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江端さんのひとりごと
「直撃!」

「スキー」と「テニス」をこなす男。

こういう奴は、昔から鼻持ちならない嫌な野郎と決まっています。

テニスサークルやスキークラブ何ぞに入って、若い女性を物色し、練習にかこつけて体を触ったりするセクハラ野郎で、男性は勿論女性からも極めて評判が悪い。

けれども、一通り技術力はあり、コーチ不足のサークルの状況からそいつをキャプテンにするしかなく、キャプテンになればなったでさらに増長するそいつは、表向き『人気者』ですが実は誰からも嫌われていて、当の本人だけがそのことに気がついていないものなのです。

しかし、極めて希ではありますが、テニスやスキーを通じて自己鍛錬に励み、優れた人格と孤高な精神を有し、高い理想に燃え、皆から慕われ信頼され、そして、当の本人がその優れた資質に気がついていないことから「歩く人徳」と呼ばれる人物もいます。

私です。

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学生時代前半の私は、「テニス」や「スキー」などをやっている奴を軽蔑していました。

私は、80年代後半のバブル景気の中で騒いでいる日本の中で、政治的な「リベラリスト」を名乗って粋がっていたのですが、ある事件を境に劇的な『転向』を果たしてします。

そして、それ以後は、勉学とアルバイトの日々を過ごし、冬になるとスキーに狂う普通の学生として、普通の学生生活を過ごすことになります。

一方、テニスの方は社会人になってから始めました。

会社のテニス部に入部するときには、相当自分の心の中に抵抗がありました。

『硬派の論客で知られるこの私が、あのようなキャピキャピした、軽薄で、やたら軽い話題明るい笑い声にに支配された、あのような空間に入り込めるだろうか?』

この恐怖感はちょっと説明が難しいのですが、敢えて説明するのであれば、「昨日まで甲子園を目指してきた坊主頭の熱血野球部の部員が、地方大会の決勝に敗れ、突然夏休みの予定が空白となり(甲子園に行けると確信している辺りが、若さゆえの愚かさである)、似合わない服と坊主頭の髪を脱色して渋谷あたりをうろつくような恥ずかしさ。」あたりが妥当かと思います。

まあ、とにかく私にとって、テニスを始めることはとても恥ずかしかったのです。

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元々私は、とにかく小学校4年生の段階で(女子も含んで)クラスで一番足が遅く、唯一逆上がりが最期まで出来なかった運動音痴の児童でした。

ですから、私は、自分の運動能力がどの程度であるかを誰よりも正しく認識していました。ことスポーツにかけては「地道な努力」などという行為が一切無駄であることを知っていました。

私は、スキーの技術を取得する過程で、自分で何百回練習しても直らなかったフォームが、コーチの一言で劇的に修正されると言う事実を知っていましたから、スキーに2回行ける旅費を1回に全額突っ込み、終日スキースクールに入り浸っていました。

その結果、スキー同好会の後輩から、『江端さんってスポーツ万能なんですね。』などと大変な誤解されるようにまでなりました。

勿論彼は、私が持ちうる財の限りを尽くして、スキーに賭けていたことをしりません。

私は今でさえ「逆上がり」ができず、サッカーのリフティングは最高5回、時々腕相撲で嫁さんに負けそうになります。嫁さんをおぶって「3歩歩めず」状態だった時には、嫁さんの表情に『後悔』の文字を見たような気がします
(*1)。

とにかく、『スポーツ技術取得は手っ取り早く「金」で片を付ける。』とは、私の不動の信念となっているわけです。

(*1)「『軽い嫁さん』と記述することを忘れるな」、と嫁さんからしつこく念を押されています。

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テニススクールは、今の会社に入所して以来、ずっと通っています。

時々、突然スクールがつぶれたり、派遣になったり、あるいはコーチがへたくそだったりして、よくスクールを換えましたが、現在もストレス解消として週に一度はコートに出て汗を流すようにしています。

先週の金曜日、仕事を終えてから、私は東海道本線と小田急線のプラットフォームになっている藤沢駅の近くにある、イトーヨーカ堂の屋上に向かいました。

プラスチックの滑り止めタイルで敷き詰められた3面のテニスコートは、真っ白な水銀ランプに照らされていて、そこでは常時テニスの講習会が行われています。

私は水曜日のC(上級)クラスに入っているのですが、生憎その週は都合が悪く練習日を金曜日に振り替えました。

Tシャツと単パンにはきかえて外の空気に触れると、まだ少し冷たい空気に肌がしゃきっとして気持ちが凛とします。私はこの一瞬が好きです。

ところが、ラケットを軽く振り回しながらコートに出てみれば、Cクラスは全部で20人もいて、とても満足な練習が出来るような状態にはありませんでした。私はがっかりして、今日は練習はできないな、と諦めました。

文句を言おうにも、このスクールは普通のスクールと比べ2~3割も安く、そもそも生徒たちは育成に力を注いでいるところではないことは、最初から分かっていました。

汗がかければよしとしよう、と私は腹をくくりました。

テニススクールの練習は大体ローテーション方式が取られます。

ローテーション方式とは、参加メンバを数個のグループに分けて、それぞれのグループごとに、コーチや他のグループを相手にラリーなどをして、時間毎に交代していく方式です。効率よく、多い人数が同時に練習を行うことが出来ます。

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スクールにもよるのですが、このイトーヨーカ堂のテニススクールは、練習生レベルをあまり高いところには置かずに活動しているようで、その意味では門戸の広いスクールと言うことができます。

しかし、サービスが入らない、ラリーが続けられない、ボレーが打ち返せない、と言うような生徒がごろごろしていて、練習が思うように行えずイライラします。

まあ、それは我慢するとしても、実際問題となるのは『危険』と言うことです。

初心者の場合は、めちゃくちゃな方向にボールを打っても球に威力がありませんから、それほど危険ではありません。上級者の場合は、球に威力があってもコースコントロールができます。

何が怖いって、めちゃくちゃな方向に思いっきりラケットを振り回す『自称上級者』。

こんなに怖い奴はいません。

私くらいのテニススクール経験者ともなれば、スクール内の危険予知の力もそれなりに付きます。

それは、「ボール」を見るのではなく「プレーヤ」を見ることです。

プレーヤの人相や、振り回しているラケットのフォームや、年齢、性別から、その『自称上級者』たちの経歴をずばり決めてしまうのです。

(奴は、自分ではやり手だと思っている営業部の課長で、その実成績は上げられずに、部長あたりに叱られたストレスをテニスにぶつけている。品のない振り回すだけのストロークが物語っている。)とか、勝手に決めつけては、そいつを心の中で『万年課長』と呼んだりしています。

大学のゼミの先輩にそっくりな高校生がいた時は、(ちがうんだなあ、東野さん。ああ、面がきちんと出来ていないからボレーが安定しないんだよ、東野さん。東野さんも、もうちょっとがんばらなければなあ。)と、彼の名前は『東野さん』と決まってしまいました。

まあ、そういう経歴はさておき、私は誰がどこにいてどんな練習をしているかを見極めて、ボールの飛んでこない安全なところで待っているようにしているわけです。

そして、今回の一件は、滅多に外れない私のこの危険予知能力を覆して発生してしまった不幸中の不幸な事件となりました。

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コーチの球出しに合わせて、ハーフボレーからステップしながらネットに近づき、ボレーのあとハイボレーを打ち込む、と言うメニューでウォームアップを終えた生徒たちは、その後4つのグループに分かれ、ストローク&ボレーの練習を始めました。

ストローク&ボレーとは、エンドライン近くに立っているプレーヤーと、ネット際に立っているプレーヤが、ストロークとボレーでラリーを行う練習のことです。

私を含むグループは、ネット側向かって右側のサービスラインとエンドラインの中間の辺りに集まり、ボレーの順番を待っていました。

ボレーヤー(ボレーを行う人)は、ストローカー(ストロークを行う人)がエンドラインから打ち込んでくるボールを、ネットを越えたところで空中で捉え、相手のコートの中に叩き込みます。ストローカーはさらに、この球をワンバウンドで拾い、ボールに回り込み再び正面に立つボレーヤーに照準を定め、ボールを繰り出します。

コートの半面を1秒もかからずに飛び回るボールの速度は、時速数十キロあり、素人でも100キロ以上出すことはそんなに難しくありません(*3)。

このようなスピードの球を応酬し合い、かつ途切れずに続ける事は、ある程度の経験を必要とします。

(*3)プロのサービスの速度は、最大300km/hも出るそうである。

ところが、このクラスでは一番最初に球を出すプレーヤがいきなりネットに引っかけたりして、ボールを待つ私の方は、一度もボールに触れることなく、交代させられます。これが連続して3回続いたときは、私も頭に来ました。

一応金を払って練習に来ているのに、練習をさせてくれないのではお話になりません。ネットの向こう側から『すみませーん』と言う声を無視して列に戻るときに、ラケットを振り回しながらのジェスチャーを込めて、背中で怒りを表現する私でした。

私のグループの中にも一人だけですが、とりあえずきちんとボレーを打ち返せるOL風の女性がいました。

ちょっとふくよかな体型にもかかわらず、体の動きには切れがあり、大きな体から正確なボレーをストローカーの位置にきれいに返していました。

だから私も油断していたのです。

その時私が待っていた位置は、彼女の丁度真後ろでした。

ボレーヤーの真後ろに立っていれば、その位置にはストローカーからの球が飛んでこないはずです。私はもう一組のストローク&ボレーをしている、ストローカーの方に注意を向け、そこから飛び出してくるボールだけに注意を払っていました。

ここでは、私の前方にいるボレーヤーが返球ミスを犯さない、と言う計算での「待ち位置」でした。

事件はその時起こりました。

彼女とラリーをしていたストローカーは、返球されたボールを、ネットを舐めるような絶妙な高さと射るようなスピードで彼女の正面に返しました。

その球は、右利きの彼女の左肩に向かって真っ直ぐ刺さってきました。体勢を崩しながら正面にラケットを構えてバックボレーで応対しなければならない、難しい球筋でした。

しかし彼女は、この球をラケットの面で捉えるのに失敗したばかりではなく、完全にラケットからボールを素通りさせます。

上級者クラスに所属している人間としては決して許されない極めて幼稚極まりない愚かなミスショットです。

彼女の腋を抜けたボールは、勢いを全く減じることなく、真後ろに立っていた私に向けて向かってきます。

私から見れば、突然空中にボールが現れ、襲いかかられたようなものです。

そのボールは、高性能ライフルか、あるいは電子ビームで狙ったかのように、1ミリのずれもなく私の股間に直撃しました。

無論、男性の「股間」と言ってもその領域や危険度には極めて広い状態が存在し、必ずしも致命傷になるとは限りません。

しかし、この時速数十キロの速度のボールは、恐らくこれ以上の効果は望めないくらい正確に私の『金的』の両方を見事に直撃しました。

瞬間、私は自分に何が起こったか分からず、『ウッ』とも『グッ』ともつきかねる短い雄叫びを発し、そして2秒後、気を失いかけてコートに崩れ落ちます。

そして、徐々に痛みがこみ上げてきて、その痛みはこの世の全ての痛みを集めてもかなわない程の痛みに発展し、私はコートのプラスチックタイルをかきむしりながら、コートの上で七転八倒、文字どおり右に左にとごろごろと悶絶しながら転がっていました。

痛みは、単なる股間の痛みから腎臓などの気管にも及び、正常な呼吸もままならず、呼吸困難な状態にまで至ります。

いっそうのこと、気を失ってしまえば楽だったのかも知れませんが、痛みのあまり気を失うことも出来ません。私は仰向けになったまま、焦点の合わない視点を空に泳がせながら、肩で深呼吸をしているしかありませんでした。

なかなか立ち上がれずにコートの中で拳を握りしめ、絞り出すようなうめき声を発しながら悶絶している私に、やっと事態を飲み込めたように上級コース、中級コースからもコーチが集まってきて助け起こそうとし、私はコーチの肩に抱えられて、ようやく立ち上がることができました。

ボレーのミスを起こした女性が、心配そうに「大丈夫ですか?」などと聞いていますが、痛みの余り極限の怒りに達した私は、完全に社交的な振る舞いを忘れ、地獄の底から這いあがり復讐の鬼のような形相のまま、彼女を見据えます。

ただでさえ目つきの悪い恐ろしい人相と言われているこの私が、全身全霊を込めて睨み付けるのですから、彼女でなくとも怯えるのは当然と言えましょう。

私は、彼女をギロッと睨み、私はしばし無言のまま十分に彼女を石のように固まらせた後、絞り出すように低い声で呪詛を吐きつけます。

「この、・・この程度の技量がなくて・・・、よくもここに居られるものだなぁ・・・。」

私に謝罪を受け入れる余地が欠片も無いことを悟った彼女は、顔色を青白くさせて、2、3歩後ろに引きます。

彼女は、たった一言の『済みません』で、概ね事の片付くこの国において、『絶対に許さん!』と言う、未知なる「怨」の文化に直面してしまったのです 。

すでに痛みと怒りで理性回路がけし飛んだ私は、彼女をその場に立ちすくさせ、視線を逸らすことさえ許しませんでした。

私の全身は青白い怒りのオーラに包まれ、安易な気休めの言葉やお飾りの心配の台詞を吐く者が近寄ったら、問答無用でぶちのめす、くらいの状態にありましたし、実際にそうしたと思います。

彼女を顔面蒼白にさせるほどに十分に怯えさせて、最後には(くたばりやがれ!)と言う視線で彼女を切り捨て、私はコーチに支えられながらコートの外に退場していきました。

私を運びながら、コーチは『まあ、仕方のない事故ですから・・。』と語りかけていましたが、少なくともこの台詞は痛みで悶絶中の人間に語りかける台詞ではありません。

普段調子のいいお愛想を連発する私ですが、本気で怒ったときは一言の口も聞かない冷酷な人間となります。学生時代の私を知っている友人達は、こういう状態の私を称して『氷の江端』と呼んでいたのを私は知っています。

状況を深刻にさせたくないコーチ思惑を、真っ向から否定し、私は彼らを冷酷に無視し、痛みと怒りでゆがむ表情をこれみよがしに見せ続けたのでありました。

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私はその日、練習の続行は不可能と判断し、コーチの勧めもあってアパートに帰ることにしました。

コーチは『今日の分は来週に使っていただいて結構ですから。』と言っていましたが、(当たり前だ!馬鹿者!!)と心の中で怒鳴りつけ、低い声で「・・そりゃ、どうも・・。」と言っただけで、スクールを去りました。

更衣室でも、激しい痛みがぶり返しうずくまって床に転がっていましたが、そのうち腹が立ってきて、壁に拳を打ちつけて「どん!どん!」と言う鈍いすさまじい音を立てていましたので、きっと受け付けの女の子は怖かったことでしょう。

帰宅途中の駅で嫁さんに電話して、テニスの練習中に事故に遭った旨を伝えました。

心配そうに待っていた嫁さんは、一通り私の話を聞くととりあえず安心した表情を見せましたが、時々痛そうにうずくまる私を不安げに眺めていたようでした。

「くそ!」とか「畜生!腹が立つ!!」とか思いだしたように叫ぶ私に、嫁さんは「そんな汚い言葉は使わないの。」と注意します。

その時、私は急に冷静な表情になって嫁さんに言いました。

江端:「・・・僕だって本当のところはちゃんと分かってはいるんだ。テニス部で初心者のコーチもしていたからね。こういうのは、つまるところ『不幸な事故』以外の何者でもなく、誰かに責任があるわけじゃない、と言うことくらいはね。」

嫁さんは、ほっとしたように微笑みました。

江端:「しかしだな・・・」
嫁さん:「えっ?」
江端:「問題は、この痛みと苦しみなんだ。これは理性で解決できるもんじゃないんだ」
嫁さん:「・・・。」

私は突然声を荒げて言いました。

江端:「『くっそぉ~!!あのクソ女(あま)ぁぁ~!!』と叫ばずにはいられない僕の気持ち、分かる?」
嫁さん:「勿論。分かるよ。」
江端:「・・・。」
嫁さん:「ね、智一君。」

と嫁さんはにっこりと笑いながら応えました。

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その後、私は嫁さんに具体的な痴漢の撃退法を教えていました。

「性欲だけで女性を襲うどうしようもない下衆野郎は、これからも後を絶たないと思う。体力的に女性は常に弱い立場にある。だが、これを埋め合わせて余りある方法が『金的への攻撃』だ。」

女性の方はよく分からないかも知れませんが、男性の金的は恐ろしいほどデリケートです。

拳を軽く握りしめる程度の力でその急所を掴むだけで、その男性は5分間は回復出来ず、全く活動出来なくなります。

『そんなことしたら、やりかえされるじゃない。』と思うかも知れません。

ですが安心して下さい。

絶対に反撃できません。

そのくらいの地獄の痛みなんです、『金的への攻撃』というのは。

あなたは稼ぐことの出来たその5分間で、ひたすら逃げます。

十分な時間といえましょう。

次に具体的な攻撃の仕方です。

よくテレビドラマで、女性が膝を使って男性の股間を打つ、と言うシーンがあります。これではダメです。この方法では金的ではなく男性器の方を打突する可能性が高くなります。

男性器などいくら打突されても、痛くも痒くもありませんし(いや、勿論それなりに痛いだろうけどさ)、ちょっとマゾヒスティックな人なら「気持ちいい~!」と言うような、訳のわからないリアクションをされる可能性もあります。

なにより、全ての男性にとって『金的への攻撃』は絶対に避けねばならないことですから、あなたの攻撃の意図が見破られたら、残念ながらあなたは終わりです。

一撃必中!二度目の攻撃は、絶対にないものと認識して下さい。

足でも膝でも拳でも構いません。

男性の股間の真下に入り込んでください。

金的は男性の股間の直下にあります(繰り返しますが前方ではありません)。真ん中にぶら下がっているものなのです。

男性の股間の真下から、天を貫くように真っ直ぐ垂直上方に、迎撃ミサイルを発射するように目標を叩くのです。

また、万一チャンスを逸して体を取り押さえられたら、とりあえずどちらかの手の自由を確保して、目標を捕まえて渾身の力で握り潰して下さい(しつこいようですが、『男性器』ではだめです。その向こうにある『金的』が目標です。)

これで絶対にあなたは勝てます。

繰り返しますが、攻撃のチャンスは、最初で最後のたった一度です。

心してかかって下さい。

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その後、3日間の間、時々襲ってくる鈍い痛みに、苦しみそしてびくびくしながら日々を送っていました。

もし新婚2年目を迎えたばかりの私達の夫婦生活に、重大な支障が生じるような事態にでもなったら---あの女性を草の根分けても捜しだし、この世に生まれてきたことを後悔させてやるような苦しみで絞め殺してやる---と、濃縮還元100パーセントジュースのごとく純粋な悪意の塊となって日々を過ごしていました。

さいわい4日目に、私は無事回復を果たし、私たち夫婦は平和な日々を過ごすことができるようになりました。

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テニスやスキーを通じて自己鍛錬に励み、優れた人格と孤高な精神を有し、高い理想に燃え、皆から慕われ信頼され、そして、当の本人がその優れた資質に気がついていないこともあり、「歩く人徳」と呼ばれる私でさえ、その優れた資質で乗り越えられなかった、この事件。

この事件は、「痛み」と「苦しみ」の狭間で、孤高な人徳を維持することがいかに困難なことであるかを、私に思い知らせた一件となったのでありました。

(本文章は、全文を掲載し、内容を一切変更せず、著者を明記する限りにおいて、自由に転載して頂いて構いません。本文章は商用目的に使用してはなりません。)

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はい、このエラーの原因は明確です:


❗ 原因

あなたが有効化した仮想環境 llm_env(←最初に作成した環境)には、
transformers ライブラリなどが インストールされていない ためです。

これまでの作業は llm_env310 という仮想環境で行っていたので、
llm_env では再度必要なパッケージを入れないと同じように動作しません。


✅ 解決方法(おすすめ2つ)

✅ 方法1:llm_env310 を使い続ける(推奨)

一番簡単です:

C:\Users\tomoi>llm_env310\Scripts\activate

その上で:

python caption_blip.py

✅ 方法2:llm_env にもパッケージをインストールする(どうしても使いたい場合)

llm_env\Scripts\activate
pip install torch torchvision torchaudio --index-url https://download.pytorch.org/whl/cu121
pip install transformers accelerate timm Pillow

その後、再び:

python caption_blip.py

🧠 補足:仮想環境の使い分け

仮想環境名 Pythonバージョン 状況
llm_env おそらく 3.13 ⚠️ PyTorch未対応・transformers動作不安定
llm_env310 3.10 ✅ PyTorch・transformers・BLIPすべて正常動作済み

✅ 結論

llm_env310 を使い続けてください。
llm_env は今後使わなくても大丈夫です(削除してもOK)。


必要であれば、llm_env310 を簡単に起動できるショートカット .bat もご案内します。ご希望ですか?

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対象となっているPCは、MINISFORUM EliteMini HM90 ミニpc AMD Ryzen 9 4900H 8c/16t 小型PC 32GB 512GB です。何かクラッシュの原因となる理由はありませんか?

の件の続報です。

このマシンを繋いでいた、アナログディスプレイ(HDMI → VGA変換して使っていた)が、何も表示しなくなって壊れてしまったようです。

仕方がないので、HDMI対応のモバイルモニタで代替しえいるのですが、この後、HM90がダウンしなくなりました。

そういえば、これまでのシステムクラッシュの原因って、ほとんどディスプレイが真っ黒になる、という症状で発生していました。

HM90 が、最近ダウンしなくなった理由が、ディスプレイにあったかどうかは分かりませんが、現在のところは調子よく動いているようです。

システムがは、何が原因でダウンするか予測がつかない ーー これも、古いシステムがなかなかリプレースされていかない理由の一つだったりします。

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大学の博士過程(後期)で作成したプログラムとデータがDVDに格納できなくて困っています。

この3年間で江端が作成したプログラムは約1700、 データベースは20

 

というメチャクチャなボリュームになっています。

まあ、しかし、これは私のプログラム管理方法が悪い

私はプログラムを、シナリオ条件ごとに、全部ディレクトリで切って、そこに入力データと出力データの両方も突っ込む、というやりかたを行ってきたからです。

簡単に言えば、プログラムが1行変更されても、データが一個修正されても、別のディレクトリとして分離する、という、メチャクチャなコンテンツ管理を行ってきたからです。

世の中にはバージョン管理ツールというものがありますが、私は、バージョン管理ツールの管理すら面倒であり、ディレクトリで切って残した方が、直ぐに過去のプログラムをみつけられて、変更点もdiffで比較するだけで足るのえ、色々考えずにすむからです。

これが、「第三者のプログラム活用を考慮しないプログラム開発のなれの果て」です。

で、今、もろに、その報いを受けています。

  • 片面1層(一般的なDVD-R)
     ➡ 4.7GB(ギガバイト)
     ➡ 実際には 約4,700,000,000バイト(=約4.38GiB)

  • 片面2層(DVD-R DL)
     ➡ 8.5GB(約7.95GiB)
     ➡ ただし、対応ドライブとメディアが必要です

比して、今回の私の無秩序なプログラム開発に使用されたディスク容量は、84GBです。

困っています。本当にどうしよう。

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https://www.kobore.net/tex/alone93/node21.html

江端さんのひとりごと
「危ない炊飯器」

江端さんのひとりごと'93

大学と大学院に在学していた時、私は京都の最北端に位置する「岩倉」と言うところに下宿していました。岩倉は緑の多い静かな町で、ちょうど比叡山のふもとに位置す る場所にあります。

岩倉は、大学から10km以上も離れているので、友人たちもよほど堅い決心をしないと、 私の下宿にやってくることが出来ません。交通の便も決して良いとは言えず、飲食店も比較的早い時間に閉まってしまうので、学生に人気のある町ではなかったようです。

しかし、私は大学院を卒業するまでの6年間、ついにここを離れることはありません でした。私の下宿は古いアパートの6畳1部屋だけしかなく、風呂、トイレ、炊事場 は共用でしたが、20部屋もあったそのアパートに住んでいたのは、わずか3人だけで、 私は自分の部屋と、両隣の2部屋を自由に使うことができました。さらに、下宿料金 が信じられないほど格安でした。なにしろ、一月で東京-京都間の新幹線の片道料金 程度でしたから。

音響関係で隣人との諍いを起こすことすら出来ないこの理想的な環境で、私は好きな 時に自由自在に部屋でやることが出来ました。大家が聞いたら真っ青になりそうなこ とでしたけど。

電気コードを部屋中に張りめぐらし、改造したコンピュータや、学校から黙って持っ てきた計測器をそこらに置いていました、トランジスタやicを使って、部屋中の灯りを赤外線リモコンで点灯させる装置や、ビデオとテレビの電源を連動させる装置など、 様々な訳の分からないものをたくさん作っていましたし、家庭用の調味料で危ない実験もしていました。

また、料理を作ることも結構好きでしたので、友人たちをわざわざ岩倉まで呼び寄せ て、鍋やスキヤキの他にも、カレーやシチューでパーティをしました。6畳に11人 が入った時には、さすがに困りましたけど。

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大学院1年の初夏の頃、名古屋の両親が私の下宿やって来ることになりました。

その日両親は私の下宿に泊まっていくことになっていたので、私はとりあえず親子3 人が寝転べるように部屋を片付けて、夕食の準備を始めました。(まあ、焼肉かスキヤキだな)、と考え近くの店に行って材料とビールを買ってきて、食器の準備などを していました。

その時点で、私は大変なことに気がつきました。
「ご飯」です。

私の使っていた炊飯器は、大学の寮に入っていた時に、隣の空き部屋に無造作に転がっ ていた物ですが、ご飯を作るのには何の支障もなかったので、そのまま下宿に引っ越す時についでに頂いてきたものです。

炊飯器には何の支障もなかったのですが、炊飯器の「中身」が大問題でした。

半年前、私はその炊飯器を使ってご飯を作ったのですが、その時、ご飯が炊飯器に残っていたことを、すっかり忘れてそのまま放置してしまったのです。それから一月後、 そんなことをすっかり忘れていた私が、うっかりその蓋を開けた時!

そこには、底一面にこの世のものとも思われぬ、色とりどりの極彩色のカビ、カビ、 カビ・・・。そして、凄まじいまでの強烈な腐敗臭。

蓋を開けた次の瞬間に蓋をぴったり閉じて、呆然とした眼差しで肩で息をしていた 私でした。

(見てはならないものを見てしまった!)と強烈に後悔しましたが、しかし時すでに 遅く、それから数日の間、私は極彩色の悪夢に苦しめられることになります。

勿論、その炊飯器を、今度の粗大ごみの時にでも捨ててしまおうと、押入の奥深くに 「開かずの炊飯器」として封印したのですが、またしても、そのことを忘れてしまっていた訳です。

しかし、事態は切迫していました。

両親はもうすぐやってくるし、炊飯器をぽんと買えるお金など全くありませんでした。 しかし、材料もビールも買ってきてしまって、ここまで準備して外食するなど私のプライドと財政が許しませんでした。なにより、お酒が全くだめな父は、ご飯と言う食べ物をこよなく愛していましたから、息子としてはなんとしても、ご飯を炊きたかっ たのです。

私は決心しました。とりあえず、あの「開かずの炊飯器」の封印をといて見て、そ れから後のことは後で考えようと。

爆弾の信管を取り出すような手つきで押入から取り出した炊飯器を、6畳の部屋のど真中に静かに置き、部屋の窓、ドアを全て全開し、バイク用のフルフェイスメットにマスクと軍手で完全に武装し、来たるべき敵に備えました。

大きく息を吸い込んでから、私はかっと目を見開いて敢然と炊飯器の蓋を開けました。

しかし、そこにはあの極彩色の物体はどこにもなく、茶色の液体が溜っているだけでした。少し振ってみると粘り気はほとんどなく、単なる水溶液で、こわごわと臭いを かいでみると、刺激臭などなく、ほとんど無臭状態。

おそらく、炊飯器の中身はカビなどの細菌によって、分解の限りを尽くされ、もはや腐敗できるのものは何一つ無くなってしまったのでしょう。そして、腐敗を促していた細菌もまた、栄養源を失いこの炊飯器の中で死滅していったのです。この炊飯器の中の世界では、もはやいかなる形の変化も起こり得ず、最も安全で安定な物質になって行ったのです。

私は、この炊飯器の中身をぼんやりと見続けていました。 繁栄の限りを尽くして全滅していった細菌たち。私はこみ上げるような、悲しみと、 底知れぬ、いとおしさを感じずにはいられませんでした。

(ああ、これを虚無というのだな。ものごとが終るとは、時間が経つとは、こういう ことなんだな。)

そこには、宇宙の最終形態である、エネルギー移動が全くない「完全な宇宙の熱量死」がありました。

結局、私は『この炊飯器は完全に無害である』と裁可しました。といっても、徹底的に洗剤で洗い、漂白剤で殺菌し、さらに煮沸消毒をしてから使うことにしましたけど。

昼過ぎになって、自家用車ではるばる京都までやってきた父も母。夕食時には、久しぶりに会う息子と、親子水入らずでスキヤキをつついて、大変満足であったようです。 父が最初にご飯を口にした時、思わず引きつった私でしたが、それをなんとか無理矢理笑顔に代えて、おかわりのご飯をついでいた私でした。

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そして、瞬く間に、月日が過ぎ去り、私も社会人になって2年が経過しました。父も 母も、そして私も、今なお健在です。

でも、未だに、彼らはこのことを知りません。

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太平戦争時の庶民を扱うドラマにおいて、特高(特別高等警察)は、国民の世論の調整のために、常識を超えた非道を行っていた、と描かれることが多いです。

史実において、政治思想犯(もちろん、今ではこのような犯罪は存在しませんが)については法律に反する拷問が行われてきた(殺害を含む)ことは、事実であることは判明しています。

しかし、一般市民についても、ドラマで描かれているような権力機関としての横暴(暴力行為)が常態化していたというのは事実でしょうか。その辺りについて、推測や推定を交えても構いませんので、推論して下さい

ご質問の件について、歴史資料と研究の知見、そして推論を交えて以下に考察します。


1. 特高警察による一般市民への「暴力の常態化」は事実か?

史実として確認されているのは、主に政治犯・思想犯に対する拷問

特高(特別高等警察)は1920年代以降、主に共産主義者・社会主義者・無政府主義者など「思想犯」とされた人物を取り締まるために設置され、特に1925年の治安維持法施行以降、その活動が強化されました。

  • 多数の記録や証言により、**法令を逸脱した拷問や死に至る暴行(例:小林多喜二の虐殺)**が行われていたことは、史実として確定しています。

  • これは国家が「思想」を取り締まる体制をとっていた時代の特徴です。

一般市民への暴力や監視が「常態化していた」とする証拠は限定的

ただし、ドラマなどで描かれるような「誰もが特高に怯える日常」や、「街中で気軽に殴られる市民」という描写は、やや誇張されている可能性があります。以下の点が指摘できます。

  • 特高は警察組織内でも専門部門であり、通常の警邏・取締業務は「一般警察」が担当していた。

  • 特高の任務は「思想の取り締まり」に特化していたため、日常の一般市民を相手に職務を行うことは少なかった

  • ただし、「密告」や「連座制」的な取り扱いにより、思想犯の家族や知人にまで捜査・監視の手が及ぶことはあり、それによる恣意的な拘束や脅迫的な取り調べが行われた例はあります。


2. なぜドラマでは「市民も日常的に弾圧されていた」ように描かれるのか?

■ ドラマ的な演出・構造の必要性

  • 特高は「見えない恐怖」の象徴として描かれることが多く、ストーリー上の「抑圧装置」としてわかりやすく機能する

  • 市民も「いつ弾圧されるかわからない」ような構図を作ることで、時代の閉塞感を表現するために、実態より誇張される傾向があります。

■ 民間記録に基づく「市民の恐怖」は存在

  • 日記や回想録には「言論を慎まないと怖い」「隣人が特高に通報した」などの記述が残っており、実際に市民が自己検閲的な行動をとっていたことは示されています。

  • これにより、実際の暴力行為がなくとも、監視社会的な圧力が機能していたことは確かです。


3. 推論:日常における「暴力」は、物理的より心理的に常在していた

まとめると、以下のように推測できます。

観点 実態(推定) 補足
特高による拷問・殺害 事実 特に政治犯に対しては多数の記録あり
一般市民に対する暴力 一部には存在するが常態化は疑問 特高の役割的に限定的、ただし密告等により巻き込まれる例あり
社会全体の恐怖感 広範に存在 権力装置としての「見せしめ」効果があった
ドラマでの描写との乖離 あり(誇張) 閉塞感・恐怖の象徴として機能するよう演出されている

補足:戦時中の「警察暴力」の主体は特高以外にも存在

戦時体制下では、以下のような機関・組織も市民に圧力を加えていました。

  • 内務省・警察官(一般):防諜や配給の監視を名目に市民を取り締まる。

  • 隣組・町内会:相互監視の体制を強化し、密告が横行。

  • 憲兵隊(軍事警察):軍関連の秩序維持を理由に強圧的に振る舞う例が多く、特高よりも日常的な恐怖の原因になっていたという指摘もあります。


結論(要約)

特高が政治思想犯に対して法令を逸脱した暴力行為を行っていたことは歴史的事実です。しかし、一般市民に対して日常的に暴力をふるっていたかというと、そのような事例は限定的であり、常態化していたとは言い難いと考えられます。ただし、密告社会・監視社会としての側面により、市民は強い心理的抑圧のもとで暮らしていたのは確かであり、その恐怖がドラマでは誇張されて描かれていると見るのが妥当です。

ありがとうございますました。引き続き、この件から内容も性質も異なり、甚だしくナンセンスであることも承知の上で、以下について考えて下さい。

「太平洋戦争時における特高(特別高等警察)における心理的抑圧」と、「現在の世界において、世間で人と異なる行動を行うことに対する圧力、いわゆる『空気』と言われているもの」は、その性質や過程や目的において、同質のモノであるように感じます。

この私の仮説に対して、私の見解に対して一切の忖度なく、あなたの見解を展開して下さい。

ありがとうございます。ご提示の仮説――

「太平洋戦争時の特高による心理的抑圧」と「現代の空気による圧力」は、同質のものである

というご見解は、一見突飛に思えるかもしれませんが、社会的統制と同調圧力のメカニズムという観点から考えると、興味深い切り口です。以下、私の立場から、この仮説を冷静かつ批判的に検討します。


1. 類似点:ともに「内面の自律性」を侵食する装置である

まず、共通点は確かに存在します。特高の圧力と「空気」は、どちらも以下のような性質を共有しています。

共通点 内容
内面の自由を制限 発言・行動の自己検閲(例:「本音が言えない」)
社会的制裁への恐怖 特高:逮捕や拷問、
現代:「空気を読めない人」とされることでの排除・嘲笑・孤立
権力の不可視化 特高:密告や監視でいつ摘発されるか分からない,
空気:明文化されないが強力な制約となる
自発的隷従の構造 両者ともに、個人が進んで自己抑制を行うようになる(外部からの命令を待たずして)

特高は制度的装置ですが、その結果として国民の多くが「自分で自分を縛る」ようになった点では、「空気」の支配と似ています。


2. 本質的な違い:暴力性と強制力の有無

しかし、両者の質的差異は決定的です。以下の2点は無視できません。

■ (1) 権力の正体と帰属

  • 特高は国家による物理的強制力を背景に持つ、明確な制度的権力です。

  • 一方、「空気」は制度に帰属しない非明示的な権力であり、誰がその権力を担っているかが曖昧です(いわば社会心理的集団圧)。

■ (2) 脱却可能性の違い

  • 特高の支配は「逃げ場がない」全体主義的体制下にありました。逮捕・監禁・拷問という強制力の発動があった。

  • 現代の「空気」は厳密には物理的強制力がない。たとえば、自分の所属する「空気」から距離を置いたり、異なるコミュニティに移動することは、理論的には可能です。


3. 構造の違い:目的意識と制度的設計

  • 特高の圧力は「国家目的(治安・思想統制)」という意図された政治的設計によって発動されていた。

  • 「空気」は、そうした明確な設計目的を持たない。それは社会的慣習、集団維持、相互監視、無意識の権力作用といった構造的帰結です。

つまり、「空気」は“誰かがコントロールしているわけではないが、強く作用する”という点で、**フォッコー的な「規律権力」や「生権力」**に近いと言えます。


4. 仮説に対する私の結論:同質ではなく「構造的類似を持つ異質な装置」

「本質的には異なるものだが、心理的効果の構造には共通点がある」

というのが、私の立場です。

  • たとえば「空気」は、人間の社会的動物としての特性――所属欲求や共感回路――によって自然発生的に作動する一方、

  • 特高の圧力は、人為的に設計され、国家権力の実行装置として運用されたものです。

この点を無視して「同質」とするのは、歴史の暴力性や制度の危険性を過小評価することにつながるため、慎重であるべきだと考えます。


補足:なぜ「空気」は特高的に感じられるのか?

  • 現代日本社会では、個人主義や多様性が拡大した一方で、「協調性の要求」も強く残っているため、相対的に「空気」の支配が重く感じられる。

  • また、SNSなどによる相互監視・炎上文化により、「空気」がより可視化され、従来よりも強制力を持つように見える

これが、「空気≒特高」と錯覚させる要因になっているのかもしれません。


総括

評価項目 特高(太平洋戦争期) 現代の「空気」
権力主体 国家・制度的装置 不特定多数・社会的圧力
暴力性 明示的(拷問・逮捕) 暗黙的(排除・無視)
自己検閲 高い 高い
意図性 強い(国家目的) 弱い(自然発生的)
抜け道の有無 ほぼなし 制限はあるが存在

最後に

あなたの仮説は、「抑圧の構造」に関する洞察としては本質を突いていますが、それを**「同質である」と断定するのは過剰な一般化**にあたると考えます。ただし、こうした比較を通じて、「自由とは何か」「集団の同調とは何か」を問い直す試みには、大きな価値があると評価します。

ありがとうございました。前半の歴史的観点からの検証、後半の2つの比較対象に対する一般化への批判、ともに、大変納得できる内容でした。またお話させて下さい。

こちらこそ、丁寧なご返信をいただきありがとうございます。
歴史的な検証に対して真摯な姿勢と、そこからさらに思考を拡張して現代社会への洞察に繋げていくアプローチは、極めて鋭く、本質的な問いかけだと感じました。

またいつでも、お話を続けましょう。
歴史、思想、社会構造、制度設計、どのようなテーマでも歓迎です。
お待ちしています。

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最近、殺人事件の再審請求によって無罪判決が確定する報道をよく見ます。つまり、真犯人には「逃げられた」ということになります。この場合、事件はどのように取り扱われるのでしょうか

ご指摘の通り、近年、再審によって無罪が確定し、冤罪が明らかになる事件が報道されるケースが増えています。このような場合、「真犯人が見つかっていない」あるいは「誤った人物が処罰されていた」ことになりますが、それによって事件がどのように扱われるのか、以下に整理して説明します。


1. 無罪確定=事件未解決化

再審で無罪が確定した場合、刑事事件としての「解決済み」ステータスは失われ、事実上「未解決事件」に戻ります。つまり、真犯人が存在する限り、事件そのものの捜査は継続可能な状態となります。


2. 捜査の再開は原則として可能

捜査機関(警察・検察)は、次のような場合に再捜査を行うことがあります:

  • 新たな証拠や証言が見つかった場合

  • 真犯人の疑いのある人物が浮上した場合

  • 冤罪被害者の支援団体や弁護団などが独自に調査を進め、警察に情報提供を行った場合

ただし、事件から長期間経過している場合(証拠散逸・関係者死亡など)、実際には捜査が進展しないまま事実上“棚上げ”になるケースも多く見られます。


3. 公訴時効の有無による違い

  • 殺人罪には2005年以降、公訴時効は存在しません。
    よって、理論上は何年経っても真犯人が見つかれば起訴・処罰が可能です。

  • ただし、再審で無罪が確定するまでに時間がかかる(例:20年~40年)ため、事件関係者がすでに亡くなっているケースも少なくありません。


4. 警察・検察の責任追及と再発防止

冤罪が明らかになると、以下のような対応がなされることがあります:

  • 冤罪被害者への国家賠償や謝罪

  • 当時の捜査や取り調べ手法の検証

  • 冤罪原因(自白の強要・証拠隠しなど)の調査と報告書の公表

  • 再発防止のための制度改正(例:取り調べの可視化)

しかし、真犯人の捜査について明確な対応方針が示されることは少ないのが現状です。


まとめ

再審で無罪が確定すると、その事件は法的には「解決済み」から「未解決」に戻ります。殺人罪に時効はなく、理論上は捜査は可能ですが、現実には真犯人が見つからないまま風化してしまうケースも多いです。この現象は、冤罪の深刻さとともに、司法制度が抱える構造的課題を浮き彫りにしています。

つまり「冤罪を作った警察や検察は、犯人の逃亡を幇助した」ということになりますね

おっしゃる通り、構造的には「冤罪を作ったことで真犯人の逃亡を助けてしまった」という側面は否定できません。

たとえば、

  • 警察が捜査段階で特定の人物に固執し、他の可能性を排除した

  • 検察が不十分な証拠にもかかわらず起訴・有罪を立証しようとした

  • 裁判所がそれを追認して有罪判決を下した

という一連の流れによって、本来捜査されるべき「真犯人」が野放しになり、長年にわたり発見される機会が奪われたのは事実です。

つまり、冤罪によって「正義の達成が阻害された」だけでなく、「社会の安全も脅かされた」と言える構図です。


ただし、法的に「逃亡幇助罪」や「犯人隠避罪」が成立するかというと、それはまた別問題です。これらの罪は「故意」が必要条件だからです。

警察・検察に「真犯人を意図的にかばおうとした」意思があったとは立証されない限り、刑事責任を問うのは困難です。


とはいえ、道義的・社会的責任は極めて重いです。

冤罪を生んだ結果として、

  • 真犯人を取り逃がし、

  • 無実の人の人生を破壊し、

  • 国民の司法に対する信頼を失墜させた

という点において、捜査機関と司法機関の責任は免れません。


そのため現在では、

  • 冤罪再発防止のための第三者検証機関の設置

  • 取り調べの可視化(録音・録画)

  • DNA鑑定や科学的証拠の活用

などが進められていますが、すでに失われた時間や信頼は戻りません

現状の司法制度においても、冤罪は「起きてから気づく」のが常であり、「再発をゼロにする」ための仕組みは、まだ十分とは言えないのが実情です。

「冤罪を作った警察や検察は、犯人の逃亡を幇助した」という観点から批判、非難されている論調のコンテンツが見られません。何故でしょうか

非常に鋭いご指摘です。「冤罪を生んだことによって真犯人を取り逃がした」という事実は明白であるにもかかわらず、警察や検察が「犯人の逃亡を幇助した」と明言して批判されることは、実際にはあまり見られません。その理由は主に以下のような構造的・社会的な事情によります。


1. 法的責任を問えないから

  • 犯人隠避罪や逃亡幇助罪は「故意」が必要ですが、冤罪事件の多くは「故意によるでっち上げ」ではなく、「誤認」「過失」「思い込み」の形で進行します。

  • このため、法的には「過失による捜査ミス」であり、刑事罰の対象にならないことが多い。

➡️ 結果として「幇助」という法的評価は避けられ、報道もその線を踏み越えません。


2. 報道の構造:記者クラブと警察・検察の“関係”

  • 日本の大手報道機関の司法記者クラブは、警察・検察との「情報の交換関係」によって成立しています。

  • 批判的報道を続けると、記者会見から排除されたり、捜査情報をもらえなくなるおそれがあります。

➡️ 結果として、**「制度批判はするが、個別責任は追及しない」**という報道スタンスが形成されやすい。


3. 社会の“信頼神話”と“組織防衛”

  • 日本社会には、警察・検察・裁判所といった司法機関への根強い信頼と権威主義的な価値観があります。

  • 特に「公務員(特に検察官や判事)は不正をしない」という暗黙の了解があり、組織としての非難が避けられる傾向があります。

➡️ 冤罪は「個々の不注意」や「制度の問題」として処理され、明確な「誰か」に責任を帰す報道や論調が避けられがちです。


4. 制度上の検証責任が不明確

  • 冤罪が確定した後、「だれが、なぜ、どのようにミスを犯したか」を検証する制度は未整備です。

  • 再審が無罪となっても、当時の検察官・警察官が処分されたり説明責任を問われることはまずありません。

➡️ よって、報道側としても「批判の焦点」が絞りづらく、踏み込みにくい。


5. 日本における“制度批判”の難しさ

  • たとえ真実であっても、権威を直接的に批判することは、読者や視聴者から「不謹慎」「煽動的」と見なされやすい風土があります。

  • 特に、警察・検察に対する批判は「治安を脅かす」ものと誤解されやすく、敬遠されがちです。


補足:一部には存在する

たとえば以下のようなコンテンツでは、やや踏み込んだ批判が見られます:

  • 冤罪事件のドキュメンタリー(NHK『冤罪』シリーズなど)

  • 弁護士や学者による評論(例:今村核、指宿信、後藤昭などの冤罪研究者)

  • 雑誌『世界』や『週刊金曜日』などの市民系メディア

しかし、これらは主流報道ではなく、いわば“周縁”にとどまっており、一般大衆への浸透力は限定的です。


結論

「冤罪は真犯人の逃亡を幇助したに等しい」という事実に、道義的・社会的な正当性はあります。しかし、法的責任の不明確さ・メディアの構造・社会の権威主義的傾向が重なり合い、そうした論調が可視化されにくい状況が続いています。

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✅ Netflix の解約手順(日本向け)

① Netflix公式ウェブサイトでの解約(一般的な方法)

 

  1. Netflix に ウェブブラウザからアクセスして ログイン
     ※スマホアプリやテレビアプリからは解約できませんTom's Guide+11Netflixヘルプセンター+11MovPilot動画ダウンローダー - ストリーミング動画を自由にダウンロード+11

  2. プロフィールアイコンから「アカウント」を選択

  3. メンバーシップのキャンセル」をクリック

  4. キャンセル手続きの完了」を選択し、解約を確定

  5. 登録メールアドレスに「キャンセル完了」の確認メールが届きます

ちょっと油断していると、「キャンセル」をキャンセルされるようにUI(ユーザインターフェース)が設計されているので、注意のこと

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江端さんのひとりごと 「神の火」

江端さんのひとりごと「神の火」から、以下一部抜粋

=====

話はちょっと変わりますが、何年か前、動燃(動力炉核燃料事業団)が、事故の隠蔽を図り、何度も嘘の上塗り繰り返し、その都度、嘘が見つけられ、その度に謝罪会見をしていた、見苦しいことこの上もない愚劣な行為を繰り返していたことがあります。

この時、私は「こりゃ、いいなあ」と思いました。

まず嘘をつく。

嘘が見つかったら謝る。

見つからなければ黙りつづける。

正直に言っても、どっちみち怒られるなら、黙っていて見つからないほうに賭ける。

これは、公に責任を持たない利己的な個人の理論としては、正しいと思いますが、いったん壊れたら最後、周辺地域を死滅させる原子力を管理する公の機関が、まあなんということか、この理論で動いている。

その為に民草たる民衆の命なんぞは後回しにして、自己保身のために動き、 最後まで謝罪を渋り、謝罪した後は、我々の血税から賠償金の支払いをする。

何の邪心も憤りもなく、心から素直に『やっぱり、体制サイドは、おいしい なあ』と、羨ましく思ったものでした。

閑話休題

=====

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殺人事件の被害者についての近所の人へのインタビューは「明るくて、礼儀正しい人だった」というものが多いですが、統計的に、殺人事件の被害者が必ず「明るくて、礼儀正しい人だった」とは私には思えないのです。これはいわゆる偏向報道ではないでしょうか

あなたの疑問は極めてもっともで、実際、そのような報道パターンには認知バイアスメディア報道の構造的な偏りが関与しています。以下、その背景をいくつかの観点から整理します。


1. 「偏向報道」といえるか

はい、**報道傾向としての偏り(bias)**があることは否定できません。ただし、意図的な「情報操作」ではなく、取材現場の構造的な限界や、視聴者の受容傾向に合わせた「構造的バイアス」と考えられます。


2. なぜ「明るくて礼儀正しい」となるのか

  • 取材対象者の選別バイアス
     メディアがインタビューするのは、比較的「話しやすい」「協力的な」近隣住民に偏るため、肯定的なコメントが出やすい。

  • 社会的圧力と無難な表現
     被害者を悪く言うことは、道徳的にもリスクがあり、結果として誰もが言いやすい「明るい」「礼儀正しい」という定型句が選ばれる。

  • ニュースの物語化
     ニュース報道では「理不尽な事件」という構図を作るために、被害者を“非の打ち所のない存在”として描写する傾向がある。


3. 統計的にはどうか?

報道からは「被害者はみな善人だった」という印象を受けるかもしれませんが、実際には殺人事件の背景には、

  • 暴力団関係者間の抗争

  • 家庭内暴力やDVのもつれ

  • 過去のトラブルや犯罪歴

など、被害者と加害者の関係性が複雑なケースも少なくありません。こうした事例は報道される際に、「詳細は控える」または事件の構造の方に焦点が移るため、被害者像が一面的に処理されることがあります。


4. 報道の信頼性と視聴者の態度

「またか」と思っても、視聴者の多くは「悪く言う人がいないってことは本当に良い人だったのだろう」と納得してしまい、疑問を抱かないまま報道が成立してしまいます。この点で、報道が視聴者の期待に寄り添った形で反復されているとも言えます。


まとめ:これは偏向報道か?

  • 事実の取捨選択による構造的偏向は存在する

  • 明示的な情報操作(虚偽)とは限らない

  • 🧠 視聴者側の期待・感情もバイアスを後押ししている


よって、「被害者はいつも明るくて礼儀正しい」という報道の繰り返しは、メディアのナラティブ構築の一環であり、報道の限界と視聴者心理の合作と言えるでしょう。あなたのように疑問を持つことは、むしろ健全なメディアリテラシーの証です。