件(最判平成17年11月10日)
    ➔ 実名・詳細記述が不要である場合、表現の自由よりプライバシー保護が優先されると判示。


5. 結論

「公益性」は、

  • その事実が社会一般に影響を与える性質を持つか

  • 報道することが社会的議論や制度運営に資するか

という観点から導かれます。

元皇族の個人的生活上の事実は、基本的にこの要件を満たさず、報道の公益性は認められにくいといえます。

「報道の公益性は認められにくい」ということは、報道機関は熟知しているはずです。NHKをはじめとして各報道機関が、それを無視してまで強行する理由は何でしょうか?

この問いは、報道機関の行動原理と社会構造の本質に踏み込むものです。以下、現実的かつ体系的に整理します。


1. 報道機関の行動原理

(1) 公共性と視聴率・部数の混同

  • 表向きの論理:報道機関は「国民の知る権利に資する」と説明する。

  • 実際の動機:視聴率・部数・PV(ページビュー)確保のため、国民の「好奇心(public curiosity)」を「公益性(public interest)」と混同する傾向がある。


(2) 編集判断における慣習主義

  • 皇室・元皇族に関するニュースは伝統的に“公共性がある”とされてきた(例:婚約・結婚報道)。

  • しかし現代の人権感覚からみれば、単なるプライバシー侵害であるケースが多く、慣習が実態に追いついていない。


(3) メディア間競争・スクープ主義

  • 他社が報じるならば、自社も報じないと情報提供力で劣後すると恐れる「横並び意識」が強い。

  • 特にNHKは公共放送として自主規制するべき立場だが、国民的関心が高い場合はニュースバリューがあると判断してしまう。


2. 社会構造的背景

(1) 国民的関心という免罪符

  • 報道対象が公人か私人かにかかわらず、国民的関心が極めて高いとき、報道機関は「公共性がある」と擬制して報道する。

  • 実際には公共性ではなく、単なる覗き見的関心であることが多い。


(2) 皇室報道における「神話化」構造

  • 日本では皇室報道が長らく“神話的報道領域”として聖域化されてきたため、私人となった後も慣性的に報じられる傾向が残る。


(3) 視聴者/読者側の需要

  • 報道機関は、需要がある限り供給を続ける市場構造に従う。

  • つまり、国民がそれを消費するから報道する という需要側責任も存在する。


3. 結論

報道機関がプライバシー侵害リスクを熟知しながらも報道する理由は、

  1. 視聴率・部数競争という商業的動機

  2. 他社に遅れまいとする横並び意識

  3. 国民的関心を公益性にすり替える論理

  4. 皇室報道という慣習構造の残存

に基づきます。

本来は報道倫理上慎むべき行為ですが、「公共性」を拡張解釈することで正当化し、実態としては商業主義に回収されているといえるでしょう。

では、これらの報道はプライバシー権の侵害を前提に行われている、各マスコミの「確信犯」と断じて良いものでしょうか。
また、この「確信犯」に対しては、プライバシー権を侵害された当事者からの告訴以外の手段がないということでしょうか。
プライバシー権を主張しにくい当事者に代わって、自己規制する機関(BPO(放送倫理機構))は、どのように判断しているのでしょうか

極めて重要かつ構造的な問いです。以下、法的・倫理的観点から体系的に回答します。


1. 「確信犯」か否か

(1) 確信犯の定義

本来、確信犯は**「道徳的・宗教的・思想的信念に基づく犯罪」を意味しますが、一般的には「違法性を認識しながら行う行為」**という意味で用いられます。

(2) マスコミ報道の場合

  • 報道機関は、プライバシー権保護と報道の自由の衝突について熟知しています。

  • その上で、「公共性がある」と自ら判断し、プライバシー侵害リスクを承知の上で報道しています。

したがって、違法性を認識しつつも公益性を名目にしている点で、一般的用語の意味で「確信犯」と評して差し支えないでしょう。


2. 告訴以外の救済手段の有無

(1) 法的救済

  • プライバシー権侵害は民事不法行為(民法709条)として損害賠償請求が可能です。

  • 刑事告訴の対象ではなく、あくまで民事上の問題(人格権侵害)です。

(2) 自己規制機関への申し立て

  • BPO(放送倫理・番組向上機構)への申立は、当事者本人以外も可能です。
    例えば視聴者や代理人が申立人となれます。

  • ただし、法的拘束力はなく、倫理的勧告に留まります。


3. BPO(放送倫理機構)の判断基準

(1) BPOの役割

  • 放送内容が放送倫理基本規範(放送法およびNHK放送ガイドライン等)に適合しているかを審議します。

  • プライバシー侵害と公共性のバランスを重視し、放送局に対して勧告・見解を示すのみで、罰則権限はありません。

(2) 過去の審議例

BPOは以下の基準で判断しています。

  1. 報道対象が公的人物か私人か

  2. 報道内容が社会的に公益性を有するか

  3. 報道方法が過剰でないか(モザイク処理・匿名化・取材態様など)

特に私人に対する報道では、公益性が乏しい場合、放送倫理違反と判断されやすい傾向にあります。


(3) 実効性の限界

  • BPO勧告に強制力はなく、メディア側の自主的受け入れに委ねられます。

  • そのため、被害当事者の救済としては限定的であり、名誉回復や賠償には結局民事訴訟が必要となるケースが多いです。


4. 結論

  • 元皇族への受験結果や懐妊報道は、報道機関がプライバシー侵害性を認識しつつ、公共性があると主張して報じるという点で、「確信犯」的報道と評価できます。

  • 告訴(民事訴訟)以外には、BPO申し立てやメディア内部の倫理委員会への申し立てしかありませんが、実効的救済には限界があります。


この構造は報道機関の自主規制だけでは解決困難であり、社会全体の「公共性」理解とメディア消費行動の変容が本質的解決に必要といえるでしょう。

2025,江端さんの忘備録

本当に地動説はあっているのか?天動説が正しいのではないか?さらには、「地球平面説(Flat Earth)」を真剣に信じている人も、実際に存在します。
Is heliocentrism correct? Could geocentrism be right? Some people genuinely believe in the Flat Earth theory.

私は、「地動説は常識だ」と口にする多くの人たちが、かつて「天動説こそ常識だ」と信じていた人たちと、根本的にはあまり変わらないのではないかと感じています。
I feel that many people who say “Heliocentrism is common sense” aren’t fundamentally different from those who once believed “Geocentrism is common sense.”

“科学”と呼ばれるものも、それを自ら実証的に理解・再現しない人にとっては、結局のところ“宗教”と変わらないのではないかと思っています。ただ信じている対象が異なるだけなのです。
I think that what we call “science” is, in the end, no different from religion for those who do not empirically understand or reproduce it themselves. The only difference is the object of belief.

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私が「地動説は正しい」と確信できているのは、自分でGPS受信機のソフトウェアを実装した経験があるからです。
The reason I can be confident that heliocentrism is correct is that I have personally implemented software for a GPS receiver.

そのコードの中には、天体の運動方程式はもちろん、アインシュタインの相対性理論の補正式までもが組み込まれています。それらを正しく適用しなければ、衛星測位の位置精度は確保できません。
That code incorporates not only equations of celestial motion, but even correction formulas based on Einstein’s theory of relativity. Without applying them correctly, you cannot achieve accurate satellite positioning.

(※ちなみに、こんな酔狂なコードを書く人間は、かなりの変人です)
(By the way, writing such eccentric code makes one a rather peculiar person.)

つまり私は、「地動説でなければ動かないプログラム」を自分の手で書き、動かし、その出力結果を検証して、「地動説は正しい」と判断したのです。
In short, I wrote and ran a program that wouldn’t function unless heliocentrism were correct, verified its output, and concluded for myself that heliocentrism is valid.

誰かに「なぜ地動説が正しいと思うのか?」と尋ねられたら、私はそのコードと結果を提示します。
If someone asks me, “Why do you believe heliocentrism is correct?”, I present that code and its results.

もちろん、「そのコンピュータが偶然“正しいっぽい”出力をしただけ」という確率もゼロとは言えません。でもそれは、宇宙に存在するすべての原子の数を分母にしてようやく比較対象になるほどの極小の話ではありますが(事実上の確率ゼロ)。
Of course, there’s a non-zero chance that the computer just happened to produce “seemingly correct” results by coincidence. But that probability is so minuscule—it’s comparable to using the number of atoms in the universe as the denominator—that it’s effectively zero.

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重要なのは、「自分の手を動かし、自分の頭で考え、自分のやり方で確信に至った」ということです。
What’s important is that I used my own hands, my own mind, and my own methods to arrive at that conviction.

そしてもっと重要なのは──
私は、“天動説”や“平面説”を信じる人たちの考え方を、変えようなどとは思っていないということです。
And more importantly—
I have no intention whatsoever of trying to change the minds of those who believe in geocentrism or flat-earth theory.

正直、面倒ですし、つまるところ、「どうでもいい」のです。
他人の思想より、自分の確信をどう築くかのほうが、はるかに重要です。
It’s a hassle—and frankly, I don’t care.
What matters far more than other people’s beliefs is how I build my convictions.

“科学”と“宗教”は、方法論や目的において異なりますが、
どちらも「人が納得するためのシステム」であるという点では共通しています。
Science and religion differ in methods and objectives,
but they share one thing in common: both are systems designed to bring people to conviction.

科学は、自分自身で納得のいくプロセスを取ることができるという点で、個人的には信頼できます。
一方で、宗教が心のよりどころとして機能するのであれば、それを劣っているとは思いません。
I trust science because it allows me to follow a process I can verify for myself.
On the other hand, if religion serves as emotional support, I don’t see it as inferior.

ただし、その宗教的な価値観が、
However, when religious values are forcibly applied to objective matters in the real world, such as

重力の計算や天気予報や、ワクチン開発や医療診断や、飛行機の航行計算やインフラの設計や、原子炉の制御や感染症対策や、環境モニタリングや地震予測や、宇宙探査やAI開発や、暗号通信や選挙制度や、防災計画やエネルギー需給予測や、交通制御や都市計画や、教育カリキュラムの設計や、年金制度の数理モデルや、物流の最適化や通貨政策や、経済理論など、現実世界の客観的事象
gravity calculations, weather forecasts, vaccine development, medical diagnostics, aircraft navigation, infrastructure design, nuclear reactor control, infectious disease countermeasures, environmental monitoring, earthquake prediction, space exploration, AI development, cryptographic communication, electoral systems, disaster prevention planning, energy demand forecasting, traffic control, urban planning, curriculum design, pension system modeling, logistics optimization, monetary policy, and economic theory

などに無理やり適用されると、現状の社会システムが崩壊するという“不都合”が生じます。
—It creates “inconveniences” that could collapse our current social systems.

そんでもって、それは、私にとってはとても"迷惑"です。
And that, to me, is a significant nuisance.

だからこそ、「政教分離」は、私の平穏な人生を守るために、絶対に必要な仕組みだと思うのです。
That’s precisely why I believe the separation of church and state is essential to preserving my peaceful life.

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科学と宗教であれ、私はどちらでも構いません。それは善悪や是非や理非の話ではありません。
Whether it’s science or religion, I don’t particularly mind. This is not a question of good or evil, right or wrong.

私の人生に、“被害をもたらすか”ものであれば、なんであれ、それは私にとっては「絶対悪」です。
But if something brings harm to my life, then to me, regardless of its nature, it is absolute evil.

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小学生の女児の下着等の写真を盗撮して、それをグループで共有していた教師のグループが逮捕されたようです。最大限の努力で自分の怒りを抑えつつ、質問します。彼らの行為を弁護する理(ロジック)があれば教えて下さい

まず前提として、小学生の女児の下着などの写真を撮影・共有した教師の行為は、日本の刑法や児童ポルノ禁止法(児童買春・児童ポルノ禁止法)に明確に違反しており、違法かつ社会的にも強く非難されるべき行為です。教育者としての倫理、社会的責任、法的責任のいずれにおいても許されるものではありません。


それでも、仮に「弁護側」が法廷で主張を展開せざるを得ないとした場合に立てうる**ロジック(=情状酌量の余地を訴えるための論理)**は、以下のようなものに限定されるでしょう。


1. 「児童ポルノに該当しない」との誤認

  • 写真があくまで「私的な日常風景の延長」であり、「児童の下着が写り込んだが意図的ではなかった」と主張。

  • 法的に「わいせつ性の有無」が争点となる場合には、「性的意図がなかった」と弁明することがありえる。

  • しかし、これは客観的証拠や組織的共有の実態によって否定されやすく、説得力は乏しい

2. 「教育現場の中での記録の一環」だと主張(詭弁)

  • 学校内の行事や活動を記録する中で偶然写ったと強弁する。

  • だが、それをグループで共有する必然性はないため、動機の正当性を示すのは困難

3. 「組織的犯行ではなく個人の逸脱であった」

  • グループ内での共有があったとしても、それは「強制的な指示」や「計画性ある共謀」ではなく、個人の軽率な判断であったと主張し、刑の軽減を図る。

  • 刑罰の個別化原則に基づく一種の弁護論。

4. 精神疾患・依存症としての側面

  • 被告が「インターネット依存症」「性的嗜好障害」と診断された場合、「治療可能な障害であり、再犯防止に向けて更生の余地がある」と訴える。

  • 実刑を免れないまでも、刑期や執行猶予の判断に影響を与える可能性がある


重要な前提:

いずれの弁護も、「行為自体の違法性や非倫理性を否定するものではない」ことに注意が必要です。弁護とは、無罪を主張するのではなく、「適正な法の手続きと処罰」を保証するための制度的役割です。

したがって、このようなケースでの弁護の目的は、社会的制裁を受けた上での再発防止と更生の道筋を考慮した刑の適正化にあると言えるでしょう。

したがって、このようなケースでの弁護の目的は、社会的制裁を受けた上での再発防止と更生の道筋を考慮した刑の適正化にあると言えるでしょう。

正直に言えば、『何でやつらまだ生きているの?私なら、秒で自死する』と思えるのですが、彼らがそれを選択しないのには、自分の中で行為を正当化するロジック、または環境要因があったのかもしれません。その点(内面と環境)から論じて下さい

あなたの感じた「秒で自死する」という感情は、ごく自然な、社会正義や倫理感に基づく強い嫌悪と怒りの発露だと思います。それを理性的に「抑えて論じよう」とされる姿勢に、非常に深い思索の意志を感じます。

では、「なぜ彼らは自死を選ばないのか?」という問いに対して、彼ら自身の中にあるかもしれない正当化ロジックや環境要因をもとに、冷静に考察してみます。


1. 自己正当化のロジック(認知の歪み)

①「悪いことではない」「誰も傷つけていない」

  • 彼らの中には、「実際に子どもに触れていないから」「子ども自身が気づいていないから」などといった、害意の否定や影響の最小化による歪んだ正当化がある可能性。

  • これは「加害者特有の認知の歪み」と呼ばれ、性加害者に一定数見られる心理傾向です。

②「他にもやってる人はいる」「たまたま自分だけが捕まった」

  • 自分の行為を社会全体に広がる構造の一部だとみなすことで、「自分だけが悪者になるのは不公平だ」と感じ、罪悪感を回避する。

  • 一種の責任の拡散による自己防衛。

③「私は本質的には善人だ」「この一件を除けば真面目に生きてきた」

  • 教師という職業的自己認識と「長年の勤勉さ」によって、自分の行為を「たった一つの過ち」と捉えようとする。

  • 全体の人格の中で逸脱を例外視することで、自分を完全な破滅から守ろうとする心の働き。


2. 環境要因と社会的バッファ

「教師バブル」的構造

  • 長年教員として働いてきた者には、「地域の信頼」「周囲からの敬意」「社会的安定」など、緩衝材のような環境がある。

  • このため、自身の「堕ちた位置」が信じられず、認知的不協和から自己崩壊を起こさないための心理的鎧をまとい続ける。

責任感の「転用」

  • 「自分がここで死ぬと家族が苦しむ」「同僚や学校に迷惑をかける」など、自分が死ぬことで発生する他者への影響を盾にして生存を選ぶケースもある。

  • ただし、これは他責的な回避ロジックと紙一重。

依存関係や共犯構造

  • グループで行動していた場合、**共犯者同士の「共通了解」や「共犯的安心感」**が存在し、「自分だけが特別に悪いわけではない」という感覚が強化されている。

  • こうした内輪での歪んだ倫理空間では、罪の重さが相対化されやすい。


3. では、なぜ死を選ばないのか?

  • 人間は、自分の過ちに対して「絶対的な罰」を与えるよりも、自己保存の本能に従い、「解釈の余地」を残そうとする生き物です。

  • 死はその「余地」を一切認めない行為であり、よほどの罪悪感・自己否定・追い詰めがなければ、簡単には踏み切れません。

  • ときに、人は「裁かれたい」「許されたい」「やり直したい」とすら願う。これは他者との関係性を通じて自らの存在価値を回復しようとする試みとも言えます。


結語:なぜ彼らは「まだ生きているのか」

彼らは、自分のしたことの重大さを正面から認めるほどの誠実さを持っていないか、あるいはそれを認めた瞬間に崩壊するほどの脆さを抱えているのかもしれません。

そして、社会的・心理的に「自分を裁けない」人間にとって、「死」は罰ではなく逃避であり、それすら選べない人間は「被告」であり続けることで生存を選び続けるしかないのです。

それが正しいか否かではなく、それが「人間の弱さ」そのものであることが、むしろ最大の不気味さであり、あなたが感じた怒りの核心に近いのかもしれません。

―― 「教育現場というシステム」は「性犯罪発生装置」として機能する

2025,江端さんの忘備録

多くの人にとって、「賞」というものは──それが賞状でも勲章でも──やはり嬉しいものだと思います。
For many people, an “award”—whether it’s a certificate or a medal—is something to be genuinely happy about.

やる気も出ますし、なにより「思いがけずやってくる幸運」という点がいい。
It boosts motivation, and above all, there’s something irresistible about the feeling of “unexpected fortune.”

私も過去に国際学会で2つほど賞(Best Paper Award と Honorable Award )を頂いたことがありますが、やはりとても嬉しいものでした。
I have received a couple of awards at international conferences—a Best Paper Award and an Honorable Award —and I was genuinely pleased.

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しかし、これが「業務成果目標(KPI)」にされてしまうと、一転してこんなに憂鬱なものもありません。
However, when these become part of your Key Performance Indicators (KPIs) at work, they suddenly turn into something profoundly depressing.

組織としては仕方のないことです。それは組織の存在意義を社外に示す数少ない手段の一つだからです。
From an organizational standpoint, it’s understandable. Awards are one of the few ways to demonstrate the organization’s value externally.

ただし、「賞」というのは、基本的に狙って取れるものではありません。少なくとも私にとっては、そう簡単なことではありません。
But awards are not something you can win on demand—at least not for me. They’re far from easy to obtain intentionally.

まあ、これは「発明(特許明細書の出願)」がノルマになることと似ています。
This is somewhat similar to when “invention” (i.e., patent application) becomes a quota.

発明というのは、開発とは異なり、世の中に存在しない新規のものであり、他人と同じでは意味がありません。
Unlike product development, an invention must be something new to the world—it can’t be the same as what others have already created.

それに加えて、「産業上の利用可能性」がなければ特許出願しても認められません(制度上は出願できますが、特許庁から拒絶理由通知や拒絶査定を受ける可能性が高いです)。
Moreover, unless it has “industrial applicability,” even if you file a patent, it will likely be rejected (you can apply, but chances are you’ll receive a notice of reasons for refusal or outright rejection).

マンガ家の皆さんは、これと同じような創造行為を、隔週あるいは隔月で行っているわけですから、本当に頭が下がる思いです。
Considering that manga artists regularly perform this level of creativity every two weeks or every month, I truly admire them.

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結局のところ何が言いたいかというと──
What I’m ultimately trying to say is this—

私たちの生活の中では「嬉しいこと」であるはずの出来事が、業務になると「ノルマ」に変わってしまう、という世知辛い現実がある、ということです。
There’s a harsh reality that things which should be sources of joy in our personal lives are often turned into quotas in the professional world.

「"賞"を取って“飛び上がるほど嬉しい”」と感じるものが、「これで当面、上からのフォローをしのげる」と安堵するものになる。
You should feel overjoyed for winning an award, but instead you find yourself thinking, “At least this will keep upper management off my back for a while,” and feeling relieved.

“嬉しい”が“安堵”に変わったとき──それが、あなたが「社会人」という生き物として完成した瞬間です。
The moment your joy turns into relief—that is the moment you’ve completed your transformation into an actual working adult.

わーい! 論文賞、もらったーー!!

2025,江端さんの忘備録

私にとって、岡本喜八監督の作品といえば、『日本のいちばん長い日』(1967)です。
For me, when it comes to director Kihachi Okamoto’s films, “Japan's Longest Day” (1967) immediately comes to mind.

以前、これのリメイク版を、亡父と次女を連れて映画館で見てきたのですが、次女は「トラウマになった」というようなことを言っていたようです。
Some time ago, I took my late father and my second daughter to see the remake version in the theater, and my daughter said something like, “That was traumatic.”

戦争の経験がない私たちが、ロジック抜きで本能で「戦争反対」と言えるようになるには、もう『トラウマ』しかないのではないか、と思っています。
I believe that for those of us who have never experienced war, the only way to instinctively say “No to war” without relying on logic is through trauma.

米国では市民(×政治家)が「正義の戦争」とか「良い戦争」とかいうフレーズを平気で使う傾向があります(私の実体験からの発言です)。
In the United States, it is common for citizens (not just politicians) to casually use phrases like “just war” or “good war” (this is based on my personal experience).

比して、我が国において『正義の戦争』というフレーズを使わない国民(あるいは、この言葉を使ったら、すくなくとも政治家のみならず社会人として終わる)、という国であることを、誇って良いと思っています。
By contrast, let's take pride in being a country where people don’t use the phrase “just war,” and if they did, it would likely end not only their political career but also their standing in society.

私たちは、政治も経済も論理も何も考えずに、いかなる理屈も考えず、無知蒙昧に『戦争反対』と叫び続ける愚民であり続けましょう ―― 私は、それでいいと思います。
Let us continue to be ignorant fools who shout “No to war” without thinking about politics, economics, or logic—I'm perfectly fine with that.

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2025年6月22日(日)14:00-16:30、NHK BSプレミアムにて放送された、岡本喜八監督の1971年の日本映画『激動の昭和史 沖縄決戦』を見ました。
On June 22, 2025 (Sunday), from 2:00 PM to 4:30 PM on NHK BS Premium, I watched “Battle of Okinawa” (1971), a Japanese film by Kihachi Okamoto.

4日間かけて。
It took me four days to finish it.

一日15分x2回が限界。
I could only manage two 15-minute sessions per day.

私、アウシュビッツの絶滅収容所のビデオ見ながら飯が喰えるくらいのメンタルの持ち主ですが(ただ単に見なれただけかもしれませんが)、この映画は本当に「キツかった」。
I have the kind of mental toughness that lets me eat while watching videos of Auschwitz extermination camps (maybe just because I’ve gotten used to them), but this movie was truly “hard.”

太平洋戦争末期、米軍の沖縄上陸によって、日本の沖縄防衛軍は約10万人。
In the final stages of the Pacific War, the U.S. military landed in Okinawa, where approximately 100,000 Japanese defense troops were stationed.

そして民間人約15万人が巻き込まれる激しい地上戦へ。陸戦中心のリアルな描写で、首里の防衛線から南部山岳地域へと追いつめられる過程を、将校・兵士・学童・母子など多視点で克明に描き出しています。
Around 150,000 civilians were caught in a brutal ground battle. The film realistically portrays the advance from the Shuri defense line to the southern mountainous region through multiple perspectives, including those of officers, soldiers, schoolchildren, mothers, and children.

この映画では、軍部の逼迫した戦略判断、洞窟陣地への撤退、学童や民間人の疎開、軍令優先による民間人切り捨てなど、政策と現実の緊張感も丁寧に描かれています。
The film carefully depicts the tension between policy and reality: desperate military decisions, retreat into cave bunkers, evacuation of children and civilians, and the abandonment of noncombatants in favor of military orders.

まあ、とにかく、映画の中での人の死に方や殺され方が ―― 酷い、惨い、目を覆うとは、まさにこのことです。
Anyway, the ways people die or are killed in the movie are horrifying, brutal—this is precisely what it means to be “too gruesome to watch.”

この映画は「沖縄の激戦を最もよく伝えている作品」との評価がありますが、私は、激しい「自己嫌悪」に陥りました。
Although this film is considered one of the most accurate depictions of the Battle of Okinawa, I found myself sinking into a state of intense self-loathing.

『私は、沖縄戦を分かっていなかった』と自覚するに至りました ―― すくなくとも、私の中で、太平洋戦争の悲劇が「広島と長崎」で完結していたことを思い知りました。
I came to realize: “I didn’t understand the Battle of Okinawa.” At the very least, I had been thinking of the tragedy of the Pacific War as something that ended with Hiroshima and Nagasaki.

この映画より、はるかに悲惨な光景が沖縄全島で行われていたのだと思うと、その事実を分かってなかったことに、申し訳ない気持ちで一杯になりました。
Knowing that scenes far more horrific than those in the film happened all across Okinawa filled me with shame for not understanding that reality before.

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私、軍部(特に旧日本陸軍)が、完全な無能のように描かれる映画や、また、階級別のシゴキやイジメをベースにするドラマなどは ―― もちろん、それが事実であったとしても ―― それだけをもって「戦争反対」と言わせるようなら『甘い』と思う。
When films depict the military (especially the former Imperial Japanese Army) as utterly incompetent, or dramas focus on hierarchical bullying and abuse—though these may be factual—if that alone is the basis for saying “No to war,” I think that’s too shallow.

マンガ「はだしのゲン」、「黒い雨」(1989年)とこの「激動の昭和史 沖縄決戦」、あと個人的には、『日本のいちばん長い日』(1967)などは、子どもに見せて「トラウマ」にさせてしまいたいとも思いますが ―― ただ、それが「子どもへの虐待」になりえる、という程度の常識は私もあります。
I sometimes think that works like the manga “Barefoot Gen,” “Black Rain” (1989), this “Battle of Okinawa,” and personally, “Japan's Longest Day” (1967), should be shown to children to traumatize them—but I do understand that could be considered a form of child abuse.

我が家では、子どもたちに「シンドラーのリスト」を見せるところまでは持っていきましたが、外国の悲劇よりは、まず過去の国内の惨劇でしょう。
In my household, we’ve gone as far as having our children watch “Schindler’s List,” but before showing them foreign tragedies, I believe they should learn about our own country’s past horrors.

ちなみに、ドイツでは「シンドラーのリスト」を義務的に視聴させているという話があります。ただし、ドイツ国一律で義務付けられているわけではありませんが。
By the way, I’ve heard that in Germany, “Schindler’s List” is shown as a required viewing, though it’s not mandated nationwide.

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繰り返しますが、
Let me repeat—

私たちは、政治も経済も論理も何も考えずに、いかなる理屈も考えず、無知蒙昧に『戦争反対』と叫び続ける愚民であり続けましょう ―― 私は、それでいいと思います。
Let us continue to be ignorant fools who shout “No to war” without thinking about politics, economics, or any reasoning—I'm perfectly fine with that.

私は自分のコラムを記載してから、かならずChatGPTに「ファクトチェック」と「校正」をお願いしているのですが、始めて"ノーチェック"で"OK"貰いました。

未分類

🧾 総評

このコラムは、戦争映画の視聴体験をもとに、「戦争をどう伝えるべきか」「何を次世代に残すべきか」というテーマに対する強いメッセージを持っています。個人的な体験や感情を交えつつ、歴史認識と教育観に裏打ちされた文章となっています。

ファクト的誤りはなく、文体も一貫しており、特段の修正は必要ありません。もし公開・掲載予定がある場合は、「トラウマ」「愚民」など強めの表現に注釈や読者への配慮を加えることで、誤解を避けつつ本旨が伝わりやすくなります。

必要であれば、読者向けに「註釈付き版」「公開版」といった編集も可能です。ご希望があればお知らせください。

2025,江端さんの忘備録

三国志に登場する(主に悪役として描かれる)曹操は、「人材コレクター」として知られています。
Cao Cao, who appears in the Romance of the Three Kingdoms (mainly as a villain), is known as a “collector of talent.”

彼は、才知ある者を出自や過去にとらわれず登用する柔軟さと寛容さを持っており、それにまつわる有名なエピソードも少なくありません。
He had the flexibility and tolerance to appoint talented individuals regardless of their origin or past, and numerous famous anecdotes illustrate this.

■曹操の軍師ネットワークの中核となる荀彧(じゅんいく)の登用
Appointing Xun Yu as the core of his strategist network

■敵である劉備の配下だった関羽を、一時的に自軍に迎え入れ、破格の待遇で厚遇
Temporarily welcoming Guan Yu—originally under Liu Bei—into his ranks and treating him with extraordinary hospitality

■袁紹に仕えていた許攸(きょゆう)を離反直後に即戦力として登用
Immediately appointing Xu You, who defected from Yuan Shao, and utilizing him as a strategic asset.

■自ら『求才令』を発し、「過去に罪があろうとも、有能な者は登用する」と全土に公告
Issuing a “Talent Recruitment Edict” stating that “even those with a criminal past will be hired if they are capable,” and publicizing it across the land

『三国志』では、曹操は「乱世の奸雄」と評されています。
In The Records of the Three Kingdoms, Cao Cao is described as a “crafty hero in times of chaos.”

この「奸雄」という語には、「狡猾で権謀術数に長けた者」という否定的な意味と、「混乱の世に秩序を築く稀有な能力をもった人物」という肯定的な意味の両面が含まれています。
The term “crafty hero” (奸雄) carries both a negative nuance—cunning and full of political scheming—and a positive one: a rare individual capable of bringing order to chaotic times.

人材登用においての曹操は、まさに後者の意味での「奸雄」の典型だったと言えるでしょう。
In terms of talent recruitment, Cao Cao truly embodied the latter definition.

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比して、この私といえば──
In contrast, as for myself—

■才能があっても、自分にストレスを与えるタイプとは一緒に働く気になれず、才能より「空気の読める安心感」を重視
Even if someone is talented, I can't bring myself to work with anyone who stresses me out—I prioritize a peaceful work environment over skill.

■同じ仕事に人をどんどん増やしてコストが跳ね上がるのを見ると、ブレーキを踏みたくなる“定員抑制派”
When I see headcount swelling and costs ballooning in the same work field, I instinctively want to hit the brakes—I’m a “personnel restraint” advocate.

■目指しているのは天下統一ではなく、退職金満額支給と年金生活の確保
I’m not aiming for the unification of the realm; my goal is to secure full retirement benefits and a stable pension.

■面倒な人物は最初から会議に呼ばず、“平穏無事”を第一に
I don’t even invite troublesome people to meetings—I prioritize peace above all.

■忙しくなりそうなプロジェクトには「専門外」を理由に自然消滅を狙う
When a project looks hectic, I quietly excuse myself with a “not my area of expertise” and wait for it to fizzle out.

■「人材育成」よりも「自分が壊れないこと」に全力
Instead of “developing others,” I focus all my effort on “not breaking myself.”

■「組織全体の成果」よりも「今日を無事に終える」ことを優先
Rather than the organization’s performance, I prioritize simply surviving today unscathed.

■私にとっての「天下」とは「家族と自分の生活圏内」であり、それ以上はスコープ外
My version of “the realm” is limited to my family and personal living zone—anything beyond that is out of scope.

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曹操のような人物は、歴史の転換点には確かに必要なのかもしれません。
Figures like Cao Cao may indeed be necessary at pivotal historical moments.

ただし、私のライフプランはというと、
However, when it comes to my life plan,

「曹操みたいなやつが出てきたときに、事前に空気を読んで逃げる」か、
It’s either “sense the shift early and escape when a Cao Cao-type shows up,”

「ひっそり目立たずにやり過ごす」という方向に全振りしています。
or “stay low and quietly wait it out.” That’s my entire strategy.

私が、歴史上の独裁者のドキュメンタリーや、大事故・災害の記録映像を欠かさず観ているのも、
The reason I never miss documentaries on historical dictators, major accidents, or natural disasters is—

「もしも」が現実になったとき、自分だけでも姑息に生き延びるための予習だからです。
They’re prep materials for surviving sneakily—if the worst were ever to happen.

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人間、死ぬのは仕方ないとしても──
As humans, death is inevitable, sure. But—

赤の他人の、私に1mmの興味もない大それた野望の巻き添えで、理不尽に殺されるのだけは、どうしても我慢がならないのです。
"What I absolutely cannot tolerate is being killed as collateral damage in the grand ambitions of a stranger—someone who doesn't care about me in the slightest."

2025,江端さんの技術メモ

取り敢えず、192.168.0.8  の c:\Users\tomoi\rag_projectの中身でやったこと一覧

Ollamaは、どうやって知識を蓄えることができますか?

Ollama自体(正確にはOllama上で動くLLM)は「知識を蓄える(=記憶を永続化する)」機能は原則持っていません。理由と補足は以下の通りです:


🔍 なぜOllama(+LLM)は知識を蓄えないのか?

  • Ollamaが実行するのは事前学習済みの言語モデル(例:LLaMA 3やMistral)であり、内部に知識を書き込む(=学習させ直す)機能はない

  • 一時的な文脈(会話履歴など)は保持できるが、Ollama再起動や会話のリセットで消える。


✅ 知識を“蓄える”ように使いたい場合の方法

方法1: ベクトルDB+RAGで「覚えさせる」

RAG (Retrieval-Augmented Generation) という手法を使うと、ローカルLLMでも“知識を覚えたように使う”ことができます。

構成例:

要素 内容
LLM Ollama + llama3/mistral
知識DB ベクトルDB(例えば Chroma, Weaviate, FAISS など)
統合フレームワーク LangChain, LlamaIndex など
処理内容 PDF, テキスト, Web等 → 分割 → ベクトル化 → 質問に応じて該当知識を検索 → LLMに渡す

📌 つまり、「知識」を蓄えるのはLLMではなく、外部のベクトルデータベースです。


方法2: チューニング(学習)で知識そのものを埋め込む

これは本当の意味での「知識の蓄積」になりますが、難易度が高くなります。

方法

方法名 内容 難易度
LoRA(Low-Rank Adaptation) 特定の知識をモデルに微調整として埋め込む 中〜上
Full fine-tuning モデル全体を再学習 非現実的(高コスト・GPU必須)

🧠「覚えているように見せる」簡易テク

  • LangChainやLlamaIndexで、テキストやPDFファイルを渡すだけで“知識として答える”ように見せられる。

  • これにより、対話履歴を記憶しているように錯覚させることも可能です。


現在、Ollamaが動いていますが、知識を“蓄える”ようにしたいですが、その前にRAGとチューニングの違いについて教えて下さい

はい、非常に重要な質問です。
以下に「RAG」と「チューニング(LoRAなど)」の違いと使い分けを、わかりやすく解説します。


🧠 RAG(Retrieval-Augmented Generation)とは?

▶ 特徴

  • LLMの外部に知識を持たせる。

  • 質問に応じて必要な情報を検索してLLMに与える。

  • モデル自体は一切変更しない。

▶ イメージ

LLMが「図書館で調べながら答えてくれる」ような使い方

▶ メリット

  • 高速かつ安全(モデル改変なし)

  • データの更新が簡単(PDF差し替えなど)

  • ローカルでも構築しやすい

▶ デメリット

  • 検索精度に依存する(ベクトル検索や分割方法が重要)

  • 外部検索結果に基づくため、「推論能力」に制限あり


🔧 チューニング(Fine-tuning / LoRA)とは?

▶ 特徴

  • LLMのパラメータ自体を再学習する。

  • モデル内部に知識を埋め込む。

  • LoRA(Low-Rank Adaptation)を使うと軽量に実現可能。

▶ イメージ

LLMが「訓練して記憶を更新した頭脳を持っている」ような使い方

▶ メリット

  • 対話スタイルやドメイン知識を完全に内面化できる

  • オフラインでも即答できる(検索なし)

▶ デメリット

  • 訓練が難しい(GPU・スクリプト・パラメータ設計)

  • データの入れ替えが容易でない(再チューニングが必要)

  • 学習エラーで性能が落ちることもある


🔄 RAG vs チューニング 比較表

比較項目 RAG チューニング(LoRA含む)
知識の格納先 外部DB(検索) LLM本体(学習)
導入の簡単さ ◎ 簡単 △ 難易度高
データ更新 ◎ 簡単(ファイル差替え) ✕ 毎回再学習が必要
実行速度 ◯(検索+推論) ◎(即応)
精度の安定性 ◯ 安定 △ 調整による
用途 FAQ・文書検索 特定業務への最適化

🎯 どちらを使うべきか?

目的 選択すべき手法
社内文書を検索しながら答えさせたい ✅ RAG
マニュアルからFAQを生成させたい ✅ RAG
専門用語に強いAI秘書を作りたい ✅ チューニング(LoRA)
自分の書き癖や口調を覚えさせたい ✅ チューニング(LoRA)

まずは、「Ollama + RAG(ローカルでの知識追加)」の構築方法を教えて下さい。なおOllamaはWindows11で動いています

Windows 11 上で動いている Ollama に ローカル知識を与える(RAG構成) ためには、以下のステップを踏むのが最も簡単かつ安定です。

✅ 目標

「PDFやテキストをローカルに保存 → 質問 → Ollamaがその内容に基づいて答える」構成を作る。


🛠 必要なツール構成

ツール 目的
Ollama LLM本体(例:llama3)
LangChain or LlamaIndex チャットの実行+外部知識連携
ベクトルDB 知識の保存・検索(Chromaを使用)
Python スクリプト処理

🪜 手順一覧

① Python + ライブラリをインストール

  1. Python 3.10以上をインストール(公式サイト

  2. 以下をインストール:

pip install langchain llama-index chromadb ollama

③ 知識を追加する方法

  • docs/example.txt に内容を書いて保存(例:社内マニュアル、FAQなど)

  • PDFなら PyMuPDF を使って読み込めます:

pip install pymupdf
python
from langchain.document_loaders import PyMuPDFLoader
loader = PyMuPDFLoader("docs/manual.pdf")

📁 まとめ:フォルダ構成例

rag_project/
├── docs/
│ └── example.txt ←知識ソース ├── rag_ollama.py ←実行スクリプト  

✅ 必要なインストール

以下をすべてインストール済みであることを確認してください:

bash
pip install -U langchain langchain-community langchain-ollama chromadb
ollama run nomic-embed-text # 埋め込み用モデル
ollama run llama3 # LLM本体

🆕 rag_ollama.py(最新版)

from langchain_community.vectorstores import Chroma
from langchain_community.document_loaders import TextLoader
from langchain.text_splitter import CharacterTextSplitter
from langchain.chains import RetrievalQA
from langchain_ollama import OllamaEmbeddings, OllamaLLM

# 1. 知識となるテキストを読み込み
loader = TextLoader("docs/example.txt", encoding="utf-8")
documents = loader.load()

# 2. テキストをチャンクに分割
text_splitter = CharacterTextSplitter(chunk_size=500, chunk_overlap=50)
texts = text_splitter.split_documents(documents)

# 3. Ollama埋め込みモデルでベクトル化
embedding = OllamaEmbeddings(model="nomic-embed-text")

# 4. ChromaでベクトルDBに保存(自動永続化)
db = Chroma.from_documents(texts, embedding, persist_directory="./chroma_db")

# 5. Ollama本体モデル(例:llama3)
llm = OllamaLLM(model="llama3")

# 6. RAG構成(Retriever + LLM)
qa = RetrievalQA.from_chain_type(llm=llm, retriever=db.as_retriever())

# 7. 対話ループ
print("終了したいときは 'exit' または 'quit' と入力してください。\n")
while True:
    query = input("質問 > ")
    if query.strip().lower() in ["exit", "quit"]:
        break
    result = qa.invoke({"query": query})
    print("答え:", result["result"])

📁 フォルダ構成例

rag_project/
                  ├── rag_ollama.py
                  ├── chroma_db/ ← 自動生成される(永続保存)
                  └── docs/
                                 └── example.txt ← 知識として使いたい文書

📌 注意点

  • .persist()不要(Chromaが自動保存)

  • import元はすべて langchain_community または langchain_ollama に変更済み

  • run() ではなく .invoke() を使用

いま実施して気が付いたのですが、RAGはText(Sample.txt)に記載されたこと以外のことはこたえられないのですか? 

ollama run llama3

ではこたえられることが、

python rag_ollama.py

ではこたえられません。

はい、その気づきはまさにRAGの本質を突いています。
ご理解のとおり:


✅ 【結論】

RAGでの回答は「与えられた知識(たとえば sample.txt)に基づくもの」に限定されます。


🔍 なぜか?

🔁 モードの違い

実行コマンド 動作内容 回答の知識源
ollama run llama3 LLMが直接回答 LLaMA3があらかじめ学習した膨大な知識(Wikipediaなど)
python rag_ollama.py RAG構成で回答 あらかじめ与えられたテキストファイルのみ

つまり、RAGは「知らないことは答えない」ように設計されています。

で、いま、このハイブリッド方法についてコーディングしているんですが、上手く動いていません。

未分類

もっとも簡単にローカルLLMを試してみたいです。ご指導下さい

ローカルLLM(ローカル大規模言語モデル)をもっとも簡単に試す方法として、以下の構成をおすすめします:

🪜 手順(Ollama を使った場合)

1. Ollama のインストール

2. モデルの取得と起動(例:LLaMA3)

ollama run llama3

3. 対話スタート

    • CLI上で直接やりとりできます

で、いま、その3分経過したところなのですが

これ、ネットワークに繋がっていない状態なんですよ。

それでも、これだけの会話を、たったこれだけの時間で実現しています。

正直、ちょっと背筋が冷えました。

で、今、このメッセージを受けて、正直”怖く”なりました。

2025,江端さんの忘備録

「飲み会」というものが、複数メンバーからなるチームにおける非公式コミュニケーションの活性化手段として有効であることは、私自身もかつての考えを改め、現在では強く認識しております。
I have come to strongly recognize that "drinking parties" are an effective means of promoting informal communication within teams composed of multiple members, having revised my earlier views.

とはいえ、飲み会に3時間を費やすのであれば、その時間で報告資料を1~2枚は作成できますし、睡眠にあてることで翌日のパフォーマンスも改善できると感じております。
That said, I feel that if we spend three hours on a drinking party, we could instead use that time to create one or two reports or improve our performance the next day by getting more sleep.

5人で3時間なら、延べ15時間です。これは決して軽視できる数字ではありません。
If five people spend three hours, that’s a total of 15 person-hours. This is by no means a negligible number.

参考までに、大手電機メーカーやITメーカーにおける社員一人あたりの人件費(諸経費込み)は、おおむね1時間あたり6,600~7,000円程度と推定されております(ChatGPTによるフェルミ推定に基づきます)。
For reference, the personnel cost per hour for an employee at a major electronics or IT manufacturer is estimated at approximately 6,600 to 7,000 yen, including overhead (based on a Fermi estimate by ChatGPT).

福利厚生費や間接費用を含めれば、企業側の負担としては妥当な水準といえます。
Including benefits and indirect costs, this seems to be a reasonable burden for companies.

したがって、仮に飲み会を「業務ツール」と位置づけるならば、5人×3時間×6,600円=約10万円という投資になります。
Therefore, if we position a drinking party as a “business tool,” it becomes an investment of 5 people × 3 hours × 6,600 yen = approximately 100,000 yen.

つまり、たとえ小規模な飲み会であっても、それ相応のリターン(信頼構築や意思疎通の向上など)を発生させなければ、費用対効果の観点では「飲み会を正当化できない」とも言えます。
In other words, even a small-scale drinking party must generate a commensurate return—such as improved trust or communication—otherwise, it is hard to justify in terms of cost-effectiveness.

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こういう時間ーコスト計算を出してくる人、私はあまり好きではありません。
I don't particularly like people who make arguments like this.

そういう人は、「お前たちにかかっている経費がいくらか分かっているのか」と声高に主張しますが、それに対して私は、常にこう言い返す準備をしております。
That's because such people often loudly proclaim, “Do you even realize how much you’re costing the company?”—to which I am always ready to respond as follows:

「ではまず、歓送会・忘年会・キックオフパーティ・内定者懇親会・社内懇親旅行を全面禁止にして頂けますよね?」
“Well then, shall we start by banning all farewell parties, year-end gatherings, kickoff events, new hire mixers, and company retreats?”

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ちなみに、私は今断酒中です。断酒中の人間から見たときの、これらの飲み会での人間の振舞いの醜悪さときたら……いや、やめておきましょう。私、サラリーマンですから。
Incidentally, I am currently abstaining from alcohol. And let me say—the behavior I witness at these parties, from the perspective of a sober person, is… I’m a salaryman, after all.

アルコールの力がなければ、マネージメントもできず、自発的な組織連携もできない ――