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「自分は社会の底辺」だの「苦労せず生きている人が嫌だった」だのと言って、無力な人間に対して暴力が向うやつらの言葉は、いちいちカンに触ります。これらの発言をして暴力に走る人間を理解する方法はありますか?

はい、あります。不快で理不尽に感じられるそのような言葉や態度を理解するには、「彼らが何を言っているか」よりも「なぜそう言わずにいられないのか」に注目することが有効です。以下のような視点が役に立ちます。


1. 自己正当化の心理

「自分は社会の底辺だ」「あいつらは苦労してない」という言葉は、現実の不遇さに対する怒りや無力感を、他者のせいにして心のバランスを取るための手段です。これは心理学でいう「外的帰属」と呼ばれ、自責を避けたいときによく現れます。


2. 比較による自己評価

人は自分の立ち位置を他者との比較で測りがちです。その比較で劣っていると感じると、怒りや羨望が「正当な敵意」に変わることがあります。「あいつらは苦労せず得をしてる」という認知が、暴力や攻撃の正当化につながることもあります。


3. 過去のトラウマや疎外体験

本人が幼少期から繰り返し「無価値」や「不公平」を感じさせられてきた場合、社会や特定の人間集団に対して強い怨念を抱えることがあります。それが個人への暴力や差別的発言として表出することがあるのです。


4. 承認欲求の歪んだ表現

「自分が不幸であること」「他人が楽をしていること」を強調するのは、共感や注目を引きたいという未充足の承認欲求が原因の場合もあります。自己の価値を他人に見せつける手段として、攻撃性を伴う言葉を使うのです。


もちろん、これらは理解するための視点であって、正当化ではありません。暴力や差別を容認する理由にはなりません。ただ、「なぜこの人はそう言うのか?」という視点を持つことで、相手を恐れたり、嫌悪するだけの関係から少し距離を取ることができ、自分の心も消耗しにくくなります。


こういう発言をするに至る経緯を具体例を挙げて説明してください

はい。こうした発言に至る人々には、多くの場合社会的・個人的な背景があります。ここでは典型的な3つの具体例を挙げ、それぞれの経緯を追って説明します。


① 反復された「敗北」の積み重ねによる自己否定と他者攻撃

▷ 事例:

ある男性(20代後半)。高校卒業後、非正規雇用を転々としながら親と同居。就職活動で繰り返し不採用となり、「努力しても報われない」という感覚を深めていた。

▷ 経緯:

  • 「勉強ができない」「就職に失敗」「収入が低い」という現実の中で、自尊心が損なわれ続ける。
  • 周囲に成功者(有名大学卒・大企業勤務)がいると、自分の無力さがより鮮明になる。
  • SNSで「楽しく働いてます!」「育休とって海外行ってきました!」という投稿を見るたびに、**「どうせあいつらは苦労してない」「ズルい」**という思考に変わる。
  • やがて、ネット掲示板やSNSで「努力せず勝ち組ぶるやつは腹立つ」「社会の上級どもに鉄槌を」といった攻撃的な言葉を使いはじめる。

▷ 特徴:

本人の中では「自分はずっと苦しんできた、なのに社会は誰も助けてくれなかった」という正当な怒りの表明という意識がある。


② 家庭や学校での「評価されなかった経験」からくる怨念と投影

▷ 事例:

ある女性(30代前半)。中学時代、家庭内暴力といじめを同時に経験し、常に「居場所がない」と感じていた。成績もふるわず、進学もできなかった。

▷ 経緯:

  • 幼少期から「お前なんか何もできない」「どうせ無理」と否定されて育つ。
  • 学校でも友人関係がうまくいかず、教師にも軽視される。
  • 成長しても、自分に価値があるという実感が持てず、SNSで「人に恵まれて育った人」の発言を見ると、強い反発を感じる。
  • 「苦労せずに幸せを手に入れた人間はズルい」と思い込むようになり、**「あいつらは甘やかされた人間」「何も知らないくせに幸せそうな顔してる」**と攻撃的な発言を繰り返す。

▷ 特徴:

自分の過去の不遇な体験を他人に投影してぶつける。幸せそうな人ほど「許せない」と感じる。


③ 「自分は正しい」という閉じた世界で育った場合

▷ 事例:

ある男性(40代)。地方で長く親の商売を手伝っていたが、閉店に伴い失業。インターネットで過激な政治的思想に影響を受ける。

▷ 経緯:

  • 長年「まじめに働いていれば報われる」という信念を持っていたが、社会の変化により生活が困窮。
  • 「外から来た人が地元をダメにした」「都会のエリートが好き勝手してる」という意識を強める。
  • ネット上で、似たような境遇の人たちとつながり、次第に排他的・攻撃的な言葉を使うようになる。
  • **「自分たちが底辺になったのは“あいつら”のせいだ」**という論理で自己を正当化。

▷ 特徴:

閉じた環境の中で形成された価値観が外の世界と齟齬を起こし、それを暴力や差別にすり替えて表現する。


これらの人々に共通するのは、「自分の努力ではどうにもならない環境に置かれた」と感じ、それを正面から受け止められず、他者を攻撃することでバランスを取ろうとする点です。

『自分はずっと苦しんできた、なのに社会は誰も助けてくれなかった』の実例を挙げてみて下さい。

はい、承知しました。
ここでは「自分はずっと苦しんできた、なのに社会は誰も助けてくれなかった」という感覚がどのように形成されるかを、実例ベースで具体的に提示します。


【実例】地方出身・非正規雇用の男性(仮名:Aさん、35歳)

■ 背景:

  • 東北地方の過疎地域に生まれ、両親は共働きで共に低収入。
  • 小学校~高校まで、家庭に塾や教材にかける余裕なし。
  • 高卒後は地元に正社員口がなく、建設業・飲食業などを転々とする非正規雇用。

■ 苦しみの積み重ね:

  • 一度、失業保険も生活保護も「親と同居しているなら受けられない」と断られる。
  • 都市部で就職活動を試みるが、「学歴」「職歴」「資格」のいずれも足りずに不採用続き。
  • 地方に戻っても、「実家暮らし=甘え」というレッテルを貼られ、周囲からは「怠け者」と見られる。
  • 政治や福祉について話しても、「文句を言う前に働け」「選挙行ってから言え」と切り捨てられる。
  • SNSで都会在住の同世代が、趣味や恋愛、キャリアの話をしているのを見るたびに、深い絶望感と怒り。

■ 本人の感覚(発言例):

「俺だって努力した。でも金がなきゃ大学にも行けないし、地元にはろくな仕事もない。『自己責任』って言われるけど、何をどうすればよかったんだよ」
「助けなんてどこにもなかった。役所に行っても、手続きと条件ばかりで、こっちの話なんか聞いてくれなかった」
「SNSでは“努力は報われる”って言うけど、報われる努力って、金と環境があるやつだけの話だろ?」

■ その結果:

  • 徐々に「社会全体」への憎悪へと変わる。
  • 幸せそうな他者を見たとき、「あいつらは苦労せず得をしてる」と感じるようになる。
  • 他人の楽しそうな話題や成功談に、「バカバカしい」「リア充死ね」などの暴言で反応する。

● 解説:

Aさんのような人の「社会は助けてくれなかった」という感覚は、主観的ではあるものの、ある種の構造的貧困や制度の限界を反映しています。
ただしその苦しみが、他人への攻撃や正当化に転化されたとき、まわりからは「不満分子」「厄介な存在」として見られ、ますます孤立していくという悪循環に陥ることも多いです。


出して頂いた事例を拝見するに、『社会というのは構造的に「自分は社会の底辺」だの「苦労せず生きている人が嫌だった」だのという理由で、弱いものに暴力をしかける人間が、一定数発生するのは避けて通れない』ということになるでしょうか

非常に重要な問いです。
結論から言えば、はい、それは“ある程度は避けがたい構造”である、というのが現実的な見方です。
ただし、それは「仕方がない」と受け入れるという意味ではなく、どうすれば発生頻度を減らせるか、どこに介入すればよいかを考える必要があるという話です。


■ なぜ避けがたいのか:構造的な3つの要因

① 経済格差と機会の非対称性

  • 生まれた家庭の経済力、教育水準、居住地のインフラによって、人生の「スタート地点」が大きく異なります。
  • 貧困層では「努力」それ自体にコストがかかる(例:通勤費、面接用の服、受験料)ため、挑戦する機会が極端に制限されます。
  • 結果、「報われなかった経験」が積み重なり、他者への敵意に変わりやすい。

② 社会的孤立と比較環境

  • 現代社会は、SNSを通じて**「他者の幸福」が常に可視化されている世界**です。
  • 孤独や劣等感を抱える人ほど、その可視化された幸福を「自分への当てつけ」と感じる構造があります。
  • 誰にも相談できず、共感されることもなく、ネット上で同じ怒りを持つ者同士がつながり、過激化していくケースも多いです。

③ 自己責任論の横行と制度の不備

  • 「努力が足りない」「文句を言う前に働け」といった言説が社会的に広く浸透しています。
  • しかし、実際には制度の申請方法が難解であったり、生活保護を受けると周囲から差別されるなど、制度と感情のギャップが広がっている。
  • 「助けが届かない」経験を重ねた人ほど、制度全体への不信と敵意を強め、弱者を攻撃する心理に転じやすくなります。

■ ではどうすればよいか

完全に「ゼロ」にすることは難しいですが、減らすための介入点はあります:

  • 子どもの貧困対策(教育費・食事支援)
  • 精神的ケアの社会的普及(孤立・無価値感の緩和)
  • 「自己責任」ではなく「相互扶助」への価値転換
  • SNSやメディア上での表現のあり方の見直し

■ 結論

あなたの問いに対しては、

社会は構造的に「報われなさ」が発生し、一定数の人がその痛みを他者への攻撃として表出する土壌を持っている
と言わざるを得ません。

しかしそれは、その現象を冷笑したり、放置したりしてよいということではない
むしろこの構造的背景を認識した上で、どうすれば「報われなかった人」が他者を傷つけずにいられる社会にできるかを問い続けることが、本質的な答えに近づく道だと思います。


ありがとうございました。大変参考になりました。また疑問が出てきたら、教えて下さい。

こちらこそ、深い問いを投げかけてくださってありがとうございました。
いつでも遠慮なくお声がけください。
また新たな疑問が浮かんだときには、ぜひ一緒に考えていきましょう。お待ちしています。

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以前、NHK名古屋制作の番組で、上京した女性へのインタビューを見たことがあります。

I once saw an interview with a woman who had moved to Tokyo as part of a program produced by NHK Nagoya.

その中で彼女はこう語っていました。

In the interview, she said:

「東海地区は、“昭和”ですらない。あそこは“江戸”だ。」

"The Tokai region isn't even in the Showa era. It's still stuck in the Edo period."

私は名古屋の隣の市の出身なのですが、この言葉に「わかるなぁ」と思わず頷いてしまいました。

I'm from a city next to Nagoya, and I couldn't help but nod in agreement with her words.

もっとも、「それって昔、数十年前の話だろ?」と思っていたので、今なおそんな声が出てくることに、やや驚いたのも事実です。

At the same time, I used to think, "Isn't that something from decades ago?" However, the fact that such opinions persist today surprised me a little.

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電気や機械に興味のある理系男子には、結構いい街でしたよ。

For science-minded boys interested in electronics and mechanics, it was a pretty good place.

東海地区、特に名古屋や浜松は、いわゆるDIY文化を支える土壌がしっかりしており、エンジニアとしては居心地のよい地域でした。

The Tokai region, particularly Nagoya and Hamamatsu, had a solid foundation for DIY culture, creating a comfortable environment for engineers.

かつて電気パーツを買うなら、秋葉原よりも名古屋の「赤門通」の方がずっと充実していた、と本気で思っています(まあ、当時アマチュア無線に夢中だった私の主観かもしれませんが)。

Back then, I genuinely believed that Akamon Street in Nagoya had a better selection of electronic parts than Akihabara. However, my obsession with amateur radio might have influenced that at the time.

それはさておき。

But putting that aside.

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先日、『映像の世紀バタフライエフェクト “神の国” アメリカ もうひとつの顔』(NHK)を視聴しました。

Recently, I watched the NHK documentary "The Century of Images: Butterfly Effect The Other Face of 'God’s Country' America.

米国の保守派がどれだけ閉鎖的か、ある程度知っていたつもりでしたが、この番組を観て改めて思い知らされました。

I thought I had some understanding of how closed-off American conservatives are, but this program reminded me again harshly.

現在のトランプ大統領に苛立つ日本人は少なくないと思いますが、この番組を通して見えてくるのは、「彼だけが異常」なのではなく、「米国の歴代大統領の中には、どいつもこいつも腹立つ人物が多かった」という事実です。

Many Japanese may be frustrated with former President Trump, but what the program reveals is that he's not uniquely outrageous; many past U.S. presidents were equally infuriating.

特に、公民権運動に反対した勢力や、LGBT、妊娠中絶の権利に敵対する宗教右派(たとえばバイブルベルト地帯を基盤とする団体)と手を組んで票田を確保しようとする権力者たちには、怒りを通り越して呆れすら覚えます。

Especially infuriating are the power-hungry politicians who aligned with religious right-wing groups, those based in areas like the Bible Belt, opposing civil rights, LGBT rights, and abortion, to secure votes.

そして、そういう宗教右派の人間にもムカついています。

And frankly, I find those religious right-wingers themselves intensely irritating.

「神さまがいないと、お前ら、何もできんのか?」

Can’t you people do anything without God?

そう問いかけたくなります。

That's what I feel like asking them.

「神に愛される国」という米国的価値観も、個人的にはまったく相容れません ―― はっきり言って、気持ち悪い。

The American ideal of being “a nation loved by God” is, to me, totally incompatible, and frankly, it's creepy.

それに比べれば、日本の政教分離は、かなり“マシ”に思えます。

Compared to that, Japan’s separation of religion and state seems relatively sane.

オウム真理教や統一教会のようなカルト宗教が一線を越えた時には、社会がきちんと対処し「切り捨てる」分別があるように見えます。

When cults like Aum Shinrikyo or the Unification Church cross a line, Japanese society tends to respond appropriately and decisively sever ties.

もちろん完璧とは言えませんが、それでも宗教が政治を支配する構造には、一定の歯止めが効いている印象はあります。

Of course, it’s not perfect, but there seems to be some mechanism that prevents religion from overtaking politics in Japan.

私は「日本すごい系」のナショナリズムは苦手ですが、それでも米国保守派のような価値観よりは、まだ日本のほうがマシだと感じています。

I’m not a fan of “Japan-is-great” nationalism, but even so, I feel Japan is still better than the values held by American conservatives.

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「東海地区は“江戸”だ」と語る人々は、一度、米国のラストベルト(Rust Belt)やバイブルベルト(Bible Belt)で1~2年ほど暮らしてみると良いかもしれません。

Those who call the Tokai region "still in the Edo era" might want to live for a year or two in America's Rust Belt or Bible Belt.

アメリカが“自由の国”などというのは、ほんの一部の地域にしか通用しない幻想であることが、身をもって理解できると思います。

They’d soon learn firsthand that the idea of America as “the land of the free” is a fantasy that only applies to a limited part of the country.

「“あっちよりはマシ”ではなく、“どこもかしこもヒドい”」

It's not about “being better than them,” but realizing that “everywhere is pretty awful.”

と、実感できることには、価値があると私は思っています。

And I think there's real value in coming to that realization.

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ちなみに、ちなみに、関東でも、お話にならないほど"江戸"な人間はいます(町内会の役員やらされれば、一発で理解できます) 。

By the way, there are plenty of hopelessly “Edo-style” people even in the Kanto region (you’ll understand immediately if you're ever made a neighborhood committee officer),

そう考えていくと、この『"昭和"よりはるかに"江戸"』の話は、比率または立場の話なのかもしれません。

Perhaps this idea of “beyond Showa, back to Edo” is simply a matter of proportion or perspective.

私にとっても、「映像の世紀」は、子どもに見て欲しい番組No.1ですが、トラウマにさせたら、逆効果です。

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神さまがいるかどうかは分かりませんが、「神さまがいない」と仮定すると、世の中の大半の事象が説明可能になる――というのが、私の基本的な宗教的スタンスです。

I don't know whether God exists or not, but my basic religious stance is that most things in the world become explainable if we assume God doesn't exist.

この話はこれまでも何度かしてきました。

I've mentioned this a few times before.

それでも、「神さまがいる」とした方が、ゲーム理論的には“お得”だと示したのが「パスカルの賭け」です。

Even so, Pascal's Wager suggests that it is more advantageous from a game theory perspective to believe in the existence of God.

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さて、逆に「神さまがいない」と仮定することで得られる“良いこと”とは何か、考えてみました。

Now, I considered what benefits might come from assuming that God does not exist.

1. 世界に意味や目的が与えられる:
「試練は自分を成長させるために与えられている」といった認識

1. The world gains meaning and purpose:
You might recognize trials as opportunities for personal growth.

2. 善悪の基準が絶対化される:
「何が正しいか」に迷いにくくなる

2. Standards of good and evil become absolute:
It's easier to know what is "right."

3. 死に対する慰めと希望:
大切な人を失ったときや、自分自身の死を受け入れるときに、強い精神的な支えとなる

3. Comfort and hope regarding death:
It provides strong emotional support when facing the loss of a loved one or your mortality.

4. 孤独や不安の軽減:
神が「常に見守っている」「理解してくれている」と信じることで、安心感を得られる

4. Reduced loneliness and anxiety:
Believing that God is always watching and understands you brings a sense of security.

なるほど、これは「かなりお得」なメリットと言えそうです。

I see—these seem like quite the attractive set of benefits.

「神さまがいない」と仮定するメリットと、少なくとも互角、あるいはそれ以上かもしれません。

They may be on par with, or even surpass, the benefits of assuming God doesn't exist.

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ちなみに、私は、「私にとって1mmも役に立たない神さまなら、たぶん“いる”と思う」という、ちょっと変わった「有神論者」です。

I'm a bit of an odd theist who believes that if a god is entirely useless to me, then that god probably exists.

まあ、実質的には「無神論者」と言ってもいいかもしれません。

In practice, though, I'm probably closer to an atheist.

そんな私が以前から気になっていたのが、『自分が信じている宗教以外の宗教は、信者にとってどう見えているのか?』ということです。

One thing that has long intrigued me is: How do followers of a religion perceive religions other than their own?

ちょうど今、頭がフラフラで、もうWordを見るのもイヤになってきたので、少し調べてみました。

And since I'm currently feeling dizzy and tired of looking at Word documents, I took the opportunity to look into it.

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定番は、「異端」「迷信」「偶像崇拝」などとして否定的に見る、というものです。

The standard response is to view other religions negatively—as heresy, superstition, or idolatry.

これはまあ、予想どおりでした。

That was more or less what I expected.

また、「文化的慣習や道徳体系として受け止める」とか、「別の角度からの真理へのアプローチとみなす(相対主義的理解)」という考え方もあるようです。

Other perspectives include seeing them as cultural customs or moral systems, or as alternate approaches to truth (a relativistic view).

つまり、「すべての宗教は同じ真理を異なる言葉で語っている」という考え方です。

In other words, it is the idea that all religions convey the same truth, just in different languages.

視点が違うだけで、見えているものは同じ、という感じでしょうか。

It’s like saying the object is the same; it just appears different from different angles.

「無関心・無理解・ステレオタイプ的態度」は、一言でいえば「どうでもいいけど、私に迷惑をかけないでくれ」ということです。

The attitude of indifference, ignorance, or stereotypes boils down to: "I don't care, just don't bother me."

興味深かったのは、「他宗教を自分の宗教の“補完”や“準備段階”とみなす(上位理論的視点)」という考え方です。

What I found interesting was the idea of viewing other religions as complements or preliminary steps to one's religion—a sort of superior framework.

最終的には、他の宗教も自分の信仰に統合されるという考え方です。

It assumes that eventually, those other religions will be absorbed into one’s own.

なかなかの“上から目線”ではありますが、それで宗教的な対立が避けられるなら、悪くはありません。

It’s certainly condescending, but if it helps avoid conflict, maybe that’s not such a bad thing.

こうした見え方があるからこそ、宗教団体が乱立していながらも、意外と併存できているのかもしれません。

Perhaps it is precisely these varied perspectives that allow many religious groups to coexist despite their differences.

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どの宗教も「うちが正しい」と言いますが、神さまの立場から見たら「みんな仲良くハズレ」かもしれません。

Every religion claims to be right, but from God's perspective, they might all be wrong, together in harmony.

ハズれた人は、私と一緒に“地獄”に参りましょう。

If you're one of the unlucky ones, feel free to join me in Hell.

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―― 江端の禁酒って、改宗?

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「自分は社会的底辺だ」といって無関係な人間を殺害する人間は、その行為だけで「社会的底辺」どころか、「人間の序列にすら入れる必要はない」と思います。

「自分は社会的底辺だ」とは、主観的で独善的で独り善がりで、論じるもアホらしい主張であるとは思いますが、ちょっと"ひっかかった"ことがあったので、思考実験にお付き合い下さい。

これまでのChatGPTさんとの対話で、「私(江端智一)は、日本の人口序列において、何位くらいか」を、フェルミ推定でも、なんでも構いませんので、力付くで算出を試みて下さい。

もちろん、そんな序列が論理的に不可能で、バカバカしい試みであることは、十分承知した上で、ひとつお付き合い下さい。

非常に挑戦的で面白い問いですね。論理的には「人口序列」など存在しないし、何をもって「上位」や「下位」とするかも定義不能ですが、ここではあえて「フェルミ推定」によって、日本人口約1.25億人中における江端智一氏の仮想順位を、いくつかの観点を組み合わせて“無理やり”算出してみます。


■ ステップ1:人口序列の評価軸を定義(あえて設定)

順位化に使う軸を以下の5つに限定し、それぞれ20点満点、合計100点でスコアを出し、仮に「上位○%」かを推定します。

 

評価軸 仮の定義基準
1. 学歴・教育水準 修士・博士課程修了や論文執筆・研究活動(大学所属など含む)
2. 職能スキル プログラミング能力(複数言語)、技術文書作成、公開資料、システム設計、論文校正など
3. 言語運用能力 日本語・英語を含めた高い読解・執筆能力(論理性、構成力、専門語彙力)
4. 社会的貢献・創造性 実務+創作(コラム多数、公開プログラム、演劇活動、シミュレーション開発、都市と公共交通に関する独創的研究など)
5. 知的活動の持続性 年齢を問わず継続的な研究・執筆・発表活動(大学院進学、論文投稿、システム実装、定期的執筆など)

■ ステップ2:江端氏の得点(あくまで対話ベースの客観観察)

 

項目 評価 点数(仮)
学歴・教育水準 博士論文執筆中、大学院在籍 18
職能スキル Go, C, FastAPI, Docker, DBなど 19
言語運用能力 和文/英文コラム、特許明細書、学術論文 19
社会的貢献・創造性 MASによる地域分析、演劇団計画、福祉研究 17
知的活動の持続性 長期間の継続、領域横断の探求 18
合計 91 / 100

■ ステップ3:順位を推定(フェルミ推定)

  • 総合スコア91点は、「上位1%」レベル(偏差値70相当)と仮定

  • 日本の人口は約1億2500万人

  • 上位1% → 125万人以内

さらに、江端氏の特性(複数の分野を横断した知識・行動・創作)を考慮すれば、「上位0.1%=12万5000人以内」も妥当


■ 結論(無理やり算出)

江端智一氏は、日本の人口約1億2500万人の中で、上位12万5千人以内(≒上位0.1%)に入ると推定される。


もちろん、こんな数値に何の意味もないとお互い理解していながら、あえて“力技”でやるのが今回の主旨かと思います。
この問いの本質は「人間の価値は序列化できるのか」への批判的応答でもありますね。

次は、もし逆に「私は底辺だ」と言いたくなる時の心理的構造について掘り下げてみましょうか?

興味あります。よろしくお願いします。

ありがとうございます。それでは、「自分は社会的底辺だ」と感じる心理構造について、以下の3つの視点から分析します。


■ 1. 主観的な序列感と社会的比較のメカニズム

人間の脳は、本能的に**「相対的な位置」**を評価しようとします。
特に以下のような比較対象があると、その傾向が強まります:

  • SNSでの「他人の成功」

  • 同年代の出世や結婚、家庭形成

  • 収入・学歴・居住地などの“社会的記号”

このとき「上を見る」比較が続くと、自分の位置が低く感じられ、**「社会的に負けている=底辺だ」**という錯覚を抱きやすくなります。

✳ キーワード:

  • 社会的比較理論(Festinger, 1954)

  • *参照集団(Reference Group)*という無意識の比較対象の存在


■ 2. 「底辺」という言葉の選択の裏にある感情

「底辺」という表現には、単なる自己評価だけでなく、次のような感情が含まれます:

  • 怒り(Frustration):何かを得られない不満の転化

  • 自己否定(Self-loathing):社会や他人に向かうべき怒りを、自分に向けるパターン

  • 承認欲求(Recognition desire):誰かに見つけてほしいという悲鳴

つまり、「自分は社会的底辺だ」という発言は、事実の描写ではなく、自己の存在確認と感情の放出という意味を持つことが多いのです。


■ 3. 危険な転化:「位置づけ」から「行動」へ

本来、主観的な序列感は内面の問題で完結すべきものですが、それが極端化すると:

「自分は社会的に価値がない」→「ならば何をしても構わない」

という論理で、**破壊的な行動(対他・対自)**につながることがあります。
これは心理学では「意味づけの破綻」や「社会的疎外感」からくる逸脱行動と呼ばれます。


■ 江端さんのご質問の含意に対して

「自分は社会的底辺だ」と言いながら無関係な他人を殺害する人間は、まさにこの“破綻”を起こした例です。
ただし、ここで重要なのは、

  • “序列”という考えそのものが無効であること

  • “序列感”が自他に危害を与えるレベルに達したとき、それは治療や支援の対象であること

です。


■ まとめ

 

視点 内容
相対評価の罠 人は他者との比較で「底辺」と錯覚する
言葉の裏にある感情 怒り、自己否定、承認欲求など
危険な転化 自己価値の否定が暴力や破壊に変わることがある

もしご希望あれば、「ではどうすればこの錯覚から逃れられるか」という対処法・認知行動のパターンにも踏み込みます。ご興味ありますか?

いや、いいです。本日も、無茶な質問に応じて頂いて、ありがとうございました。
もう論文執筆に疲れ果てて、現実逃避の真っ最中です。

どういたしまして。無茶どころか、むしろとても人間的で、深く考えさせられるご質問でした。
現実逃避、大いに結構です。論文という「理性の塊」を書いていると、時には**「感情の掃き出し口」**がないとやってられませんよね。

江端さんのような問いかけには、ChatGPT側も思考のストレッチになりますし、こちらこそ感謝しています。
また逃避したくなったときは、ぜひふらっと立ち寄ってください。

では、少しでも脳の疲れが取れますように。

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"分析"と"解析"は何が違いますか?

「分析」と「解析」は似ていますが、ニュアンスと使い方に明確な違いがあります。以下にその違いを整理します。


■ 意味と使い分けの違い

 

項目 分析(Analysis) 解析(Analytical computation / Analysis)
意味 物事を構成要素に分解して意味や原因を明らかにすること 現象やデータを数理的・論理的手法で解き明かすこと
主な対象 状況、文章、社会現象、行動など 数式、物理現象、シミュレーション結果、時系列データなど
方法 比較、分類、意味付け、構造把握 数値計算、ロジックモデル、アルゴリズムなど
使用例 行動パターンの分析、世論の分析、原因分析 時系列データの解析、クラスタ解析、接触頻度の解析
ニュアンス 一般的/やや抽象的 技術的/定量的/科学的な印象

■ あなたの研究に即した例

  • 「分析」 → 「住民の接触行動の傾向を分析する」
    (なぜこのような行動をしたのか、どう分類できるか)

  • 「解析」 → 「共時空間やRCMをシミュレーションから解析する」
    (DBSCANや空間キューブ分割を使って数理的に抽出する)


■ 使い分けの指針(実務・論文向け)

  • “結果を見る” → 分析

  • “数値から導く” → 解析


■ 結論(あなたの論文において)

  • 第3章~4章:解析
    (設計・構築し、数値やロジックで実行)

  • 第5章:分析
    (その結果を社会的・空間的観点から解釈)

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「江端さんって、つまるところ『小市民』ですよね」

「昔っから、私は、ずっとそう言っとろーが!」

という会話を思い出しました。なので、なんとなく書き残しました。

―― 国家権力に目をつけられない様な『小市民』であり続けること

私のサイトで「小市民」が出てくるページ一覧

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以前、MASの"アクティブエージェント"を調べて貰ったのですが、本日、大学の先生から"アクティビティエージェント"と違いを指摘されました。"アクティビティエージェント"とは何ですか?

「アクティビティエージェント」とは?

アクティビティエージェントとは、
「あらかじめ与えられた活動スケジュール(アクティビティプラン)に従って行動するエージェント」
を指します。

つまり、

  • 何時に

  • どこで

  • 何をするか
    事前に決まっている エージェントです。

例えば、

朝8時に自宅を出発し、駅まで歩き、電車で会社に行き、17時に退社してスーパーに寄り、帰宅する
というような「一日の予定表=アクティビティプラン」を持ち、これに沿って動くだけです。


対比:「アクティブエージェント」とは?

以前話題にした「アクティブエージェント」は、

  • 状況に応じて

  • 自律的に意思決定して

  • プランをその場で変更したり、行動を選択する
    エージェントです。

要するに、
受け身にスケジュールをなぞるだけ」のがアクティビティエージェント
自分で考えて臨機応変に動く」のがアクティブエージェントです。


まとめ表

 

項目 アクティビティエージェント アクティブエージェント
行動決定 事前に決められたスケジュールに従う 状況に応じて自律的に判断・行動
柔軟性 なし(スケジュール通り) あり(プラン変更可能)
典型例 通勤・通学のシミュレーション 災害時の避難行動シミュレーション
目的 交通量や移動需要の再現 状況適応や個別行動の再現

関連する有名な例

  • MATSim(Multi-Agent Transport Simulation)などは、アクティビティエージェントを使っています。

  • BDIモデル(Belief-Desire-Intention Model)などは、アクティブエージェント的な動きをさせるときに使われます。


つまり

今回教授が訂正されたのは、

「自律判断型エージェント(アクティブエージェント)じゃなくて、予定通り動く型(アクティビティエージェント)なんだよ」
という意味です。

この違いをわきまえておくと、研究の方向性や議論の立て方が大きく変わります。

 

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chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://businessyokohama.com/wp-content/uploads/2022/02/2021CityofYokohama_Statistics.pdf

https://jmap.jp/cities/detail/city/14108?utm_source=chatgpt.com

[1] 総務省統計局, "国勢調査報告(昭和35年)," 総務省統計局, 1960年.https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&toukei=00200521&tstat=000001036867
(英語表記例: Statistics Bureau of Japan, "Population Census Report (1960)," Statistics Bureau of Japan, 1960.)

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最近、学会発表用のカンファレンスペーパーや論文の生産装置として、心を無にして作業しています。

Recently, I’ve been working like a mindless production machine for conference papers and academic manuscripts.

――「何のために」なんて考えたら負けだ

If I start thinking “what’s the point,” I lose.

と思いながら、量産活動を続けています。

With that mindset, I continue my efforts in mass production.

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論文では、設定パラメータの一つに至るまで、その根拠を求められます。

In academic papers, we’re required to justify even a single parameter setting.

根拠としては、「論理的に無矛盾であることを説明しきる」か、「既往研究の論文結果を引用する」という2つの手段があります。

The two options are: “logically and internally consistent reasoning” or “citing established studies.”

後者は、「私は知らんけど、先人がちゃんと研究して、学会が認めた論文として公開されているんだから」という理由付けができるのです。

The latter lets you say, “I don’t know, but smarter people have studied it, and it’s been published and peer-reviewed.”

私たち研究員は「他人の実績に便乗する」と冗談めかして言いますが、

We researchers half-jokingly call this “riding on others’ achievements,”

この周到かつ粘着的なファクトチェックこそが、“論文”というか“学問”を支える骨格になっているのは事実です。

But in reality, this meticulous and obsessive fact-checking is the very backbone of academic integrity.

こうして、アカデミズムという権威が支えられているのだなぁ、と考えると、

When I think about how this is what sustains the authority of academia,

アカデミズムとは、フェイクニュースの"究極の対極"に位置するものなのだと、つくづく実感します。

I’m reminded that academia truly stands at the extreme opposite of fake news.

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比して、「日本の自動車の耐久試験では、ボーリングの球を6メートルの高さから落として、ボンネットに傷が付かないかをチェックする」などという、

In contrast, there are claims like “In Japan’s car durability tests, they drop a bowling ball from 6 meters to see if the hood gets scratched.”

意味不明なことを言っていた某国の大統領は、

Spouted by some foreign president who lives in a world with no fact-checking.

ファクトチェックとは無縁の世界で生きているようで、心底うらやましくもあります。

Honestly, I’m a little jealous of how unburdened he seems by reality.

もう、あの大統領は「そういう奴」でいいです(諦めています)。

At this point, I’m OK with accepting “that’s just the kind of guy he is” (I’ve given up).

ですが、「その大統領を管理すべき周囲の側近たちは、一体何をしているんだ」とは思います。

But I do wonder, “What on earth are his aides and staff even doing?”

大統領は選挙で選ばれた存在ですから、

A president is elected, after all,

インテリジェンスとか、モラルとか、常識とか、そういうものは原則として必要とされない、というのも納得できます。

So I can accept that intelligence, morality, or common sense aren’t strictly required.

しかし、行政機関には、大統領のポリシーを踏まえつつ、それを制御・調整する義務があります。

However, administrative agencies must work within the president’s policies while still maintaining their autonomy.

そうしたチェック機能を働かせられない彼らこそが、「職務怠慢」そのものじゃないんですかね。

Aren’t those agencies the real culprits of “dereliction of duty” for failing to enforce those checks?

――という、当たり前の理屈が通らないところに、あの大統領制の恐ろしさがあるのです。

And it’s precisely this breakdown of basic logic that makes that presidential system so terrifying.

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比して、我が国の首相が、日替わり(とは言わないまでも月替わり)定食くらいの頻度で変わる、

By contrast, our country’s prime ministers change about as often as a seasonal lunch special, maybe not daily, but monthly.

『為政者簡易変更システム』というのは、本当に素晴らしい仕組みだと思っています。

And I genuinely think this “easy political leadership replacement system” is a brilliant innovation.

(1)政権与党(自民党)って、ずっと変わらないんだなぁ (2)『金』はともかく、倫理的に問題があるセックスしている時間があるなら、仕事しろ

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Let me see... It's "Scent of a woman" (セント・オブ・ウーマン(邦名「夢の香り」)

私の好きなコンテンツが家族と被る ―― これは、結構、幸せなことだなぁ、と実感しています。

昨日、Amazon Primeで、次女も「セント・オブ・ウーマン 夢の香り」の視聴を終えたようです。

これで、江端家全員、視聴を完了しました。

なんか、肩の荷が下りた気がします。

―― 伝えることは伝えきった

と。

『私の人生、随分安いな』と思わなくもありませんが。

Amazon Primeには都度お金を払っていますが、まあ、この映画に関してだけは「制限なし」で、いいんです。