2025,江端さんの忘備録

私は現在禁酒中の身の上ですが、(だからこそ?)漫画「グランブル(*)」の大ファンであることは以前お話しました。
I’m currently abstaining from alcohol, but (perhaps because of that?) I’ve previously mentioned that I’m a big fan of the manga “Grand Blue.”

(*)「ぐらんぶる」(英語タイトル:Grand?Blue Dreaming)は、講談社の青年漫画誌「good!アフタヌーン」にて、2014年5月号から連載されている作品(原作:井上堅二さん/作画:吉岡公威さん)です。
(*) “Grand Blue” (official English title: Grand Blue Dreaming) has been serialized since the May 2014 issue in Kodansha’s seinen manga magazine good! Afternoon (original story by Kenji Inoue, art by Kimitake Yoshioka).

多くの人が意外に思われるかもしれませんが、私は、井上堅二さん(原作)と吉岡公威さん(作画)の「ぐらんぶる」という漫画/アニメが大好きです。

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で、今回は、いわゆる、"コレ"の内容の話が掲載されていました。
And this time, it featured a story about what you might call “that thing.”

江端さんのひとりごと「危ない炊飯器」

―― 私の場合、1月後の炊飯器は確かに“こういう状態”だった
In my case, the rice cooker did indeed end up “just like that” one month later.

―― しかし、2年も経過すれば「宇宙の熱量死」に至っているハズなんだけどな
But after two years, surely it should’ve reached the “heat death of the universe,” no?

と、私は、首をかしげていました。
So I found myself tilting my head in puzzlement.

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私のこのコラムに対する感想を調べたことがあるのですが、「炊飯器の中の閉じた宇宙」の事故の話は、結構多いようです。
Well, I once looked up reactions to that column, and it turns out there are quite a few stories about “a closed universe inside the rice cooker.”

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https://www.kobore.net/tex/alone93/node21.html

江端さんのひとりごと
「危ない炊飯器」

江端さんのひとりごと'93

大学と大学院に在学していた時、私は京都の最北端に位置する「岩倉」と言うところに下宿していました。岩倉は緑の多い静かな町で、ちょうど比叡山のふもとに位置す る場所にあります。

岩倉は、大学から10km以上も離れているので、友人たちもよほど堅い決心をしないと、 私の下宿にやってくることが出来ません。交通の便も決して良いとは言えず、飲食店も比較的早い時間に閉まってしまうので、学生に人気のある町ではなかったようです。

しかし、私は大学院を卒業するまでの6年間、ついにここを離れることはありません でした。私の下宿は古いアパートの6畳1部屋だけしかなく、風呂、トイレ、炊事場 は共用でしたが、20部屋もあったそのアパートに住んでいたのは、わずか3人だけで、 私は自分の部屋と、両隣の2部屋を自由に使うことができました。さらに、下宿料金 が信じられないほど格安でした。なにしろ、一月で東京-京都間の新幹線の片道料金 程度でしたから。

音響関係で隣人との諍いを起こすことすら出来ないこの理想的な環境で、私は好きな 時に自由自在に部屋でやることが出来ました。大家が聞いたら真っ青になりそうなこ とでしたけど。

電気コードを部屋中に張りめぐらし、改造したコンピュータや、学校から黙って持っ てきた計測器をそこらに置いていました、トランジスタやicを使って、部屋中の灯りを赤外線リモコンで点灯させる装置や、ビデオとテレビの電源を連動させる装置など、 様々な訳の分からないものをたくさん作っていましたし、家庭用の調味料で危ない実験もしていました。

また、料理を作ることも結構好きでしたので、友人たちをわざわざ岩倉まで呼び寄せ て、鍋やスキヤキの他にも、カレーやシチューでパーティをしました。6畳に11人 が入った時には、さすがに困りましたけど。

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大学院1年の初夏の頃、名古屋の両親が私の下宿やって来ることになりました。

その日両親は私の下宿に泊まっていくことになっていたので、私はとりあえず親子3 人が寝転べるように部屋を片付けて、夕食の準備を始めました。(まあ、焼肉かスキヤキだな)、と考え近くの店に行って材料とビールを買ってきて、食器の準備などを していました。

その時点で、私は大変なことに気がつきました。
「ご飯」です。

私の使っていた炊飯器は、大学の寮に入っていた時に、隣の空き部屋に無造作に転がっ ていた物ですが、ご飯を作るのには何の支障もなかったので、そのまま下宿に引っ越す時についでに頂いてきたものです。

炊飯器には何の支障もなかったのですが、炊飯器の「中身」が大問題でした。

半年前、私はその炊飯器を使ってご飯を作ったのですが、その時、ご飯が炊飯器に残っていたことを、すっかり忘れてそのまま放置してしまったのです。それから一月後、 そんなことをすっかり忘れていた私が、うっかりその蓋を開けた時!

そこには、底一面にこの世のものとも思われぬ、色とりどりの極彩色のカビ、カビ、 カビ・・・。そして、凄まじいまでの強烈な腐敗臭。

蓋を開けた次の瞬間に蓋をぴったり閉じて、呆然とした眼差しで肩で息をしていた 私でした。

(見てはならないものを見てしまった!)と強烈に後悔しましたが、しかし時すでに 遅く、それから数日の間、私は極彩色の悪夢に苦しめられることになります。

勿論、その炊飯器を、今度の粗大ごみの時にでも捨ててしまおうと、押入の奥深くに 「開かずの炊飯器」として封印したのですが、またしても、そのことを忘れてしまっていた訳です。

しかし、事態は切迫していました。

両親はもうすぐやってくるし、炊飯器をぽんと買えるお金など全くありませんでした。 しかし、材料もビールも買ってきてしまって、ここまで準備して外食するなど私のプライドと財政が許しませんでした。なにより、お酒が全くだめな父は、ご飯と言う食べ物をこよなく愛していましたから、息子としてはなんとしても、ご飯を炊きたかっ たのです。

私は決心しました。とりあえず、あの「開かずの炊飯器」の封印をといて見て、そ れから後のことは後で考えようと。

爆弾の信管を取り出すような手つきで押入から取り出した炊飯器を、6畳の部屋のど真中に静かに置き、部屋の窓、ドアを全て全開し、バイク用のフルフェイスメットにマスクと軍手で完全に武装し、来たるべき敵に備えました。

大きく息を吸い込んでから、私はかっと目を見開いて敢然と炊飯器の蓋を開けました。

しかし、そこにはあの極彩色の物体はどこにもなく、茶色の液体が溜っているだけでした。少し振ってみると粘り気はほとんどなく、単なる水溶液で、こわごわと臭いを かいでみると、刺激臭などなく、ほとんど無臭状態。

おそらく、炊飯器の中身はカビなどの細菌によって、分解の限りを尽くされ、もはや腐敗できるのものは何一つ無くなってしまったのでしょう。そして、腐敗を促していた細菌もまた、栄養源を失いこの炊飯器の中で死滅していったのです。この炊飯器の中の世界では、もはやいかなる形の変化も起こり得ず、最も安全で安定な物質になって行ったのです。

私は、この炊飯器の中身をぼんやりと見続けていました。 繁栄の限りを尽くして全滅していった細菌たち。私はこみ上げるような、悲しみと、 底知れぬ、いとおしさを感じずにはいられませんでした。

(ああ、これを虚無というのだな。ものごとが終るとは、時間が経つとは、こういう ことなんだな。)

そこには、宇宙の最終形態である、エネルギー移動が全くない「完全な宇宙の熱量死」がありました。

結局、私は『この炊飯器は完全に無害である』と裁可しました。といっても、徹底的に洗剤で洗い、漂白剤で殺菌し、さらに煮沸消毒をしてから使うことにしましたけど。

昼過ぎになって、自家用車ではるばる京都までやってきた父も母。夕食時には、久しぶりに会う息子と、親子水入らずでスキヤキをつついて、大変満足であったようです。 父が最初にご飯を口にした時、思わず引きつった私でしたが、それをなんとか無理矢理笑顔に代えて、おかわりのご飯をついでいた私でした。

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そして、瞬く間に、月日が過ぎ去り、私も社会人になって2年が経過しました。父も 母も、そして私も、今なお健在です。

でも、未だに、彼らはこのことを知りません。

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太平戦争時の庶民を扱うドラマにおいて、特高(特別高等警察)は、国民の世論の調整のために、常識を超えた非道を行っていた、と描かれることが多いです。

史実において、政治思想犯(もちろん、今ではこのような犯罪は存在しませんが)については法律に反する拷問が行われてきた(殺害を含む)ことは、事実であることは判明しています。

しかし、一般市民についても、ドラマで描かれているような権力機関としての横暴(暴力行為)が常態化していたというのは事実でしょうか。その辺りについて、推測や推定を交えても構いませんので、推論して下さい

ご質問の件について、歴史資料と研究の知見、そして推論を交えて以下に考察します。


1. 特高警察による一般市民への「暴力の常態化」は事実か?

史実として確認されているのは、主に政治犯・思想犯に対する拷問

特高(特別高等警察)は1920年代以降、主に共産主義者・社会主義者・無政府主義者など「思想犯」とされた人物を取り締まるために設置され、特に1925年の治安維持法施行以降、その活動が強化されました。

  • 多数の記録や証言により、**法令を逸脱した拷問や死に至る暴行(例:小林多喜二の虐殺)**が行われていたことは、史実として確定しています。

  • これは国家が「思想」を取り締まる体制をとっていた時代の特徴です。

一般市民への暴力や監視が「常態化していた」とする証拠は限定的

ただし、ドラマなどで描かれるような「誰もが特高に怯える日常」や、「街中で気軽に殴られる市民」という描写は、やや誇張されている可能性があります。以下の点が指摘できます。

  • 特高は警察組織内でも専門部門であり、通常の警邏・取締業務は「一般警察」が担当していた。

  • 特高の任務は「思想の取り締まり」に特化していたため、日常の一般市民を相手に職務を行うことは少なかった

  • ただし、「密告」や「連座制」的な取り扱いにより、思想犯の家族や知人にまで捜査・監視の手が及ぶことはあり、それによる恣意的な拘束や脅迫的な取り調べが行われた例はあります。


2. なぜドラマでは「市民も日常的に弾圧されていた」ように描かれるのか?

■ ドラマ的な演出・構造の必要性

  • 特高は「見えない恐怖」の象徴として描かれることが多く、ストーリー上の「抑圧装置」としてわかりやすく機能する

  • 市民も「いつ弾圧されるかわからない」ような構図を作ることで、時代の閉塞感を表現するために、実態より誇張される傾向があります。

■ 民間記録に基づく「市民の恐怖」は存在

  • 日記や回想録には「言論を慎まないと怖い」「隣人が特高に通報した」などの記述が残っており、実際に市民が自己検閲的な行動をとっていたことは示されています。

  • これにより、実際の暴力行為がなくとも、監視社会的な圧力が機能していたことは確かです。


3. 推論:日常における「暴力」は、物理的より心理的に常在していた

まとめると、以下のように推測できます。

観点 実態(推定) 補足
特高による拷問・殺害 事実 特に政治犯に対しては多数の記録あり
一般市民に対する暴力 一部には存在するが常態化は疑問 特高の役割的に限定的、ただし密告等により巻き込まれる例あり
社会全体の恐怖感 広範に存在 権力装置としての「見せしめ」効果があった
ドラマでの描写との乖離 あり(誇張) 閉塞感・恐怖の象徴として機能するよう演出されている

補足:戦時中の「警察暴力」の主体は特高以外にも存在

戦時体制下では、以下のような機関・組織も市民に圧力を加えていました。

  • 内務省・警察官(一般):防諜や配給の監視を名目に市民を取り締まる。

  • 隣組・町内会:相互監視の体制を強化し、密告が横行。

  • 憲兵隊(軍事警察):軍関連の秩序維持を理由に強圧的に振る舞う例が多く、特高よりも日常的な恐怖の原因になっていたという指摘もあります。


結論(要約)

特高が政治思想犯に対して法令を逸脱した暴力行為を行っていたことは歴史的事実です。しかし、一般市民に対して日常的に暴力をふるっていたかというと、そのような事例は限定的であり、常態化していたとは言い難いと考えられます。ただし、密告社会・監視社会としての側面により、市民は強い心理的抑圧のもとで暮らしていたのは確かであり、その恐怖がドラマでは誇張されて描かれていると見るのが妥当です。

ありがとうございますました。引き続き、この件から内容も性質も異なり、甚だしくナンセンスであることも承知の上で、以下について考えて下さい。

「太平洋戦争時における特高(特別高等警察)における心理的抑圧」と、「現在の世界において、世間で人と異なる行動を行うことに対する圧力、いわゆる『空気』と言われているもの」は、その性質や過程や目的において、同質のモノであるように感じます。

この私の仮説に対して、私の見解に対して一切の忖度なく、あなたの見解を展開して下さい。

ありがとうございます。ご提示の仮説――

「太平洋戦争時の特高による心理的抑圧」と「現代の空気による圧力」は、同質のものである

というご見解は、一見突飛に思えるかもしれませんが、社会的統制と同調圧力のメカニズムという観点から考えると、興味深い切り口です。以下、私の立場から、この仮説を冷静かつ批判的に検討します。


1. 類似点:ともに「内面の自律性」を侵食する装置である

まず、共通点は確かに存在します。特高の圧力と「空気」は、どちらも以下のような性質を共有しています。

共通点 内容
内面の自由を制限 発言・行動の自己検閲(例:「本音が言えない」)
社会的制裁への恐怖 特高:逮捕や拷問、
現代:「空気を読めない人」とされることでの排除・嘲笑・孤立
権力の不可視化 特高:密告や監視でいつ摘発されるか分からない,
空気:明文化されないが強力な制約となる
自発的隷従の構造 両者ともに、個人が進んで自己抑制を行うようになる(外部からの命令を待たずして)

特高は制度的装置ですが、その結果として国民の多くが「自分で自分を縛る」ようになった点では、「空気」の支配と似ています。


2. 本質的な違い:暴力性と強制力の有無

しかし、両者の質的差異は決定的です。以下の2点は無視できません。

■ (1) 権力の正体と帰属

  • 特高は国家による物理的強制力を背景に持つ、明確な制度的権力です。

  • 一方、「空気」は制度に帰属しない非明示的な権力であり、誰がその権力を担っているかが曖昧です(いわば社会心理的集団圧)。

■ (2) 脱却可能性の違い

  • 特高の支配は「逃げ場がない」全体主義的体制下にありました。逮捕・監禁・拷問という強制力の発動があった。

  • 現代の「空気」は厳密には物理的強制力がない。たとえば、自分の所属する「空気」から距離を置いたり、異なるコミュニティに移動することは、理論的には可能です。


3. 構造の違い:目的意識と制度的設計

  • 特高の圧力は「国家目的(治安・思想統制)」という意図された政治的設計によって発動されていた。

  • 「空気」は、そうした明確な設計目的を持たない。それは社会的慣習、集団維持、相互監視、無意識の権力作用といった構造的帰結です。

つまり、「空気」は“誰かがコントロールしているわけではないが、強く作用する”という点で、**フォッコー的な「規律権力」や「生権力」**に近いと言えます。


4. 仮説に対する私の結論:同質ではなく「構造的類似を持つ異質な装置」

「本質的には異なるものだが、心理的効果の構造には共通点がある」

というのが、私の立場です。

  • たとえば「空気」は、人間の社会的動物としての特性――所属欲求や共感回路――によって自然発生的に作動する一方、

  • 特高の圧力は、人為的に設計され、国家権力の実行装置として運用されたものです。

この点を無視して「同質」とするのは、歴史の暴力性や制度の危険性を過小評価することにつながるため、慎重であるべきだと考えます。


補足:なぜ「空気」は特高的に感じられるのか?

  • 現代日本社会では、個人主義や多様性が拡大した一方で、「協調性の要求」も強く残っているため、相対的に「空気」の支配が重く感じられる。

  • また、SNSなどによる相互監視・炎上文化により、「空気」がより可視化され、従来よりも強制力を持つように見える

これが、「空気≒特高」と錯覚させる要因になっているのかもしれません。


総括

評価項目 特高(太平洋戦争期) 現代の「空気」
権力主体 国家・制度的装置 不特定多数・社会的圧力
暴力性 明示的(拷問・逮捕) 暗黙的(排除・無視)
自己検閲 高い 高い
意図性 強い(国家目的) 弱い(自然発生的)
抜け道の有無 ほぼなし 制限はあるが存在

最後に

あなたの仮説は、「抑圧の構造」に関する洞察としては本質を突いていますが、それを**「同質である」と断定するのは過剰な一般化**にあたると考えます。ただし、こうした比較を通じて、「自由とは何か」「集団の同調とは何か」を問い直す試みには、大きな価値があると評価します。

ありがとうございました。前半の歴史的観点からの検証、後半の2つの比較対象に対する一般化への批判、ともに、大変納得できる内容でした。またお話させて下さい。

こちらこそ、丁寧なご返信をいただきありがとうございます。
歴史的な検証に対して真摯な姿勢と、そこからさらに思考を拡張して現代社会への洞察に繋げていくアプローチは、極めて鋭く、本質的な問いかけだと感じました。

またいつでも、お話を続けましょう。
歴史、思想、社会構造、制度設計、どのようなテーマでも歓迎です。
お待ちしています。

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最近、殺人事件の再審請求によって無罪判決が確定する報道をよく見ます。つまり、真犯人には「逃げられた」ということになります。この場合、事件はどのように取り扱われるのでしょうか

ご指摘の通り、近年、再審によって無罪が確定し、冤罪が明らかになる事件が報道されるケースが増えています。このような場合、「真犯人が見つかっていない」あるいは「誤った人物が処罰されていた」ことになりますが、それによって事件がどのように扱われるのか、以下に整理して説明します。


1. 無罪確定=事件未解決化

再審で無罪が確定した場合、刑事事件としての「解決済み」ステータスは失われ、事実上「未解決事件」に戻ります。つまり、真犯人が存在する限り、事件そのものの捜査は継続可能な状態となります。


2. 捜査の再開は原則として可能

捜査機関(警察・検察)は、次のような場合に再捜査を行うことがあります:

  • 新たな証拠や証言が見つかった場合

  • 真犯人の疑いのある人物が浮上した場合

  • 冤罪被害者の支援団体や弁護団などが独自に調査を進め、警察に情報提供を行った場合

ただし、事件から長期間経過している場合(証拠散逸・関係者死亡など)、実際には捜査が進展しないまま事実上“棚上げ”になるケースも多く見られます。


3. 公訴時効の有無による違い

  • 殺人罪には2005年以降、公訴時効は存在しません。
    よって、理論上は何年経っても真犯人が見つかれば起訴・処罰が可能です。

  • ただし、再審で無罪が確定するまでに時間がかかる(例:20年~40年)ため、事件関係者がすでに亡くなっているケースも少なくありません。


4. 警察・検察の責任追及と再発防止

冤罪が明らかになると、以下のような対応がなされることがあります:

  • 冤罪被害者への国家賠償や謝罪

  • 当時の捜査や取り調べ手法の検証

  • 冤罪原因(自白の強要・証拠隠しなど)の調査と報告書の公表

  • 再発防止のための制度改正(例:取り調べの可視化)

しかし、真犯人の捜査について明確な対応方針が示されることは少ないのが現状です。


まとめ

再審で無罪が確定すると、その事件は法的には「解決済み」から「未解決」に戻ります。殺人罪に時効はなく、理論上は捜査は可能ですが、現実には真犯人が見つからないまま風化してしまうケースも多いです。この現象は、冤罪の深刻さとともに、司法制度が抱える構造的課題を浮き彫りにしています。

つまり「冤罪を作った警察や検察は、犯人の逃亡を幇助した」ということになりますね

おっしゃる通り、構造的には「冤罪を作ったことで真犯人の逃亡を助けてしまった」という側面は否定できません。

たとえば、

  • 警察が捜査段階で特定の人物に固執し、他の可能性を排除した

  • 検察が不十分な証拠にもかかわらず起訴・有罪を立証しようとした

  • 裁判所がそれを追認して有罪判決を下した

という一連の流れによって、本来捜査されるべき「真犯人」が野放しになり、長年にわたり発見される機会が奪われたのは事実です。

つまり、冤罪によって「正義の達成が阻害された」だけでなく、「社会の安全も脅かされた」と言える構図です。


ただし、法的に「逃亡幇助罪」や「犯人隠避罪」が成立するかというと、それはまた別問題です。これらの罪は「故意」が必要条件だからです。

警察・検察に「真犯人を意図的にかばおうとした」意思があったとは立証されない限り、刑事責任を問うのは困難です。


とはいえ、道義的・社会的責任は極めて重いです。

冤罪を生んだ結果として、

  • 真犯人を取り逃がし、

  • 無実の人の人生を破壊し、

  • 国民の司法に対する信頼を失墜させた

という点において、捜査機関と司法機関の責任は免れません。


そのため現在では、

  • 冤罪再発防止のための第三者検証機関の設置

  • 取り調べの可視化(録音・録画)

  • DNA鑑定や科学的証拠の活用

などが進められていますが、すでに失われた時間や信頼は戻りません

現状の司法制度においても、冤罪は「起きてから気づく」のが常であり、「再発をゼロにする」ための仕組みは、まだ十分とは言えないのが実情です。

「冤罪を作った警察や検察は、犯人の逃亡を幇助した」という観点から批判、非難されている論調のコンテンツが見られません。何故でしょうか

非常に鋭いご指摘です。「冤罪を生んだことによって真犯人を取り逃がした」という事実は明白であるにもかかわらず、警察や検察が「犯人の逃亡を幇助した」と明言して批判されることは、実際にはあまり見られません。その理由は主に以下のような構造的・社会的な事情によります。


1. 法的責任を問えないから

  • 犯人隠避罪や逃亡幇助罪は「故意」が必要ですが、冤罪事件の多くは「故意によるでっち上げ」ではなく、「誤認」「過失」「思い込み」の形で進行します。

  • このため、法的には「過失による捜査ミス」であり、刑事罰の対象にならないことが多い。

➡️ 結果として「幇助」という法的評価は避けられ、報道もその線を踏み越えません。


2. 報道の構造:記者クラブと警察・検察の“関係”

  • 日本の大手報道機関の司法記者クラブは、警察・検察との「情報の交換関係」によって成立しています。

  • 批判的報道を続けると、記者会見から排除されたり、捜査情報をもらえなくなるおそれがあります。

➡️ 結果として、**「制度批判はするが、個別責任は追及しない」**という報道スタンスが形成されやすい。


3. 社会の“信頼神話”と“組織防衛”

  • 日本社会には、警察・検察・裁判所といった司法機関への根強い信頼と権威主義的な価値観があります。

  • 特に「公務員(特に検察官や判事)は不正をしない」という暗黙の了解があり、組織としての非難が避けられる傾向があります。

➡️ 冤罪は「個々の不注意」や「制度の問題」として処理され、明確な「誰か」に責任を帰す報道や論調が避けられがちです。


4. 制度上の検証責任が不明確

  • 冤罪が確定した後、「だれが、なぜ、どのようにミスを犯したか」を検証する制度は未整備です。

  • 再審が無罪となっても、当時の検察官・警察官が処分されたり説明責任を問われることはまずありません。

➡️ よって、報道側としても「批判の焦点」が絞りづらく、踏み込みにくい。


5. 日本における“制度批判”の難しさ

  • たとえ真実であっても、権威を直接的に批判することは、読者や視聴者から「不謹慎」「煽動的」と見なされやすい風土があります。

  • 特に、警察・検察に対する批判は「治安を脅かす」ものと誤解されやすく、敬遠されがちです。


補足:一部には存在する

たとえば以下のようなコンテンツでは、やや踏み込んだ批判が見られます:

  • 冤罪事件のドキュメンタリー(NHK『冤罪』シリーズなど)

  • 弁護士や学者による評論(例:今村核、指宿信、後藤昭などの冤罪研究者)

  • 雑誌『世界』や『週刊金曜日』などの市民系メディア

しかし、これらは主流報道ではなく、いわば“周縁”にとどまっており、一般大衆への浸透力は限定的です。


結論

「冤罪は真犯人の逃亡を幇助したに等しい」という事実に、道義的・社会的な正当性はあります。しかし、法的責任の不明確さ・メディアの構造・社会の権威主義的傾向が重なり合い、そうした論調が可視化されにくい状況が続いています。

2025,江端さんの忘備録

江端家では、家族のだれかがNetflix(以下、ネトフリ)のコンテンツを見たくなったら、1ヶ月間のみ契約する方式を採っています。
In the Ebata household, whenever someone wants to watch something on Netflix, we adopt a one-month-only subscription method.

この方法は簡単です。ネトフリに契約し、その後、すぐに解約するだけ。これで、1ヶ月間だけネトフリが利用できます。
It's simple: you subscribe to Netflix, then cancel immediately. That way, you can still use it for the rest of the month.

Netflix の解約手順(日本向け)

で、だれが見ていたのか分からないのですが(リビングが無人だったので)、ネトフリで「そろばん大会」に密着したドキュメンタリー番組が流れていました。
I’m not sure who had been watching it (the living room was empty), but a Netflix documentary covering a "soroban (abacus) competition" was playing.

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以前も書きましたが、江端家では「最高の習い事は“そろばん”だった」という見解で、家族全員の意見が一致しています。
As I’ve mentioned before, in the Ebata family, we all agree that the best extracurricular activity was “soroban” (abacus training).

―― 自分の頭の中に電卓を実装する。
—Implementing a calculator inside your brain.

それが本当にできてしまうからです。しかも、キー入力もディスプレイ表示も不要の電卓。
Because you can do it, and it’s a calculator that doesn’t require keys or a display.

これをシステムエンジニア的に言えば、「脳内に電卓のDockerコンテナを搭載する」ようなものです。
From a systems engineer’s perspective, it’s like running a calculator as a Docker container inside your brain.

(今も学校でやっているか分かりませんが)計算ドリルなどは、アニメを見ながら数値を書き写すだけで済み、1冊1時間程度で終わったと思います。
(I’m not sure if they still assign them in schools,) However, calculation drills could be completed by simply copying numbers while watching anime, finishing a whole book in about an hour.

また、スーパーのレジに並ぶ前に、支払い金額の計算も終わらせていました。
Also, before even reaching the register at the supermarket, we’d already mentally calculated the total bill.

極大/極小値などの煩雑な計算時間も、すべて無視できるようになります。
Tedious calculations for maxima and minima, for example, can be ignored entirely.

何度も書いてきましたが、これは「計算作業が不要になる」ということであり、「数学的思考だけが必要となる」という意味で、真の意味での数学の学びが可能になります。
As I’ve said many times, it means the mechanical task of calculation becomes unnecessary, allowing one to focus purely on mathematical thinking—enabling authentic learning in mathematics.

これは、システムエンジニアである私(江端)の公式見解です。
This is my official opinion—as a computer specialist.

私なら、プログラミング教育よりも、まずそろばん塾に子どもを叩き込みますし、実際にそうしてきました。
If it were up to me, I’d send kids to soroban school before teaching them programming—and in fact, I did precisely that.

そして、“完璧に元は取った”と確信しています。
And I’m convinced it paid off perfectly.

まあ、あまり良い例ではないですが、最終学歴の定量的評価(偏差値)において、私たち夫婦は、娘たちに「完敗」しています。
Though perhaps not the best example, in terms of quantitative academic achievement (standardized scores), my wife and I were thoroughly defeated by our daughters.

もちろん、そのすべてが「そろばんのおかげ」だとは言いませんが、少なくとも「計算という苦痛」からは解放させてあげられた、と自負しています。
Of course, I won’t claim Soroban deserves all the credit, but I do take pride in having freed them from the suffering of arithmetic.

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「そろばん大会(珠算競技大会)」のドキュメンタリーに話を戻しますが、正直、「すごいものを見た」と思いました。
Returning to the documentary on the abacus competition, I must say, I was genuinely impressed.

私が見たのは、読上算や見取算の競技で、解答用紙にすべての問題を解き終えた人が、早押しボタンを押す形式でした。
What I saw were competitions in oral arithmetic and mental math, where participants pressed a buzzer after completing their answer sheets.

そろばんが登場していなかったので、暗算競技(特に「かけ算」や「わり算」に特化した部門)だったと思います。
There were no actual abacuses used, so I assume it was the mental arithmetic division, especially focused on multiplication and division.

珠算式暗算とは、「そろばんの珠の動きを頭の中でイメージして行う暗算」です。
Soroban-style mental calculation means imagining the movement of abacus beads in your head to perform arithmetic.

競技開始の合図で、参加者は用紙をめくり、すぐに頭の中で数字を動かし始めます。
At the signal to start, participants flipped over their sheets and immediately began mentally shifting numbers.

指や唇を動かす者もいれば、完全に無表情で脳内だけで珠を動かす者もいます。
Some moved their fingers or lips; others remained completely expressionless, moving beads only in their heads.

問題数が多いため、早く終わらせるには、珠算式暗算のスピードと正確さが必須です。
Due to the large number of problems, speed and precision in soroban-style mental math were crucial for completing tasks quickly.

数十秒後、最初の「カチッ」という音が響くと、選手たちに緊張が走ります。
A few dozen seconds in, the first “click” of a buzzer echoes, and tension ripples through the remaining contestants.

全員が解答を終えると採点が行われ、1位は「最速かつ全問正解」の者に与えられます。
Once everyone finishes, scoring begins. First place goes to the person who finishes fastest with all answers correct.

問題の内容は、4桁×4桁のかけ算や、6桁÷2桁の割り算だったようでした。
The problems appeared to involve tasks such as 4-digit by 4-digit multiplications and 6-digit divided by 2-digit divisions.

とにかく『見ていてドキドキしました』。
In any case, it had me on the edge of my seat.

正直、陸上の選手が、相撲取りが、大リーグの日本人選手が、フィギュアスケーターが、フードファイターが、どんなパフォーマンスをしていても、この「ドキドキ」には及びません。
Honestly, no matter what performances I see—track athletes, sumo wrestlers, Japanese players in the MLB, figure skaters, or competitive eaters—none of them gave me this same kind of excitement.

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なんでかな、と考えてみたのですが、
I thought about why that might be the case...

―― ちょっとだけでも、自分の人生の一部に「かすったことがあるモノ」
—Maybe it's because it’s something that even slightly brushed against my own life at some point.

というのがポイントなのだと思います。
I think that’s the key.

これらの競技に意味があるか?という問いは、すでに愚問です。そしてそのような問いは、むしろ『下品』ですらあると言えるでしょう。
Asking whether these competitions “have meaning” is already a foolish question—and I’d even say such a question is vulgar.

そこに「ドキドキ」があるのであれば、それだけで十分な価値がある。そのような考え方が「正解」であり「上品」だと私は思います。
If there’s “excitement” there, then that alone gives it value. That kind of thinking is, I believe, the correct—and refined—way to see things.

そして、自分が全く理解できない「ドキドキ」であっても、それをちゃんと価値あるものとして認めていくことは、きっと「人間」として、とても大切なことだと思うのです。
Even if you don’t understand someone else’s excitement at all, acknowledging it as something valuable is probably an essential part of being human.

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まあ、自分しか理解できない「ドキドキ」であっても、駅の階段を駆け上がるときとか、健康診断で「要再検査」を見たときの「ドキドキ」は、正直、いらないんですけどね。
That said, even if it's a kind of “excitement” only I understand, the kind you get when running up the stairs at the train station or when seeing “requires re-examination” on a health checkup report—yeah, I could do without those kinds of thrills.

―― 『漢字はググればいい。計算は電卓使う。学校で勉強する必要がない』の仮説は棄却された("失敗した")

 

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✅ Netflix の解約手順(日本向け)

① Netflix公式ウェブサイトでの解約(一般的な方法)

 

  1. Netflix に ウェブブラウザからアクセスして ログイン
     ※スマホアプリやテレビアプリからは解約できませんTom's Guide+11Netflixヘルプセンター+11MovPilot動画ダウンローダー - ストリーミング動画を自由にダウンロード+11

  2. プロフィールアイコンから「アカウント」を選択

  3. メンバーシップのキャンセル」をクリック

  4. キャンセル手続きの完了」を選択し、解約を確定

  5. 登録メールアドレスに「キャンセル完了」の確認メールが届きます

ちょっと油断していると、「キャンセル」をキャンセルされるようにUI(ユーザインターフェース)が設計されているので、注意のこと

2025,江端さんの忘備録

ある店舗を出店する際、マーケティングリサーチ(アンケート調査を含む)を行うのが常道です。
When opening a new store, conducting marketing research—including surveys—is standard practice.

ただ、このアンケート調査には、十分なサンプル数がないと有意性が疑われ続けるという、悩ましい問題があります。―― ぶっちゃけて言えば「金と時間」です。
However, a troubling issue is that unless you have a sufficiently large sample size, the statistical significance will always be questioned—frankly, it comes down to "money and time."

アンケート調査は、金と時間がかかる(本当にびっくりするくらい高い)。
Surveys require both money and time (and they can be shockingly expensive).

そして、その割に内容が信用できない。
And despite the cost, the results often feel unreliable.

なぜ、"私"が"そう"思うのか。
Why do I think that way?

"私"は、真面目にアンケートに答えないからです。
Because I don’t answer surveys honestly.

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(1)アンケート項目の端(「とても良い」「とても悪い」)にはチェックを付けない
(1) I never choose the extreme ends of the scale (like "very good" or "very bad").

(2)対象者の顔を思い浮かべて、真ん中(「普通」)は避け、少し上にチェックを入れる
(2) I picture the person the question refers to and avoid selecting the "neutral" middle, usually going slightly above average.

(3)そもそも質問文を真面目に読まず、単語を2~3拾うだけで済ませる
(3) I don’t even read the whole question seriously—pick up a couple of words and move on.

そして私は、「アンケートの匿名性」も信じていません。匿名を担保する条件が明記されていないアンケートなんて、信用できるわけがない。
And I don’t believe in the so-called "anonymity" of surveys. If the conditions for anonymity aren’t clearly stated, how can anyone trust them?

たとえば「部署単位で統計を取る」と言われれば、「3人しかいない課で匿名性を担保する」も入るわけで、こんなアンケートはもはやコントです。
If I’m told the results will be broken down by department, and my team has only three people, that’s no longer anonymous—it’s a joke.

サンプル数を開示しないアンケートも信用ならないし、実際、「アンケートに答えたあとで社長に呼び出された」という話を、私の人生で最も近い人から直接聞いています。
Surveys that don’t disclose their sample size can’t be trusted either. And I’ve personally heard—from someone very close to me—that the CEO summoned them after responding to a survey.

そんなリスクを負ってまで、アンケートなんぞに答えるものか。金(報酬)も出ないのに。
Why on earth would I take that risk, especially when I don’t even get paid for it?

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それに、アンケートが「リアルタイムで行われない」という点も大きな問題です。
Another significant issue is that surveys are often not conducted in real-time.

私の見解では、「対象(イベント等)から2~3日後のアンケート結果は“ゴミ”」です。
In my opinion, any survey conducted 2–3 days after the event is “garbage.”

2~3日も経てば、参加者の頭はイベントから離れ、「いわゆるセルフプレジャー後の賢者モード」に入っています。そんな状態で出された回答など、当てになる訳がない。
After a few days, participants are emotionally detached—they’ve entered what you might call a "post-self-pleasure enlightenment mode." Responses from that state are useless.

私の見解に異議がある方は、どうぞチャレンジして下さい。ロジックと経験とデータでお迎えします。
If anyone wants to challenge me on this, I'm ready. I’ll welcome you with logic, experience, and data.

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もちろん、アンケート一つ一つは"ゴミ"でも、"ゴミ"が集まれば一定の傾向は読み取れます。
Of course, even if individual survey answers are "garbage," aggregating enough of them can still reveal patterns.

上記(1)~(3)のような傾向を持つ被験者を除外したり、逆に傾向補正したり、処理の工夫もできます。
You can exclude respondents with tendencies like (1)–(3), or apply corrective weighting—there are ways to process the data.

要は、アンケートは「十分な母数」があって、そこからバイアス層を除いても「なお残る母数」がある場合にだけ意味を持ちます。
Ultimately, surveys only have value if the initial sample size is large enough to eliminate biased responses while still leaving a sufficient number.

つまり、話は最初に戻ります――「金と時間」です。
This brings us back to the original point: "money and time."

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私なら、コンビニの出店計画を立てるなら、住民にアンケートなんぞ取らず、近隣の住民や店舗の店主、あるいは似た地域特性を持つコンビニの店主に直接ヒアリングします。
If I were planning to open a convenience store, I wouldn’t bother surveying residents. I’d directly interview local shop owners, nearby residents, or store managers in similar neighborhoods.

彼らは、毎日の人の流れを見つづけています。
They observe the flow of people every single day.

―― 被験者本人より、その本人のことが見えているから
—They know more about the people than the people know about themselves.

です。

バスや鉄道の利用者動向が知りたいなら、利用者にアンケートを取るよりも、バスの運転手や駅員にヒアリングした方がずっと早い。
To understand bus or train ridership trends, forget about the passengers—ask the drivers or station staff. Much faster.

彼らの視点なら、「月曜朝の乗客の顔色」「歩き方の覇気」「金曜夜のテンション」「水曜の疲れ具合」など、マインドまで読み取れる。
From their perspective, you can read people’s moods—like facial expressions on Monday mornings, their energy when walking, the Friday night vibe, or midweek fatigue.

何より「安くて早い」。
Above all, it’s cheap and fast.

つまり、私が言いたいのはこうです。
So here’s what I’m trying to say:

―― 自分のことは、他人の方がよくわかっている
—Other people know more about you than you do yourself.

自己評価と他者評価が割れるとき、信じるべきは「他人」であって、「自分」ではない。
When self-evaluation and others’ evaluation don’t match, trust the others—not yourself.

この当たり前が、意外と世の中では理解されていない気がします。
Many people surprisingly misunderstand this obvious truth.

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アンケートを取るなら「自分」ではなく「他人」を対象にすべきです。その方が信頼性の高いデータになります。
If you must run a survey, target people other than the subject. That way, the data is much more reliable.

たとえば、こんな質問に変えるとよいでしょう。
For example, rephrase the questions like this:

「(自分ではないが)自分の部署には、上司を嫌っている人が(少ない・普通・多い)」
“(Not me, but) there are people in my department who dislike our boss. (Few / Some / Many)”

「(自分ではないが)会社の方針を理解していない人が(少ない・普通・多い)」
“(Not me, but) there are people who don’t understand the company’s direction. (Few / Some / Many)”

このように「他人の観察」に質問をすり替えれば、ずっと本音に近づきます。
If you reframe the questions to focus on observing others, you’ll get answers much closer to the truth.

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つまり――
In short—

「自己開示を求められるアンケートで、本当に自己開示する人間など、基本的にいない」
“No one really opens up on a survey that demands self-disclosure.”

という、この当然の理屈を分かっていないところが、アンケートの最大の問題点なのです。
Failing to grasp this simple fact is the biggest flaw in how surveys are designed.

という訳で、意義のあるアンケートの例としては、「会社を辞める前日に行うアンケート」くらいじゃないかな、と思う訳ですよ。
So in the end, I’d say the only significant survey… is the one you conduct the day before someone quits their job.

『自分の仕える主人(例:首相)の主張に反することは、(どう考えていようが)口にしない』――

 

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江端さんのひとりごと 「神の火」

江端さんのひとりごと「神の火」から、以下一部抜粋

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話はちょっと変わりますが、何年か前、動燃(動力炉核燃料事業団)が、事故の隠蔽を図り、何度も嘘の上塗り繰り返し、その都度、嘘が見つけられ、その度に謝罪会見をしていた、見苦しいことこの上もない愚劣な行為を繰り返していたことがあります。

この時、私は「こりゃ、いいなあ」と思いました。

まず嘘をつく。

嘘が見つかったら謝る。

見つからなければ黙りつづける。

正直に言っても、どっちみち怒られるなら、黙っていて見つからないほうに賭ける。

これは、公に責任を持たない利己的な個人の理論としては、正しいと思いますが、いったん壊れたら最後、周辺地域を死滅させる原子力を管理する公の機関が、まあなんということか、この理論で動いている。

その為に民草たる民衆の命なんぞは後回しにして、自己保身のために動き、 最後まで謝罪を渋り、謝罪した後は、我々の血税から賠償金の支払いをする。

何の邪心も憤りもなく、心から素直に『やっぱり、体制サイドは、おいしい なあ』と、羨ましく思ったものでした。

閑話休題

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2025,江端さんの忘備録

事故(セキュリティ事故を含む)が発生した場合、私たちサラリーマンは基本的に会社への報告が義務づけられております。
When an incident (including a security breach) occurs, we, as corporate employees, are generally obligated to report it to the company.

しかし、そのような報告をすれば、叱責と処分と膨大な手続きが必要となります。しかし、報告せずに発覚すれば、社会人人生を終わらせかねないことにもなります。
However, making such a report often leads to reprimands, disciplinary action, and a mountain of paperwork. Still, if the incident comes to light without a report, it could mean the end of one's professional life.

この場合、ゲーム理論を持ち出すまでもなく、事故を起こした社会人の取る最適戦略は、
Even without invoking game theory, the optimal strategy for a working adult in such a case is:

ーー 報告せずに、発覚しない方に賭ける
— Do not report it, and bet on it never being discovered.

です。
That’s it.

これは、会社にはもちろん、本人にとっても悪手になることは分かっていますが、それでもローカルミニマムな最適化である、という事実は揺らぎませんが ーー サラリーマンとしての私は、この話に、これ以上ツッコんで話をしたくありませんので、この話はここまでとします。
We all know that this is a bad move — for both the company and the individual — and yet, it remains a locally optimized minimum. And as a salaryman, I don’t want to dig into this any further.

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ところが最近、「あ、その手があったか」と思うような事例がありました。
However, recently, I came across a case that made me think, “Ah, that’s one way to handle it.”

このような事故を担当する責任者が、自ら自分のやってきた事故を暴露し、それについての経緯を語ったのです。
The person responsible for the incident voluntarily came forward and revealed their own mistake, recounting the entire story.

これは、結構、私の心にヒットしました。
This hit me quite hard.

「恥ずかしいし、怒られたし、いろいろなところに頭を下げにいったし、膨大な報告書も書かされて、大変な苦労をした」という話を、その本人から「自分ごと」として聞かされたことが、私の「事故報告」のしきい値を随分下げました。
Hearing that person say, “It was embarrassing, I got scolded, I had to apologize all over the place, and I was forced to write endless reports—it was a nightmare,” as a personal story, lowered my threshold for making such reports.

「報告せずに、発覚しない方に賭ける」というローカルミニマムを破るには、この、会社の“公”の業務命令ではなく、本人の“私”の体験の告白が一番効果があると思いました。
To break free from the local minimum of “betting on nondiscovery,” I realized that not an official company directive, but a personal confession from someone who’s been through it, is what works best.

「生きている限り、誰でも事故を起こす。それは仕方がない。私だって、いろいろとやらかしてきた。だから『報告』を必要以上に恐れるな」というメッセージを送ることが大切だと思うんですよね。
“As long as we live, anyone can make mistakes. It’s inevitable. I’ve messed up plenty myself. So don’t be overly afraid of reporting.” — I think that kind of message is essential.

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で、まあ、私が会社で「現在、“うつ”で“不眠症”で、“アルコール依存症”だった」と公言しているのは、『私“だけ”は、“それ”を責めない』という意思表明でもあるんです。
So, the reason I openly say at work that I am currently “depressed,” “insomniac,” and “alcohol-dependent” is to declare: ‘I, at least, will not blame you for that.’

実際に会社で、何人かが“うつ”について愚痴(本当にやっかいな病気)を語ってきました。そりゃ、“うつ”の愚痴を言うなら“うつ”に悩んでいる人が、一番安心でしょう。
Several people at the company have come to talk to me about their struggles with depression (which is a troublesome illness). Of course, if you're going to complain about depression, the safest person to talk to is someone who's been through it.

私、この手の話が多くの人にもっと気楽にできるように、自分の病気や事件や事故について、会社や大学の公的な場で、いろいろぶちまけてきました。苦しいことを誰かに言える環境は、きっと良い環境だと思うのです。
Wanting to make this kind of conversation easier for others, I’ve openly shared my illnesses, incidents, and mishaps in formal settings at work and university. I genuinely believe that an environment where you can talk about your pain is a good environment.

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ですが、私が「“うつ”で“不眠症”で“アルコール依存症”」という話題の後に、「実は自分も……」と話が続きません。
And yet, after I bring up my “depression,” “insomnia,” and “alcohol dependency,” no one ever follows up with, “Actually, me too…”

なぜでしょうか?
Why is that?

ちょっと考えてみたのですが、
I gave it some thought.

ーー 私(江端)が“うつ”で“不眠症”で“アルコール依存症”であることは、別段、特別なことではない
— Maybe the fact that I (Ebata) am depressed, insomniac, and alcohol-dependent just doesn’t strike anyone as particularly surprising.

と思われているんじゃないか、と気づきました。
That’s the impression I’ve come to suspect people have.

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私が何をやらかそうとも、それは私の事件として閉じてしまうのであれば、私のやってきたことは何だったのか?
If whatever I say or do is seen as just another “Ebata thing,” then what has everything I’ve done amounted to?

『自分のプライバシーの切り売り』という言葉が浮かび上がって、今、あわてて消している最中です。
The phrase “selling off my privacy” popped into my head—and I’m now frantically trying to erase it.

『江端さんのひとりごと「神の火」』から、以下一部抜粋

 

2025,江端さんの忘備録

先日、テレビで何かのトーク番組を見ていました。
The other day, I was watching a television talk show.

「仲間とともに“美味しい”と評判の牛タンの店に入り、皆で『美味しいね』と言い合いながら和気藹々と食事を楽しんでいたところへ、『◯◯さん、俺、これよりもっと美味い牛タンの店、知ってますよ』などと言い出した奴がいて、せっかくの食事が台無しになった」という話を耳にしました。
I heard a story about someone who, while dining happily with friends at a well-reviewed beef tongue restaurant, ruined the mood by saying, "Hey, I know a place that serves even better beef tongue."

うん、こういう奴、私も一人、知っています。
Yeah, I know someone exactly like that.

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親戚の若い娘が、世間的にも取得が難しいとされている国家資格を取ったと聞き、私は「本当にすごい」と素直に思い、かなりの額をお祝いとして渡しました。
When I heard that a young relative of mine had passed a nationally recognized qualification exam, one that's notoriously difficult, I was genuinely impressed and gave her a considerable amount of money as a congratulatory gift.

親戚の集まりで、私が『よくがんばったよな』と彼女を褒めていたら、
At a family gathering, while I was praising her, saying, "You really worked hard, didn’t you?"

『その資格取得者、私の職場に何人もいますけど?』
Someone chimed in: "We have tons of people with that qualification at my office."

といった奴がいました。
Yes, that kind of person.

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そいつとは、それ以降、一度も顔を合わせていません。会いたいとも思いません。
I haven't seen that person since. Nor do I have any desire to.

後に、職場でうまくいかず、心の病を患ったという話を風の便りに聞きましたが――私の中には、何の感情も湧きませんでした。
Later, I heard through the grapevine that things didn’t go well at work, and they had developed a mental illness, but I felt absolutely nothing.

まあ、奴のことはどうでもいいんです。どうせ、二度と会うこともないでしょうから。
Well, I don’t really care about them anymore. I’m never going to see them again anyway.

これらの出来事を通じて、私は「自分もまた、誰かの気持ちを台無しにするような言動をしていないか」と、自己チェックをしなければならないと思いました。
Through these experiences, I realized I need to take a step back and check myself. Have I said things that ruin someone else’s feelings?

私が“うつ”と“不眠”を患っているのは、ひょっとすると、自分の中にも、同じような因子があるからかもしれない――そう思うと、少し背筋が冷えます。
The fact that I suffer from depression and insomnia maybe that’s because I carry the same kind of traits within me. That thought sends a chill down my spine.

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私が、こういう奴の多くを1秒で切り捨ててきたように、たぶん私も、多くの人から、1秒で切り捨てられてきたのでしょう。
Just as I’ve dismissed people like that in a single second, I’ve probably been dismissed by many others in just the same way.

「1秒で切り捨てられて当然のことをした」のであれば、1秒で切り捨てられるのは、ある意味当然です。
If I did something that warranted being cut off in a second, then perhaps I deserved exactly that.

しかし、それより深刻なのは、「1秒で切り捨てられて当然のことをした」ことに気づかないまま、人生を転げ落ちていくことです。
But what’s even more serious is rolling downhill in life without ever realizing you’ve done something that deserved such a swift rejection.

そして、そういう人間に対する、もっとも簡単で、もっとも確実な報復は――
And for people like that, the simplest and most certain form of revenge is?

「何もしないこと」です。
Doing nothing.

そのまま放置して、そいつが静かに破滅していくのを、ただ黙って見ていればいいのです。
Just leave them be, and quietly watch as they ruin themselves.

私の人生の中に、何人かそういう人間がいました。私は彼等を放置しました。そして破滅していくのを見ていました。―― 静かに、無感動に。
There have been a few such people in my life. I left them alone. I watched them fall apart -- quietly, without emotion.

まあ、私も「破滅している側」の一人かもしれませんが。
Well, I might be one of the ones falling apart, too.