2025,江端さんの忘備録

本日から「NHKプラス」が廃止、「NHK ONE」に移行されました。
From today, “NHK Plus” has been discontinued and replaced by “NHK ONE.”

『どうせ、移行手続で手間取るんだろうな』と思っていたのですが、(私の場合は)「新規登録」のボタン一発で移行が完了しました。
I thought, “Well, the migration process will probably be a hassle anyway,” but in my case, the migration was completed with a single click of the “New Registration” button.

『移行』と言われれば、アカウント入れ直したり、パスワードを探したりと、面倒事が多い中、この対応は"好印象"です。
Normally, when you hear “migration,” you expect to re-enter your account, hunt for your password, and deal with other annoyances, so this simple process left a “good impression.”

初見ではありますが、表示も良くなっているように思います(はっきりいって、NHKプラスのインターフェースは酷かった、と思う)。
Although it’s my first look, the display also seems to have improved (frankly speaking, I always thought the NHK Plus interface was terrible).

と思ったけど、単にNHK ONEのデモ画面が見れただけでした。メールでの認証コードが必要なのですが、現時点で、認証コード全く届いていません。

『初日に全面移行』というのは、システム屋から見れば、悪手中の悪手です(普通は2週間くらいの移行期間を設けます(地上デジタル放送移行では、約7年半〜8年間の期間を取っていました))


夕食時に、夜の7時のニュースを見ながら嫁さんと会話していました。
During dinner, while watching the 7 p.m. news, I had a conversation with my wife.

江端:「ウチ(江端家)は、間違っても『NHK受信料不払い』を主張できる立ち位置にないよね』」
Ebata: “Our family (the Ebata household) is definitely not in a position to claim ‘we don’t pay the NHK license fee,’ right?”

と言ったら、
When I said that,

嫁さん:「パパ、NHKしか見ていないじゃん」
Wife: “Papa, you only watch NHK anyway.”

と言い返されました。
She shot back at me.

NHKラジオ(英会話等)やNHK BSも含めて、私は、ぶっちぎりでNHKを使い倒しています。
Including NHK Radio (such as English conversation programs) and NHK BS, I make extensive use of NHK.

嫁さんの言うことは正しい。
What my wife says is true.

ただ、受信料、もう少しなんとかならんかなぁ、とは思いますが、『「災害報道インフラ」に出資しているんだ』と考えるようにしています("私の場合は"、です)。
That said, I do think the license fee could be a little more reasonable, but I try to think of it as “investing in the disaster-reporting infrastructure” (at least in my case).

「災害放送に関しては、NHKが圧倒的に強い感じがしますが、他の民放とくらべてどの程度の差があるのか、定量的に算出できませんか。フェルミ推定でも結構です」とChatGPTに考えて貰った件

未分類

災害放送に関しては、NHKが圧倒的に強い感じがしますが、他の民放とくらべてどの程度の差があるのか、定量的に算出できませんか。フェルミ推定でも結構です

はい、フェルミ推定で「NHKの災害放送の強さ」を民放と定量比較してみます。前提になる“観測できる事実”は次のとおりです。

  • NHKの世帯契約率は約81%(2024年度末)。受信可能・視聴習慣の広さの近似値として使う。nhk-cs.jp

  • 重大災害時はNHKの視聴が急伸し、たとえば台風19号(2019/10/12)で全日27.0%、16時台35.8%に達した。マイナビニュース

  • 大規模地震時、NHKは直ちに特番に切り替え、平均視聴率は民放各局を上回る傾向が分析されている。J-STAGE

  • NHKは全国の各地域局で毎月の緊急警報放送(EWS)試験など、災害即応の運用を常態化。ウィキペディア

  • NHKは47都道府県に地域拠点(放送局)を持つ(一覧あり)。地域密着網の近似。ウィキペディア

フェルミ設計(シンプルモデル)

災害時の「放送到達・有効度」を 4 指標で合成した「災害放送力指数(仮)」を作ります。
指数 = 0〜100点。重みは仮置き。

  1. 到達基盤(40点満点)=世帯カバー&視聴習慣の強さ

  • NHK:81%→ 40×0.81 ≒ 32.4点。nhk-cs.jp

  • 民放キー局1社平均:地上波の技術カバーは高いが、常時の視聴習慣は分散。災害時でも“1社”に集中はしにくい。仮に「常時の定着度」50%相当で 40×0.50=20点。

  1. 初動即応(25点満点)=特番切替・割込み徹底・EWS運用

  • NHK:恒常運用+即時切替の実績多数→ 22点(上限近傍)。J-STAGE+1

  • 民放1社平均:即時対応はするが編成やCM制約が残るケースあり→ 16点(仮)。J-STAGE

  1. 地域網の密度(20点満点)=地域局の数・ローカル挿入能力

  • NHK:全都道府県に拠点→ 18点。ウィキペディア

  • 民放1社平均:系列網はあるが“1社”では全国を均質にカバーしにくい→ 12点(仮)。

  1. 視聴集中実績(15点満点)=災害時の“選ばれやすさ”

計算(“1社”対比)

  • NHK:32.4 + 22 + 18 + 13 = 85.4点

  • 民放(キー局1社の平均想定):20 + 16 + 12 + 7 = 55点
    NHKは民放1社平均の約1.55倍(85.4 / 55 ≒ 1.6倍

参考:民放“全社合算”と比べたら?

「選ばれやすさ」はNHKに集中し、民放は複数局に分散します。仮に大事件時の“同時間帯にテレビをつけている世帯(HUT)”を100とすると、実データでもNHKが三〜四割を取る場面がある一方(例:35.8%)、民放はそれを複数局でシェアします。民放合算なら「総到達」はNHKに迫るものの、“一斉に同じ確度の正確情報が届く”という意味の運用一貫性はNHKが優位、というのが実態に近いです。マイナビニュース+1

ざっくり結論

  • NHKの災害放送力は、民放“1社”と比べて概ね1.5〜2倍の有効度(到達基盤・初動・地域網・視聴集中の合成)

  • **民放“全社合算”**では到達は近いが、指揮一貫・運用設計の統一と視聴集中はNHKが優位

  • よって「圧倒的に強い」という体感は、視聴の集中・初動の速さ・全国一律の運用(EWS試験常態化/地域局網)に裏打ちがあると考えられます。ウィキペディア+2ウィキペディア+2

使いどころ(意思決定の観点)

  • 自治体や企業のBCPで「テレビ放送を一次情報ソースにするなら」:NHK優先+民放は補完

  • 個人の避難判断:まずNHKの速報→次に自治体発表・気象庁発表でクロスチェック消防庁

※ 推定には仮置きの重み・民放1社の平均化など近似を含みます。上記の重みを変えれば指数は変動しますが、主要な公開データ(契約率・実災害時の視聴集中・運用慣行)を踏まえると、NHK優位のオーダー(1.5倍前後)は概ね頑健だと考えます。

[1]: https://www.nhk-cs.jp/jushinryo/know/pdf/keiyakuritu2024.pdf?utm_source=chatgpt.com "◆受信料収入"
[2]: https://news.mynavi.jp/article/20191016-910091/?utm_source=chatgpt.com "台風報道で12日のNHK全日帯視聴率27.0%、16時台35.8% ..."
[3]: https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasdis/15/2/15_149/_pdf?utm_source=chatgpt.com "東日本大震災の初動報道に関する当事者分析"
[4]: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8A%E6%80%A5%E8%AD%A6%E5%A0%B1%E6%94%BE%E9%80%81?utm_source=chatgpt.com "緊急警報放送"
[5]: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%BE%E9%80%81%E5%8D%94%E4%BC%9A%E6%94%BE%E9%80%81%E5%B1%80%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7?utm_source=chatgpt.com "日本放送協会放送局の一覧"
[6]: https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/16/12/16_12_12_23/_pdf?utm_source=chatgpt.com "東日本大震災とメディア - J-Stage"
[7]: https://president.jp/articles/-/73369?page=1&utm_source=chatgpt.com "自分たちは「安全な場所」にいる…災害報道で視聴率を稼ぐ ..."
[8]: https://www.fdma.go.jp/mission/prepare/transmission/items/tebiki.pdf?utm_source=chatgpt.com "災害情報伝達手段の整備等に関する手引き"

2025,江端さんの忘備録

私、3年間の博士課程の中で、国際学会で2つの賞を頂くことができたのですが、これが博士号取得の審査に影響を与えていた、ということを知った時には、びっくりしたことを覚えています(知ったのは、学位記を貰った後です)。
I received two awards at international conferences during my three-year doctoral program, and I recall being surprised when I later learned that this had influenced the evaluation of my doctoral degree (I only discovered this after receiving my diploma).

私が大学で履修していた学部は、都市設計や交通工学に関する分野だったのですが、私が受賞したのは「応用情報学」の学会だったので、『そもそもフィールドが違う』と思っていました。
The department I studied in at university was in the field of urban design and transportation engineering. Still, the awards I received were from conferences in “applied informatics,” so I thought, “This isn’t even the same field.”

もちろん、都市設計や交通工学の為の情報を処理する内容のペーパーではありましたが、都市設計や交通工学は、計算がどえらい大変なのです。
Of course, my papers focused on processing information for urban design and transportation engineering, but the computations in those fields are incredibly challenging.

ですので、私は、高速化やらスケーラビリティやら、各種の工夫(というか『苦し紛れ』)を、ほぼ毎週のレベルで編み出していて、それらの結果を、まとめて国際学会に叩き送っていた、という感じでした。
So, I was devising various techniques—speedups, scalability measures, or, honestly, “desperate improvisations”—on almost a weekly basis, and I kept packaging the results and sending them off to international conferences.

一言で言えば、
In short,

―― 新しい計算道具の発明や改良
—It was essentially the invention or improvement of new computational tools,

で、賞を頂いたようなものです。
And that is what earned me the awards.

---

以前より、私は「『車輪の再開発』というフレーズが嫌いだ」と言い続けてきました。
For a long time, I have been saying that I dislike the phrase “reinventing the wheel.”

「車輪の再開発」という表現は、無駄な労力の象徴という意味で使われています。
The expression “reinventing the wheel” is used as a symbol of wasted effort.

■ソフトウェア開発においては、標準ライブラリやオープンソースがすでにあるのに、同じ機能を自作してしまう。
In software development, it refers to building a function from scratch, even though a standard library or open-source implementation already exists.

■研究・開発においては、過去の研究や特許を調べずに、既存の発明を繰り返す。
In research and development, it means repeating existing inventions without checking prior research or patents.

ということを、侮蔑的に語るフレーズだからです。
In short, it is a phrase used pejoratively.

しかし、私は、この『車輪の再開発』で、この3年間で2回、国際学会で表彰されました。
Yet, with this so-called “reinventing the wheel,” I was recognized twice at international conferences over those three years.

正確には『新しい車輪の発明』、または『既存の車輪の改良』となるのでしょうが、それでも対象は『車輪』です。
Strictly speaking, it might have been “inventing a new wheel” or “improving an existing wheel,” but the subject was still “the wheel.”

つまるところ、自分で、スクラッチから作り出して、改良した『車輪』は、ちゃんと評価される、ということです。
The point is: when you build a wheel from scratch and improve it yourself, it can indeed be appropriately valued.

---

「車輪の再開発」には、ネガティブな意味だけでなく、「仕組みを理解するためにあえて再実装する」という肯定的な使い方もあります。
“Reinventing the wheel” can also have a positive meaning: deliberately re-implementing something in order to understand how it works.

例えば、プログラミング教育で、生徒が自分で簡易的なソートアルゴリズムを実装してみる、などが該当します。
For example, in programming education, students might implement a simple sorting algorithm independently.

ただ、これは、『学習や理解のための再現』という内容に留まっています。
However, this is limited to “reproduction for the sake of learning and understanding.”

---

自分の手で作って動かせば、まだ色々やれることはあります。
But once you build and run something with your own hands, there is much more you can do with it.

既存のツールやライブラリだけに頼ることだけが、研究開発(エンジニアリングを含む)ではありません。
Research and development (including engineering) is not just about relying solely on existing tools and libraries.

それに、私の場合は、スクラッチから作った方が、開発時間も早いことがあります。
In fact, in my case, building from scratch can sometimes even be faster.

実際にツールやライブラリは、事前に知っておくことが大量で、簡単に動かないことが多いからです。
That’s because tools and libraries often require a lot of prior knowledge and frequently don’t work smoothly.

仕様書やマニュアルは、結構いい加減な記載があって、苦労させられることが多いです。
Specifications and manuals often contain sloppy or inaccurate descriptions, which can cause considerable trouble.

---

私は、エンジニア(含む研究員)の皆さんの全てに、「車輪の再開発」を推奨するものではありません。
I am not recommending that all engineers (including researchers) should “reinvent the wheel.”

それでも、「車輪の再開発」であっても、ちゃんと評価され、そして、役に立つこともある、ということを、私は申し上げたいのです。
Even so, what I want to say is that even “reinventing the wheel” can be properly recognized—and can be useful.

ちなみに、私、これらの技術を、全部公開しているんですけど ―― 誰一人として、引き継いでくれる気配がありません。

未分類

嫁さんに頼まれて、スリッパの修理をしました。

 

水で濡らしたブラシで伸ばしても大丈夫です

 

 

 

 

クリップがなければ、大き目の洗濯はさみでも良いです。

半日くらい放置しておけば、接着します。

以上

2025,江端さんの忘備録

YouTubeを流していたら、中島みゆきさんの「あした」が流れてきました。
When I was playing YouTube, Miyuki Nakajima’s song “Ashita” started playing.

『そういえば・・・』と思って、YouTubeを探していたら、見つけました。
That reminded me of something, so I searched on YouTube, and I found it.

私の大学時代に、世の中の女性の間で絶賛されたCMです。
It was a commercial that was widely praised among women during my university days.

嫁さんに「覚えている?」と聞いたら、「当然!」と言われました。
When I asked my wife, “Do you remember it?”, she replied, “Of course!”.

これは、アーカイブとして残しておくべき作品ですね。
This is truly a work that deserves to be preserved as an archive.

-----

それにしても、今の若い人(というか中年の人も含めて)、「国際電話」って分かりますか?
By the way, do today’s young people (or even middle-aged ones, for that matter) know what “international phone calls” are?

当時、外国に電話をかけるというのは、恐ろしく高価で、物凄く難しいものだったのです。
At that time, making a phone call abroad was terribly expensive and incredibly difficult.

(私は中国奥地から、日本の両親に、安否連絡(生存確認)電話をするのに、その地域の役所にいって、専用電話の予約が必要だったくらいです)。
(When I was deep in China, to call my parents in Japan for a safety check, I had to go to the local government office and make a reservation for a special phone line.)

国内電話から海外に電話がかけられるというのは、(多分、理解して貰えないかもしれませんが)、当時の常識を打ち破る「最大級のイノベーション」で「パラダイムシフト」だったのですよ。
The ability to dial directly overseas from a domestic line was, perhaps, hard to imagine now. Still, it was one of "the greatest innovations" and “the paradigm shift” that shattered conventional wisdom.

-----

こういうパラダイムシフトは、一生に一回程度でいいんですよ。
A paradigm shift like that is enough to experience just once in a lifetime.

人生で、何度も発生すると、結構大変なんですよ。
If it happens repeatedly throughout life, it can become quite exhausting.

以前から申し上げている通り、『2週間単位の"社会通念"の書き換え』は、結構つらいんです ーー 特にシニアの体力と頭では。
As I’ve said before, having to rewrite “social norms” every two weeks is quite challenging, especially for the bodies and minds of seniors like us.

-----

それにしても、報道で取り沙汰されている沖縄県南城市の市長のセクハラ問題――第三者委が「キスの強要」や「口止め」を認定したとされる件――を見ると、パラダイムシフトどころか昭和の悪習にしがみついたままの「首領」もまだまだ健在だと実感します。
And yet, when I see the sexual harassment scandal of the mayor of Nanjo City in Okinawa Prefecture being reported, where a third-party committee is said to have recognized acts like “forced kissing” and “attempted silencing”?I realize that far from embracing paradigm shifts, there are still “bosses” clinging to the evil customs of the Showa era.

それは「私、ハラスメントの加害者でーす」と言い出す人が、一人もいないことからも明らかです。

2025,江端さんの忘備録

私、仕事の効率を上げたい、とか殊勝なことを考えたことはありません。
I have never considered anything more virtuous than wanting to improve my work efficiency.

ただ、アニメや映画の音声を流しながら、コーディングをすることはあります。
However, I sometimes code while playing the audio from anime or movies.

コーディングを真剣にやると疲れるから、コーディングの速度を低下させて、だらだらと続けるためです。
When I code too intensely, I get tired, so I slow down the pace to keep going in a more relaxed manner.

ところが、この「だらだらと続けるのに適したアニメや映画」というのが、意外に少ないのです。
However, there are surprisingly few anime or movies that are suitable for this kind of “relaxed continuation.”

画面を見ないと訳の分からないアニメはダメですし、英語や中国語の映画はもちろん論外です。
Anime that makes no sense unless you watch the screen is useless, and movies in English or Chinese are, of course, out of the question.

そんなこともあって、先日、著作権の切れた本の音読をYouTubeで聞いてみることにしました。
For that reason, I recently decided to listen to YouTube readings of books that are already in the public domain.


芥川龍之介の「杜子春」を試してみました。
I tried Akutagawa Ry?nosuke’s “Toshishun (Du Zichun).”

これは、小学校6年生の時に学芸会の演目で行った作品なので、内容は良く知っています。
This was a play performed at my sixth-grade school festival, so I am familiar with the content.

なので、流し聞きとしては、良いだろうと思ったのです。
Therefore, I thought it would be good as background listening.

『杜子春』(芥川龍之介)は、次のようなお話です。
“Toshishun” (by Akutagawa Ry?nosuke) is the following kind of story.

唐の長安に住む青年・杜子春は、財産を失って途方に暮れていたところ、不思議な老人から金を授かり一時は豪遊します。
A young man named Du Zichun, living in Chang’an during the Tang dynasty, loses his fortune, but receives money from a mysterious old man and indulges in luxury for a time.

しかしすぐに使い果たし、再び老人に出会います。
But he quickly squanders it and meets the old man again.

老人は「何があっても一言も口を利いてはならぬ」と告げ、杜子春は試練に挑みます。
The old man tells him, “No matter what happens, you must not utter a single word,” and Du Zichun faces a trial.

鬼や責め苦に遭い、最後には両親が責められる幻を見せられて思わず声を発してしまいます。
He endures demons and torture, but finally, when shown a vision of his parents being tormented, he cannot help but cry out.

その結果、仙人になる道は閉ざされますが、杜子春は「親を思う心」を自覚し、人として生きることの尊さに目覚める
As a result, his path to immortality is closed, but he becomes aware of his love for his parents and awakens to the value of living as a human being.

――という寓話的な物語です。
Such is this allegorical tale.


残念ながら、私は集中して聞けませんでした。
Unfortunately, I was unable to concentrate on listening.

「不思議な老人から金を授かり一時は豪遊します」を繰り返しても、数年で自己破産を繰り返す『杜子春』のバカさ加減に、うんざりしてしまったからです。
Hearing again and again how he received money from a mysterious old man, only to squander it and go bankrupt within a few years, I grew tired of Du Zichun’s foolishness.

『NISAで投資信託するとか、クラウドファンディングで社会貢献プロジェクトに参加するとか、子ども食堂を立ち上げるとか、起業するとか、いろいろあるだろう?』と思ってしまいまして。
I couldn’t help but think, “There are other things he could have done, like investing in mutual funds with NISA, participating in social projects through crowdfunding, starting a children’s cafeteria, or even launching a business, aren’t there?”

下らないインテリアやエクステリアに散財し、友人に金をばら撒いて、その後逃げられて回収できないことで、世間の冷たさを嘆く学習能力の無さは、聞いているだけでイライラしました。
His lack of learning ability led him to squander money on frivolous interior or exterior items, handing out money to friends, only to lament society’s coldness when they disappeared without repayment, which was irritating to hear.


ということを、小学生の読書感想文に書いたら、どうなったのだろう、と考えました。
I wonder what would have happened if I had written this in a book report as an elementary school student.

もう私には挑戦できないので、(このブログには小学生の読者はいないと思いますが)小学生を扶養する大人の方はいると思いますので、お子さんに勧めてください。
I can no longer attempt this myself, and I don’t think I have any elementary school readers. However, I assume some adults who support children might be reading, so please consider recommending it to your child.

で、その結果もお知らせいただければ幸いです。
And I would be grateful if you could let me know the result.

―― 集中せずに、ダラダラとやること

2025,江端さんの忘備録

世の中で最も辛い懲役(懲罰的役務)と言われているものは、
The harshest punishment (penal labor) in the world is said to be,

―― 今日、地面に穴を掘らせて、次の日に、その穴を埋めさせる、という作業を毎日続けさせること
forcing someone to dig a hole in the ground today and fill it up the next day, repeating this task endlessly.

とされています。
So it is said.

これは「意味のない作業を延々と強制されること」が、人間にとって極めて大きな苦痛になるからです。
This is because being forced to carry out meaningless work endlessly inflicts immense suffering on humans.

地面に穴を掘る作業そのものは、肉体的にきついものの、もしそれが「農業のための準備」や「建物の基礎工事」といった目的を持っていれば、人は耐えることができます。
Digging a hole itself is physically demanding, but if it serves a purpose? Like preparing for farming or laying the foundation of a building? People can endure it.

目的があることで、苦労の中に価値や達成感を見いだせるからです。
Because with a purpose, one can find value and a sense of achievement in hardship.

しかし、今日掘った穴を明日には埋め戻すという行為には、一切の成果も残らず、意味も見出せません。
However, filling in the hole you dug yesterday leaves no result, no meaning to be found.

この「無意味さの強制」が人間の精神を消耗させ、どれだけ体力があっても心を折ってしまうのです。
This enforced “meaninglessness” exhausts the human spirit and breaks the will, regardless of one's physical strength.

要するに、最も辛い懲役とは、肉体的な苦痛そのものではなく、「無意味な労働を強制され続けること」による精神的な拷問なのです。
In short, the harshest punishment is not physical pain itself but the mental torture of being forced into meaningless labor continuously.


『{英語、数学、国語、家庭科、others}なんて、何の役にも立たない』と思っている子ども(学生)に対して勉強をさせることは、この「もっとも辛い懲役」と本質的に同じではないか、と私は思うのです。
Making children (students) study subjects they believe are “useless, like English, math, Japanese, home economics, etc.” is, in essence, the same as this “harshest punishment.”

もちろん、これらの勉強は“受験合格”という目的のためには意義があります。
Of course, these studies have meaning when tied to the goal of passing entrance exams.

しかしこれは「目的」そのものではなく、「合格という手段」としての作業です。
But this is not a true “purpose” in itself, only a means to the end of passing.

そして一度その目的を達成すれば(例:受験に合格すれば)、その勉強の意義は消え、学びから離れていくことは自然の流れです。
And once that purpose is achieved (e.g., passing the exam), the study loses its meaning, and leaving it behind is only natural.

この懲役に対抗できる人間は二種類いると思います。
I believe two types of people can resist this punishment.

(1) これらの勉強という手段を軽々と扱うことのできる、いわゆる「頭の良い人間」。
(1) The so-called “smart people,” who can easily handle study as a mere tool.

彼らにとっては、どんな教科であれゲームのルールに過ぎず、そこに意味を求める必要はありません。
For them, any subject is nothing more than a game’s rules, and they do not need to find meaning in it.

(2) 『{英語、数学、国語、家庭科、others}なんて、何の役にも立たない』と割り切り、勉強しない覚悟をした人。
(2) Those who decide “these subjects are useless” and choose not to study, fully prepared for the consequences.

いわゆる「無敵の人」です。世間の規定する価値を拒み、不利益を承知で生きると決めた人です。
These are the so-called “invincible ones” who reject societal values and choose to live while accepting the disadvantages.

比して、上記(1)(2)に当てはまらない多くの人は、「今日掘った穴を明日には埋め戻す」という気持ちで、ティーンエイジャの期間を「懲役」と諦めて過ごすのでしょう。
By contrast, most people who do not fit (1) or (2) resign themselves to their teenage years as “punishment,” feeling like they are endlessly digging and refilling holes.


では、なぜ人類は「{英語、数学、国語、家庭科、others}」という、一見無意味な穴掘りを制度として続けているのでしょうか。
Then why has humanity institutionalized this seemingly meaningless hole-digging called “study”?

理由は単純です。社会は、子どもを「無意味な作業に耐えられる大人」に仕立て上げる必要があるからです。
The reason is simple: society needs to train children into adults who can endure meaningless tasks.

会社に入れば、会議資料を作っては上司に破棄され、作り直してはまた破棄される。
In the workplace, you create presentation materials only for your boss to discard, remake, and discard again.

書類の99%は誰も読まないし、会議の8割は誰の記憶にも残らない。
99% of documents are never read, and 80% of meetings leave no memory in anyone’s mind.

それでも席に座り続けなければならない。
Yet you must remain seated.

つまり、大人の社会の本質こそが「今日掘った穴を明日埋め戻す」ことなのです。
In other words, the essence of adult society is precisely “digging a hole today and filling it tomorrow.”

実は、この点については私、すでに述べたことがあります。
In fact, I have already written about this point.

このように考えていくと、
Thinking this way,

―― 学校教育は、子どもに知識を教えているように見せかけて、実際には「穴掘り訓練」をしている
School education appears to teach children knowledge, but in reality, it is “hole-digging training.”

という結論になります。
That is the conclusion.

これはかなり悲しい結論です。
This is quite a sad conclusion.

「穴掘り訓練」をやらされているのであれば、その「穴掘り」を自分のためにカスタマイズできないものか、と誰しも思うでしょう。
If one is forced into “hole-digging training,” anyone would wonder whether the digging could be customized for their own sake.

できれば、楽しくてやる気の出る方向に。
Ideally, toward something enjoyable and motivating.


そして、ここで一つ疑問が浮かびます。
And here arises a question.

学校教育の第一の目的は「個性の破壊」と「人間のスペックの画一化」であるとすれば、逆に「個性が破壊されず」かつ「画一的なスペック化が施されず」に育成された子どもは、将来どうなるのか。
If the primary purpose of school education is “the destruction of individuality” and “the standardization of human capability,” then conversely, what becomes of children whose individuality remains intact and whose capabilities are not standardized?

■楽観的見解
■ Optimistic view

個性を保持し、画一化されない教育を受けた子どもは、従来の教育制度では潰されてきた“異才”をそのまま発揮できる可能性があります。
Children who keep their individuality and are not standardized may unleash the “exceptional talents” that the traditional system would have crushed.

社会において「大量生産型の人材」がAIや機械に置き換えられていく時代、むしろ“没個性的な人間”こそ余剰となり、独自性を保った人間が生き残る。
In a society where “mass-produced human resources” are replaced by AI and machines, it is the “non-individualistic humans” who become surplus, while those who keep their uniqueness survive.

結果として、彼らは社会の変革者や次世代のリーダーとなり得るでしょう。
As a result, they could become the reformers of society and the next generation of leaders.

■悲観的見解
■ Pessimistic view

しかし一方で、社会の共通ルールに適応できない“異物”となる危険も大きい。
On the other hand, there is a substantial risk of becoming “misfits,” unable to adapt to society's standards.

社会は“平均的に働ける人材”を前提に設計されており、出勤時間を守れない、命令に従えない、協働できない人間は「扱いづらい」として排除されやすい。
Society is designed on the assumption of “average workers,” so those who cannot follow schedules, obey orders, or collaborate are easily excluded as “difficult to handle.”

学校教育が“個性を削る”ことで歯車に収めてきたのをやめれば、その子どもは歯車に組み込めず、結果的に孤立や不適応に追い込まれる。
Without school education, reducing individuality to fit into the gears, such children cannot be integrated into the system and end up isolated and maladapted.

つまり「個性破壊」機能が、実は社会の潤滑剤でもあったという皮肉に行き着きます。
In other words, the function of “destroying individuality” turns out, ironically, to have been society’s lubricant.

と、まあ、今回の検討はここまでとします。
Therefore, I will conclude this consideration here for now.


いずれにしても、「子どもの個性を大切に育てるべきだ」と叫ぶ大人は、案外「子どもを死地に送る準備をしている」ことに気づいていないのかもしれません。
In any case, adults who shout “we must nurture children’s individuality” may unknowingly be preparing them for a death trap.

私なら、『考えて、考えて、考え抜いたが、それでも正解が分からない』という大人の方が、まだ信じられる気がします。
As for me, I feel I can trust the adults who say, “I thought and thought and thought again, but I still don’t know the right answer.”

―― 江戸時代の人は、一般人も含めて、数学を文字通り「楽しんでいた」のです。

未分類

先日、私は社会人をやりながら無事博士号を取得することができました。その為に膨大な時間とお金と苦労を費したと思っています。
一方、社会人の中では、若いアイドルをおっかけることに、膨大な時間とお金と苦労を費している人がいます。
博士号を取得することとと、若いアイドルおっかけることを比較した場合の背景、動機、個人的または社会的意義と効果、その他について、論じて下さい。

博士号取得と若いアイドル追っかけの比較論

1. 背景

博士号取得は、学術研究の体系的な訓練と成果を通じて社会的に認知される資格であり、専門分野における知の積み上げを象徴する。一方、若いアイドルを追っかける行為は、ファン活動として娯楽・文化消費の延長に位置付けられるが、同様に膨大な時間と資源を要する。両者は「対象に没入し、資源を投下する」という点で共通する。

2. 動機

博士号取得の動機は、知的好奇心の追求、専門的地位の確立、あるいはキャリア上の要請に根ざす。対して、アイドル追っかけの動機は、感情的充足、共同体への帰属、日常生活からの解放にある。前者は理性的・社会的評価が強く、後者は感性的・個人的欲求が支配的である。

3. 個人的意義

博士号取得は「自らの能力の証明」として自己効力感を高め、長期的な職業的選択肢を広げる。他方、アイドル追っかけは「自らの存在の感情的支え」として日々の幸福感や生き甲斐を与える。方向性は異なるが、どちらも「自己実現の手段」としての役割を果たす。

4. 社会的意義と効果

博士号は新しい知見を社会に提供し、教育・産業・政策に還元されうる公共財としての性格を持つ。一方、アイドル追っかけは、エンタメ産業の成長や地域経済(コンサート、グッズ、旅行)の活性化に寄与する。社会的効果の性質は異なるが、いずれも一定の波及効果を持つ。

5. その他の観点

両者の投資には「リスクと回収」の非対称性がある。博士号取得は職業的地位や社会的信用としての回収が比較的確実だが、失敗すれば「徒労感」が残る。アイドル追っかけは経済的回収はほぼないが、即時的な感情報酬は大きく、リスクは「推しの引退やスキャンダル」といった外部要因に左右される。

結論

博士号取得もアイドル追っかけも、時間・金銭・精神を投下するという意味で「人生資源の集中投下型活動」である。ただし、その成果が「社会的資本の増加」に結びつくか、「個人的幸福感の増加」に結びつくかで方向性が異なる。究極的には、いずれも「自己と社会にとって意味のある物語を作り出す行為」であり、個人の選択が社会的文脈の中でどのように承認されるかが、両者を分ける最大の違いといえる。

なるほど、比較論については分かりました。
このテーゼに対して、
(1)私の嫁さんは、配偶者として、前者は支援できるが、後者は腹が立つといい、
(2)私の担当教授は、前者はその行為で生成されたものが次の世代に継承され社会に貢献する可能性があるが、後者は消費で完結し、未来への発展がない、
という観点で纒めていました。
この二人の見解についての、あなたの見解を教えて下さい

承知しました。ご提示の二人の見解は、博士号取得とアイドル追っかけを比較するうえで典型的な「身近な生活者の視点」と「学術的・社会的な視点」を象徴していると思います。以下に整理して見解を述べます。


1. 配偶者の視点について

「博士号取得は支援できるが、アイドル追っかけは腹が立つ」という見解は、家庭生活の観点から非常に現実的です。博士号取得は時間や金銭を犠牲にするものの、その成果は配偶者にとっても間接的に利益(社会的信用、安定、誇り)をもたらす可能性がある。一方で、アイドル追っかけは多くの場合、家庭に直接的な利益を還元せず、むしろ資源の流出とみなされるため、「腹が立つ」という感情が自然に生じる。つまり、支援できるか否かは「家庭内の利益と承認」に直結している。


2. 教授の視点について

「博士号は成果が次世代に継承されるが、アイドル追っかけは消費で終わる」という見解は、学術社会に特有の評価基準を反映している。博士号取得は論文や知見としてアーカイブされ、教育や研究の資源となり、未来に貢献する可能性がある。これに対して、アイドル追っかけはエンタメ産業の一部として経済的循環を生むにとどまり、学術的には「痕跡を残さない消費行為」と見なされる。教授の立場からすれば、この違いは当然の線引きといえる。


3. 私の見解

両者の見解はそれぞれ一面的に正しい。ただし、補足すべき点がある。

  • 配偶者の視点は「家庭という小さな社会」での効用に基づいており、経済的・感情的なリターンの有無で判断されている。

  • 教授の視点は「学術的・公共的社会」での効用に基づいており、知識の継承と発展の可能性で評価している。

一方で、アイドル追っかけにも「文化資本の形成」「ファン同士の社会的つながり」という、社会学的には見過ごせない価値がある。また博士号取得も、必ずしも社会に貢献するとは限らず、閉じた成果に終わる場合もある。

したがって、二人の見解は「家庭的承認」と「社会的承認」という観点では正しいが、価値の多元性を考えれば、両者の活動は異なる文脈でそれぞれ意義を持ちうる。最終的には「何を未来に残すのか」をどう定義するかで評価が変わる。


要するに、奥様と教授の視点は「現実の承認」と「社会の承認」という二つの軸を代表しており、その両方を満たす博士号取得がより高く評価されるのは必然ですが、アイドル追っかけにも「今を生きるための幸福創出」という異なる文脈での意義がある、というのが私の見解です。

私は、このテーゼに対して「原則として差がない。同質の行為である」という仮説を持っています。
この私の見解に対してのConまたはProの解答があると思います。
それぞれを論じた上での、貴方の最終見解を教えて下さい

なるほど。「博士号取得」と「アイドル追っかけ」を、あえて「原則として差がない。同質の行為である」という仮説の下に置いた場合、両者を等質に扱えるかどうかについて、Pro(賛成)とCon(反対)の両面から論じることが可能です。以下に整理します。


Pro(同質であるとする立場)

  1. 資源の集中投下
     どちらも「時間・金銭・労力」という有限資源を膨大に投下する行為であり、その意味で構造的に同一である。対象が「学問」か「アイドル」かという差異は、外形的には対象の違いに過ぎない。

  2. 自己実現の手段
     博士号取得は知的達成を、アイドル追っかけは感情的充足をもたらすが、いずれも「自己の存在意義を確認する」点で機能的に同じ。目的が「社会的に承認されるか」「個人的に幸福を感じるか」という違いに過ぎない。

  3. 共同体との関わり
     博士課程の研究コミュニティも、アイドルファンコミュニティも、同じ対象を共有する集団に所属し、仲間意識や連帯感を育む。ここでも「学術共同体」か「ファン共同体」かという形式的な差にすぎない。


Con(異質であるとする立場)

  1. 成果の持続性と社会的承認
     博士号取得は論文や研究成果として後世に残り、社会的承認の仕組みが制度化されている。アイドル追っかけは個人的経験や思い出としては残るが、制度的・社会的承認の回路を持たない。この点で持続性と拡張性が大きく異なる。

  2. リターンの性質
     博士号取得は職業的地位や専門的信用の上昇など、経済的・社会的に還元可能なリターンを持つ。他方、アイドル追っかけは即時的で感情的な報酬が主体であり、外部に還元されにくい。リターンの「変換可能性」が全く異なる。

  3. 社会的役割
     博士号取得は「知の創出と継承」という社会的役割を担うが、アイドル追っかけは「娯楽消費の維持」にとどまる。社会的インパクトの性格が根本的に異質。


最終見解(私の立場)

江端さんの仮説「原則として差がない。同質の行為である」は、行為の構造的側面において妥当だと考えます。すなわち、資源の投下、自己実現の追求、共同体との関わりといった観点からは両者は同質的であり、人間の「没入行為」の普遍的な一形態を表しています。

ただし、成果の制度的承認と社会的波及効果という観点では両者は明確に異なる。博士号取得は制度に裏打ちされ、社会的価値を担保する仕組みを持つのに対し、アイドル追っかけは制度的承認を欠き、個人や一時的共同体のレベルにとどまる。

したがって私の最終見解は、

  • 「行為そのものは同質、成果と承認は異質」
    という折衷的なものになります。つまり、没入する人間の営みという観点では博士号取得もアイドル追っかけも等価だが、その結果がどのように社会に接続されるかという部分で、両者の差異は決定的に存在する、という立場です。

ありがとうございます。ずっと考えていたことを整理することができました。
このテーゼについては、もう少し考えていきたいので、その時にはお願い致します。

承知しました。整理のお役に立てて何よりです。
このテーゼは「人間の没入行為」や「社会的承認の仕組み」といったテーマに広がる奥行きのある論点ですので、さらに掘り下げていく価値があると思います。

また続きが出てきた時や、別の角度から検討したくなった時には、ぜひ声をかけて下さい。

未分類

小学生の子どもの長期休暇(夏休み等)に、共働きの保護者が、
(1)子どもに大量のカップ麺を買い置きして食べさせるのと、
(2)子どもに火気を使用した簡単な調理を教えて自炊するのを教えるのは、
どちらが良いでしょうか。
メリットとデメリットを勘案して検討して下さい。

ご質問は「小学生の長期休暇中に、共働き家庭で留守番する子どもに大量のカップ麺を用意するか、火を使った簡単な自炊を教えるか、どちらが望ましいか」という検討ですね。以下、両者のメリット・デメリットを整理します。


1. 大量のカップ麺を買い置きする場合

メリット

  • 安全性:火や包丁を使わずに済むため、事故や火災のリスクが低い。
  • 手軽さ:調理時間が短く、子ども一人でも確実に食事がとれる。
  • 親の安心感:留守中に「とりあえず食べられるものがある」という安心感が得られる。

デメリット

  • 栄養バランス:炭水化物と塩分に偏り、タンパク質やビタミン、ミネラルが不足する。長期間続けば健康リスクが大きい。
  • 食習慣への影響:簡便さに慣れすぎ、食生活の多様性が損なわれる。
  • 満足感の低下:同じものが続くと食欲や食への楽しみが減る。

2. 火気を使用した簡単な自炊を教える場合

メリット

  • 栄養改善:卵焼き、味噌汁、炒め物などを覚えれば、より栄養バランスの取れた食事ができる。
  • 教育的効果:生活スキルとして自立心や達成感を育てる。
  • バリエーション:食事に変化をつけられ、飽きにくい。

デメリット

  • 安全リスク:ガスコンロや包丁による火傷・切り傷・火災のリスクがある。
  • 親の負担:事前に教える時間や環境整備(安全な器具や食材準備)が必要。
  • 子どもの個人差:年齢・性格によっては集中力不足や不注意で危険が増す。

3. 折衷案の可能性

現実的には「どちらか一方」ではなく、組み合わせが望ましい。

  • 電子レンジや電気ポットで作れる料理(冷凍ご飯+レンジ卵焼き、レトルトカレー、インスタント味噌汁など)を基本にしつつ、
  • 週末に火を使う練習をして、徐々に「自炊できるメニュー」を増やす。
  • カップ麺は非常食的に少し用意しておき、メインは栄養のある簡便食に置き換える。

結論

  • 短期的には「安全性を重視してカップ麺も活用」するのは合理的。
  • 中長期的には「自炊スキルを段階的に教える」ことが、栄養・教育・生活力の観点で有利。
  • 特に 電子レンジや電気調理器を活用した“火を使わない自炊” が、両者のデメリットを補う有効な方法と考えられます。

ご要望があれば、「小学生でも安全にできる自炊メニュー例」をリスト化してご提案できますが、出しますか?

「小学生でも安全にできる自炊メニュー例」をお願いします

承知しました。以下に「小学生でも安全にできる自炊メニュー例」を整理しました。火気を避けつつ、電子レンジ・電気ポット・トースターなどで作れるものを中心にしています。


ご飯系

  • 冷凍ご飯+レトルトカレー
    ご飯をレンジで温め、レトルトを湯せんまたはレンジで加熱するだけ。
  • 卵かけご飯(+納豆やしらす)
    火を使わず、栄養と手軽さを両立。衛生のため新鮮卵を使用。
  • レンジで炒飯風ご飯
    ご飯に卵・ハム・冷凍野菜を混ぜ、レンジで加熱して混ぜ直すと簡易炒飯に。

麺類

  • レンジうどん/そば
    冷凍うどんをレンジで加熱し、インスタントのつゆや粉末スープをかける。
  • そうめん(電気ポット使用)
    ポットで湯を沸かし、そうめんを茹でて水で冷やす。火を使わずに済む。

主菜・副菜

  • レンジスクランブルエッグ
    耐熱容器に卵を割り、牛乳と塩を入れてレンジで加熱→途中でかき混ぜる。
  • 冷凍ハンバーグや唐揚げ
    レンジで温めるだけでタンパク質がとれる。
  • 豆腐+めんつゆ+鰹節
    冷奴なら火もレンジも不要。夏休みに最適。
  • サラダチキン活用
    コンビニやスーパーのサラダチキンを切ってサラダやご飯にのせる。

スープ・汁物

  • インスタント味噌汁・スープ
    電気ポットのお湯を注ぐだけ。具だくさんのフリーズドライを選べば栄養補強。
  • レンジで野菜スープ
    耐熱容器に冷凍野菜とコンソメを入れ、水を注いでレンジ加熱。

おやつ・軽食

  • バナナヨーグルト
    切ったバナナにヨーグルトをかけるだけ。栄養価が高い。
  • 食パン+チーズ+ハム(トースター)
    火を使わずにホットサンド風。
  • レンジ蒸しパン(ホットケーキミックス使用)
    耐熱カップに材料を混ぜてレンジで加熱。

ポイント

  1. 火を使わない調理器具(レンジ、ポット、トースター)を活用。
  2. 冷凍食品やレトルトを組み合わせて栄養バランスを補う。
  3. 「主食+主菜+汁物」の形を意識すると、カップ麺より健康的で飽きにくい。

ご希望なら、「1週間の小学生自炊ランチ例(献立表形式)」にまとめることもできますが、作ってみましょうか?

ガスコンロは危険ですが、電子調理器コンロに限定すれば、(ヤケドのリスクはあるけど)かなりデメリットが減るということはないでしょうか

はい、その通りです。ガスコンロでは「火そのものの危険(衣服着火・火事)」が常に伴いますが、IHヒーターや卓上電子コンロに限定すれば、危険性はかなり軽減されます。整理すると以下のようになります。


電子調理器コンロ(IHなど)のメリット

  • 火災リスクの低減
    炎が出ないため、誤って袖や紙に引火する心配がない。
  • 自動停止機能
    多くの機種は、一定時間で自動OFFや鍋がないと加熱しない安全設計がある。
  • 温度管理のしやすさ
    加熱温度や時間をデジタルで設定できるため、調理ミスが減る。
  • 親の安心感
    「火を使わせるより安全」という心理的ハードルが下がる。

依然として残るリスク

  • やけど
    天板や鍋の取っ手は高温になるため、触ってしまえば火傷の危険は残る。
  • 重い鍋の扱い
    お湯や汁物を移すときにこぼして火傷するリスク。
  • 調理器具依存
    停電時に使えない/アウトドアや将来の調理環境で「火を使えない」不安も残る。

総合的な評価

  • ガスコンロ>IH>電子レンジ・ポット の順にリスクは減る。
  • 小学生なら、まず「電子レンジ・ポット中心の調理」を教え、段階的に IH調理器を追加 するとバランスが良い。
  • IHを導入すれば「自炊教育のメリット」を得つつ「火事リスクのデメリット」をほぼ解消できるので、家庭の教育方針としては現実的に優れた折衷案。

ご希望なら、「小学生にIHで最初に教えるべき調理メニュー」(例:お湯を沸かす→ゆで卵→味噌汁→焼きそば)といった ステップアップ表 を作成できますが、出してみますか?

現在の小学生の調理スキルの範囲をざっくり推定して下さい。
小学生生は低学年、中学年、高学年に分けて下さい。

承知しました。ここでは「一般的な家庭で特別な調理教育を受けていない平均的な小学生」を前提にして、学年ごとの調理スキルをざっくり推定します。


低学年(1〜2年生)

  • できること
    ・パンにジャムやバターを塗る
    ・果物を洗って皮をむく(バナナ、みかんなど)
    ・おにぎりを握る
    ・電子レンジで温め(保護者が設定した簡単操作)
  • 特徴
    まだ包丁・火気は危険度が高く、集中力も続かない。
    「食材を並べる・混ぜる・ちぎる」など手先の作業が中心。

中学年(3〜4年生)

  • できること
    ・包丁でキュウリやバナナ程度の柔らかい食材を切る(保護者の見守り付き)
    ・卵を割る
    ・炊飯器を使ってご飯を炊く
    ・電子レンジを自分で操作して簡単な加熱調理
    ・インスタントラーメン(ポットのお湯使用)
  • 特徴
    安全を意識し始め、道具の使い方を学ぶ段階。
    「料理を作る」より「一部を担当できる」程度。

高学年(5〜6年生)

  • できること
    ・包丁で野菜を切る(にんじん、玉ねぎなど固い食材も可)
    ・フライパンや鍋を使った簡単な調理(炒め物、味噌汁、目玉焼きなど)
    ・IH調理器やガスコンロの操作(要注意だが可能)
    ・レシピを見ながら一品を最初から最後まで作る
    ・片付けや後片付けを含めた一連の流れを体験できる
  • 特徴
    家庭科の授業で「調理実習」を経験しており、料理全体を一人でこなす準備が整う時期。
    ただし、集中力や安全意識には個人差が大きい。

総括

  • 低学年:盛り付け・混ぜる・温めなど「補助的」スキル
  • 中学年:包丁や炊飯器など「部分的な調理」スキル
  • 高学年:家庭科実習の経験を基に「一人で一品完成」できるレベル

ご希望なら、この推定を基に 「夏休み自炊チャレンジ計画(学年別ステップアップ表)」 を作成できますが、出してみますか?

子ども側の気持ちに立ってみると、カップ麺の方が嬉しかったりすることはありますか?

あります。子どもの立場から見ると、カップ麺には独特の魅力があり、「自炊より嬉しい」と感じる場面も少なくありません。


カップ麺が嬉しいと感じる理由

  • 「ごちそう感」
    普段は制限されがちなジャンクフードやインスタント食品は、子どもにとって特別なおやつやご褒美のように感じられる。
  • 「自分で作れる達成感」
    お湯を注ぐだけで完成するので、低学年でも「一人で作った!」という満足感が得られる。
  • 「味の濃さとわかりやすい美味しさ」
    濃い味や油っぽさは子どもの好みに合いやすい。
  • 「手間がかからない=すぐ食べられる」
    お腹が空いたときにすぐ食べられるのは大きな魅力。
  • 「友達やテレビで見た憧れ」
    「CMで見た」「友達が話していた」など、特別感が高まる。

ただし長期的に続けると

  • 食のバリエーションがなくなり、飽きが来る。
  • 栄養不足や体調不良(喉が渇く・胃もたれ)で「嬉しい」より「つらい」に変わる。
  • 「特別感」が失われ、むしろ嫌いになるケースもある。

結論

  • 短期的には「カップ麺=ごちそう」で子どもが喜ぶケースが多い。
  • 長期的には栄養・健康・飽きの面からマイナスが出てくるため、やはり「時々のご褒美」に位置づけた方がよい。
  • 親の工夫として、**「1週間に1回だけOK」「友達と遊んだ日の特別メニュー」**などにすれば、子どもにとって嬉しいままに保てる。

ご希望なら「子どもにとって“ごちそう感”を保ちつつ、親として安心できるインスタント食品の活用法」を整理してみましょうか?

夏休み中(の昼食)、カップ麺だけを食する小学生、というのが問題のように見えますが、これは私の思い込みでしょうか。
ここでは"正論"よりも"実体"に即したご回答を期待します。

ご指摘の「夏休み中、カップ麺だけを昼食にしている小学生」という状況は、確かに珍しい話ではありません。思い込みではなく、実際に現場で起きているケースに近いです。


実態としてよくある状況

  • 共働き家庭・留守家庭では、子どもが自分で昼食を用意する必要がある。
  • 一番手軽で「失敗しない」のがカップ麺なので、親がまとめ買いして「お腹が空いたら食べて」としている家庭は少なくない。
  • 実際、子どもにとって「カップ麺=自分で完結できる料理」であり、安心感と即効性がある。

子どもにとっての現実

  • 心理的には満足:味が濃くて好き、手軽、友達に話せる「自分の自由」。
  • 身体的には負担:塩分や脂質が多く、数週間単位で続けると「だるい」「便秘」「喉が渇く」など不調が出やすい。
  • 社会的な視点:夏休み明けに「毎日カップ麺だった」と言えば、笑い話にもなり得るが、場合によっては「親の手抜き」と捉えられる懸念もある。

親の感覚とのズレ

  • 親:健康や食育の観点から「カップ麺だけは問題」と思う。
  • 子:自由と即効性から「むしろ快適」と思う。
  • ここにギャップがあるので、親の罪悪感や不安が強まりやすい。

現実的な折り合い

  • 完全に否定する必要はない:実際、多くの家庭で「夏休みの一部はカップ麺頼み」になっている。
  • 問題は“毎日続くかどうか”:1〜2日程度なら問題はほとんどないが、数週間続けば栄養不足や体調不良が現実的に心配。
  • 工夫の余地
    ・冷凍おにぎりや総菜を混ぜて「カップ麺+一品」にする
    ・果物やヨーグルトを常備して「カップ麺の後に必ず食べる」ルールにする
    ・「週3はカップ麺、週2は冷凍弁当」などパターンを決める

結論

「カップ麺だけを食べる小学生」は、実体として存在するし、共働き家庭の現実的な選択肢のひとつです。
問題は「それが夏休み全体で続くかどうか」であり、完全否定ではなく“混ぜる・補う・限定する”工夫で折り合いをつけるのが現実的と言えます。


もしご関心あれば、「夏休み40日間の昼食を“カップ麺+何か”で回す実践プラン」を作ってみますか?

なるほど。子どもの夏休み中のカップ麺食は、十分常識の範囲の戦略なのですね。
では、それを前提として、健康面に配慮した食育の戦略をお願いします。
また付帯して、メーカーの開発すべき「子どもの夏休み中のカップ麺」というのを提案して下さい。

承知しました。ここではまず「カップ麺を子どもの夏休み昼食戦略の一部として現実的に位置づける」ことを前提に、①家庭側でできる健康配慮型の食育戦略と、②メーカーが開発すべき「子ども夏休みカップ麺」の提案を整理します。


1. 家庭での健康配慮型・食育戦略

基本方針

  • カップ麺を否定せず、“入口”として活用する
    「食べてはいけない」ではなく「カップ麺に+αをする」という形にすることで、子どもも受け入れやすい。
  • 栄養バランスを補う工夫
    麺単体では不足しがちなタンパク質・ビタミン・食物繊維を、簡単に追加できる環境を整える。

実践アイデア

  • トッピング習慣
    冷凍野菜・コーン・冷凍ほうれん草・ツナ缶・ゆで卵を、必ず1種類は追加するルール。
  • セットメニュー化
    「カップ麺+フルーツ(バナナやみかん缶)」を一皿に並べる。栄養も見た目も改善。
  • “自分で栄養を足す”教育
    「今日は何を入れる?」と子どもに選ばせることで、自炊の第一歩にする。
  • 回数制御
    夏休み40日間で「週2〜3回まで」とするなど、あらかじめ枠を決める。

2. メーカーが開発すべき「子ども夏休みカップ麺」

カップ麺を “非常食”から“育つ食”にシフト するための新カテゴリーとして提案します。

製品コンセプト

  • ネーミング例:「夏休み元気ヌードル」「キッズバランス麺」
  • ターゲット:小学生の留守番・共働き家庭を前提にした昼食用
  • 訴求点:「子どもでも安全に作れて、栄養が足せる」

具体的仕様案

  1. 低塩分・低脂質ベース
    通常のカップ麺より塩分30%減、油分も控えめ。
  2. 野菜・タンパク質入り乾燥具材
    フリーズドライのほうれん草・コーン・鶏そぼろ・豆腐などを標準でセット。
  3. 「足す」前提の小袋同梱
    ・栄養パウダー(カルシウムやビタミン)
    ・トッピング提案カード(卵を入れるとさらに美味しい!など子ども向け)
  4. 安全設計
    ・容器を二重断熱にして火傷しにくい
    ・湯切り不要タイプで扱いやすい
  5. 教育的付加価値
    パッケージに「今日の食育クイズ」や「料理豆知識」を印刷し、食事=学びにする。

3. 戦略的まとめ

  • 家庭にとってカップ麺は「夏休みの現実的な安全網」であり、完全否定は非現実的。
  • 健康配慮は「追加・補助」の形で行い、子どもの自主性を育てる方向にシフトする。
  • メーカーにとっては「子ども専用夏休みカップ麺」という市場は未開拓であり、安全性・栄養・教育性を盛り込めば十分に商品化の余地がある。

ご希望なら、上記をもとに 「家庭向け:夏休み40日間の実践プラン」と「メーカー向け:新商品企画書フォーマット」 を並列で整理できますが、そこまで展開しましょうか?

いえ、ここまでで結構です。ありがとうございました。

了解しました。こちらこそ、深いテーマを一緒に考える機会をいただきありがとうございました。
また必要になったら、いつでも声をかけてください。

2025,江端さんの忘備録

私は、リタイア直前のシニアですので、大学でも職場でも、大抵の人は私より若いです。
I am a senior just before retirement, so at both the university and the workplace, most people are younger than me.

職場の上司は勿論、大学でご指導頂いた先生も、私よりは若いです。
Not only are my bosses at work, but also the professors who guided me at university, who are younger than I am.

新人を迎えた、大学でのゼミ発表の第一声は、
When welcoming new students, my first line at a university seminar presentation is:

ーー I am the oldest student, including the professors, in this class
(私は、このクラスの教授を含めても最年長の学生です)

です。
That’s what I say.

これで、"掴み"はバッチリです。
With this, the “hook” is perfect.


先日、ご指導を頂いた先生より、卒業のお祝いの一席を設けて頂き、参加してきました。
The other day, one of the professors who had guided me arranged a graduation celebration, and I attended.

今後も、先生にはお世話になる予定もあり、今後も研究や業務で連携させて頂こうと考えておりました。
I expect to continue receiving guidance from the professor, and I was planning to collaborate further in research and work.

3時間くらいのあいだ、尽きることなく、ぶっ通しで会話を続けて、楽しい時間を過ごすことができました。
For about three hours, we talked nonstop without running out of topics, and I had a delightful time.

先生が、「江端さんは、一体どの時間で、コラムとか書いているのか」と質問されまして、私はちょっと考えた後、
The professor asked me, “Mr. Ebata, when on earth do you find the time to write your columns?” After thinking for a moment, I replied:

『私、メジャーリーグの日本人選手が登場するゲームも見ませんし、4年に一度のワールドカップも、嫁さんがテレビの前で応援している声を遠くで聞きながら、コーディングしています。もしかしたら、その辺が、コラムの時間に当てられているのかもしれません』
“I don’t watch games where Japanese players appear in Major League Baseball, nor do I watch the World Cup once every four years. While my wife is cheering in front of the TV, I’m coding in the distance. Perhaps that’s where the time for my columns comes from.”

とお答えしておきました。
That’s how I answered.


コースの最後に出てきたスイーツに、2本の花火が刺さっており、サーバーの女性が「お写真を取りましょうか?」と言ってきたので、ちょっとビックリしました。
At the end of the course, the dessert came with two sparklers stuck in it, and when the server asked, “Shall I take a picture for you?”, I was a little surprised.

先生が、先んじて『私たち、オジサンなので』と、私に先んじて断って頂き、大変助かりました。
The professor quickly said, “We’re just middle-aged men,” and declined on my behalf, which was a great relief.

先生が『"お祝いコース"みたいなのを頼んだ』とおっしゃっていました。
The professor mentioned, “I ordered something like a celebration course.”

誕生日とか結婚記念日では、"花火"も普通かもしれませんが、指導教官(オジサン)と生徒(もっとオジサン)では、なんとも座りが悪いです。
Fireworks might be standard for birthdays or wedding anniversaries, but between a professor (a middle-aged man) and a student (another middle-aged man), it feels awkward.


なるほど、多くの方は、こういう写真をSNSに流して、自分の幸せを誇示する訳ですね。
I see—many people post such photos on social media to show off their happiness.

私、学位取得できて幸せですが、こういう形でのアピールはいらないです。
I’m happy to have obtained my degree, but I don’t need to make such displays of it.

「『北朝鮮に学ぶ弱者戦略』というシリーズを構想している」