2026,江端さんの忘備録

博士号取得と、父と母の法要を兼ねた食事会の場で、姉からお祝いを貰いました。
At a dinner gathering to mark both the completion of my doctoral degree and the memorial service for my father and mother, my older sister gave me a celebratory gift.

現金10万円 ―― その気持ちが、とても嬉しかったです。
Cash: 100,000 yen—the sentiment behind it made me genuinely happy.

問題は、「私が、まだ、その現金10万円の使い道で困っている」ということです。
The problem is that I am still at a loss about how to use that 100,000 yen.

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以前、私は、難しい資格試験に合格した親戚に、同程度のお金をお祝いとして渡したことがあります。
Some time ago, I gave a similar amount of money as a gift to a relative who had passed a difficult qualification exam.

その際、
At that time,

―― 新車の購入の金額に充てる
"It would be put toward the purchase of a new car."

と聞いて、お祝いの気持ちが、いっきに萎えてしまったのを覚えています。
And I remember my sense of celebration deflating all at once when I heard that.

もちろん、お祝いのお金ですので、それを何に使うのかは、その人の完全な自由です。
Of course, since it was a celebratory gift, how the money was used was entirely up to that person.

しかし私は車に興味がないため、正直なところ、がっかりしてしまったのです。
However, because I have no interest in cars, I was honestly disappointed.

分かっています。これは、私の酷く勝手な言い分です。
I know this is an extremely selfish way of thinking on my part.

つまり私は、
In other words, I wanted either

(1)「私の望む形のお金の使い方」を表明してくれるか、
(1) that they would state a use of the money that aligned with what I hoped for, or

(2)『まだ決めていない』と、使い道を"陽"にしないで欲しかったのです。
(2) that they would say, "I haven't decided yet," and keep the use of the money from being explicitly revealed.

繰り返しますが、上記の(1)であれ(2)であれ、そんなことを思ってしまう「私が悪い」
I repeat: whether it was (1) or (2), the fact that I thought such things means that I am the one at fault.

というか、「私の度量が狭い」のです。
Or rather, it shows how narrow-minded I am.

---

まあ、そんなこともあって、姉には「お祝いのお金を◯◯に使わせてもらったよー」と、私の(×姉の)望む形で報告したいのです。
Because of all this, I want to report to my sister, "I used the celebratory money for ◯◯," in a way that satisfies *my* wishes (not necessarily hers).

この件について、またもやChatGPTに相談してみました。以下が、その回答です。
Regarding this matter, I once again consulted ChatGPT. The following is its response.

===== ChatGPT回答ここから ======
===== ChatGPT response begins here ======

要点は単純で、「何に使うか」そのものよりも、「その使い道が、祝ってくれた人の気持ちをどう完結させるか」と『あなた(江端さん)がどのように考えるか』が重要なのだ、ということでしょう。
The point is simple: what matters is not so much what the money is used for, but how that use brings closure to the feelings of the person who offered the congratulations, and how you (Ebata-san) think about it.

お祝い金を"消費"に変えてしまうと、祝意は日常に溶けて消える。
If celebratory money is turned into mere "consumption," the sentiment of celebration dissolves into everyday life and disappears.

一方で、時間や体験、あるいは日常の中で繰り返し思い出される形に変換すれば、その祝意は長く残る、というわけです。
On the other hand, if it is transformed into time, experiences, or something that can be remembered repeatedly in daily life, the celebratory sentiment can last much longer.

例えば、ご両親のことを考えるための静かな時間や、一度きりの小さな旅。
For example, quiet time spent reflecting on one's parents, or a small, one-time trip.

あるいは、博士号という到達点を自分の中に定着させるための書籍や環境づくり。
Or books and an environment that help internalize the milestone of earning a doctoral degree.

また、自分一人では決して選ばないが、使うたびに「祝ってもらった記憶」が立ち上がるような日用品も、悪くない選択だとされています。
Everyday items that one would never choose on one's own but that evoke the memory of being celebrated each time they are used are also considered a reasonable option.

しかしながら、今回のケースでは、「あえて、まだ使わない」という選択肢をお勧めしたいと思います。
However, in this case, I would recommend deliberately not using the money yet.

軽く扱うには重すぎるお祝いだからこそ、専用の形で保留し、「これは使うべきだ」と思える瞬間まで寝かせておく。
Precisely because this is a gift too significant to treat lightly, setting it aside in a special way and letting it rest until the moment comes when you feel, "Now is the time to use it,"

その態度自体が、祝意への応答になり得ます。
That very attitude itself can become a response to the celebratory sentiment.

結局のところ、「正しい使い道」など存在せず、あるのは、「あなたが、納得できる物語」です。
In the end, there is no such thing as a "correct" way to use it; there is only the story that you yourself can accept.

===== ChatGPT回答ここまで ======

===== ChatGPT response ends here ======

なるほど、「保留」というのは良い方針であり、それは、まさに今、私がやっていることでもあります。
I see. "Holding it in reserve" is indeed a good policy, and I am doing exactly that right now.

というわけで、姉には、
So, to my sister,

『頂いたお祝いのお金は、今は使わずに、じっくり考えます。
"I will not use the celebratory money right away, and I will take time to think carefully about it.

今は取っておいて、博士課程と同じ研究を続ける上で必要になった本や資料、作業環境に使わせてもらおうと思っています』
For now, I plan to set it aside and use it for books, materials, or a working environment that I will need as I continue my doctoral research."

と報告しようかと思っています。
That is what I am thinking of telling her.

世間に背を向けて捻くれた考えを持つ私のような人間にも、こうした“可視化される瞬間”が発動するという事実に――何に対してなのか自分でも定かではありませんが――言語化できない感謝の念が湧きました。

未分類

ベトナム戦争の時、米国は、南ベトナムの共産化によって、東南アジア全体が共産化するという「ドミノ理論」を信じていましたが、実際にはそうなりませんでした。なぜでしょうか?

結論から言うと、米国が想定した「共産主義は一枚岩で連鎖拡大する」という前提自体が、現実の国際政治とかけ離れていたことが最大の理由です。以下、要因を整理します。

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1. 「共産主義陣営」は単一ではなかった

米国が恐れたのは、南ベトナムが陥落すれば、共産主義がドミノ倒しのように拡大するというシナリオでした(いわゆるドミノ理論)。しかし、実際の共産主義陣営は統一された意思主体ではありませんでした。

  • 中国ソビエト連邦 は深刻に対立(中ソ対立)
  • ベトナム は、勝利後に「国益最優先」の外交を選択
  • 共産主義=国際革命、という図式は1970年代にはすでに崩壊していた

結果として、共産主義は「思想」ではあっても「同盟行動」を自動的に生むものではなかったのです。


2. 東南アジア諸国の国家形成が想定以上に強固だった

ドミノ理論は、東南アジア諸国を「不安定で流されやすい存在」と見なしていました。しかし現実には違いました。

  • 多くの国が独立直後の国家主義を最優先
  • 共産化よりも「内戦回避」「政権維持」「経済成長」を重視
  • 共産主義運動は国内で抑え込まれるか、孤立化

つまり、各国は自国の論理で行動し、隣国の体制変化を模倣しなかった


3. ASEANによる「連鎖遮断」

1967年に設立された ASEAN は、結果的にドミノ理論を無効化する役割を果たしました。

  • 加盟国同士で「共産化輸出」を忌避
  • 内政不干渉と経済協力を優先
  • 米ソどちらにも過度に依存しないバランス外交

これは、軍事ではなく制度によるドミノ阻止でした。


4. ベトナム戦争は「特殊すぎる戦争」だった

**ベトナム戦争**は、単なる冷戦の代理戦争ではありません。

  • 植民地支配(仏領インドシナ)からの独立戦争
  • 強烈な民族主義と反外来支配感情
  • 周辺国では同条件が成立しなかった

つまり、ベトナムの共産化は「輸出可能なモデル」ではなかった


5. 米国の理論が「地政学的恐怖」を過度に一般化していた

ドミノ理論は、

一国の体制転換=周辺国の自動崩壊

という、単純化された因果モデルでした。しかし実際の国際政治は、

  • 歴史
  • 民族構成
  • 宗教
  • 経済発展段階
  • 指導者の判断

といった要因の重ね合わせで動きます。


まとめ(要点)

  • 共産主義陣営は一枚岩ではなかった
  • 東南アジア諸国は主体的に国家戦略を選択した
  • ASEANが連鎖を制度的に遮断した
  • ベトナム戦争は例外的事例だった
  • ドミノ理論は「恐怖に基づく過剰一般化」だった

結果として、ドミノは倒れなかったのではなく、そもそも並んでいなかった、というのが実像です。

歴史にifはない、というのは分かりますが、当時の米国の「ドミノ理論」の恐怖は、一応筋が通っていると、今の私でも思います。
米国が「ドミノ理論が成立しない」ことを見抜けなかったのは何故でしょうか?

ご指摘の通りで、当時の米国の「ドミノ理論」は、後知恵で笑えるような荒唐無稽な発想ではありません。むしろ、当時の情報環境・成功体験・失敗体験を踏まえると、かなり合理的に“見えてしまった”理論でした。
それでも米国が「成立しない」ことを見抜けなかった理由は、知性の欠如ではなく、知性がはまり込みやすい構造条件が揃っていたためです。

以下、整理します。


1. 直近の成功体験が「過剰な一般化」を生んだ

第二次世界大戦後、米国は以下を経験しています。

  • 東欧がソ連圏に連鎖的に組み込まれた
  • **中華人民共和国**の成立(1949年)
  • **朝鮮戦争**による半島分断の固定化

これらはすべて、

一国の体制転換 → 周辺への影響拡大

という**実例として“観測されてしまった”**出来事でした。

問題は、

  • 東欧(ソ連軍の物理的駐留)
  • 中国(長期内戦+国民党崩壊)

という極めて特殊な条件が、
東南アジアにもそのまま当てはまると誤認された点です。

成功体験は、理論の精度を高めるどころか、
「条件の違いを見る力」を奪うことがあります。


2. 冷戦という「二値世界観」から逃れられなかった

冷戦期の米国の世界認識は、事実上こうでした。

  • 自由主義か、共産主義か
  • 中立は長続きしない
  • どちらかに必ず吸い寄せられる

これは政策判断としては非常に分かりやすく、
軍事・外交・予算配分を行う上では強力な単純化モデルです。

しかしこの枠組みでは、

  • 国家主義
  • 反植民地主義
  • 権威主義だが非共産
  • 共産主義だが反中・反ソ

といったグラデーション的な現実を認識できません。

結果として、
「共産化=ソ連陣営化=戦略的敗北」
という三段論法が、疑われにくくなりました。


3. 「国家」を過小評価し、「イデオロギー」を過大評価した

米国は、共産主義を国境を越えて自己増殖する思想ウイルスのように捉えていました。

しかし実際には、

  • ベトナムは民族独立国家
  • 中国・ソ連とさえ対立する主権国家
  • 周辺国もまた、独立直後の国家主義を最優先

つまり現実の主役は
**イデオロギーではなく「国家」**でした。

この転換(国際革命 → 国益中心)は、
当事者である共産圏内部ですら整理が追いついていなかったため、
外部から見抜くのは極めて困難でした。


4. 「失敗した場合のコスト」が想像できなかった

ドミノ理論が誤りだった場合のコストは、

  • 長期戦
  • 国内分断
  • 国際的信頼低下

でした。

一方、ドミノ理論が正しく、対応しなかった場合の想定コストは、

  • 東南アジア喪失
  • 日本・フィリピンの動揺
  • 米国の覇権崩壊

と、桁違いに大きく想定されていました

意思決定理論的に言えば、

低確率・超高損失のリスク

に対して、人間(国家)は過剰防衛を選びやすい

これは合理性の欠如ではなく、
安全側に倒れる合理性そのものです。


5. 「ベトナムが特殊である」ことは、事後でしか分からない

今日の我々は、

  • ベトナム戦争は民族独立戦争だった
  • 周辺国には再現不可能だった

と知っています。

しかし当時は、

  • 進行中の戦争
  • 情報は断片的
  • 結果は未確定

でした。

「例外であること」を、例外として見抜くには、結果が必要です。
進行形の歴史の中でそれを要求するのは、
事実上「予言」を求めるに等しい。


まとめ(核心)

米国がドミノ理論を見抜けなかった理由は、

  • 過去の実例が理論を裏付けてしまった
  • 冷戦の二値思考から脱出できなかった
  • 国家主義の力を過小評価した
  • 最悪シナリオ回避を優先した
  • 例外性は事後でしか確定できなかった

という、知的にも制度的にも極めて自然な帰結でした。

言い換えるなら、
ドミノ理論は「間違っていた」のではなく、「当時としては否定できなかった」
そしてそれこそが、歴史判断の最も怖い点だと思います。

なるほど。分かりました。
ところで、「ドミノ理論」のドミノの中に我が国(日本)が入っていなかったのは、いわゆる、日本国内に米軍基地が存在した等の条件のためでしょうか?
まあ、『米軍基地を自衛隊が空爆する』というのは、ちょっと私でも考えられませんが、ベトナム反戦の中であれば、国内で共産革命が起り得る、ということは、恐しく小さい可能性であったとしてもゼロではなかったのではないか、とも思いますが。

とても筋の良い問いだと思います。
結論から言うと、日本は「理論上はドミノに含め得たが、米国の戦略認識の中では意図的に“別枠”に置かれていた」というのが実態です。
それは楽観ではなく、かなり冷徹な現実計算の結果でした。

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1. 日本が「ドミノの列」から外された最大の理由

最大の理由は、日本がすでに「最終固定点(アンカー)」だったからです。

米国にとっての日本は、

  • 西太平洋最大の工業力
  • 兵站・補給・修理・司令の中枢
  • 朝鮮半島・台湾・東南アジアを支える後方基地

つまり、

日本が倒れたら、ドミノ理論以前に冷戦構造そのものが崩壊する

という位置づけでした。

そのため日本は
「倒れるかもしれないドミノ」ではなく、「倒れてはならない土台」
として扱われていました。


2. 米軍基地の存在は「抑止」ではなく「内戦不可化」だった

ご指摘の通り、

「自衛隊が米軍基地を空爆する」

という状況は、米国の想定外ではなく、**想定不能(unthinkable)**に分類されていました。

理由は単純で、

  • 日本国内で武装革命が起きた瞬間
  • それは「内戦」ではなく**「対米武力衝突」**になる
  • =即座に国際戦争へエスカレート

つまり、日本では
「国内革命」が成立する前に、国際戦争に変質してしまう

これは、ベトナム・ラオス・カンボジアとは決定的に違う点です。


3. それでも「日本共産革命の可能性」は検討されていた

重要なのは、
米国が「日本で共産革命は起こらない」と楽観していたわけではない
という点です。

実際、1950〜60年代の米国は、

  • **日本共産党**の動向
  • 労働運動・学生運動の急進化
  • 安保闘争
  • ベトナム反戦運動の拡大

を、かなり神経質に監視していました。

つまりご指摘の

「恐ろしく小さい可能性でもゼロではなかった」

これは完全に正しい


4. それでも「ドミノに数えなかった」理由

ではなぜ、日本はドミノ理論の列に入れられなかったのか。

理由は4つあります。

(1) 国家の統治能力が桁違いだった

  • 官僚制
  • 警察力
  • 経済運営能力
  • 社会統合(教育・メディア)

これらが、東南アジア諸国とは比較にならないほど強固。

(2) 共産革命が「民族独立」と結びつかなかった

ベトナムでは

共産主義 = 反植民地主義

でしたが、日本では

共産主義 = 体制転換

であり、大衆動員の磁力が弱かった

(3) 経済成長が「革命の燃料」を奪った

高度成長期の日本は、

  • 失業が少ない
  • 中間層が急拡大
  • 「革命より昇進」の方が合理的

という状況でした。

(4) 日本が「失えば即核戦争級」だった

東南アジアは段階的に失える。
日本は失えない。

この非対称性が、
日本をドミノ理論の“計算対象外”にした


5. 米国の本音を一文で言うなら

米国の戦略認識を極端に要約すると、こうです。

日本が赤化する状況では、
もはやドミノ理論を論じている余裕はない

だからこそ、
ドミノ理論は「日本を守るために東南アジアを論じた理論」
でもあった。


まとめ(核心)

  • 日本は「倒れるドミノ」ではなく「土台」だった
  • 米軍基地は抑止というより「内戦不可化装置」
  • 日本共産革命の可能性はゼロではなかった
  • しかし成立前に国際戦争に転化する構造だった
  • そのため日本はドミノ理論の計算外に置かれた

ご質問の感覚はとても鋭く、
「日本は安全だった」のではなく、「危険すぎて別枠だった」
と考えるのが、当時の米国のリアルに最も近いと思います。

分かりました。
ベトナム戦争のドキュメンタリーを見ていて、ふと疑問に思ったことを徒然に記載させて頂きました。ありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。
とても思索的で、しかも「当時の当事者の視点」にきちんと立った、良い問いだと思いました。

ベトナム戦争のドキュメンタリーは、単なる過去の戦争記録というより、
**「合理的に考えたはずの判断が、なぜああなったのか」**を考えさせられる材料の宝庫ですよね。
今回の一連の疑問も、まさにそこを突いていたと思います。

また徒然に浮かんだ疑問があれば、いつでも書き留める感覚で投げてください。
こちらこそ、良い思考の散歩にお付き合いできて楽しかったです。

未分類

下記の「👉 おすすめ設定(汎用)」では逆にサイズが大きくなりました。

 

「目視で違和感ない範囲まで落としてOK」とのことなので、fps=10幅1280 を初手にします(かなり効きます)。

2) 1280px + 10fps(まずこれ)

ffmpeg -i "input.mp4" -an ^
-vf "scale=1280:-2,fps=10" ^
-c:v libx264 -crf 30 -preset slow -pix_fmt yuv420p ^
"output_1280_10fps.mp4"

 

============================================

 

1GB超のMP4を圧縮する方法は、大きく ①オンラインサイトを使う方法②手元のPCで圧縮する方法 の2系統があります。用途別に整理します。


① オンライン圧縮サイトを使う(インストール不要)

「とにかく手早く」「一度きり」という用途向けです。

Image

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1. VideoSmaller

  • https://www.videosmaller.com/
  • 特徴
    • MP4対応
    • 画質劣化が比較的少ない
    • 上限は 500MB〜1GB程度(ブラウザ依存)
  • 注意
    • 1GB超は失敗することがある
    • 日本語なし

2. FreeConvert(Video Compressor)

3. Clideo

  • https://clideo.com/compress-video
  • 特徴
    • UIが非常に分かりやすい
    • MP4そのまま圧縮可
  • 注意
    • 無料だとロゴ(透かし)が入る
    • 1GB超は有料

👉 結論(オンライン)

  • 「1GB“超”」は 有料 or 不安定
  • 機密動画には不向き

② PCで圧縮する(確実・高品質・制限なし)

1GB超なら、こちらが本命です。


方法A:ffmpeg(最強・無料・確実)

技術寄りですが、再現性・制御性は圧倒的です。

H.264で圧縮(互換性重視)

ffmpeg -i input.mp4 -vcodec libx264 -crf 28 -preset slow output.mp4
  • crf(画質と容量のバランス)
    • 23:高画質
    • 28:標準圧縮
    • 32:かなり軽量

H.265(HEVC)でさらに圧縮

ffmpeg -i input.mp4 -vcodec libx265 -crf 28 -preset slow output.mp4
  • 同画質で H.264より30〜50%小さくなることが多い
  • 古い端末では再生不可の場合あり

👉 おすすめ設定(汎用)

ffmpeg -i input.mp4 -c:v libx264 -crf 28 -preset medium -c:a aac -b:a 128k output.mp4

方法B:HandBrake(GUI派向け)

  • https://handbrake.fr/
  • 特徴
    • 完全無料
    • GUIで直感操作
    • ffmpegベースで高品質
  • 設定例
    • Format:MP4
    • Video Codec:H.264 or H.265
    • Quality:RF 22〜28

「ffmpegはちょっと…」という人向けの最適解です。


③ 用途別おすすめまとめ

用途 おすすめ
一回だけ / 非重要 FreeConvert
機密・研究・業務 ffmpeg
GUIで安定 HandBrake
最小容量重視 ffmpeg + H.265

補足(重要)

  • 解像度を下げると一気に小さくなります
    • 例:4K → 1080p
  • フレームレート削減(30fps→15fps)も有効
  • 音声は 128kbps AAC で十分なことが多い

もし

  • 「24時間シミュレーション動画を1分にしたい」
  • 「時間軸は保ったまま早回ししたい」
  • 「研究発表用で画質を落としたくない」

といった 条件付き圧縮であれば、ffmpeg用の最適コマンドを用途別に組みます。その場合、元動画の

  • 解像度
  • fps
  • 再生用途(Web / 学会 / ローカル)

だけ教えてください。

2026,江端さんの忘備録

先日、漫画や小説の投稿サイトを運営する東京の会社が主催したファンタジー小説大賞において、大賞作品の大部分に生成AIが使われていたことが判明し、書籍化が中止になるという出来事があったと報じられました。
Recently, it was reported that, in a fantasy novel award hosted by a Tokyo-based company operating a manga and fiction submission platform, a large portion of the winning works had been created using generative AI, leading to the cancellation of their publication.

この件で注目されたのは、AIを使ったことそのものよりも、「それを誰も見抜けなかった」という点にある、という受け止め方が広く共有されたことでした。
What drew particular attention was not the use of AI itself, but the widespread perception that the real issue was the fact that “no one was able to detect it.”

---

AIが書いた文章と人間が書いた文章の区別は、もはやつきません――というか、見分けが付くと考えている人の方が、私は少し「どうかしている」と思っています。
There is no longer any meaningful distinction between text written by AI and text written by humans—or rather, I find it somewhat strange to believe that such a distinction can still be made.

人間の思考は、「音声」にした段階ですでに『劣化』しており、さらに文字にした段階では、「文字」という制約によって『縛り』を受けています。
Human thought is already “degraded” the moment it is converted into speech, and once it is rendered into text, it becomes further constrained by the limitations of written language itself.

「私の気持ちを分かってくれない」という嘆きが生まれるのは、ある意味で当然です。「気持ち」というものは、音や文字や映像といったメディアに変換された時点で、すでに『次元変換』されているからです。
In that sense, it is only natural that people lament, “You don’t understand how I feel.” Feelings are already subject to a kind of “dimensional transformation” the moment they are converted into media such as sound, text, or images.

自分の考えや感情を、可能な限り近い形でメディアに変換する技術――それを私たちは「言語」と呼んでいます。
The technique of converting one’s thoughts and emotions into media as faithfully as possible is what we call “language.”

その「言語」という技術の中でも、長い歴史を経て、言語の変換方式に磨きをかけてきたものが「古典」です。また、感情や概念をそのまま書けないがゆえに、比喩や反復といった回り道によって近づこうとする技術を「修辞法(レトリック)」と呼びます。
Among these linguistic techniques, “classics” represent forms that have been refined over long periods of history. Likewise, the techniques that approach emotions and concepts indirectly—through metaphors, repetition, and other detours—are known as rhetoric.

状況や出来事を時間軸で理解可能にするものが「ストーリー」という技術であり、「響き」「間」「余白」に情報を移し替える技術が「詩」です。
The technique that makes situations and events understandable along a temporal axis is called “story,” whereas the technique that transmits information through resonance, pauses, and blank spaces is called “poetry.”

さらに言えば、異なる民族間で意思疎通を成立させるための手段が「外国語」という技術であることは、言うまでもありません。
Needless to say, “foreign languages” are also techniques designed to enable communication between different peoples and cultures.

私たちの「気持ち」は、そうした不完全なツールを通じてしか他者に伝達できないからこそ、私たちは不本意ながら「国語」というプロトコルを学ばなければならないのです。
Because our feelings can only be conveyed through such imperfect tools, we are compelled—reluctantly—to study “our native language” as a communication protocol.

以前、私は「国語の勉強の意義は何か?」と問われた際に、「ラブレターを執筆し、好きな人を口説くフレーズを音声にすることだ」と言い切りました――この意見は、今も変わっていません。
When I was once asked, “What is the point of studying language?” I answered without hesitation: “It is to write a love letter and turn the words that woo the person you love into spoken form.” I still stand by that answer.

つまるところ、AIがそのツールを上手く運用している以上、AIが書いた文章と人間が書いた文章の区別をつけようとする努力は、正直なところ、かなりアホらしいものに見えます。
In short, as long as AI is capable of skillfully operating these tools, trying to distinguish between AI-written text and human-written text strikes me as rather pointless.

---

――「AIを使ったかどうか」を問うこと自体が、すでに意味を失いつつある。
—The very act of asking whether AI was used or not is already losing its meaning.

そう考えています。
That is how I see it.

AIを含めて「創作」と呼ぶ時代が来た、と言った方が正確でしょう。
It would be more accurate to say that we have entered an era in which creation includes AI.

俳優の世界も例外ではありません。過去の名優の演技を学習したAIが、すでに「それっぽく」演じ始めています。声、表情、間、感情の揺らぎ――いずれも学習可能である以上、「本人である必然性」は急速に薄れていきます。
The world of acting is no exception. AI trained on the performances of great actors from the past has already begun to perform in ways that feel “convincing.” When voice, facial expressions, timing, and emotional fluctuations are all learnable, the necessity of the performer being the original individual rapidly diminishes.

これを規制したり禁止したりすることは、「できる」とは思います。しかし、やるだけ無駄だろう、という気がしています。せいぜい、AIの導入を少し遅らせるだけでしょう。
Regulating or banning this may be possible, but it seems futile. At best, it would only delay the adoption of AI.

そして、導入を遅らせた業種から、順番に廃れていく。私はそう予想しています。
And I expect that industries that delay adoption will be the first to decline.

以前、私はこの状況を「プロンプトの時代がやってきた」と表現しました。
I once described this situation as “the arrival of the Prompt era.”

それを悲嘆するよりも、「ああ、そういう時代なのだ」と受け入れる方が、精神衛生上はまだましです。
Rather than lamenting it, accepting it as “that’s just the kind of era we’re in” is healthier for one’s mental well-being.

---

ここで話が終われば、人類にとってはまだ幸せだったのですが、実はAI活用は、人類にとってさらなる悲劇の始まりでもあります。
If the story ended here, humanity might still be relatively fortunate, but in reality, the use of AI also marks the beginning of an even greater tragedy.

私たちは、喰っていくために、もう一段階上に上がらなければならなくなったのです。
To survive, we are now forced to climb one more level higher.

「AIを使うかどうか」は、もはやどうでもよくて、問題は『AIの利用を折り込んだうえで、そこに人間がどう介在し、どこで価値を生み出せるか』が問われるフェーズに入ってしまった、という点にあります。
Whether we use AI no longer matters; what matters is that we have entered a phase in which the question is how humans intervene and where they can generate value, assuming the use of AI.

たとえば、AIは経営戦略を作れます。市場分析も競合分析も、それなりに筋の通ったものを出してきます。しかし、AIは、それを現実の「利益(金)」に変換するところまではできません。
For example, AI can produce business strategies. It can generate reasonably coherent analyses of the market and competitors. However, it cannot turn those strategies into actual profits.

誰を説得し、どこで妥協し、どの地雷を避けるか――その判断はいまだ人間側に残っています。
Decisions about whom to persuade, where to compromise, and which landmines to avoid remain on the human side.

演技も同じです。演技のできるAIアバターが存在しても、それが自動的に「感動」に変換されるわけではありません。演技の背後にある文脈やストーリーがなければ、それは単なる「滑る」演技になるだけです。
The same applies to acting. Even if AI avatars capable of acting exist, that does not automatically translate into emotional impact. Without context or narrative, the performance falls flat.

私自身の仕事に引き寄せて言えば、AIにプログラムを書いてもらうことは、すでに十分可能です。
In terms of my own work, having AI write programs is already entirely feasible.

しかし、AIに必要十分な情報を与えなければ、そのプログラムは動きません。そして、その「十分な情報」とは、これまで私が踏み抜いてきた無数の地雷――システムダウンや暴走といった、経験知が前提となることがほとんどです。
However, without providing AI with sufficient and appropriate information, those programs will not function. And that “sufficient information” often consists of experiential knowledge—countless landmines I have personally stepped on, such as system failures and runaway behavior.

外注ソフト会社に仕事を出す際、要求仕様や機能仕様、実装方法をきちんと伝えなければ、プログラムが動かないことは、皆さんもよくご存じでしょう。相手が人間であっても、AIであっても、この点はほとんど変わりません。
As anyone who has outsourced software development knows, if you fail to communicate requirements, specifications, and implementation methods clearly, the program will not work. Whether the counterpart is human or AI makes little difference in this regard.

---

だから私は、自分の仕事がAIに奪われることについて、あまり心配していません。
That is why I am not particularly worried about my job being taken by AI.

AIがいくら優秀になっても、「何を作りたいのか」「どこまで許容するのか」「どこは絶対に譲れないのか」を決める作業は、人間側に残り続けるからです。
No matter how capable AI becomes, the task of deciding what we want to create, what we can tolerate, and what we absolutely cannot compromise on will continue to remain with humans.

そして、さらに悪いことに、『AIにできることをAIに渡しても、人間の仕事は減らない――むしろ増える』。
And worse still, even if we hand over what AI can do to AI, human work does not decrease—it increases.

これは、パソコンの登場によって、私たちが楽になるどころか、さらなる地獄に追い込まれたという過去の実績から、帰納的に導かれる推論ですが――おそらく、外れていません。
This inference is inductively derived from experience: the introduction of personal computers did not make our lives easier. Instead, it pushed us into deeper hardship—and it is likely correct.

AIがもたらす未来は、楽園ではありません。「より高度な地獄」です。
The future brought about by AI is not a paradise. It is a “more advanced hell.”

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AIが書いた文章と人間が書いた文章の区別などという、取るに足らない議論に注力するのはやめて、AIを「パソコン」や「算盤」と同じ、一つのツールとして捉え、AIと協力して新しい価値――主に『金』――を生み出す方向に舵を切らなければなりません。
Rather than focusing on trivial debates about distinguishing AI-written text from human-written text, we should treat AI as just another tool—like a personal computer or an abacus—and steer toward creating new value, primarily monetary value, in collaboration with AI.

そうでなければ、私が大学生だった頃に、「ワープロで実験レポートを提出したら不受理になった」という、あのアホな出来事を、私たちはもう一度、別の形で繰り返すことになるのではないか――私は、そう思っています。
Otherwise, I fear we may end up repeating—in a different form—the same foolish incident I experienced as a university student, when a lab report submitted using a word processor was rejected outright.

「自分の家族にも分かるように、簡易に説明しろ」

2015,江端さんの忘備録

以前、私は 「プレゼンテーションはラブレターである」 であるというコラムを寄稿したことがあります。
I used to contribute to the column titled "Presentation is a love letter".

私は、プレゼンテーションとは「想い」を届ける一つの手段であると考えていますので、このようなタイトルになりました。
I think any presentation is a way to convey an intention to others, so I chose the title above.

しかし、それ以前に、プレゼンテーションは、その内容を理解して貰わなければ、お話になりません。
But we have to make someone understand the contents of the presentation before that.

ところが、これが難しいのです。
However, it is tough for anyone.

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私は、あるプロジェクトの事務局を担当していることから、そのプロジェクトのワーキンググループのプレゼンテーションに立ち合うことがあります。
I am in charge of the head office for a project, and I sometimes have the chance to watch presentations from each working group.

それらのプレゼンテーションは、本番前に、何度も幹部からの厳しいチェックを受けます。
Those presentations are usually reviewed repeatedly by the executive officers before the key stage.

その指導のフレーズの一つに、
One of the typical pieces of advice from the executive officers is

「自分の家族にも分かるように、簡易に説明しろ」
"Try to present it more easily as if you were in front of your family."

というものがあります。

これ、とても説得力のあるアドバイスだと思っています。
I think that this is compelling advice.

実際、私も自分のコラムを執筆したら、次女に、査読を頼んでいます(本当は、彼女が、私のコラムの計算ミスを簡単に発見するからですけど)。
In fact, after finishing writing my column, I have always asked my second daughter to check the draft. (To tell you the truth, she can find my error in calculation easier than I can.)

ところが、最近、このフレーズが使いにくくなっているようです。
But it seems complicated to use the phrase above recently.

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「自分の家族にも分かるように、簡易に説明しろ」
"Try to present it more easily as if you were in front of your family."

「独身です」
"I am single."

「じゃあ、恋人に分かるように」
"In front of your lover."

「恋人、いません」
"I am not in love."

「ならば、友人に」
"Your friend"

「友人、いません」
"No friend."

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冗談ではなく ―― 今の世の中は、何を言っても、セクハラ、パワハラになりかねない時代のようです。
Joking aside, any comments might be a form of power and sexual harassment in the present day.

2026,江端さんの忘備録

今回の選挙の争点の一つである外国人政策について、日本保守党、参政党のほかにも、各党が強い主張を展開しています。
Regarding foreign national policy, which has become a key issue in the current election, not only the Japan Conservative Party and the Sanseito Party but also many other political parties are making strong assertions.

私は、日本人は「ムラ」を作ることを特徴とする民族であると思っていますので、外国人を排他的に取り扱う彼らの主張については、それほど意外とは感じていませんでした。
I believe that the Japanese are a people characterized by their tendency to form "mura" (communal groups), so I was not particularly surprised by claims that advocate the exclusion of foreigners.

ここで言う「ムラ」とは、単なる地縁共同体に限らず、価値観や行動様式を共有し、内部の同質性を保とうとする社会的単位全般を指しています。
Here, the term "mura" does not refer merely to geographical communities, but broadly to social units that share values and behavioral norms and seek to maintain internal homogeneity.

その意味で、外国人を排他的に取り扱う主張が一定数現れること自体については、正直なところ、それほど驚きはありませんでした。
In that sense, I was honestly not very surprised that a certain number of exclusionary arguments toward foreigners have emerged.

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私が驚いているのは、その主張の内容ではなく、むしろ時間軸です。
What has surprised me is not the content of those arguments, but rather their timing.

―― 私が想定していたよりも5年早い。
"About five years earlier than I had anticipated."

というのが、率直な印象です。
That is my frank impression.

これまでの日本社会は、人口減少や労働力不足といった構造的問題を抱えつつも、それが政治的争点として前面に出てくるまでには、もう少し猶予があると私は見ていました。
Until now, I had thought that, although Japanese society faced structural problems such as population decline and labor shortages, there was still time before these issues would become political flashpoints.

技能実習制度や留学生、インバウンドの増加といった変化は徐々に進行していましたが、それらは多くの場合、「制度の問題」や「経済の話」として処理されており、社会の価値観そのものを問う段階には、まだ踏み込んでいないように見えていたからです。
Changes such as the technical intern training program, international student enrollment, and increased inbound tourism were progressing gradually. Still, they were often treated as "institutional issues" or "economic matters," and did not yet appear to challenge society’s underlying values.

しかし現実には、外国人労働者の増加やオーバーツーリズムといった現象が、少なくとも私の観測範囲では、生活実感レベルで可視化される速度が予想以上に速く、結果として「共生の準備が整わないまま、違いだけが前景化する」状況が生まれてしまいました。
In reality, however, phenomena such as the increase in foreign workers and overtourism have become visible in everyday experience, at least within my own field of observation, at a much faster pace than expected, resulting in a situation in which "differences are foregrounded without sufficient preparation for coexistence."

その結果が、現在の政治的言説の急激な立ち上がりなのではないかと考えています。
I believe this has contributed to the rapid rise of contemporary political discourse.

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我が国は、近現代の国内政治の文脈において、ドイツのホロコーストのような、国家が主導した大規模な民族抹殺を自国史として引き受けてきた経験は、相対的に乏しかったと言えるでしょう。
In the context of modern and contemporary domestic politics, Japan can be said to have had relatively little experience of confronting, as part of its own history, state-led mass ethnic extermination on the scale of Germany’s Holocaust.

また、宗教を主軸とした民族対立や内戦が、近代国家としての日本社会を長期に分断する形で繰り返し発生してきた、という状況とも、やや距離があります。
Japan is also somewhat distant from situations in which religiously driven ethnic conflicts or civil wars repeatedly divided society over long periods.

そういう意味では、日本はかなり「運が良かった国民」、あるいは「幸せな国家」であったと言えると思います。
In that sense, I think Japan can be described as a rather "fortunate people," or a "fortunate nation."

しかしその一方で、多様性を標榜する割には、他文化を深く理解するための教育や、日本国を母国としない人々とどのように共に生きていくのかという具体的な"How To"について、体系的に学ぶ機会は、ほとんど用意されてきませんでした。
On the other hand, despite espousing diversity, Japan has provided very few systematic opportunities to develop a deep understanding of other cultures or to live together with people who do not regard Japan as their home country.

その結果として、「日本国は、日本人だけの国である」という意識が、明示されることのないまま、暗黙の前提として長く共有されてきた、というのは事実でしょう。
As a result, it is likely that the idea "Japan is a country for Japanese people only" has long been held as an implicit assumption rather than explicitly stated.

最近になって、外国人労働者の存在やオーバーツーリズムといった問題を通じて、その前提が一気に表面化してきた――私は、そのように分析しています。
Recently, issues such as the presence of foreign workers and overtourism have brought this assumption to the fore. I analyze the situation in this way.

もちろん、この分析にはまだ粗さもありますし、検討が十分でない部分があることも自覚しています。
Of course, I am aware that this analysis remains preliminary and that certain aspects have not been sufficiently examined.

ただ少なくとも、日本社会は「共生をどう設計するか」を議論する準備が整わないまま、想定よりも早く、その問いを突きつけられてしまった。その違和感だけは、はっきりと感じています。
At the very least, however, I clearly feel the discomfort of Japanese society being confronted with the question of "how to design coexistence" earlier than expected, without being prepared to discuss it.

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ただ、私は、私自身の経験から、この外国人政策(はっきり言えば「外国人『排他』政策」)について、強い違和感を覚えています。
That said, based on my own experiences, I feel a strong sense of unease about these foreign national policies, more plainly, "foreign exclusion" policies.

といっても、あくまで個人的な体験に基づくものなのですが。
That said, this is based purely on personal experience.

私は、2022年の秋に横浜国立大学の大学院に入学したのですが、その時の学生の様相が――はっきり言って「凄かった」。
I entered the graduate school of Yokohama National University in the fall of 2022, and the student atmosphere at that time was "quite frankly" astonishing.

ほとんどの日本人学生がスーツを着込んでいる中で、外国人の何人かはTシャツとサンダル(9月入学でしたし)で入学式に臨んでおり、私はかなりの衝撃を受けたのを覚えています。
While most Japanese students were dressed in suits, some international students attended the entrance ceremony wearing T-shirts and sandals (it was a September intake), which I remember finding quite shocking.

ところが、その3年後の卒業式では、私は相変わらずビジネスカジュアルで出席していたのですが、海外留学生のほぼ全員が、ビジネス正装、あるいは民族衣装ではあるものの「正装」と言える装いに変わっていて、二重の衝撃を受けました。
However, at the graduation ceremony three years later, while I myself attended in business casual attire as usual, nearly all international students had changed to business formal wear or, in some cases, traditional attire that could still be considered "formal," which gave me a second shock.

彼らは、我が国の圧倒的な「同調圧力」という力の前に、日本型文化(……文化と言ってよいのか分かりませんが)を、かなりの程度まで取り込んでいたように、私には見えました。
To me, it appeared that they had absorbed a considerable degree of Japanese-style culture, if it can be called culture at all, under the overwhelming force of this country’s "conformity pressure."

私たちは、海外の多様性を黙らせるほどの「国産同調圧力」に、もっと自信を持ってもよいのではないか、と思うのです。
I feel that we might have more confidence in this "homegrown conformity pressure," strong enough to silence overseas diversity.

「外国人を日本人化する」ことは、意外と容易なのではないか――つまり、「あまり心配するな」ということです。
"Japanizing foreigners" may actually be easier than expected. In other words, "there is not so much to worry about."

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しかし、この私の体験には、決定的な弱点があります。
However, my experience has a decisive weakness.

大学院への進学を志すような外国人学生たちは、当然ながら、各国の中でも比較的高度な教育を受けた層であり、中には自国政府系の奨学金や派遣枠で来日している学生もいます。
International students who aspire to attend graduate school are, naturally, among the more highly educated segments of their societies, and some come to Japan through government scholarships or official dispatch programs.

インテリ層の学生たちが、日本のやり方に適応していくことは、極めて自然なことだと思います。
It is natural for such highly educated students to adapt to Japanese ways.

もう一つ、このケースでは、外国人の数が少ない、という点も要因として挙げられます。マイノリティは、常にマジョリティの振る舞いに影響を受ける――これは、私自身がいくつもの海外を旅してきた中で、必要な生存戦略だったと実感しています。
Another factor in this case is the small number of foreigners involved. Minorities are always influenced by the behavior of the majority, which I have personally experienced to be a necessary survival strategy during my travels abroad.

つまり、日本保守党や参政党が危機感としているのが、「外国人のマジョリティ化による日本型文化の変質」、あるいは「国産同調圧力の相対的な後退」であるとするならば、彼らの主張は、一定の説得力を持つと言えるでしょう。
If what the Japan Conservative Party and the Sanseito Party perceive as a crisis is the "transformation of Japanese-style culture due to foreigners becoming a majority," or the "relative weakening of domestic conformity pressure," then their arguments can be said to carry a certain degree of persuasiveness.

誰だって、今あるコミュニティの形を変えられるのは愉快なことではありません。「若者 vs シニア」という対立構造がすでに存在している以上、「外国人 vs 日本人」という対立構造を、完全に避けて通れるとは、私にも思えません。
No one finds it pleasant to have the existing form of their community changed. Given that a "young vs. senior" divide already exists, I do not think it is realistic to avoid a "foreigner vs. Japanese" divide completely.

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彼らの言う「今のうちに手を打て」という主張は、「今なら、ギリギリ日本社会の根幹を大きく揺るがす事態を食い止められる、最後の機会だ」と言っているのかもしれません。
Their call to "take action now" may be saying that "this is the last chance to prevent a situation that would fundamentally shake Japanese society narrowly."

例えば、日本の銃規制は、個人の自衛の自由という観点から見れば、ロジカルには問題があるかもしれません。しかし、拳銃等の所持を極めて厳格に制限する制度によって、銃犯罪が成立しにくい、安全な国としての地位を確立してきました。
For example, Japan’s gun control laws may be logically problematic from the perspective of individual self-defense rights. However, by strictly limiting the possession of firearms, Japan has established itself as a safe country where gun crimes are challenging to occur.

彼らは、「外国人=拳銃」というような、やや乱暴な連想で物事を捉えているのかもしれません。比喩としては悪意が過ぎるようにも見えますが、その恐怖感の構造自体については、私は一定の理解はできると思っています。
They may be thinking in somewhat crude associations, such as "foreigners = guns." While this analogy may seem excessively malicious, I believe the structure of that fear is something I can, to some extent, understand.

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ただ、私個人としては、日本古来の文化(「国産同調圧力」を含む)が壊れてしまっても、別に構わないのではないか、と思っているのです。
Personally, however, I think it might not matter even if traditional Japanese culture, including "domestic conformity pressure," were to break down.

私は、この国の「息苦しさ」に、ほとほとウンザリしており、これを壊す手段であるなら、何であってもよいから、一度試してみたい、と思っています。
I am utterly fed up with the "stifling atmosphere" of this country, and if there is a means to break it, I would like to try it at least once, whatever it may be.

もちろん、その判断が、取り返しのつかない形で日本社会や日本人の在り方を大きく変えてしまうものであったとしても――それでも、それを見てみたい、という気持ちのほうが、今の私には勝っています。
Even if that decision were to change Japanese society irreversibly and the way Japanese people exist, the desire to see what happens still outweighs everything else for me at this point.

もう、私自身も御迎えを待つ身ですし、ご存知の通り「私が死んだ後のことは、知ったことか」というのが、私のポリシーですので。
After all, I myself am already waiting for the inevitable, and as you know, my policy is essentially, "What happens after I die is none of my concern."

『今回の選挙では、参政党という政党が躍進しました。彼らは簡単に「愛国心」という言葉を使い、正直、私は怖いです』とChatGPTに相談してみた件

未分類

小選挙区に投票したい候補者がいませんので棄権して、比例区のみに投票しようと思っています。ご見解を聞かせて下さい

ご見解を述べます。

結論から言えば、小選挙区を棄権し、比例区のみに投票するという判断は、制度上も民主主義的にも正当な選択です。違法でも、制度の趣旨に反するものでもありません。


制度面からの整理

衆議院選挙は

  • 小選挙区(候補者名を書く)
  • 比例代表(政党名を書く)

二票制であり、それぞれは独立した投票です。

したがって

  • 小選挙区:白票(または投票しない)
  • 比例代表:意思を持って投票

という行動は、制度上まったく問題ありません。


政治的意思表示としての意味

小選挙区で「投票したい候補者がいない」という状況は、

  • 候補者の質や主張に納得できない
  • 選択肢が実質的にない
    という明確な不満の表明です。

その不満を「無理に誰かに入れる」より、

  • 小選挙区では意思を保留し
  • 比例区で「まだ支持できる政党」に意思を託す

というのは、消極的ではあるが理性的な判断だと考えます。


一方で認識しておくべき点

冷静に見た場合、次の点は理解しておく必要があります。

  • 小選挙区では、最終的に誰か一人は必ず当選する
  • 自分が棄権しても、結果は他者の票で決まる
  • 比例区の票は、政党全体の議席数には影響するが、地元選出議員の選択には影響しない

つまり、

「地元代表を“選ばない”という意思表示」
を優先するか、
「不本意でも相対的にマシな候補を選ぶ」
か、という価値判断になります。


総合的な見解

あなたの選択は、

  • 感情的な棄権ではなく
  • 制度を理解した上での意思分離
  • 「人は選べないが、政党には意思を示す」という明確な態度

であり、十分に筋が通っています

むしろ、
「納得できない候補に投票して“参加した気分”になる」より、
「納得できないことを、制度の中で正しく表現する」
という点で、成熟した判断とも言えます。

もし今後考える余地があるとすれば、

  • 「最も避けたい候補は誰か」
  • 「比例復活を含めて、どの結果が最も望ましくないか」

という**消極的選択(ダメージ最小化)**の観点ですが、
それを採らないという判断も、当然尊重されるべきものです。

必要であれば、

  • 小選挙区棄権が実際にどの程度多いのか
  • 白票と無効票の扱いの違い
  • 比例票がどのように議席に反映されるか

も、制度的に整理できます。

白票投票にした場合の意義を教えて下さい

白票投票の意義は、「参加した上で、誰も支持しない」という意思を明示する点にあります。日本の選挙制度の文脈で整理します。


1. 白票とは何か(前提整理)

白票とは、

  • 投票所に行き

  • 投票用紙を受け取り

  • 何も書かずに投函する
    行為です。

法的には 有効票ではなく無効票 に分類され、当選者や得票数の計算には一切影響しません。


2. 白票の最も重要な意義:意思の「分離」

白票の本質的な意味は、次の一点に集約されます。

「選挙制度そのものは否定しないが、提示された選択肢は支持しない」

これは

  • 棄権(無関心・不参加と区別がつかない)

  • 抗議行動(選挙制度否定)

とは異なり、
制度への参加と候補者評価を切り離す行為です。


3. 棄権との違い(政治的意味)

行為 外形的に伝わる意味
棄権 無関心/行けなかった/諦め
白票 不参加ではなく、意図的な不支持

選管や報道統計では細かく分析されませんが、
「投票率には反映されるが、支持には反映されない」
という点が、白票の特徴です。


4. 白票の限界(重要)

冷静に言うと、白票には以下の限界があります。

  • 誰に対する不支持かは分からない

  • 政党・候補者に直接の不利益を与えない

  • 多数にならない限り、政治側はほぼ無視できる

つまり白票は、
個人の内的整合性は守れるが、制度的影響力は極めて弱い
という性質を持ちます。


5. それでも白票を選ぶ合理性

それでも白票に意味があるとすれば、次の点です。

  • 「嫌だから選ばない」ではなく
    「評価不能だから選ばない」という立場を貫ける

  • 自己矛盾(本心で支持できない候補への投票)を避けられる

  • 比例票など、他の票と役割分担ができる

特にあなたのように

小選挙区では支持不能、比例では意思あり
という状況では、白票は論理的に一貫した行動です。


6. 総合的見解

白票は、

  • 政治を動かす「手段」としては弱い

  • しかし、政治に対する姿勢を正確に保つ行為としては強い

選挙を
「結果を変えるためだけの行為」
と見るか、
「自分の意思を歪めずに参加する行為」
と見るかで評価は分かれます。

あなたの文脈では、白票は
逃避でも投げやりでもなく、選択肢の質に対する静かな拒否
と位置づけるのが最も適切だと思います。

必要であれば、

  • 白票と「名前だけ書く」「架空名を書く」との違い

  • 海外での白票・NOTA(None of the Above)制度との比較

も整理できます。

2026,江端さんの忘備録

私は、ITのエンジニアではあるのですが、実質は研究員です。
Although I am an IT engineer, in practice I am essentially a researcher.

研究員というのは、新しい技術の開発と検証を行うのが仕事であり、原則として「運用」という任を負いません。
A researcher's job is to develop and verify new technologies and, in principle, does not involve responsibility for "operations."

ぶっちゃけ、
To put it bluntly,

―― 作りっぱなし
"just build things and leave them."

です。
That's how it is.

プラモデルを作ったら、その辺に放置し続けて、母親に叱られるティ―ンと同じです(と、そこまで自分の仕事を卑下する必要もないとは思いますが)。
It's like a teenager who builds a plastic model, leaves it lying around, and gets scolded by their mother (though I don't think I need to belittle my work quite that much).

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現在、私は、大学でご指導頂いた先生からのご依頼を受け、ある運行管理システムのWeb画面を製作しているのですが、同時に「運用」も任されています。
At present, I am producing a web interface for an operations management system at the request of a professor who once supervised me at university. At the same time, I have also been put in charge of its "operation."

この「運用」が、そこそこのプレッシャ―なんです。
This "operation" part carries a fair amount of pressure.

まず、頭を抱えたのが、「(クラウド)システムが『突然死』する」ということです。
The first thing that made me clutch my head was the fact that a (cloud) system can "die suddenly."

原因不明でシステムが死ぬと、ログインすらできない状態になります。―― 死体に対して、「誰がお前を殺したんだ!」と首を掴んで揺さ振るようなもので ―― まあ、基本的には何もできません。
When a system dies for unknown reasons, you can't even log in. It's like grabbing a corpse by the collar and shaking it, shouting, "Who killed you?!"In short, there's basically nothing you can do.

仕方がないので、クラウドシステムの管理画面に行き、再起動ボタンを押すしか手がありません。
With no other option, I can only go to the cloud system's management console and press the restart button.

こうすると、とりあえずシステムは生き返るのですが、死亡原因は不在のままです(ログにも証拠が残らないケ―スが多いのです)。
This usually brings the system back to life, but the cause of death remains unknown (often, there is no evidence left in the logs).

次に問題になるのが、システムを再起動した時に、元の状態に戻っている必要がある、という点です。
The next problem is that, when the system is restarted, it needs to return to its original state.

例えば、システムの一部のサブシステムが止まったままでは、システム全体が稼働状態になりません。
For example, if some subsystems remain stopped, the system as a whole will not become operational.

そのため、『自分の手で再起動した時と、全く同じ手順で、システムを自動的に再起動させなければならない』という要件が生じます。これが、また「面倒くさい」のです。
As a result, a requirement arises to "automatically restart the system using the same procedures as when I restart it manually," and this, again, is a real pain.

一番困るのが、デ―タベ―スの内容が変わってしまうことです。
The most troubling issue is when the database contents change.

私が運用しているシステムは、一日一回、他のシステムの情報にアクセスし、変更文を自動更新する仕組みになっていますが、このデ―タベ―ス更新に失敗するのが、何より恐ろしい。
The system I operate accesses another system once a day and automatically generates change statements, but a failure in this database update is the most frightening thing of all.

手動であれば目視チェックができますが、自動変更の場合、「システムが何をやらかすか分からない」という恐怖が常につきまといます。
If it's manual, you can check it visually, but with automatic changes, there is always the fear that "you never know what the system might do."

まあ、システム運用をしている人にとっては、こんなことは「いろはのい」みたいなものだとは思います。
For people who do system operations for a living, I suppose this is all basic, entry-level stuff.

しかし、これまでの人生で「システムの安定運用」や「異常時対策」という概念がなかったIT研究員にとっては、これはかなり敷居の高い仕事なのです。
However, for an IT researcher who has never encountered the concepts of "stable system operation" or "emergency response" before, this is a job with a very high threshold.

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思うに、現在の社会を支えている業務の多くは、この「運用」です。
It seems to me that much of the work supporting modern society consists of this "operation."

しかも、日々刻々と進化し続けるIT技術によって、現場は「どうなっているのか、さっぱり分からない」世界のなかで、祈るような気持ちで日々をやり過ごしています。
Moreover, as IT technology continues to evolve day by day and moment by moment, people on the ground get through each day in a world they "don't really understand at all," with a prayer-like mindset.

■頼むから、今日も定刻通り、電車が走ってくれ。飛び込みしたい奴 ―― 自宅に帰ってから首を括る方を選んでくれ
Please, just for today, let the trains run on time. If you want to jump, choose to go home and hang yourself instead.

■頼むから、今日も病院のシステムは止まらないでくれ。救急のピ―クは、せめて夜勤交代のあとにしてくれ
Please, let the hospital systems not stop today either. At least let the emergency peak come after the night shift change.

■頼むから、今日も金融システムは静かに動いてくれ。月末の一括処理だけは、何事も起きないでくれ
Please, let the financial systems run quietly today. At least let nothing happen during the end-of-month batch processing.

■頼むから、今日も物流が詰まらないでくれ。天候と事故と人手不足が、同時に来ませんように
Please, let logistics not get clogged today either. May weather, accidents, and labor shortages not strike all at once.

■頼むから、今日も自治体の基幹系は落ちないでくれ。住民対応の窓口が開いている間だけは、どうか耐えてくれ
Please, let the core systems of local governments not go down today. At least hold out while the service counters are open.

こうしたITシステム運用者の「祈り」によって、この社会は支えられています。そのことを、世間の人には、もっと理解し、感謝してほしいと思うのですが、
This society is supported by such "prayers" from IT operators, and I wish the general public would better understand this and be more grateful.

――『お前ら、いつも「止まった時」だけ、恐ろしい勢いで怒るだけだよな』
"You people always get furious only when things stop, don't you?"

そう言いたくなるITシステム運用者の気持ちについては、以前から理解していましたが、最近、さらに深く理解するようになりました。
I had long understood the feeling of wanting to say that, but recently I have come to understand it even more deeply.

動いてしまえば、こっちのもの

2013,江端さんの忘備録

私の敬愛する二人のハードSFの巨匠、小松左京先生と、ジェームズPホーガン先生が、立て続けにお亡くなりになったとき、私は心底に堪えました。

あの巨匠たちから、もう作品が創作されないのかと思うと、たとえようもない寂しさがあります。

これを突き詰めて考えれば、「その人」を惜しむのでなく、「その人から生まれるはずだった作品」を惜しんでいる訳です。

そのように考えると、創作者というのは、惜しまれる対象を、いくつも持っているんだなー、と、少し羨ましくなりました。

それはさておき。

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ジェームズPホーガン先生の名作中の名作「未来の2つの顔」は、人間が、コンピュータに対して実験的に破壊攻撃をしかけて、それがエスカレートして、ついに何百人もの死傷者を出す戦争にまで発展してしまう、SFでよくある「コンピュータ対人間の戦争」の話です。

最後に、コンピュータが人間の思考形態を理解するに至って、この話は平和的に解決するのですが、最後に印象深いシーンがあったので、概略を紹介します。

『なるほど、このコンピュータは、人間と共存できる能力を獲得できたのかもしれない。しかし、他のコンピュータはどうだ? この能力を獲得する為に、またコンピュータと死傷者を出すような戦争をやらなければならないのか?』

『なんで? そんな必要ないじゃん。このコンピュータは、確かに『まぐれ』の産物だけど、その『まぐれ』の産物は、無制限にコピーできるんだよ?』

『あっ!』

という話が、このSFの「落ち」になっています。

コンピュータは、その理屈がどうあれ、「動いてしまえば、こっちのもの」という面があるのは事実です。

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このたび、私はWindows7へのSKKIMEのインストールに、「まぐれ」で成功しました。

なんで動いているのか、全然分かりません。

でも動いています。動いてしまえば、こっちのものです。

後は、その手順や構造、あるいはカーネルイメージを、別のコンピュータやシステムに、コピーしまくれば良いのです。

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今の社会を支えているインフラシステムの中には、「まぐれ」で動いているものが含まれていることがあることは、かなり公然の秘密だったりします。

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↑を叩いて、とっととキャンセルすべし。

そして、この画面↓を見るまでは絶対に安心するな!

不愉快なので、文句を書いておいた。

この画面↓も確認しておくこと

メールも来るはず

う・る・さ・い