2007,江端さんの忘備録

某、と言っておきましょうか、ステージトーク集だけでCDが販売される某シンガーソングライターの歌手の方の話です。

私はこの人の歌も語りも大好きなのですが、この人の日本への偏狭的な語りにはうんざりしています(時代遅れの性差主義も結構げんなりしています)。

『こんなにも四季が豊かで、こんなにも美しい国が、世界の他にあるでしょうか』

あるよ。

腐る程あるよ。

いい歳こいて、まだそんな阿呆なことを言っとるのか、お前は。

と、まあ、この件(くだり)を聴く度に呟いてしまうのです。

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確かに日本も美しい国です。

長期間滞在する機会を得た北米コロラドには、ここに一人取り残されたら絶対に死ぬ、という人間の存在を全否定するかのような、絶対的な冷厳な自然の美しさがありました。

一年を過す機会は得れませんでしたが、中国大陸の奥地の朝焼け、インディス川の夕日、ネパールのチベット山脈を望む高地、フロリダのやさしく流れる風、冬のパリのモノトーン色の午後。

どこもここも、大好きな所でした。

私は、世界のどこにいたって、言葉が通じようが通じまいが、その土地を好きになり、そして十分な時間さえあれば、そこが一番良い場所だな、と思うことができると思います。

そもそも、その土地を慈しみ、大切に思う気持は、その土地の上に立ち生きている、生きとし生きる物(×者)すべての生命の属性だと思うのです。

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だから、私は「愛国心」を「育てる」という意味がさっぱり分からんのです。

あれは「育てる」のではなく、ほっといても「育つ」ものです。

上記の某歌手のように、遍く日本人の全てが日本こそが最高だと思う人になるように「育てる」というなら、これはあり得ると思います。

が、そういうのは「育てる」とは言いません。

こういうことを、普通「洗脳」と呼びます。

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(その1)

私が高校生の頃だったと思います。

ロシア(当時のソビエト連邦共和国)の領域を通過した、韓国の民間航空機がソビエト軍の戦闘機に撃墜されるという事件がありました。

後に「大韓航空機撃墜事件」と呼ばれる事件です。

今になってみると、冷戦はその後半部を終了し、数年後に終結を迎えることになっていたのですが、当時の誰もがそのようなことを予想すべくもなく、世界はこの惨事に声を失なったものです。

その後、この事件は、各国の主張が入り乱れて、何が何だかか分からない状況を呈していました。

先ずは、ソビエト側による否定、事実の隠蔽に始まり、日本の自衛隊による通信記録の傍受の公開、米国による追訴、そして、最後にアンドレイ・グロムイコ外務大臣の「大韓航空機は民間機を装ったスパイであった」という声明の発表に至ります。

当時、私は、民間人(296人)を満載した戦闘能力を全く有しない民間機を、正規軍の戦闘機が撃墜したという事実に対するショックに加え、人類として到底認容しえないこのような非道な暴力が、軍事的な観点からは『十分に認容され得る』という事実に、衝撃を受けたものです。

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大学に入学した後、私はいわゆる学寮達と共に議論を行うことを常とする「政治に極めて意識の高い自治寮」に入寮し、色々なことで(愚にもつかぬことも多かったですが)議論を闘わせたりしていました。

大学2年の夏休みに実家に帰省した私が、父の運転する助手席に座っていた時だったと思います。

どういう経緯で父とこの事件(大韓航空機撃墜事件)について話を始めたか覚えていませんが、その頃、少しだけ聞き齧った地政学の本の話を引用して、『この事件のソビエト側の対応を、認容できる部分もある』という論を展開していました。

私は、---- もし、『大韓航空機 = スパイ機』であったとすれば、または、その恐れがあったとすれば、例え、それが航空機の整備不良による事故であったとしても、ソビエトが国防の観点から、そのスパイ機の可能性がある旅客機を撃墜することは、ある意味仕方がなかったのでは------ と、自分の考えを言いました。

父は、私とそのような話をする時には、いつも嬉しそうに話の間の手を入れ、私の話がどんなに稚拙でも、その話の腰を折ることなく、最後まで聞き入れてくれたものでした。

その時の父は、いつもの父とは違う様子で、ハンドルを握りながら、フロントガラスを見つめながら言いました。

『智一。そうではない』

私は、少し驚いて父の横顔を見ました。

『航空機が民間機である以上、如何なる理由があっても、民間機を撃墜するということは許されない』

私は意外な感じを受けながらも、父に反論しました。

『もし、韓国機がソビエトの領空をスパイ目的で侵犯しており、国益を脅かすことが明らかであったとしても?』

父は、息子にキッパリと言いました。

『仮に、その航空機の機長を含め、また仮に乗客のほとんどがスパイであって、悪意の目的をもって、領空侵犯をしたとしてもだ。

そこにたった一人の無関係の乗客が乗っているのであれば、どのような者であれ、その命を奪う行為を正当化することはできない』

唖然としている息子に、父は静かに続けました。

『それが「人間」と言うもの、「命」と言うものではないか?」

それは、恐らく、沢山の命が奪われる現実を間の当りにしてきた者だけが持ち得る、魂から絞り出された言葉だったのだと思います。

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私は、サイドウインドウの方を向いて、そのまま黙り込みました。

胸の中に広がる熱いものに突かれて潤んできた眼を、父に見られたくなったからです。

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(その2)

私は2000年から2年間、仕事で米国に在住する機会を得ました。

この時、私が幸運だったことは、日本からチームとして参加することになり、チームのメンバの内、所帯を有するものは、家族とともに米国に滞在することになったこと。

そして、その家族の方々がいずれも気持よ良い方ばかりで、多くの交友を深める機会を得ることができたことでした。

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ある休日のこと、私は自分の担当していたプログラムの数行を修正する為に、休日に家族をつれて職場に出ました。そこで、私の先輩とその奥様に出会いました。

奥様は、当時、皇太子のご令嬢の誕生を、インターネットで確認する為に、先輩とともに職場に来られたとのこと。 (コロラドの少くともフォートコリンズという地域には、日本語向けのテレビ放送はなかった)

その時、私は『はあ、そうですか』としか応えられませんでした。

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私は、一度、無礼を承知で、奥様にお伺いしたことがあります。

『芸能人の誰かが結婚したとか離婚したとか、そういう週刊誌に掲載されるような内容は、興味の対象になり得るものでしょうか』と。

これに対して、奥様は、「トム(Tom)」(赴任先では、全員がこのような愛称で呼び会うことが、赴任先の会社のルールとして統一されていた)と、私をお呼びになられた後、次のように続けられました。

『あなたは、自分の大切な家族や友人が、幸せになったり不幸になったりした時に、それを「興味の外」ととして置いとけるものでしょうか?』

『いえ、そのようなことはないと思います。家族や友人を思い、同じように、喜び、または悲しむと思います。また、そのような人間で在りたいと思います』

『私も同じです。私も友人達の不幸に悲しみ、幸福に喜んでいるだけです』

しかし・・・と言いかけた私を制して、奥様は続けられました。

『違いがあるとすれば、私はその友人を良く知っているのですが、逆に、その友人は私のことを全然知らない、という、ただそれだけのことなのです』

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私は、このパラダイムを提示された時の衝撃を忘れられません。

冗談でも、揶揄でもなく------、私は今でも、この奥様のことを尊敬できる人々のお一方であり、心から敬愛すべき対象であると、固く信じております。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、 転載して頂いて構いません。)

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社内報リレー随筆

「人の言うことを聞かない能力」

2004/01/10
[その1]

インターネットが、電話線で細々と繋がっていた頃、私は未来のインターネットを夢想して、張り切って特許明細書を書いてましたが、私より数段偉くて頭の良い人から『意味がない』と論理的に説得されてその執筆を止めてしまったことがあります。

そして今、その発明を他社が実施しているのを悔しい思いで見ながらも、今なお、その論理を論破できない自分がいます。

私が心の底から悔しいと思うことは、世間がなんと言おうが、論理的に破綻していようが、私が信じるものは絶対である、という狂信的な思い込みを持ち得なかった自分に対してです。

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[その2]

数年前に私が結婚を決意した時、私の回りは一斉に反対の声を上げました。

私に結婚を思い留まらせる為に合宿まで企画されました(本当)。

『写真のこの娘は堅気の娘ではないか。暗黒サイドのお前とは所詮住む世界が違う!』(暗黒サイドって何?)。

実際、その当時彼女自身、本当に私と結婚したかったかどうかも疑わしく(と言うと嫁さんは『何を言うの!たとえ、あなたが売れない場末の芸人であっても、私は・・』と言い返すのですが)、私は彼女の意見すら十分に聞かずに結婚に踏み切りました。

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[結言]

私達は自立した社会人として、人の話をきちんと聞かねばなりません。

しかし時として「人の話を聞かない能力」を問われるものが世の中に2つだけあります。

それが「特許」と「愛」です。

お忘れなきよう。

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江端さんのひとりごと
「それでも貴方は特許出願したいですか?」
(出展はこちら → https://www.kobore.net/reject.txt)
(※)この文章は2002年における特許法をベースとしております。その後、何回も法改正が行われておりますのでご注意下さい

 

特許関連の資料が山積み(国内拒絶1、米国拒絶1、ヨーロッパ拒絶1、米国継続出願2(内、一つは面識のない日立のOB))になっており、自分でも何が何だか分からない状態になっております。

景気よく調子にのって、自分のアイデアを世界各国に特許出願すると、数年後に、各国から拒絶通知書の嵐となって戻ってきます。

特許出願するだけで、

―― 一生、遊んで暮せる

などという夢みたいなことを考えている人も多いようですので、その夢、この機会にしっかりと打ち砕いて差し上げます。

まず、「特許出願」をします。

特許明細書の記載方法はとても面倒で、決まりごとの嵐です。

同じ発明が、出願の一秒でも前に誰かによって出願されていたら、その出願はその時点でゴミとなります。

ゴミとならないためには、その調査をしなければなりません。

特許法成立以来の全ての膨大な出願済みの特許を*全部*調べなければなりません(「公知例調査」)。

さて、この段階で該当する公知がなかったとします。

しかし、出願された特許は、1年半の間公開されませんから、未公開の特許の中に、同じ特許があっても、やっぱりパーになります。

さて、この出願した特許は、3年間ほっておくと、自動的に消滅し、何もなかったことになります(出願を取り下げたと見なされる)。

特許出願を、「特許権」にするには、3年以内に特許庁に対して「審査請求」なる請願をしなければなりません。

審査請求をすると、ほぼ100%、特許庁から「この発明は受付られん!」と拒絶を打たれます(「拒絶通知」)。

この拒絶を取り下げて貰うために、特許請求の範囲を小さくしたり、意見書を提出したりしますが、なお受けられないと言われれることがあります(「拒絶査定」。

拒絶査定を取り下げて貰う為には、「拒絶査定不服審判」という裁判フェーズに突入します。

こうなると舞台は、東京高等裁判所に移ってしまいます。

この裁判で、差し戻し命令が仮に勝てたとしても、別の内容で拒絶を打たれたら、もう上記の「拒絶通知」からやりなおしとなります。

この闘いのフェーズを越えたら「設定登録」、すなわち特許権の発生です。おめでとうございます!! ・・・と言う程、甘くはない。

設定登録から6ヶ月間、この特許権を叩き潰す新たな闘い「特許異議申立」と言うフェーズが始まります。

この申立は、競合会社のみならず、赤ん坊でも、その辺の子供でも、あなたの特許を潰す権利があります。

卑近な例ですが、あなたの特許に記載した発明と同じ内容を、例えば、近くのオバチャンが井戸端会議で話題にしており(「公然知られた状態」)、実際にオバチャン連中を集めて自宅で試していた(「公然実施された状態」)と言うことを、別のオバチャンがメモしていたという事実があれば十分。

そのメモを特許庁に送りつけるだけで、あなたの特許権は、確実に潰されます。

これを覆す為には、「特許異議申立無効審判請求」と言う審判の請求を経て、再び裁判を始めることになります。

やっと闘いが終って、掴みとったあなたの特許権。

これでようやく安泰かと言うと、次の闘いのフェーズは、「特許無効審判請求」。

あなたの特許を叩き潰し、安心して製品を作りたい会社が立ち塞がります。

これに立ち向かう為には、自らその無効の内容を訂正する「訂正審判請求」でこの攻撃を交す必要があります。

この訂正審判とは、自分の特許権の一部を、放棄するものです。

すなわち、特許権という権利自身が生き残るために、自分の腕や足を、自ら日本刀で切り捨てるようなものです。

――  特許権とは、死ぬことと見つけたり

肉を切らせて、骨を断つ。

特許権の闘いとは、ダンディズムの極致とも言えましょう。

特許権を生き永らせたい特許権利者と、可能な限り早く抹殺したい第三者の闘いは、特許権の寿命たる20年の間、いついかなる時でも発生しえるのです。

さて、ここまでの話は、単に、特許権を潰そうとする敵をかわすためのものだけです。

皆が、特許権に群がるのは、それでお金を儲けたいと思うからだと思いますが、はっきり申し上げておきましょう。

特許権でお金が取れる期待値金額は、マクドナルドでハンバーガの売り子をやっているより、・・・、いやいや、もっと正確な引用をするのであえば、夜中に駅の構内で、ギター片手に下手糞な歌を歌うような阿呆な若者が、おひねりを貰うための空き缶に入れられる小銭の金額より、ずーーーーーーーーーーっと少ないんですよ。

# あの程度の低い歌唱力で、金をカンパして貰おうという厚かましさは、体、どこから来るのだろう。逆に金を払って貰いたいくらいだが。

もしあなたが、あなたの特許権で儲けたいと思うのであえば、*あなた自身*が、その特許を侵害している人や会社を見つけなければなりません。

あなた以外の誰も見つけてくれませんし、邪魔こそすれ協力なんぞ絶対にしません。

特許侵害を見つけて嬉しいのは、特許権者のあなただけ。

他の人にはどうでも良いことですから。

仮に見つけたとしても、今度は特許侵害の訴訟を*あなた自身*が起こさねばなりません。

これを特許侵害をしている人の立場から述べてみると「例え特許侵害をしていても、見つからなければO.K.」と言うことです。

実際、見つかり難い内容の発明なら、侵害を発見する可能性(顕現性)は、ずっと小さくなります。

例えば、プログラムの中のアルゴリズムの中にある特許侵害を、ソフトウェアを使っているだけで見い出せる人がいたら、その人は人類ではなく、神様でしょう。

こんなものは無理というか無茶です。

ですから、特許発明としては、顕現性の優れた、例えば「ゴキブリホイホイ」の発明とかの方が、断然優れているわけです。

とどめに、--- 実際のところ日本においては、これが大問題なのですが---

日本国の特許権者の勝訴率は、欧米のそれに比べてもの凄く小さい。

―― 闘えば、必ず負ける

と言うくらい、特許権者サイドの勝訴率は低いと聞いたことがあります。

今一度、あなたにお尋ねします。

―― それでも貴方は、特許出願したいですか?

(後略)

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江端さんのひとりごと「メールのやり取り(その8)」

地平、江端共著
大学の研究室の後輩、地平茂一氏とのメールのやりとり

--------------- 地平氏から結婚の御報告 ----------

皆様、ご無沙汰しております。 地平でございます。 (まさかに忘れた、っちゅう人はおられないとは思うのですが)

年の瀬も押しつまってまいりました今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

実は風のたよりで聞かれた方もおられるかも知れませんが、長年の独身生活についにピリオドを打ち、結婚することになりましたので、ご報告させて頂きま す。

と言っても、実は入籍は先月(11月3日)に済ませておりまして、今はもう二人で暮らしております。(いわゆる披露宴的なものは、身内中心でささやかに来春、東京にて行う予定でおります。)

いかんせん、事実上知り合ったのが今年に入ってからでして、皆様も驚かれた かも知れませんが、誰よりもわたくし自身が驚いている様な状況です。

というわけでこの半年、ドタバタの連続でして、皆様へのご報告が遅くなってしまい ました。 今更ですが申し訳ございませんでした。 (念の為言っておきますが、「できちゃった」ではありませんからね)

尚、嫁さんになってくれる、という奇特な人は札幌生まれの札幌育ちなので、 これからは旅費だけで北海道スキーを楽しめるわけですが、もちろんそれが理 由で結婚したわけではないことは、この場において強く強調しておきたいと思 います。

(中略)

本メールの宛先のアドレスは過去のメールボックスをひっくり返して なんとか発掘したものですので、どれだけエラーで帰ってくるか、 ちょっと恐ろしいのですが、無事着くことを心から祈りつつ発信します。

戸川さん(旧姓 今井田)は九分九厘エラーになって返ってきそうな気がする。。。

最近、住所が変わられた、という方がおられましたら、住所を教えて頂けます と非常に助かります。 あと、「あのひとのメールアドレスも知ってるえ」と言う方がおられましたら 是非教えてください。

お仕事中失礼致しました。

今後とも宜しくお願い致します。

じひら@今シーズンは VolklのT50 Supersport ☆☆☆☆☆(Five star)を購入 しました。

--------------- 江端から地平氏へのリプライ ----------

さて、近年稀にない、このようなつっこみどころ満載のメールをどう料理しようかと考えていると、思わずオフィスで高らかに哄笑しそうなので、自宅に 帰るまで、ネタを溜めることにします。

6年の月日を経て、ようやく反撃、いやもとい、祝福できるのかと思うかと 思うと、こみ上げる喜び、もとい、慶賀を抑えきれません。

http://www.kobore.net/tex/alone96/node5.html

『やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かぬ』 山本五十六長官

『やってみせて貰い、言って聞かせて貰って、させてみせて貰い、誉めて貰わ なければ、私は動かぬ』 江端智一研究員

--------------- 地平氏から江端へのリプライのリプライ ----------

江端 智(*1) 研究員様 何卒お手柔らかにお願い致します。

地平 茂(*1)

PS ちなみに今のところエラーメールで帰ってきたのは 今井田、三宅、東野、水上 の皆様でした。(この返信の宛先からは抜いています。) どなたかこの4名様の今のメールアドレスをご存知の方は ご連絡頂けると嬉しいです。

今井田、三宅の両氏の追跡は難しそうですが。。。
(*1)http://www.kobore.net/tex/alone96/node5.html

------ 江端から地平氏へのリプライのリプライのリプライ ---------

お待たせ致しました。 真打ち登場でございます。

Jihira> 実は風のたよりで聞かれた方もおられるかも知れませんが、

Jihira> 長年の独身生活についにピリオドを打ち、結婚することになり

Jihira> ましたので、ご報告させて頂きます。

我々の身内では、高らかに独身主義を標傍して憚らなかった奴から、纏まる という妙なトレンドが観測されておりました。

誰とは言いませんが、私の他では、女性2名など。

ところで上記の引用文、「長年の独身生活についにピリオドを打ち」の下りに、いささかの異議申立など。

上記表現は、あたかも著者が独身生活を自らの主体的意思で選択していたかのような誤解を読者に与えると言う点において、表現に瑕疵があると言わざ るを得ません。

プライドをかなぐり捨て、今の嫁さんに媚びて、ようやく結婚に至ることができたという、私の非常に親しい友人の友人の神経を逆撫でしたことは言うまでもありません。

ここは、

「一緒になって貰うために、地に這いつくばい、泥をすすり、自尊心を投げうって、彼女の足を舐めるような屈辱を経て、結婚を承諾して貰った」

と言う、自然な考察による自然な思考の流れから帰着する、当然の結論として合致する、なによりも、真実の記述をして貰わなければ、前記の私の友人は勿論として、我々としても釈然としないものがあります。

どだい、この程度の汎用的表現の塊からなる「結婚しました報告」を受理するほど、私は後輩に甘い指導をしてきた記憶はありません。 当然、「再提出」の一言で却下されるものであることは、何よりも本人が自覚しているはずです。

Jihira> と言っても、実は入籍は先月(11月3日)に済ませておりまして、今はもう

Jihira> 二人で暮らしております。(いわゆる披露宴的なものは、身内中心で

Jihira> ささやかに来春、東京にて行う予定でおります。)

ま、これは当人達の問題であり、回りがとやかく言うようなものではありません。

しかし、人生にはバランスと言うものがあるはずです。

様々な結婚式に出席し、その度にイベントあるいはスピーチで、新郎あるいは新婦の権威(有名私立大学を、優秀な成績で卒業し、後輩に慕われ、将来を嘱望されている)を、これでもかと言う程に、地に落し続けてきた、その当の 本人が

「ささやかに」

だとぅ?

甘いな。

我々がこのような暴挙を看過していると考えるのであれば、それは、アメリカのケーキよりも甘いと言わざるを得ない。

因果応報。 これからの長い人生を生きる、新しいカップルの為にも、単なる文字だけでなく、シンタックスだけでなく、そのセマンティックスまで骨の髄まで教えて やるのが、真の友人、後輩、そして先輩と言えるのではないでしょうか。

Jihira> いかんせん、事実上知り合ったのが今年に入ってからでして、皆様も

Jihira> 驚かれたかも知れませんが、誰よりもわたくし自身が驚いている様な

Jihira> 状況です。というわけでこの半年、ドタバタの連続でして、皆様への

Jihira> ご報告が遅くなってしまいました。今更ですが申し訳ございませんでした。

Jihira> (念の為言っておきますが、「できちゃった」ではありませんからね)

わかっております。

「できちゃった」

ではなく、

「できてしまいました」あるいは、 「主体的意思で作りました」あるいは、 「創作しました」あるいは、 「創造しました」

ですね。

私もかねがね、生命の神秘、および命の尊厳に対して、このような軽薄な言語で表現し、かつ公衆の良俗を逸脱する世間の振舞いを、普段より不快に思っておりました。

命とは、生命とは、「できちゃった」などで表現されるものでは断じてありません。 私の後輩が、かように礼を重んずる社会人になってくれたかと思うと、感涙の涙を禁じ得ません。

上記、確かに了解しました。

Jihira> 尚、嫁さんになってくれる、という奇特な人は札幌生まれの札幌

Jihira> 育ちなので、これからは旅費だけで北海道スキーを楽しめるわけ

Jihira> ですが、もちろんそれが理由で結婚したわけではないことは、この

Jihira> 場において強く強調しておきたいと思います。

無駄です。

このような弁明を信じるくらいなら、来年のノーベル賞に江端がエントリーされているというデマを信じる方が、相当真実味があります。

以上、後輩の晴れある将来と、その果てしない幸せな日々を祈って、心からのメッセージを送らせて頂きました。

では、お開きとして、結婚する人生と、結婚しない人生の両方を経験してきた、人生経験豊かな私から一言、申し上げます。

命を賭けて、嫁さんを守るのです。

さすれば、結婚は目も眩むほど楽しいものになります。

----- 地平氏から江端へのリプライのリプライのリプライのリプライ ------

遅くなりました。

およそわたくしの知る限り、みずから「真打ち登場でございます」 などと大上段に名乗って出てくる人は、2人しか知りません。

そのうちの一人は (遠い目をしてみる) 。。。

人の間違いは決して見逃さない鋭利な観察力を持ち、

自分の間違いは決して認めない鋼鉄の意思を持ち、

後輩に非常に厳しくあたる慈父の愛を持ちつつも、

先輩には下僕の如く仕えて尊敬の念を絶やさず、

見てもいない結婚式を「先ほど無事に結婚式を終えられた」と報告し(*2)、

名前という「記号」にはあえてこだわらずにその人の本質と向かい合い、

自らの権益を脅かすものに対してはMicrosoftの如く徹底的に戦い、

他人からの追求に対しては日本政府の如く徹底的に争点をぼかす。

政治家として生を受ければ一国の宰相となり、 経済人として生を受ければ財界を支配し、 文学者として生を受ければ文豪の名をほしいままにし、 研究者として生を受ければノーベル賞を受賞する。(しかも癒し系)

わたくちたちはその方をやはり愛していた、いえいえ過去形ではいけません。 愛しているのだと思います。 「よしこ」と呼ばれようが、「きくぞう」と呼ばれようが、はたまた「茂」と 呼ばれようが、そんな上っ面だけの記号ではなく、個々人の本質とつきあおう、 としてくれた先輩の存在ほど鬱陶しいものは・・・ではなく、有難いことはあ りません。

(*2)I嬢の結婚披露宴の時、司会の準備の為に結婚式に出席できなかった時の ことを言っているらしい

ですので、あえて突込みどころを残し、満載にしたメールに鬼の様に突っ込まれようとも、その愛が揺らぐことはありません。 いや、その愛はつのるばかり、と言っても過言ではないでしょう。

そんな愛の一端を、尊敬すべきその方の結婚式の場においてつたない言葉なれど、発露させて頂く機会を得ましたことはわたくしの人生におけるこれまでで は最大のハイライトであったと言っても過言ではないでしょう。

さて、くどいようですが、誰がなんと言おうが、この度わたくしは長きにわたる独身生活にピリオドを打ち、ささやかなる結婚式を来春東京にて挙げさせて頂きます。

このメールの宛先の皆様(届かなかった方も数名おられますが)を全員ご招待し たいのはやまやまなのですが、残念ながらそういうわけにもいかず、誠に心苦 しいのですが代表ということで首都圏在住の皆様をご招待させて頂きたい、と 考えております。

何卒ご了承頂きたく、宜しくお願い申し上げます。

幸い、一番うるさいのはアメリカにいるので丁度いいですしね。

え?

帰ってきてる?

うそ?

しかも首都圏?

うそ、あの人、名古屋人やん

ほんと?

えーーー

こほん

訂正

さて、くどいようですが、誰がなんと言おうが、この度わたくしは長きにわたる独身生活にピリオドを打ち、ささやかなる結婚式を来春東京にて挙げさせて頂きます。

このメールの宛先の皆様(届かなかった方も数名おられますが)を全員ご招待したいのはやまやまなのですが、残念ながらそういうわけにもいかず、誠に心苦しいのですが代表ということで首都圏在住で、かつ、ノーベル賞を目指していない方をご招待させて頂きたい、と考えております。

何卒ご了承頂きたく、宜しくお願い申し上げます。 (ぺこり)

以上、真打ちからのお礼の言葉でした。

駄文・長文の無礼をお許しください。 また、暖かいお言葉を送っていただいた皆様、心のなかでつぶやいていただいた皆様、本当にありがとうございました。 今後とも宜しくお願い致します。

じひら

PS 東野さん、水上、三宅、戸川さん(旧姓今井田)のアドレスをご存知の方、 その他、機器件の面々のアドレスをご存知の方がおられましたら、適宜転送し て頂くなり、わたくしにご一報頂けますととても嬉しいです。

それでわまた

(本文章は、全文を掲載し、内容を一切変更せず、著者を明記する限りにおい て、自由に転載して頂いて構いません。)

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江端さんのひとりごと
「配線学」

2001/06/29

ベストセラーとなった、「話を聞かない男、地図の読めない女」を夫婦で読んで以来、嫁さんは、旅行中のナビゲーション担当を完全に放棄してしまいました。

この本は、全女性から「地図を読む」と言う生活必須の行為を放棄せしめ、彼女らに、地図が読めないことを正当化させてしまったと言う意味で、焚書に値する悪書であります。

私は、サンフランシスコや、ロサンゼルスの高速道路を、時速75マイル(120km)で運転しながら、コンマ1秒以内で、地図とGPSの座標を同時に読み取ると言う、ある意味『サーカスの綱渡りなんぞ、なんぼのもんじゃ』と言う程危険なこともせざるを得なくなってしまいました。

一方、この本が主張する(「話を聞かない男」と言うのはよく分からんが)、「冷蔵庫の中にあるマヨネーズを見つけだせない」「箪笥から該当のジーパンを探り当てれない」などは、恐しい程に当っているため、嫁さんのナビゲーション担当の放棄をあからさまに批判できない私がいます。

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私が中学の頃、「技術家庭」なるクラスがありました。

男子と女子が分かれて講義を受けると言う、時代錯誤も甚だしい ---- と言うよりも、今になって思えば、無益な区別をしていた授業がありました。

当時の文部省は、現在の結婚の高齢化、結婚率の低下、離婚率の増加などを全く、予測できなかったのしょうか。

勝手な言い分かもしれませんが、先見の明のない役人だ、と思います。

男子生徒と言う理由だけで、使いもしない本箱や、実用に耐えないドライバーやらを作らせて、一体どうする。

そんなもんなくても生きていけます。

生きることの基本は、飯です。

栄養バランスの悪い外食に頼らないように、先ず自炊から教えないかんでしょうが。

一体、何の為の義務教育だ。

私のように、一月に一度、市民サークルの「男の料理教室」に通っていたような人間は特殊な部類に入るので除外するとして、アパートに帰ったら、ピザをレンジで暖めるだけの夕食、あるいは、ソーセージを突込んで煮たてるだけのスープを喰うような大量の男達を、文部省はどう捉えているのでしょうか。

上記の話が嘘だと思うのであれば、私は、日立の各事業所からアメリカに来ている独身男のサンプルを、山ほど提出してみせます。

まあ、とにかく、ここで私の主張したいことは、数学も英語も大事かもしれんが、先ず、家庭科(と言うか家政学)を徹底的に叩き込まねば、今の世代は勿論、次世代の日本も非常に危うい、と言うことです。

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私は、国語と技術家庭のカリキュラムに、それぞれ次の2項目の追加を提言したいと思います。

それは、「マニュアル学」と「配線学」です。

太宰も芥川も漱石も良いだろうが、それより先に、マニュアルの読み方を教えなあかんだろうが、文部省。

『マニュアルの内容は、わからん』と言う奴の話をよく聞いてみると、一度もマニュアル開いていなかった、なんてふざけた話はざらにあります。

こういう甘ったれを叱り飛ばすのは易いですが、それでは何の問題解決にもなりません。

実際、マニュアルの内容が判りにくいのは事実です。

その理由としては、マイコンを使った各種製品の高機能化、それに共なうユーザインターフェース(ボタンやらスイッチ)数の増大が挙げられます。

限られたインタフェース(例えば3つのスイッチ)で、100以上の機能を実現するには、そのスイッチの時系列方向の組み合わせに依存するしかありません。

具体的には、『Aのスイッチを2秒押し続けながら、Bのスイッチを2回押し、最後にCのスイッチを、電子音がするまで押し続ける』等。

はっきり言って、こんな操作は、普通の人間には無理です。

しかし、それが可能な人間もいます。

その製品の製作者と、マニュアルの執筆者です。

なんったって、彼等は、その製品の開発過程で、100を越えるマイコンのパラメータを同時にトレースし、デバッグを行っているのです。

製品のインターフェースなんぞは、それらのパラメータのほんの一部に過ぎません。

彼等の感覚からすれば、「マニュアルの内容が判らん」と言うこと自体が判らんでしょう。

これらの根本的な解決方法は、100以上の機能を、5つ以下にすることですが、他社製品との競争上、むやみに機能を落すこともできません。

しかし、この「機能」の件に関しては、購買客も悪いのです。

日本中が、バブル景気で踊り狂っていたとき、私は、ファジィ・ニューロ制御の炊飯器や洗濯機や電子レンジを作っていました。

ファジィ・ニューロ制御が、一体どのようなもので、本当のところ、どれほど役に立っていたか、私は本当によーーーく知っていました。

ファジィ・ニューロが、本当に旨い米を焚くことが出きたかどうか -----

私は、この秘密は自分の墓の中に持っていくつもりですが ----- は、さておき、「ファジィ・ニューロ機能」と書かれていれば、客はそちらを購入したのです(と言うか、こう書かないと売れなかった)。

技術者の立場からすれば、
『高機能を要求すれば、その操作が難しくなるのは、当たりまえではないか!』
『己の頭の程度と相談して、製品を購入せんかい!!』

と言いたいこともありますが、メーカーの社員の立場では、そのようなことは口が裂けても言えません。

で、「これっきりボタン」とか出てくる訳ですが、それについては、いずれまたの機会に。

マニュアルの話に戻ります。

どだい、技術者の理系的発想で記述されたマニュアルが、読みやすいものになる訳がないのです。

技術者は、「動かないのが当たり前」「動かすのが仕事」と言う認識で、技術開発をしています。

「電源入れれば、動いて当たり前」と考えるユーザと同じ視点に立てる訳がない。

ですから、ここは、一つ文系的な見地から、マニュアルを見なおす必要があると思います。

私は以下の事項を提案します。

文部省は、まず全国の国立大学に、「文学部マニュアル学科」を設立し、体系的なマニュアルについての学問を推進します。

次に、義務教育過程に、「マニュアルの読みかた」と言うカリキュラムを導入します。

中間、期末の国語のテストには、次のような問題が出されるようにならなければなりません。

設問10 以下のマニュアルを読んで、問に答えなさい。

ethereal-*-non-capture.zipでは、パケットキャプチャはできないので、ethereal-*-capture.zipのほうを落とします。この段階で、c:\bin\etherealには、2つのzipファイルがあるはずです。これを、c:\bin\etherealの中で展開します。ethereal-0_8_8-capture.zipの方が、ディレクトリを掘ってしまうので、展開後にc:\bin\etherealのディレクトリを作って移動させて下さい。

(1)以下の単語の読みがなと、意味を書きなさい。

読み 意味

zip ( ) ( )

bin ( ) ( )

(2)このマニュアル内の、2個所の不適切な表現を選んで、それぞれ正しい文章

に直しなさい。

(3)このマニュアルを書いた作者の心情を30文字以内で記述しなさい。

受験用の参考書としては、「やさしいマニュアル学」「精解マニュアル解読」などが出版されることでしょう。

マニュアルは、「読む」「理解する」の次元を超越して、「感じる」ところまで高みに至る必要があります。

『あのマニュアルは、泣けた』とか『私の人生を決めたのは、この一冊のマニュアルです』と言う発言が日常会話で普通に出てくるようになるまで、マニュアル学は、高まる必要があると思います。

-----

次に「配線学」について述べます。

テレビ、ビデオは勿論、パソコンなど、今や「配線できぬもの、文明人にあらず」は、もはや誇張でも何でもなく、事実、配線ができないと、人並にAV機器や電子メールを楽しむことすらできません。

女性はこの配線に関しては弱い、と断言して良いでしょう。

一方で、男性は、収納に関しては、致命的なほど無能です。

理由はよく分からないのですが、女性はスカラー量には強く、ベクトル量には弱く、男性はその逆、と思われる場面が多いです。

配線とは、つまるところ「流れ(ベクトル)」を理解するだけのことなのです。

例えば、ビデオデッキを例に上げれば、

(1)映像を流し出すところと、それを受けるところ(テレビ)がある
(2)音声を流し出すところと、それを受けるところ(テレビ)がある
(3)その映像と音声を受けとるところと、それを出すところ(アンテナ)がある。
(4)電気を受けとるところがある。

と4つの「流れ」があり、それを正しく流すように線を継いでやれば、必ずビデオは動くのです。

ところが、配線が苦手な人は、この(1)-(4)が、頭の中で大混乱している訳です。

で、結果として何をしてしまうか。

総当たり戦を実施してしまう訳です。

映像出力端子、映像入力端子、音声出力端子、音声入力端子、NTSCケーブル2本、アンテナ線用同軸ケーブル、これにS端子でもついていたら、配線の組み合わせは、軽く100を越えるでしょう。

ビデオごときで、総当たり戦を実施している人に、パソコンの組み立てなんぞやらせたら、組み合わせ爆発は必至。

パソコンが動き出すのに25世紀くらいまでかかってしまう。

このような「配線問題」に関しては、現状2つのアプローチがあると思われます。

(1)「配線は素人にはできない」と割りきって、「配線サービス」と言う新しい産業の育成に力を注ぐ

(2)「配線学」を義務教育課程に組みこむ

の2つです。

しかし、私は、(1)の「配線アウトソーシング」が、一つの産業になるのは難しいであろう、と推測しています。

3万円のビデオデッキに、出張費と拘束時間を考え、安く見積っても1万円以下にはならないであろう配線サービス料金を、本当にエンドユーザは払えるだろうか。

そもそも家電製品と言うものは、大量生産によるコスト低減を掲げて製造されるものです。

激しいコスト競争の中で扱われているこれらの家電製品は、それ自体、ソフト的なサービスとは合い入れません。

ソフトサービスをエンドユーザに押しつけて、コストダウンを図る。

これが家電製品の市場原理なのです。

上記の分析が示すことは、当面の間、「配線問題」は、独力、あるいは、プライベートな極めて狭い範囲の人間による解決しかありえない、と言う悲観的な結論となります。

ですから、私は(2)の「配線学」を義務教育課程に組みこむしかないと思います。

ラジカセの操作は、小学3年生までに、

ビデオデッキは、小学6年生までに、

パソコンの組み立て(周辺機器付き)は、中学3年までに体得することを、今からでも遅くはありません、是非とも文部省は、技術家庭課程のカリキュラムとして採用することを、検討して貰いたいです。

日本のIT化を本気で考えるのであれば、これらのことが実施できない児童、生徒は、留年もやむなし、との処置でお願いします。

「炊飯器で飯が喰えず餓死」「メールが使えず孤独死」などと言う、ハイテク家電が引き起こしかねない悲しい事件を回避するためにも、国は断固とした姿勢で、接続学の取得を国民に課して貰いたいと切望します。

-----

あながち、大袈裟でもないのです。

電子レンジに猫を入れて、乾かそうとした主婦の話を例に上げるまでもなく、(赤ん坊でなくて、本当によかった)、パソコンのプリンタの設定ファイルと、ISPのプロバイダの接続設定を壊してしまい、アメリカに行ってしまった息子の帰省を1年以上も待っている、実家の両親たち ----

そして、紙切れが判っていても、補充されないFAX。

設定方法が分からず、いつまでも動き出さない全自動洗濯機。

マニュアルの例文を、2回印刷しただけのワープロ

ユーザにとっても、製品にとっても、これは悲劇に違いあません。

そのような悲劇を、この日本からなくす為にも、私はここに声を大にして、「マニュアル学」と「配線学」の、速やかな導入を提言したいと思います。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

 

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Hです。 「プロジェクトX」、結論から言うとキライです。 理由は、見ている人ならわかるはずです。

技術的な話や、また、 それに思い至るまでのエピソードなどは好きですけどね。

ebata@cnd.hp.com wrote:

n> で、江端さんの出演予定はいつですか? n> 既にNHKからオファーがあったと風の噂で聞いたんですが。

題目も決っています。

Project X 「会社を蘇えらせた技術者の最後のエッセイ」

  • 解雇覚悟で執筆を続けた「日立こぼれ話」製作秘話
  • 時代を先取りした社内ディスクロージャへの会社の激しい抵抗
  • 総務部との死闘、上司との確執

「プロジェクトX」的には、それで会社にこんな貢献ができた、とか、 その結果こんなによい製品が日本から発表されました、とか、 おかげで私は首にならずに済みました、とか、必要だと思います。

あと、どこかで泣けるポイントを作らないと、 私の同期の「プロジェクトX」信奉者なんかは、 「今回は面白くない」と放言すること請け合いです。

最後には、全体主義的な大団円に持っていく必要もあると思います。

個人的には、江端さんのイメージと ちょっと違うような気がしないでもないのですが、 それは私の勘違いでしょうか・・・

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江端さんのひとりごと
「ホワイトアウト」

2001/02/10

 

昨年9月24日に、コロラド州のフォートコリンズで、私たち夫婦は、積雪15cmを越える降雪を目の当りにしました。

数日前までクーラの側に倒していたエアコンのスイッチを、暖房側に切りかえ、最大出力にしました。

と、思った次の日には、透き通った快晴の空から、紫外線をたっぷり含んだ太陽光線で、目が焼けるかと思う目にあったりもしました。

コロラドの冬は、日本の関東地区に比べれば寒いはずで、実際、夜には氷点下数度まで下るのですが、不思議なくらい寒さを感じません。

重くない、とでも言うのでしょうか。

湿度が非常に低いので、まとわりつくような寒さはないのです。

雪は一晩で15cm位積るのですが、日本の東北や北海道の地区とも違い、大抵次の日から快晴となり、2、3日で溶けてなくなってしまいます。

毎朝、玄関のドアを開けると雪が傾れこみ、積雪をラッセルしながら、会社に出社するものだと思っていた、私たちの目論見は外れ、殊、雪に関しては、今迄と変わることなく、朝の徒歩通勤を続けていますし、帰宅時には、嫁さんのピックアップで自宅に帰るのですが、会社がスタッドレスタイヤの費用も出してくれたこともあって、現在のところ、事故を起すことなく運転しているようです。

ただし、雪の降っている朝だけは、危険かもしれないと言うことで、嫁さんが会社まで自動車で送ってくれることになっています。

-----

私は、静謐で美しい風景、一面の銀世界、生命が息を潜めて雌伏するこの季節が好きです。

フォートコリンズは、渡り鳥のグースの中継地点となっているようで、最近は、毎朝数百羽のグースが群れとなって集まっているのを見かけます。

今朝、家の前のBoardwalk Driveを、20羽程度のグースがきれいに一列になって横断して、自動車を止めていました。

私が運転手の方の顔を見ると、「仕方ないね」と言う顔で苦笑していました。

ある朝、私がHP社の前にあるLSI Logic社の前の野原を歩いていた時のこと、抜けるような真っ青な冬の全天を、天の河の大きさもあろうかという帯が、南東から北西に向って流れていました。

それは、地平線から現れ地平線に消えていく、何千羽ものグースの群れでした。

私は、その流れの一番最後尾が見たくて、空を見上げながらその野原に立ちつくしていましたが、いつまでもその流れが止まることはありませんでした。

フォートコリンズの街の上空は、丁度、旅客機の航路となっているようで、空のキャンパスに、真っ直伸びる鮮かな白の軌跡を、時には、同時に10以上見ることもできます。

そして、後を振り向くと、藍色の空をバックに、切り立った氷河のように輝くロッキー山脈の稜線が見えます。

このように、私は毎朝、徒歩通勤を楽しんでいるのですが、やはり、雪の降った翌日の朝は格別です。

全ての建物が目映いばかりに光り輝き、息を呑むほど美しいです。

地面を踏みしめると、足がやわらかく大地に吸いこまれるような感蝕と同時に、雪の粒が煙のように舞い上ります。

雪を掌ですくい上げると、指の間から雪が流れ落ちていきます。

日本では、スキー場でさえ、こんな極上のパウダースノーにお目にかかることはできません。

マウンテンスキーの板を履いて出社する、という計画もあるのですが、フォートコリンズでは車道の除雪が徹底していることと、どうしてもまとまった積雪量にならないことから、現在のところ、実現できないでいます。

嫁さんが、帰路を迎えに来てくれるからこそ出来ることでもあるのでしょうが、こんなに楽しい1時間10分もの通勤時間を、自動車でかけ抜けてしまうのは、私には、とても勿体ないことのように思えます。

-----

先日、夕方から降り始めた雪は、翌朝になっても止むことなくり続けていました。

一度くらいは、降っている雪の中を歩いてみたいと思っていた私は、その日の朝を決行の日と決め、心配する嫁さんを言いきかせて、雪中行軍の準備を始めました。

テーブルの上に、いつもの通勤スタイルである、極寒仕様の毛糸の帽子と手袋、マフラー、膝まであるぶ厚い綿入りの黒のナイロンコート、インターネット経由で毎日録音している英語ニュースと、「携帯版 英会話とっさのひとこと辞典」のカセットテープとウォークマンを用意しました。

厚めのセータを着こみ、膝上まである道路工事の現場作業員御用達の長靴を履いて、準備を完了しました。

ドアを開けた瞬間、ぶ厚い冷気の壁と雪が吹き込んできて、家の中に戻されそうになりましたが、それを押し付けるようにして外に出ました。

吹雪という程のものではなかったものの、風におおられて雪が右往左往しながら、時々は真横になって宙を舞っていました。

空の低いところに灰色の雲があり、わずかに雪のガスも出てきており、視界も悪くなってきていました。

多分、気温は氷点下10度くらいだっただろうと思います。

流石に除雪も間にあわなかったのか、Oakridge Driveの道も真っ白なまま、自動車のタイヤに圧雪されて、理想的なアイスバーンとなっていました。

しかしそんな道路を、この街の人達は、ノーマルタイヤで、車体をドリフトさせながら平気で運転しています。

流石、としか言いようがありません。

雪の上を歩く時は、そのわずかな雪の高さを見て、車道と歩道を見分る必要があります。

間違えて車道側に足を踏み入れると、そのまま車道に転げ落ちていく恐れがあるからです。

抜群の視力を誇る私でさえも、今朝は車道と歩道の境界が見えません。

それは、一つに、雪が降り続いていることと、もう一つは、目を開け続けていることが出来なかったからです。

私は、全身を防寒着で完全にくるんでいたのですが、唯一、目の部分だけを覆うことは出来ませんでした。

そんなことをしたら、何も見えなくなって、歩く以前の問題です。

風にあおられた雪が目に飛びこんでくる時は、ちょっとした痛みを感じますが、それ自身は大したことではありません。

問題なのは、その後です。

その状態では雪の結晶が眼球に張りついて見えなくなりますので、瞬きをすることで、その雪を解かすのですが、これが涙と一緒になって目の外に出ます。

この涙がやっかいなのです。

この涙は、一秒もしないうちにアイラインで氷結します。

そして次の瞬きに、瞼の上と下のアイラインの氷がぶつかり、一瞬溶け、そして、この上下の氷は一つになって一瞬の間に凍ってしまうのです。

この結果は明白。

目が開かなくなるのです。

指で目を擦ると、指についた雪が、さらに事態を悪くしまうので、力を込めて瞼を開けます。

こういうことは、日常生活ではめったに体験できないでしょう。

力づくで瞼を開くことを続けている内に、今度は睫(まつげ)に小さな氷柱が出来てきて、瞼が重くなってきます。

よく、眠くなることを「瞼が重くなってくる」と言う言い方をしますが、喩えでもなんでもなく、本当に『お、重い・・・』。

不思議なもので、瞼が重くなってくると、本当に寝くなってきました。

雪の中の歩行は、普通の歩行より何倍も体力を使います。

雪の吹き溜りを踏みつけて、体のバランスを崩しながら歩かねばなりませんし、以前降った雪が溶けずに、完全に氷結して氷河となったような場所も越えて行かねばなりません。

普段よりも集中力が要求されるのです。

加えて、時折襲ってくる横なぐりの雪の束に目も開けていられません。 運悪く、昨夜は眠りが浅い上に5時間くらいしか寝れなかったので、普通よりコンディションも悪かったのです。

眠ったら終りだ・・・

この時、私を支えていた思いは、「美しい妻や可愛い娘を残して死ねるものか」と言う想い・・・ではなく、『雪の中を徒歩通勤していた変な東洋人、通勤途中にて凍死』とフォートコリンズ新聞の一面に掲載されるであろう記事と、葬式の際に、ハンカチを握りしめて、うつむきながら、泣いているふりをしながら、笑いを堪えている参列者の光景でした。

-----

HPの正門前で、ウォークマンのカセットテープが終ったので、ナイロンコートのポケットからウォークマンを取り出して、テープを裏返しして、再生のボタンを押したのですが、うんともすんともいいません。

変だな、と思って、あちこちのボタンを押して見たのですが、上手く再生してくれません。

その時、このような機械が保証する動作環境の温度は、確か下は0度から、上は50度くらいだったことに、はたと気が付きました。

私は、HP社の門の前に立ちすくみながら、氷点下10度より低い極寒仕様のウォークマンなど、どこにも売っていないんだろうな、とぼんやり考えていました。

その時の私は、毛糸の帽子に雪を積らせ、手袋は内部から凍りつき、長靴の中に入ってしまった氷が、溶けずに凍ったまま残っていると言う状態で、体も思うように動かすことができず、雪の平原を彷う、黒装束のゾンビのような状態だったと思います。

-----

Harmonyの徒歩通勤者

"Walking Pedestrian in Harmony Road"

は、今では、HPはもとより、フォートコリンズでもすっかり有名になっているだろうと思います。

そのうち、私の通勤路である野原に、地元のテレビ局の車が待ち構えてインタビューをしてくる時の為に、すでに私の頭の中では英語の質疑応答集が出き上がっています。

"Why have you kept walking on this field, that is NOT a road, every day ?"

"I can always feel the existence of GOD through walking in the field. It is a kind of a field of talking to GOD."

フォートコリンズの教会の、名誉司教くらいには成れるかもしれません。

そんな風に、私の通勤風景に慣れたフォートコリンズ市民も、その日の私を見て、皆、一様にぎょっとしていました。

私の行為が、神秘の国ジパングの名を、ますます高めているものだと自負しております。

-----

まあ、街の中だし、比較的視界も良く、ホワイトアウトを喰らって『HPはぁ!HPは、どっちだぁぁぁ!!!』などと叫ぶような場面もなく、いつもより15分遅れで、無事会社に到着しました。

寒くて痛くて結構辛かったけど、やっぱり楽しかったな、と思えました。

私は、根っからのスキーヤーなんだ、と再認識しました

その日、嫁さんのピックアップで自宅に付き、ふと、テーブルの隅の方を見ると、そこには昨夜久々に読み直し終えた、真保裕一の「ホワイトアウト」が置かれていました。

『俺が今行かなかったら、誰がHPと日立を救えるのだ!』

などと言うような、馬鹿な妄想に憑かれて、雪中行軍をしようとしていた訳では断じてないと思っていますが、もしかしたら、自分の気が付かないところで、何かのスイッチが入っていたのかもしれません。

 

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

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江端さんのひとりごと 「壁」

2000/01/09

「『脱出』は発明の母」

"Eacape is a mother of invention"と書かれていた展示の説明文を読んで、私は唸ってしまいました(*1)(*2)。

ベルリンの壁崩壊前の東ベルリン側にあった、東と西の唯一の交流点「チェックポイント」に造られた壁博物館(Wall museum)に書かれていた一文です。

(*1)言うまでもなく、これは「必要は発明の母」"Need is mother of inovetion"の一句を使った皮肉。

(*2)「ベルリンの壁」を知らない人は、ここで読むのを止めましょう。

壁博物館には、西ベルリンへ脱出を試みた東ベルリン市民達の生々しい記録が山のように残されていました。

成功例では、

■西側市民の協力を得て、壁に面したアパートの窓から飛び降りる者、

■長い月日をかけて掘られたトンネルを貫通させた者、

■演奏用のスピーカの箱に自分の体を折りたたんで入れたマジシャンの女性

等などがあり、そして

失敗例としては、

■壁を乗り越えようとして射殺された市民、

■チェックポイントの強行突破を試みて蜂の巣になった自動車、

■打ち落とされた気球

などがありました。

しかし、私が一番胸を打たれた展示物は、脱出者を監視していた警備兵士が、いきなり西側に向かって走り始め、鉄条柵を超えて亡命(?)してしまう一枚の写真でした。

国家とか、体制とか、責任とか、任務とか、(おそらくは家族とか親戚とかも含むのだろう)そういうものを全部放り出して、己の為のみに逃げ出す兵士。

その写真は、たった一枚で、私の理想とする生き方を雄弁に、そして完全に語っていました。

-----

確かこの前、地平線まで続く広大な大地を見ながら、ゆらゆらと怒りに燃えていたはずなのに(*3)、どうしてこんなところであんな物を見ているんだろうと思わずにはいられませんでした。

ライトアップされてに照らされて不気味に立っているブランデンブルグ門をくぐり、旧東ドイツ側にはいると、さらに交通量は減り、街全体が一層暗く感じられるようになりました。

深夜で交通量もすっかり少なくなった道路を暴走する一台のタクシー。

その運転手は、一言も口をきかず、厳しい表情のまま激しい勢いでハンドルを捌いています。

タクシーの中で右左に引き倒されながら、私は後ろの席で怯えていました。

出張直前まで、打ち合わせ資料の作成で走り回りっていたのに加え、飛行機の中ではプレゼンテーション資料の暗記をしなければ、と思っていたのですが、

つもり積もって極限まで来た疲労達が『もう、どうでもいいじゃん』と妖しい声でささやきかけるのに任せ、飛行機の中では水割りとビールのちゃんぽんで、半分以上白目を剥きながら、ぐったりしてフランクフルトまでやってきました。

しかし、ベルリンに着いたのと同時に、別の声が『やばいよ、お前。どうするの、明日のプレゼンテーション』と別のことを言い始め、心底気分が滅入ってきたところに、

どえらい乱暴な運転で、東ベルリン側に向かってぶっ飛ばすものだから、もう、すっかり気分は『東側のスパイに拉致されて鉄のカーテンの向こうへ送り込まれるネットワーク技術者』。

ああ・・これから私は、西側要人の電話の盗聴や、銀行やストックマーケットのオンラインにハッキングして、西側の経済システムを破壊するクラッカーとして、暗躍させられるんだ・・。

家族の顔が走馬灯のように脳裏をよぎります。

ああ、家族にもう一度だけ会いたい!!

そうだ、日立!・・いや、日立は私を絶対に救出してはくれまい。むしろ、海外渡航の予算がなくなって喜んでいるかもしれない。そういう会社だ。

同僚は3日で私を忘れるだろう。 なぜなら、逆の立場になったとしたら、私はそいつを3日で忘れる自信があるから。

上司なら半日もかからない内に、忘れてしまったことも忘れてしまえるだろう・・・。

などと、馬鹿なことを考えているうちに、タクシーはホテルに着きました。アホな妄想が、やっぱり妄想であった、という理由だけで嬉しくなった私は、タクシーの運転手に大目のチップを渡しました。

彼は、最後になって、ようやくチラリと笑顔を見せてくれましたが。

ホテルのチェックインをした後、すでに現地入りしていた上司に、到着の連絡を入れて、その日は終わりました。

(*3)江端さんのひとりごと「怒りの大地」

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日立製作所は、現在、ドイツの通信技術研究所GMD(German National Research Center for Information Technology)と、いくつかのテーマで共同研究を行っており、私は知らない内にその一つのプロジェクトに参加させられていました。

『江端君。君は知らないだろうけど、君はプロジェクトの一員なんだ。』

私はあまり世間一般の事項をよく知らない方だと思うので、是非とも皆さんに教えて頂きたいのですが、一般的にこういう日本語の使い方はされるものなのでしょうか。

ポイントは2点。

(1)上記文章は、文意を成しているか。

(2)(1)が満たされると仮定した場合、有効性に問題はないか。

ここ2年くらい、私の仕事は例外なくこういう形で命令されています。

私は全ての仕事が本人の納得ずくで行われるべきだ、などというつもりは全くなく、ただこの文脈の一般性と有効性を知りたいのです。

何故なら、この言葉の使い方が許されるものであるなら、2,3使ってみたいことがあるのです。

『課長、課長は知らないかもしれませんが、私は明日年休を取ることになっています。』

『部長、部長は知らないかもしれませんが、私は今期、特許を提出しないことになっています。』

うーん、便利だ。

ま、それはさておき。

今回私は、GMD-日立の共同プロジェクトの項目の中に、現在自分が行っている仕事である「標準化活動」という項目を、付け加えてもらいました。

ほとんど火事場泥棒のように、ドサクサにまぎれて、と言う感が否めませんが。まあ、その甲斐もありまして、私はまんまとGMDの有能なスタッフの協力を得て、標準化の提案書の作成にこじつけました(*4)。

(*4)http://www.kobore.net/draft-ebata-inter-domain-qos-acct-00.txt

この「標準化活動」とは、国から依頼研究の項目の一つで、私としては、この提案書の提出をもって、一応「任務完了」の形となったのですが、一応念のためにこの標準案をインターネットの標準化団体IETFのミーティングで発表を行ない、誰にも文句を言わせないように駄目押しをしておきたいと思っておりました。

私の目論見はただ一つ。

『共同研究者のGMDのH博士を丸め込んで、今回の標準書の内容をIETFで表して貰おう。』と言う、真に姑息なことを考えて乗り込んで来たのです。

私に英語のプレゼンテーションができないことは、誰よりも私がよく知っていました。ホテルや飛行機のチェックインすらまともにできない男が、ノンネイティブに対して配慮のかけらもしない、あの「IETFミーティング」で、ろくな応答ができるわけがないからです。

-----

翌朝、昨夜と打って変わって、秋の終わりを感じさせる深色の紅葉が美しいベルリンの中心街を眺めながら、上司と私はタクシーでGMDに向かいました。

指定された会議室に赴くと、すでにプロジェクトリーダのG氏が準備を始めており、そのうち、次々とGMD側のプロジェクトメンバーが入ってきました。

この段階で、私はまだ、今回の標準書の作成に関して、並々ならぬ多大な労力を提供して下さった、H博士との面識がありません。

今回の標準書作成作業に関しては、言うまでもなく、日立側の国家プロジェクト担当者である後輩のT君、同期のM氏(私を含めたこの3人を称して、『通産三兄弟』と言う、不名誉な名称がついているそうですが)、そして上司のK氏の協力がありました。

加えて最後にプロジェクトリーダのGMDのG氏が根本的なレビューをして下さったおかげで、私は標準書をIETFに提出することができたのですが、なにより、H博士は、毎日の電子メールで議論に根気良く付き合っていただき、私は、なんとか標準書の骨格を作り上げることができたのです。

私は滅多なことでは、心から誰かを感謝することはしないのですが、このH博士にお会いした時には、小走りで博士に近づき、最大級の感謝の言葉を発しながら、両手で握手をさせて頂きました。

H博士は、中国系アメリカ人(だと思うけど、ついに確認するのを忘れてしまった)で、ちょっと見ると学生にしか見えないような小柄な方でした。年齢も、私と同じか、多分もう少し若いようにお見受けしました。

昼休みの休憩時間には、GMDのすぐ傍を流れる川沿いを歩きながら、標準書の内容やドイツでの生活のことについて話をしていました。

ひらひらと落ち葉の舞い落ちる紅葉の川沿いの小道を、ゆっくりと歩きながら研究に関する意見交換をしていることに気がついたとき、私は、自分のそのあまりものカッコよさに、陶酔しまくっていました。

-----

ミーティングは、日立側、上司と私の2人と、GMD側は開発担当者を含む8人、総勢10人で、2日間ぶっ続けで朝から晩まで続きました。

私はそのミーティングの内容の2割をかろうじて理解できただけです。

しかし、8割方理解できたような「ふり」をする能力にかけては、超一流であることを自負しております。

国際化が叫ばれる昨今、近い未来あなたも英語のミーティングに参加しなくてはならない羽目になるかもしれません。

そこで、数々の修羅場をくぐりぬけてきた私から、『英語のミーティングに参加しているような「ふり」をする方法』に付いて伝授したいと思います。

先ず、誰かが会話の中で笑い出したら、間髪を入れず笑い出すこと(内容は問題ではありません)。

次に、誰かが会話の中で詰まったら、間髪を入れず眉をひそめること(繰り返しますが、内容は問題ではありません)。

さらに、時々相手の喋った会話の端々で拾った単語を掴んで、上がり調子のイントネーションで質問してみること。それに対して行われた説明に対して、大きく頷いてみせること(何度も繰り返しますが、内容は問題ではありません)。

加えて、これが一番大切なことですが、『決して、単身でミーティングには臨まず、自分より英会話に優れた日本人を同伴すること』です(今回の場合は「上司」になりますが)。

日本人であるあなたは、かなり高い確率で日本人の喋る英語を理解できるはずです。

この内容から、会議の流れを『推測』します。会議のキーパーソンになってはなりません。会議でイニシアティブを取るなどもってのほかです。

出来るだけ目立たず、会話の単語の端々を拾い集め、日本にかえって報告書に構成しなおし、後は全てを忘れる。

この基本的な態度を貫けば、とりあえず任務が完了したような「ふり」をすることができるはずです。

-----

それにしても、GMDとの打ち合わせは朝から晩までミーティングで、加えて夕食にまで招待されたので、12時間近く、『英語』と言う水が浸された洗濯機の中でぐるぐると回されていたような気がします。

正直、苦しかったです。

それは、英語を理解するのが苦しかった、と言うよりは、むしろ、自分の思っていることが正確に出力されないと言う「表現の便秘状態」が、苦しかったように思います。

また、話が横道にそれて恐縮ですが、私は生まれてこの方、日本語の会話で話題がなくなってて困ったことなどはありません。私のこの頭の中には、役に立つかどうかはさておき、色々な分野の雑多な知識がてんこ盛りに詰まっております。

『デートをしている時に会話が続かなくて、黙々とディナーを食べ続ける」などと言う、無粋なことは経験したことがありません。

ま、そのためかどうかは知りませんが、今一つロマンチックな展開に恵まれにくかったのも事実なんですが。

結婚するまで、嫁さんは私のことを『女性に関心を持たない、政治と文学をを探求する、理系の研究の徒』と信じていたそうです。

今は、『嘘つき』と呼ばれています。

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今回の仕事が終わったのは、2日目の夕方。GMDに出向している同期のSと、上司と3人で飲みに行くことになりました。

ですが、私は気が進みませんでした。日立入社以来、「上司と酒を飲む」その不味さを思い知っている私は、一人でベルリンの街角のバーでビールでも飲んでいる方がましだ、と思っていました。

予想通り、「もっと考えて行動しろ」だの「チャンスを自分でつぶすことになる」だの説教をくらい不愉快でした。

私は、一応、私の構築した理論である『停滞主義思想』を、次のような判りやすい言葉で言い添えました。

『世界は、私を愉快にさせるものと、私を不快にさせるものの2種類のみで構成されている』

『上記の世界観に基づき、私の行動は私が決定して実施し、自分に関する範囲のみで責任を持つ』

『その結果について私以外の誰がどうなろうと、知ったことではないし、巻き込まれるのが嫌なら、私から離れて見ているだけにすればよい』

予想通りですが、全く理解してもらえなかったようです。

「じゃあ、仕事やめるか」てなことも言っていたようですが、この発言からして全く私の言っていることを理解できていない証拠です。

いつでも思うのですが、どいつもこいつも、何故私を『改良』しようとするのだろうか。

鬱陶しい。

社会的な常識や、組織的な規範を基準とした倫理観から、私を恫喝するくらいなら、その手間隙かける時間で、とっとと私を切り捨てればいい、と思うのです。

私は、私のこの『停滞主義思想』を理解できないことを批判するつもりはないのです。多分、この思想は生まれてくるのが早すぎたと思うので、大抵の人が理解できないのは当然だと思っています。

理解してもらえないから、私が切り捨てられても、私は『ま、仕方が無いよな』と潔く切られる覚悟は、いつでも出来ているんです。

それを「考えて行動する」だの「チャンス」だの矮小な言葉で、私を変えられると思われているのかと思うと、見くびるにも程がある、と腹が立ってくるのです。

少なくとも私の思想に謙虚に耳を傾け、その内容を尊重し理解する姿勢がある人間以外と議論しても仕方がない事だと思います。

所詮、既存の価値観の枠組みでしか思想を捉えられないなら、「壁」を超えて私の領域に入ってくるのは100万年早いと思うし、そして、私も「壁」を超えてそちらに行くつもりはありません。

永久に壊されることの無い「壁」の中で安住できれば、私はそれで良いのです。

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東西ベルリンの悲劇は、主義の対立ではなく、所詮は国家と言う体制の対立でしかありませんでした。国家は、その存在意義として民衆の必要とし、その民衆を維持するために、ベルリンの壁を作ったのです。

つくづく、阿呆か、と思います。

そんなに、国家の属性としての民衆が必要なら、犬や猫や家畜や、草木に名前でもつけて、『これが国民だ!』と言い張れば良かったのだ。

どうせ主義で対立しているなら、国民の定義すら変えてしまえば良かったのに、と壁博物館の中で、一人腹を立てながら考えている私がいました。

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これまで、我々は自分達を守るために、あるいは自分で自分の行き方を決めるために『如何に壁から逃げるか』と言う視点からものを考えてきましたが、その考え方では所詮"Escape"と言う概念を超えることは出来ません。

今こそ、パラダイムをシフトする時です。

キーワードは、"Make Wall"

国家や組織や会社などの下らない壁の中に閉じ込められないように、自分のためだけの「壁」を造りのです。その「壁」は、出ていく者を阻止するのではなく、又、侵略してくる者を排除するためだけのものでもありません。

「分かり合えない」と言うことを、分かり合うことだけでいいのです。

どだいこれだけ多様化する価値観を、一元的な理念や思想や方式で統一しようとすることに無理があります。

できっこないのです。

それを何としてもやってやろうとむきになるから、阿呆なカルト宗教団体は、地下鉄でシアン化系の猛毒ガスをばら撒かねばならなくなります。

洗剤や健康食品のネズミ講もどきに熱中する無知な人間達は、高校で習った等比級数を覚えていれば、絶対にありえるはずがない利益に向かって、人生の貴重な時間と労力を食いつぶします。

イスラムの高い宗教理念と、そのボランティア精神から作り出される、世界でも例の無い理想的なコミュニティが存在する一方で、

「イスラム原理主義」と言う愚劣な団体が、世界をイスラムで統一する為に、世界各地で想像も出来ない陰惨なテロを繰り返している現実があります。

私にはどうしても「分からない」のです。

彼らの行動を、理解し近づこうとすればするほど、腹が立ち、彼らは益々私から遠ざかっていきます。

彼らのコミュニティに入って、実践的に行えば、あるいは私は彼らに少しは近づくことが出来るかもしれませんが、私はそんなことに費やす気力と時間はありませんし、なにより私は、やりたいことが山ほどあるのです。

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しかし、まあ、たくさん書いてきましたけど、私の言いたいことは、要するにこんだけです。

私は常日頃から、人に意見をされる運命にあるようですが、そういう運命にある人間の立場として一言言わせて貰えるのであれば、

『自分の価値観を、江端に押し付けるべきではない』

と言う、私の価値観だけは、

あなたに是非とも押し付けたいのです。

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(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。本文章を商用目的に利用してはなりません。)

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江端さんのひとりごと

「IETF惨敗記」

1999/03/25

ミネソタ州ミネアポリスのヒルトンホテルで開催されているIETFミーティング参加初日の夜、私はホテルのベッドで、久々に早朝覚醒型の不眠で目が覚めました。精神的な疲労が極に達すると、私のこの病気は予告なく私を襲うようです。

私にとって、このIETFミーティング1日目は、まるで10日間も徹夜して働いたかのような、すさまじい、そして強烈な疲労感と絶望感そのものでした。

最初から最後まで完全に理解できない会議、---文字どおり、一言も理解できない---、と言うものが、この世にあろうとは思わなかったのです。

私は、何も記入できない真っ白なノートを胸に抱えながら、欧米人の出席者で一杯になったヒルトンホテルのミーティング会場で、ただ呆然として前方のスクリーンに写し出されたOHPシートを見ているだけでした。

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IETFとは、Internet Engineering Task Forceのことで、インターネットの標準を規定する非営利の団体で、年に2度Meetingが開催されます。

インターネットとは、つまるところ色々な人が色々な目的で使う通信システムのことですので、これを動かすためには共通の決まり(プロトコル)が必要です。

この決まりを決める団体が、IETFです。

IETFには、会員と言う概念がなく、やりたい人がどんな提案しても良いことになっています。その提案は、まず「ドラフト」と呼ばれる英語の文章で提出しなければなりません。そして、その提案が受け入れられるか否かは、このIETFミーティング会場の出席者の多数決で決定されているようです。

要するに、「オープン」であることが、このIETFの特徴とされているのです。

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今回のIETFの出席者はおよそ2000人、ざっと見たところ、日本からも30名程度の出席者があり、(シ研)からのも7名が出席していました。

この2000人の人間が、会場のロビーで技術に関する議論を戦わせている様子は、実に壮観です。

実にやかましい。

このIETFのオープンの考え方と言うのは、かなり徹底しているようで、モラルも規範もあったもんじゃありません。

初日、私はスーツ姿で出かけていって、いきなり恥をかきました。

会場には、フォーマルな服装できている人間は、一人もいませんでしたから。全員が、Gパンにスニーカ&Tシャツと言ういでたちで、ロビーのすみっこで壁に持たれかかりながら、ノートPCを叩いていました。朝食はビュッフェ形式で、あふれるほどのパンやフルーツ、ドリンクが提供されるのですが、それを山のように皿に盛っては、床にあぐらをかいて食べていま
す。

さらには、足を別の椅子に投げかけながら、ミーティング会場にまで食べ物の皿を持ち込んで、口をもぐもぐさせながら、発表者の話を聞いています。

最初は驚いていた私も、そのうちマネするようになりましたが。

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まあ、驚いたといっても、そんなことはどうってことはなかったのです。

本当に驚いたのは、議事の進行方法です。

まずチェアマン(議長)が、議事を箇条書きに書いたOHPを示し、『今日はこれだけのことを決める。じゃあ、最初の提案者、どうぞ』と言って、いきなり提案者による提案ドラフトの説明が始まります。

本当に、面食らいました。

大抵、会議というのは、まず「今日は皆さん、お集まりいただき・・・」と言う挨拶から始まり、このミーティングの背景、目的を説明し、提案者の紹介をして始まるものですが、IETFミーティングでは、そのようなことはまったくしてくれません。ミーティングの議事内容まで、すでにそのワーキンググループのメーリングリストで検討が終わっていることになっており、残るは質疑応答と採決だけです。

ですから、そのメーリングリストに入っておらず、またドラフトを事前に読んでいなかった私は、何が何だか分からないまま、ただひたすら議事が進んでいくのを見守るしかできなかったのです。

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ですが、私が、メーリングリストに入っていて、ドラフトを事前に読んでいれば、理解できたか、と言うと、その可能性は絶望的に近いほど低かったでしょう。

ネイティブスピーカのネイティブスピードのもの凄さと言うものは、TOEIC600点台の人間にとっては、バッティングセンタで、飛んでくるボールに小さく書かれているメーカ名を読みとるより、遥かに難しいのです。(実際、きちんと視力を測定すれば3.0以上はあるだろうと思われる私には、そっちのほうが楽かも知れない。)

質問者は、会場にあるマイクの前に並んで、正面の提案者に向かって質問をしていきますが、NHKの「上級英会話教室」のように、一語一語をきれいに区切って、クリアな発音でしゃべってくれるわけではありません。

一つの質問が2秒ぐらいで、その中には、実に25ワード以上は入っているかと思われます。私には、単に動物の『ウオー』とか言うような唸り声の様にしか聞こえません。

この唸り声に対して、会場がワッと笑いに包まれます。周りを見回してみて、笑っていないのは、私(と多分他の日本人)だけのようです。

私は心底、傷つきました。

私に出来ることは、写し出されたOHPシートの内容を、ノートパソコンに写しとることだけだったのです。

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そもそもなぜ私がIETFなんぞに参加することになったかというと、これまた自分の意志ではいかんともし難い、悲しいサラリーマンの宿命にあります。

昨年までやってきた仕事である、マルチメディア監視システムのプロトタイプを無事完成させ、今年は製品化に向けて、設計とコーディングの日々だと自分では思っていたのですが、今年の初め、私は上司から別の仕事を命じられることになります。

それが、ポリシーベースネットワーク管理システムの研究です。

「ポリシー」などと聞いて、私は学生時代にちょこっとだけ参加した左翼運動の実績を見込まれたのかしら、などと呑気なことを考えていたのですが(70年代には、政治的理念のない人間のことを、『ノンポリ』と言いましたから)、どうもそういうことではなくて、ネットワークをビジネス運用(どのデータをどの経路で通せば、最も効率的に儲かるかとか)の観点から
管理する、最近新しいネットワーク技術のことです。

この研究を通産省の補正予算で行うことが正式に決定し、そんでもって、いつものことですが、私が放り込まれた訳です。マルチメディア監視システムのほうは、外注のシステムエンジニアを雇って、私のエージェントとして動いてもらうことが決まり、一応会社側としては筋を通したつもりでいるようです。

もちろん、そこには、再びその『ポリシーなんちゃら』を、一から勉強し始める私の苦しみや辛さは何も計上されていませんが、まあ、サラリーマンとはそういうもんです。

ところが、このポリシーなんちゃら技術の研究は、極めて新しい研究らしく、現在のところ、日本において権威といわれている研究者も研究機関もありません。従って、その研究に関する書籍はもちろん、研究発表資料、論文も何一つありません。しかたがないので、私は毎日行きと帰りの電車の中で、IETFの関連ドキュメントを、片っ端から読み倒す日々が続きました。

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ミネアポリスで行われているIETFは、5日間の日程で行われ、その間同じく(シ研)から来ていた、M氏のおかげで、他社の技術者と直接話すことができて(当然、私に英語で技術討論をする力量などあるわけがない)、一応報告書を書くためのネタはいくつか出来てきました。

しかし、今回の私にとって、最も重要なミッションはポリシー技術に関するIETFの動向調査でしたから、まさか「英語がわかりませんでした」と書いた報告書を提出するわけにもいきません。

私は、IETF会場のターミナルルームに準備された100台以上もあるコンピュータの1台を占拠して、ポリシーに関するドラフトを印刷しまくり、ミーティングに出席せず、ロビーに座り込み壁に持たれかかりながら、ひたすらドラフトを読みつづけていました。

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ポリシーワーキンググループセッションが始まる前日の深夜、ホテルのデスクでひたすらドラフトを読んでいる時に、電話がかかってきました。

"Hello"

応答がありません。

"This is Ebata Speaking."

と言うと、「・・・智一君?」と、おどおどした風の声が聞こえてきました。

嫁さんでした。

私が海外出張ということもあり、嫁さんは娘の麻生をつれて実家の福岡に帰っていていました。

江端: 「おお、よく電話してきたね。」

嫁さん:「フロントが出たのだけど、何を言っているのか全然分からなくて・・・で、辛うじて『スペル』と言う単語だけ分かったから、EBATAとだけ言ったらつなげてくれた。」

江端: 「こっちはねえ・・・英語が全然わかんないよ・・・。」

嫁さん:「そりゃ、会議で使っている英語なんだから・・・」

江端: 「ちがうんだ、そうじゃないんだ。フロントから、ハンバーガショップから、タクシーから、何もかも何を言っているかわからないんだよ。」

そう、私が最高に落ち込んでいる原因は、実はIETFの内容が分からないことではなく、日常会話が全然理解できなかったことです。しゃべることは難しいだろうなとは、思っていましたが、日常会話が聞き取れないという事実は、私を徹底的に絶望させました。

江端: 「とにかく、こちらの能力にあわせて、しゃべる速度を落とすという考え方がないんだ。」

嫁さん:「そう言えば、フロントも全然ゆっくりしゃべってくれなかったよ。」

これは、多分に偏見かもしれませんが、ミネソタでは世界中の人間が英語をしゃべっていると思っているのではないかと思わせる場面が多々ありました。

私がダウンタウンの郊外にあるミシシッピ川を一人で散策していると、5人の子供を連れた子供のお母さんが、私に道を聞いてきます。

"Sorry,I am a stranger here (地元の人間じゃないんで)"と言うと、しかたなさそうな顔で、子供を連れてどこかにいってしまいました。

また、冬期の雪の積雪量と、おそらくは治安の悪さも原因だと思われますが、ミネアポリスのダウンタウンのビルのほとんどは、スカイウォークと言う空中回廊で相互につながれていて、ダウンタウンにいる限り道路を歩く必要はほとんどありません。もちろん、そのスカイウォークは迷路のようにダウンタウンにはり巡らされていますので、簡単に迷子になってしまいます。

夕食を終えて、誰もいないスカイウォークを歩いていると、私の前方にスカイウォークの地図を覗き込んでいる黒人カップルが、私に経路を尋ねてきました。

もちろん、"Sorry, Stranger I am."と答えるしかありません。

ミーティングが終わった当日の午後、歩いて彫刻美術館と言うところに行きました。バスは乗り間違えると、とんでもない目に会うことは、これまでの海外旅行の経験で熟知していましたので、ひたすら歩いていきました。

その途中の道で、母親につれられた可愛い少年が、私に向かって言いました。

"Where are you going, Mr?"

私はとっさに、"What?"と答えましたが、それと同時に、この少年が明らかに『おじさん(Mr)』と呼びかけたのを不快に感じていました。母親のほうが『知らないおじさんに声をかけちゃダメよ』と言う風に子供の手を引っ張って、私とすれ違っていきました。

コンビニエンスストアで、水とミルクをもってレジに向かうと、レジのおじさんにいきなり何かいわれてドキリとしました。"Pardon?(すみませんが)"と私が聞き直すと、"Mexican?(メキシコ人か)"と聞かれていることがわかり、呆然としてしまいました。

ミネアポリスの最後の夜に、IETFに参加した日本人の集まりで、ベトナム料理を食べながら、この事件の話に加えて、中国でウイグル人に間違えられたこと、京都でブラジル人に間違えられたことなどを話したら、「要するに、モンゴリアンなんですね。」と総括されてしまいました。

『ミネアポリスの連中は、きっと、アメリカ大陸の外側は大きな滝になっていて、そこから海の水が落ちこんでいて、そしてアメリカ大陸は、カメがその下で支えていると信じているんだ』と屈折した思い込みで、ミネアポリスの日々をすごしていました。

江端 :「加えて、(シ研)の奴等が、僕の泊まっているホテルの地区が危ないって言うし・・・」

嫁さん:「え!危ないの?」

江端 :「とは、僕には思えないんだけどね・・・。」

私はホテルのクオリティには、あまり頓着しないほうで、会場のホテルが予約できなかったので、旅行代理店に『安いところを適当に』と言っておいたら、食事付き一泊79ドルと言う破格のホテルを予約され、周りの人間を随分心配させました(大体150ドル程度)。

学生の頃、私は一泊10ドルと言うドミトリーにあたりまえのように泊まっていたので、その辺の感覚が麻痺しているのかも知れません。

後輩の、T君に言わしめて曰く、『スカイウォークが繋がっていない、駐車場に派手な落書きがあった』ことが、その危険であることの根拠らしいです。

江端:『でもね、僕が泊まってきたところって、安全フェーズが2段階ほど違うよ。』

T君 :『どういうところですか?』

江端:『中国のウイグル自治区内の安宿とか、ネパールのコンクリートがむき出しになった宿とか、インドのニューデリーの宿では、目の前に物乞いの人たちが一ダースぐらい・・・』

T君は、絶句していたように見えましたが、付け加えて言いました。

T君 :『しかし、江端さん。決定的に違うことが一つあります。』

江端:『何?』

T君 :『拳銃』

そりゃもっともだ、と思った私は、それからIETF会場のミネアポリスのヒルトンホテルから、ウエスタンダウンタウンと言うモーテル系のホテルまで、走って帰ることにしました。

江端:「ところがねえ、慣れない街だからねえ、道を間違えてどこを走っているか分からなくなって・・・と言って、信号で泊まると恐いから、青信号の方を選んで走るから、さらに道がわからなくなってきて、そうして、昨夜はミネアポリスの街中を、ぐるぐる走りまわっている変な日本人が一人いたわけだよ。」

15時間の時差のある電話の向こうで、嫁さんは大爆笑していました。

そしてこの話は、「夜のミネアポリスを走り回る日本人」と言うエピソードで、そのIETFの期間中、ことある毎に語られることになります。

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さて、ひどく落ち込んでいた私は、嫁さんの電話で少し元気をとり戻し、今一度IETFを眺め直す余裕が出てきました。

午前を回っていましたが、私はベッドの上にひっくりかえって考え始めました。

まず第一に、IETFは本当にオープンなのか?

あのスピードの英語を日本に取得できる人間がどれだけいるのか。どれだけの人間が、あの技術情報を母国に持ち帰れるのか。そもそもネイティブスピーカでない我々日本人が、あのミーティングに参加することができるの
か。

次に提案者、質問者の面々です。

提案者はまあ良いとして、質問者です。

みーんな、同じ顔。

同じメンツが、マイクの前に立ってぐるぐると順番待ちをしているだけです。オープンどころか、クローズなグループメンバによる芝居のように見えるのは、私の穿った見方でしょうか。

と、そこまで考えたとき、私は背筋がぞくりとするような寒気を感じました。

(これはやばい。相当にやばいぞ・・・)

私は基本的に、自分のことしか考えない利己主義者ですが、その私の利己を脅かすほどの恐ろしい現実が進行しつつあることに気がつきました。

これからも情報通信技術が、ある一国で閉じる訳がありませんから、この技術の検討が国際共通語である英語で行われることは間違いありません。

そして、インターネットの世界に関しては、当面IETFが支配的な地位を占めていくでしょう。

IETFは、いかなる形でも強制力を持ってはいませんが、インターネット標準の決定機関です。インターネットに関わる全てのベンダ、サービスプロバイダ、ユーザは、このIETFの決定事項に従って動いていくしかありません。

すなわち、IETFに対して提案活動を行うと言う事は、すなわちその提案の内容が世間に公表される前に、すでに手が打てるわけです。

例を挙げましょう。

例えば、私があるマルチメディア帯域制御方式を実現する通信ソフトウェアを開発したとして、その内容をIETFに提案し、これが受理されたと仮定しましょう。他の会社は、この通信方式を実装するために、私が提案したドラフトを読みながら、製品を作らなければなりませんが、私はすでにその実装が終わったソフトウェアを開発し終えているのです。

この開発機関がどの程度になるにしろ、すでに私は、他社に対して開発期間分(数ヶ月以上)リードしている訳です。他社が開発を行っている間、私は営業活動を進めて、シェアを拡大させる事ができます。

つまり、イニシアティブが全てなのです。

提案ドラフトを読んでから製品化に着手しているようでは、シェアを取る事が出来ないのです。

逆に言えば、このようなIETFのような国際的標準機関でイニチアティブを取るためには、英語が必須なのです。しかしそれは、英語が単に読めることでも、しゃべれる事でも、理解できることでもありません。

「検討」し、「討論」でき、そして「論破」できることなのです。

しかるに、我が国の英語教育の水準は、間違いなく世界最低クラスです。

先進国と言われているアジアの国々のほとんどと比較して、TOEICの平均点が低い事は、意外に知られていませんが、私は色々なアジアの国を旅をしてきた経験から、感覚的にこの事実に気がついていました。だって、一応英語が使えれば、どの国のどの街のどんな所でも旅が出来たんですから。

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(21世紀も、欧米中心の文化に引きずられながら、我々は生きていかねばならないのか?)

パソコンの設定一つの為に、膨大な英文資料に翻弄されて過ごしている日々。

そして、ろくな特許のアイデアも出せず、まともなシステム構築すら出来ない技術者が、ただ英語が使いこなせると言う理由だけで、より優位な地位に立てる日本の技術者社会。

私は、娘の笑顔を思い出して、憤然とした思いに駆られました。

娘の世代も、欧米文化に追従する日々を生きねばならないのか?

私は最近、戦前の陸軍の関東軍のエリート軍人達が、日本語を基本とした大東亜共栄圏を作ろうとした気持ちが少し分かるような気がします。

軍事的にアジアを占領して、すべて日本語が通じるようにして、米国とヨーロッパ共同体に対抗しようとしたその行為は、もしかしたら英語がしゃべれないコンプレックスに起因していたのかもれない。

しかし、それでも、彼らは日本のシステム体系が世界で無視されることを予期し、それを恐れていたのです。イニシアティブをとれない国が、没落していくかないことを熟知していたのです。

日本がどうなるかは、私にとってどうでもよいですが、娘がどうなるかは、私にとって大問題です。

この欧米主義中心の世界観をどのように変えていけばよいのだろうか、と私は考え始めました。

その1 全世界侵略論

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全世界を武力で制圧し、日本語を世界共通語として強制する。

しかし、公式に核非所有国を宣言している我が国が世界征服をするのに比べれば、太陽系以外の他の星系に移住可能な星を見つけて、日本国民全部が移住する方がはるかに簡単でしょう。

その2 大東亜共栄圏論

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

これは人口比率から言って、中国語しか選択はない。この中国語による大東亜共栄圏で欧米文化に対抗する。

しかし、日本人全部が中国語を勉強し直すくらいなら、こういう発想はそもそも出てくる訳がないので、もちろん却下である。

その3 英語教育再編論

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

文部省は、教育としての位置付けをやめ、教育カリキュラムから、英語教育を放棄する。一種の高級なプログラム言語の一つとして、通産省にその権限を移譲し、「情報処理技術カリキュラム」の一つとして組み込む。すなわち、文化としての英語を全面的に方向転換し、単なる通信プロトコルと捕らえ、その「技術」を教えるものと考える。これにより、偏向した欧米中心主義文化からの脱却を図る。

とは言え、どのようなカリキュラムがあろうと、現実的にその英語が使えなければ、意味がありません。

そこで、私は韓国の徴兵制(*1)にならい、英語技術の徴役制度の導入を提案します。

(*1)韓国では成人男子全員に兵役の義務がある(イスラエルでは女性も)。

さて、その懲役をどこでやるか、一番安いコストと言う点では、在日米軍あたりで兵役につかせてしまおうか、と言う乱暴な考えもあったのですが、何もアメリカの世界戦略構想に協力する必要はないし、第一、個人的に嫌。

ならば、どこかの英語圏の島を買って、そこに高校教育を終えた若者を、全て強制的に収監すると言うのはどうか。

当然、島の中には武装した教官がおり、日本語をしゃべったものに対しては、射殺を含む刑罰を施行する権限を有するものとする。期間は、最低2年。大学の前期教育を兼ねても良い。当然、日本語で記述された全ての書物は没収される・・・・・

程度のことはやらんと、本当にやばいんではないかと思い始めています。

要するに、私がIETFに出席して、ほとんどその任務を果たし得ず、そして、私と同じような立場に負い込まれるものが、今後も間違いなく大量に発生する、と言う事が言いたかったんです。

そして、日本はどんどんこれから国家としての国益を失っていくだろう、と。

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さあ、どうしましょう。

我々が、どこで育ち、そして生きてきても、名古屋弁や秋田弁などのようにどの地域の言葉も理解できるように、世界のどこにいても、どの言葉も理解できるようにならなければならない時代が来ています。

いや、正確に言えば、我々の前の世代は、すでに我々がその程度のことを実現してくれることを期待して、膨大とも言える時間と労力を我々の英語教育に注いでくれたと思うのです。

しかし、その教育のやり方が悪かったのか、あるいは我々の努力が足りなかったのか分かりませんが、我々はついに、彼らのその熱い想いに応える事はできなかったようです。

それはIETFで発言した日本人を、ついに一人も発見できなかった事からも明らかだと思います。

さあ、どうしましょう。

私たちは、次の世代達に、『どう世界とつきあって生きて行け』と言うことができるでしょうか?

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)

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