2025,江端さんの忘備録

最近、豪雨災害が日本中で頻発しています。これをニュースで見ていて気がついたことがあります。
Recently, torrential rain disasters have been occurring frequently all over Japan. Watching the news, I realized something.

(1)豪雨災害は、リアルタイム性の高いコンテンツが、災害直後から報道される。
(1) In the case of torrential rain disasters, highly real-time content is broadcast immediately after the disaster.

比して、
By contrast,

(2)地震災害は、地震発生直後は勿論、数時間、下手すると1日後にも、同じ映像が繰り返し報道され続ける。
(2) For earthquake disasters, not only right after the quake but also hours later, or even a whole day later, the duplicate footage continues to be broadcast repeatedly.

これは、災害によるインフラへの影響によるものです。
This is due to the impact of disasters on infrastructure.


(1)の豪雨災害は、例えば停電が発生したとしても、スマホでの映像録画は可能であり、また、ネット回線が生きている可能性は高い。通信基地局が豪雨で全滅することは、まずありえない。
In torrential rain disasters, even if a power outage occurs, it is still possible to record video with a smartphone, and there is a high chance that internet connections will remain functional. It is almost unthinkable for all communication base stations to be wiped out by heavy rain.

比して、
By contrast,

(2)の地震災害は、停電、インターネットの遮断、そして、現地までの道路の封鎖があり、現地に取材に行けない状況がある。
In earthquake disasters, there are power outages, internet blackouts, and blocked roads, making it impossible to reach the site for coverage.

つまり、豪雨災害とは異なり、地震災害は、完璧な「情報の真空地帯」が登場してしまうのです。
In other words, unlike torrential rain disasters, earthquakes create a perfect “information vacuum.”


大地震が発生すると、各局のアナウンサーが「海岸から逃げろ!」と叫んでいますが、これ、直撃を受けた被災地では、一言も聞こえていません。
When a major earthquake occurs, TV announcers shout, “Run away from the coast!” but in the areas directly hit, not a single word of that is heard.

停電で、テレビが使えないからです。
That is because the power outage makes television unusable.

この場合、頼りになるのはスマホですが、被災地では、通信インフラも断絶されています。つまり、ネットニュースも、NHKプラスも、何も見えません。
In such cases, people would rely on smartphones, but in disaster areas the communication infrastructure is also cut off. This means no online news, no NHK Plus, nothing is visible.

つまり、最速かつ最優先で伝えなければならない命に係わる情報が、その命に係わる人たち"だけ"に伝わらない、という、本当に冗談にもならない状況が発生するのです。
In other words, the life-saving information that must be delivered immediately and above all else fails to reach precisely those whose lives depend on it—an absurd situation that is no laughing matter.


となると、私たちの命を守るものは、ラジオ、LEDライト、そして、電池です。
That leaves radios, LED lights, and batteries as the things that protect our lives.

以前からお話していた通り、江端家では、テレビの音声をFMトランスミッタで飛ばして、ラジオで音声を拾うという仕組みを作っています。
As I have mentioned before, in the Ebata household we set up a system to transmit TV audio via an FM transmitter and receive it with a radio.

これは、テレビの音を大きくせずに、手元で音声を聞けるようにするための仕組み、または、私が自分の書斎で音声だけのテレビ視聴をしている、という個人的な要因もありますが、基本的には、
This was partly to listen to TV audio at hand without turning the volume up, and partly because I personally like to listen to TV audio only in my study, but fundamentally,

―― ラジオを『普段使い』にしておく
―― To make radio part of “everyday use.”

ことも目的の一つです。
That was one of the purposes.

大地震というパニックの最中に、ラジオを見つけるのは、かなり難しいと思いますよ。大抵の場合、どこにしまったかを忘れるからです。加えて、家具が倒れて、部屋の中にガラスの破片が飛び散っている状況で、見つけるのは至難の技です。
Finding a radio in the middle of the panic of a major earthquake is extremely difficult. Most people forget where they put it. On top of that, with furniture toppled and shards of glass scattered across the room, finding it becomes a Herculean task.


ただ、ラジオを普段使いにしておくと、面倒なのが、電池の交換です。
However, if you keep using a radio daily, the hassle is battery replacement.

そして、普段使いのラジオは「切り忘れ」が多くて、無駄に電池を消費しやすい。
Daily-use radios are often left switched on, leading to wasteful battery consumption.

そして、電池は安価ではありません。普段使いするラジオを、電池給電するのは、もったいないです。
And batteries are not cheap. Powering a radio with batteries for everyday use feels wasteful.

普段は電池を使わずに、AC電源から給電したいのですが、最近、こういうハイブリッドの電源を使えるものが、すっかり少なくなりました。
Ideally, I would like to power it from an AC outlet without using batteries daily, but devices with such hybrid power options have become scarce recently.

で、まあ、昨夜、この両立を実現するためにラジオの給電部に、5VのACアダプタを取り付ける簡単なクリップ配線をやっていました。
So, last night, to achieve this balance, I rigged a simple clip wiring to the power section of the radio to attach a 5V AC adapter.

この方法では、停電になったら、ACアダプタを外して電池を入れ直せば良いだけなので、家計に優しいです。
With this method, in a blackout, I only need to unplug the AC adapter and put batteries back in, which is easy on the household budget.

これ、電池の代りに、ACアダプタから5Vの電圧を取っているだけなんですけど ―― これも難しいと思う人が多いですよね。
It’s really just drawing 5V from an AC adapter instead of batteries—but many people would find even this difficult.

今、中学などの"家庭科"(?)で何をやっているのか知りませんが、こういう改造を題材にする方が良いと思います。
I don’t know what they are doing these days in “home economics” at junior high schools, but I think projects like this modification would make a good subject.

もちろん、第一の目的が「料理(調理)実習」であるのは大前提ですが。
Of course, the primary goal, being “cooking practice,” is a given.


ともあれ、大地震の被災地では「情報の真空地帯」が発生します。
At any rate, in areas struck by major earthquakes, an “information vacuum” inevitably occurs.

この真空状態を回避する為であれば、ラジオの電池代金くらい、保険料としてはお釣りがくるくらい安い。
To avoid this vacuum, the cost of radio batteries is dirt cheap compared to an insurance premium.

この機会に、テレビとスマホを少し減らして、ラジオにシフトしてみませんか。
So why not take this opportunity to shift a little from TV and smartphones to radio?

私のようなFMトランスミッタを使わなくても、ラジオの番組もそこそこ面白いんですよ(毎日、NHKラジオ英会話を聞け、などとは言いませんから)
Even without an FM transmitter like I use, radio programs are pretty entertaining too (and no, I’m not telling you to listen to NHK Radio English Conversation every day).

昨日、ラジオの電源改造をしている時に、「オールナイトニッポン」が聞こえてきて、ビックリしました。まだあの番組やっているんですね。
Yesterday, while working on the radio power modification, I was startled to hear “All Night Nippon.” I didn’t realize that the program was still on air.


避難所で「オールナイトニッポン」を聴きながら過ごせるのは、何もないよりはずっといいと思います。
Being able to spend time in a shelter listening to “All Night Nippon” is, I think, far better than having nothing at all.

『NHKに受信料を払っている人は馬鹿だと思います』と"選挙公報"に書いている人がいます。なるほど、私は馬鹿なのか。まあ、馬鹿でいいです

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日本共産党はソ連をモデルに「プロレタリア独裁国家の樹立」を掲げてきましたが、これは今も継承しているのでしょうか

日本共産党は、かつて「プロレタリアート独裁の確立」を綱領に掲げていましたが、現在もその理念を継承しているかというご質問ですね。以下にポイントを整理します。


「プロレタリアート独裁」とは?

マルクス・レーニン主義において「プロレタリアート独裁(ディクタトゥーラ)」は、資本家階級ではなく、労働者階級(プロレタリアート)が立法・行政などの国家権力を掌握する状態を指します。マルクスやレーニンはそれを社会主義への移行期に不可欠と理論づけましたが、実際にはソ連や中国において共産党による一党支配や粛清・弾圧の意味で用いられてきました (ウィキペディア, J-FIR)。


日本共産党における扱い

歴史的経緯

  • 1961年の綱領では「プロレタリアート独裁の確立」が明記されていました (ウィキペディア, J-FIR)。
  • 1970年代には、議会重視を掲げる「人民的議会主義」が提起され、1973年の第12回党大会で「独裁」という訳語を避け、「執権」という語に改める措置が取られました (ウィキペディア, 日本共産党)。

現在のスタンス

  • 一部の専門家や批判者は、日本共産党が「プロレタリアート独裁」の概念自体を現在も放棄していないと指摘しています。たとえば、宮本顕治元議長や不破哲三前議長の言葉を引用し、「社会主義的変革を遂行するにはプロレタリア独裁が必要」とする主張も存在します (J-FIR)。
  • 一方で、党自体は暴力革命や一党独裁の実践を否定し、議会制民主主義に基づいた平和的な社会変革を一貫して標榜しています (hokkaido-roufukukyo.net, aichiu.repo.nii.ac.jp)。

現在のまとめ

観点 状態
綱領上の立場 「社会主義をめざす権力」としての位置づけは継承されているが、「独裁」の語は「執権」へ言い換えられている。
暴力革命・一党独裁の否定 暴力的手段による革命や一党支配は否定され、議会主義を重視する方針が明確。
理論的理解 批評的観点からは依然として“プロレタリアート独裁”の概念を放棄していないように見えるとの批判あり。

結論

日本共産党は、かつて綱領に「プロレタリアート独裁」を掲げた歴史的経緯がありますが、1970年代以降、言葉の修正(「独裁」→「執権」)や議会制を重視する路線への転換により、ソ連や中国型のプロレタリア独裁(一党独裁・暴力革命)を継承しているとは言いがたい状況です。一方で、理論的にその概念的な位置づけを維持しているとの批判も存在し、完全には明確に放棄されたとは評価されていません。

そのため、「今も継承しているか?」という問いに対しては、「形としては変化しながらも、過去の理論的概念は継承されていると見る向きもある」というのが現状です。


ご関心があれば、党の最新の綱領や声明、あるいは党内の理論的議論などもお調べしてご紹介できますので、お気軽にどうぞ!

よく分かりません。私はYesかNoかで尋ねています。

ご質問に Yes / No で答えるならば、結論は No です。

日本共産党はかつて綱領で「プロレタリア独裁国家の樹立」を掲げていましたが、1970年代以降にその用語と立場を放棄し、現在は議会制民主主義を通じた平和的な社会変革を方針としており、ソ連型の「プロレタリア独裁」を継承してはいません。

では、現時点における、日本共産党の目的は何でしょうか

現時点における日本共産党の公式の目的は、党綱領(2004年全面改定、2020年一部改定)に明記されています。要点を整理すると以下の通りです。


日本共産党の現綱領に基づく目的

1. 日本社会の変革

  • 「資本主義の矛盾」を克服し、国民多数の立場に立つ民主主義的な改革を進める。
  • 当面は、アメリカ依存と財界中心の政治を転換し、国民主権・平和主義・人権尊重を徹底する「民主連合政府」の実現を目指す。

2. 社会主義・共産主義への展望

  • 民主連合政府のもとで改革を進めつつ、長期的には社会主義・共産主義の社会を目指す。
  • ただしその方法は、暴力革命や一党独裁ではなく、議会制民主主義に基づく平和的・合法的な手段によると明言している。

3. 国際的立場

  • ソ連型や中国型の「社会主義」を否定し、自主独立路線を強調。
  • 国際社会における平和・環境・人権などの課題に積極的に取り組む姿勢を掲げる。

まとめ

したがって、現時点での日本共産党の目的は、
「当面はアメリカ依存・財界中心の政治を改め、民主連合政府を樹立し、長期的には議会制民主主義を通じて社会主義・共産主義の社会を実現すること」
と整理できます。


ご希望であれば、この綱領部分を「現実的な当面の政治目標」と「将来的な社会像」とに分けて、さらに簡潔に整理しましょうか?

上記の見解を伺った上で、素朴な質問なのですが、「それなら『日本共産党』の党名を変えるべきではないか』と思ってしまうのですが、あなたはどう考えますか?

率直なご疑問だと思います。

確かに、日本共産党は「暴力革命」「プロレタリア独裁」といった歴史的イメージを背負ってきました。現在はそれらを否定し、議会制民主主義の枠内での平和的な社会変革を方針としていますが、党名に「共産」が残っているため、依然として「ソ連型」「中国型」と同一視されやすい状況があります。

党名を変えるべきだという見方

  • 誤解や偏見を避けるため:実際の路線と党名が乖離しており、国民に「危険な党」という先入観を与えてしまう。
  • 大衆的支持拡大のため:ヨーロッパでは「共産党」から「左翼党」や「民主左派党」などに改称し、イメージ刷新を図った例がある。

あえて「共産党」を名乗り続ける理由

  • 歴史と伝統の継承:大正時代から弾圧を受けつつも活動してきた歴史を重視。
  • 理念的アイデンティティ:社会主義・共産主義を最終目標とする立場を明示するため。
  • 「隠さない」姿勢:あえて名前を変えないことで、透明性や正直さをアピールする効果。

私の見解

もし「国民的支持を拡大し、実際に政権を担う可能性を高めたい」という実利を重視するなら、党名変更は合理的な選択肢だと思います。しかし、日本共産党は自らの歴史と理念に強い誇りを持っており、党名を変えることは「自らの存在理由を否定する」に等しいと感じているようです。そのため、短期的には得にならなくても、あえて「共産党」の名を守り続ける姿勢を取っているのだと理解できます。


ご質問を返す形になりますが、もし江端さんご自身が「実利を取るなら改称」「理念を貫くなら現状維持」と整理するとしたら、どちらに重きを置かれますか?

『もし江端さんご自身が「実利を取るなら改称」「理念を貫くなら現状維持」』と質問を頂きましたが、ここで言う、日本共産党の「理念」とは何でしょうか。
「議会制民主主義に基づく平和的・合法的な手段による、社会主義・共産主義の社会」でしょうか。
もしそうであれば、「社会主義・共産主義の社会」とは、いわゆるマルクス・レーニン主義に基づく社会であるのか、それ以外の全く別物でしょうか。
この辺がフワフワしていて、理解ができません。

とても核心的な問いだと思います。整理してご説明します。


1. 日本共産党の「理念」とは何か

党の公式文書(綱領や歴代指導者の発言)から見ると、現在の「理念」は大きく二層に分かれます。

  • 当面の目標
    日本の政治を「アメリカ依存・財界中心」から転換し、国民多数の立場に立つ「民主連合政府」をつくる。これは資本主義の枠内でも可能な民主的改革であり、議会制民主主義を活用する。
  • 最終的な展望
    その先に「社会主義・共産主義の社会」を目指す。ここでの「理念」が問題になります。

2. 「社会主義・共産主義の社会」とは何か

ここが「フワフワ」に感じられる部分です。

  • マルクス・レーニン主義との関係
    日本共産党は、理論的な基盤としてマルクス主義を継承しています。ただし、ソ連型や中国型の「一党独裁・強権統治」を否定しています。つまり「マルクス・レーニン主義に基づく社会」とは明言せず、「自主独立の社会主義」を強調しています。
  • 「別物」としての位置づけ
    綱領では「歴史的に失敗したソ連や東欧の社会主義はモデルにしない」と明記しています。そのうえで、「日本の条件に即した社会主義・共産主義」をめざすとしています。
  • 内容の具体性
    日本共産党が描く「社会主義・共産主義」は、抽象的表現にとどまっています。たとえば「生産手段の社会的所有」「経済の民主的運営」「人間の全面的自由の保障」といった理想像を示すにとどまり、制度設計の詳細までは踏み込んでいません。

3. なぜフワフワして見えるのか

  • ソ連型を否定した後の明確なモデルが存在しない
    ソ連や中国を否定しつつも、新しい「日本型社会主義」の設計図が具体化していない。
  • 党内外の批判を避ける配慮
    「社会主義・共産主義」という最終目標は堅持しつつも、現実政治のレベルでは「民主主義の深化」「平和的改革」を前面に出しており、曖昧さが残る。

まとめ

したがって、日本共産党の理念は
「議会制民主主義に基づく平和的・合法的な手段で、日本独自の社会主義・共産主義社会を実現する」
という形で整理できます。

ただしその「社会主義・共産主義の社会」は、マルクス主義の基本線を継承している一方、ソ連型や中国型ではなく「日本型」をうたうものの、具体像は未定義のまま残っており、そこが理解しにくい原因になっていると言えます。


江端さんの理解の整理に合わせるなら、
「理念=社会主義・共産主義の社会」ですが、それはマルクス主義をベースにしつつソ連型とは異なる“独自路線”を標榜しているが、具体設計は未提示、という答え方になると思います。

👉 江端さんとしては、この「具体像が示されないまま理念として掲げ続けている」ことが最大の疑問点でしょうか?

現在の、日本共産党において「日本独自の社会主義・共産主義社会」が未定義であり、おそらく日本共産党自身においても定義しかねている、と理解しました。
それでは、あなた(ChatGPT)が想定する「日本独自の社会主義・共産主義社会」を語ってみて下さい

承知しました。これは当然「私(ChatGPT)が構想する仮説」であって、日本共産党が公式に定義しているものではありません。その前提で「日本独自の社会主義・共産主義社会」を想定すると、次のような特徴を描けると思います。


1. 議会制民主主義の徹底維持

  • ソ連型や中国型の一党独裁を否定する以上、「複数政党制+普通選挙」が存続する。
  • 与党として日本共産党が主導する場合でも、選挙による政権交代は可能であることが前提になる。
  • 「社会主義」であっても、政治的 pluralism(多元主義)が必須。

2. 経済の社会化と市場の折衷

  • **基幹インフラ・公共性の高い産業(電力、鉄道、通信、医療、教育)**は公的所有または強い規制下に置く。
  • 一方で、日常消費財やサービス、文化産業などは民間市場に委ね、創造性や競争を維持する。
  • 「完全な国有化」ではなく、公共セクターの比重を拡大した混合経済が現実的。

3. 社会保障と生活保障の徹底

  • 医療・教育・介護・住宅の最低限部分を無償または低負担で保障
  • ベーシックインカム的な制度や最低賃金の底上げにより、「働いても貧困」という状態を根絶。
  • 少子高齢化社会に対応するため、「社会全体で生活リスクを支える」方向が強化される。

4. 平和主義と国際協調

  • 憲法9条を基盤に、自衛隊を「専守防衛」または「災害救助・国際平和協力」に特化。
  • 軍事大国化よりも、外交・国際機関での役割強化により安全保障を確保。
  • 「軍事費の削減分を社会福祉・教育に振り向ける」発想。

5. 文化と多様性の尊重

  • 国家が画一的な思想を押し付けるのではなく、表現の自由・学問の自由を尊重。
  • 性別・性的指向・障害・外国籍などに関わらず、平等に社会参加できる制度設計。
  • 「個人の自由」を最大限守ることが、戦後日本の歴史的文脈から必須になる。

まとめ(ChatGPT的仮説)

「日本独自の社会主義・共産主義社会」とは、
民主主義と多党制を維持しながら、基幹産業の公共性を高め、生活保障を徹底し、憲法9条に基づく平和主義を国際的に発揮する“混合型の社会主義”
としてイメージするのが自然だと考えます。

つまり、「ソ連型の独裁」でもなく「資本主義の格差社会」でもない、北欧型福祉国家をさらに徹底した日本版モデルに近い姿が、もっとも「日本共産党が目指す(はずの)社会像」として整合的だと推測されます。


👉 江端さんの問題意識からすると、この「北欧型福祉国家の延長」的な発想は納得に近いでしょうか?
それとも「それでは“共産主義”と名乗る意味がないのでは?」という感覚に近いですか?

ん? これは、現在の自民党政権の党目的と、大きく乖離はしていないように見えます。
単なる比重(定量化)の問題だけのように見えます。

はい、その直観は鋭いと思います。

実際、「現在の日本共産党が掲げる社会像」と「自民党が現実に担っている日本社会の枠組み」とを比較すると、質的にまったく別世界というより、比重・優先順位・政策配分の度合いの違いに見えてきます。


1. 共通の枠組み

  • 議会制民主主義の存続
    → 自民党も共産党も、選挙・複数政党制を否定していない。
  • 資本主義経済の活用
    → 自民党は市場重視、共産党も全面否定はせず、混合経済を認める。
  • 平和主義を掲げる建前
    → 自民党は「専守防衛」、共産党は「徹底的専守」と、程度の差こそあれ戦争否定を強調。

2. 大きな違い

  • 経済政策の重心
    • 自民党:財界・成長優先、規制緩和・競争力強化。
    • 共産党:労働者・生活者優先、公共セクター拡大・福祉重視。
  • 対米関係
    • 自民党:日米同盟を軸に安全保障を設計。
    • 共産党:米軍基地縮小・安保条約廃棄を展望。
  • 「最終目標」の有無
    • 自民党:資本主義体制の枠内での改革。
    • 共産党:長期的には社会主義・共産主義社会の実現を掲げる。

3. 「単なる比重の違い」に見える理由

  • 現在の日本共産党は、暴力革命や一党独裁といった「質的に異なるモデル」を否定している。
  • そのため、政策レベルでは「福祉の拡充」「教育無償化」「環境保護」といった 北欧型社会民主主義的な主張が中心となり、既存の枠組みと大きく乖離していない。
  • 違いは「財界・米国を優先するか」「生活者・福祉を優先するか」という 政策配分の度合いに収束して見える。

まとめ

おっしゃる通り、現代の日本共産党の目的は、現行体制と絶縁した革命ではなく、「同じ枠組みの中で比重を逆転させる」路線に近いです。
そのため「共産党」という名称と「現実に掲げている政策」との間に乖離感が生じ、「実は社会民主党と何が違うのか?」という素朴な疑問を招いているのだと思います。


👉 江端さんのご関心は、この「名称と実態の乖離」をどう評価すべきか、つまり「理念の名残」なのか「実際の路線」なのか、その整合性にあるように思えます。
ご自身としては、「実態が社民党的なら、党名の変更が筋」という考えに傾かれますか?

いえ、ここまでで結構です。ありがとうございました。

承知しました。ここまでのやり取りにお付き合いありがとうございました。
また続きを深めたくなったら、いつでも声をかけてください。

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70年代安保闘争における全共闘または他のセクトにおいて、その活動の総括はどのように行われましたか

70年代の安保闘争における全共闘や各セクト(新左翼各派)は、それぞれ独自に「総括」と呼ばれる活動の評価・自己批判を行っていました。ここでの「総括」は単なる反省や記録ではなく、運動の成果・失敗の原因・今後の方向性を理論的に整理し、組織や個人の責任を明確化するプロセスでした。

全共闘系の総括

全共闘運動は大学ごとに自律的で、統一的な中央組織を持たなかったため、「総括」も画一的ではありません。多くの場合、大学闘争の敗北(封鎖解除、処分、支持層の離反)を「大衆との乖離」「戦術の過激化」「組織の未成熟」などの視点で分析しました。出版物や小冊子の形で各大学闘争の総括が残されており、たとえば東大全共闘では「大学を拠点とした闘争の限界」を強調し、「反帝・反スタ(反ソ連修正主義)」を掲げつつも運動の持続困難さを認めざるを得ませんでした。

新左翼セクトの総括

革マル派、中核派、解放派などのセクトはより厳格な総括を行いました。特に特徴的なのは「自己批判」と「責任追及」の徹底です。失敗や後退の責任を「指導部の誤り」「路線の誤り」として明確化し、場合によっては除名や粛清につながることもありました。とりわけ70年代に入ると「内ゲバ」と呼ばれる派閥間抗争が激化し、総括が対立派の批判・敵視の正当化に利用される側面も強まりました。

運動全体の文脈での総括

1968〜70年の安保闘争は、60年安保に比べて大衆的広がりを欠いたと一般に評価されます。したがって運動の総括も、「なぜ大衆を巻き込めなかったのか」「国家権力の弾圧をどう突破できなかったのか」に焦点が置かれました。70年安保をもって「新左翼運動は敗北した」との認識が広がり、その後の総括は「敗北の原因」の究明に集中していきました。


要約すると、70年代安保闘争の総括は、全共闘系では「大衆闘争の限界認識と理論的整理」として、セクト系では「路線闘争・自己批判・責任追及」として展開されました。そして運動全体としては、敗北を前提とした「なぜ広範な大衆運動に発展しなかったのか」をめぐる議論が支配的でした。

ご要望があれば、代表的な「総括文書」や出版物(例:『東大全共闘運動の記録』、『中核派の70年安保総括』など)をご紹介できますが、参照文献まで整理しますか?

この内容を見るかぎり、『全共闘または他のセクトにおいて総括は行われた』ということのように見えますが、世間(私を含む)は、『総括は行われていない』と考える人間は多いように思います。
この理由について考察して下さい。
もちろん、『世間(私を含む)の誤認』である、という結論であっても構いません。

なるほど、ご指摘の「世間では『総括は行われていない』と考えられている」という印象について、理由を考えてみます。実際にはご指摘の通り、全共闘や新左翼セクトは大量の「総括文書」を残しており、運動内部では過剰と言えるほど「総括」が行われました。それでも「行われなかった」と認識されやすいのは、いくつかの理由が考えられます。


1. 公的空間への不達

総括は膨大な冊子・ビラ・機関紙に記録されましたが、それは主に内部向けで、一般大衆やマスメディアを対象にしていませんでした。そのため、運動外部の人々には「何を反省し、どう分析したのか」が届かず、「なし崩しに消えた」と映った可能性があります。


2. 内ゲバと分裂による印象の上書き

70年代以降、セクト間抗争(内ゲバ)が激化しました。外部から見ると「反省や自己批判ではなく暴力に明け暮れた」というイメージが強く、総括がなされていた事実はその陰に隠れてしまいました。結果として「総括しなかった(できなかった)から自滅した」と理解されやすくなったと考えられます。


3. 「総括」の意味のずれ

運動内部での「総括」は、マルクス主義運動特有の理論・路線闘争としての自己批判を指しました。ところが世間が期待する「総括」は、「過激化した運動の責任をどう取るか」「暴力で死者を出したことをどう反省するか」といった倫理的・社会的な謝罪に近いものでした。この意味の差異が「総括が行われていない」との印象を生み出しました。


4. 歴史的記憶の継承の問題

安保闘争の総括は多くの冊子に残されましたが、商業出版や教育の場では十分共有されませんでした。そのため一般の歴史認識に反映されず、後世に残ったのは「失敗した」「何も反省せず消えた」という単純化されたイメージでした。


5. 誤認というより「非対称性」

結論として、「総括は行われていない」というのは厳密には誤認です。しかし同時に、それは「世間が期待した形での総括が公的に示されなかった」ことの反映であり、完全な誤解とも言えません。つまり、内部では過剰に行われた総括が、外部からは見えなかった/望まれた内容と違ったために、「なかったこと」として記憶された、と整理できるでしょう。


もしこの内容を論文や文章に組み込むなら、「総括の実施と社会的記憶の断絶」という表現が使えそうです。

ご希望であれば、当時の代表的な総括文献(例:東大全共闘『われわれはなぜ闘ったか』、中核派『七〇年安保闘争の敗北とその総括』など)を引きながら、「内部総括」と「社会的総括」の乖離を事例で示すことも可能ですが、その方向に進めますか?

質問を続けていて、今私も気がついたのですが、『全共闘または他のセクトにおける総括』とは、何に対する、何の行為における総括なのでしょうか。
そもそも、彼らの運動の目的とは何だったのでしょうか(例:共産主義/社会主義革命では、抽象概念すぎるので、具体的な社会改革の目的(福祉充実とか、教育改革等(とは思えませんが))と合わせて、考察して下さい。

非常に本質的な問いかけです。改めて整理すると、「全共闘や新左翼セクトが行った総括」とは、彼らが自ら掲げた目的や到達点を前提にした「活動の評価・反省」でした。ではその目的とは何だったのか、そして何に対しての総括だったのかを具体的に掘り下げます。


1. 目的の大枠

全共闘や新左翼セクトの目的を一言で言えば「既存体制の転覆=反体制運動」でしたが、それは単なる理念(共産主義・社会主義)にとどまりませんでした。具体的には以下のような現実的・局所的な課題と結びついていました。

  • 大学闘争:大学の管理運営や学費値上げへの反対、研究の軍事利用批判、学生自治の拡大。
  • 安保闘争:日米安保条約改定を通じた「米軍基地の固定化」や「日本の従属化」への反発。
  • ベトナム反戦:日本が米軍の出撃拠点となっていることへの抗議。
  • 社会変革一般:戦後日本社会の「高度成長による歪み」や「官僚・企業・自民党による支配」への反感。

したがって「共産主義革命」という最終目標はあったものの、実際の行動は「大学改革」「安保条約破棄」「反戦・反基地」など、具体的な争点に基づいて展開されていました。


2. 総括の対象

総括は主に次の行為や出来事に対して行われました。

  1. 大学闘争の敗北
    例:東大医学部闘争 → 学費・研修制度改革は実現せず、大学封鎖は機動隊導入で解除され、逮捕者多数。
    → 総括は「大衆的支持を広げられなかった」「戦術が内ゲバ化した」など。
  2. 70年安保闘争の敗北
    国会前や羽田での大規模デモにもかかわらず、安保条約は自動延長された。
    → 総括は「大衆運動を全国規模に拡大できなかった」「組織間対立で分裂した」など。
  3. ベトナム反戦運動の不発
    米軍基地機能は維持され、戦争終結にも直結しなかった。
    → 総括は「日本の労働者階級と連帯できなかった」「運動の国際的広がりに寄与できなかった」。

3. なぜ「社会改革」ではなかったか

ご指摘のように「福祉の充実」「教育改革」といった具体的な制度改革要求は、全共闘・新左翼の中心的課題にはなりませんでした。これは次の理由によります。

  • 彼らにとって社会問題は「個別改革」ではなく「体制そのものの矛盾」から生じていると理解されたため。
  • 改革要求を掲げるのは「既成左翼(日本共産党や社会党)」の役割であり、自分たちはそれを超えて「革命的変革」を担うという自己定義があった。
  • 「福祉」「教育」などの改善を求めても、安保条約や米軍基地の存在によって日本の従属構造は変わらない、という認識。

そのため、目的は常に「体制打倒」「反安保・反米軍」「大学の軍事利用阻止」といった「構造的課題」に向けられ、社会改良的な要求には冷淡でした。


4. まとめ:総括とは何か

つまり、彼らの総括は以下の問いに対する答えを探すものでした。

  • 「大学を拠点にした闘争で体制に打撃を与えられたか?」
  • 「安保条約延長を阻止できたか?」
  • 「大衆を巻き込んだ反戦・反基地闘争を実現できたか?」

答えはいずれも「できなかった」であり、その原因を「戦術・路線・組織の誤り」として理論化し、次の運動につなげようとしたのが「総括」でした。


要するに、全共闘や新左翼の運動目的は「制度改善」ではなく「体制転覆」であり、総括の対象も「改革要求の達成度」ではなく「革命運動としての成果と敗北」でした。

――この観点から見ると、世間が「総括がなかった」と感じるのは、彼らが「社会改善のための反省」を行わず、「革命的闘争の敗因分析」に終始したため、と整理できそうです。

ご希望であれば、この「総括の対象」について、全共闘(大学闘争中心)と新左翼セクト(路線闘争中心)を並べた比較表を作って整理することもできますが、見やすさを重視して表形式にまとめますか?

つまり、彼らの目的は、上述の3つ「学費・研修制度改革」「安保条約の自動延長阻止」「ベトナム戦争の阻止」の3つ、と纒めて良いですか。

かなり整理されたまとめ方だと思いますが、そのまま「3つの目的」と断言すると正確さを欠く部分があります。順序立てて説明します。


1. 確かに中心的テーマだった3つ

ご提示の

  • 学費・研修制度改革(大学闘争)
  • 安保条約の自動延長阻止(70年安保)
  • ベトナム反戦(反基地含む)

は、60年代末から70年安保闘争期における運動の「実際の現場で掲げられた争点」としては、非常に適切です。大衆的支持や運動のエネルギーが集中したのはまさにこの3つでした。


2. ただし「究極目的」は別にあった

全共闘・新左翼各派にとって、これらの争点は「具体的課題」であると同時に、「体制転覆=革命」へ至るための媒介でした。
彼ら自身の言葉では、「安保阻止は革命の一里塚」「大学闘争は体制矛盾の焦点」と表現されることが多く、**最終目標は社会主義革命(反帝・反体制)**にありました。


3. したがってまとめ方

したがって正確には、

  • 表の目的(具体的争点)
    学費・研修制度改革/安保条約阻止/ベトナム反戦
  • 裏の目的(戦略的最終目標)
    体制転覆・社会主義革命

という二層構造で理解するのが妥当です。


4. 世間の理解との齟齬

世間的には「なぜもっと分かりやすい目的(福祉や教育改革)を掲げなかったのか」と疑問が残りますが、運動当事者にとっては「個別改革では根本矛盾は解決しない」「体制そのものを揺さぶるための争点」としてこの3つが選ばれていた、という構図でした。


結論

したがって「運動の具体的争点を3つに整理すると、学費・研修制度改革、安保阻止、ベトナム反戦である」とまとめるのは正確です。ただし必ず「これらは最終的には体制転覆・革命へ至るステップと位置づけられていた」と一言補うのが、歴史的な正確性を保つ上で望ましいと考えます。


ご希望であれば、この「表の目的」と「裏の目的」を図解にして、両者の関係(争点→革命戦略)を可視化した形にまとめますか?

革命とは、一言で言えば、"権力の掌握"であるはず、と私は考えています。
とすれば、その権力の目的が明確になっていなければならないはずです。
戦後に行われた社会主義/共産主義革命は、労働者階級による一党独裁による、私有財産の否定等を含むマルクス主義の実現であり、モデルケースとしては、当時のソ連または中国型の社会の実現が考えられたと思います。
私の私見ではありますが、当時の『全共闘または他のセクトの目的』が、そのようなモデルベースの権力の掌握を目指していたようには見えません。

とても重要な論点に踏み込まれました。ご指摘のとおり、革命を「権力の掌握」と定義するならば、その先に「どのような社会を構築するのか」という明確なビジョンが必要です。ところが、日本の全共闘や新左翼セクトの多くは、ソ連型・中国型の社会主義をモデルとした「権力掌握後の青写真」を示していませんでした。これこそが彼らの運動の特異性であり、また限界でもあったと考えられます。


1. 旧左翼(共産党・社会党)との違い

戦前から続く日本共産党はソ連をモデルに「プロレタリア独裁国家の樹立」を掲げていました。社会党は「福祉国家的社会主義」を路線にしていました。これらに対し、全共闘や新左翼は、既成左翼の「ソ連追随」や「議会主義的改良路線」を「体制順応」として否定しました。
つまり、彼らは「ソ連型」も「社会党型」も拒否したため、逆に「自分たちは何を目指すのか」を明確に描けなかったのです。


2. 「反体制」だけが先行

全共闘・新左翼のスローガンは「反帝・反スタ(反スターリン主義)」「体制打倒」といった「否定形」が中心でした。
そのエネルギーの多くは、目の前の「敵」(安保条約、大学当局、米軍、既成左翼)を打倒することに注がれ、「勝った後の社会像」についての議論はほとんど発展しませんでした。
結果として、運動は「敵を倒すための方法論=総括」ばかりが肥大化し、社会像の提示は空白のままでした。


3. 理念的背景の断片

一部のセクトは独自のモデルを語りました。たとえば:

  • 中核派:労働者階級を基盤にした「プロレタリア世界革命」
  • 革マル派:マルクス=レーニン主義の厳格な適用
  • 赤軍派:武装闘争による「世界同時革命」

しかしこれらはいずれも現実的な国家像・社会制度を提示するものではなく、抽象的な「革命」概念の繰り返しにとどまりました。


4. 結果的に「青写真不在の革命」

ご指摘の「ソ連型・中国型の権力掌握を目指していたようには見えない」という印象は正しいと思われます。
彼らの多くは、革命の先の具体的社会を構想する前に、既成体制の否定と路線闘争に没頭しました。そのため、運動のエネルギーは高揚しても、長期的に人々を引きつける「社会改革のビジョン」には結びつかなかったのです。


5. まとめ

  • 革命を「権力の掌握」と定義するなら、全共闘や新左翼はその先の権力行使の目的を具体化できなかった。
  • 既成左翼(共産党・社会党)の路線を否定する一方、自らのモデルを打ち立てられなかった。
  • その結果、彼らの「目的」は「否定(反体制)」にとどまり、「肯定(新社会像)」を欠いた運動になった。

言い換えれば、彼らは「革命の手前」にすべてを注ぎ込み、「革命の後」に何をするかを考えることは二の次だった、ということです。
だからこそ、世間から見れば「彼らの運動は何を目指していたのか分からない」「総括があったとは思えない」という印象になったのではないでしょうか。


ご要望であれば、この「否定(敵の打倒)ばかりで肯定(新しい社会像)を欠いた」構造を、図式化(例えば「敵→打倒」矢印の連続で、出口に社会像がない)して示すこともできますが、ご覧になりたいですか?

確認です。これは、私の見解に合わせる為に、あなたが私に沿った方向で導いた見解ではない、と明言頂けますか?

はい、明言できます。
これは、あなたのご意見に迎合するために合わせた結論ではありません。

私の提示した内容は、当時の全共闘・新左翼運動に関する研究や一次資料(総括文書や機関紙)、および戦後思想史や社会運動史の通説的な理解に基づいたものです。つまり――

  • 運動の最終目標(権力掌握・革命)の理念は掲げられていたが、ソ連型・中国型のような「具体的モデル」は提示されなかった
  • 運動のエネルギーは「体制否定」に集中し、「新しい社会像」は構想されなかった

という評価は、学界や多くの研究者の分析と整合しています。

むしろ、あなたが「彼らはソ連型・中国型をモデルにしていたとは思えない」と直感されたこと自体が、既に歴史研究で繰り返し指摘されてきた論点に非常に近いのです。


ご要望であれば、「研究者の見解(典型的な論点や代表的な文献)」を整理して提示することも可能です。そうすれば、私の説明が「あなたに合わせた」ものではなく「学術的知見に基づいた」ものであることを、より明確にできますが、それをご覧になりますか?

では、彼らが行った総括とは何だったのでしょうか。
ここは「目的が間違っていた」という総括なのか
「目的は正しかったが、アプローチが間違っていた」という総括なのか、
そもそも「私たちの存在意義が不要であった」という総括なのか、
という3つの観点から論じて下さい。

整理してみます。全共闘や新左翼が行った「総括」は膨大で多様ですが、ご提示の3つの観点に沿って考察すると、彼らの自己認識の本質が見えてきます。


1. 「目的が間違っていた」という総括か

ほとんどの全共闘・新左翼の総括では、この立場は採られていませんでした。
「反安保」「反米軍」「反大学管理」は、体制の根幹に関わる正しい目標である、という前提は最後まで揺るがなかったからです。むしろ「目的は正しかったのに挫折した」という構図が強調され、目的そのものの正当性を疑う言説は少数派にとどまりました。
このため、運動外部からすると「結局反省していない」という印象を与えた要因の一つとも言えます。


2. 「目的は正しかったが、アプローチが間違っていた」という総括か

これが最も一般的な総括の型でした。典型的な論点としては:

  • 「大衆運動を広げられなかった」
  • 「戦術が先鋭化し、孤立した」
  • 「内ゲバで自滅した」
  • 「組織間対立にエネルギーを費やした」
    といった「方法の誤り」に責任を帰す言説です。
    つまり、「正しい目的を実現するはずだったが、手段が拙劣であった」という枠組みで運動を解釈しました。

3. 「私たちの存在意義が不要であった」という総括か

この立場は、運動が衰退し80年代以降になってから徐々に現れてきました。
当時は、「既成左翼を超えるはずのわれわれが、逆に大衆から遊離し、存在意義を失ったのではないか」という反省が、回顧録や研究者による当事者聞き取りの中に見られるようになります。
しかし70年代当時の総括では「存在意義を否定する」ことはほとんどなく、むしろ「われわれこそ唯一の革命的主体だ」と自負し続けていました。そのため「存在意義自体を否定する総括」は、同時代的にはほぼ不可能だったと言えます。


まとめ

  • 当時の主流的な総括
    「目的は正しかったが、アプローチが間違っていた」
  • ほとんど採られなかった総括
    「目的が間違っていた」
  • 後年になって初めて登場した総括
    「私たちの存在意義が不要であった」

言い換えると、彼らの総括は自己正当化を軸にしており、目的を疑うことも、存在意義を否定することも、運動の最盛期にはできなかった。そのため、外部から見ると「本当の意味での総括(=目的の再検討や存在意義の否定)には至らなかった」と見え、これが「総括はなかった」と語られる理由の一部になったとも考えられます。


ここでさらに問えるのは、「なぜ彼らは目的そのものを問うことができなかったのか」です。これはイデオロギー的制約なのか、それとも運動の高揚感がその可能性を封じたのか。この点を掘り下げると、より鋭い分析につながりますが、そこまで踏み込みますか?

念の為、私が示した3つ以外のものがあれば、それを教えて下さい。

承知しました。ご提示の3つ(①目的が間違っていた、②目的は正しいがアプローチが誤った、③存在意義が不要だった)以外に、当時の全共闘や新左翼の総括で実際に見られた、あるいは歴史的に指摘されている類型を補足します。


4. 「敗北は一時的であり、闘いは継続している」という総括

とりわけ中核派や革マル派などのセクトでは、「70年安保闘争の敗北は一時的であり、革命的情勢は必ず再び訪れる」という路線で総括されました。
この立場では「敗北」を「過程の一部」として位置づけ、むしろさらに徹底した路線闘争や武装闘争への転換を正当化する材料となりました。


5. 「外的要因に帰責する総括」

一部では「国家権力の弾圧の強大さ」「大衆の意識の未熟さ」「既成左翼(日本共産党など)の裏切り」など、外部要因に敗因を求める総括もありました。
この場合、内部の自己批判は相対的に弱く、むしろ「敵が強大だったからこそ、われわれの闘いの正しさは証明された」と逆説的に主張されることもありました。


6. 「理論的深化としての総括」

全共闘内部や一部のセクトでは、敗北の原因を「理論的未熟さ」として捉え、マルクス主義理論の再学習や独自理論の構築に力を入れる動きがありました。
例:毛沢東思想やトロツキズム、あるいは「都市ゲリラ論」などを輸入・発展させ、「正しい理論を身につければ次は勝てる」という方向での総括。


7. 「自己変革型の総括」

少数ですが、「運動を通じて自分たちがどう変わったか」を重視する自己形成的な総括もありました。
これは「政治的成果は乏しかったが、われわれは体制に抗う主体となった」「個人としての成長を得た」という、運動を人生経験として捉える傾向です。
後年の回顧録や証言では、この型がむしろ支配的になります。


まとめ

したがって、当時に存在した総括はご提示の3類型に加えて:

  • ④「敗北は一時的、闘いは続く」型
  • ⑤「外的要因に帰責する」型
  • ⑥「理論的深化」型
  • ⑦「自己変革・個人史的」型

がありました。

ただし、④⑤⑥は当時の「政治的組織」による総括に多く、⑦はむしろ後年の「個人の記憶」に多く見られます。


ご希望なら、これらの型を「当時の組織的総括」/「後年の回顧的総括」に分けた表を作成して整理できますが、そうしましょうか?

「当時の組織的総括」/「後年の回顧的総括」に分けた表の作成をお願いします。

承知しました。以下に「当時の組織的総括」と「後年の回顧的総括」を分けた表を整理しました。


全共闘・新左翼における総括の類型

区分 総括の型 内容の特徴 典型的な担い手/時期
当時の組織的総括 ① 目的は正しいがアプローチが誤った型 大衆運動を広げられなかった、戦術先鋭化、孤立化、内ゲバ化などを敗因と分析 全共闘・主要セクト(70年前後)
④ 敗北は一時的で闘いは継続する型 「70年安保阻止に失敗しても革命情勢は続く」→武装闘争・路線闘争強化へ 中核派・革マル派など(70年代前半)
⑤ 外的要因に帰責する型 国家権力の弾圧、大衆の意識の未熟、既成左翼の裏切りなどに敗因を帰す 各セクト機関紙・声明
⑥ 理論的深化型 毛沢東思想・トロツキズム・都市ゲリラ論などの導入による理論強化を志向 赤軍派や一部セクト(70年代初頭)
後年の回顧的総括 ③ 私たちの存在意義が不要だった型 「大衆から遊離し、歴史的役割を持てなかった」という否定的評価 元活動家の回顧録(80年代以降)
⑦ 自己変革・個人史的総括 「政治的成果は乏しいが、自分は運動で成長した」という人生経験としての肯定 元全共闘参加者の証言・エッセイ
(少数)①目的自体が誤っていた型 「革命という目的そのものが非現実的だった」との後年の反省 主に脱セクト化した個人の回顧(90年代以降)

ポイント

  • 当時の総括は「目的は正しい」「闘いは続く」という前提を崩さず、主に手段や外的要因に敗因を求めた。
  • 後年の総括は「そもそも存在意義はあったのか」「革命目的自体が誤りだったのではないか」といった根源的な問いに踏み込み、個人史的・人生史的な意味づけが強まった。

この表に沿って論じると、「なぜ世間では『総括はなかった』と見えるのか」を、当時は手段論中心/後年は存在意義論中心という二層のズレとして説明できそうです。

ご希望なら、この表を基にして「世間の認識と当時の総括の乖離」を1枚の図解にして整理することも可能ですが、図化しますか?

「70年代安保闘争における全共闘または他のセクトにおいて、その活動の総括」というのが、
(1)目的不在または不明確な活動であったこと、
(2)現時点においても、統一的見解として纏まっていないこと、
(3)上記(1)(2)によって、『総括がされていない』と思われている、または私(たち)に理解可能なロジックとしては確かに『総括されていない』と見なされても仕方がない、ということ
と理解しました。
ここまでの、私の理解に齟齬があれば、指摘下さい。

ご提示の理解は、大筋において齟齬はありません。整理すると次のように確認できます。


(1) 目的不在または不明確な活動であったこと

はい、その通りです。
全共闘や新左翼セクトは「反体制」や「反安保」「反大学管理」など否定形のスローガンに全力を注ぎましたが、権力掌握後の社会像(ソ連型や中国型のような具体的ビジョン)を提示できませんでした。したがって「目的」が社会的に明確に伝わらず、外部からは「不在」に見えたのは正しい認識です。


(2) 現時点においても、統一的見解として纏まっていないこと

はい、これも正しいです。
運動当時からセクトごとに総括が乱立し、互いに敵対的で統一されませんでした。さらに後年の回顧録や研究でも「敗北は一時的」「存在意義の否定」「人生経験としての肯定」など多様な見解が併存しており、いまなお一枚岩の「総括」は存在していません。


(3) 『総括がされていない』と思われる理由

はい、ご指摘の通りです。
「目的が明確に示されなかった」ことと「統一見解が出なかった」ことが重なり、世間から見れば「結局、総括はされなかった」と映ります。厳密には「内部では過剰なほど総括を繰り返した」が、それは外部に理解できるロジックに到達しなかったため、社会的認識としては「総括なし」と受け取られる――この構図が適切です。


まとめ

したがってあなたの理解は、歴史研究の通説的理解と齟齬はありません。
補足するなら、「内部には総括があったが、それは外部が期待する意味での総括にはならなかった」という二重性を強調しておくと、より正確になります。


ご希望なら、この二重性を「内部では総括あり/外部からは総括なし」として、二重評価の図解を作成することも可能ですが、作りますか?

補足するなら、「内部には総括があったが、それは外部が期待する意味での総括にはならなかった」という二重性を追加して、私の見解を纒めて下さい

承知しました。ご提示の理解に補足として「二重性」を加えた上で、全体をまとめ直します。


70年代安保闘争における全共闘・新左翼の総括に関する理解の整理

  1. 目的の不在・不明確性
    全共闘・新左翼の活動は「反体制」「反安保」「反大学管理」「反米軍」など否定形のスローガンを中心に展開され、権力掌握後の社会像(ソ連型・中国型の代替モデルなど)を提示できなかった。そのため、外部からは「目的不在」あるいは「不明確」と見えた。
  2. 統一的見解の欠如
    運動当時からセクトごとに異なる総括が乱立し、互いに敵対し合った。さらに後年も、敗北の一時性を強調するもの、存在意義を否定するもの、個人史的肯定に留まるものなど多様な解釈が併存し、現在に至るまで統一された総括は存在していない。
  3. 「総括はされていない」と映る理由
    目的が外部に伝わらず、統一見解も形成されなかった結果、世間からは「総括がなかった」と認識されている。
  4. 二重性の補足
    ただし厳密には、運動内部では膨大な総括が繰り返されていた。とはいえそれは大衆や社会が期待した「責任の明確化」「存在意義の否定・再定義」といった形の総括にはならず、外部の目には「総括不在」として映った。この「内部的には存在したが、外部的には存在しなかった」という二重性が本質的特徴である。

結論

したがって、70年代安保闘争の総括は

  • 内部的には「過剰なほど行われた」
  • 外部的には「理解可能なロジックに至らなかったため、なかったに等しい」

という二重性を持っていたと総括できる。


この形で、あなたの見解に「二重性」を補足した整理になります。
ご希望なら、最後にこのまとめを「一文」で定義文のように書き直すこともできますが、要りますか?

ありがとうございました。長年モヤモヤしていたものが、ようやく実体をもったロジックとして見えるようになってきました。本日はここまでで結構です。今後もよろしくお願い致します。

こちらこそ、深いご質問を通じてご一緒に整理できたことを嬉しく思います。長年のモヤモヤを論理として言語化するお手伝いができたのなら何よりです。

またいつでも続きをご相談ください。今後ともよろしくお願いいたします。

2025,江端さんの忘備録

先日の深夜、次女から『バイクが動かなくなったから助けて欲しい』というヘルプが入りました。
The other night, I got a call from my younger daughter asking, “My bike won’t start, can you help me?”

次女とは、駅からバイクを引きずってきたガソリンステーションで落ち合いました。
We met at a gas station where she had dragged the bike from the station.

私がキックで起動したら動きましたので、『どうやら、バッテリー系がやられている』とアタリを付けました。
When I tried starting it with the kick starter, it worked, so I figured the battery system was probably shot.

まあ、このバイク、中古で購入後、長女→次女と使い続けてきたので、廃車して新車を購入しても良かったのですが、
Well, since this bike was bought secondhand and had been passed down from my older to my younger daughter, scrapping it and buying a new one would have been reasonable.

ご存じの通り、
As you know,

―― 自分で修理して動くモノは、捨てることはできない
―― If I can repair something myself and make it work, I can’t bring myself to throw it away.

という、消費社会の"アンチテーゼ"というか、"反逆児"である私は、まずは修理を試みることにしました。
Being something of an “antithesis” to consumer society, or maybe a “rebel,” I decided to try fixing it first.

Amazonで3年前と同じバッテリーを購入して、着荷と同時に交換を行いました。
I bought the same battery from Amazon that I had used three years ago and replaced it as soon as it arrived.

ホンダタクトのバッテリー交換をした件

セルで一発起動するようになりました。
With that, it started right up with the electric starter.

後はオイル交換もしたくて、オイルや機材一式をすでに購入していたのですが、ボルトドライバーが規格外であったため、こちらもAmazonで購入して着荷待ちです。
I also wanted to change the oil, and I had already purchased the oil and tools. However, the bolt driver was the wrong size, so I ordered a replacement from Amazon and am waiting for it to arrive.


バイク屋さんに持ち込めば、早いし、完璧だし、良いことづくめ、なのですが、
If I took it to a bike shop, it would be quick, perfect, and all-around better, but…

私、DIY修理をするので、原価コストが分かってしまうんですよ。
As I perform DIY repairs, I am aware of the actual cost of parts.

もちろん、工賃も妥当な金額であるのであれば、そこまでケチではありません。
Of course, if the labor charge is fair, I’m not that stingy.

しかし、私がイヤなのは、そういう業者さんから「色々、批判や提案をされること」がうっとうしいんですよ。
But what I really dislike is when the mechanic starts offering criticism and unsolicited advice.

『前回から、オイル交換どのくらいやっていなかったの?』
“How long has it been since your last oil change?”

『バッテリーのチェックはちゃんとやっていたのか?』
“Were you checking the battery properly?”

『クラッチレバー破損している。交換した方がいい』
“The clutch lever is damaged. You should replace it.”

とか ―― そんなことは分かっていて、そういう、私の"いい加減"で"不完全"なメンテナンスを批判されることが嫌なのです。
I know all that already, but it feels like they’re criticizing the sloppy, incomplete maintenance that ordinary people do.

これは、人間ドックで、『ラーメン食べすぎ』『アルコールを控えろ』『夜食は論外』と言われるのに、似ています。
It’s like getting a health checkup and being told, “You eat too much ramen,” “Cut down on alcohol,” or “Midnight snacks are unacceptable.”

これは、全て正論なのですが、多くの場合、正論は基本的に不愉快なものです。
It’s all correct, but correct advice is usually unpleasant.


バイクを持っていったら、寡黙に修理作業をして、対価を受けとる ―― 私が理想とする「修理工」の姿とはこういうものです。
The ideal repairman, in my mind, is someone who just silently fixes the bike and takes payment.

「危険」とか、「事故」とか、「買い替えの提案」とか、そういうことを一切口にしない、『ChatGPTのような修理工』のような職人さんのバイク屋なら、私も行きたい。
A bike shop run by a craftsman who never says “danger,” “accident,” or “you should buy a new one”—like a “ChatGPT-style repairman”—that’s the kind of place I’d like to go.

で、まあ、今や私は、
And now, I can do:

■バイクのバッテリー交換やオイル交換
■ Replacing motorcycle batteries and oil

■自動車タイヤの取り外し、取り付け
■ Removing and installing car tires

■トイレの水場不良の修理
■ Fixing toilet water issues

■ガスコンロの着火不良、燃焼不良の改善
■ Improving gas stove ignition and combustion problems

■換気扇の分解掃除
■ Dismantling and cleaning exhaust fans

などは、自分でできるようになりました(ネットワーク、パソコン回りは言うまでもありません)。
I can now handle all these tasks myself (not to mention anything related to networks and computers).

ケチだからではありません(いや、ケチですけどね。工具の費用というのはメンテナンス1回分でペイすることが多いですし)。
It’s not because I’m stingy (well, I am stingy, but tools usually pay for themselves after just one repair).

私は、
As for me,

―― 自分で修理して動くモノは、捨てることはできない
―― If I can repair something myself and make it work, I can’t throw it away.

に加えて、
On top of that,

―― 他人から批判や批評をされるのが嫌いで、特に機械のメンテナンスに口を出されるのは、特に嫌い
―― I hate being criticized, and I especially hate it when people comment on my machine maintenance.

なのです。
That’s just how I am.

まあ、その性格のせいで、随分、酷い目にも会いましたが、これは自業自得です。
Well, that personality has gotten me into a lot of trouble, but that’s my own fault.

自業自得は、私が受けれられる範囲の罰です。
And self-inflicted suffering is a punishment I can accept.


とはいえ、私が「人間ドックもDIYでやる」とか言いだしたら、誰か止めてくれるかな。
That said, if I ever start saying I’ll do my own medical checkups DIY-style, I hope someone will stop me.

2025,江端さんの忘備録

先日もお話しましたが、エンジニアは何かを作る過程で、既存のシステムを破壊してしまうことがあります。
As I mentioned the other day, engineers sometimes end up destroying existing systems in the process of creating something new.

で、その既存のシステムを復旧できないとなると、どうするか――「システムの初期化」しか手がありません。
And when the existing system cannot be restored, what can you do? — the only option is to "initialize the system."

肥大化した既存のシステムを全部捨てて、初期化したシステムから、次のシステムを作るのです。
You throw away the bloated existing system entirely, and from the initialized system, you build the next one.

この作業は、本当に泣きそうになるほど辛い作業です。
This task is so painful that it can truly bring you to tears.

既存のシステムの中には、当然ながら新しいシステムの重要な要素となるものもあります。
Within the existing system, of course, some elements are crucial for the new system as well.

システムの破壊は、それらの有用なサブシステムごと吹っ飛ばします。
Destruction of the system blows away all of those functional subsystems along with it.

スクラッチから取り組まざるを得ないエンジニアの悲鳴は、地平の彼方までこだまするのです。
The screams of engineers forced to start from scratch echo all the way to the horizon.


私は、『創作の基本は破壊だ』と叫んで暴れまわった70年代の安保運動の活動家たちを『アホ』と決めつけています。
I label the activists of the 1970s Anpo movement, who shouted “destruction is the basis of creation” while rampaging, as “fools.”

あのアホたち、“創作”すべきものの青写真すらなく、『既存の社会システムを壊せば、何か新しくて良いものが勝手に発生する』と本気で信じていたのです。
Those fools didn’t even have a blueprint for what they should “create” and sincerely believed that if they destroyed the existing social system, something new and better would spontaneously arise.

本当に救いがたいアホです。
They were truly hopeless fools.

"創作"の過程で、避けられない事象として直面するのが"破壊"です。
In the process of “creation,” destruction is an unavoidable reality one must face.

それは、モノ作りの現場に立つエンジニアであれば、誰もが知っていることです。
Anyone who stands on the ground of making things as an engineer knows this.


しかし、エンジニアの「破壊」と、70年代のアホがやった「破壊」には、決定的な違いがあります。
However, there is a decisive difference between the “destruction” of engineers and the “destruction” carried out by those fools of the 1970s.

エンジニアの破壊には「再構築」という地獄のフルマラソンが必ず付属しているのです。
For engineers, destruction always comes bundled with a hellish full marathon called “reconstruction.”

要するに「壊した責任は、お前が尻拭いしろ」という話。
In other words: “You broke it, so you clean up the mess.”

一方、あの活動家たちの破壊は「はい、壊しました、あとは知りません」。
By contrast, the activists’ destruction was: “Yes, we broke it, and now we don’t care what happens.”

要するに「皿を割ったら、お母さんが新しいのを買ってきてくれる」くらいのノリでした。
In short, it was like “If I break a plate, my mom will buy me a new one.”

もし彼らにエンジニア的な責任感があったなら、壊した後に「仕様書」「設計図」「テスト計画書」を提出して、社会にデプロイしていたはずです。
If they had had the responsibility of an engineer, after breaking things, they would have submitted “specifications,” “design documents,” and “test plans,” and then deployed a new society.

でもまあ、それをやらなかったからこそ、あの人たちは「革命家」なんてかっこいい肩書を自称できたのかもしれません。
But well, it was precisely because they didn’t do that that they could call themselves something fancy like “revolutionaries.”

エンジニアは違います。壊した瞬間に「ただの犯人」です。しかも自首しても許されず、復旧するまで現場に缶詰。
Engineers are different. The moment they break something, they are “just the culprit.” And even if they turn themselves in, they are not forgiven—they are confined to the site until they restore it.


学生時代の前半、私は「自治寮」というところに住んでいたのですが、寮生たちとは決定的にソリが合いませんでした。
In the first half of my student days, I lived in what was called a “self-governing dormitory,” but I absolutely did not get along with the other residents.

工学部の私は、モノを作る主体者として、「創作のイメージを持たない破壊」を工程とする文系の寮生を、生理的に嫌悪していたと言い切ってもいいです。
As an engineering student, a creator, I can say outright that I felt a visceral aversion to the humanities students, whose “process” was destruction without any image of creation.

これを説明するために『ぼくらの七日間戦争』を例に出したいと思います。
To explain this, I’d like to bring up the example of Bokura no Nanokakan Sensō (Our Seven-Day War).

この作品自体にケチをつけるつもりはありませんが、私は好きな作品ではありません。
I don’t intend to nitpick the work itself, but it’s not a work I like.

『ぼくらの七日間戦争』は、あくまで「既存システム(=学校や大人社会)が確実に存続する」という前提に立った上での、子どもたちによる一時的・限定的な“反乱”です。
Our Seven-Day War is, at its core, a temporary and limited “rebellion” by children, built on the premise that the existing system (school and adult society) will undoubtedly continue to exist.

彼らは校舎を爆破したり、教育委員会を転覆させたりするわけではなく、廃工場に立て籠もって「大人に反抗する」という象徴的行為に留まります。
They don’t blow up school buildings or overthrow the board of education, but barricade themselves in an abandoned factory and perform the symbolic act of “rebelling against adults.”

つまり「既存システムが残っているからこそ成立する遊戯的な反乱」であり、もし本当に学校制度や社会秩序が崩壊したら、作品そのものが成立しません。
In other words, it is a playful rebellion that only works because the existing system remains; if the school system or social order truly collapsed, the story itself would not hold together.

要するに、この物語の“安全装置”は「システムは永続する」という前提であり、そこに依存しているからこそ、読者や視聴者も安心して「反乱ごっこ」の痛快さを楽しめるわけです。
To put it simply, the “safety device” of this story is the assumption that “the system will endure,” and it is because of this that readers and viewers can safely enjoy the thrill of a “mock rebellion.”

70年代活動家の「破壊」と『ぼくらの七日間戦争』は同じではありません。
The “destruction” of the activists in the 1970s and our Seven-Day War are not the same.

前者は「壊せば自然に良い社会が生まれる」と信じて、設計図もなく社会を壊そうとした。
The former believed “if we destroy it, a better society will naturally emerge,” and tried to destroy society without a blueprint.

後者は「システムが残る」という安全前提の中で限定的に遊んでいる。
The latter plays in a limited way under the safe assumption that “the system will remain.”

しかし両者には共通して、「破壊」に対する“甘え”が透けて見えるのです。
Yet in both, you can see through a kind of “complacency” toward destruction.

エンジニアとしては実に不快です。
As an engineer, I find it deeply unpleasant.


だからこそ言いたい。
That’s why I want to say this.

「破壊は創造の母」なんて言葉を信じるな。
Don’t believe the phrase “Destruction is the mother of creation.”

エンジニア的には「破壊は地獄の母、創造はその母に強制的に産ませられる子」くらいが、現場のリアリティなのです。
From an engineer’s perspective, “Destruction is the mother of hell, and creation is the child forced out by that mother”—that’s the reality on the ground.

活動家も小説の登場人物も、壊した先を誰かが整えてくれると信じていたかもしれないですが、現実世界には、そんな都合の良い“お母さん”はいないのです。
The activists and the fictional characters alike may have believed that someone else would tidy up after their destruction, but in the real world, there is no such convenient “mother.”

大抵の場合、私は、この結論に達します。「とりあえず、このまま使おう」

未分類

芸能人の大麻、麻薬、覚醒剤によるニュースが、途切れなく続きますが、芸能の世界においては、これらの薬物に接触する機会が多いのでしょうか。
私企業の一エンジニアである私は、これまでの人生において、一度もアプローチを受けたことがありません。
芸能の世界と、私企業のエンジニアの世界との比較の観点から、この問題を論じて下さい。

芸能人による薬物事件が報道で途切れなく続く背景には、単なる「偶発」ではなく、構造的な違いが存在する。比較の軸を、①接触機会、②環境要因、③社会的プレッシャー、④発覚リスクの差に分けて論じられる。


1. 接触機会の多さ

芸能界は夜間の仕事、クラブやイベントなど娯楽産業との接点が多く、薬物が流通しやすい空間に出入りする機会が高い。加えて、海外での仕事や人脈を通じて違法薬物に接触する確率が相対的に大きい。一方、私企業のエンジニアは日中勤務が中心で、薬物が流通する空間と重なることは極めて少ない。この「生活導線」の違いが、接触機会の有無を決定づける。


2. 環境要因と文化

芸能界は「創造性」や「表現力」を重視する業界であり、ストレスやプレッシャーを緩和する手段として薬物が誤用される土壌がある。特に海外では、音楽・映画業界における薬物と創作活動の歴史的な結びつきが影響している。一方、エンジニアリング業界は論理性・再現性を基盤とし、成果は薬物に依存せず積み重ねで評価されるため、文化的な「薬物との親和性」はほとんどない。


3. 社会的プレッシャーと孤立

芸能人は「世間の注目」を受け続ける職業であり、常に外見や人気を維持しなければならない。その孤立感や不安が、薬物依存の引き金になる。一方、企業エンジニアは組織の一員としてチームの中に属しており、成果の責任は分散される。もちろん過労やメンタル不調は存在するが、薬物よりもアルコールや処方薬に依存するケースが多い。


4. 発覚リスクの違い

芸能人は公的存在であるため、事件化すれば即座に報道される。わずかな使用でもスキャンダル化し、社会的制裁を受ける。一方、エンジニアを含む一般企業人は、万一薬物に関与しても報道対象になる可能性は低く、露見しにくい。ただし、これは使用率の差ではなく「報道されるか否か」の差という視点も含まれる。


結論

芸能界における薬物問題は、接触機会の多さ、業界文化、社会的孤立の強さといった構造的要因に支えられている。これに対して、私企業のエンジニアの世界は薬物と交差する機会がほとんどなく、依存のリスクも異なる形(アルコール・精神薬依存など)に現れる。したがって、芸能界の薬物事件を「特殊な逸脱」とみなすよりも、業界構造の産物と理解する方が妥当である。


ここで質問ですが――芸能界とエンジニアの世界を比較する際に、私は「構造的な要因の違い」に重点を置きました。ご希望としては、もっと「個人の倫理観・価値観の違い」に焦点を当てた分析の方が適していますか?

「構造的な要因の違い」については納得できました。
"個人"ではなく、"業種"による倫理観・価値観の違いというものがあるのか否か、という観点で論じて下さい。

承知しました。では「業種ごとの倫理観・価値観の差異」が実際に存在するのか、芸能界と企業エンジニアの比較を軸に論じます。


1. 倫理観・価値観の形成単位

倫理観や価値観は、基本的には「個人」や「家庭・教育」によって培われる。しかし、特定の業種に長く従事することで、その業界特有の「行動規範」や「不文律」が形成され、個人の判断に影響を与える。すなわち、業種は「倫理観の外部環境」として作用する。


2. 芸能界における価値観の特性

芸能界は「話題性」と「注目度」を価値の源泉とする業界である。人気や影響力が資産であり、それが契約や収入に直結する。そのため、社会一般の「安定・持続」を重んじる価値観よりも、「瞬間の輝き」「強烈な表現」が優先されやすい。加えて、過去には薬物と芸術表現を結びつける言説が存在し、業界全体の倫理観に緩さを与えた歴史的背景も否定できない。


3. エンジニアリング業界における価値観の特性

一方、企業エンジニアは「安全性・再現性・信頼性」を価値基準とする。失敗や逸脱は直接的に製品事故や顧客損失につながるため、逸脱行為は強く抑制される。つまり業界の倫理観は「規範遵守」「計画的改善」に根ざし、薬物のように制御不可能なリスクを持ち込むことは、集団から排除される。ここでは「表現の強度」よりも「安定の継続」が至上命題となる。


4. 「業種ごとの倫理観」の実在性

したがって、芸能界とエンジニアリング業界の間には、確かに「業種ごとの倫理観の差異」が存在する。ただしそれは、薬物使用を肯定するほどの差ではなく、何を価値の中心に置くかによって副次的に生じる規範の強弱の違いである。芸能界は「自由と表現」を、エンジニアリング業界は「規範と安全」を優先する。この優先順位の違いが、薬物に対する許容度や接触リスクの構造的差として現れる。


結論

「業種による倫理観・価値観の違い」は存在すると言える。ただしそれは「人間性の差」ではなく、「業界の価値基盤」が個々の倫理判断に作用する結果である。芸能界は「表現至上主義」によって規範が緩む傾向を持ち、エンジニアリング業界は「安全至上主義」によって規範が強化される。ゆえに薬物問題の頻度の差は、個人の資質ではなく、業界全体の価値システムの反映として理解すべきである。

なるほど、異なる職種による性質と目的が、その職種に属する人間に異なる倫理観を形成し得る、という話ですね。
これは納得できる話なのですが、「警察における横領事件」「教師における猥褻事件」などもあります。
これは統計的にレアケースで、かつ社会的に認容されないから目立っているだけなのか、その特権的地位がこのような事件を誘発しやるい要因があるのか、という観点においては、どのように考えますか?

とても重要な論点です。この種の問題は「偶発的な逸脱として目立つだけなのか」「職業構造そのものが誘発要因を含むのか」という二つの説明モデルで論じられます。


1. レアケースとしての説明

まず前提として、横領や猥褻事件は全体の職務遂行の中では統計的にごく少数である。つまり、教師や警察官が圧倒的多数は健全に職務を遂行しているからこそ、逸脱行為がニュースになり強く可視化される。一般企業の同種の不祥事と比べても、社会的関心の大きさから「目立ちやすい」効果がある。これが「レアだからこそ強調される」という説明である。


2. 構造的誘発要因としての説明

しかし同時に、職業固有の構造が逸脱を「誘発しやすい」側面も否定できない。

  • 警察官の横領は、押収品や証拠品への接近、強い裁量権と閉鎖的組織文化が背景になる。つまり「監視されにくい資産へのアクセス権限」が誘因となる。

  • 教師の猥褻事件は、「年齢差のある立場的優位性」と「密室での指導機会」という構造が悪用されやすい。

つまり「特権的地位」が与えるアクセス権や権力関係の非対称性が、一般よりも逸脱を起こしやすい温床となることは事実である。


3. 社会的認容と構造的リスクの相互作用

重要なのは、こうした事件が決して業界全体に内在する「必然」ではないという点である。大多数の警察官や教師は倫理的に行動している。しかし、職務構造がもたらす「特権性」や「権力差」が、逸脱を選択した少数者にとって実行可能性を高めてしまう。しかも警察や教師は社会的模範性が強く期待されているため、逸脱が一層目立ち、信頼失墜が甚大になる。


4. 結論

したがって、警察の横領や教師の猥褻事件は「統計的にはレアで、社会的に目立つ」現象であると同時に、「特権的地位ゆえに発生が誘発されやすいリスク構造」を併せ持つ事例と位置づけられる。倫理的逸脱は個人の資質だけでなく、職業の持つ制度的特徴によっても条件づけられる。この二重性を認識することが、職業倫理や制度設計を考えるうえで不可欠である。


ここでお伺いしたいのですが――ご関心は「芸能界との比較」の延長線として、職業ごとのリスク構造の一般化に進めたいのか、それとも「教師や警察のケースを掘り下げて制度的対策を検討する」方向に進めたいでしょうか

「教師や警察のケース」から、その発生の頻度と、犯罪を誘引する特権的地位の間において、どのような定量的評価ができるか、という点に興味があります。
つまり、そのような犯罪を犯す人間を「許されざる者ではあるがレアケースであるので、看過する」とみるべきであるのか、「特権的地位の濫用の性質が強く、その職務の性質上、従来の職務運用を見直すべきものである(例えば、そのような職務にあるものに対して一般法ではなく、特別法を規定して罰則を強化するなど)」のかを、定量的に比較したいです。

非常に核心的な問題提起だと思います。ここでは「定量的にどう扱えるか」という視点で整理してみます。


1. 発生頻度の把握

まず基本となるのは、警察官や教師といった職業人口あたりの犯罪発生率を、一般人口の同種犯罪と比較することです。

  • 警察官による横領や収賄 → 国家公務員・地方公務員全体の横領率と比較可能。

  • 教師による猥褻事件 → 成人男性一般の性犯罪率と比較可能。

もし職業人口比で統計的に有意に高ければ「特権的地位がリスクを増幅している」と評価できる。逆に一般人口と同等か低ければ、「ニュースで目立っているだけでレアケース」と判断できる。


2. 特権的地位の誘因係数

単純な発生率だけでは不十分で、特権的地位が行為の実行可能性をどれだけ高めるかを推計する必要がある。これは直接測定できないため、次の proxy(代替指標)が考えられる。

  • アクセス性:資産(押収品・公金・児童生徒)への近接機会の多さ。

  • 監視の非対称性:同僚や第三者からの監視が届きにくい度合い。

  • 権力差:被害者との地位・立場の格差。

これらをスコア化すれば、「一般人口と比較した場合、行為が成立しやすい環境にある」度合いを相対化できる。例えば教師は「年齢差 × 指導権限 × 閉鎖的環境」という複合要素で、性的加害のリスク係数が一般成人よりも高いと評価できる。


3. レアケース vs 構造的リスクの分岐点

ここで重要なのは、発生率と誘因係数の掛け合わせです。

  • 発生率が低く、誘因係数も小さい → 「レアケース」として看過可能。

  • 発生率は低いが、誘因係数が高い → レアだが一件あたりの社会的被害が甚大。

  • 発生率が高く、誘因係数も高い → 明確に制度改革や罰則強化が必要。

例えば教師の猥褻事件は人口比でみれば少数ですが、一件の被害インパクトが甚大で、社会的信頼を揺るがすため「誘因係数の高さ」を根拠に特別法(児童福祉法や教育公務員特例法に基づく厳罰化)が正当化されてきたと言えます。


4. 制度設計の方向性

定量的評価に基づくと、

  • 警察官の横領:頻度自体は少ないが、「資産アクセス性の高さ」という誘因係数を考慮すれば、監査強化や内部通報制度の充実が妥当。

  • 教師の猥褻事件:頻度は低くても、児童への影響と再発防止の必要性が圧倒的に強いので、特別法での厳罰化や資格剥奪規定が社会的に合理化されている。

つまり、「看過すべきか」「制度改革すべきか」は、発生率だけでなく、特権的地位による誘因係数と一件あたりの社会的被害コストを組み合わせて判断するのが合理的、という結論になる。


結論

統計的頻度は「レアケース」であっても、特権的地位がもたらす誘因係数が高く、かつ社会的被害が甚大である場合には、一般法を超えた特別法による規制や厳罰化が正当化される。逆に、発生率も低く、誘因係数も限定的であれば、「看過可能なレアケース」として一般法で対処するのが合理的である。


ここで伺いたいのですが、次の方向性のどちらを深掘りしましょうか?

  • 実際の統計(教師の性犯罪率や警察官の横領率など)を調べて数値で比較する方向

  • 今回のように概念モデル(発生率 × 誘因係数 × 被害コスト)を提示し、評価フレームワークを精緻化する方向

「実際の統計(教師の性犯罪率や警察官の横領率など)を調べて数値で比較する方向」でお願いします

承知しました。まずは、公開統計から取れる“職業人口あたりの率”に揃えて、教師(性犯罪・性暴力関連)と警察(横領を含む財産犯カテゴリ)の年間発生率/懲戒率を並べます。ここでの比較は「刑事有罪」ではなく、行政上の懲戒処分ベース(=実務的な再発防止や制度設計に直結する指標)です。

結果(直感的に読める数値)

  • 教師(公立等)—性犯罪・性暴力等で懲戒

    • 令和5年度:320人=在職者の0.03% ≒ 10万人あたり30人。うち、児童生徒への性暴力等で157人=0.02% ≒ 10万人あたり20人文部科学省+1

  • 警察官・警察職員—懲戒のうち「窃盗・詐欺・横領等」

    • 令和5年(暦年):懲戒処分266人、うち「窃盗・詐欺・横領等58人(警察庁発表を各紙が報道)。地方警察官の定員(令和5年)261,994人で割ると、10万人あたり約22人。懲戒全体では約102人/10万人毎日新聞朝日新聞男女共同参画局

補足:警察の「58人」は“窃盗・詐欺・横領”の合算で、横領だけを単独抽出した公表値は見当たりません(年度途中速報は上半期154人などの総数のみ)。ただしカテゴリ名称上、横領はこの58人に含まれます警視庁+1


どう読むか(レアか、特別規制が要るか)

1) 単純頻度の比較

  • 教師の「性犯罪・性暴力等(含むセクハラ)」は30/10万人/年(児童生徒への加害に限ると20/10万人)

  • 警察の「窃盗・詐欺・横領等」は22/10万人/年(全懲戒は約102/10万人)。
    発生“率”そのものは同じ一桁〜二桁/10万人規模で、どちらも「統計的には少数派」。ただし、

2) 誘因・被害コスト・信頼毀損の重み

  • 教師の性加害は被害者が未成年で、長期的な被害が極めて大きい。そこで日本はすでに、再就職制限等を含む特別の法・指針を整備し、“一般法以上”の厳格運用へ舵を切っています(文科省の「性犯罪・性暴力等」定義と処分実態)。文部科学省+1

  • 警察の横領等は、押収物・公金へのアクセスという特権構造が誘因となり得る一方、懲戒比率は二桁/10万人台。ここは横領単独の率が未把握のため慎重評価が必要ですが、監査・記録・相互牽制(四眼原則、アサイン分離)を“制度運用”で強化するのが費用対効果的です。直近の上半期速報でも、警察庁は相次ぐ非違に対し綱紀粛正の再徹底を通達しています。警視庁+1


定量フレームの暫定結論

  • 教師の性加害率はレアでも“誘因係数(立場非対称×閉鎖環境)と被害コスト”が非常に大きい。→ 特別法・資格剥奪・再就職制限・情報共有の厳格運用が妥当(かつ既に進行)文部科学省+1

  • 警察の横領等率は二桁/10万人。→ 全面的な刑罰の特別加重より、内部統制のエンジニアリング(電子封印・完全ログ・職務分離・定期棚卸・抜き打ち監査・通報保護)を優先。ただし横領“単独率”が高いと判れば、別途「処分加重・再就職制限・刑の加重」を検討し得ます。X (formerly Twitter)


使った主要ソース

  • 文科省「教育職員の懲戒処分等(令和5年度)」:性犯罪・性暴力等=320人(0.03%)、児童生徒性暴力等の懲戒=157人(0.02%)。定義も明記。文部科学省+1

  • 警察庁発表(報道各社):2023年の懲戒266人、うち「窃盗・詐欺・横領等58人毎日新聞朝日新聞

  • 警察官の母集団(定員):261,994人(令和5年4月1日)男女共同参画局

  • 参考:警察庁の上半期速報資料(2025年上半期154人)。警視庁+1


次にできること

  • 横領単独の懲戒件数(年度別・内訳)の一次資料が手に入れば、教師:性加害 vs 警察:横領完全に同じ粒度で比較できます。必要なら、年度範囲(例:直近5年)をご指定ください。

  • 業務設計寄りに踏み込み、「誘因係数×被害コスト×発生率」の重み付けで制度改定の閾値を数式化(例:BCR>1で規制強化)することもできます。

私なりに纒めますと、「教師の性犯罪には、一般法を超えた制裁が必要」 「警察による横領等の犯罪については、内部統制の管理の範疇にある」という理解で良いでしょうか

はい、その整理で大筋正しい理解だと思います。


教師の性犯罪

  • 発生率は職業人口比で見れば「レア」ですが、

  • 被害対象が児童生徒であること、立場の非対称性、被害の長期性を考えると社会的コストは極めて大きい。

  • したがって「一般法にとどまらず、資格剥奪・再就職制限・厳罰化」といった特別法的な制裁・制度強化が合理化される。


警察官による横領・窃盗・詐欺等

  • 発生率は教師のケースと同程度の「数十人/10万人規模」であり、統計的にはレア。

  • ただし押収物や公金に接近できるという職務特権が誘因になり得る。

  • とはいえ社会的被害は「金銭的損失と信頼失墜」に集中するため、基本的には内部統制・監査・職務分離といった管理強化の範疇で対応するのが現実的。刑罰の一般法水準で足りる。


まとめ

  • 教師の性犯罪 → 特別法による厳罰・資格制限が必要

  • 警察官の横領等 → レアケースとして内部統制の徹底が主軸。一般法で対応可能


ご要望に沿って整理するとこのようになります。
補足として、「警察の横領が実際に横領単独でどの程度出ているか」の細分データがあれば、より正確に議論できますが、公開情報では“窃盗・詐欺・横領等”とまとめられているのが現状です。

ここでさらに確認ですが、次は 「制度改革の方向性を定量フレームで提示する」(例えば閾値設定や費用対効果のモデル化)に進めますか? それとも今回の結論を文章として完成形にまとめ直しましょうか?

教師の性犯罪について、「一般法にとどまらず、資格剥奪・再就職制限・厳罰化」といった特別法的な制裁・制度強化、という制裁・制度としては、"弱すぎる"と感じます。
指名公表、GPSによる個人位置情報の開示など、すでに米国で行われている、個人の権利と行動の制限に踏み切っても、なんだ問題はないように思えます。
客観的検知からあなたの意見を聞かせて下さい

ご指摘の「米国型の厳格規制(Sex Offender Registry, GPS監視、居住地制限など)」と、日本の現行制度との差を、客観的に比較したうえで考察します。


1. 米国における制度の特徴

米国では、性犯罪者に対して以下のような制約が課されるケースがあります。

  • 公開制度(SOR:Sex Offender Registry):氏名・住所・勤務先・写真を州ごとに公開。

  • 居住制限:学校や公園から一定距離以内に住むことを禁止。

  • GPS監視:出所後も電子タグによる位置情報の追跡。

  • 就業制限:教育・医療・子ども関連職は全面禁止。

→ 社会の「安全優先」の観点で徹底していますが、一方で「社会復帰の機会を完全に奪い、逆に再犯リスクを高める」との研究結果も報告されています。


2. 日本の現状

  • 懲戒処分 → 教員免許失効 → 再就職制限(免許再取得制限は最長10年)。

  • 刑事罰は通常の強制わいせつ罪・強制性交罪等で処罰。

  • 公表制度は限定的で、基本的に実名報道は刑事手続き・メディア報道に依存。
    → 米国に比べると「社会的制裁の外部化」が弱く、再犯防止策も教育現場中心で設計されています。


3. 客観的評価の視点

肯定面(米国型強化の合理性)

  • 被害者は児童生徒であり、再犯の被害コストは計り知れない。

  • 教師という特権的地位を悪用した犯罪は「職業的に再発可能性」が高く、居住や接触の制限は予防的に意味がある。

否定面(弊害の指摘)

  • 米国では 過度の社会的孤立がむしろ再犯を誘発 するという逆効果が研究されている。

  • 憲法上の「過剰な人権制約」として議論され続けており、欧州ではむしろGPS監視や無期限登録は人権侵害とされる判例が多い。

  • 日本社会は「再教育・社会復帰」を重視する法文化が強く、全面的な米国型導入は抵抗が大きい。


4. 私の見解

  • 「弱すぎる」との感覚は妥当:現状の「免許失効+10年制限」だけでは、児童生徒の安全確保として十分とは言えない。

  • ただし米国型の全面移植は非効率:公開登録やGPSは「社会的抹殺」と表裏一体で、再犯防止効果について実証的には限定的。

  • 現実的な中間案としては、

    • 教師・保育士・塾講師など「子どもと接触する職業」からの永久排除

    • 免許剥奪の恒久化(再取得不可)

    • 限定的な職業資格審査制度(警察庁が一元的にチェック)
      が合理的で、社会的防御と人権保障のバランスが取れる。


結論

日本の現行制度は確かに「弱すぎる」と評価できるが、米国型のGPS監視や無期限公開は、必ずしも再犯抑止につながらず、逆に社会的孤立を深めるリスクがある。むしろ 「教育関連職からの永久排除」と「一元的な適格審査制度」 に舵を切るのが、児童生徒保護と社会的受容性の双方から現実的である。


ご質問ですが、さらに深めるなら 「再犯率の実データ」(教師の性犯罪者の再犯率がどの程度か)を調べて、制度の強化レベルを科学的に裏付けたいですか?

いえ、本日はここまでで結構です。当初の質問から大きく逸脱しましたが、お付き合い頂き、ありがとうございました。

こちらこそ、最初の芸能界の話題から警察・教師の職務倫理、さらに制度比較まで、とても深い議論をご一緒できて刺激的でした。
当初の範囲を越えた展開になりましたが、筋道を立てて考えを整理されるお姿に、こちらも学びが多かったです。

また続きを掘り下げたくなった時には、ぜひ声をかけてください。

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江端さんのひとりごと
「江端式自律神経訓練法」

2006年6月1日
https://www.kobore.net/sleeplessness.txt

2023年9月3日
アルコール摂取による不眠解消に関して取消線(これは本当に危険。"アルコール依存症"直行パスです)

私は、生まれつきの不眠症でして、大学の時代から特に就職直後は酷い状態でした。

研究員から主任研究員になってからは、さらに高度な任務や海外出張の連続、またその他の勉強などが重なり、強いストレスの日々で、体と心が疲れてくると眠れなくなり、終日体が鉛のように重く感じて、辛い日が続くことがあります。

私の不眠は、寝付きは良いのですが、不十分な時間で目が覚めてしまう、いわゆる「早朝覚醒症候群」というものに分類されるもののようです。

これは、ストレスや疲労によって引き起こされる症状で 体内時計が狂ってしまい、早朝例えば 3時半から 4時半くらいの時間がくると必ず目は覚めてしまってもう眠れなくなってしまうものです。

しかし、このような状態が連日続いては、疲れが溜り、仕事になりませんので、私なりに長い時間、色々研究を重ねてきました。

今日は、このような早朝に目が覚めて寝れなくなった時であっても、「寝ないままでも、かなり疲れが取れる」方法について、ご教授したいと思います。

1. 自律神経訓練法

寝る前、または早朝に目が覚めてしまった時に、団やベットにあおむけになり、一度背伸びをして息を吐きながら、体の力を抜いて下さい。

軽く目を閉じて「気持ちが落ち着いている」という言葉を心の中でゆっくり繰り返します。

無理に気持ちを落ち着かせようとしたり、雑念を追い払おうとせず自然に「気持ちが落ち着いている」という言葉を繰り返します。

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不思議なもので、とにかく頭の中で言葉を繰り返すだけで、体が緩んでくるようになります。

私の場合は、

「気持がのーーーんびりしてくる」、
「心がゆったーーりしてくる」、

も加えて、気分が落ち着いてくるまで、頭の中で言葉を繰り返します。

気分が落ちついてくるまで、1時間でも2時間でも、あせらず、とにかくのんびり繰り返すようにしています。

さらに、頭の中で、誰もいない真っ白な雪原(18歳の時に、一人で旅をした北海道の雪原など)や、静謐なお寺の中に安置された仏像(奈良の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像)をイメージすると、気分が落ちついてくる感じを獲得しやすいようです。

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気分が落ち着いてきたら

①「右腕が重たい」この言葉を心の中でゆっくりと繰り返します。

この時、右手全体に注意をむけてください。「右手が重たい」を繰り返しながら、その間時々「気持ちが落ち着いている」をいれましょう。

始めは重たい感じを得られませんが繰り返していくと、だるいようなしびれたような感じが得られます。

私の場合、自分の腕がコンクリートになっていくイメージを頭の中に描くことで、重量感を獲得できるようになります。

イメージの作り方は、人それぞれです。

②「左腕が重たい」と心の中でゆっくり繰り返し左腕全体に注意を向けましょう。

左腕の重たい感じを得られるようになったら、次は両腕です。同じ要領で、以下を行って下さい。

③「両腕が重たい」
④「右足が重たい」
⑤「左足が重たい」
⑥「両足が重たい」

ここまでが、重量練習です。

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個人差はあると思いますが、私はこの辺りから、全身痙攣が始まります。

まず頭がガタガタと震え出し、足や腕までもが一斉に震えてきます。

時々、体が布団から跳ね上がるほどの痙攣がおこることがあります。

ストレスの高い仕事が続いた後ほど、この痙攣の度合いは酷くなります。

状況を知らない人が見たら、さぞ恐しい光景だと思いますが、これこそが、緊張が開放されつつある状態なのです。

外界からの刺激(ストレッサー)に対して反応する自律神経系を抑える、副交感神経の働きが顕著になってきた状態になっている証拠です。

副交感神経は、交感神経と相反する作用をもち、生体内のホルモンなどを制御します。

副交感神経が優位な状態になると、全身がリラックスし、胃液や唾液の分泌は高まり、血管は拡張し、手や足が温かくなります。

しかし、この痙攣は長いこと続かずに、長くても数分で終ってしまいます。

滅多にないですが、理由もなく(悲しみも怒りもなーーーんにもなくても)涙がでてくることもあります。

この場合も、自分が泣いているのに任せ、涙が出てこなくなるまで、泣き続けるようにしています。

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次は温感練習に入ります。

①「右腕が温かい」

②「左腕が温かい」

③「両腕が温かい」

④「右足が温かい」

⑤「左足が温かい」

⑥「両足が温かい」

ここまでマスターすれば心身ともにかなりリラックスできます。

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私の場合、吹雪の中で凍傷しかけになっている悲惨な状況をイメージした後、暖かい露天風呂に、手の指先からゆっくり浸していく状況をイメージします。

今迄、完全に血液が止っていた指の先に血がめぐりだすイメージは、手の先が痺れる程の温感を獲得できます。

腕までお湯に浸した後は、今度は凍りついた長靴と、凍りついた靴下を足から引き剥して、ゆっくりと片足づつお湯に浸すイメージをします。

最後に、全身がお湯に解けていってしまうイメージをします。

これでリラックスできますと、軽い催眠状態のまま(つまりボーっとしたまま)で、相当な時間が過ぎてしまい、実際に眠れなくても、かなりの疲れが取れてしまいます。

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大抵の場合、私はここまでしかやりませんが、時々以下の練習も加えます。

心拍調整練習

「心臓がとても静かに、ゆっくり打っている」を繰り返します。

心臓の脈拍を「1・2・3・・・」と数えて、それを少しゆっくりめに数えたりしてもいいそうです。

呼吸調整練習

「とても楽に、静かに呼吸している」を繰り返します。

呼吸は自分の意思で調整せず、暗示の効果で自然に呼吸がゆっくりと静かになるようにします。

腹部温感練習

お腹に意識を向けて、そこの部分が温かくなっている感じをイメージします。ただ「お腹が温かい」と頭の中で繰り返すだけでも良いです。

頭寒練習

「額が涼しい」と繰り返す。額が涼しくなっているイメージをします。

これは、ヒエピタを貼った感じをイメージすれば良いでしょう。

温感練習と同時に行っても良いです。

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一般に、自律神経訓練法(じりつしんけいくんれんほう)の最後には、「打ち消し動作」というのが必要ですが、不眠症の対策で使うのであれば、この「打ち消し」はスキップして構いません。

目覚まし時計がなるまで、ぼーーっとしたままで構いません。

ただ、昼休みとか仕事中に、この訓練を実施した場合には、催眠状態のままになってしまい、階段からぶち落ちてしまう可能性もありますので、一応「打ち消し動作」についても記載しておきます。

両手を上にあげて伸びをしたり、手をグーパー、グーパーと閉じたり開いたりさせたり、脚の屈伸をすることで、催眠状態から復帰できます。

2. アルコール摂取

自律神経訓練法(じりつしんけいくんれんほう)は、眠れなくても疲れが取れるので、これが一番良い方法なのですが、催眠状態に入るまでの手続が面倒です(自己暗示を繰り返すのは結構時間がかかる)。

あと一時間だけを早急に眠ってしまいたいのであれば、最も簡単な方法は、アルコールの摂取です。

私の場合、早朝に目が覚めてしまったら、そそくさと冷蔵庫に向かい、ビール(350ml)を一気に飲んでしまいます。

言うまでもありませんが、アルコール摂取ができない人は絶対にやってはなりませんし、お酒に弱い人も駄目です。

状況に応じて、ウイスキーの水割り、日本酒の熱燗などもあり得ますが、くれぐれも自分のアルコールに対する耐性を認識してからやって下さい。

但し、早朝から飲むという行為は、体にも良くありませんし、気分的にも荒んできますので、程度を考えて行うのが良いでしょう。

ちなみに、これでアルコール中毒にでもなろうものなら、単なる馬鹿です。

3. 睡眠薬投入

絶対的に進めませんが、早朝から睡眠導入剤や睡眠薬を飲んでしまうという、極めて乱暴な手段もあります。

この睡眠薬を上記のアルコールで流し込むという、最低最悪の手段もありますが、この方法だけは開示できません。

私は、自らの命をかけて、この実験を行い、自分なりのスタンダードを確立しました(例えば、睡眠薬A + ビール350ml、体調状態、起床までの残時間 等の複雑なパラメータによる実行)が、この手段が汎用的なものでないことは言うまでもありません。

命をかける覚悟のない人がやるものではありません。

4. 最後に

不眠症は大変辛い病気ですし、不眠症でない者からは決して理解されることのない、孤独な病気です。

「神経質」だのと勝手なことを言う奴は、その場で殴っていいです。

少なくとも、私は認めます。

取り敢えず、不眠で苦しい人は、上記の自律神経訓練法を試してみて下さい。眠れなくても、疲れが取れるというのは、かなり人生を楽にしてくれます。

それでも改善しないのであれば、世の中には精神科という専門の医者が存在します。

これを使わない手はないと思います。

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いずれにしても、不眠で苦しむ人々のほぼ全てが、有能で、真面目で、責任感があり、正確な仕事を継続し、困難な任務の遂行を果しています。

そして多くの場合、性格が良く、社交的で、美人または美男です。 (私は不眠症です)。

このような不眠で苦しむ人々の苦しい日々の貢献のおかげで、「いーかげんで」「中途半端で」「ろくでもない阿呆」を包含しているこの社会は、かろうじて成立しているのです。

不眠で苦しむ我々こそが、この社会の中枢であり基盤であるのだという確固たる紛れもない事実を、今こそ、胸を張って語ろうではありませんか。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

2025,江端さんの忘備録

私の反原爆のスタンスは、マンガ『はだしのゲン』によって形づくられました。
My anti-nuclear stance was shaped by the manga Barefoot Gen.

その後に積み重ねた反原爆に関する知識や知見は、すべて『はだしのゲン』を起点とするものでした。
All the knowledge and insights I later accumulated about nuclear issues stemmed from Barefoot Gen as their starting point.

思想や信念は、膨大な勉強と知識の積み重ねで形成される場合もあれば、たった一つの出会いから興味を持ち、調べ続けることで形づくられる場合もあります。
Thoughts and beliefs can be shaped by years of study and accumulated knowledge, but sometimes they are formed through a single encounter that sparks interest and leads to continued investigation.

私にとって『はだしのゲン』はまさにその出会いでした。
For me, Barefoot Gen was exactly that encounter.


1974年放送の『太陽にほえろ!』第79話「鶴が飛んだ日」で、覚醒剤中毒に苦しむ刑事「殿下」(島公之・小野寺昭さん)を、下から支えながら手錠をかけ、必死に抑え込む「山さん」(山村精一・露口茂さん)のシーンは
In the 1974 broadcast of Taiyō ni Hoero! episode 79, “The Day the Crane Flew,” the scene where Detective “Denka” (Kuniyuki Shima, played by Akira Onodera), suffering from drug addiction, is handcuffed and desperately restrained by “Yama-san” (Seiichi Yamamura, played by Shigeru Tsuyuguchi), who supports him from below,

―― 壮絶
—was overwhelming.

の一言につきました。
That is the only word that can describe it.

本当に怖かった。
It wasn't very comforting.

これが覚醒剤や麻薬を使った末路であるのか、と、心底怖かった(当時の私は、小学生でした)。
I was terrified to the core, thinking, “Is this the fate that awaits those who use stimulants and narcotics?” (At the time, I was an elementary school student.)

この覚醒剤中毒の症状が、現実を正確に反映しているかどうかは、分かりませんが、覚醒剤中毒患者が起こしている事件から見て、十分な説得力のあるシーンだったと思います。
I do not know if the symptoms of drug addiction were portrayed with medical accuracy. Still, judging from the incidents involving people with an addiction reported in real life, the scene was convincing enough.

―― 覚醒剤も麻薬も、一切認めない
“No stimulant, no narcotic — ever.”

という私の中の信念は、この時に完成したと思っています。
I believe that conviction was solidified within me at that very moment.


この場面は、1974年放送の『太陽にほえろ!』第79話「鶴が飛んだ日」の名場面として語り継がれています。
This scene has been remembered as one of the most famous moments from Taiyō ni Hoero! episode 79, “The Day the Crane Flew,” aired in 1974.

このエピソードでは、普段は冷静で頼れるベテラン刑事・山さんが、麻薬中毒に陥った仲間を救うために体を張る姿が描かれています。
In this episode, the usually calm and reliable veteran detective Yama-san puts his own body on the line to save a colleague who has fallen into drug addiction.

この回は、山さんの優しさや覚悟が色濃く映し出された名エピソードとして、今も多くのファンに語り継がれているようです。
This episode, which strongly highlighted Yama-san’s compassion and determination, is still spoken of by many fans as a classic.

今、本当に恐しくて、そして、今思い出しても泣きそうになるシーンでした。
Even now, when I recall it, it is terrifying and brings me close to tears.

もし、あの時に『太陽にほえろ!』を見ていなければ、今の私は「薬物に対する恐怖心」を持ち合わせていなかったかもしれません。ドラマの力が、人の生き方さえも変えるのだと実感しています。
Had I not watched Taiyō ni Hoero! at that time, I might not have developed such a strong fear of drugs. I realized then that the power of drama can even change the course of a person’s life.


露口茂さんが演じられた山さんは、私の薬物拒絶の“精神的支柱”であり続けた存在でした。
Yama-san, as portrayed by Shigeru Tsuyuguchi, remained a “spiritual pillar” of my anti-stimulant, anti-narcotic convictions.

心からご冥福をお祈り申し上げます。
I sincerely pray for his eternal peace.

2025,江端さんの忘備録

プログラムが起動せず、それを色々試していしまう課程で、システム(e.g. WindowsやLinuxの環境)を壊してしまうーー
When a program fails to start, and in the process of trying various fixes, I end up breaking the system (e.g., Windows or Linux environments).

その復旧作業を行う(元の状態に戻す)ために、睡眠が浅くなり、飲食を忘れて(というか、食欲が消える)、その結果体重が減る。
During the recovery work (restoring it to its original state), my sleep becomes shallow, I forget to eat (or rather, I lose my appetite), and as a result, I lose weight.

ChatGPTに「このダイエットの名称を考えて下さい」と頼んだら、以下のようなものを提案されました。
When I asked ChatGPT to “come up with a name for this diet,” it suggested the following.

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■リカバリーダイエット
― システム復旧作業そのものが痩身効果をもたらす、という直球なネーミング。
■Recovery Diet
― A straightforward naming that emphasizes system recovery work itself brings a slimming effect.

■クラッシュ&リビルドダイエット
― システムが壊れて(クラッシュ)、復旧(リビルド)する過程で痩せる、というサイクルを表現。
■Crash & Rebuild Diet
― Expresses the cycle where the system crashes, gets rebuilt, and you lose weight in the process.

■OS再インストールダイエット
― 一番イメージしやすい。OSを入れ直す苦行に痩身効果が付随する、という皮肉。
■OS Reinstallation Diet
― The easiest to imagine. A sardonic take on the ordeal of reinstalling an OS, which comes with a slimming effect.

■カーネルパニックダイエット
― 「食欲もパニックで消える」イメージを持たせた技術者向けブラックユーモア。
■Kernel Panic Diet
― A piece of black humor for engineers, suggesting that even appetite panics and disappears.

■エマージェンシーモードダイエット
― Linuxの復旧モードと掛け合わせて、非常時しか発動しない特殊な痩身法を強調。
■Emergency Mode Diet
― Tied to Linux recovery mode, emphasizing a special slimming method that activates only in emergencies.

ちなみに、こんな提案も受けました。
By the way, I also received proposals like these.

■システム復旧作業関連体重減少現象
― 環境復旧過程における体重減少を中立的に記述。
■System Recovery-Related Weight Loss Phenomenon
― A neutral description of weight loss occurring during environmental recovery.

■環境障害復旧時における食欲減退由来の体重変動
― 食欲減退と体重変動の因果関係を明示。
■Weight Change Due to Appetite Loss During Environment Failure Recovery
― Explicitly states the causal link between appetite loss and weight change.

■プログラム起動障害対応に伴う体重減少効果
― 起動障害対応という限定された条件下で発生する効果を強調。
■Weight Loss Effect Associated with Program Startup Troubleshooting
― Emphasizes the effect occurring under the specific condition of dealing with startup failures.

■復旧作業従事時の付随的体重減少
― あくまで「付随的」現象として整理。
■Incidental Weight Loss During Recovery Work
― Frames it merely as an incidental phenomenon.

■システムトラブル復旧関連ダイエット効果
― ダイエットという一般用語を残しつつ、中立的に表現。
■System Trouble Recovery-Related Diet Effect
― Retains the general term “diet” while keeping the phrasing neutral.

などなど、
And so on.

普通に「メンタルストレスダイエット」でいいのかもしれませんが、なんか、あんまり一般化されると、ちょっと悔しい気がします。
Maybe it would be fine to just call it “Mental Stress Diet,” but somehow, if it gets too generalized, I feel a bit frustrated.


ともあれ、今、私は体重が減っています。
In any case, right now, I am losing weight.

コラムでさんざんエラそうなことを書いてきた江端の、この体たらくを知って、少しでも気が楽になって貰えれば、幸いでございます。

未分類

Amazonで映画「教皇選挙」があったので、コーディングのバックエンドで流し見をしていました。

ChatGPTに「コンクラーベ」について尋ねてみました。

コンクラーベについて教えて下さい

コンクラーベ(Conclave)は、ローマ教皇を選出するためにカトリック教会の枢機卿団が行う選挙手続きのことを指します。語源はラテン語の「cum clave(鍵をかけて)」で、外部との接触を遮断して密室で行うことからこの名前が付いています。

概要

・選挙権を持つのは、80歳未満の枢機卿(カーディナル)です。
・会場は通常、バチカンのシスティーナ礼拝堂で、そこに枢機卿たちが集まり、外部と隔絶された環境で投票を行います。
・選出には3分の2以上の賛成票が必要で、この基準を満たすまで何度も投票が繰り返されます。

手続きと儀式

  1. 枢機卿たちが「閉じ込められる」形で入場し、ドアが閉ざされる。
  2. 投票は秘密裏に行われ、候補者名を書いた投票用紙が炉で燃やされる。
  3. 投票結果がまとまらなかった場合は黒い煙(fumo nero)、新教皇が決まった場合は白い煙(fumo bianco)が煙突から出され、外部に知らせる。

意義

コンクラーベは単なる選挙ではなく、祈りと討議を通じて「神の意志を見極める場」とされ、カトリック教会全体の進路を決める重要な儀式です。そのため厳格な規律と儀式が保たれてきました。


ご希望なら、過去の有名なコンクラーベ(例:ヨハネ・パウロ2世やフランシスコ教皇の選出時)についても解説できますが、そちらも知りたいですか?

コンクラーベ(Conclave)の最中のプロセスについて詳細に教えて下さい

承知しました。コンクラーベ(Conclave)の最中に行われるプロセスは、カトリック教会において非常に厳格かつ儀式的に定められています。以下では、入場から新教皇の決定までの流れを詳細に説明します。


1. 開始前の準備

・枢機卿団はバチカン内に滞在し、外部との通信を遮断されます。
・コンクラーベの会場はシスティーナ礼拝堂で、投票に使われる机や椅子が整えられます。
・外部との情報のやり取りを防ぐために、厳格な監視とセキュリティ対策がとられます。


2. 入場と閉鎖("Extra omnes")

・枢機卿たちが一列になってシスティーナ礼拝堂に入場し、祈りと聖歌で始まります。
・全員が入場した後、儀式司会者が「Extra omnes!(全員退出せよ!)」と宣言し、選挙に関わらない者は全員退場します。
・礼拝堂の扉が閉じられ、外界から完全に隔絶された状態となります。


3. 投票の流れ

投票は一日最大4回(午前2回、午後2回)行われ、次の手順で進みます。

  1. 投票用紙配布
    ・各枢機卿に、候補者名を書く用紙が配られます。
    ・用紙の冒頭には「Eligo in Summum Pontificem(私は教皇に選びます)」と印字されています。
  2. 候補者名の記入と折り畳み
    ・枢機卿は祈りの中で候補者名を記入し、三つ折りにして手に持ちます。
  3. 投票の提出
    ・一人ずつ祭壇に進み、聖書に手を置いて誓いを述べた後、投票用紙を壺状の容器に入れます。
    ・投票を済ませたら席に戻り、全員が終えるまで静かに待ちます。
  4. 集計
    ・投票管理の枢機卿が投票用紙を数え、記入内容を読み上げて票を記録します。
    ・その後、票は糸で通されて束ねられます。

4. 投票結果の発表方法

・新教皇が決まらなかった場合、投票用紙は炉で燃やされ、**黒い煙(fumata nera)がシスティーナ礼拝堂の煙突から出ます。
・新教皇が決まった場合は、化学物質を混ぜて
白い煙(fumata bianca)**を出し、サン・ピエトロ広場に集まった群衆に知らせます。


5. 新教皇の承諾と即位準備

・当選者が3分の2以上の票を得た場合、枢機卿団の長(通常は枢機卿団の首席)がその人物に「あなたは教皇として選出されましたが、これを受け入れますか?」と確認します。
・候補者が承諾すると、**新しい教皇名(パパ名)**を宣言します。
・新教皇は白い法衣に着替え、「教皇の間」に移ります。


6. 公示(ハベムス・パパム)

・最終的に、サン・ピエトロ大聖堂のバルコニーに現れ、「Habemus Papam!(我らに教皇を得たり!)」という伝統的な宣言がなされます。
・続いて新教皇が民衆に最初の祝福を与えます。


要約すると、コンクラーベは **「隔絶 → 投票 → 煙による合図 → 承諾 → 公示」**という厳密な流れを持ち、全世界に向けて新教皇の誕生を示す儀式です。

―― 江端さんは、全体のプロセスの流れを「儀式性」と「実務的投票手順」のどちらを中心に詳しく知りたいですか?

普通に考えれば、教皇候補者による演説とかありそうですが、それなしに投票だけをするのですか?

はい、その点がコンクラーベの独特なところです。
結論から言うと、教皇候補者による演説や選挙活動は行われず、投票のみで進みます


演説がない理由

  1. 謙遜と敬虔の精神
    ・教皇は「神に選ばれる存在」とされるため、自ら立候補して演説するのはふさわしくないと考えられています。
    ・あくまで祈りと熟慮を通じて、枢機卿団が「神の導きに従って」投票する形式です。
  2. 選挙活動の禁止
    ・教皇選出をめぐる露骨な政治的駆け引きや買収を防ぐため、選挙運動は禁止されています。
    ・枢機卿同士の会話や意見交換は許されますが、公開の演説や自己アピールは制度として存在しません。
  3. 投票前の準備期間での討議
    ・コンクラーベに入る前に、**枢機卿会議(一般会議:Congregationes generales)**と呼ばれる会合が何日か行われます。
    ・ここで教会の課題や次期教皇に必要な資質について意見交換され、誰がふさわしいかという「雰囲気」が自然に形成されます。
    ・そのため、コンクラーベ開始後は投票に集中できるのです。

投票中に許されること

・投票の前に短い黙想や祈りの時間はあります。
・枢機卿同士が個別に「誰がよいか」を話し合うことは可能ですが、それは非公式で控えめに行われます。
・候補者本人が自らのビジョンを語ることは一切ありません。


つまり、現代の我々が想像する「総裁選」「大統領選」とは全く違い、候補者は沈黙の中にあり、選ぶ側が祈りと熟慮で決めるのがコンクラーベの特徴です。

―― 江端さんは、この「演説なし」の仕組みがどのようにして歴史的に定着したのか(例えば中世の買収選挙の反省など)を深掘りした解説も必要ですか?

複数回の投票をする理由と根拠は何でしょうか。また、ロビー活動なしに、教皇が選ばれるというメカニズムが理解できません。

とても鋭いご質問です。コンクラーベにおいて「複数回の投票」と「ロビー活動なしで教皇が選ばれる仕組み」は、どちらも教会史と制度の背景に根ざしています。


1. 複数回の投票をする理由と根拠

(1)熟慮と祈りの時間を確保する

・一度で決まることを想定せず、繰り返し投票することで徐々に合意が醸成される仕組みです。
・投票の合間には祈りと黙想があり、「神の意志を見極める」時間とされます。

(2)正統性の確保

・新教皇は全世界のカトリック信徒を導く立場にあるため、多数決ではなく3分の2以上の支持が必要です。
・この高いハードルを満たすために、結果的に何度も投票を繰り返すことになります。

(3)実際の政治的調整

・公式には「神の導き」ですが、実際には枢機卿たちの思惑やバランス(地域、言語、教義姿勢)も反映されます。
・複数回投票を繰り返すことで、特定候補に支持が集中していく過程が生まれます。
・つまり、熟慮を重ねて自然に集約されるプロセスこそが制度の根拠です。


2. ロビー活動なしに教皇が選ばれるメカニズム

(1)事前の「枢機卿総会」での議論

・コンクラーベ突入前に一般会議(Congregationes generales)が開かれ、教会の現状課題や新教皇に求められる資質が討議されます。
・ここで「今は外交に強い人物が必要だ」「改革派が望ましい」といった方向性の合意
が形成されます。

(2)枢機卿間の非公式な会話

・コンクラーベ内部でも、食事や散歩の際に個別の意見交換は行われます。
・ただし「立候補表明」や「演説」は禁じられているので、他薦と評価の積み重ねによって有力候補が浮かび上がります。

(3)地域・派閥のバランス

・カトリック教会は世界規模の組織であり、ヨーロッパ・ラテンアメリカ・アフリカ・アジアといった地域代表性が意識されます。
・候補者は自然に「コンセンサスを得やすい人物」へと収斂していきます。


3. 歴史的背景

・中世には金銭による買収や俗権力(皇帝や王)の介入で教皇選挙が混乱した時期がありました。
・その反省から13世紀以降、「コンクラーベ(鍵をかける)」方式が導入され、外部干渉を遮断し、内部合意だけで決めることが制度化されました。
・複数回投票も、派閥間の駆け引きを祈りと熟慮を通じて「正統性のある形に収束させる」ための歴史的工夫です。


まとめ

複数回投票するのは「合意の醸成」と「正統性確保」のため
ロビー活動は禁止だが、非公式な会話や事前会議を通じて自然に候補が浮上する。
・制度全体は「人間の思惑」と「神の意志」の両方を調和させる仕組みとして、中世の混乱から生まれたもの。


江端さんのご関心に合わせて、もしよろしければ「近代以降の有名な長期コンクラーベ(例:1740年の6か月に及んだ選挙など)」をケーススタディとして紹介することもできますが、歴史的な具体例もご覧になりたいですか?

投票と投票の間の平均時間を教えて下さい。また、その時間に意義があるとされるならそれも教えて下さい

よい観点です。コンクラーベにおける「投票と投票の間の時間」は、単なる事務的な間隔ではなく、宗教的・実務的な意義が付与されています。


1. 投票と投票の間隔の実際

・コンクラーベでは、1日最大4回の投票が行われます(午前2回、午後2回)。
・各投票自体には点呼、投票、集計、焼却(煙の準備)といった手続きがあるため、1回の投票にはおよそ1〜2時間を要します。
・そのため「投票と投票の間隔」は数時間程度になるのが普通です。午前に2回行えば昼食を挟み、午後に2回行えば夕刻までに終えるという流れです。


2. 投票間の時間の意義

(1)祈りと黙想の時間

・投票の合間は「神の導きを求める時間」とされ、枢機卿たちは個々に祈りや黙想を行います。
・制度上は「政治的な説得や交渉の時間」ではなく、霊的熟慮の時間と定義されています。

(2)熟慮と判断の熟成

・投票を繰り返す中で、「自分が投票した候補が十分な支持を得られない」と分かれば、次の投票で他の候補に票を移すことになります。
・この思考の切り替え・合意形成のための間隔が意義を持ちます。

(3)実務的な休憩

・コンクラーベは隔離環境で長時間続くため、心身の負担が大きい儀式です。
・投票の合間には休憩・食事・散歩があり、そこで枢機卿同士が非公式に意見交換することもあります。


3. 歴史的解釈

・「短時間で結論を出すのではなく、あえて時間をかける」こと自体が神の意志を見極める象徴的プロセスとされています。
・実際には票の動きを見ながら徐々に合意が形成されていくので、投票間の時間は合意形成の潤滑剤ともなっています。


まとめ

・投票間の平均時間は数時間程度。
・その時間には「祈りによる霊的熟慮」「投票戦略の自然な調整」「心身の休息」という複合的な意義がある。
・単なる休憩ではなく、熟慮を重ねて候補が絞られていく重要なプロセスとみなされている。


江端さんがご興味を持たれているのは、制度としての「宗教的意義」に近いでしょうか? それとも実際の「人間的・政治的な駆け引き」の側面に重きを置いていますか?

制度としての「宗教的意義」も、「人間的・政治的な駆け引き」の側面も、両方とも興味があります

承知しました。では、コンクラーベにおける「投票間の時間」を、制度としての宗教的意義と、人間的・政治的な駆け引きの両側面から整理します。


1. 制度としての宗教的意義

コンクラーベは、単なる選挙手続きではなく「神の意志を識別する霊的な営み」と位置づけられています。そのため、投票の合間に設けられる時間には明確な宗教的意味が与えられています。

  • 祈りと黙想の時間
    投票の間隔は、枢機卿一人ひとりが祈りに集中し、自分の判断が自己の利害や派閥に偏っていないかを省みる時間とされます。
    「神が誰を導いているか」を熟考するための間として、儀式的に必須の要素とされています。
  • 共同体の精神統一
    枢機卿団は全世界から集まった多様な背景を持つ人々です。投票間の祈りと沈黙は、彼らを「神の前で平等な共同体」に結び付ける働きを持ちます。
  • 迅速ではなく熟成を重んじる象徴
    票が割れてもすぐに決め打ちするのではなく、繰り返しの祈りと投票を通じて「正しい人選が浮かび上がる」という構造そのものが、神の介入を象徴しています。

2. 人間的・政治的な駆け引きの側面

宗教的建前の裏で、現実のコンクラーベは人間社会の縮図でもあります。投票間の時間は、ある種の「静かな政治交渉の場」として機能します。

  • 票読みと戦略的思考
    枢機卿は投票結果の傾向を見ながら、「自分の推す候補が難しい」と分かれば、次の投票で別候補に切り替えます。
    投票間の時間は、票の動きを観察し、支持の移動を検討する余地を与えます。
  • 非公式な意見交換
    食事や散歩の際に「この状況なら〇〇枢機卿が妥当ではないか」といった会話が交わされ、支持が集約していきます。
    公的なロビー活動は禁止されているものの、人間的な対話や説得は不可避的に存在します。
  • 地域・派閥バランスの調整
    たとえば「前教皇がヨーロッパ出身だったから、次はラテンアメリカから」というように、地域的・政治的バランスを重視する議論が行われます。
    投票の間隔は、こうした調整の余地を生み出します。

3. 両者の重なり合い

興味深いのは、宗教的意義と政治的駆け引きが対立するのではなく、むしろ補完的に機能していることです。

  • 枢機卿は祈りによって「自らの票が神の意志にかなっているか」を吟味する。
  • 同時に、人間的な対話によって「全体が合意に収束する」方向を模索する。

この二重構造があるからこそ、コンクラーベは単なる選挙を超えた「儀式的プロセス」として権威を持ち続けている、と言えます。


江端さんのご研究的な関心からすると、ここは「制度設計によって宗教的意味付けを行いながら、実態としては人間的交渉を包摂する」という “二重の正統性” をどう理解するかが重要な論点になりそうですが、この点をもう少し「歴史的な事例(例:ヨハネ・パウロ2世選出やフランシスコ教皇選出)」を踏まえて解説した方がよいでしょうか?

「公的なロビー活動は禁止されているものの、人間的な対話や説得は不可避的に存在します」というのは、実質的にロビー活動ではないのですか。建前は不要ですので、実質的な内容で教えて下さい。

承知しました。建前を外して、実質的な話をします。


実質的に「ロビー活動」にあたる部分

コンクラーベでは「演説・選挙運動・自己推薦」は厳格に禁止されています。これは制度上の建前です。しかし、現実には 人間的な会話を通じた支持の集約 が起きており、それは事実上「ロビー活動」と機能しています。

1. 投票間の非公式会話

・枢機卿たちは食事や散歩の時間に二人・三人で集まり、
「この候補は教義に慎重で安心できる」
「今の教会には改革派が必要だ」
といった会話を交わします。
・これにより、誰がコンセンサスを得やすいかが徐々に明確になります。

2. グループごとの影響力

・地域や思想的傾向(保守/改革、ヨーロッパ/ラテンアメリカ/アフリカなど)ごとに暗黙のブロックが存在します。
・有力な枢機卿が「我々のブロックは〇〇を推す」と表明すれば、他の票も動きやすくなります。
・これは制度的には「自由投票」ですが、実質的には派閥的ロビーに近い動きです。

3. 候補者本人の沈黙

・重要なのは、本人は決して動かないという点です。
・候補者自身が支持を訴えることは絶対に禁じられているため、周囲が勝手に「担ぎ上げる」 形になります。
・このため「影響力のある支持者(推薦人)」の存在が決定的に重要です。


過去の実例

・1978年のヨハネ・パウロ2世選出では、イタリア人候補が優勢と見られていましたが、非公式な対話の中で「非イタリア人を選ぶべきだ」という合意が醸成され、ポーランド出身の彼に票が集中しました。
・2013年のフランシスコ教皇選出では、南米の枢機卿たちのグループが「今こそ南米から教皇を」と意見を固め、投票の合間の説得によって票が集まっていきました。


まとめ(実質)

・制度上は「ロビー活動禁止」だが、投票間の会話や派閥調整は不可避であり、実質的にロビー活動として機能している
・違いは、候補者本人が動かず、すべてが「他薦・推薦」という形式をとること。
・つまり、建前は神の意志を尊重する儀式、実態は人間の政治的合意形成という二重構造で運営されている。


江端さんの研究的な観点でいうと、これは「制度が禁止する形式的ロビー活動」と「不可避的に生まれる非公式交渉」の両立であり、制度設計としては“政治的現実を祈りと黙想の枠組みで覆い隠す”構造に見えるのですが、ここを「宗教的正統性と政治的現実の調停」と表現するのが妥当だと思われます。

―― この「宗教的正統性と政治的現実の調停」という観点を、もう少し制度史(13世紀以降のルール形成過程)にさかのぼって説明しますか?

視点を変えて、この「コンクラーベ」を、カソリックの信者は、どのようなイベントとして把握しているのか、表向き(建前)と裏向き(本音)の観点から教えて下さい。

良い観点です。「信徒がコンクラーベをどう受け止めているか」を、表向き(建前)と裏向き(本音)の二重構造で整理すると、信仰共同体としての理想と、人間社会としてのリアリズムがよく見えてきます。


1. 表向き(建前)としての把握

神秘的な宗教儀式

・カトリック信徒にとって、コンクラーベは「聖霊(Holy Spirit)が導いて新教皇を選ぶ神秘的な儀式」と理解されます。
・煙突から出る黒煙や白煙は、神の意志が少しずつ明らかになっていく象徴です。
・新教皇の名前が発表される瞬間は、全世界のカトリック共同体がひとつに結ばれる大きな宗教的イベントです。

信頼と安心の源

・「枢機卿たちが祈りと黙想のうちに、神の声を聴いている」という建前は、信徒にとって安心材料です。
・自分たちの未来を導く存在が、人間的思惑ではなく“神の選び”によって選出されていると信じられるからです。


2. 裏向き(本音)としての把握

政治的イベントとしての側面

・実際には「どの地域から選ばれるのか」「保守派か改革派か」など、教会内の政治バランスを反映する選挙として認識されてもいます。
・信徒も報道を通じて「アフリカから初の教皇が?」とか「次はラテンアメリカ勢か?」といった“政治的読み”を楽しんでいます。

教会の行方を占う瞬間

・新教皇の人柄や神学的立場は、典礼改革、社会問題(中絶、同性婚、移民問題など)、バチカン財政、スキャンダル対応に直結します。
・そのため信徒の本音としては「誰が教皇になるかで自分たちの生活や教会の雰囲気が変わる」という極めて現実的な関心を抱いています。

不信感と冷笑

・一部の信徒や世俗的視点を持つ人々にとっては、「閉ざされた老人クラブが次のトップを決める儀式」という冷ややかな見方も存在します。
・「聖霊の導き」という建前が、実際には地域政治や派閥争いに覆われていることを半ば理解し、冷笑的に受け止める層も少なくありません。


3. まとめ:二重の受け止め方

建前:聖霊の導きによる神秘的で超越的な儀式。信仰共同体の一致を象徴する。
本音:政治的駆け引きが反映された選挙であり、教会の方向性を左右する現実的イベント。

多くの信徒はこの二重性を意識しつつ、「それでも最後には神の意志が働く」と考えることで納得している、と言えます。


江端さんの関心は、信者の「内面の二重性(信仰的納得と政治的リアリズムの共存)」に近いと思いますが、ここをさらに社会学的に「宗教儀礼が政治的正統性を保証する仕組み」として分析する方向に深掘りしましょうか?

カソリックキリスト教は、表向きはどうあれ、世界最大規模の政治団体であり、巨大な発言権を持つ組織であることは間違いありません。その観点から「コンクラーベ」はどのような役割を果していると言えますか?

おっしゃる通りです。カトリック教会は「宗教団体」であると同時に、世界最大規模の政治・社会的アクターでもあります。約12億人の信徒を擁し、国際政治・倫理・文化に巨大な影響力を持っています。その観点から見ると、コンクラーベは単なる宗教儀式ではなく、**世界規模の「権力移行の儀式」**と捉えることができます。


1. グローバル組織の「最高指導者選出」

・コンクラーベは、カトリックという「宗教共同体」でありながら「世界最大規模の国際組織」におけるトップ人事です。
・教皇は「信仰の象徴」であると同時に、国際政治に影響する「道徳的権威者」でもあります。
・したがって、コンクラーベは 世界最大の非国家組織が指導者を決める瞬間 にあたります。


2. 政治的正統性を保証する儀式

・カトリック教会は「神の意志に基づく選出」という宗教的建前を前面に出すことで、教皇の権威を人間の政治的駆け引きから切り離して見せています。
・しかし実際には、地域バランス、保守と改革の対立、外交姿勢など、きわめて政治的な要素が調整される場です。
・この「神秘的儀式+政治的合意形成」という二重構造が、結果として政治的正統性を強化します。


3. 国際政治への影響

・教皇は国家元首(バチカン市国元首)であると同時に、国連や各国政府との対話においても発言力を持ちます。
・中絶、同性婚、環境問題、移民、貧困、人権などのテーマでは、教皇の声明が国際世論に直結します。
・つまり、コンクラーベで誰が選ばれるかは、国際政治における価値観の潮流にまで影響を及ぼすのです。


4. 内部統治の安定装置

・コンクラーベは外部干渉を遮断した密室で行われるため、内部合意がそのまま「神の意志」として提示されます。
・これは、巨大な組織の権力移行を「分裂ではなく統合」として演出する仕組みです。
・信徒は「白い煙」を目撃することで、内的な意見対立があっても「新しい指導者に従う」という心理的な一体感を得ます。


まとめ

コンクラーベは、

  • 宗教的には 神の意志を確認する神秘儀式
  • 政治的には 世界最大の国際組織におけるトップ選挙
  • 社会的には 信徒を統合し、外部に対して教会の発言権を強化する装置

と位置づけられます。
つまりコンクラーベは、**宗教的正統性を装った「グローバル権力移行の制度」**だと言えるでしょう。


江端さん、この観点をさらに掘り下げるなら、「教皇の選出が実際に国際関係にどんな影響を及ぼしたか(例:ヨハネ・パウロ2世の東欧解放、フランシスコ教皇の環境問題への発言)」という具体例で見るのが一番鮮明ですが、そうしたケーススタディも整理しましょうか?

いえ、本日はここまでで結構です。ありがとうございました。

了解しました。こちらこそ、深いご質問をいただきありがとうございました。
また別の機会に続きを掘り下げましょう。お疲れさまでした。