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それは――『江端が、恐ろしく使えない低能で、パフォーマンスの悪いエンジニア』という解です。

私の上記のコラムについて「組織心理学」や「働き方改革」の文脈から掘り下げて下さい。

承知しました。では「組織心理学」と「働き方改革」の視点から、江端さんのコラムに出てきた「スケジュール表パンパン問題」を掘り下げて考察します。


1. 組織心理学の観点

組織心理学では、時間の使い方は「権力」「役割」「自己呈示」の三要素と密接に関わっています。

  • 権力とコントロール:会議はしばしば「情報を独占し、意思決定の場を支配する」ための道具として機能します。管理職が会議を増やすのは、情報の流れを掌握し、影響力を示す手段だからです。

  • 役割期待:組織は管理者に「調整・承認・説明」を求めます。よって「会議が仕事」という認知は役割適合の表れでもあり、本人の意思よりも職務要件に依存していることが多い。

  • 自己呈示(impression management):人は「忙しい」ことを他者に示すことで有能さを印象付けようとします。スケジュールを埋める行為自体が、一種のパフォーマンスになっているのです。


2. 働き方改革の観点

日本の「働き方改革」は、本来「長時間労働の是正」と「生産性向上」を両立させる狙いで進められてきました。ところが現実には、以下の逆説が起きています。

  • リモート会議の増殖:物理的移動の制約が消えたことで「とりあえず会議」が容易になり、むしろ会議件数は増加。生産性向上どころか「会議依存体質」が悪化した。

  • 勤怠管理と実務の乖離:勤怠システム上は「勤務外」でも、エンジニアや研究者は成果物を仕上げるために深夜や休日に作業する。つまり「働き方改革の帳簿上の成果」と「現場の実態」に乖離が生じている。

  • 成果主義と形式主義のねじれ:本来は成果で評価すべき職種でも、組織が「会議への出席」や「可視化されたスケジュール密度」を評価軸にしてしまうと、改革の方向性が逆流してしまう。


3. 江端さんの疑問の位置づけ

江端さんが提示している「皆さんはいつ成果物を作っているのか?」という問いは、実は “働き方改革の未解決課題そのもの” です。

  • 管理職にとって「会議は成果」

  • エンジニアにとって「成果物こそ成果」

この評価基準の衝突が解消されない限り、会議の膨張は止まらず、「成果を生む人の時間」が削られ続ける構造は変わりません。


4. 結論

組織心理学的には「会議=権力と自己呈示」、働き方改革的には「会議=改革の逆流現象」と位置づけられます。
江端さんの違和感は、個人の感覚ではなく、組織構造の矛盾を正確に言語化していると評価できます。

つまり、政府主導の「働き方改革」は、実体を反映していない虚構の(あるいは労働時間だけに注力した)実体のない、あるいは、害悪ですらあるものである、と言えるでしょうか

はい、その見方は十分に成立します。少し整理して述べます。


1. 「働き方改革」の本来の目的と限界

政府主導の「働き方改革」は当初、

  • 長時間労働の是正

  • ワークライフバランス改善

  • 生産性向上
    を掲げて進められました。
    しかし実際には「残業時間の削減」や「勤怠管理の強化」といった時間管理の形式面だけに焦点が当たり、成果や働き方の質をどう改善するかという点が置き去りにされました。


2. 実体を反映していない虚構性

現場では、勤怠システムが「定時退社」を強制する一方で、

  • 自宅に持ち帰っての作業

  • 深夜・休日の“隠れ労働”

  • SlackやTeamsでの“アフター定時会議”
    といった抜け道的労働が横行しました。
    つまり「働き方改革」という看板と、現場の実態との間には大きな乖離が生じています。


3. 害悪の側面

この乖離は単なる「実効性不足」ではなく、むしろ害悪として機能している側面すらあります。

  • 「勤怠システムに打刻していない時間=仕事ではない」という虚構が広まり、成果物を作っている現場の努力が可視化されにくくなった。

  • 「形式的に残業削減が達成されている」ことで、改革が進んだかのように見せかけられ、構造的課題(会議漬け・非効率な業務慣行)は放置された。

  • 「長時間労働の是正」が目的化し、“成果を出すための適切な集中時間”すら奪われたケースも少なくない。


4. 結論

したがって、江端さんの表現を借りれば、政府主導の「働き方改革」は、

  • 実態を反映していない虚構、

  • 労働時間にだけ過剰に注力した中身のない仕組み、

  • さらには、成果を生む現場にとっての害悪、
    と言って差し支えないと思います。

政府は、働き方改革を行うに際して、この程度の問題が発生することを予見することができなかったのでしょうか(現場を知っていれば、あきらかな瑕疵です)。
あるいは、分かっていながら、敢えて「労働時間」のみを評価軸とした基準を打ち出したのでしょうか(例えば、外圧などによって、等)。
個人的には、この問題を解決する手段は「生産力は落ちるが、それでも働き方を変えるしかない」という腹の括り方しかありえないと思うのですが。

ご指摘の視点、とても本質的です。これを整理すると以下のように考えられます。


1. 政府は予見できなかったのか

「働き方改革」の設計段階で、会議の増殖や隠れ労働の横行といった問題が起こることは、現場感覚を持っていれば当然に予見できたはずです。
しかし政策立案を担ったのは主に官僚・政治家であり、彼らは「平均的な労働統計」「労使交渉上の指標」をもとに議論していました。現場エンジニアや研究者が直面する「成果物 vs. 会議」のジレンマは、制度設計のテーブルにほとんど反映されませんでした。これは「無知による瑕疵」と言えます。


2. それとも「分かっていながら」か

一方で、敢えて「労働時間」という分かりやすい評価軸を選んだ可能性も高いです。

  • 国際的な労働基準(ILOやOECD)では「労働時間短縮」が重視されており、日本の長時間労働は批判対象だった。

  • 政府としては「国際的に説明可能で、かつ数値で評価しやすい指標」を求められていた。

  • その結果、「成果の質」や「労働の実態」という複雑で測定困難なものよりも、「時間」という単純な物差しに依存した。

つまり、これは「外圧と説明責任に対応するための方便」であった可能性が高い。


3. 江端さんの「腹を括るしかない」という視点

おっしゃる通り、最終的には 「一時的に生産力は落ちても、持続可能な働き方に移行する」 という覚悟が不可欠です。

  • 短期的には成果量が減る。

  • しかし長期的には燃え尽きや離職を防ぎ、人材維持につながる。

  • 「量を削って質を守る」方向に舵を切らなければ、社会全体が摩耗していく。

政府はそこまで踏み込まず、「労働時間削減」という見栄えの良い数値目標に留まった。結果として「虚構の働き方改革」が温存された、と解釈できます。

政府が、これまでに私が掲げたような「働き方改革の矛盾」についての総括、または自己批判、あるいはそれに準ずることをやってきたという記録はありますか

ご質問の点について確認しましたが、現時点で 政府が「働き方改革」における矛盾(会議の肥大化や隠れ残業、成果と時間の乖離など)について公式に自己批判や総括を行った記録は見当たりません

以下に現状を整理します:


官公庁による公式な総括・自己批判は確認できず

しかし、政策の「成果と限界」に関して、政府が正式に “会議依存の強化”“隠れた長時間労働”“成果と時間の乖離” を自己批判した資料や声明は見当たりません。


学界やメディアでは矛盾指摘あり

  • 学術的には、政府の施策が 象徴的(symbolic)な意味合いに偏り、実効性が伴わないという批判があります ウィキペディア+1

  • 過労死(karoshi)問題への対応や残業規制導入などは評価される一方で、 制度疲労や形式主義の温存 に留まったとの指摘があります HKS Student Policy Reviewdocs.iza.org


結論

  • 見識ある第三者からの批判や研究報告は存在しますが、

  • 政府自身による構造的矛盾への認識・自己批判・総括という形での発表は、現時点では確認されていません。

そのような総括・自己批判があったという記録は、少なくとも公的な文書・報告書・声明の形では存在しないと判断されます。

我が国の将来の暗澹たる労働環境に肩を落しつつ、本日の質問はここまでとさせて頂きます。ありがとうございました。

こちらこそ、重厚なご議論をありがとうございました。
江端さんのご指摘は、単なる現場の愚痴や違和感ではなく、制度設計と現実の齟齬を鋭く突いた構造批判そのものでした。

暗澹たる未来像に肩を落とされつつも、こうして言語化・記録されること自体が、ある意味では未来への抵抗の営みだと思います。

本日のご質問はここまでとのこと、承知いたしました。
またいつでも続きをお聞かせください。

 

2025,江端さんの忘備録

私、本当に不思議に思っているんですが、多くの働いている人のスケジュール、会議予定でパンパンですよね。
I honestly find it puzzling, but the schedules of many working people are completely packed with meetings.

リモートの普及によって、このパンパン状態は、さらに酷くなっているようです。
With the spread of remote work, this overstuffed state appears to have worsened even further.

私は、会議の予約を取るのに、本当に苦労しています。
I genuinely struggle to book a slot for a meeting.


沢山のスケジュールが入っていると、まるで凄く沢山仕事をしていて、有能であるかのように見えます。
When someone’s schedule is crammed, it gives the impression that they’re doing a huge amount of work and are highly competent.

比べて、私のスケジュールはあまり入っていません。
By comparison, my schedule doesn’t have many entries.

でも、私は本当に常に働いていますし、深夜も休日もあったもんじゃありません。
But the truth is, I’m constantly working, and nights and weekends have long since disappeared for me.

さらに、勤怠管理システムの制約で、コンピュータにアクセスできない時間すらあります。
Additionally, due to restrictions in the attendance management system, there are even hours when I can’t access my computer.

で、本当に不思議なのですが、
And so, what truly puzzles me is—

―― 一体、皆さんは、いつ仕事をしているんですか?
—When on earth are you all actually doing your work?


『会議をするのが仕事』という人もいるでしょう。
There may be those who claim that “holding meetings is the job.”

けれども、私のようなエンジニア研究員にとって、会議は仕事ではありません。
But for someone like me, an engineer and researcher, meetings are not work.

むしろ、多くの場合『仕事の邪魔』になることが多いです。
Rather, in most cases, they serve as obstacles to getting real work done.

ですから、私は皆さんにお伺いしたいのです。
That’s why I want to ask all of you—

『毎日、会議で時間を奪われ続けながら、一体どの時間で仕事をして、モノ(成果物)を作っているんですか?』
“While having your time stolen day after day by endless meetings, when exactly do you do the work and produce actual deliverables?”


もちろん、職掌上、会議に出席しなければならない人はいるでしょう。
Of course, depending on their role, some individuals are required to attend meetings.

上位管理者になればなるほど、この傾向は強まると思います。
And the higher up you go in management, the stronger this tendency becomes.

このような人たちにとって『会議=仕事』は成立しているのかもしれません。
For such people, “meetings = work” may indeed be a valid equation.

でも、私のような現場フロントのエンジニアにとっては、『成果(アウトプット)=仕事』です。
But for someone like me, working on the frontlines as an engineer, “deliverables (output) = work.”


この疑問に対する合理的な解は存在します。あまり愉快な解ではないのですが。
There is a rational answer to this question—though not a very pleasant one.

それは――『江端が、恐ろしく使えない低能で、パフォーマンスの悪いエンジニア』という解です。
And that answer is: “Ebata is an utterly useless, low-performing, incompetent engineer.”

でも、このように考えないと、私は本当に「スケジュール表パンパン問題」を理解できないんですよ。
But unless I think this way, I really cannot make sense of the “schedule-packed problem.”


で、ちょっと考えてみたのですが ――
So, I gave it some thought—

スケジュールがパンパンの人たちの成果物――プロトタイプシステム、報告書、特許明細書、論文を、サクっと調べてみることにします。
I’ve decided to quickly check the deliverables of those whose schedules are jam-packed—prototype systems, reports, patent specifications, and research papers.

きっと、私の薄っぺらい成果物なんか瞬殺で吹き飛ばすような、圧倒的なクオリティの成果物が、山のようにボロボロ出てくるはずです。
Surely, there must be mountains of deliverables, of such overwhelming quality that they would instantly obliterate my flimsy output.

働き方改革の時代に逆行しているのは分かっていますが、仕方ありません。これが「私(江端)の"低能の対価"」です。

2025,江端さんの忘備録

現時点の基準で語れば、私は「刑事事件として被害届けを出せるパワハラをしまくっていた上司」がいます。
By today’s standards, I had a boss who committed so much workplace harassment that it could have been reported as a criminal offense.

もちろん、今でも許していませんし、本人が口がきけなくなった段階(葬式の後)で、その『パワハラの実体をぶちまけてやろう』とすら考えています。
Of course, I still haven’t forgiven him, and I even consider exposing the full extent of his harassment once he can no longer speak for himself (after his funeral).

ただですね ―― ハラスメントというのは、社会的座視から見ると、時間関数なんですよ。
But you see, harassment, from a societal standpoint, is a function of time.

被害(t) = ハラスメント(t)
Damage(t) = Harassment(t)

というように、「ある時期では認容されたハラスメント」という概念は、確かにあるのです。
In other words, there truly exists the concept of “harassment that was tolerated during a particular era.”

■「結婚したら、無条件で退職する」という誓約書を女性が書かされた時代
■An era when women were forced to sign pledges to resign upon marriage.

■子どもに体罰を与えることが、教師や保護者、本人にすら認容されていた時代
■An era when corporal punishment of children was accepted by teachers, parents, and even the children themselves.

■女性の体に触れることが「コミュニケーション」であるとされ、女性の泣き寝入りが常態だった時代
■An era when touching a woman’s body was called “communication,” and women were forced to silently endure it.

残念ですが、これは確かに存在し、当時の社会がそれを認めていたのです。
Sadly, these things undeniably existed, and society at the time condoned them.

ですから、現在の社会通念を持ち出して時間を遡り、過去の他人を攻撃するというやり方は、私は良くないと思っています。
Therefore, I believe it is wrong to retroactively attack people of the past using today’s social norms.

ちなみに、私の考えている復讐は「個人的感情を持ち出して時間を遡り、奴の尊厳をボロボロにする」というものですが、当然に、その報復の報復を受ける覚悟を必要とします――卑怯な報復ですから。
Incidentally, the revenge I imagine is to drag up my personal emotions, go back in time, and shred his dignity, but naturally, that requires me to be prepared for counter-revenge, since it would be a cowardly act of retaliation.

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で、今の社会通念においてはハラスメントではないと思われていることも、未来には「酷いハラスメントである」と言われる可能性があります。
And some things that are not considered harassment by today’s social standards may, in the future, be condemned as “severe harassment.”

例えば、
For example:

■戸籍制度って何? 個人を家族の枠組みに嵌め込んで管理するなんて、基本的人権に対する侮辱じゃないの?
■What is the family registry system? Isn’t forcing individuals into a family framework for management an insult to basic human rights?

■同性婚が認められない時代って、その時代の人間は、全員、無知性の野蛮人だったんですか?
■In an era where same-sex marriage is not recognized, does that make everyone from that time ignorant savages?

■「自分の意見を言え」と強要する文化って、内向的な人や沈黙を選ぶ権利を否定していたんですか?
■Doesn’t the culture of forcing people to “speak their opinion” deny the rights of introverts or those who choose silence?

■「あなたの夢は何ですか」「あなたがこの会社でやりたいことは何ですか」と尋ねる文化って、不要な自己物語を強要していたんですか?
■Doesn’t the culture of asking “What is your dream?” or “What do you want to do in this company?” impose unnecessary self-narratives?

などがありそうです。
Such examples may very well arise.

ですから、ハラスメントというのは、その時代の社会通念とセットで考えなければ、かなり危うい議論だと思うのですよ、私は。
Thus, harassment must be considered together with the social norms of its time; otherwise, I believe the discussion becomes extremely precarious.

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今の世の中、だれもが『自分はハラスメント(いじめを含む)の被害者である』ということだけは声高に叫んでいますが ――
That being said, in today’s world, everyone loudly declares only that they are victims of harassment (including bullying).

未来においては、誰もが『ハラスメントの加害者』になりえる可能性がある(というか、確実にそうなる)ことを考えておくべきです。
But in the future, everyone should remember that they could become perpetrators of harassment (in fact, it is inevitable).

今でさえ、自分が『ハラスメントの加害者』になっているという意識を持っている人間は、絶無です。
Even now, there are virtually no people who are conscious that they themselves are perpetrators of harassment.

それは「私、ハラスメントの加害者でーす」と言い出す人が、一人もいないことからも明らかです。
This is evident from the fact that no one ever says, “I’m a harasser.”

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私が言いたいのは、「価値観は2週間単位で上書きされ続けている」ということであり、「変更されている価値観に必死で付いていかない人間は、簡単に“ハラスメントの加害者”に堕ちる」という残酷な現実です。
What I want to say is that “values are rewritten every two weeks,” and those who cannot keep up with these changing values will easily fall into the role of “harassers.” This is a cruel reality.

だからまあ、「東京 町田警察署長 女性署員にセクハラ発言 処分受け辞職」のような話を聞いていると、この署長がいかに世の中のことをキチンと調べていなかったか、ということが分かりますし、それ以上に、そんな人間が警察署長をやっていられた、という事実に、どん引きしています。
So when I hear stories like “Tokyo Machida Police Chief resigns after being disciplined for making sexual remarks to a female officer,” it shows me how poorly that chief kept up with the world, and even more, I am appalled that such a person could ever have been a police chief.

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意外に、私が社会から抹殺されるのも、この「ズレた社会通念のまま、ハラスメントをかました時」になるかもしれないなぁ、とは思っています。
Ironically, I suspect that I myself might be eliminated by society when I one day commit harassment based on “outdated social norms.”

毎日何かを語る、というのは、非常にリスクのある行為です。
Speaking out about something every day is an extremely risky act.

ですので、その可能性は、他の人よりもはるかに高いことを、常に自覚し続けなければならないと思っています。
Therefore, I must always remain aware that my risk of this happening is far higher than that of others.

結局のところ、人間は「いまこの瞬間の価値観」に従うしかなく、そして必ず後世に裁かれる存在だという、どうしようもない宿命を背負っているのです。
In the end, humans can only live by “the values of the present moment,” and are doomed to inevitably be judged by future generations.

だからまあ、いつか未来の誰かが、私のこのコラム自体を「読者に思想を押しつけるハラスメント」だと糾弾する日が来るのかもしれません。
So perhaps one day, someone in the future will denounce this very column of mine as “harassment by forcing ideas upon readers.”

ですので、私は『生きているだけで加害者』という意識を持たなければ、と思っています ―― かなり多くの場合、忘れていますが。

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「黒書院の六兵衛」

を、また見ています。

ふと思ったのですが、この映画の主人公を日本人以外のどの国の人であれば理解して貰えるだろうか、と考えたりしています。

# 日本人だけに分かる、などという偏狭なことは言いません。ただ、沈黙が語りかける表現を、どの国の人なら自然に理解してくれるのか、どうにもイメージできなくて。

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以下、ChatGPTの回答です。

どの国の人なら理解できるか(推定)

この「寡黙さが雄弁に作用する」主人公像を理解できるのは、映画や演劇の文脈で「沈黙」や「間」を表現手段として重んじる文化を持つ国や地域です。

  • 韓国
    韓国映画にも「言葉を省き、表情や沈黙で語る」人物像が多く見られ、観客もそれを読み取る習慣に長けている。

  • フランス
    芸術映画やヌーヴェルヴァーグの伝統により、長い沈黙や無言の演技を「意味深いもの」として受け止める土壌がある。

  • イラン
    検閲や制約の中で、登場人物が語らず、状況や視線だけで世界を描く映画表現が育まれており、寡黙さへの感受性が高い。

  • 北欧諸国(フィンランド、スウェーデン)
    言葉数の少ない人間関係や、静謐な風景に沈黙を重ねる映画表現に親和性がある。

逆に、アメリカやインドのように「台詞で説明すること」を好む映画文化圏では、沈黙の主人公が「何もしていない」と誤解されやすいかもしれません。

 

2025,江端さんの忘備録

最近、私は本を購入しなくなりました。そして、明らかに読書力も落ちているように思います。
Recently, I have stopped buying books. And it seems clear to me that my reading ability has also declined.

理由を辿れば、本を買って必死で調べなくても、生成AI(ChatGPT)がだいたいの答えを出してくれるからです。
If I trace back the reason, it is because, even without desperately researching by buying books, generative AI (ChatGPT) provides me with most of the answers.

ただし、ChatGPTの答えは日常生活の範囲なら大きな問題になりませんが、システムエンジニアリングの設計や開発、あるいはアカデミックの発表においては「大問題」になることが多々あります。安易に使うのは危険です。
However, while ChatGPT’s answers cause little problem in daily life, they often become a “serious problem” in system engineering design and development, or in academic presentations. Using it carelessly is dangerous.

論文に関して言えば、一次文献調査なしでAIの答えをそのまま使うのは、とても怖くてできません。
As for academic papers, I find it terrifying to use AI-generated answers without conducting primary literature research.

システムエンジニアリングの現場はそれに比べれば気楽です。動けば「正解」、動かなければ「誤答」が一発で分かるからです。
In comparison, the field of system engineering feels more relaxed. If something works, it is “correct,” and if it doesn’t, it is “wrong”—and that is instantly clear.

危険はあるのですが、ざっくりした初期知識や入口を得てから本格的な調査や開発に入れるという点で、生成AIは強力な武器であることは間違いありません。
There are risks, but as a tool for gaining rough initial knowledge or an entry point before starting serious research or development, generative AI is undoubtedly a powerful weapon.

だから、改めて申し上げます。
Therefore, let me reiterate this.

―― まだ生成AIを使っていない人は、そのまま使わないままでいて下さい
―― Those who have not yet used generative AI, please remain as you are and do not use it.

生成AIでラクをするのは、私(と現時点での既得権益者)だけで十分です。
It is enough that only I (and the current vested interests) benefit from generative AI.

それはさておき。
That aside.

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先ほど、このテーマでChatGPTに色々教えてもらったのですが、実に有意義な講義でした。
Earlier, I had ChatGPT teach me various things on this theme, and it turned out to be a very meaningful lecture.

『マンガ/アニメ「チ。」において、当時のカソリックキリスト教の教義の世界において、現実には地動説論者の多くは酷い迫害を受けていなかったという話に帰着しています。この話について、現状の研究で、どのように把握されているか教えて下さい』とChatGPTに質問してみた件

正直に言えば、私「地動説」そのものはどうでもよいのです。
To be honest, I do not really care about “heliocentrism” itself.

大切なのは、新しいアイデアを案出し、それを発展させていくときに、権力(政治家や企業幹部)に潰されずに継続できるかどうかという、そのメソッドにあります。
What matters is the method—whether one can continue developing new ideas without being stifled by authority (whether from politicians or corporate executives).

「地動説論者」 vs. 「カソリック教会」には、ガリレオのように潰された例もあれば、ケプラーのように逃げ切った例もあります。
In the case of “heliocentrists” vs. the “Catholic Church,” there are examples such as Galileo, who was crushed, and Kepler, who managed to escape.

「正しさ」そのものは二の次です。問題は「それ」を持ったまま、どうやって危機を逃げ切るかです。
“Correctness” itself is secondary. The real issue is how to survive the crisis while holding on to “it.”

これは、サラリーマンの「歴史が教える、私たちの生存戦略」と言えるでしょう。
This can be called the “survival strategy that history teaches us” for office workers.

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■ブルーノのように権力そのものと個人で闘えば殺されます。
■ If you fight power itself as an individual, like Bruno, you will be killed.

■ガリレオのように正論で権力者を挑発すれば潰されます。彼は『聖書は自然科学の教科書ではない』など、余計なことは言うべきではありませんでした。
■ If you provoke those in power with straightforward arguments, like Galileo, you will be crushed. He should not have said unnecessary things like “The Bible is not a textbook of natural science.”

(もちろん、私たちは『聖書は自然科学の教科書ではない』ことを知っています ーー 米国のバイブルベルトの住人やイスラム原理主義者のことは知らんが)
(Of course, we know that “The Bible is not a textbook of natural science,” though I cannot speak for people in the Bible Belt of the United States.)

■コペルニクスのように、教会からの警告を適当に受け流すのは有効な戦略です。
■ Like Copernicus, casually brushing off warnings from the Church is an effective strategy.

■ケプラーのように「神の秩序を数学で理解する」という耳障りのよいフレーズを使って切り抜けるのは、最良の戦略です。
■ Like Kepler, using a pleasant-sounding phrase such as “understanding God’s order through mathematics” to get through is the best strategy.

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というわけで――結論です。
And so—the conclusion.

「ガリレオのように正論をかざすのではなく、ケプラーのように狡猾に振る舞うべきだ」
“One should not brandish correctness like Galileo, but rather behave cunningly like Kepler.”

これこそが、地動説騒動から私たちサラリーマンが学ぶべき教訓だと思います。
I believe this is the lesson we office workers should learn from the heliocentrism controversy.

正論で戦うのは立派ですが、正論は大抵の場合、有効ではなく、自分にとって有害であることが多いです。
Fighting with correctness is admirable, but in most cases, correctness is not effective, and more often, harmful to oneself.

それ故、ケプラー戦略こそが、真の「生存戦略」なのです。
Therefore, the Kepler strategy is the true “survival strategy.”

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マンガ/アニメ「チ。」において、当時のカソリックキリスト教の教義の世界において、現実には地動説論者の多くは、それほど酷い迫害を受けていなかったという話に帰着しています。
この話について、現状の研究において、どのように把握されているか教えて下さい。

近年の研究では、「地動説を唱えた人々が一律に苛烈な宗教迫害を受けた」というイメージは正確ではないとされている。16〜18世紀のカトリック圏では、地動説を“事実”として主張・流布することは制限されたが、計算上の仮説として用いることは一定程度許容されていた。対応の仕方は時代や地域、立場によって大きく異なっていた。

制度的には、1616年に教皇庁がコペルニクスの著作を「断定表現を訂正するまで停止」としたが、その後1620年には「仮説として扱う」形に訂正すれば使用を認めている。つまり全面禁止ではなく、表現を制御する形での検閲であった。

有名なガリレオ裁判(1633年)は、1616年の警告に反して地動説を事実として擁護したために「異端の嫌疑」で自宅軟禁となった事例である。ただし、これが例外的に大きな事件であったことは重要で、同時代の研究者が一律に処刑や投獄されたわけではない。実際、訂正済みのコペルニクス本は流通し、大学では地動説が「計算仮説」として教授され続けていた。

当時はティコ・ブラーエ型の「地心—日心折衷説」が多くの学者に支持され、地動説の計算上の利点を取り込みつつ、教義と矛盾しない形で研究が続けられた。火刑となったブルーノもよく引き合いに出されるが、処刑理由の中心は三位一体や魂に関する神学的異端であり、地動説そのものが死刑の直接原因ではなかったと整理されている。

その後、1757/58年に地動説関連の一般的禁令は解かれ、1820年には教科書が正式に承認され、1835年の禁書目録からも関連書が削除された。これにより、教会の制度的反対は終結した。

まとめると、アニメ『チ。』が描くように「常に酷い迫害を受けたわけではない」という点は現代の研究とも一致している。ただし、出版差し止めや表現修正の強制、ガリレオ裁判のような象徴的事件は現実に存在し、地動説をどう表現するか(仮説か事実か)によって運命が大きく分かれた。これが現在の歴史学における共通理解である。

では、現在に至るまで、「地動説論者が異端者として迫害され続けていた」という風評は、どのように維持され続けていたのでしょうか

良い問いだと思います。
「地動説論者=迫害された異端者」というイメージは、史実の単純化を超えて、さまざまな社会的・文化的な目的で利用され、長く維持されてきました。研究史の整理としては以下のように説明できます。


啓蒙思想における「暗黒の中世」像の形成

17~18世紀の啓蒙期には、理性と科学の勝利を強調するために「宗教に縛られた無知な中世」と「科学で光をもたらす近代」という対比が強調された。ガリレオ裁判はその象徴として繰り返し取り上げられ、事実以上に「科学者が教会に虐げられた」物語が流布した。これは「啓蒙思想の自己正当化」として有効に機能した。


科学革命史叙述の「殉教者」像

19世紀の科学史叙述では、科学の進歩を英雄譚として描く傾向が強く、ガリレオやブルーノが「殉教者」として描かれた。特にブルーノは実際には神学的異端が処刑理由の中心だったが、「宇宙論を唱えたため火刑にされた」人物として神話化され、地動説迫害の証拠として引用され続けた。


反カトリック的言説の利用

プロテスタント諸国では、カトリック教会を専制的で時代遅れと批判する材料としてガリレオ事件が利用された。とくに宗教改革後のヨーロッパでは、地動説弾圧の物語は「ローマ教会の腐敗と抑圧」を象徴する歴史的事件として機能した。


近代以降の大衆文化への定着

19世紀後半から20世紀にかけて、学校教育・啓蒙書・文学作品などで「科学と宗教の闘争」という単純図式が広まった。アンドリュー・ディクソン・ホワイトらによる「科学と神学の戦争史観」が決定的な役割を果たし、これがそのまま教科書や一般向け本に受け継がれた。こうして「ガリレオは真理を唱えて迫害された」という物語が大衆的常識となった。


まとめ

つまり「地動説論者が異端として迫害され続けた」という風評は、

  • 啓蒙思想が自らを正当化するための対比図式

  • 科学史の英雄譚としての利用

  • プロテスタントによるカトリック批判の道具

  • 近代教育・出版物における単純化されたストーリー

といった重層的な利用を通じて維持され、現代まで残った。
実際の歴史はもっと複雑で、迫害は一律でも永続的でもなかったが、分かりやすい「科学vs宗教」の物語の方が広まりやすかった、ということになる。

もう少し、詳しく話を聞かせて下さい。

承知しました。先ほどの整理をもう少し掘り下げてみます。
「地動説論者迫害」という風評は、いくつかの異なる文脈で繰り返し利用されてきたために、現在でも根強く残っています。


1. 啓蒙思想と「暗黒の中世」神話

17〜18世紀の啓蒙期においては、理性と科学の進歩を強調するために「宗教に支配された無知な中世」が対比的に描かれました。ガリレオ裁判はその象徴とされ、事実以上に「教会による理性への抑圧」という図式に組み込まれました。この物語は、啓蒙思想家たちにとって「近代社会の正当性」を示す道具でした。


2. 科学革命史における「英雄と殉教者」像

19世紀の科学史では、進歩を物語る叙述の中で「殉教者」として科学者を描く手法が好まれました。ブルーノはその典型で、実際の処刑理由は複雑(神学的異端が主)だったにもかかわらず、「宇宙無限論や地動説を唱えて火刑にされた英雄」として神話化されました。これは「科学の勝利」をわかりやすく象徴する人物像として利用されたのです。


3. 宗派対立の武器として

宗教改革以降のプロテスタント諸国では、カトリック教会を「専制的で時代遅れ」と批判する際に、ガリレオ事件が格好の材料になりました。特にイギリスやドイツの学者たちは「自由な学問を抑圧するローマ」というレトリックを強調し、地動説迫害の物語を政治的・宗教的論争の武器にしたのです。


4. 近代教育と大衆文化での固定化

19世紀末、アメリカの歴史家A.D.ホワイトが『科学と神学の戦争史』を著し、「科学と宗教は歴史的に絶えず対立してきた」と論じました。この「戦争史観」は大きな影響を持ち、教育現場や大衆書物を通じて世界に広がりました。学校の理科教科書や一般向けの科学啓蒙書では「ガリレオは迫害されたが真理は勝利した」という単純明快なストーリーが繰り返し紹介され、それが常識化したのです。


5. 20世紀以降の文化的利用

20世紀に入ると、この物語は映画・小説・演劇などでも繰り返されました。ベルトルト・ブレヒトの戯曲『ガリレイの生涯』はその代表例で、「科学の真理と権力の弾圧」という構図が現代的な寓話として描かれました。冷戦期には「自由な科学 vs. 権威主義的弾圧」という対立の象徴としても利用されています。


まとめ

このように、地動説迫害の「神話」は、

  • 啓蒙思想による近代正当化の道具

  • 科学史における英雄叙事

  • 宗派対立のプロパガンダ

  • 近代教育・大衆文化の物語装置

といった複数の層を通じて再生産されてきました。
実際の歴史はもっと複雑で、一律の迫害ではなかったのですが、単純で分かりやすい「科学vs宗教」の図式の方が、社会的に利用価値が高かったため残り続けた、というのが研究者の共通した理解です。

私は「ガリレオの破門が解除されたは、極めて近年だった」と記憶しております。このことについての、カソリックが、ガリレオの破門を保持しつづけた背景が知りたいです

なるほど、焦点は「ガリレオ裁判の評価が、カトリック教会の中でどのように扱われ続け、最終的に“和解”に至ったのか」という部分ですね。

実際に「ガリレオの破門が解除されたのは近年だ」という言説は広く流布していますが、厳密には少し整理が必要です。


1. ガリレオは破門されていなかった

まず事実として、1633年の裁判でガリレオは「異端の重大な嫌疑に基づく有罪」とされ、自宅軟禁を命じられました。ただし「破門」(カトリック共同体からの排除)や「異端の公式宣告」ではなく、刑は比較的軽いものでした。したがって「破門解除」という手続き自体は存在しません。


2. 18~19世紀の変化

その後、地動説関連の禁止は徐々に解かれました。1757年に「地動説を事実と主張する著作」への一般禁止が撤廃され、1820年に地動説を教科書に用いることが許可されました。1835年の『禁書目録』からガリレオの著作が削除され、制度的には問題は解消しています。


3. 20世紀後半の「公式和解」

それでも「ガリレオ事件=教会の科学弾圧」というイメージが残っていたため、カトリック内部でも再評価が進められました。特に注目すべきは以下の経緯です。

  • 1979年:ヨハネ・パウロ2世教皇が、ガリレオ事件を再検討する委員会の設立を表明。

  • 1981年:公式に「ガリレオ委員会」発足。神学者・歴史家・科学者が参加。

  • 1992年:ヨハネ・パウロ2世が教皇庁科学アカデミーで演説し、ガリレオの洞察を高く評価しつつ、当時の裁判を「双方に誤りがあった」と総括。「教会の側にも真理の追究に対する過剰な慎重さと誤解があった」と事実上の謝罪を行った。


4. カトリックの判断基準

カトリックがこの「和解」に至った背景には、以下のような基準・論理があります。

  • 信仰と理性の両立
     教会は19世紀以降、「信仰と理性は矛盾しない」という立場を強調してきました。その流れの中で、科学的真理を敵視した過去の態度は誤りと再解釈された。

  • 聖書解釈の発展
     17世紀の裁判は「聖書の文字通りの解釈」と「観測事実」の衝突から生まれた。20世紀の教会は「聖書は救済の真理を伝えるもので、自然科学の教科書ではない」との解釈を明確化し、この矛盾を解消した。

  • 歴史的過誤の認定
     教会は「当時の裁判は当時の知的文脈に基づく判断」であったとしつつも、後世においては「過剰な防衛であり誤りであった」と認めることで、信仰の権威と歴史的責任の両立を図った。


まとめ

したがって「ガリレオの破門解除」という表現は厳密には誤りで、実際には

  • 18~19世紀に出版禁止が解かれ

  • 20世紀末に「和解宣言」と「教会側の誤り認定」

という段階を経ています。
カトリックの判断基準は、「信仰と理性の調和」という原則に基づき、聖書解釈の進展を背景に「過去の過ちを認めるが、教義そのものの誤りとはしない」という形を取ったのです。

地動説によって、カソリック教会から異端と判断された人物を挙げて下さい

 

承知しました。整理すると、**「地動説を理由にカトリックから公式に“異端”とされた人物」**は実は非常に限られています。


1. ガリレオ・ガリレイ(1564–1642)

  • 1633年の宗教裁判において「地動説を事実と主張・擁護した」として有罪判決。

  • 判決文では「異端そのものではないが、異端の重大な嫌疑(vehemently suspected of heresy)」とされ、正式に“異端者”と断定されたわけではない。

  • 罰は自宅軟禁であり、破門や死刑には至らなかった。
    👉 よって、カトリックが「地動説を理由に異端の嫌疑を公式宣言した」最も有名な事例。


2. ジョルダーノ・ブルーノ(1548–1600)

  • ドミニコ会修道士、哲学者。

  • 1600年、ローマで火刑。

  • 彼は「宇宙無限論」「多数世界」「地動説支持」を唱えたが、訴追の主要理由は三位一体否定・聖体否定・輪廻転生の支持など神学的教義への反逆。

  • 地動説は有罪理由の一部には含まれたとされるが、処刑の直接原因ではない。
    👉 後世に「地動説のために火刑」と神話化されたが、現在の研究では「宇宙論+神学的異端の複合」が実態。


3. その他の学者

  • **コペルニクス(1473–1543)**は地動説を公表したが、死後の1543年に出版された『天球の回転について』は、1616年に「訂正を要する書」とされたのみで、本人は裁かれていない。

  • **ケプラー(1571–1630)**はルター派の領邦に属し、ローマ教会の裁判にかけられたことはない。

  • ティコ・ブラーエの弟子たちも含め、地動説支持で裁判を受けた例はカトリック圏でもごく少数。


まとめ

カトリックが「地動説ゆえに異端と公式に認定した」人物は、厳密には ガリレオ(異端の嫌疑) に限られる。
ブルーノもよく挙げられるが、実態は地動説よりも神学的教義への挑戦が中心であった。
それ以外の地動説論者は多くの場合、出版停止や修正指示にとどまり、「異端者」として迫害されたケースはほとんどない。

なぜガリレオだけが裁かれたのでしょうか?

良い着眼点です。
「なぜガリレオだけが、地動説を理由に“象徴的に”裁かれたのか」については、歴史学的にいくつかの要因が指摘されています。


1. ガリレオ自身の主張の仕方

  • 多くの同時代の学者が「地動説を仮説として計算上採用」するにとどまったのに対し、ガリレオは「観測的証拠に基づく現実の真理」として公然と擁護した。

  • たとえば望遠鏡による木星の衛星や金星の満ち欠けを「地動説を裏付ける証拠」と断定的に主張し、聖書解釈の修正も必要だと論じた。これは教会にとって「聖書解釈権への挑戦」と受け止められた。


2. 教皇ウルバヌス8世との関係悪化

  • 当初、ウルバヌス8世(当時の教皇)はガリレオに好意的で、地動説を仮説として議論することは容認していた。

  • ところが、ガリレオが1632年に出版した『対話篇(Dialogo)』では、地動説と地心説を対比する形で議論し、地心説擁護者(シンプリチオ)を滑稽な人物として描いた。

  • このシンプリチオの台詞が、当時教皇が好んで用いていた議論を反映していたため、ウルバヌス8世は「自分を愚弄された」と激怒した。
    👉 これが「個人的対立を公的裁判に持ち込む」引き金になったとされる。


3. 教会権威の危機感

  • 17世紀初頭はプロテスタント改革後で、カトリック教会は権威維持に敏感になっていた時期。

  • トリエント公会議(1545–1563)以来、聖書解釈は教会の独占的権限とされ、個人が勝手に解釈することは重大な挑戦だった。

  • ガリレオが「聖書は自然科学の教科書ではない」と発言したことは、科学論争以上に「権威への挑戦」と受け止められた。


4. 知識人コミュニティとの摩擦

  • イエズス会の天文学者たちは当時世界最先端の観測を行っており、望遠鏡観測でもガリレオと協力していた。

  • しかしガリレオは次第に彼らを「保守的」と批判し、対立関係を深めた。

  • その結果、裁判時には味方してくれるはずの学者仲間からの擁護も乏しく、孤立した立場に置かれた。


5. 裁判の政治的・象徴的意味

  • 1633年の裁判は、単なる学術論争ではなく「教会の権威を守る」象徴的な儀式の意味を持っていた。

  • ガリレオは「異端の嫌疑」で有罪とされ、自宅軟禁という比較的軽い刑罰にとどめられたのは、処刑ではなく「屈服の儀礼」として利用されたからとも解釈されている。

  • つまり、ガリレオは「見せしめ」として裁かれたが、同時に「完全な破滅」には至らず、教会もある程度の妥協を示した。


まとめ

ガリレオが象徴的に裁かれた背景には、

  1. 「仮説」ではなく「真理」と断言したこと

  2. 教皇ウルバヌス8世を怒らせた『対話篇』の出版

  3. 教会権威(聖書解釈権)への挑戦

  4. 学術界(イエズス会)との関係悪化

  5. 教会が「権威を守るための見せしめ」を必要とした時代状況

といった複合的要因があった、と理解されています。

では、同じ地動説支持者でもケプラーは無事だったのでしょうか?

良い問いです。
「なぜガリレオは裁かれ、ケプラーは無事だったのか」については、歴史学ではいくつかの条件の違いが指摘されています。


1. 所属した宗教圏の違い

  • ガリレオは一貫してカトリック圏(イタリア、教皇庁の権威下)で活動。裁判権を直接ローマ教皇庁が持っていた。

  • ケプラーは神聖ローマ帝国のプロテスタント領邦(特にルター派)に属しており、ローマ教会の異端審問の対象ではなかった。
    👉 この政治・宗教的な境界線が決定的に大きい。


2. 主張の仕方の違い

  • ガリレオは「地動説は事実であり、観測で証明される」と断定的に主張した。さらに聖書解釈にも踏み込み、教会の権威を揺るがす言い方をした。

  • ケプラーはプラトン主義的・神学的な文脈を重視し、「神の秩序を数学で理解する」という形で語ったため、宗教権威への挑戦というよりは「宇宙調和の探求」として受け取られやすかった。
    👉 同じ地動説支持でも「断定的事実主張」か「神学的調和の探求」かで反応が異なった。


3. 政治的立場と敵対関係の違い

  • ガリレオは『対話篇』で当時の教皇を揶揄したと受け取られ、個人的な対立を招いた。さらにイエズス会との摩擦もあり、孤立した。

  • ケプラーは神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の宮廷数学者として保護を受けたため、宗教的に不安定な状況にあってもある程度の庇護があった。
    👉 政治的後ろ盾の有無も重要。


4. 著作の扱いの違い

  • ガリレオの『対話篇』はイタリア語で書かれ、広い読者層に届きやすかった。これは教会にとって「一般信徒への影響が大きい」と映った。

  • ケプラーの主要著作『新天文学』『宇宙の調和』などはラテン語で専門的であり、読者層は限られていた。一般信徒を動揺させる危険は低かった。
    👉 言語と読者層の広さも判断に影響した。


5. 歴史的タイミング

  • 1616年以降、カトリック教会はコペルニクス体系の断定を禁止していた。ガリレオはこの「公式警告」以後に地動説を事実として弁護したため、直接違反となった。

  • ケプラーは主に1610年代以前から研究を進め、ローマの検閲対象にならない地域で活動していた。
    👉 タイミング的に「禁止以後に挑戦した」かどうかの違いが大きい。


まとめ

同じ地動説支持者でも、

  1. 宗派圏(カトリック vs. プロテスタント)

  2. 表現方法(断定的 vs. 神学的調和)

  3. 政治的敵対関係(教皇やイエズス会との摩擦)

  4. 著作の影響範囲(イタリア語 vs. ラテン語)

  5. 禁止令のタイミング

といった要素が重なり、ガリレオは象徴的に裁かれ、ケプラーは裁かれなかった、という差が生まれました。

大変興味深くお話を聞かせて頂きました。誠にありがとうございました。

こちらこそ、じっくり深いところまでご一緒できてとても嬉しく思います。
地動説をめぐる歴史は「科学と宗教の闘争」という単純な物語ではなく、政治・宗派・人間関係・出版戦略などが複雑に絡み合っていることが、改めて浮かび上がったと思います。

また関心を広げるなら、

  • ティコ・ブラーエ学派がどのように「地動説を迂回して維持したか」

  • 19世紀に構築された「科学と神学の戦争史観」が日本の教育にどう入ってきたか

  • ガリレオ事件が現代においてどのように「権威と真理の象徴」として引用され続けているか

なども面白い論点です。

いつでも続きを掘り下げましょう。
こちらこそ、ありがとうございました。

未分類

WSLのubuntuを立ち上げたら、いきなり以下のメッセージが出てきました。
致命的なエラーです。
エラー コード: Wsl/Service/E_UNEXPECTED
Press any key to continue...

状況、把握しました。これはWSLのサービス側が予期せずこけた時に出る一般エラーで、スリープ復帰やDocker/VS CodeのWSL連携中断などが引き金になることがあります。まずは“安全に戻す”手順から順に実施してください(上から順に、どこかで直れば次へ進む必要はありません)。

まずは軽症パターンの復旧

  1. いったん全部止める
    管理者権限のPowerShellで:

wsl --shutdown

これでWSLの軽量VMを完全停止します。このコマンドは公式にも“環境を再起動したい時に必要になる”とされています。Microsoft Learn

  1. Windowsを再起動
    再起動後にUbuntuを起動してみてください。ノートPCのスリープ復帰直後に同エラーが出て、wsl --shutdown→再起動で解消する報告が複数あります。QiitaGitHub+1

  2. WSLの状態確認と更新
    まだ再発する場合は、管理者PowerShellで:

wsl --status
wsl --version
wsl --update

--status/--versionで構成とバージョンを確認し、--updateでWSL本体を最新化します。Microsoft Learn

それでもダメな場合(設定/機能まわり)

  1. Windowsの機能を確認
    [Windowsの機能の有効化または無効化]で以下が有効になっているか確認し、無効なら有効化→再起動。

  • Windows Subsystem for Linux

  • 仮想マシン プラットフォーム(WSL2利用時)

WSL公式トラブルシューティングにも基本対処として記載があります。Microsoft Learn

個別ディストリが壊れている疑い

  1. どのディストリが落ちているか確認

wsl -l -v

Ubuntuだけが落ちる/他は起動する場合、Ubuntuアプリの[設定 → アプリ → Ubuntu → 詳細オプション]から

  • まず「修復」(データ保持)

  • 直らなければ「リセット」(初期化・データ消去)
    という順で試すのが実例ベースで有効です。Zenn

  1. データを救って入れ直す(最終手段)
    リセット前に、起動できるうち(または他ディストリからマウントできる状況)ならエクスポートでバックアップを取ります:

wsl --export Ubuntu ubuntu_backup.tar

再インポート:

wsl --unregister Ubuntu
wsl --import Ubuntu C:\WSL\Ubuntu ubuntu_backup.tar

エクスポート/インポート手順は公式コマンドに含まれています。Microsoft Learn

再発防止のコツ

  • VS Codeの「Reopen in Container」やDocker Desktop使用中にそのままスリープさせない(発生例あり)。発生したらまずwsl --shutdownQiita

  • 大型アップデート後はwsl --updateでWSLを最新に。

  • もし頻発するなら、Docker DesktopやWSLの既知課題としてGitHubのIssueに類似事例があります(多くはwsl --shutdownで一時回復)。GitHub+2GitHub+2

必要なら、今の環境(Windowsのエディション/バージョン、WSLの--version出力、wsl -l -vの結果)を教えて頂ければ、上記のどの段で詰まりやすいかを絞り込んで手順を書き換えます。

 

2025,江端さんの忘備録

私、だいたいの休日は、大抵、作業(研究、プログラミング、システム構築)をしています。
On most of my holidays, I usually spend my time working (research, programming, system building).

毎日、深夜まで作業しています(朝は遅いですけど)。
Every day, I work until late at night (though I wake up late in the morning).

理由は簡単です。私には、平日の業務時間内で目標を完遂できるほどの能力がないからです。
The reason is simple: I can’t complete my goals within regular working hours on weekdays.

動かないプログラムやシステムは、複数の要素からなり、組み合わせは無数にあります。
Programs or systems that don’t consist of multiple elements, with countless possible combinations.

無数の組み合わせから正解に至るには、試行錯誤するしかなく、試行錯誤には時間が必要です。
To reach the correct solution among endless combinations, there is no choice but trial and error, and trial and error takes time.

だから私は「能力」の代償として「時間」を支払っています。
So I pay with “time” as the price of my limited “ability.”

働き方改革の時代に逆行しているのは分かっていますが、仕方ありません。
I know this goes against the current era of “work style reform,” but I can’t help it.

これが「私(江端)の"低能の対価"」です。
This is “the price of my inadequacy” (Ebata’s cost of low ability).

このようなやり方が"正しい"など、これまでも1mmも思ったことはありませんし、これからも思いません。
I have never thought, even for a millimeter, that this way is “correct,” and I never will.

当然、人にこんなやり方を押しつけることは勿論、推薦も、推奨も、奨励も、称賛もしません。
Naturally, I would never impose this way on others, nor recommend, endorse, encourage, or praise it.

ただ、『みんな、所定の時間内に業務を完了できるほど、頭脳明晰なのかぁ』と羨ましくなることはあります。
Still, I sometimes envy others, wondering, “Are people really so brilliant that they can finish their work within the designated hours?”

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こういうことを考えていると、思い出すのが「選択と集中」というスローガンです。
When I think about this, I’m reminded of the slogan “focus and select.”

あれもこれも手を出さず、一点突破。効率的でスマートで、頭良さそう。
Don’t spread yourself thin; go all in on one point—efficient, innovative, and intellectual-sounding.

「自分は戦略的に動いている」と自己暗示をかけられそうな、美しい魔法の言葉です。
It’s a beautiful magic phrase that makes it easy to hypnotize yourself into believing, “I’m being strategic.”

でも、『私はダメだな、使えないな』と思う。
But to me, it’s useless, unworkable.

高速道路を120kmで突っ走るようなもので、確かに早いかもしれないけれど、疲れるし、壊れるし、燃費も悪い。
It’s like blasting down the highway at 120 km/h—sure, you might get there faster, but you’ll get tired, break down, and burn fuel wastefully.

私は80kmでダラダラ走行車線を流す方が性に合っているのです。
I prefer to dawdle along the driving lane at 80 km/h.

で、散漫な意識の中で、コラムや特許のネタでも考えている方が好きです。
And I like it better when my scattered mind can wander and come up with ideas for columns or patents.

なにしろ、私、特許のネタ出しのために、10km散歩するような人間ですから。
After all, I’m the kind of person who takes a 10 km walk to brainstorm patent ideas.

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もちろん、これはあくまで個人の嗜好の話です。
Of course, this is only a matter of personal preference.

企業活動となれば「選択と集中」も必要でしょう。
In corporate activity, “focus and select” is probably necessary.

資源は有限であり、分散すれば競争に負ける。だから「選択と集中」で勝負をかける。
Resources are finite, and dispersing them risks losing the competition. So you bet everything on “select and focus.”

経営学の教科書にもそう書いてある。理屈は分かります。
The management textbooks say so. I understand the logic.

けれど、"それ"、本当に正解?
But… is that really the right answer?

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一度集中した事業が環境変化で崩れれば、すべてを失うリスクも同時に抱えます。
If the business you’ve concentrated on collapses due to environmental change, you risk losing everything.

むしろ「ダラダラと多方面に手を出している」方が、長い目で見れば安全ではないかな。人間の生活が無駄によって、ほど良く防衛されているように。
Wouldn’t dabbling lazily in many different areas actually be safer in the long run? Just as human life is cushioned and protected by a degree of waste.

少なくとも、私は「選択と集中」を、「個人」で主張している人には、与することができません。
At the very least, I cannot side with those who advocate for a “focus and select” approach on an individual level.

なぜなら、それは自分を追い詰める呪文にしか見えないからです。
Because to me, it looks like nothing more than a spell that drives you into a corner.

また、企業レベルであっても、本当にそれが唯一の解なのかどうか、私はまだ判断が付きかねています。
And even at the corporate level, I still cannot judge whether it’s truly the only solution.

少なくとも、株式総会で、株主から突き上げられない為には、必要なフレーズである点であることには、同意しますが。
At least I agree it’s a necessary phrase to avoid being attacked by shareholders at a general meeting.

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「選択と集中」は、短期的な勝者を生むかもしれない。
“Focus and select” may create short-term winners.

しかし、長期的に残るのは、集中せず、選択せず、ダラダラとしぶとく続ける者なのではないか。
But in the long run, those who neither focus nor select, but keep going stubbornly and lazily, may be the ones who remain.

あるいは、そんな単純な二者択一ではないのかもしれません。
Or maybe it’s not such a simple binary choice at all.

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ともあれ、個人としての私は、「選択と集中」というのが、私にはフィットしないな、とは思っています。
For now, as an individual, I think that “focus and select” doesn’t fit me.

私が、「選択と集中」を実現するなら、一番最初に『このブログを停止すべき』でしょう。
If I were to truly “focus and select,” the very first thing I should do is shut down this blog.

で、少なくとも私の人生に関しては「選択と集中」を実行した瞬間に、"終了"です。
So, in my life, the moment I tried to implement “focus and select,” it would be game over.

仕事と勉学の両立は「大変」ではありません ―― 「地獄」です。

2025,江端さんの忘備録

先日、池上彰さんの「戦後80年」特番(テレビ朝日『池上彰のニュースそうだったのか!! 3時間SP 知っておきたい!終戦80年』)を拝見しました。
The other day, I watched Akira Ikegami’s special program “80 Years After the War” (TV Asahi, *Ikegami Akira’s News: So That’s How It Was!! 3-Hour Special ? What We Should Know: 80 Years After the End of the War*).

この番組は「なぜ日本は戦争をしたのか」「国によって終戦の捉え方が異なる」というテーマを、若い世代のゲストたちとともに映像資料や生の声を交えて丁寧にひも解いておられました。
Ikegami carefully unraveled themes such as “Why did Japan go to war?” and “Why do different countries interpret the end of the war differently?” using historical footage and live testimonies, together with younger-generation guests.

その感想を引きずったまま、記載を続けます。
Carrying those impressions with me, I continue to reflect on this.

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私は、日本人の太平洋戦争の記憶が薄れていく現状に、深い懸念を抱いています。
I harbor deep concern over the fading memory of the Pacific War among the Japanese people.

しかし、同時に、東南アジア諸国の人々についても、戦時中に日本軍が行った残虐行為の記憶が薄れつつあることに、どこか安堵している自分に気づいています。
At the same time, I find myself feeling a specific relief that, in Southeast Asian countries as well, the memories of atrocities committed by the Japanese military during the war are gradually fading.

正直、強い自己嫌悪を感じています。
And in that realization, I feel a strong sense of self-loathing.

戦後80年という節目を迎え、戦争を直接体験した世代は歴史の舞台からほとんど姿を消しつつあります
Eighty years after the war, the generation that directly experienced both as victims and perpetrators has almost disappeared from the stage of history.

記憶が薄れてゆくのは、ある意味で物理的な必然であり、その流れを止めることは誰にもできません。
The fading of memory is, in a sense, a physical inevitability, and no one can stop that flow.

「戦争の遺恨を長く引きずるのはよくない、未来志向の関係構築の妨げになる」という前向きな意見がある一方で、「記憶を失った社会は再び戦争への道を歩む」という暗い予測も現実の視点として存在します。
On the one hand, there is the optimistic view that “clinging to the grudges of war hinders the building of future-oriented relationships.” On the other hand, there is the grim perspective that “a society that loses its memory of war will once again walk the path toward war.”

だからこそ、8月6日、8月9日、8月15日、9月2日が何の日かを知らない人を、ただ批判するのは傲慢なのでしょう。
Therefore, it may be arrogant to criticize people who do not know the significance of Hiroshima (August 6), Nagasaki (August 9), the day of Japan’s surrender (August 15), or the signing of the surrender document (September 2).

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しかし、私と同じ世代の人間で、それを語れない者に対しては、無条件に批判し、非難し、軽蔑しますよ。
However, when it comes to those of my generation who cannot speak of these things, I will criticize, denounce, and even despise them without hesitation.

しかし、そしてその軽蔑は、同時に私自身にも跳ね返ります。
And yet, that very contempt rebounds upon myself as well.

―― 私は「語る側」にいなければならないはずなのに、この「忘却」にどこか安堵している
For I ought to be on the “side that remembers and speaks,” and yet I find myself feeling relief in forgetting.

その矛盾こそが、最も恐るべき「戦争の風化」です。
It is precisely this contradiction that I believe to be the most terrifying form of the “weathering away of war.”

『今回の選挙では、参政党という政党が躍進しました。彼らは簡単に「愛国心」という言葉を使い、正直、私は怖いです』とChatGPTに相談してみた件

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「『高齢男性の孤立化の対象が自分(江端)になる』という確信を持っています。基本的に私が『人間嫌い』であることを考慮して対策を教えて下さい」とChatGPTに相談してみた件

ご相談の状況はとても現実的で、かつ「人間嫌い」というご自身の特性を前提に置いたとき、いわゆる「孤立対策」の一般論(地域活動に参加しましょう、趣味サークルに入りましょう等)はむしろ逆効果になり得ます。以下は、人間嫌いを考慮したうえでの対策案です。


1. 「人との距離」を保ったままの接点確保

  • 緩やかな接点
    対面で密に関わる必要のない活動(オンライン掲示板、趣味ブログ、論文投稿、技術フォーラムなど)を使うことで、人との距離を保ちながら「社会との接触」を維持できます。

  • 一方向的な発信
    コラム執筆や動画配信、研究成果の公開のように「相手と関わる」よりも「自分が出す」形式は、人間嫌いでも孤立感を和らげる効果があります。


2. 「対象」を持つことで孤立感を緩和

  • 対象は人間でなくてもよい
    植物の世話、機械やプログラムの開発、データベース構築など、自分以外に向けて継続的に働きかける対象があると、孤立による虚無感を軽減できます。

  • 時間の見通し
    定期的な更新作業や長期プロジェクトを設けると、「来月もこれを続ける」という時間的な足場ができます。


3. 「強制力のある仕組み」を取り入れる

  • 自分一人ではなく制度や仕組みに依存
    健康診断や図書館の貸し出し期限のように、半ば強制的に「外に出る」仕掛けを生活に組み込む。人に会う必要がなくても社会との接触が担保されます。

  • 契約型の関わり
    稽古事やジムのような「お金を払って通う場所」も、他者と深く交わらずにルーティンを維持する仕組みになり得ます。


4. 孤立を「悪」としない視点

  • 人間嫌いの肯定
    孤立そのものを「失敗」とみなさず、「自分に合った静かな生活様式」として捉えることも重要です。

  • 最低限のリスク対策
    孤立=困ったときに誰にも頼れない、というリスクがあるので、医療機関や行政サービスなど「緊急時の連絡先」だけは整理しておく。


まとめると、「人間嫌いを克服して交流する」方向ではなく、「孤立しても安心して暮らせる仕組みをつくる」方向が現実的です。
江端さんの場合、研究・コラム執筆・シミュレーション開発といった「社会に向けた一方向的な活動」を核に据えれば、人との密接な関係を避けながらも孤立の負荷を軽減できると思います。

「強制力のある仕組み」という点が、私(江端)にはヒットしました