大統領というのは、事実上の最高権力者だから、逮捕できないような気がするのですが、韓国の憲法では、現職大統領は『反逆罪』と『内乱罪』の場合のみ刑事訴追が可能、と言うことを知りました。
では、その『反逆罪』と『内乱罪』とは何か、というと、こういうものらしいです。
1. 反逆罪
- 外国と通謀し、国家の安全を害する行為
- 敵国に軍事上の利益を提供する行為
- 国家の独立や領土保全を脅かす行為
- 国家転覆を目的とした反乱やクーデターの計画・実行
江端智一のホームページ
大統領というのは、事実上の最高権力者だから、逮捕できないような気がするのですが、韓国の憲法では、現職大統領は『反逆罪』と『内乱罪』の場合のみ刑事訴追が可能、と言うことを知りました。
では、その『反逆罪』と『内乱罪』とは何か、というと、こういうものらしいです。
ACジャパンとはどのような団体なのですか
ACジャパン(公益社団法人ACジャパン)は、日本の広告業界が共同で運営する公共広告機構であり、社会貢献を目的とした公共広告の制作・発信を行う団体です。1971年に「公共広告機構(Public Advertising Organization, PAO)」として設立され、2009年に現在の「ACジャパン(Advertising Council Japan)」へと改称されました。
ACジャパンは、企業広告とは異なり、社会貢献を目的とした公共広告を制作・発信する団体です。広告業界全体が支援する形で運営され、営利目的ではなく、社会的メッセージを伝えることに特化している点が特徴です。そのため、時折大きな話題になることもありますが、基本的には「社会全体にとって良い影響を与える」ことを目的としています。
ACジャパンのビジネスモデルを簡単に説明して下さい
ACジャパン(公益社団法人ACジャパン)のビジネスモデルは、以下のような構造になっています。
ACジャパンは、企業広告のような営利活動を行わず、以下の方法で資金を調達しています。
ACジャパンは、広告業界の賛助金・寄付によって運営され、空き広告枠を活用して社会的メッセージを発信するモデルになっています。これにより、広告業界全体のCSR(企業の社会的責任)活動の一環として機能しつつ、公共広告の役割を果たしています。
1の民放テレビ局の不祥事(?)によるスポンサー離れに対して、広告業界協賛のACジャパンのCMを流すというのは、利益相反にはならないのですか?
フジテレビの不祥事によるスポンサー離れが発生し、その結果としてACジャパンのCMが放送されるという状況は、一見すると広告業界全体の「救済措置」にも見えるため、**利益相反(conflict of interest, COI)**の問題があるのではないかという指摘は一定の合理性があります。
ACジャパンのCMは、基本的に通常の広告枠が埋まらなかった場合に放送されます。このため、スポンサーが離れたことで生じた広告枠の空きをACジャパンが埋める構造になることは事実です。
広告業界の支援によって運営されている団体(ACジャパン)が、広告収入が減った放送局を間接的に支えることになるため、利益相反の懸念が生じます。
ただし、ACジャパン自体は放送局に広告料を支払っていないため、「広告業界がフジテレビを資金的に救済している」という直接的な利益相反は発生しません。むしろ、広告業界として「社会的な公共広告を流す」という役割を果たしているという建前があります。
しかし、以下のような問題が指摘されることがあります:
フジテレビにとっては、スポンサーが撤退した結果としてACジャパンのCMが流れる状況は、以下のようなリスクがあります。
広告業界としては、ACジャパンを通じて公共広告を流すことで「社会貢献」をアピールできる一方で、フジテレビの広告枠がACジャパンCMで埋まることで、通常の広告主が撤退しやすくなるという側面もあります。このため、広告業界全体としても、長期的にはマイナスの影響を受ける可能性があります。
フジテレビの不祥事によるスポンサー離れが発生し、その結果としてACジャパンのCMが増える状況は、構造的には利益相反の懸念があるものの、直接的に広告業界がフジテレビを金銭的に支援しているわけではないため、厳密な意味での利益相反とは言えないというのが実情です。
しかし、視聴者やスポンサーからの印象としては「業界ぐるみの救済措置」と捉えられかねないため、広告業界としての透明性や説明責任が求められる問題であると言えます。
親の介護を真剣にやったなどとは、口が裂けても言えない私ですが、それでも介護によって、私は、人間の人生を「憎悪」するようになりました。
あんなに、愚直に、真剣に、一生懸命、真面目に、私を育てて生きてきた、あんな立派な人たち(私の両親)の、最期が「あれ」かよ、と。
人生のいきつく先が「あれ」であるなら、何か目指す生き方に意義はあるのか?
私が、『何かを目指す生き方』から、『完全に降りた』と確信したのは、父が死に、それに引き続き、母が死んだ時でした。
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両親には申し訳ないとは思うのですが ―― 多分、息子が社会で活躍して、多くの人から尊敬されることを期待していたと思う ―― けど、私は、もう、誰かや、何かを背負うような生き方は、やめたのです。
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と、ここまで書いて、その後の文章を、ChatGPTに作成をお願いしました。
この後の文章を自由に作ってみて下さい。
それでも、両親の最期を看取ったことは、私の中に一つの「自由」をもたらしました。
「何かを目指す」生き方を降りた私は、同時に、何者かであろうとする重圧や、誰かの期待に応えようとする義務感からも解放されました。皮肉にも、あれほど憎悪していた「人生」というものから、少しだけ距離を取ることができたのです。
両親が人生をかけて示してくれたのは、「努力や真面目さが報われるとは限らない」という冷徹な現実でした。そして、それでもなお、人間として生きる意味や価値を模索し続ける姿勢そのものでした。
彼らの死を通じて学んだのは、結局、何を成し遂げるかよりも、「どのように生きるか」が重要なのかもしれない、ということです。誰にも期待される必要はない。何かに縛られる必要もない。ただ、自分が「生きている」と思える瞬間を、大切にすればいいのだと。
そう考えると、心に少しだけ余白が生まれました。かつての私なら、そこを何かで埋めようと必死になったかもしれませんが、今はその余白をそのままにしておこうと思えます。空っぽのままでいる自由を、ようやく受け入れられるようになったのです。
人生の意味に疑問を持ちながら、それでも生きる。両親が残してくれた、最後の贈り物のように思えます。
そうではなくて、『人生に意義がない』ことを強調するネガティブな文章をお願いします。
人生に意義なんてない――それが、私が介護を通じて悟ったことのすべてでした。
どれだけ真剣に生きようが、どれだけ他人に尽くそうが、その果てに待っているのは、ただの衰えと死。それだけのことです。苦労して築き上げた何かも、記憶に刻まれた思い出も、最後にはすべて霧散する。肉体は弱り果て、意識は曖昧になり、最終的には他人の手を借りて生きるしかなくなる。それが「人生」というものの正体です。
私の両親は、生涯を通じて誠実で、努力を惜しまない人間でした。それでも彼らの最期は惨めでした。尊厳なんてものはとうに消え失せ、他人に世話をされながら、それでも生きることを強いられる日々。その姿を目の当たりにしながら、「こんな終わり方をする人生に意味などあるのか」と、何度も問い続けました。
もし人生に何らかの意義があると信じていたなら、私は今でも何かに挑み続けていたでしょう。しかし、そこに何の意味も見出せなくなった今、私はただ「何も目指さない」という選択をしたに過ぎません。無意味なものに努力を注ぐほど馬鹿らしいことはありません。
「何かを成し遂げること」には価値があるという幻想が、いかに多くの人を欺いてきたことか。その先にあるものがただの虚無である以上、そこへ向かう過程にどんな輝きがあったとしても、それは錯覚に過ぎません。すべては、いずれ消え去る泡のようなものです。
そして、その泡を追いかける行為こそが、人間の愚かさの象徴だと、私は思わずにはいられません。
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私は、こちらの文章の方に「いいね」を付けました。
不特定多数の人間と性交渉することが、インモラルである、ということの根拠を説明してください
倫理的・道徳的な観点から、不特定多数の人間と性交渉する行為が「インモラル(道徳的に問題がある)」とされる理由は、以下のような点が挙げられます。ただし、これらの議論は文化、社会的価値観、宗教的背景などによって異なるため、普遍的な真理として受け入れられるわけではありません。
多くの文化や宗教では、一夫一妻制や特定の相手との忠実さが推奨されており、不特定多数との性的関係はその規範に反するとみなされます。こうした規範は、家族制度や社会の安定を維持するために形成されてきた歴史があります。
性的な関係は、しばしば信頼や誠実さを基盤とした親密な関係の一部と見なされます。不特定多数との関係は、特定の相手に対する誠実さを欠くものと解釈されることがあり、その結果、信頼の破壊や人間関係の悪化を引き起こす可能性があります。
複数の相手と性交渉を持つことは、性感染症(STI)のリスクを高める要因となります。また、相手にそのリスクを伝播させる可能性があるため、他者への配慮や責任の欠如として批判される場合があります。
性的関係が深い感情的結びつきを伴うことが多い場合、不特定多数との関係は感情的な摩擦やトラブルを生みやすいとされています。たとえば、関係を持った相手の感情を軽視する行為とみなされる場合があります。
特定の宗教や哲学的な立場では、性的行為は神聖なものと考えられ、軽率に行うべきではないとされています。不特定多数との関係は、この価値観に反するものとして批判される場合があります。
家庭や恋愛関係において不特定多数との性的関係が発覚することで、パートナーや家族に精神的なダメージを与えることがあります。その結果、個人的な幸福だけでなく、他者の幸福や信頼を侵害する行為と見なされることがあります。
不特定多数の人間と性交渉を持つ行為が「インモラル」とされる背景には、社会的規範、信頼関係の重要性、健康上の懸念、宗教的価値観などが複雑に絡み合っています。ただし、現代の多様な価値観において、個人の自由やプライバシーを尊重する動きも強まっており、この問題に対する見解は一様ではありません。
不特定多数の人間と性交渉することで利益を得ることを禁止する法律の立法根拠はどのようなものでしょうか
不特定多数の人間との性交渉を通じて利益を得ることを禁止する法律(売春防止法など)の立法根拠は、主に以下の観点に基づいています。これらは、社会の秩序や個人の人権を守る目的で制定されることが一般的です。
売春などの行為が広がると、犯罪や違法行為(人身売買、暴力団の関与、薬物犯罪など)と結びつきやすいとされています。こうした状況を放置すれば、社会の秩序や治安が悪化する可能性があるため、法律によって規制されています。
不特定多数との性的関係を通じて利益を得る行為が、しばしば人身売買や搾取につながるケースがあります。特に弱い立場にある人々(貧困層、未成年者、移民など)が強制的または半強制的に従事させられることが問題視されています。このような搾取から個人を保護することが立法の重要な目的です。
売春の合法化や拡大が地域社会に与える影響が懸念されます。性的サービスを提供する施設が増えると、地域の住民に不安を与えるだけでなく、子どもや若者への悪影響が懸念されるため、公共の福祉を守る観点から規制されます。
多くの国や地域では、性的関係が個人間の親密な行為として捉えられ、それを商業的な活動とすることは道徳的に不適切とみなされています。この倫理的な価値観を反映して、売春などの行為が禁止される場合があります。
売春業の蔓延は、性感染症(STI)の拡大リスクを高めるとされています。これにより、公衆衛生の問題が発生するため、法律によって規制することで、感染症拡大の抑制が図られています。
売春や性産業が合法化されると、雇用主や仲介者が労働者を過酷な条件で働かせることがあり、経済的搾取の問題が発生します。こうした状況を防ぐため、法律で利益を得ること自体を禁止する場合があります。
性的関係を商業的取引の対象とすることは、人間の尊厳や性的自由を侵害する行為とみなされる場合があります。この観点から、性の商品化を規制する法律が制定されています。
不特定多数の人間と性交渉することで利益を得る行為を禁止する法律は、社会秩序や公衆衛生の維持、弱者保護、人間の尊厳を守ることを目的としています。ただし、このような規制が十分な保護を提供しているか、または労働者の権利を適切に考慮しているかについては、国や地域によって議論が分かれることがあります。
不特定多数の人間と性交渉することによって利益を得ることが、完全な自由意思で行われている場合、これを罪とする法律的または倫理的根拠はどのようなものになるでしょうか
不特定多数の人間と性交渉することによって利益を得る行為が、完全に自由意思で行われている場合でも、それを罪とする法律的・倫理的根拠には以下のような理由が挙げられます。ただし、これらの根拠が普遍的に受け入れられるかどうかは、社会や文化、法体系によって異なります。
自由意思に基づく性産業の規制については賛否両論があります。一部では、個人の自由を尊重し、適切な規制と労働者保護を行えば問題ないとする立場もあります。対して、社会全体への影響や倫理的懸念を理由に禁止すべきとする意見も根強くあります。
結論として、自由意思の有無にかかわらず、法的・倫理的な規制が課される背景には、社会全体の秩序、他者への影響、人間の尊厳といった広範な観点が含まれています。
我が国においては、未成年との性交渉が罪になることがありますが、この条件とその根拠を教えて下さい
日本において、未成年者との性交渉が罪とされる場合、その条件と法的根拠は以下の通りです。
未成年者は心身ともに成熟していないとされ、性的行為に関する判断能力が十分でないと考えられています。そのため、成年者との性交渉が未成年者に対して心理的・身体的な被害を与える可能性を防ぐための規定です。
未成年者が経済的困窮や環境的要因から性的行為に巻き込まれるリスクを軽減する目的があります。特に児童買春は経済的搾取や人権侵害とされ、厳しく規制されています。
未成年者との性的関係を規制することは、社会全体の倫理的価値観や道徳を保つ役割があります。特に18歳未満は「保護されるべき存在」として認識され、性的対象とすることは社会的に許容されないとされています。
未成年者に対する性的犯罪は、被害者の人生に深刻な影響を与える可能性があります。そのため、未然に犯罪を防ぐ抑止力として厳格な法律が設けられています。
未成年者との性交渉を罪とする法律の条件と根拠は、未成年者の心身の保護、性的搾取の防止、社会的倫理の維持、犯罪抑止を目的としています。これらの法律や条例は、未成年者を守るために制定されており、個々のケースに応じた適用が求められます。
ここでいう「倫理的価値観や道徳」がどのようなものになるのか言語化して下さい。
ここでいう「倫理的価値観や道徳」とは、社会が共有する規範や価値観の集合体であり、人々が互いに尊重し合い、調和を保ちながら生活するための基盤を指します。これを未成年者との性交渉に当てはめると、次のように言語化できます。
「倫理的価値観や道徳」とは、未成年者を尊重し保護するために社会が形成してきた規範であり、その背景には未熟な存在への配慮、権力の不均衡の是正、性行為に対する適切な判断の尊重、社会全体への影響への配慮といった要素が含まれています。これらは、社会の健全性や次世代の成長を支えるための共通理解といえます。
不特定多数の人間と性交渉することによって利益を得ることが違法とならない国があれば教えて下さい。
不特定多数の人間と性交渉することで利益を得る行為が違法とならない国や地域として、以下の例が挙げられます。ただし、合法化されている場合でも厳格な規制や条件が課されることが多く、無制限に許可されているわけではありません。
これらの国々では、性的サービスを提供する行為が合法化されていますが、ほとんどの場合、労働者の安全、健康、権利を守るために厳格な規制が設けられています。また、未成年者の関与や強制売春、人身売買に関しては、どの国でも厳しい罰則が設けられています。各国の規制は文化や社会的背景に依存しており、合法であることが倫理的に正当化されるわけではない点にも留意が必要です。
我が家は、比較的、衛生に意識のある家だと思ってきました。
しかし、今年の、ここ一週間で家族全員が「かぜ」または「インフルエンザ」に罹患しました。
こういうことは、今まで一度もなかったと思います。
確率的にも、かなりレアケースだと思います。
今朝、嫁さんと次女がドラッグストアを回ったようですが「インフルエンザ判定器」を入手できなかったようです。
加えて、発熱外来の電話は、現時点で、完全に麻痺しているようです。
ChatGPTに推定して貰ったら、国内罹患者950万人という、凄い数を叩き出しました。
国内、帰省先、そして海外で、まさに今、倒れていて、そして、明日からも倒れる人がいると思います。
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診療受診、インフル特効薬の入手が、一年でもっとも困難な期間です。
市販薬やのど飴、過去に処方された薬、ひえぴた、鎮痛剤(ロキソニンでもバッファリンでも)、なんでも良いので、手の届く範囲に取り揃えておくことをお勧めします。
そして、食欲ゼロの状態でも何か口にできるものを、寝具の回りに撒き散らしておくと良いと思います。
私は、スポドリ4リットル、冷凍うどん、卵、ゼリー、果物のかんずめ、レトルトのおかゆ等を、よく取り揃えていました。
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これは私の主観的な感想ですが、
―― ことしの風邪/インフルは、『かかったかな?』と感じた時点で、負けが確定
というくらい、凶悪な感じがします。
動けるうちに、できることをやっておいてください。
腹部付き上げ法
(1)成人・高齢者ケース
窒息している人の背中を強く叩く(躊躇しない)
下あごを支えてうつむかせる(首をしめないように)
手の平に付け根で、肩甲骨の間を強くたたく
(2)幼児の場合
異物が出てくるまで『虐待』と見えるくらい乱暴にぶっ叩く(by 江端主観)
これで駄目なら次の方法
腹部付き上げ法(妊婦や幼児にやってはだめ)
へそと鳩尾の間に握りこぶしを作り、力一杯閉め上げる(を5回)
# 「強制的に嘔吐させる」というイメージだったように思う
で、これでも駄目で呼吸が確保できなくなったら、
心臓マッサージを開始
5cmというと相当凄い。肋骨を折るいきおい(多分折っても構わんと思う))勢いになる。100-120回というのも凄い運動量で、気持ちとしては「喧嘩の相手を殺す」くらいの気持ちでいいんじゃないかな(by 江端主観)。
救急車が届くまで、ずっと続ける ―― 諦めないで、ずっと続けること
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ちなみに、私が実家で、(亡き)父に雑煮を作っていたとき、餅は全部「さいころサイズ」にしていました。
というか、我が国の雑煮の餅は「さいころサイズ」で統一していいんじゃないかな ―― 美味しいですよ(本当)。
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(追記) その後、嫁さんと、この2つの方法について実際に練習をしたのですが、
『もっと強く叩いて!』などとアドバイスしていて、娘に"妙な勘違い"をされるのではないかと、心配になってきました。
アインシュタインは、天才論理物理学者であることに疑いはないのですが、それでも、私が知る限り2つミスっています。
宇宙定数項の導入と、量子力学の否定です。
ただ、この2つの否定が、次のステップの大ジャンプとなったことは事実であり、『ミス=悪いもの』とはならない良い事例になっています。
さて、私が待ちにまっていた、NHKの「NHKスペシャル 量子もつれ アインシュタイン 最後の謎」が放映されました。
ここ数日は、これに関する私のレビューで溢れるかと思います(で、多分PVは落ち込むことでしょう)。
ですので、行き成り、番外編から書いておきます。
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私も、量子コンピュータシリーズを執筆していて、その解説にめちゃくちゃ苦労した記憶があります。
特に、「量子もつれ」については、勉強→理解→発狂→感動→感涙 という経緯を経て、その説明用メタファに至るまで、かなり時間がかかりました。
NHKはこの番組で「だるまさんが転んだ」と、「ネジリン(量子の擬人化)と鬼(ネジリンの観測者)」というメタファを使っています。
これが良いかどうかは分かりませんが、私には、私の考えたメタファの方が分かりやすいです(当たり前だ)。
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「だるまさんが転んだ」という遊びは、典型的な遊戯ではありますが、静止が壊れれている状態を「鬼とプレーヤー」が合意しないと成立しない面倒なゲームであります。また観測時間を長くすれば、静止状態が崩れやすくなるのは当然です。
で、思ったのですが、
―― 「だるまさんが転んだ」スマホアプリ
というのを、だれか開発してみませんか?
スマホのカメラを使って、静止状態の許容距離やベクトル、そして、観測時間の上限設定をするコーディングをすれば良いです。
情報工学の大学の卒論あたりのテーマとしては、妥当と思うのです。
画像処理技術や、各種アルゴリズムはネットに落ちているものを拾って、組み合わ(インテグレーション)せれば良いでしょう。私なら、インテグレーションできただけで、卒業認定します。
で、そのアプリは、無償で開放する、と。
コンピュータの判断に因るのであれば、子どもたちも、納得し、かつ安心して、「だるまさんが転んだ」を楽しめるという訳です。
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嫁さんには、この話をしていません。嫌な顔をするのは分かっているからです。
これを読んでいる多くの方も、嫌な顔をしているでしょう。子どもには、こういう「鬼とプレーヤー」が合意する機会が必要だ、と思うからでしょう。
でも、もう、私、そういう人間関係に関する基本的な能力も、AIに丸投げしてもいいんじゃないかな、と思っているんです ―― かなり本気で。
サッカー、野球、バレー、ありとあらゆるスポーツも"AI+センサ(カメラ等)+コンピュータ"で片付けていいんじゃないですか?
公平性の担保も簡単で確実です。AIのソースコードと試合中のデータを全部公開すれば、それで足ります。
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私たち人間は、自力で「いじめ」の認定すらできないのは、もう十分に分かりました。
ならば、一度、全部AIに投げてみるのもありかと思っています。
多分問題は出てくると思いますが、やってみなければ、その問題が何なのかも分かりませんからね。
AIではダメだ、と分かれば、その時に、止めればいいんです。
AIは、人間と違って既得権益に囚われませんから(AIを提供する側の既得権益の問題はあるかもしれませんが)。
まる2日間、断片的に、合計20時間以上は寝たのですが、症状が改善しません。
I slept for two full days, piecemeal, for at least 20 hours, but the symptoms have not improved.
夜中に目が覚めて、つばを飲み込むだけで激痛が走り、体は火照りつづけ、炎症抑制剤も、鎮痛剤も、全く効果が感じられません。
I wake up in the middle of the night, just swallowing a spit causes extreme pain, my body continues to burn, and I feel no relief from any anti-inflammatory or painkiller medications.
大きな咳をすると、激痛とともに、痰が喉にからんで、声が出なくなりました。
When I coughed loudly, I had severe pain, phlegm stuck in my throat, and I lost my voice.
声が出ない、というのは、結構大変なことでした(これはリモートやっていると気がつかないことですが)。
It was quite a challenge not to be able to speak up (which is something you don't realize when you're doing a remote).
何しろ、1フレーズを意味のある言葉にするのに、大声を出すくらいの勢いで、ヒューヒューという摩擦音のような音(?)になり、恐しく体力を使います。疲労も半端ではりません。
After all, it takes a lot of energy to transform one phrase into a meaningful word, so much so that it becomes a loud, hissing, friction-like sound(?). It is very strenuous and exhausting, but the fatigue is not half bad.
水を飲まなければいけない、とは分かっているのですが、水分摂取が、喉の激痛との交換条件となっており、これが大変に辛い。
I know I need to drink water, but water intake has become an exchange for the severe pain in my throat, which is very painful.
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それでも、今日、2ラウンドの会議がありました。両方とも流会とすると、来年からの仕事に影響のあるやっかいな案件です。
Still, I had two rounds of meetings today. If both of them are canceled, it will be a tricky matter affecting my work starting next year.
声がでない会議の取り纏めというのは ―― 結構な地獄です。
To organize a meeting where I don't have my voice is pretty hellish.
この痛みを麻痺させて、一時的に声が出て、から元気が出てくるものなら ―― 今の、私は、大麻だって、覚醒剤だって、何だってやります。
If I can numb this pain and temporarily have a voice and feel energized from -- now, I'll do anything, even marijuana, even methamphetamine.
処方してもらった薬が、役たたずなら、仕方ないじゃないですか。
If the medicine I've been prescribed doesn't help, what choice do you have?
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緩和ケア(ホスピス)というものがあります。激痛を伴う末期患者の最後の砦です。
It is called palliative care (hospice). It is the last resort for terminally ill patients in severe pain.
末期患者でない緩和ケア ―― まあ、それが、病院とかクリニックとか言うものでしょうが ―― それが役に立たない場合は、100%自己責任の「緩和ケア」の手段が欲しいです(マジです)。
Palliative care for non-terminal patients -- well, that's what you call a hospital or clinic -- if it doesn't help, I want a means of 100% self-directed “palliative care” (seriously, I'm serious).
これまでずっと言い続けてきましたが、私は苦痛に対して、豆腐のような根性しかありません。
As I have been saying all this time, I have only the guts of tofu when it comes to pain.
私が、偉そうなことをほざいていられるのは、痛みがない、調子の良いときだけです。
I can only imply great things when I am in good shape and not in pain.
だから、何人も私の存在を脅威に感じる必要はありません ―― そんな人がいるかどうははさておき。
So there is no need for any number of people to feel threatened by my presence -- whether or not there is such a person is beside the point.