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江端さんのひとりごと
「一本の骨」

1999/06/28

今回の一件、色々ありました。

そして、私としてはこの情けなく不名誉極まりないどうしようもない事件を、毎回誰かに話したり聞かせたりするは、真に煩わしいと思っております。

正直言いまして、このエッセイを執筆する作業自体が極めて憂鬱です。

私は今、国立Y病院の4人部屋病室のベッドの上で、このエッセイを執筆しております。

事件発生後、何も口にしていません。食事はもちろん、一滴の水さえも取っておりません。

点滴用の長さ5cm程度の針が、左腕に刺さったままで、その上から包帯がぐるぐる巻きにされていますし、つい4時間前までには、直径5ミリの塩化ビニール管が、左の鼻穴から胃のど真ん中まで、70時間近く差し込まれ続けていました。

ご理解頂けると思いますが、現在の私は心身ともに衰弱の限りを尽くしております。

そして、健康な心と体を取り戻した後でも、今回の事件による私の肉体的精神的苦痛は癒されることはないでしょう。

そして、恐らく、この事件は多くの人々に大いなる軽蔑と嘲笑をもって、皆さんの記憶に残っていくことでありましょう。

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今回、私がこのような悲惨な状況にもかかわらず、文字通り病床でエッセイの執筆に踏み切ったのは、以下の理由に因ります。

第一に今回の事件が、私の意図せぬ形で流布されない為。

第二に、この事件に関して何度も何度も第三者に説明するのが不快かつ面倒である為。

そして第三に、自分が忘れていた大切なものを思い出し、そして決して忘れてはならないことを自らに戒める為に他なりません。

このため、私はこの江端人生史上、最高級の不名誉な事件を、あえてWebサイト、電子メール等を用いて公開することに決定しました。

従いまして、今回の事件に関しましては、本エッセイを持ちまして最終報告とし、本件に関する問い合わせ、およびそのお返事に関しましては、一切ご遠慮いただきたく希望しております。

悪しからずご了承くださいませ。

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私の嫁さんは、毎日帰りの遅い私のために、昼食用と夕食用の弁当を2食分作って、私に渡してくれます。

最近の私は、仕事と通勤時間の都合で、どんなに早くても午後10時を過ぎないと帰れない有様で、どうしても夕食が遅くなってしまいます。

そのため、最近の私は、慢性的な脂肪肝と診断され、毎月の血液検査の為に会社の保健センターに呼び出されていました。

これを何とかしようと、嫁さんは、ずいぶん面倒だったと思うのですが、毎日夕食分の弁当まで作ってくれることになり、その後、私の脂肪肝は再検査の必要が不要な段階まで改善されていきました。

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その事件が発生したのは、1999年6月18日、午後12時30分から、数分を経過したころでした。

その日に限って、私はずいぶん腹をすかせており、そして、私の好物の鮮やかな紅色の鮭の塩焼きの切り身が、几帳面に弁当に配置されて、私の目の前に飛び込んでいました。

私は勢いよく、その切り身を口に放り込んで、----- その時、ちょっと無理があるかなと、ちらっと思ったのですが ----- ひとくちで飲み込みました。

口の中で、切り身の対角線長の長さに相当する何かが、喉の中を1回転して、ちょうど喉の根元を通過しようとしていた、まさにその時、その対角線長の何かが、ちょうど重力加速度の方向と直行した向き、すなわち水平の状態になったのです。

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『嘘だぁ、そんなに詳細に覚えていられるものか。江端、おまえ、また脚色しているだろう』と思われる方がいるのは、百も承知で敢えていわせて頂きますが、世の中には不思議な現象があるもので、交通事故が起こった瞬間、自分がスローモーションで空(くう)を舞い、地面に落ちていくのを感じたと言う体験をした人が多くいると聞きます。

まさに、それです。

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私はその鮭の切り身が、どのような形で私の体の中に突き刺さっていったのかを、その経緯が手に取るように理解できたのです。

そしてその瞬間、喉を金串で突き刺されるような痛みを感じると共に、その事件のあった該当位置が、到底自分の手に届かぬほど臓器の奥で発生したことを、即座に直感したのです。

すぐさま、私は古典的な方法、たとえば「ご飯を丸のみにする」だのを数回試みましたが、すぐに諦めました。

その痛みの大きさ、そしてその痛みの発生する個所から、この事故が民間療法で及ぶものでないことが、直感的に分かったからです。

私は、机の上に弁当箱を広げたまま、即座に横浜工場の保健センタに走りました。

勿論、保健センタで喉に引っかかった異物の除去ができるとは考えていませんでしたが、横浜工場のある戸塚駅付近にある、耳鼻咽喉科の診療所を紹介してもらえるだろうと思ったからです。

私がこのように慌てていたのには、その日が金曜日であり、そして明日になれば、大抵の診療所や病院が、週末休みとなること、そして、この機を逃すと、週末を地獄のような痛みの中ですごさねばならないことが分かっていたからです。

自分に手の負えないことは、とっとと他人の手に渡す。

悪いことは、大抵、時間の経過と共にさらに悪くなる。

小さいころから病気がちで、一時期は医師の誤診で死にかけたことのある私は、この事故が簡単なものではないことも、直感的に理解していたようです(この事件に関しては、いずれまた)。

いずれにしろ、私のこの能力は、一種の自己生命保全の超能力と言ってよいものかも知れません。

そして、事実その通りだったのです。

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そして、私は、横浜工場の保健センタで紹介してもらった耳鼻咽喉科に電話した後、課長に受診外出の許可を得て、その診療所に走りました。

その間にも、喉の奥の痛みは、鈍痛から鮮明でクリアな鋭痛に変わって行き、唾を飲み込むと、痛みのあまりうめき声が出そうになるほどになってきました。

首を左に90度くらい曲げると痛みが和らぐので、首を曲げたままにして呼吸をしていました。

私は、受診開始時刻の40分も前に診療所に入って、痛みを堪えながら待っていましたが、その痛みがあまりに尋常じゃなかったので、私は受付で時間外診察をお願いしたのですが、先生が来ていないと言うことで断られました。

それにしても、受付には所狭しと、4人ものかなり歳の行ったばあさん達がいて、不審な感じがしました。

診療時間になって、3人目で診療室に入った私は、その薄暗い向こうに、少なくとも70歳は過ぎたような白衣を着た爺さんを見つけ、その瞬間、嫌な予感に襲われました。

私は、この爺さんがすぐさま喉の患部に刺さった異物を除去してくれるものと期待していましたが、爺さんは、喉の中を色々弄り、何度も鼻の中から内視鏡スコープを入れて覗いた挙句、一言いいました。

「無いね」

私は返事ができませんでした。

そして、(無いわけがないだろう、この爺!)と言う言葉を飲み込んで、私はかろうじて黙っていました。

爺 :「痛いの?」

江端:「痛いです」

痛く無ければ、ここに来るか!

爺 :「でも、無いよ」

こう言う場合、患者はなんと答えれば言いのでしょう。

『そうですか、ないのですか。それでは私の気のせいですね』とでも言えばよかったのでしょうか。

今だから言えますが、そんなことをしていれば、私は本当に死んでいたかも知れないのです。

私は黙っていました。

爺も黙っていました。

そして、そのそばで爺のアシスタントをしているばあさん達も黙っていました。

そして、20分間、全員が黙り続けていました。

嘘ではありません。

本当に20分間です。

こう言う場合、別の設備の整った病院を紹介することが、医師の務めであることは分かっていたのですが、私は怒りと痛みで理性など、とっくの昔に吹っ飛んでいたので、その爺に代わって、そのような提案を一言足りとも言う気はありませんでした。

診療所の待合室には、その時すでに20名近い患者が待っていましたが、爺は、何かを考え込んでいる風に、ひたすら黙っていました。

この爺は、「医者」として失格と言うことは言うまでもありませんが、私が見立てるに、すでに老人性痴呆と見うけました。

その時、私は『老害と言うのは、まさにこういう事を言うのか』と思ったものです。

私はお年寄りをこのように罵るのは本意ではありませんし、少なくとも年長者には、敬意を持って接するべきであると信じております。

しかしながら、医療行為を行う者が、老齢を自覚せず、現場に居続けるのは、迷惑を通り越して、極めて危険な行為です。

『歳とって職務を果たせなくなったら、とっとと隠居(引退)してくれ』

私の偽らざる気持ちです。

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その後、ようやく国立病院の紹介状を書いてくれることになり、まあそれはそれでよかったのですが、この手続きを行うばあさん達の手際の悪いこと悪いこと。

『タクシー飛ばしして行くから』と私が何度行っても、交差点の名前とか地図を書いて説明しようとするし、病院からの緊急往診の可否を知らせる電話がこなくても、まったく催促しないし、おまけに最後には受診料として、1万円以上も請求されずいぶん頭に来ました(ただし保健証を持ってきていなかったので、後日清算と言う事になるのですが)。

紹介状書くだけで、1万円とはおいしい商売だな、と毒つきたいのを我慢して、飛び出すように診療所を飛び出てくれば、後ろから領収書をもって駆けつけてくるばあさん。

『この領収書が無いと、健康保険書を持って来て貰った時、清算できないから。』

私はがっくりして、ばあさんから領収書を受け取りました。

そして、診療所を背にしながら、私はつぶやきました。

老害の巣窟か!ここは!!

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タクシーを飛ばし、国立Y病院に着いたのが、午後4時30分。

時間外受付窓口を経て、2階の耳鼻咽喉科に行くと、看護婦さんが「先生、ちょっとどっかに行ってしまったので、座って待っていて貰えますか」と言われ、やむなく待合室のベンチに座って待っていましたが、一向に医師が現れる気配もありません。

時間外の病院は、がらんとして人気が無く、まるで終電時のローカル駅のような寂しさでした。

私の痛みをよそに、廊下の向こう側では、若い夫婦とその両親と思われる人物が、元気に話をしており、その会話が静かな午後の病院の廊下に、わずかなエコーを響かせて聞こえてきました。

誰もいない建物に一人残されたような不安と孤独感。

そしているうちに、若い医師 -----それが、私の主治医となる先生なのですが----- が、耳鼻咽喉科の部屋に入ってきて、それからしばらくして、私は名前を呼ばれて、診察室に入っていきました。

私と同じ位の年齢で、エネルギッシュであると同時に冷酷な厳しさを持っている感じの声がするクールでハンサムな若い先生でした。

(・・・・私と似ている)

私は不安に襲われました。

クールでハンサムという点もそうなのですが、この先生は、ようやく最近仕事の仕組みが分かってきたところで、それなりの実力もありそうな一方、人生の重みが無く、クライアントの気持ちを解する様な「人生の深み」が今一つ足りなそうな感じがしたからです。

もっと簡単に言えば、『やさしい』と言う雰囲気を全く感じさせない人物だったのです。

口や喉の中の異物を除去してもらうためには、当然口の中を探索しなければなりません。そのために、喉の奥に小さな鏡の着いたスティック状の棒を差し込まれて、喉の奥をまさぐられることになります。

喉の奥に金属を置かれたら、大抵の人は『うえっ』と、吐きそうになるでしょう。

私が『うえっ』となる度に、先生は嫌な顔をして金属棒を引き上げていたのですが、3度目に至ると「あんたねえ!」と激しい勢いで怒られました。

普段の私なら、そんな理不尽な態度を取られれば、その段階で、即、戦闘開始です。

ですが、今回私は闘う訳には行きませんでした。

なぜなら、圧倒的にこちらのほうの立場が弱かったからです。

私は一刻も早く、この激痛の原因となっている異物を除去して欲しかったのです。

その後、鼻の穴と口の中に麻酔薬を入れられ、私は鼻水とよだれをたらした状態で、内心では(もう、どうでもいい・・・)と思いながら、喉の奥を金属片でまさぐられたのですが、問題の異物は発見されませんでした。

私は心底あせってきました。

異物が喉の中に無いってことは、別のところにあるのだろうか、と思っていたところに、この医師は、私の心をぐさっと突き刺すことを、平気で一言で言ってのけました。

「食道に入っていたら、もう取れないね。手術をするしかないよ。」

手術? 胸をメスで切って開ける?

呆然としている私をよそに、「じゃあ、鼻からカメラ入れて、食道の中を見るから。」と言うと同時に、私の鼻の中には長さ30cmはあろうかと言う、先頭に小さいレンズのついた直径5mmの管が入り、それが私の目の前、いや、もとい、鼻の前でスルスルと差し込まれて、残りの管がどんどん無くなっていきまし
た。

信じられない光景でした。

私は自分の頭部の中に、宇宙空間に繋がるブラックホールがあるとは思ってもいませんでした。

管が、鼻の穴から喉をつき抜けているのを、喉の奥で感じます。

このような未知の、そして不快極まりない気色悪い感触は、今まで一度も体験したことがありません。

医師は、カメラをのぞき込みながら「無いなあ・・」とつぶやいていました。

私は(早く見つけてくれ!)と言う思いで必死でした。

「あ、あった!」

医師のその声を聞いたとき、私の顔面は歓喜に輝きました。

すべての物事には原因があり、原因があれば対策が立つのです。

もう一人の、この医師の上司と見られる医師も、そのカメラを操作して、問題の患部を発見したようです。

二人の会話の内容から、その状態はざっと以下のようだと判りました。

位置:食道管から2~3cmの地点

異物:長さ3cm程度の骨

状態:食道管のど真ん中、両端に水平状に、相当堅固に突き刺さっている。 そして結論としては、「手術による除去しかない」と言うことでした。

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医師:「手術しないと、あれは取ることができない。」

江端:「はあ、手術ですか。」

医師:「手術自体は、非常に簡単で10分もあれば終わってしまうから、心配しなくていいよ。」

江端:「はあ、そうですか。」

医師:「じゃあ、今日ね。これから」

江端:「今日ですか」

医師:「じゃあ、これ」

江端:「・・・?」

私は、訳のわからないまま心電図とレントゲンの書類を持たされ、検査の場所に行かされました。

その後、その結果を持って帰ってきたら、また、その後すぐに血液検査に行かされ、耳たぶをナイフで切り、何秒で血が止まるかと言う、えらい乱暴と思われる検査を受けていました。

検査の時点でも、痛みは引いていくどころか、ますます酷くなり、情けないやら辛いやら・・・、それでも、まあ、それでも10分の手術で済むと言うことは、今週末自宅で静養していれば良いと言うことだと、私は内心ほっとしていました。

大事に至らなくて済んだ、と。

この間に自宅の嫁さんと、会社の上司に電話をして、これから緊急手術を行うことを報告したら、嫁さんも上司も一様に驚いていましたが、すぐに帰れると安心させました。

しかし、この段階で、私はまだ事態を正確に把握していなかったのです。

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一通り検査が終わって、耳鼻咽喉科に戻ってきた私は看護婦さんに聞きました。

「すみませんが、今日やる緊急手術の内容を教えてもらえませんか。妻に連絡しなければなりませんし・・・」と尋ねていたら、診療室のドアの向こうから、「江端さん、入って」と言う先生の声が聞こえてきました。

「これからやる手術はね、金属の管を口から食道まで挿入して、食道口まで直通の管を通して、引っかかった骨を取り除きます。」

口から食道まで、金属管を突っ込む?

その瞬間、私は聞き違えたのではないかと、自分の耳を疑いました。

「全身麻酔をするから、あなたはそのことを覚えていないことになるけど。」

私が人生で経験したことの手術は、盲腸の手術で、その時使った麻酔は脊髄から注射する局部麻酔でした。

私の持っている「全身麻酔」に関する知識と言えば、意識が回復せずにそのまま植物人間になったり、死亡したりと言う、極めてネガティブなものです。

しかし、本当に私にショックを与えたのは、医師の次の一言でした。

「それでね、手術自体はそれほど大したことはないのだけど、恐ろしいのが感染症でね。手術で金属管を食道口に挿入するから、食道に相当の傷をつけることになる。そこから菌が感染すると、その近辺にある肺、心臓を直撃して命にかかわる場合がある。従って、手術後、3日間は飲食できないし、最低一週間から10日は、入院してもらうことになる。」

入院? 魚の骨で入院? 一週間も? そんなの聞いたこと無いよ。

私は、職場の机の上に地層のように積まれた仕事の束を思い出して、一瞬意識を失いそうになりました。

あの膨大な量の仕事を、一体誰が代わりにやってくれると言うのか?

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それから、私は急かされながら、入院手続きを行うように指示され、時間外受付窓口で、書類の処理を行っていましたが、何しろ、新しい社宅に引っ越したばかりで、私は自宅の住所も電話番号も暗記できていない有様でした。

なにしろ、私は診療所に行って、すぐ帰ってくるつもりだったので、この時点での私の服装はGパンにポロシャツ、所持品は財布ひとつだけでした。

その後、その先生に引っ張られるように入院病棟に連れて行かれ、4人部屋の病室で、手術用の服であるピンク色の術着に着替えさせられました。

そして、パンツの代わりに、ふんどしのような『T字帯』なるものを着けさせられました。

T字帯の上から術着を着け、当然スリッパもありませんから、黒のビジネスシューズを裸足の上から履いた姿は、自分で見てもかなり滑稽で、悲しい光景で
した。

その合間の時間をぬって、携帯電話からかろうじて嫁さんに「今から手術」と言うことを連絡して、入院の準備を頼みました。

私は、自分で移動ベッドに載り、そのまま医師と三人の看護婦さんに引っ張られて、慌しく手術室に運ばれていきました。

移動ベッドの金属がきしむ音と共に、目の前にある病院天井がどんどん後ろに遠ざかって行きました。

エレベータ、廊下、そしていくつもの扉が視界に現れては消え、私は自分がどこに連れて行かされるのかすら分からないままでした。

そして、いきなり目の前に、あの病院ドラマでおなじみの無数の照明灯からなる真っ白な手術室が現れ、そして、手術室の中では、なぜかFM横浜の放送が流れていました。

そして、自力で移動ベッドから手術台に登って横たわった私の元に、年の頃にして40歳くらいの優しそうなおばさんが立っていました。

「こんにちは、私が麻酔担当の××(名前忘れた)です。」

と話しかけられている最中にも、看護婦が、心電図用の電極を体中に貼り付け、血圧測定用のバンドを腕に巻きつけていました。

「不安でしょうけど、心配ありませんからね。」

その時の私は、慌しすぎて、不安になることすらできませんでした。

(あ、そうか、そうだよなぁ。手術前だもんな。普通、不安になるよなぁ・・)などと、まるで他人事のように考えていたのです。

口にマスクが当てられ、変な臭いだなと思った瞬間には、意識が朦朧としてきました。

そして、「江端さん、聞こえますか・・・」と誰かに言われたような気がしたことを最後に、その後のことは全く覚えておりません。

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手術自体は、10分程で終わったそうです。

私は術後すぐ、朦朧としながらも意識を回復し、真っ先に医師に「刺さっていたものを見せてください」と頼みました。

今回の事件を引き起こした奴 ----- もっともそれは自分自身なのだけど---の姿を一目見ておきたかったのです。

医師は私に試験管を手渡してくれましたが、朦朧としている私の目には、その「もの」を見つけることができず、そのまま意識を失って移動ベッドに沈みこんでしまいました。

我ながら、「敵」に対する執念深さに感嘆してしまいます。

移動ベッドで運ばれながら、気分を聞かれましたが、「眠い」とだけ答えていたことを覚えています。

そして、術着とT字帯を着けたままで、手術後第一日目の夜を迎えることになります。

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その時の私は、左手に2本の点滴用の針が差し込まれ、左の直径5ミリの塩化ビニール管が、左の鼻穴から、喉の奥、食道を経由して胃のど真ん中まで差し込まれていました。

と書くのは簡単ですが、喉の奥に管を差込み続けると言う、この不自然な状態と不快感を表現するのは容易なことではありません。

どだい、喉と言うのは何かの異物を保持する所ではありません。

大抵数秒以内に何かを通過させるだけの器官です。

そんなところに、動き回る管をぶら下げている違和感は、やってみなければ決して解らないものでしょう。

やがて、麻酔が切れて、手術をした箇所の痛みが本格化してきました。

喉の奥に絡んだ痰を吐き出して見てみると、深紅の鮮明な痰が白いティッシュの上で美しいほどです。

管が鼻穴から入っているので、鼻汁をかむ事もできず、一度喉の中に吸い上げて、口から唾といっしょに吐き出すしかありませんが、その時、腫れ上がった患部を刺激するのか、喉が裂けるような痛みでうめき声が出てしまいます。

そして、息苦しくて眠れなくて、立ち上がったり、横になったり、首を傾けたりしましたが、その全ての状態において、喉の奥で管が動き回り、喉の粘膜を触れて行き、そして傷ついた患部に触れた時の激痛は、半端なものではありません。

あまりにも苦しくて、点滴を代えに来た看護婦さんに、「この管を抜き取って貰えないか」と頼んでみたのですが、この管から当面は食事を取るのだから、抜き取ることはできないと、素気無く拒否されてしまいました。

それでも、「食事の時に、また管を挿入すればよいではないか」と引き下がったのですが、やはり聞き入れてもらえませんでした。

まあ、よくよく考えれば、管を抜き取ったり挿入したりする時に患部を傷つけてしまっては、元も子もありませんから、管を抜くことができないのは極めて当然なのですが、その時の私は、『もし管を抜いてくれるのであれば、何でも言うことを聞くし、いくらでも支払う』というくらい辛かったのです。

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と、言うところで思い出したのですが、よく集中治療室などで、管だらけにされて治療されている患者の姿がよく描かれています。

ですが、一体この患者の苦しみをどれだけの人が理解しているでしょうか。医療関係者に関しても相当怪しいものです。

今、私は渡辺淳一氏のエッセイ集「風のように・忘れてばかり」の中に収められている「外科医の反省」と言う文章を読んでいるのですが、以下のようなフレーズがありました。

『他人の苦しみを、自分のことにおきかえて、その2割でも考えられるようなら、真の友人であり、5割も考えられたら聖人で、8割を越すようなら、もはや神か仏だと言う。それほど他人の辛さや苦しみを、自分のものとして感じることは難しい。その理屈で言えば、医師が患者の気持ちなど分からなくても当然、と言えなくもない。が医療の場では、これでは困る。

「こっちが苦しくて、体を起こすことも容易ではないのに、若い医師は平気で検査をしようとするんだ。」で、その理由を聞いてみると、医師の興味本位や無難だからと言う理由だからだったらしい。「冗談じゃない。患者はその検査一つでどれだけ苦しむか、そこをまず考えるべきだろう」』

この文章を読みながら、私が思ったことは、『医療行為が患者の病気からの回復を目的としていることは言うまでもないだろうけど、その回復の為には苦痛を受け入れよ、と言うのであれば、私はきっぱりとこう言うだろうな』ということ
です。

『やだ。』

簡単に言うな。

鼻に管を突っ込まれただけで、この苦しみだぞ。

全身に管突っ込まれてみろ、病気そのものより遥かにそっちのほうが苦しい。

少なくとも健常者が、患者に対して偉そうにモノ申すことが僭越というものだ。

こっち側に来て、同じ台詞が言えるか?

勿論、全ての看護婦と耳鼻咽喉の医師に、「鼻から管を突っ込んでみろ」と言う気は無いが、少なくともその状態を想像くらいはして欲しい。

いいや、やっぱりやって貰いたい。

ほんの5分でいい。

もっともその間、管を動かしたり、体を動かしたりして貰うが。

その後、「一週間そのまま管を差し込んだままでいてください。」と平気で言えるなら、私も態度を変えてもいいと思う。

閑話休題。

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術後の初めての夜、私は夜中に7回程、痛みで目を覚まし、一晩中うとうとしたままの状態でしたが、それでも良く眠れた方だと思います。

翌朝、喉の痛みもかなり引いていった・・・と言っても、まだ十分痛かったのですが。

しかし、喉が痛いと言っても、骨が刺さったところ(食道口)自体はそれほど痛くないのに、その周辺がやたらめったら痛いのはなぜだろうかと、私はいぶかしがりがりました。

やはり、口から金属管突っ込めば、大抵の生体組織なんぞ簡単にぶっ壊せるよなぁ・・・となんとなく納得。

事故そのものより、手術自体の影響で入院しているようなものだなあと思うと、仕方ないとは思いつつ、なんとなく情けない気分になってきます。

この気分にさらに情けない気持ちになってくるのが、食事です。

缶入りの栄養スープ、水状のおかゆ、具の無い味噌汁、ジュース、牛乳を塩化ビニールの袋に入れ、点滴のぶら下がっているスタンドに引っ掛けます。

そして次に、そのビニール袋から伸びている管を、私の鼻に繋がっている管とジョイントして、食事を、口も喉も食道も経由させず、直接胃に送ります。

時間が来ると、まず看護婦さんが栄養スープを袋の中に入れてくれます。

そのスープの注入速度の調整は点滴と同じで、管の太さを調節するつまみで変化させます。

あまり遅く入れると時間がかかるし、早く入れると腹の気持ちが悪くなるらしいので、自分で調節します。

スープが無くなったら、次にお椀を掴んで、おかゆを『自分』でビニール袋に入れます。

その次は、味噌汁です。

このおかゆと味噌汁を、ぽとぽとと点滴で落としながら胃に挿入していきます。

この間、私はぼーっと、点滴の速度を見守っているだけです。

味も素っ気もないとは、まさにこのこと。

看護婦さんによっては、おかゆも味噌汁もいっしょに袋の中に放り込んでしまうし。

ジュースと牛乳だけは、一緒に入れると固まるので、別々に入れるように指示されましたが、指示されなくたってそんなことしたくありません。

そりゃ、胃の中に入れば皆一緒だと分かっていても、「イメージ負け」します。

こんな食事の取り方をしているので、当然その時間は長くなり、その間にトイレに行きたくなったりします。

仕方が無いので、点滴のスタンドをガラガラと引っ張りながらトイレに出向いて、用を足します。

(今、飯を食いながら、用を足しているのかぁ・・・)と思うと、人間なんか、所詮一本の管にすぎない、と言うことを強く実感します。

こう言う日々は、体力より先に、心がだんだんやせ細っていく感じがします。

感染が怖いと言うことで、できれば唾も飲み込むなと指示され、唾がたまったらティッシュに吐き出すくらいですから、体は勿論、顔を洗うことすら満足にできません。

第一、点滴スタンドをガラガラ引っ張りながら、満足に歩くことすらできやしません。

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入院2日目。

病棟内の診察室に出向いた私は、担当医の先生から病状に関する説明を受けました。

受け取った試験管の中には、真っ白な長さ3cm、直径2mmの邪悪な光を発する一本の骨。

この骨が、食道口から2~3cmの所に両側で刺さっており、もし、無理に引き抜こうとした場合、食道壁を裂いてしまう可能性があったため、まず一方側に深く差し込んで肩端をまず外し、そして骨を縦に立てて、もう一方の端も外しそのまま引き抜いた、とのこと。

食道壁が感染すると、肺、心臓をそのまま直撃して、命にかかわるので、感染症の疑いが完全にはれるまでは、退院できない。

江端:「じゃあ、もしこの骨を刺したまま放置していたら、どうなりました。」

医師:「まず、放置できないね。痛くて痛くて堪らないから。」

江端:「はあ・・。」

医師:「まれに放置して、感染症を発生して、手遅れで死んでしまう人もいるね。一年に一件はある。」

古くは、徳川家康が、魚の骨で死んだと言う話があるそうです。

どうやら、この一件、放置すれば私は確実に死んでいた、と言うことらしいです。

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気分が滅入り方が最高潮に達した頃、嫁さんが見舞いに登場。

嫁さんの顔を見てほっとしたのか、私は気が緩んできてしまい、嫁さんが私の頭の髪を手で梳いた時、不覚にも落涙してしまいました。

私は「あれ?何で?」と驚いてしまいました。

自分でもあまり気がついていなかったようですが、結構痛みなどで苦しかったのかも知れません。

嫁さんの方はさらに驚いて、おどおどしてしまっていました。

私は、彼女にめぐり合えたことを、そして飾ることなく落涙できるパートナーでいてくれることを、今、心の底から本当に感謝せずにはいられません。

嫁さんは、今回の一件のどたばたで随分疲れた様子でしたが、今日も病院の手続きや、必要なものの買いだしなどに走り周り、不便がないように色々と整えてくれました。

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私が、自分でおかゆやらお味噌汁やらを、ビニールの袋に入れて胃の中に流し込んでいるのを、嫁さんは気の毒そうに見ているようでした。

嫁さん:「美味しい?」

江端 :「味なんか、分かるわけ無いよ。」

嫁さん:「どんな感じがするの?」

江端 :「かろうじて分かるのは、『熱い』とか『冷たい』とかかな。注入するスピードを上げると、急激に胃の中が熱くなったり寒くなったりするんだ。味気ないを通り越して、気分が滅入ってくる。」

嫁さん:「それで満腹になるの?」

江端 :「流動食を注入すると、一応空腹感は無くなるんだけどね、満腹感は無いね。何で空腹感が無くなったのか、頭で分かっていても体のほうでは混乱している感じがする。第一、ぜんぜん食事が楽しくない。」

嫁さん:「そりゃそうだろうね。」

と言いながら、二人して、点滴スタンドにかかった牛乳の入ったビニール袋を見上げました。

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ここの病院の看護婦さん、いい人もいるのですが、全体的に愛想が悪いようです。

加えて、流動食の管を間違えて差し込んだり、点滴の管に空気を入れてしまったりします。

特に嫁さんが面会に来ている時に限って、こう言う失態をすることが多く、夫婦でひやひやしています。

丁度、前日『報道特集』という番組で、医療現場の医療ミスに関する特集番組が組まれていました。

最近、医療現場で、医療ミスによる患者の死亡事故が続いています。

大抵の場合、病院側の適切な証拠隠滅(病院内での解剖+即時の火葬処理)で闇に葬られる場合が多いのです。

これは患者あるいは遺族が、圧倒的に医療機関より立場が弱いことに他なりません。

専門用語で畳み掛けられれば、素人が太刀打ちできるわけがありません。

私は嫁さんに、万一私が病院の中で、訳の判らん死に方をしたときには、絶対に病院で解剖(病理解剖)させることを許可せず、直ちに警察に連絡し、しかるべき機関で「司法解剖」をするように、念を押して言い含めておきました。

閑話休題

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入院3日目。

午後の診察で、喉や食道口の傷が収まったと判断され、70時間鼻から胃に差し込まれつづけていた管が抜かれることになりました。

診察していた医師が、その管をつかんでゆっくり引き抜き始めると、その管はどこまで引いてなかなか途切れず、まるで口からテープを引く抜く手品を見ているようでした。

管が抜かれていくときは、鼻と喉を管がすり抜けていくくすぐったい感じで、私は涙と鼻水が吹き垂れて来ました。

そして、その管が完全に体外に出たときの、快感 ---------。

体に巻き付かれていた鎖がはじけ飛んだような、いや、もっと格調高く説明するのであれば、ゴルゴダの丘で十字架に足と手のひらを鉄の杭で打ちつけられたジーザスクライストスーパースターが、冤罪判定通知を受け取ったローマ帝国の役人の手によって、十字架から外され、その下に準備されたタンカの下で手当てを受けながら、ようやく安堵の笑顔を見せたときのように-------

ううむ、やはり、この快感を説明するのは、難しい。

難しいから説明しないけど、とにかくもの凄く気持ちがよい。

診察室から出た私は、思わずスキップをしながら、病室に戻って、その足でタオルと石鹸を持って、洗面室に駆け込みました。

実に70時間ぶりの洗顔。

そして、その後わずかに残っていた喉の痛みも嘘のように引いていきました。

もしかして、喉の痛みの半分以上は、この管の責任だったのかもしれません。

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そして、その日の夕食。

それは、5分のおかゆと味噌汁、それと野菜の煮込み、それとちょっと怖かったのですが、魚の煮物がありました。

それらは、いわゆる病院食と言われるもので、勿論味など何も期待できない食事であることは判っていました。

でも、本当に美味かった。

味がどうこうと言うのではありません。

食事と言うのは、勿論舌で味わうことは言うまでもありませんが、同時にその触感を、喉で、食道で、さらに胃で楽しむことで、初めて完結すると言う事を痛感しました。

どこにも痛みが無く、顔が洗えて、そして口から食事ができる。

そして、今の私には遠い夢ですが、これに毎日風呂に入れたら、それ以上の何を人生に何を望むことがありましょう。

退院は、あと3日後の予定です。

感染症の不安を完全に払拭するまでは、絶対に退院させないという病院側の姿勢は、医療現場の立場からは当然そう言わざるを得ないだろうし、いきなり退院して仕事の前線に出れば、体力が消耗し、感染症が発生しやすくなる点からも妥当な処理だと思います。

課長には、「このド忙しい、本当にいい時期に休んだねぇ」と嫌味も言われていますが。

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4人部屋のこの部屋の中には、かなり年老いた方も、私と同じように鼻から食事を取っている方も、また、声が出せないだけでなく、からんだ痰を吐き出せなくて、夜中に悲鳴にも似た咳をしながら苦しんでいらっしゃる方もいらっしゃいます。

真夜中にその悲痛な咳き込み方を聞くだけで、今の私にはその方の苦しさ、辛さ、悲しさが手に取るように判るのです。

ですが、その苦しみをどんなに理解してやろうとしても、どんなに我が身に感じ様としても、その人の苦しみには、絶対に、絶対に、絶対に及ばないのです。

その人の苦しみは、その人だけのもので、誰のものにもならないのです。

私のこの事故を契機に、私は病室で嫁さんとゆっくり話をすることができました。

私達は、結婚した時から、お互いに「苦痛を伴う延命処理を全力で阻止する」と言う認識で一致しています。

気軽に言える本人の苦痛を無視した無責任な生命賛歌は、私達夫婦と関係の無いところで好きなようにやってくれればよい。

私達夫婦は、お互いの苦痛からの開放のためには、たとえ罪に問われようが、何だってするつもりです。

私達は、この誓いを病室で再度確認し合いました。

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昔、友人に、『「闘病」って何だろうね。結局病で死ぬなら、その闘いは負けたってことなのだろうか』と言う質問をしたことがあります。

友人は、流石に「ばかもの!」とは言わなかったけど、私のこの考えを叱咤を込めて改めてくれました。

『闘病とは、その人の生きる姿勢であり、その病と闘っているその生き様自体に価値があるものなの。その命を賭けた闘いの中に、命の輝きを見るからこそ、意味があるの。勝ち負けじゃないのよ。』

確かに、そういう生き方は素晴らしいし、人にも感動を与えるでしょう。

だが、敢えて言わせて頂きます。

それがどうした。

私は人の為に生きているんじゃない。

苦痛を伴う延命で、その命の持ち主たる私が苦しむなら、何の価値がある。

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安楽死に関する法案の可決は難しそうですし、私個人に関しては法案が可決しなくてもよいし、むしろ、可決しないほうが良いと思っています。

なぜなら、安楽死にかこつけた犯罪は、私だって恐ろしいと思うからです。

それに、法があろうがなかろうが、私にはどうでもよいことなのです。

私の命に関することは、私の命の持ち主たる、この「私」が決定するからです。

世界を席巻しているある宗教では、命は神からの贈り物であり、人間にはその贈り物を最大限利用する責務があると説いています。

笑わせるな。

贈り物なら、きちんと品質保証した物をよこせ。

持ち主が苦痛に苦しむような品質の贈り物なら、最初からいらん。

しかし、少なくとも「神」とまで呼ばれる何者かがそのようなことをするわけが無いとも思うわけで、従って「神」が存在するかどうかはともかくとして、命は命の所有者のものである、と私は思うのです。

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勿論、私のこの過激な考え方に、抗議したい人も多くいるだろうと思います。

「生命の尊厳軽視も甚だしい!」と激怒している方もいるでしょう。

私は、これらの方からの抗議を受け付け、公開の場で討論をすることにやぶさかではありません。

私はどんな議論も受けて立つつもりです。

来なさい!

ただし、私に抗議に来る方は、必ず以下の事項を実施した上で来ることを忘れないでください。

鼻穴から、喉、食道を経由し、胃の中に至る塩化ビニール管を通し、そのビニール管を通して、最低7食の食料を注入し、70時間以上その管を維持したまま日常生活を続けること、勿論、この間一滴たりとも水分、食料を口から摂取してはならない。

この行為を実施したと言う公的な証明書を付けて、私のところに来てください。

きっと実りある建設的な議論ができると思います。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、 転載して頂いて構いません。)

 

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江端さんのひとりごと

「IETF惨敗記」

1999/03/25

ミネソタ州ミネアポリスのヒルトンホテルで開催されているIETFミーティング参加初日の夜、私はホテルのベッドで、久々に早朝覚醒型の不眠で目が覚めました。精神的な疲労が極に達すると、私のこの病気は予告なく私を襲うようです。

私にとって、このIETFミーティング1日目は、まるで10日間も徹夜して働いたかのような、すさまじい、そして強烈な疲労感と絶望感そのものでした。

最初から最後まで完全に理解できない会議、---文字どおり、一言も理解できない---、と言うものが、この世にあろうとは思わなかったのです。

私は、何も記入できない真っ白なノートを胸に抱えながら、欧米人の出席者で一杯になったヒルトンホテルのミーティング会場で、ただ呆然として前方のスクリーンに写し出されたOHPシートを見ているだけでした。

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IETFとは、Internet Engineering Task Forceのことで、インターネットの標準を規定する非営利の団体で、年に2度Meetingが開催されます。

インターネットとは、つまるところ色々な人が色々な目的で使う通信システムのことですので、これを動かすためには共通の決まり(プロトコル)が必要です。

この決まりを決める団体が、IETFです。

IETFには、会員と言う概念がなく、やりたい人がどんな提案しても良いことになっています。その提案は、まず「ドラフト」と呼ばれる英語の文章で提出しなければなりません。そして、その提案が受け入れられるか否かは、このIETFミーティング会場の出席者の多数決で決定されているようです。

要するに、「オープン」であることが、このIETFの特徴とされているのです。

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今回のIETFの出席者はおよそ2000人、ざっと見たところ、日本からも30名程度の出席者があり、(シ研)からのも7名が出席していました。

この2000人の人間が、会場のロビーで技術に関する議論を戦わせている様子は、実に壮観です。

実にやかましい。

このIETFのオープンの考え方と言うのは、かなり徹底しているようで、モラルも規範もあったもんじゃありません。

初日、私はスーツ姿で出かけていって、いきなり恥をかきました。

会場には、フォーマルな服装できている人間は、一人もいませんでしたから。全員が、Gパンにスニーカ&Tシャツと言ういでたちで、ロビーのすみっこで壁に持たれかかりながら、ノートPCを叩いていました。朝食はビュッフェ形式で、あふれるほどのパンやフルーツ、ドリンクが提供されるのですが、それを山のように皿に盛っては、床にあぐらをかいて食べていま
す。

さらには、足を別の椅子に投げかけながら、ミーティング会場にまで食べ物の皿を持ち込んで、口をもぐもぐさせながら、発表者の話を聞いています。

最初は驚いていた私も、そのうちマネするようになりましたが。

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まあ、驚いたといっても、そんなことはどうってことはなかったのです。

本当に驚いたのは、議事の進行方法です。

まずチェアマン(議長)が、議事を箇条書きに書いたOHPを示し、『今日はこれだけのことを決める。じゃあ、最初の提案者、どうぞ』と言って、いきなり提案者による提案ドラフトの説明が始まります。

本当に、面食らいました。

大抵、会議というのは、まず「今日は皆さん、お集まりいただき・・・」と言う挨拶から始まり、このミーティングの背景、目的を説明し、提案者の紹介をして始まるものですが、IETFミーティングでは、そのようなことはまったくしてくれません。ミーティングの議事内容まで、すでにそのワーキンググループのメーリングリストで検討が終わっていることになっており、残るは質疑応答と採決だけです。

ですから、そのメーリングリストに入っておらず、またドラフトを事前に読んでいなかった私は、何が何だか分からないまま、ただひたすら議事が進んでいくのを見守るしかできなかったのです。

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ですが、私が、メーリングリストに入っていて、ドラフトを事前に読んでいれば、理解できたか、と言うと、その可能性は絶望的に近いほど低かったでしょう。

ネイティブスピーカのネイティブスピードのもの凄さと言うものは、TOEIC600点台の人間にとっては、バッティングセンタで、飛んでくるボールに小さく書かれているメーカ名を読みとるより、遥かに難しいのです。(実際、きちんと視力を測定すれば3.0以上はあるだろうと思われる私には、そっちのほうが楽かも知れない。)

質問者は、会場にあるマイクの前に並んで、正面の提案者に向かって質問をしていきますが、NHKの「上級英会話教室」のように、一語一語をきれいに区切って、クリアな発音でしゃべってくれるわけではありません。

一つの質問が2秒ぐらいで、その中には、実に25ワード以上は入っているかと思われます。私には、単に動物の『ウオー』とか言うような唸り声の様にしか聞こえません。

この唸り声に対して、会場がワッと笑いに包まれます。周りを見回してみて、笑っていないのは、私(と多分他の日本人)だけのようです。

私は心底、傷つきました。

私に出来ることは、写し出されたOHPシートの内容を、ノートパソコンに写しとることだけだったのです。

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そもそもなぜ私がIETFなんぞに参加することになったかというと、これまた自分の意志ではいかんともし難い、悲しいサラリーマンの宿命にあります。

昨年までやってきた仕事である、マルチメディア監視システムのプロトタイプを無事完成させ、今年は製品化に向けて、設計とコーディングの日々だと自分では思っていたのですが、今年の初め、私は上司から別の仕事を命じられることになります。

それが、ポリシーベースネットワーク管理システムの研究です。

「ポリシー」などと聞いて、私は学生時代にちょこっとだけ参加した左翼運動の実績を見込まれたのかしら、などと呑気なことを考えていたのですが(70年代には、政治的理念のない人間のことを、『ノンポリ』と言いましたから)、どうもそういうことではなくて、ネットワークをビジネス運用(どのデータをどの経路で通せば、最も効率的に儲かるかとか)の観点から
管理する、最近新しいネットワーク技術のことです。

この研究を通産省の補正予算で行うことが正式に決定し、そんでもって、いつものことですが、私が放り込まれた訳です。マルチメディア監視システムのほうは、外注のシステムエンジニアを雇って、私のエージェントとして動いてもらうことが決まり、一応会社側としては筋を通したつもりでいるようです。

もちろん、そこには、再びその『ポリシーなんちゃら』を、一から勉強し始める私の苦しみや辛さは何も計上されていませんが、まあ、サラリーマンとはそういうもんです。

ところが、このポリシーなんちゃら技術の研究は、極めて新しい研究らしく、現在のところ、日本において権威といわれている研究者も研究機関もありません。従って、その研究に関する書籍はもちろん、研究発表資料、論文も何一つありません。しかたがないので、私は毎日行きと帰りの電車の中で、IETFの関連ドキュメントを、片っ端から読み倒す日々が続きました。

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ミネアポリスで行われているIETFは、5日間の日程で行われ、その間同じく(シ研)から来ていた、M氏のおかげで、他社の技術者と直接話すことができて(当然、私に英語で技術討論をする力量などあるわけがない)、一応報告書を書くためのネタはいくつか出来てきました。

しかし、今回の私にとって、最も重要なミッションはポリシー技術に関するIETFの動向調査でしたから、まさか「英語がわかりませんでした」と書いた報告書を提出するわけにもいきません。

私は、IETF会場のターミナルルームに準備された100台以上もあるコンピュータの1台を占拠して、ポリシーに関するドラフトを印刷しまくり、ミーティングに出席せず、ロビーに座り込み壁に持たれかかりながら、ひたすらドラフトを読みつづけていました。

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ポリシーワーキンググループセッションが始まる前日の深夜、ホテルのデスクでひたすらドラフトを読んでいる時に、電話がかかってきました。

"Hello"

応答がありません。

"This is Ebata Speaking."

と言うと、「・・・智一君?」と、おどおどした風の声が聞こえてきました。

嫁さんでした。

私が海外出張ということもあり、嫁さんは娘の麻生をつれて実家の福岡に帰っていていました。

江端: 「おお、よく電話してきたね。」

嫁さん:「フロントが出たのだけど、何を言っているのか全然分からなくて・・・で、辛うじて『スペル』と言う単語だけ分かったから、EBATAとだけ言ったらつなげてくれた。」

江端: 「こっちはねえ・・・英語が全然わかんないよ・・・。」

嫁さん:「そりゃ、会議で使っている英語なんだから・・・」

江端: 「ちがうんだ、そうじゃないんだ。フロントから、ハンバーガショップから、タクシーから、何もかも何を言っているかわからないんだよ。」

そう、私が最高に落ち込んでいる原因は、実はIETFの内容が分からないことではなく、日常会話が全然理解できなかったことです。しゃべることは難しいだろうなとは、思っていましたが、日常会話が聞き取れないという事実は、私を徹底的に絶望させました。

江端: 「とにかく、こちらの能力にあわせて、しゃべる速度を落とすという考え方がないんだ。」

嫁さん:「そう言えば、フロントも全然ゆっくりしゃべってくれなかったよ。」

これは、多分に偏見かもしれませんが、ミネソタでは世界中の人間が英語をしゃべっていると思っているのではないかと思わせる場面が多々ありました。

私がダウンタウンの郊外にあるミシシッピ川を一人で散策していると、5人の子供を連れた子供のお母さんが、私に道を聞いてきます。

"Sorry,I am a stranger here (地元の人間じゃないんで)"と言うと、しかたなさそうな顔で、子供を連れてどこかにいってしまいました。

また、冬期の雪の積雪量と、おそらくは治安の悪さも原因だと思われますが、ミネアポリスのダウンタウンのビルのほとんどは、スカイウォークと言う空中回廊で相互につながれていて、ダウンタウンにいる限り道路を歩く必要はほとんどありません。もちろん、そのスカイウォークは迷路のようにダウンタウンにはり巡らされていますので、簡単に迷子になってしまいます。

夕食を終えて、誰もいないスカイウォークを歩いていると、私の前方にスカイウォークの地図を覗き込んでいる黒人カップルが、私に経路を尋ねてきました。

もちろん、"Sorry, Stranger I am."と答えるしかありません。

ミーティングが終わった当日の午後、歩いて彫刻美術館と言うところに行きました。バスは乗り間違えると、とんでもない目に会うことは、これまでの海外旅行の経験で熟知していましたので、ひたすら歩いていきました。

その途中の道で、母親につれられた可愛い少年が、私に向かって言いました。

"Where are you going, Mr?"

私はとっさに、"What?"と答えましたが、それと同時に、この少年が明らかに『おじさん(Mr)』と呼びかけたのを不快に感じていました。母親のほうが『知らないおじさんに声をかけちゃダメよ』と言う風に子供の手を引っ張って、私とすれ違っていきました。

コンビニエンスストアで、水とミルクをもってレジに向かうと、レジのおじさんにいきなり何かいわれてドキリとしました。"Pardon?(すみませんが)"と私が聞き直すと、"Mexican?(メキシコ人か)"と聞かれていることがわかり、呆然としてしまいました。

ミネアポリスの最後の夜に、IETFに参加した日本人の集まりで、ベトナム料理を食べながら、この事件の話に加えて、中国でウイグル人に間違えられたこと、京都でブラジル人に間違えられたことなどを話したら、「要するに、モンゴリアンなんですね。」と総括されてしまいました。

『ミネアポリスの連中は、きっと、アメリカ大陸の外側は大きな滝になっていて、そこから海の水が落ちこんでいて、そしてアメリカ大陸は、カメがその下で支えていると信じているんだ』と屈折した思い込みで、ミネアポリスの日々をすごしていました。

江端 :「加えて、(シ研)の奴等が、僕の泊まっているホテルの地区が危ないって言うし・・・」

嫁さん:「え!危ないの?」

江端 :「とは、僕には思えないんだけどね・・・。」

私はホテルのクオリティには、あまり頓着しないほうで、会場のホテルが予約できなかったので、旅行代理店に『安いところを適当に』と言っておいたら、食事付き一泊79ドルと言う破格のホテルを予約され、周りの人間を随分心配させました(大体150ドル程度)。

学生の頃、私は一泊10ドルと言うドミトリーにあたりまえのように泊まっていたので、その辺の感覚が麻痺しているのかも知れません。

後輩の、T君に言わしめて曰く、『スカイウォークが繋がっていない、駐車場に派手な落書きがあった』ことが、その危険であることの根拠らしいです。

江端:『でもね、僕が泊まってきたところって、安全フェーズが2段階ほど違うよ。』

T君 :『どういうところですか?』

江端:『中国のウイグル自治区内の安宿とか、ネパールのコンクリートがむき出しになった宿とか、インドのニューデリーの宿では、目の前に物乞いの人たちが一ダースぐらい・・・』

T君は、絶句していたように見えましたが、付け加えて言いました。

T君 :『しかし、江端さん。決定的に違うことが一つあります。』

江端:『何?』

T君 :『拳銃』

そりゃもっともだ、と思った私は、それからIETF会場のミネアポリスのヒルトンホテルから、ウエスタンダウンタウンと言うモーテル系のホテルまで、走って帰ることにしました。

江端:「ところがねえ、慣れない街だからねえ、道を間違えてどこを走っているか分からなくなって・・・と言って、信号で泊まると恐いから、青信号の方を選んで走るから、さらに道がわからなくなってきて、そうして、昨夜はミネアポリスの街中を、ぐるぐる走りまわっている変な日本人が一人いたわけだよ。」

15時間の時差のある電話の向こうで、嫁さんは大爆笑していました。

そしてこの話は、「夜のミネアポリスを走り回る日本人」と言うエピソードで、そのIETFの期間中、ことある毎に語られることになります。

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さて、ひどく落ち込んでいた私は、嫁さんの電話で少し元気をとり戻し、今一度IETFを眺め直す余裕が出てきました。

午前を回っていましたが、私はベッドの上にひっくりかえって考え始めました。

まず第一に、IETFは本当にオープンなのか?

あのスピードの英語を日本に取得できる人間がどれだけいるのか。どれだけの人間が、あの技術情報を母国に持ち帰れるのか。そもそもネイティブスピーカでない我々日本人が、あのミーティングに参加することができるの
か。

次に提案者、質問者の面々です。

提案者はまあ良いとして、質問者です。

みーんな、同じ顔。

同じメンツが、マイクの前に立ってぐるぐると順番待ちをしているだけです。オープンどころか、クローズなグループメンバによる芝居のように見えるのは、私の穿った見方でしょうか。

と、そこまで考えたとき、私は背筋がぞくりとするような寒気を感じました。

(これはやばい。相当にやばいぞ・・・)

私は基本的に、自分のことしか考えない利己主義者ですが、その私の利己を脅かすほどの恐ろしい現実が進行しつつあることに気がつきました。

これからも情報通信技術が、ある一国で閉じる訳がありませんから、この技術の検討が国際共通語である英語で行われることは間違いありません。

そして、インターネットの世界に関しては、当面IETFが支配的な地位を占めていくでしょう。

IETFは、いかなる形でも強制力を持ってはいませんが、インターネット標準の決定機関です。インターネットに関わる全てのベンダ、サービスプロバイダ、ユーザは、このIETFの決定事項に従って動いていくしかありません。

すなわち、IETFに対して提案活動を行うと言う事は、すなわちその提案の内容が世間に公表される前に、すでに手が打てるわけです。

例を挙げましょう。

例えば、私があるマルチメディア帯域制御方式を実現する通信ソフトウェアを開発したとして、その内容をIETFに提案し、これが受理されたと仮定しましょう。他の会社は、この通信方式を実装するために、私が提案したドラフトを読みながら、製品を作らなければなりませんが、私はすでにその実装が終わったソフトウェアを開発し終えているのです。

この開発機関がどの程度になるにしろ、すでに私は、他社に対して開発期間分(数ヶ月以上)リードしている訳です。他社が開発を行っている間、私は営業活動を進めて、シェアを拡大させる事ができます。

つまり、イニシアティブが全てなのです。

提案ドラフトを読んでから製品化に着手しているようでは、シェアを取る事が出来ないのです。

逆に言えば、このようなIETFのような国際的標準機関でイニチアティブを取るためには、英語が必須なのです。しかしそれは、英語が単に読めることでも、しゃべれる事でも、理解できることでもありません。

「検討」し、「討論」でき、そして「論破」できることなのです。

しかるに、我が国の英語教育の水準は、間違いなく世界最低クラスです。

先進国と言われているアジアの国々のほとんどと比較して、TOEICの平均点が低い事は、意外に知られていませんが、私は色々なアジアの国を旅をしてきた経験から、感覚的にこの事実に気がついていました。だって、一応英語が使えれば、どの国のどの街のどんな所でも旅が出来たんですから。

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(21世紀も、欧米中心の文化に引きずられながら、我々は生きていかねばならないのか?)

パソコンの設定一つの為に、膨大な英文資料に翻弄されて過ごしている日々。

そして、ろくな特許のアイデアも出せず、まともなシステム構築すら出来ない技術者が、ただ英語が使いこなせると言う理由だけで、より優位な地位に立てる日本の技術者社会。

私は、娘の笑顔を思い出して、憤然とした思いに駆られました。

娘の世代も、欧米文化に追従する日々を生きねばならないのか?

私は最近、戦前の陸軍の関東軍のエリート軍人達が、日本語を基本とした大東亜共栄圏を作ろうとした気持ちが少し分かるような気がします。

軍事的にアジアを占領して、すべて日本語が通じるようにして、米国とヨーロッパ共同体に対抗しようとしたその行為は、もしかしたら英語がしゃべれないコンプレックスに起因していたのかもれない。

しかし、それでも、彼らは日本のシステム体系が世界で無視されることを予期し、それを恐れていたのです。イニシアティブをとれない国が、没落していくかないことを熟知していたのです。

日本がどうなるかは、私にとってどうでもよいですが、娘がどうなるかは、私にとって大問題です。

この欧米主義中心の世界観をどのように変えていけばよいのだろうか、と私は考え始めました。

その1 全世界侵略論

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

全世界を武力で制圧し、日本語を世界共通語として強制する。

しかし、公式に核非所有国を宣言している我が国が世界征服をするのに比べれば、太陽系以外の他の星系に移住可能な星を見つけて、日本国民全部が移住する方がはるかに簡単でしょう。

その2 大東亜共栄圏論

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

これは人口比率から言って、中国語しか選択はない。この中国語による大東亜共栄圏で欧米文化に対抗する。

しかし、日本人全部が中国語を勉強し直すくらいなら、こういう発想はそもそも出てくる訳がないので、もちろん却下である。

その3 英語教育再編論

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

文部省は、教育としての位置付けをやめ、教育カリキュラムから、英語教育を放棄する。一種の高級なプログラム言語の一つとして、通産省にその権限を移譲し、「情報処理技術カリキュラム」の一つとして組み込む。すなわち、文化としての英語を全面的に方向転換し、単なる通信プロトコルと捕らえ、その「技術」を教えるものと考える。これにより、偏向した欧米中心主義文化からの脱却を図る。

とは言え、どのようなカリキュラムがあろうと、現実的にその英語が使えなければ、意味がありません。

そこで、私は韓国の徴兵制(*1)にならい、英語技術の徴役制度の導入を提案します。

(*1)韓国では成人男子全員に兵役の義務がある(イスラエルでは女性も)。

さて、その懲役をどこでやるか、一番安いコストと言う点では、在日米軍あたりで兵役につかせてしまおうか、と言う乱暴な考えもあったのですが、何もアメリカの世界戦略構想に協力する必要はないし、第一、個人的に嫌。

ならば、どこかの英語圏の島を買って、そこに高校教育を終えた若者を、全て強制的に収監すると言うのはどうか。

当然、島の中には武装した教官がおり、日本語をしゃべったものに対しては、射殺を含む刑罰を施行する権限を有するものとする。期間は、最低2年。大学の前期教育を兼ねても良い。当然、日本語で記述された全ての書物は没収される・・・・・

程度のことはやらんと、本当にやばいんではないかと思い始めています。

要するに、私がIETFに出席して、ほとんどその任務を果たし得ず、そして、私と同じような立場に負い込まれるものが、今後も間違いなく大量に発生する、と言う事が言いたかったんです。

そして、日本はどんどんこれから国家としての国益を失っていくだろう、と。

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さあ、どうしましょう。

我々が、どこで育ち、そして生きてきても、名古屋弁や秋田弁などのようにどの地域の言葉も理解できるように、世界のどこにいても、どの言葉も理解できるようにならなければならない時代が来ています。

いや、正確に言えば、我々の前の世代は、すでに我々がその程度のことを実現してくれることを期待して、膨大とも言える時間と労力を我々の英語教育に注いでくれたと思うのです。

しかし、その教育のやり方が悪かったのか、あるいは我々の努力が足りなかったのか分かりませんが、我々はついに、彼らのその熱い想いに応える事はできなかったようです。

それはIETFで発言した日本人を、ついに一人も発見できなかった事からも明らかだと思います。

さあ、どうしましょう。

私たちは、次の世代達に、『どう世界とつきあって生きて行け』と言うことができるでしょうか?

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

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「IETF惨敗記2(白夜のノルウェー編)」

 

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江端さんのひとりごと

「世代の特異点」

1998/01/16

「X JAPAN」とは、7年程前に結成したバンドだそうで、嫁さんに訊ねてみると、彼女も何曲か彼らの持ち歌を知っていました。

『ふーん・・・。そんなに有名なのか』とパソコンでネットサーフィンしながら検索をかけてみると、まあ出てくるは出てくるは、熱狂的なファンが作った濃い内容のホームページが多数ヒットし、熱狂的・・・というか、狂信的な内容で、ちょっと引き気味になりました。

そういうカルト的なホームページを差し引いても「X JAPAN」は非常に知名度の高い優れたバンドのようです。独特のな音楽スタイルで一世を風靡し、ティーンエイジャーだけでなく、幅広い世代に渡り熱狂的なファンを多く持っていることがわかりました。

今度、きちんと彼らの曲を聞いてみたいと思っています。

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昨年の年末、30日まで働いていた嫁さんがついに倒れ、大晦日と正月はずっと熱を出して昏睡していました。

このような状態で大掃除など出来よう訳も無く、私は嫁さんの枕元に氷水の入った洗面器を置いて、時々彼女の額の濡れタオルを換えつつ、その合間に部屋や車の掃除をして、しめなわや鏡餅を買いに行き、夕食の手巻き寿司の準備と年越しそばを作っているうちに、いつの間にか年を越してしまいました。

31日の大晦日、私は、寝込んだ嫁さんの横で、部屋中をどたばた走り回っていて、その部屋のテレビは一日中スイッチオンの状態のままになっていました。

おかげで、テレビ局のニュースを何度も聞かされることになりました。

テレビ局の人間は、東京上野のアメ横と老舗の蕎麦屋の生中継をすれば大晦日のニュースは事足りると考えているようです。視聴者の安易な刷込みの上で、ろくな企画を立てずにすごせるマスコミとは、実にうらやましい職業です。

そのニュースの合間にキーワードとなる2つの芸能情報がありました。

それが、「アムロ休業」と「X JAPAN解散」でした。

アムロとは、アイドル歌手の「安室奈美恵」であることは知っていたのですが、「X JAPAN」の方は全くわかりませんでした。

私がその時すぐに思ったことは、『UNIXのXウインドウの日本語対応版(*1)なんぞに ソフト技術者以外の一般人がなんで興味があるのか?』と言うことでした。

ずいぶん前から不思議に思っていて、『X JAPAN解散!』と騒がれた時、「『Xのサポート中止』の間違いじゃないか?」と首をかしげていました。

これがミュージックバンドのバンド名であるのを知ったのは、大晦日のニュースで「X JAPAN解散コンサート」を見た時です。

(*1) ktermとかxjptermのことかと思っていた(本当)

中継の解散コンサート会場には、ディープな化粧のOLのお姉さんや、知性とはあまり御縁を感じさせない一世代前のヤンキー風のお兄さん、無理があるんだから止めた方がいいのにな、と余計な気を遣わせてしまうサーファ風のおじさんや、尖った金属を多数装着した皮製のジャンバーを着た「お姉さん」と呼ぶには若干無理のある女性の方々が多数集まっていました。

もちろん、普通のカジュアルな服装の方も多かったのですが、コンサート会場に、わざわざ学校の制服や、特攻服なんぞを着てくるティーン達は、やはり「世代の特異点」と言う気がします。

レポーターが、開演を待っている人たちにインタビューをしていました。

『きゃ~、これテレビぃ?』と言いながらピースサインをする女子高生たち。せっかく世代の特異点として認められているのだから、もっとアバンギャルドなアクションを、自ら開発して欲しいものです。

『X JAPANのいいところ?サイコ~って感じぃ?!』

質疑応答の体をまるで成していません。

私としてはこのミュージックバントについて知りたいのであるが、これでは情報が何もありません。

だいたいテレビ局のレポーターがなっていないと思います。

質問に対して、コンパクトかつ的確な表現でまとめ、テレビの向こうの視聴者に適切な情報を送り込むことができる知性と教養にあふれるX JAPANのファンの人を見つけて、インタビューすべきなのです。

マスコミが、世代の特異点に媚びるのは仕方ないとしても、視聴者にまで迷惑をかけるのは良くないと思います。

次のインタビューは、いわゆる「ヤンキー座り」をして暴走族の集会そのものの状況で集まっているティーンの女の一群の一人。

特攻服には「YOSHIKI命」と書かれていました。

特攻服といえば、私は暴走族と言う奴等が死ぬほど嫌いです。

私自身もライダーで、バイクの魅力と危険は骨身に染みて分かっていますが、私に関係のない所であれば、好きなだけ暴走してくれればいいし、喧嘩でも殺し合いでも好きなだけ思う存分やって、とっとと逝ってくれて構いません。

私が許せないのは、深夜に爆音を撒き散らしこの『私』の安眠を妨害することです。

正月の深夜、アパートの真横でマフラーはずしたバイクのエンジンの爆音で叩き起こされ、新年から怒り心頭に達しております。

早朝覚醒型不眠症の私を深夜に叩き起こす全てのものを、私は『敵』と認識します。

閑話休題。

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知性のなさそうな舌っ足らずな口調のしゃべりかたと、お世辞にも可愛いとは言いかねる顔にべったり化粧を塗った面は、それだけで私の生理的な嫌悪感を「ばしばし」と刺激しました。

『ヨシキはぁ、自分のことぉ、ちゃんとぉ分かっている奴だからぁ、やっぱぁそういうこと、きちっとしてるしぃ!』と言い放つと、(お前らには分かるまいがよお)と言う尊大な目をして、カメラの方を睨み付けていました。

それを聞いた瞬間、私は、久々に自分の中で『ブチッ』と切れる音をききました。

・・・おい、女(アマ)・・・。

私は、掃除機を持っている手を止めて、テレビの画面を直視しました。

・・・おまえは、(多分X JAPANというバンドのメンバーの一人なんだろうが)その、「ヨシキさん」と言う方と友人なのか!

お前がどう思っているか知らんが、その「ヨシキさん」はお前のことなんか、髪の毛ほどにも知っちゃいないぞ!!

(よくわからんが)その「ヨシキさん」は偉大なアーチストなんだろうが!?

お前ごとき暴走族ふぜいが、友人のようにタメ口きいて偉っそうにするんじゃねえ!!

この身の程知らずがぁ!!!

私は久しぶりに、体中に怒りのアドレナリンが満たされるのを感じていました。

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しかし、程なくそれがすぐに引いていくのを感じて、自分でも意外な感じでした。

そうです。

私はよく分かっていたのです。

「若さ」というのは、「愚かさ」と同義であるということを。

アイドルの歌っている歌を、自分だけに送られたメッセージのように受け取ってしまう愚かさ。

年に何回もないコンサートのチケットを、文字どおり命がけで入手し、アーチストが観客席に向かって呼びかける言葉だけで、そのアーチストの人格を全て理解してしまったかのように思い込む愚かさ。

そして、夜になれば、その憧れのスターとデートしたり結婚したりする妄想の中で、安らかに眠りついていく愚かさ。

はっきり言って、馬鹿です。

新興宗教にずっぽりはまってしまったり、過激な思想を礎とする過激派や、非合法の暴力を生業とする団体に入って行ってしまう奴が多いのも、そして、好きになった人をその人の意志を無視して追い回す馬鹿さ加減も、やはり「若さ」がなせる恐るべき業(わざ)です。

私は、気の狂った教祖を抱えた宗教団体が、地下鉄にシアン系の毒ガスを撒き散らして4000人もの人間を殺傷する被害を与えた事件を、今でもはっきりと覚えています。

そしてその実行グループが、私と同じ年齢くらいだったことを忘れることができません。

『人を殺めてはならない』と言う社会の一般的公理すら、若さゆえの柔軟な受容体を持ったが為、簡単に歪(いびつ)な宗教思想で捻じ曲げられてしまった彼ら。

駅前に掲げられている指名手配の看板に載せられている彼らの写真は、もしかしたら私だったかも知れないのです。

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(ヨシキのことなら何でも分かっている)と思い込んでいるこの特攻服の女は、己の馬鹿さ加減を全国に知らしめてしまいました。

彼女は、いずれ自分の浅はかな愚かさに気がつき、それを思い出しては恥ずかしさのあまり叫びだしたり、部屋の中を転がり回るようになるのかも知れません。

「若さ」故の「愚かさ」の特権を使ってしまった者たちは、その大いなる負の財産として「恥ずかしさ」という苦痛を一生引きずっていかねばなりません。

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しかし、「世代の特異点」たちが、その資質である「愚かさ」を発揮できる時間はきわめて短いのです。

そして、彼らが「愚かさ」を全開できるということは、この国が「愚かさ」を許容する余裕があるということです。

ある年になったら、例外なく軍役につかねばならない国があります。

女性が肌を見せることを法で禁じている国もあれば、市民が犯罪者を石を投げて殺すことを奨励する国もあります。

成人することが一つの奇跡とされる、小児死亡率が極めて高い国もあります。

この国は、有能とはいいかねる為政者と、既得権の確保に終始し汚職にまみれた官僚に支配され、不動と思われた経済基盤もそろそろ真面目にやばい状況です。

ですが、『ヨシキのことを何でも知っている』と思い込んでいる馬鹿な若者の存在を許せる程度には、この国はまだまだ余裕があるんだと思います。

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銀行がつぶれ、円が高騰し、金融機関が破綻し、日立がつぶれても大丈 夫。

東京にマグニチュード8程度の直下型地震が直撃し、首都機能が完全に破壊されても、心配いりません。

北朝鮮が自己崩壊し、そのついでに近隣諸国にやけくそのような戦争を仕掛けたって、まだまだ行けます。

しかし、「世代の特異点」達の望みが、『ヨシキのお嫁さんになること』ではなく『世界平和』なんぞに変わった時・・・・

その時、この国は本当に終わりです。

(本文章は、全文を掲載し、内容を一切変更せず、著者を明記する限りにおいて、自由に転載して頂いて構いません。)

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江端さんのひとりごと
「直撃!」

「スキー」と「テニス」をこなす男。

こういう奴は、昔から鼻持ちならない嫌な野郎と決まっています。

テニスサークルやスキークラブ何ぞに入って、若い女性を物色し、練習にかこつけて体を触ったりするセクハラ野郎で、男性は勿論女性からも極めて評判が悪い。

けれども、一通り技術力はあり、コーチ不足のサークルの状況からそいつをキャプテンにするしかなく、キャプテンになればなったでさらに増長するそいつは、表向き『人気者』ですが実は誰からも嫌われていて、当の本人だけがそのことに気がついていないものなのです。

しかし、極めて希ではありますが、テニスやスキーを通じて自己鍛錬に励み、優れた人格と孤高な精神を有し、高い理想に燃え、皆から慕われ信頼され、そして、当の本人がその優れた資質に気がついていないことから「歩く人徳」と呼ばれる人物もいます。

私です。

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学生時代前半の私は、「テニス」や「スキー」などをやっている奴を軽蔑していました。

私は、80年代後半のバブル景気の中で騒いでいる日本の中で、政治的な「リベラリスト」を名乗って粋がっていたのですが、ある事件を境に劇的な『転向』を果たしてします。

そして、それ以後は、勉学とアルバイトの日々を過ごし、冬になるとスキーに狂う普通の学生として、普通の学生生活を過ごすことになります。

一方、テニスの方は社会人になってから始めました。

会社のテニス部に入部するときには、相当自分の心の中に抵抗がありました。

『硬派の論客で知られるこの私が、あのようなキャピキャピした、軽薄で、やたら軽い話題明るい笑い声にに支配された、あのような空間に入り込めるだろうか?』

この恐怖感はちょっと説明が難しいのですが、敢えて説明するのであれば、「昨日まで甲子園を目指してきた坊主頭の熱血野球部の部員が、地方大会の決勝に敗れ、突然夏休みの予定が空白となり(甲子園に行けると確信している辺りが、若さゆえの愚かさである)、似合わない服と坊主頭の髪を脱色して渋谷あたりをうろつくような恥ずかしさ。」あたりが妥当かと思います。

まあ、とにかく私にとって、テニスを始めることはとても恥ずかしかったのです。

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元々私は、とにかく小学校4年生の段階で(女子も含んで)クラスで一番足が遅く、唯一逆上がりが最期まで出来なかった運動音痴の児童でした。

ですから、私は、自分の運動能力がどの程度であるかを誰よりも正しく認識していました。ことスポーツにかけては「地道な努力」などという行為が一切無駄であることを知っていました。

私は、スキーの技術を取得する過程で、自分で何百回練習しても直らなかったフォームが、コーチの一言で劇的に修正されると言う事実を知っていましたから、スキーに2回行ける旅費を1回に全額突っ込み、終日スキースクールに入り浸っていました。

その結果、スキー同好会の後輩から、『江端さんってスポーツ万能なんですね。』などと大変な誤解されるようにまでなりました。

勿論彼は、私が持ちうる財の限りを尽くして、スキーに賭けていたことをしりません。

私は今でさえ「逆上がり」ができず、サッカーのリフティングは最高5回、時々腕相撲で嫁さんに負けそうになります。嫁さんをおぶって「3歩歩めず」状態だった時には、嫁さんの表情に『後悔』の文字を見たような気がします
(*1)。

とにかく、『スポーツ技術取得は手っ取り早く「金」で片を付ける。』とは、私の不動の信念となっているわけです。

(*1)「『軽い嫁さん』と記述することを忘れるな」、と嫁さんからしつこく念を押されています。

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テニススクールは、今の会社に入所して以来、ずっと通っています。

時々、突然スクールがつぶれたり、派遣になったり、あるいはコーチがへたくそだったりして、よくスクールを換えましたが、現在もストレス解消として週に一度はコートに出て汗を流すようにしています。

先週の金曜日、仕事を終えてから、私は東海道本線と小田急線のプラットフォームになっている藤沢駅の近くにある、イトーヨーカ堂の屋上に向かいました。

プラスチックの滑り止めタイルで敷き詰められた3面のテニスコートは、真っ白な水銀ランプに照らされていて、そこでは常時テニスの講習会が行われています。

私は水曜日のC(上級)クラスに入っているのですが、生憎その週は都合が悪く練習日を金曜日に振り替えました。

Tシャツと単パンにはきかえて外の空気に触れると、まだ少し冷たい空気に肌がしゃきっとして気持ちが凛とします。私はこの一瞬が好きです。

ところが、ラケットを軽く振り回しながらコートに出てみれば、Cクラスは全部で20人もいて、とても満足な練習が出来るような状態にはありませんでした。私はがっかりして、今日は練習はできないな、と諦めました。

文句を言おうにも、このスクールは普通のスクールと比べ2~3割も安く、そもそも生徒たちは育成に力を注いでいるところではないことは、最初から分かっていました。

汗がかければよしとしよう、と私は腹をくくりました。

テニススクールの練習は大体ローテーション方式が取られます。

ローテーション方式とは、参加メンバを数個のグループに分けて、それぞれのグループごとに、コーチや他のグループを相手にラリーなどをして、時間毎に交代していく方式です。効率よく、多い人数が同時に練習を行うことが出来ます。

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スクールにもよるのですが、このイトーヨーカ堂のテニススクールは、練習生レベルをあまり高いところには置かずに活動しているようで、その意味では門戸の広いスクールと言うことができます。

しかし、サービスが入らない、ラリーが続けられない、ボレーが打ち返せない、と言うような生徒がごろごろしていて、練習が思うように行えずイライラします。

まあ、それは我慢するとしても、実際問題となるのは『危険』と言うことです。

初心者の場合は、めちゃくちゃな方向にボールを打っても球に威力がありませんから、それほど危険ではありません。上級者の場合は、球に威力があってもコースコントロールができます。

何が怖いって、めちゃくちゃな方向に思いっきりラケットを振り回す『自称上級者』。

こんなに怖い奴はいません。

私くらいのテニススクール経験者ともなれば、スクール内の危険予知の力もそれなりに付きます。

それは、「ボール」を見るのではなく「プレーヤ」を見ることです。

プレーヤの人相や、振り回しているラケットのフォームや、年齢、性別から、その『自称上級者』たちの経歴をずばり決めてしまうのです。

(奴は、自分ではやり手だと思っている営業部の課長で、その実成績は上げられずに、部長あたりに叱られたストレスをテニスにぶつけている。品のない振り回すだけのストロークが物語っている。)とか、勝手に決めつけては、そいつを心の中で『万年課長』と呼んだりしています。

大学のゼミの先輩にそっくりな高校生がいた時は、(ちがうんだなあ、東野さん。ああ、面がきちんと出来ていないからボレーが安定しないんだよ、東野さん。東野さんも、もうちょっとがんばらなければなあ。)と、彼の名前は『東野さん』と決まってしまいました。

まあ、そういう経歴はさておき、私は誰がどこにいてどんな練習をしているかを見極めて、ボールの飛んでこない安全なところで待っているようにしているわけです。

そして、今回の一件は、滅多に外れない私のこの危険予知能力を覆して発生してしまった不幸中の不幸な事件となりました。

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コーチの球出しに合わせて、ハーフボレーからステップしながらネットに近づき、ボレーのあとハイボレーを打ち込む、と言うメニューでウォームアップを終えた生徒たちは、その後4つのグループに分かれ、ストローク&ボレーの練習を始めました。

ストローク&ボレーとは、エンドライン近くに立っているプレーヤーと、ネット際に立っているプレーヤが、ストロークとボレーでラリーを行う練習のことです。

私を含むグループは、ネット側向かって右側のサービスラインとエンドラインの中間の辺りに集まり、ボレーの順番を待っていました。

ボレーヤー(ボレーを行う人)は、ストローカー(ストロークを行う人)がエンドラインから打ち込んでくるボールを、ネットを越えたところで空中で捉え、相手のコートの中に叩き込みます。ストローカーはさらに、この球をワンバウンドで拾い、ボールに回り込み再び正面に立つボレーヤーに照準を定め、ボールを繰り出します。

コートの半面を1秒もかからずに飛び回るボールの速度は、時速数十キロあり、素人でも100キロ以上出すことはそんなに難しくありません(*3)。

このようなスピードの球を応酬し合い、かつ途切れずに続ける事は、ある程度の経験を必要とします。

(*3)プロのサービスの速度は、最大300km/hも出るそうである。

ところが、このクラスでは一番最初に球を出すプレーヤがいきなりネットに引っかけたりして、ボールを待つ私の方は、一度もボールに触れることなく、交代させられます。これが連続して3回続いたときは、私も頭に来ました。

一応金を払って練習に来ているのに、練習をさせてくれないのではお話になりません。ネットの向こう側から『すみませーん』と言う声を無視して列に戻るときに、ラケットを振り回しながらのジェスチャーを込めて、背中で怒りを表現する私でした。

私のグループの中にも一人だけですが、とりあえずきちんとボレーを打ち返せるOL風の女性がいました。

ちょっとふくよかな体型にもかかわらず、体の動きには切れがあり、大きな体から正確なボレーをストローカーの位置にきれいに返していました。

だから私も油断していたのです。

その時私が待っていた位置は、彼女の丁度真後ろでした。

ボレーヤーの真後ろに立っていれば、その位置にはストローカーからの球が飛んでこないはずです。私はもう一組のストローク&ボレーをしている、ストローカーの方に注意を向け、そこから飛び出してくるボールだけに注意を払っていました。

ここでは、私の前方にいるボレーヤーが返球ミスを犯さない、と言う計算での「待ち位置」でした。

事件はその時起こりました。

彼女とラリーをしていたストローカーは、返球されたボールを、ネットを舐めるような絶妙な高さと射るようなスピードで彼女の正面に返しました。

その球は、右利きの彼女の左肩に向かって真っ直ぐ刺さってきました。体勢を崩しながら正面にラケットを構えてバックボレーで応対しなければならない、難しい球筋でした。

しかし彼女は、この球をラケットの面で捉えるのに失敗したばかりではなく、完全にラケットからボールを素通りさせます。

上級者クラスに所属している人間としては決して許されない極めて幼稚極まりない愚かなミスショットです。

彼女の腋を抜けたボールは、勢いを全く減じることなく、真後ろに立っていた私に向けて向かってきます。

私から見れば、突然空中にボールが現れ、襲いかかられたようなものです。

そのボールは、高性能ライフルか、あるいは電子ビームで狙ったかのように、1ミリのずれもなく私の股間に直撃しました。

無論、男性の「股間」と言ってもその領域や危険度には極めて広い状態が存在し、必ずしも致命傷になるとは限りません。

しかし、この時速数十キロの速度のボールは、恐らくこれ以上の効果は望めないくらい正確に私の『金的』の両方を見事に直撃しました。

瞬間、私は自分に何が起こったか分からず、『ウッ』とも『グッ』ともつきかねる短い雄叫びを発し、そして2秒後、気を失いかけてコートに崩れ落ちます。

そして、徐々に痛みがこみ上げてきて、その痛みはこの世の全ての痛みを集めてもかなわない程の痛みに発展し、私はコートのプラスチックタイルをかきむしりながら、コートの上で七転八倒、文字どおり右に左にとごろごろと悶絶しながら転がっていました。

痛みは、単なる股間の痛みから腎臓などの気管にも及び、正常な呼吸もままならず、呼吸困難な状態にまで至ります。

いっそうのこと、気を失ってしまえば楽だったのかも知れませんが、痛みのあまり気を失うことも出来ません。私は仰向けになったまま、焦点の合わない視点を空に泳がせながら、肩で深呼吸をしているしかありませんでした。

なかなか立ち上がれずにコートの中で拳を握りしめ、絞り出すようなうめき声を発しながら悶絶している私に、やっと事態を飲み込めたように上級コース、中級コースからもコーチが集まってきて助け起こそうとし、私はコーチの肩に抱えられて、ようやく立ち上がることができました。

ボレーのミスを起こした女性が、心配そうに「大丈夫ですか?」などと聞いていますが、痛みの余り極限の怒りに達した私は、完全に社交的な振る舞いを忘れ、地獄の底から這いあがり復讐の鬼のような形相のまま、彼女を見据えます。

ただでさえ目つきの悪い恐ろしい人相と言われているこの私が、全身全霊を込めて睨み付けるのですから、彼女でなくとも怯えるのは当然と言えましょう。

私は、彼女をギロッと睨み、私はしばし無言のまま十分に彼女を石のように固まらせた後、絞り出すように低い声で呪詛を吐きつけます。

「この、・・この程度の技量がなくて・・・、よくもここに居られるものだなぁ・・・。」

私に謝罪を受け入れる余地が欠片も無いことを悟った彼女は、顔色を青白くさせて、2、3歩後ろに引きます。

彼女は、たった一言の『済みません』で、概ね事の片付くこの国において、『絶対に許さん!』と言う、未知なる「怨」の文化に直面してしまったのです 。

すでに痛みと怒りで理性回路がけし飛んだ私は、彼女をその場に立ちすくさせ、視線を逸らすことさえ許しませんでした。

私の全身は青白い怒りのオーラに包まれ、安易な気休めの言葉やお飾りの心配の台詞を吐く者が近寄ったら、問答無用でぶちのめす、くらいの状態にありましたし、実際にそうしたと思います。

彼女を顔面蒼白にさせるほどに十分に怯えさせて、最後には(くたばりやがれ!)と言う視線で彼女を切り捨て、私はコーチに支えられながらコートの外に退場していきました。

私を運びながら、コーチは『まあ、仕方のない事故ですから・・。』と語りかけていましたが、少なくともこの台詞は痛みで悶絶中の人間に語りかける台詞ではありません。

普段調子のいいお愛想を連発する私ですが、本気で怒ったときは一言の口も聞かない冷酷な人間となります。学生時代の私を知っている友人達は、こういう状態の私を称して『氷の江端』と呼んでいたのを私は知っています。

状況を深刻にさせたくないコーチ思惑を、真っ向から否定し、私は彼らを冷酷に無視し、痛みと怒りでゆがむ表情をこれみよがしに見せ続けたのでありました。

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私はその日、練習の続行は不可能と判断し、コーチの勧めもあってアパートに帰ることにしました。

コーチは『今日の分は来週に使っていただいて結構ですから。』と言っていましたが、(当たり前だ!馬鹿者!!)と心の中で怒鳴りつけ、低い声で「・・そりゃ、どうも・・。」と言っただけで、スクールを去りました。

更衣室でも、激しい痛みがぶり返しうずくまって床に転がっていましたが、そのうち腹が立ってきて、壁に拳を打ちつけて「どん!どん!」と言う鈍いすさまじい音を立てていましたので、きっと受け付けの女の子は怖かったことでしょう。

帰宅途中の駅で嫁さんに電話して、テニスの練習中に事故に遭った旨を伝えました。

心配そうに待っていた嫁さんは、一通り私の話を聞くととりあえず安心した表情を見せましたが、時々痛そうにうずくまる私を不安げに眺めていたようでした。

「くそ!」とか「畜生!腹が立つ!!」とか思いだしたように叫ぶ私に、嫁さんは「そんな汚い言葉は使わないの。」と注意します。

その時、私は急に冷静な表情になって嫁さんに言いました。

江端:「・・・僕だって本当のところはちゃんと分かってはいるんだ。テニス部で初心者のコーチもしていたからね。こういうのは、つまるところ『不幸な事故』以外の何者でもなく、誰かに責任があるわけじゃない、と言うことくらいはね。」

嫁さんは、ほっとしたように微笑みました。

江端:「しかしだな・・・」
嫁さん:「えっ?」
江端:「問題は、この痛みと苦しみなんだ。これは理性で解決できるもんじゃないんだ」
嫁さん:「・・・。」

私は突然声を荒げて言いました。

江端:「『くっそぉ~!!あのクソ女(あま)ぁぁ~!!』と叫ばずにはいられない僕の気持ち、分かる?」
嫁さん:「勿論。分かるよ。」
江端:「・・・。」
嫁さん:「ね、智一君。」

と嫁さんはにっこりと笑いながら応えました。

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その後、私は嫁さんに具体的な痴漢の撃退法を教えていました。

「性欲だけで女性を襲うどうしようもない下衆野郎は、これからも後を絶たないと思う。体力的に女性は常に弱い立場にある。だが、これを埋め合わせて余りある方法が『金的への攻撃』だ。」

女性の方はよく分からないかも知れませんが、男性の金的は恐ろしいほどデリケートです。

拳を軽く握りしめる程度の力でその急所を掴むだけで、その男性は5分間は回復出来ず、全く活動出来なくなります。

『そんなことしたら、やりかえされるじゃない。』と思うかも知れません。

ですが安心して下さい。

絶対に反撃できません。

そのくらいの地獄の痛みなんです、『金的への攻撃』というのは。

あなたは稼ぐことの出来たその5分間で、ひたすら逃げます。

十分な時間といえましょう。

次に具体的な攻撃の仕方です。

よくテレビドラマで、女性が膝を使って男性の股間を打つ、と言うシーンがあります。これではダメです。この方法では金的ではなく男性器の方を打突する可能性が高くなります。

男性器などいくら打突されても、痛くも痒くもありませんし(いや、勿論それなりに痛いだろうけどさ)、ちょっとマゾヒスティックな人なら「気持ちいい~!」と言うような、訳のわからないリアクションをされる可能性もあります。

なにより、全ての男性にとって『金的への攻撃』は絶対に避けねばならないことですから、あなたの攻撃の意図が見破られたら、残念ながらあなたは終わりです。

一撃必中!二度目の攻撃は、絶対にないものと認識して下さい。

足でも膝でも拳でも構いません。

男性の股間の真下に入り込んでください。

金的は男性の股間の直下にあります(繰り返しますが前方ではありません)。真ん中にぶら下がっているものなのです。

男性の股間の真下から、天を貫くように真っ直ぐ垂直上方に、迎撃ミサイルを発射するように目標を叩くのです。

また、万一チャンスを逸して体を取り押さえられたら、とりあえずどちらかの手の自由を確保して、目標を捕まえて渾身の力で握り潰して下さい(しつこいようですが、『男性器』ではだめです。その向こうにある『金的』が目標です。)

これで絶対にあなたは勝てます。

繰り返しますが、攻撃のチャンスは、最初で最後のたった一度です。

心してかかって下さい。

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その後、3日間の間、時々襲ってくる鈍い痛みに、苦しみそしてびくびくしながら日々を送っていました。

もし新婚2年目を迎えたばかりの私達の夫婦生活に、重大な支障が生じるような事態にでもなったら---あの女性を草の根分けても捜しだし、この世に生まれてきたことを後悔させてやるような苦しみで絞め殺してやる---と、濃縮還元100パーセントジュースのごとく純粋な悪意の塊となって日々を過ごしていました。

さいわい4日目に、私は無事回復を果たし、私たち夫婦は平和な日々を過ごすことができるようになりました。

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テニスやスキーを通じて自己鍛錬に励み、優れた人格と孤高な精神を有し、高い理想に燃え、皆から慕われ信頼され、そして、当の本人がその優れた資質に気がついていないこともあり、「歩く人徳」と呼ばれる私でさえ、その優れた資質で乗り越えられなかった、この事件。

この事件は、「痛み」と「苦しみ」の狭間で、孤高な人徳を維持することがいかに困難なことであるかを、私に思い知らせた一件となったのでありました。

(本文章は、全文を掲載し、内容を一切変更せず、著者を明記する限りにおいて、自由に転載して頂いて構いません。本文章は商用目的に使用してはなりません。)

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エルカン文章シリーズの中では、最高級の作品として半永久的に江端書房に保管さ れるであろう見事なレポートが提出されました。

私がレポートを書くよりずっと面白いと思うので、本「エルカン文章」を持って、 私の結婚式の御報告に換えさせて頂きます。

本日は、この文章を御笑納頂き、後日改めて御挨拶申し上げたく希望しております。

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それでは御笑納下さい。江端さんのひとりごと特別編、エルカン文章第3弾「祝・ 江端智一君御成婚記念メール」です。

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Tomoichi Ebata
Wed Apr 17 13:29:08 JST 1996

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江端さんのひとりごと
「遵法精神って何?」

Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:02:12 JST 1996

学生の街である京都では、学生は通学に原付やバイクを使う事が多いので、一時停止や、ネズミ取りで捕まえる学生は、警察に取って格好の鴨であり貴重な財源と言えました。

私は学生の頃、私は運転免許停止(免停)になったことがあります。罰則点は一年でクリアされるのですが、私はあと一月と言う所で、白バイに追いかけられたり、一時停止地点の死角で張っていた警察に捕まったりして、なかなかクリアできないでいました。

そして、速度100km/hオーバーと言うような気合いの入った『一発免停』とは違い、もっとも情けないと言われる『積もり積もって免停』と言う事態に陥った訳です。勿論友人から『愚か者』呼ばわりされたことは、言うまでもありません。

免許停止期間は3ヶ月でしたが、初回に限り講習会を受ける事で一日だけにすると言う美味しい制度がありましたので、早速、長岡京にある運転免許試験場に出かけて、講習会を受けてきました。

講義の前に簡単なペーパー試験があり、その中にはこんな問題がありました。

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自分が免許停止になったのは、運が悪かったからである。
はい   ・   いいえ
---------------------------------------------------------------------

私はこのような免停になった自分を省みて、非常に謙虚な気持ちで講習会に来ていましたので、なるべく澄み切った正直な気持ちで答えるべきだと考えました。

ですから、『はい』を丸で囲んだのは言うまでもありません。『つもりつもって免停』になる私が、運が悪い以外の何者でありましょうか?

講習会の後で、得点とコメントがついた解答用紙が帰ってきました。そこには『あなたは遵法精神に欠けています。』と書かれてありました。

遵法精神とは、文字どおり法を遵守する精神を意味します。法は、国民の代表者によって選ばれた者によって制定され(立法)、それを裁判所が司ります(司法)。法を犯す者にはそれを取り締まるため、法の番人(警察)によって法の定めるところに従って力を行使する事ができます。

このシステムは、日本を始め多くの民主国家で採用されています。

もう一度、あの問題を思い出して見ました。つまり、『自分が免許停止になったのは、遵法精神が欠落していたからである』と言う問題であれば、よく分かったのに、と思っていました。

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ところが、そもそも私には『遵法精神』と言う考え方がありません。

そもそも私はアウトロー(Outlaw)ならぬマイロー(My Law)が信条の人間なのです。といってアナーキストでも況やテロリストや無法者と言うわけでもありません。

いわば"I am a law"(私が法だ。)という考え方がぴったりくるかな、と言う感じがします。

『もっと悪いじゃないか!』と言わないで下さい。

なんと言っても、私は私の法を制定できても、私の法を他人に行使させるような強制力をもっていないのですから。

では、どうして日本の法の庇護の元で生きているか、と尋ねられれば、それは日本国の法律と私の法が、すさまじく酷似しているからです。

定量的に測る事ができれば、多分99.9999%以上は一致していると思います。ですから、私は非常に面倒くさい法の制定と執行を日本国に代行して貰っていると言う考え方が一番近いのではないかと思います。

不幸にして日本国の法律と私の法が一致しない場合は、当然私の法が優先します。なにしろ私にとって、私の法は絶対ですから。

と言う訳で、私が国の法に従っている全てに関して、私は卑屈になることなく国の庇護を要求します。

しかし私と国との間にすれ違いができた場合、私と国は闘争状態になっていいと思っています。その時、国は全力を上げて私を潰しに来ても構いません。

来なさい!

私も精いっぱいの力を用いて、それに刃向かう事でしょうから。

私個人としては、国の法と私の法とのすれ違いが半分より大きくなった時に、革命を起こし、現行政府を転覆させようと思っていますけど。

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さて、このようにしつこいくらいに私の立場を大げさに表明してからおいて、いったい何を書こうとしているのか。多分、あなたのご想像の通りろくなことではありません。

これから私の書く事は、あなたの使い方によっては江端の将来を容易に破滅させる事ができるかもしれません。

そして江端から報復を受けることを心配して、できるのなら係わりたくないと思っていらっしゃるのでしたら、悪い事はいいません。ここで読むのを止めましょう。

触らぬ江端に祟りなしです。

(と言っても、止める人は、いやしないんだろうが。)

では、江端さんのひとりごと、今日は『やさしいお酒の作り方』です。

https://www.kobore.net/tex/alone93/node37.html

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江端さんのひとりごと

「危ない漂白剤」

大学で4年、大学院で2年、就職して2年。

一人暮らしも9年目に突入すると、男と言えども家事に精通してくるものです。

料理、掃除などもそうですが、洗濯でも、色柄ものとそうでないものの仕分けなどは当然できなくてはなりません。でないと真っ赤なジャージと一緒に洗濯して、ピンク色のYシャツを作ってまうことになりますし、しっかり乾かしてから保管しなかったために、タンスの底にくっついて離れないブルゾンを呆然と眺める羽目になります。

さて、衣類の洗濯には、水よりもお湯を使った方が汚れが落ちるようです。これはお湯を使った方が、洗剤を『活性化』しやすいからですが、同じように、コップやふきんを消毒するときに用いる漂白剤も、お湯の方が早く汚れを落とすことができます。

この前部屋の掃除をしたとき、ついでにコップなどの漂白もしておこうと思い立ち、部屋にある全てのガラスのコップや金属のコップに漂白剤を溶かした漂白液を作って、コップ一杯なみなみと入れておいておきました。こうして小一時間ほど放っておけば漂白はできるのです。

ふと私はちょっとした『活性化』の実験がしたくなりました。

それは「金属性のコップを直接火にかけて、漂白液を煮立てれば、凄く速くコップの漂白できるのではないだろうか?」と言う極めて素朴な疑問でした。寮では火気の使用が禁じられ、普段私は電磁調理器を使っていましたから、私はこの電磁調理器の上に直接、鉄でできたコップを乗せて、コップごと漂白液を煮立てることにしました。

2分もないうちに、あのプール独特の塩素の匂いが部屋中に立ちこめてきました。コップの中を覗いてみると、すでに汚れはすっかり落ちて、新品同様の美しさになっていました。結果に満足した私は、もう2、3分だけ煮沸を続けて様子を見ることにしました。

しかし、何だかどんどん頭がガンガンと痛みだして、息苦しくなってきました。そして、ようやく大変なことをしでかしたことに気がついたのでした。

「しまった!、次亜塩素酸ナトリウム!!」

有毒ガスの一つであり、かつては殺人兵器としても使用されたことのあるこの物質は、漂白剤だけでなく水道水にも消毒用として微量使用されているものの、その原液を煮沸なんかしたら、この部屋は実に理想的なガス室と化してしまいます。私の脳裏には、ナチスドイツ時代のアウシュビッツの写真がぼんやりと浮かび上がりました。

やばい!と思い、慌てて窓に駆け寄ろうとしたものの、ふらふらして思うに任せません。ようやく窓にたどり着きおもいっきり窓を全開し、急いで2、3回深呼吸をして、電磁調理器のスイッチを切るやいなや、泥酔した酔っぱらいのようにふらふらになって部屋の外に逃げだしたのでありました。

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これは、私にとってかなり恐い経験の一つでありますけど、今になって考えると、もっと現実的な恐怖を感じずにはいられません。

新聞の見出しに
『2×歳、研究員。家庭用漂白剤を煮沸。自分の部屋で窒息死。』

世間の笑い物です。

(出展:https://www.kobore.net/tex/alone93/node20.html)

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江端さんのひとりごと

「粛正された寮長」

Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:02:12 JST 1996

上海から南京を経由して西安に向かう中国大陸鉄道の列車の中で、私は一人でぽけー っと外の風景を眺めていました。一面に続く砂漠の草原の中にある大きな河は、もう一 時間前から列車の線路に添って、変わらぬ風景を見せ続けていました。

悠久に流れる果てしなく大きい湖のような河を見ながら、色々と揺れていた私の気持 ちが少しずつ、一カ所に集まりつつあるのを感じました。

(そろそろ引き際・・かな。)

春が来る気配を少しずつ感じさせながらも、まだまだ寒かった大学2年の3月上旬の ことです。

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たった一回だけ大学のデモにまで出陣した私は、これまた一度だけでしたけど、S寮 寮長として拡声器で道行く学生達にアジテーションをしたこともあります。

江端 :「大学当局はぁ、このような巨大なコンピュータシステムをぉ、関西学研都市 構想におけるシンクタンクとして機能させぇ、学生達の主体的運動を抹殺せ んと画策しているのでありま~~す!!」

その他:「よーし!!」「異議な~し!!」

なお、このコンピュータは、あの使いにくさをほこるh立の大型コンピュータでした が、h立社のコンピュータに限らず、この地球上に『学生達の主体的な運動を抹殺する 』ような機能を持つコンピュータなどありはしません。勘違いも甚だしい。なにしろ、 コンピュータを研究している私が言うのだから間違いありません。

まあ、このようにハイテク関係では、かなり勉強不足のところも多くありましたが、 社会的な問題意識を人一倍持ち、寮生同志で深夜に渡る激論を繰り広げたり、実践的運 動に励んだりしているうちに、心ならずも2年生の後半には寮長に就任させられてしま うことになります。

そして皮肉なことにも、この寮長就任こそが、私にS寮を出ていく事を決意させる きっかけとなるのです。

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寮長就任後、私はこれまでのS寮の方針を根幹から変えてしまうような、まさに革命 的な方針を、気づかれないように密かに打ち出します。

それは「大学当局との話し合いの再開」です。

私は1969年以来20年近くにも渡って続けられてきた、大学当局との不毛な闘争 にピリオドを打ちたいと考えました。理論による正しさを押し進めるのではなくて、現 実の話に合った具体的な方法で、当局との関係を改善して行く必要があると考えたので す。

それに、私は現在のS寮の存在がかなり危ういものではないかと心配だったのです。 それは「S寮は大学の施設である」と言うことです。

つまり、大学が「S寮を取り壊すよ。」と言われたら、私たちはもう終わりなのです。 大学当局を激しく非難しているとは言え、物理的な攻撃を加えられたら、どうしようも ありません。

例えば、電気水道を止められたり、食堂の職員を引き上げられたら、私たちの生活の 基盤が壊れてしまいます。

「学生の生存を脅かすのか!!」とか、「我々の主体的な学習施設を破壊するのか! !」とか、色々言えるとしても、当局が本当にやる気になれば今なら簡単にできるので す。勿論ストライキとが、寮に居座って徹底的に闘争を続けることはできます。が、そ れは恐らく効果を果たさないでしょう。

なぜなら、寮生は全学生と比べてみれば明らかなように圧倒的にその人数が少なく、 しかも寮の活動はほとんど理解されていませんでしたから。寮生が、いわゆるあの学生 運動の衣装でアジテーションしたりビラを配ったりしたりしても、多くの学生は素通り です。だれもその話を聞こうとすらしないのです。

私はすこしずつですが、S寮が存続できているのは「学生による大衆的な支援」どこ ろか「大学当局のお情け」だからじゃないかと思わざるを得なくなってきました。S寮 が廃寮の危機に陥ったとしても、恐らく大衆運動には発展しないような気がしてきまし た。

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なぜ私がこのように思うようになってきたかと聞かれれば、たまたま私が理系の学生 だったからだと思います。

理系の学生が文系の学生と決定的に違うところがあるとすれば、それは「実験レポー 」ではないかと思います。どんなに試験前に勉強しようと、良い点を取ろうと、親の仇 のように単位を取ろうと、それだけでは決して卒業はできないのです。

週2回以上の8時間にも及ぶ実験は、その数倍以上のレポート作成時間を必要としま した。また不十分な考察をしているレポートを提出しようものなら、たちまち『再提出 』の判が押されて突っ返されます。私たちは、常に複雑な計算を必要とするための電卓 やポケットコンピュータが手放せませんでした。

しかしそれ以上に絶対的に重要不可欠なものがありました。

仲間です。

膨大な時間、複雑な計算、理論的な考察。立ちはだかる諸問題をたった一人で解決す る事など、はなっから不可能なのです。私たちの学問は、甘っちょろい友情ではなく、 鉄のパートナーシップが大前提となっていたのです。

コンピュータが得意な者は、コンピュータセンタに入り浸り、仲間の分まで計算を出 してくれます。考察が得意な者は、実験装置の不備から、誤差が発生した原因を指摘し てくれます。時間のある者は、図書館に走りコピーを取ってきてくれます。レポート提 出日にの早朝、空が白々と明るくなってきても、お互いの下宿や自宅で電話が鳴り響き 、実験データの検証作業が続きました。

全ての行動は自分のためであると同時に、他人の為になっていたのです。そこには、 「強い者が弱い者を助ける」と言う古より多くの賢者達が実践を試み、ついに成功する ことのなかった理想の共同体がありました。

そんなわけで、私はデモやアジテーションをする仲間と共に暮らすと言う非常に特殊 な立場にいながら、同時に平均的学生生活にどっぷりと浸ると言う、誠にご都合的な状 態にいることが出来たのです。ですから、S寮に対する意識や、学生運動に対する学生 の生の声を仲間達から直接聞くことも出来たのです。

で、それをまとめるとこんな感じでした。

『S寮は共産党の支部で、革命を目指している学生が集まっている。ときどき立て看板 やアジをやって、政治的非難をしていて、皇居を爆破しようとしたりサミットの要人を 暗殺しようとしている。ところで江端も共産党員なの?』

こ・・こりゃだめだ。と地面に這い蹲ってしまいそうなほどガックリきた私は、もは やどこからどう訂正をしたものやら判らず、座り込んでしまいました。

『大学当局が、学生を無視して何かをやらかすことを批判しているだけだよ』とすら言 う気力もなくなっていました。

こうして活動的な学生とそうでない学生との間には、すさまじいまでのギャップが発 生していたのです。
「政治的無関心のプチブルめ!」と「時代錯誤の運動家野郎が!」
てな感じでしょうか。活動的な学生は、まさに「活動」に忙しく講義にも出ないで、留 年なんぞは当たり前と言う感じで、ますます「普通」の学生から離れて行きます。「同 じ入学年度の同じ学部の同じ学科の人間と、話をしたことがない」と言う寮の先輩もい ましたが、なんとも不気味な状態です。

このように同胞から離れたところで、どんなに同胞のために闘っていたって、支持を 得ることが出来るわけがないのは自明です。何と言っても今は1969年ではないので すから。

しかし、そこのところが寮の長老達、と言っても3、4、5・・年生ですが、彼らに は全く判っていなかったように思えます。

寮長に就任した私は、小さいことから徐々に初めて行こうと思いました。

『圧倒的階級的怒りをもってして、同志諸君の鉄の意志を大学当局へぶつけろ!来たれ 学生大会へ!!』と言うビラは、『私たちが我慢の出来ないことを、みんなで一緒にな って大学の当局へ要求しましょう。学生大会は○月×日です。』と言う感じに変えて見 たり、従来いかめかしい文句で書かれていた立て看板を、イラストを入れてみたりする ように提案しました。

なによりあの学生運動独特のかっこうをやめて、普通のシャツにジーパン、頭髪もす っきり短くして、なるべく分かりやすい言葉のアジテーションや、ワープロやパソコン などのメカを利用し、過去の因習であるゲバ字(あの立て看板によくある字の角が強調 された文字)を排除し、作業の効率化を図ろうとしました。

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さて、ところがこの改革、そんなにすんなりとは行かなかったのです。

最初のうちは、寮を活性化するための私の小さな工夫の数々を、目を細めるように慈 悲の笑顔で見守っていた長老派たちも、どうやら江端は形式的な改革に留まらず本質的 な改革を目指していると気がついて、私に対して本格的な攻撃が加えられるようになり ます。

これまで寮を運営してきた、いわば職業的運動家たる長老派は「一般学生に媚びを売 る行為だ。」と私のやり方に非難を始めました。

私はキョトンとしてしまいました。

まさに『それ』が目的だったからです。理解して貰うためには、しかも正しく現状を 理解して貰うためには、それが媚びであろうが何であろうがやることはやる!!、と言 う気持ちでしたから。なぜならその過程を抜きにして、S寮が多くの学生の支持を得ら れる訳あろうはずがないと考えたからです。

長老派の言い分は、「学生の意識を覚醒することは、学生に媚びることではない。」 と言うものでした。つまり、私たちの意識は私たちが従来やってきた手段にも反映され ているはずだ。だから従来通りの手法で情報宣伝活動(情宣)を行い、極めて高い意識 を持っている小数の学生によって、寮が継続されて行けばよい、と。

私は唖然としました。

アホか・・。

こいつらは自分達を特別な何かと勘違いしている、と私は思わずにはいられません でした。社会的な問題を持っている者だけが偉いのだと言うしょうもない特権意識を 感じて、私は実に不愉快でした。 大体S寮の置かれている極めて危機的な状況も判っ ていないようでした。外から自分達を見れない者達が、必ず陥る落とし穴に落ちてい ました。

いわんや、「大学当局との話し合いの再開」に関しては、もはや私と長老派の決裂は 明らかでした。

『理論的な正義が先ず先にある。』と言う長老と『時代と共に価値は推移する。きれ いごとで全てが片ずくものか。』と主張する私は真っ向から激突。寮会議や様々な場所 で激論が展開されました。

最後の方では、私もかなり腹が立ってきました。

「では、孤立して、自ら自滅してみるか!?」と叫びたくなったものです。

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最終的に、信頼できる友人と思っていた前寮長のTが長老派に寝返り、私の敗北が濃 厚となった頃、前々から予定していた中国への旅の期日が近づいていました。

寮長としての最も重要な仕事である、「自治入寮選考」は、丁度、私が中国から返っ て来る二日後に予定されていました。私は迷いましたが、今後の自分の身の振り方を考 える為にも、敢えて中国の旅に出ることにしました。

大陸鉄道から丸まる三日間、広大な大地をぼーっと見ながらひたすら考え続けていま した。

「私が一番やりたかったことは一体何だったのだろう」と。

嬉しかったのは、合格通知が届けられた日。
腹いっぱいに、電気の勉強ができると言う想いでした。勉強は難しく苦しいものでした けど楽しかったし、仲間は親切で良い奴ばかりでした。工学部の先輩から2万円で貰っ たパソコンで計算したトランジスタ回路の数値が、実験結果と合致したときの喜びは、 その後の喜びを全部足し算しても及び付かない程でした。

では、S寮はどうだったろうか。
S寮は様々な社会的な問題を私に与えてくれました。 自分の尊厳を傷つけるものには、命をかけて抵抗をしなければならないと教えてくれま した。

しかし、それを『解決する方法』においては、どうだったのだろう。 20年もの間変わることなく、同じことをやってきて、時代の移り変わりに全く順応し ていませんでした。

そして、私はそれを変えたかったのですが、力及ばず、ついに変えることがことが出 来なかったようです。

もはやS寮から学ぶことはない、あとは一人で実践的に獲得して行くしかないようだ と、揺れていた私の気持ちが、少しずつ集まって行きました。

私は蘭州から電報を打ちました。

『帰国を延期する。入寮選考には間に合わないので、入寮選考委員でよろしくやってく れ。帰国後然るべき責任は取る。』

こうして2週間の旅は3週間に伸び、私は広大な中国大陸を一人さまよっていたので した。

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帰国後、しばらく名古屋の実家に帰り、退寮総括の準備をしていました。退寮総括と は、寮生が退寮するときの手続きであり、寮生全員一致の賛成が得られないときは、寮 を去ることが出来ません。この様な手続きが出来ない人は、「脱寮」と言って、夜中に ひっそりと荷物を運んで逃げ出したりしていましたけど。

私は退寮総括を以下ように締めくくりました。

  • 私は勉強がしたくて大学に来た。この想いはS寮の運動より遥かに優先する。
  • 寮を存続させよ。学生達の声を伝える機関たれ。
  • 問題意識を持たない学生こそ、どんどん入寮して貰うべきであることを理解せよ。
  • 個人的空間に介入するな。個人の価値観の多様性をもっと尊重しろ。
  • Tが私の部屋に勝手に入って、壊した私のパソコンに関しては、もはや何も言う まい。修理代金がいくらであったとしても。

結局最後の点の牽制が効いていたのか、大した質疑応答もなく、私の退寮は寮生全員 一致で確認されました。

最後にTを殴っておこうかなとも思ったのですが、止めておくことにしました。

その後、寮の後輩が引っ越し先のアパートに来ては、色々と相談を持ちかけてきまし た。私の手際のよい退寮の仕方に嘆した彼らは、どうすれあんなに後腐れなく退寮出来 るのかをしつこく尋ねるのでした。

そんな訳で、私は「退寮コンサルタント」として、退寮後もしばらくS寮と係わらざ るを得なかったのです。

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そして、大学3年から大学院を卒業するまでの4年間、私は岩倉のアパートで、まさ に水を得た魚のように、勉強、読書、実験に明け暮れ、水素爆弾を作るまでに至る、 いわゆる「大暴走の4年間」を送ることになります。

その後、入寮希望者は減り、寮を離れていく学生も多くなり、寮の存続がかなり危ぶ まれていたのは事実のようです。 しかし、私にはもう関心がありませんでした。 私は、目の前に広がる電子工学の勉強に夢中になっていましたから。

『このガウス!この野郎!!任意の閉曲面に対する積分と全体積の積分が等価だなんて 、こいつ、いいところに気がついてやがるぜ!!ガウスの定理なんて名前まで貰いやが って!!憎いね。』

古の偉人たちには大変申し訳なかったのですが、まあこんな感じで感動しながら勉強 していました。

結果的に、退寮と同時に、私は学生運動への興味を失ってしまったようです。

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それからしばらくして、フランスでは、現体制を崩壊させかねない大規模な学生デモ が展開されました。

学生に対する不当な政府の命令に怒った学生達は、誰が言い出すでもなくあっという 間に学生達による大衆的なデモに展開して、政府を恐怖のどん底に陥れます。そして政 府が学生達の要求を受け入れるや否や、あっという間に学生達は解散して平常な状態に 戻ったと聞きます。

私は下宿のテレビの前で、寝転がりながら一人このニュースを見ていました。 そして、テレビのスイッチを切って、しばらく天井をじっと見つめていた私は、しばら 忘れていた苦いものがこみ上げてくるのを押さえきれませんでした。

(しかし、何時になったら私の国の学生たちや、かつて学生だった者たちは、『人間ら しく生きること』を真剣に考え出すのだろう)と私はそれを繰り返し繰り返し呟いてい ました。

そして、その夜、私はウイスキーを浴びるほど呑み、ろれつの回らない口調で、訳の 判らないことをわめきちらし、そのまま床の上で眠ってしまいました。

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江端さんのひとりごと

「正しいデモのやりかた」

Sun Feb 4 19:02:12 JST 1996

私の人生の中で、「これだけは、誰もがおいそれとは出来ないだろう。」と自信を持 って言うことのできる体験があります。

学生デモです。

学生さんにプレゼンテーションをする、というデモではありません。と言うと、ふざ けているように思われるかもしれませんが、あながち冗談で言っている訳でもないので す。なにしろ最近では、「デモ」と言う言葉自体、知らない人が多いようですから。

正しい言い方ではないのですが、手っとり早く言うと、学生が機動隊と衝突して石や 火炎瓶を投げたり、大学の学長室を占拠したりして、自分達の意志を表示し、正しい( と彼らが信じている)世の中にしようとする学生達による『世直し』行動です。

もっとも、酷いのになると思想的に対立しているグループ(セクト)どうしで殺し合 いをしたり、山の中に殺した同志を埋めたりするとんでもない奴らもいます。これは「 デモ」ではなく「テロ」と呼ばれるものです。しかし、60年や70年安保闘争の時と は違い、私が大学に在学していたころの学生運動の多くは、極めて平和的な抗議行動で した。

ガリ版で書いたビラを配ったり、拡声器でアピールをしたり、過激な抗議行動と言っ ても十数人の学生が隊列を組んで、道路のど真ん中でジグザグにデモをするくらいのも のです。で、「かまぼこ」と言われる機動隊の装甲車から巨大なスピーカーで注意を受 けるわけです。

「道路中央でのジグザグデモを止め、直ちに解散しなさい。繰り返します。ジグザグ デモを止め、直ちに解散しなさい。君達の行動は、道路交通法××条○項に違反してい ます。解散しない時には、諸君らを検挙します。」

警察は「写真班」と言われる私服の警官を紛れ込ませて、カメラを抱えてデモ隊の回 りをうろちょろと走り回っています。これは、いざ検挙!となり告訴→公判の時に証拠 として使うためです。学生だってばかじゃありませんから、サングラスとタオルとヘル メットで、あの独特の変装をすることになります。しかし、さすがにあのかっこう。随 分嫌われたようで、フルフェイスメットでデモに出ていた人もいたようです。

でも、結局検挙はされなかったし警察もそのつもりが無いみたいで、今になって思う と、一種の儀式と化していたような気がしますけど。

これらの学生による抗議運動は、同じ仲間であるはずの学生からも無視、あるいは嫌 悪を持って迎えられる事が度々ありました。しかし大学当局の独断的で理不尽な決定、 例えば移転問題、授業料値上げ問題等を、同じ土俵で話し合う場所を与えたのですから 、私は高く評価して良いと思っています。

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ところで、意外に知られていないのですが、学生運動にも様々なバリエーションがあ ります。例えば、最も過激なセクトでは暴力による権力の奪還、すなわち革命を目指す ものから、ボランティアグループ等による比較的静かな抗議行動まで様々です。

私は大学に入学してから2年間、学寮であるS寮に住んでいました。生活費を考える と、とても下宿やアパートに住む事は出来そうになかったので、私の弁術の限りを尽く して、何とか自治入寮選考にパスしました。

実はこのS寮、70年安保の時代に、大学当局から自治権を獲得して、学生のみによ る自治管理をしてきた寮でした。ことあるごとに当局と対立し反目を続け、大学の学生 運動の砦として機能してきました。

自治寮であるS寮では、学生自身によって自発的に独自の学習会が行われていました 。主な項目は、「教育問題」や「差別問題」などで、具体的には、中教審、臨教審、管 理教育、部落差別、男女差別、天皇制などなど。この他、関西学研都市構想批判、文部 省大学補助金制度批判など多岐に渡っていました。また酒税法批判を兼ねて、寮祭のと きには「どぶろく」を作ったりもしていましたし、人権運動をしている弁護士を呼んで 公演会を開いたりもしていました。

しかし、「レーニン」「スターリン」「トロツキー」なんぞは、ついに出てきません でした。そういう意味での思想的背景は全く無く、常に権力や体制批判に終始していま した。

このような日常的な学習のおかげで、個人では到底不可能であろうと思われる規模の 、おそらくは何百冊の書物に相当する、生きた知識を得る事ができたように思えます。 そして何よりも、「人権」と「平等」と言うものを、単に字面でなく、血肉の知識と して理解出来た事を、とても幸運なことだと思っています。

そしてこの「人権」と「平等」の考え方が、やがて私に料理を学ばせ、漂白剤を使わ せ、ボタン付けの技術を向上させることになり、さらに2年後にはS寮を出ていく事を 決意させることになりますが、これはいずれまた。

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さて、デモを行うときにはいくつかの注意点があります。

何と言っても、自分達はこんなに反対しているんだ、怒っているんだと相手に知らせ る為には、できるだけ多くの人数で人目を引くパフォーマンスを行う必要があります。 できれば、ついでに人的被害を与えず敵をやっつけてしまえる、「平和的な破壊活動」 があれば言う事ありませんが、せいぜい拡声器による抗議文の朗読、大学旗、寮旗を掲 げての抗議行進、道路ど真ん中でのジグザグデモがせいぜいでしょう。

また警察が常に張っていますので、面が割れないように変装グッズを用意する事も 必要です。お面やコスプレの様に楽しいものにすると、敵に怒りが伝わりません。やは り、60年安保闘争より由緒正しきユニフォーム「タオル」「ヘルメット」「サングラ ス」で身を固めます。

女性もスカートではなく、今日だけはジーパンを履き、靴はできるだけ大きくて固い 「登山靴」あるいは「安全靴」が望ましいです。と言うのは、小競り合いのどさくさに 紛れて、機動隊員がジェラルミン盾で足の甲の骨を砕いたりするからです。70年安保 では、通りがかりのスカートとパンプスの女性がデモ隊に加わったと言う凄い話を聞い た事があります。当時は、大衆の政治に対する意識がいかに高かったか解るというのも のです。

そして、決してデモをするときには本名で呼び合わないことが大切です。警察にチェ ックされたら終わりですので「組織名」と言う呼び名を各個人で用意しておきます。

ちなみに私は「西田」と言う組織名でした。

この他、検挙されたときには人権110番と呼ばれる団体の弁護士を呼ぶこと、尋問 には完黙(完全黙秘)で対応する事など、とまあ色々あるのですが、とても書ききれそ うにありません。これも機会があればいずれお話する事にいたします。

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大学一年生の秋、私は学費値上げに対するデモを行うために、S町キャンパスに行く ように先輩に言われました。先輩は、私にもっと積極的にデモに出るように言いました が、私は、私の心が震えない運動への参加は、消極的に支援するに止めてきました。

しかし、当時、学費と生活費の両方をアルバイトで稼いで、やっとこさ生活していた 私は、「学費値上げ問題」で、巨大な怒りの火の玉と化しました。しかもその理由が、 ほとんど何の必要もない「大学移転」の為に使われることだったこと。そしてなにより その値上げが「来年の入学者から適用される。」と言う姑息な方法だったことです。そ れは、在学中の学生の反発を免れようとする、まあ本当にダーティなやり方でした。

そんな訳で、私は私の人生においてもたった一度だけ、心の底から真剣に取り組んだ デモを体験する事になります。

秋がもうすぐ冬にさしかかろうと言う少し冷え込むどんよりと曇った寒い朝。自治会 及び大学の9つの自治寮、サークル団体などからやってきた、およそ100人の有志の 学生達はS町キャンパスに結集。

それぞれが自分の所属する団体のヘルメットとタオルで顔を隠し、固まって待機して います。皆、顔は見えませんが、ぴーんと張りつめた空気の中、緊張した面もちで集会 を始めました。この集会の後にデモを行う事になっていました。

校門の付近には警察官が数十名、装甲車が1台待機しています。ジェラルミン盾とヘ ルメットで武装した警察官も10名ほどいたようです。

しかし、そんな衝突前の学生と警察の緊張が極限まで高まった雰囲気の中、状況を全 く理解していない、新参者の痴れ者がいました。

私です。

サングラスをするだけのいい加減な変装で、物珍しそう警察官が集まっている方に行 って『おお、来ている。来ている。』と言ってみたり、集会に集まっている知り合いを 探したりして、全然落ちつきがありません。

うろうろと辺りを歩き回っているうちに、集会の人混みの端の方に、同じ寮の先輩で ある田中(仮名)さんを見つけました。

「あ、田中さんだ。おお~い、田中さん~」

と田中さんを呼んだのですが、田中さんはこちらの方を気づかない様子のようでした。 私はさらに声を大きくして、

「たなかさ~~ん。た・な・か・さ~~ん。聞こえませんかぁ~~」

田中さんは、全く何も聞こえていない様に、集会している場所を背にして歩き始めまし た。どこに行くんだろうと、不審に思った私は、

「たなかさ~ん、どこに行くんですか。おおーい、たなかさん。たなかさん。」

と田中さんを連呼しながら、小走りに田中さんに近づいて行きました。

警察の集まっているところからは、丁度死角になっている建物の柱の蔭から、私を招 きよせる田中さんの手が見えました。

私が柱の蔭に行くと、もの凄い怒りの形相でたっている田中さんがいました。

そして間髪入れず、「バキッ!!」と頭の骨が折れるかと思うくらいの、すさまじい 拳骨を喰らいました。

息が止まるかと思うくらいの痛みで、しゃがんでうずくまってしまった私。

頭を抱えながら痛みに耐えて、上目使いに田中さんを見上げて言いました。

「な、何をするんですか~ぁ。」

と恨めしそうに訴えると、田中さんは怒りの表情を緩めず、地声を出さないように注意 しながらも、大きく口を開いて激しい勢いで、怒鳴るように言いました。

「本名で呼ぶんじゃない!!!!」

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その後、自治会は「72時間時限バリケードストライキ」、別名「72バリスト」に 突入、72時間の期限付きで大学構内をバリケード封鎖しました。

しかし、このような運動も虚しく、大学当局の思惑通り、この「授業料値上げ反対闘 争」は大衆的運動に発展する事はなく、授業料値上げは予定通り実施されることになり ます。

大学1年の初冬のことでした。

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江端さんのひとりごと

「渋谷駅の惨劇」

Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:06:42 JST 1996

「江端さん!D大機器研究室東京支部の飲み会をしましょう!!」

大学の後輩のDから電話がかかってきたのは、私が2X歳の誕生日を迎えて3日目のこと。Dは私より2年年下の電気機器研究室ロボット班の後輩で、大学院を卒業した後、東京のT芝に入社して今日に至っています。

D大のほとんどの卒業生達が関西方面に就職するので、いわゆる我々『東京組』は人数も集まる機会も少ないのです。そんな訳もあって、私もその時、特忙しいと言う訳もなかったので、後輩の誘いを受けることになりました。

それから一週間後。

私はフレックスを使い30分ほど早く退社して、待ち合わせ場所である渋谷駅のハチ公前に向かいました。ハチ公前の電話ボックスのところでは、Dと同期の後輩Kがすでに来ていて、私を待っていました。

この時、私は始めて後輩のKが結婚すると言う話を聞くことになります。

「そうか、よかったな。おめでとう!」と、先輩らしく笑顔でKに言いながら、私は自分の目が笑っていないことに気が付いていました。

私たち3人は、渋谷ハンズの方面に歩きながら、適当な飲み屋を探していました。そして色々迷った挙げ句、ある居酒屋に入ることになったのです。そしてこの居酒屋こそが、私の人生において決して忘れられない、忌まわしい思い出のスタート地点になることなど、その時の私に知るよしがありません。

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渋谷は若者の街です。大学院在学中に、M大学の学会発表の時に初めてこの街に来た時以来、私はこの街が好きです。何となく無秩序なのですが、新宿ほど汚くないところが気に入っています。当然、渋谷の居酒屋の客は圧倒的に若者が多く、そのノリは異様にテンションが高いので、素面の状態でお店に入ると、何となくムカっと来るほどです

「君達は、下宿に帰って勉学に励みたまえ!」

「色食は明日の授業の予習復習をして、なおかつ時間が余った余暇に興ずればよろしい」

などと、自分の学生時代を省みることなく説教したくなってしまいます。

ま、酔っぱらってくるまでだけですけど。

大ジョッキのビールを少なくとも3杯はおかわりをしたでしょうか。私たちは、仕事や結婚、女性の話題で盛り上がりまくり、大変な勢いでアルコールと食べ物を注文していました。回りの学生達のノリに決して負けない程のはしゃぎ方でした。

ビールの後、日本酒をお銚子5、6本、ワインに至っては、ボトルどころかピッチャー単位で注文する有り様。そのワインは非常に値段が安かったので注文してしまったのですが、「安酒=悪酔い」の仕組みは、酒をたしなむ人の常識です。それなのに、私はそのワインを水を飲むように、がんがん飲みまくっていたのでありました。

程々に酒を過ごした後、トイレに行こうとしたときです。歩いている時、そう、それはほんの一瞬のことでしたが、空間がわずかに傾いて歪んだように見えました。足どりも少し危なくなっているように感じましたが、自分のアルコール許容量を感覚で分かっているつもりでした。限界にはまだまだ余裕があるように思いました。

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「お酒は楽しく美しく」と言うのが、私の酒の美学です。

酔っぱらって気分がハイになるのを許しても、人に絡んだりする奴を私は許しません。理屈っぽくなる奴も遠慮したいです。感情的になる奴は論外です。況や、街の中で眠りこけたり吐いたりする奴は、万死に値します。セルフコントロールが出来ない酒飲みは、酒を楽しむ権利がないばかりか、私は人権すら剥奪したいと考えます。

ですから私が酒を飲んでいるときは、実に楽しく飲んでいる様に見せていても、その実、頭の中で怜悧でかつ緻密な計算ルーチンが走っています。私にとって「酔った勢い」とは、実は精密に仕組まれた芝居であることがあります。

そんな訳で、パーフェクト セルフコントロールパーソン フォー アルコールを密かに自負する私は、その日も渋谷で懐かしい後輩達と杯を傾けながらも、過去の経緯に基づいた安定ペースでお酒を楽しんでいるつもりだったのです。

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私が自分の体調の異常を感じ始めたのは、お店を出て渋谷駅前の交差点を彼らと一緒に歩いていた時です。

お酒を飲み終わった後一定のこころよい酔いがやってきて、時間が過ぎて行くのにつれて少しずつその酔いが消えていく、と言う私のいつものパターンが現れてきません。

むしろ、その逆の兆候が現れてきます。非常に微かなのですが、体がばらばらに動いていると言う違和感、脈拍の鼓動に同期して、こめかみがぴくぴくと動いている感覚、そして、頭の中で大きな石が転がっているようなゆっくりした鈍い痛さ。

それは、言いしれぬ不吉な予感でした。

丁度、風邪のひき始めの時の身体がざわっとする感じに似ています。もう薬を飲んでも、十分に休んでも、栄養のあるものを食べても、一切が無駄で、間違いなく今夜は高熱で苦しむと言う確信に似た、あの感じに欲にています。

もうすぐ夜の9時になろうというのに、渋谷の交差点は相変わらず凄い人の波でごった返していました。私は少し『酔ったふり』をして後輩達におどけてみせたりして、大声で笑って見たりしていたのですが、本心は、一刻も早く彼らと別れねばならないとあせっていました。

『今日は何かが起こる。そして、それは絶対に悲惨なことになる。』と確信したのでありました。

私は駅で彼らと別れるふりをして、彼らが消えるのを確認すると、駅とは逆の方向に歩き始めました。少し渋谷の街を歩いて少しでもアルコールを身体から抜こうと考え、繁華街の方を離れ、駅のガード下の辺りを歩いていました。

途中、自動販売機でウーロン茶を2本飲んで体内のアルコールを中和しようと試みましたが、無駄でした。それどころか、歩いたことが裏目にでたのか、激しい頭痛と身体のしびれる感覚で真っ直ぐ歩くことも出来なくなり、ついに歩道でうずくまって座ってしまいました。

渋谷でも、ちょっと表通りの裏側に回れば、ほどんど人通りのない寂しい場所になります。うずくまって、うつろな目で前の建物を見ると、1泊9700円と垂れ幕がかかっているラブホテルがありました。

『一人で入ったらやっぱり怒られるのかな』と、ぼんやり考えていました。近くにお姉さんが歩いていたら、お願いして一緒に入って貰うようお願いしよう、などと考えていた私は、泥酔状態からくらくらする苦しみにのたうちまわりながら、既に論理的な思考を失っています。

初冬11月の夜風は冷たく、ここで眠ったら真剣にやばいと言うことは分かっていたようで、私はもつれるように歩きながら、東急田園都市線の渋谷駅のホームにたどり着きます。そして丁度今入ってきたばかりの電車にそのまま飛び乗ったのでありました。

渋谷発の東急田園都市線は狂気です。何しろ最終電車でさえ、早朝ラッシュと同様の大混雑。夜9時の電車は渋谷駅で超満員。なにしろ他の駅で下車出来ない人がいる程です。

しかし、信じられないことに、私がその電車に飛び乗ったときには幾つかの席が空いていたのです。中年のおばさん達が見苦しく席取りをするのを、いつもいつも軽蔑の目で見ていた私でしたが、その時の私は、そのおばさんさえも眉をしかめるだろうと言うくらい浅ましい所行で人を押し退け、席を確保します。そして、無事に座ることが出来たことに対して、本当に久しぶりに神に感謝することができたのです。

電車の席に崩れ落ちると同時に意識を失ってしまった私が、目を覚ましたときには、電車の中にはほとんど人がいなくなっていました。

(変だ・・・)

私は直感的に何かがおかしいと言う感じに襲われました。

(電車は今、停車している。と言うことは駅で停車しているはず・・・)

朦朧とする頭で、状況を理解しようとする私。

(少なくとも現在・・・夜9時は余裕で経過しているはず・・。)

(なのに、この電車の窓から入ってくる明るい光は一体・・・)

そして次の瞬間、私は顔面から、さーっと血が引いていくのを感じました。

まさか----!

ゆっくりと恐る恐る駅のホームの方を振り向いて、反対方向の線路の駅名のプレートを見ました。そこにはまごうなき事実がありました。

『大手町』

東急田園都市線と地下鉄半蔵門線は、渋谷駅で相互乗り入れを行っています。そして『大手町』とは、地下鉄半蔵門線の終点の1つ前の駅だったのです。電車の窓から入ってくる明るい光とは、地下鉄のホームの明かりだったのです。

渋谷駅で座れるはずです。

私は逆方向の電車に乗り込んだ挙げ句に、終点の手前まで来てしまったのです。

そのショックもあってか、その時私は突然激しい嘔吐感に襲われます。胃の中味が消化器官を逆流して、胃液が食道を焼いているような不快感に加え、喉のいちばん深いところまで嘔吐物が遡り、口の中に酸っぱい味が広がっていきます。この世のものとも思えぬ、気色の悪い苦しさです。

大手町駅で逆方向の電車に乗り込んだ私は、少しでも油断すると胃の中のものが戻ってきそうな不吉な予感で、意識を失うことも出来ません。腕を反対側の指でおもいっきりつねって、痛さの方向に意識を向けることに必死でした。

ところが、渋谷駅の一つ前駅である『表参道』駅で、多くの人が一気に乗り込んで来て、電車の中はいきなり早朝ラッシュのようになりました。

-----渋谷ではさらに多くの人が乗り込む。

この厳粛な事実に加え、さらに私は嘔吐感の間隔が少しずつ短くなってきていることから、絶望的な結論に達します。

『どんなにがんばろうとも、私はあと十数分以内に確実に吐く』

満員電車の中で吐く。

そんなことが、人として許される所行であろうか?

否!!

それだけは絶対に避けねばならぬ。勝負はあと数分。もはや寮に帰って、ゆっくり休むと言う手段は絶たれた。ならば----!!

渋谷駅に到着しドアが開くやいなや、もつれるような足どりでホームに降り、そのまま口を押さえて、前かがみのまま十歩程歩いたところで、倒れ込むように手を地面について4つんばいになった瞬間。

多くの人たちの溢れる渋谷駅のホームの丁度真ん中あたりで、私は自分の胃の内容物をホーム一杯に盛大にぶちまけていたのでありました。

吐いている最中は息が出来ず、息を吸い込もうとすると、逆に息がひっかかって、『ゴホッ!』とせき込むように吐くことになり、私は苦しみのあまり肩で息をして、口からは嘔吐物とよだれが垂れていました。目はうつろとなり、恐らく顔色は真っ青になっていたはずです。もはや4肢を支える力の他には、わずかの力もなく、嘔吐物を拭うことも出来ずに呆然としていた私でした。

しかし、悲劇はこれにとどまりません。

とりあえずこれで最大の危機は脱したので、しばらく休んでいれば楽になるだろうと、辛うじてその場を離れた私でしたが、20メートルも歩かない内に第2波の嘔吐が襲ってきました。一度吐いてしまってストッパーが外れたのでしょうか、私は抵抗する間も与えられず、先ほどと同じようにホームでうずくまり、同じ悲劇を再び繰り返すことになります。

多くの人でごった返す渋谷駅で、嘔吐物を吐き散らす私を人々はどの様にみていたのでしょうか。回りを見ている余裕はありませんでしたが、冷たい視線が背中に突き刺さる感じだけはしっかり覚えています。

『これは、私がこれまで多くの酒飲み達を、自分の勝手な倫理で断罪してきた報いなのだろうか?』

『誰も彼もが無責任に酔っていた訳ではなかったのだろうか?』

『ああ、俺は本当に何も解かっちゃいなかったぜ。街角で、一人で寂しく吐いていた、あのおっさん、ごめんよう。俺が悪かったよ。今度は助けてやるからな。』

キヨスクの建物のところで倒れたまま、私は混沌とする意識の中で考えていました。

そして、体を横にしたまま、うずくまるように昏睡し続けたのでありました。ちらっと、このまま儚くなってしまうのも悪くないか、などと考えたりしていました。

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「おい、若いの!大丈夫か!!」と言うだみ声で、私は目覚めました。目の前には、髭面の年の頃にして40代、小太りの顔の赤いおっさんが立っていました。

「おい、若いの。立てるか」と言う言葉とうらはらに、その声は陽気でした。

「俺は青葉台だ!お前どこだ?!がっはっはっ!!」と非常に大きな声のおっさんは、すっかり出来上がっているようでした。

その頃には気分よくホームで昏睡していた私でしたので、そのおっさんのだみ声は単にうるさいだけでした。もう少しだけ、こうしてホームの上に転がって休んでいれば、そのうち気分もよくなってくるだろうと考えた私は、無言のまま、構わなくていいから向こうにいってくれ、と言うように手で追い払うような仕草をします。

しかし、おっさんの方は一向に私を無視してくれず、色々かまってきます。私はやむなく立ち上がり「だ、大丈夫ですから。」と言って、おっさんのそばを離れ、そこから10メートルほど離れた駅の柱にもたれ掛かり、再び寝入ってしまいます。

その後、寝そべっている私に、明らかに悪意を込めて全体重をかけて踏みつけた足が、少なくとも2本はあったと記憶しています。

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うつろな意識で最終電車のアナウンスを聞いたのは、午前1時。私がホームで倒れたのは10時くらいですから、実に3時間も渋谷駅のホームの地面に倒れ続けていたのでありました。

その間、泥酔したおっさんを除けば、助けてくれる人はひとりもいませんでした。駅員もあんなに多くの乗客も誰も彼も、倒れている私の横を通り過ぎていくだけだったのです。

最終電車のアナウンスを聞き、この時間になっても人でホームを闊歩するたくさんの人たちを見つつ、ぼーとした頭を何度も振って、まだときどき襲ってくる嘔吐感を押さえながら、私はつくづく思ったものです。

「本当に東京は恐ろしい街だ」

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なぜ、最終電車がこんなに満員なのかは解りません。この街は寝るべき時間に眠らない街なのだと思わざるを得ません。勿論、席に座ることの出来なかった私は、吊革に両手でぶら下がりながら、口を大きく開けて、『はっはっ』と持久走をしているときのように、なるべく多くの空気を取り込もうとしていました。

(アルコールを酸素でできるだけ速く分解するのだ。アルデヒドを分解するんだ。一刻も速く酢酸に!!)

頭の中では、エチルアルコールやアセトアルデヒドの化学式がぐるぐる回っています。気の毒に、私が立っていた前の席のOLのお姉さんは、『はっはっはっ』と苦しそうに息をしながら、正面の窓ガラスをひきつった目をして睨みつけている私の仕草におびえていたような目をしていました。

東急たまプラーザ駅に着いた時には午前2時ちょっと前。当然、バスなど走っていません。タクシーに乗り込んで「ひ、日立、美しが丘寮」と言ったのを最後に、そこで私の記憶は途切れています。

今となっては、その後どうやって、部屋にたどり着き、ベッドに潜り込んだのかも、もはや知る術はありません。

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今でも私は、あの時のアルコール摂取量が自分の許容量を越えていたとは思えませんし、正確な判断が出来ていたと信じています。

では、何故私はあの時あのような醜態を晒さねばならなかったのでしょうか?

昔、私には気の良い仲間がいて、彼女がいて、一生懸命な学問がありました。お金は無かったけど、理想を語れる人と場所と時間と酒がありました。どんなに徹夜をしてレポートを書いても、天下一品のにんにく入りラーメンとインスタントコーヒーさえあれば、次の日には、夜を徹して六甲山にドライブに出かけて、神戸の夜景を見ることができました。

2X歳の誕生日を迎えて3日目のあの日、私はあの時代に戻ったような気になっていたような気がします。

でも、やはり月日は流れていて私は変わっていたのでした。

どんなにあの頃と同じ様なつもりでいても、いつの間にか私の心も体も少しずつ少しずつ人生の最高潮の時代から、階段を一つ一つ降りていく様に、変わって行っていたのでした。

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私は最近、静かにお酒を楽しむようになりました。昔のように、泥酔して大笑いしてと言う飲み方はしません。

そして、時々居酒屋で若者達が、若さに任せて酒を振り回すように飲んでも、不愉快になることもなくなりました。

(----君達よ。君達にもいつか来る。ある時、突然今まで当たり前だったことが、突然できなくなる日が。今まであったものが、予告もなく消え去る日が。見苦しく醜態を晒す日が。)

彼らの方を見ながら、私は微かに笑みを浮かべます。

限りないいとおしいさと侮蔑と悲しみと、そんな複雑な感情が入り交じった想いが、突然こみ上げて、消えて行きます。

(----だが、その時までは世界は君達のものだ。それまでは存分に楽しむがよい。)

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今でも、私は私の嘔吐物を片づけねばならなかった人のことを考えるにつけ、胸の痛む日々を送らねばならなくなりました。匿名で渋谷駅駅長宛に慰謝料を送金する計画は、現在も慎重に検討されています。また、嘔吐物処理専用のボランティアに志願することも、考えています。

あの事件以来、私は多くの人たちに少しだけ優しくなれたような気がします。

こんど誰かが駅のホームで吐き散らしながら倒れていたら、少なくともその人の脈を取り、隣にウーロン茶を置いてきて上げよう、と思っています。


Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:06:42 JST 1996